1930年代中盤・日本 9.5ミリ個人撮影動画 『無題(素人劇)』

Mid 1920s Japanese 9.5mm Home Movie (Amateur Drama)

道端に座りこんでいた麦藁帽姿の老人。背伸びをしてふと目をやると道路に財布が落ちています。先ほど通り過ぎていった男が落としたようです。

恐々と財布を拾うと中には札束が。はてさて、どうしたものか。

料理屋に向かう男の後ろ姿。うどんを食べて腹一杯、酒も進みます。

店を出たところで、「おい待て」の声。警官に見つかったようです。慌てて逃げだした男、「逃げると撃つぞ!」。哀れ御用の身となるのでした…

…となったらさぁ大変だ。豪遊は夢想に留め、男は財布を届けることにしたのでした。

1930年代中頃~後半に制作された9.5ミリ素人劇。以前に紹介した『無題(草上の昼食)』と同じ東北で撮影された一連の動画のひとつ。短い時間内で起承転結をまとめ道徳的なオチもついています。料理屋の場面では壁の品書きも映っていますが光の加減から屋内ではないようで、戸外に簡易セットを自作したと思われます。

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 サイレント時代・草分けの美女たち』

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 1 : Pioneers from The Silent Era »
1970s Super8 Anthology


1) 伊豆の踊子(1933年、五所平之助監督) 田中絹代、若水絹子ほか [JMDb]


2)松竹スタジオ紹介他


3)不壊の白珠(1929年、清水宏監督) 及川道子、八雲恵美子ほか [JMDb]


4)与太者と海水浴(1933年、野村浩将監督) 井上雪子、光川京子、高峰秀子ほか [JMDb]


5)夜ごとの夢(1933年、成瀬巳喜男監督) 栗島すみ子、飯田蝶子ほか [JMDb]


6)金色夜叉(1937年、清水宏監督) 川崎弘子 [JMDb]

2018年初頭に入手したスーパー8版アンソロジー。トーキー篇の紹介にあわせてこちらもスキャンしました(前回は映写した画面をそのまま撮影)。

田中絹代さん主演の『伊豆の踊子』で始まり、松竹スタジオの外観などを挟みながら井上雪子さん主演の『与太者と海水浴』へ。浅瀬に着衣のまま飛びこんでしまう大胆な展開に。

名作『不壊の白珠』を挟んで『夜ごとの夢』。栗島すみ子さんキャリア後期の作品で子供に頬をつけて泣いている時の表情が圧倒的。最後に『金色夜叉』での寛一お宮のやりとりが紹介されています。どの女優さんも雰囲気ありますね。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート 磁器録音(24コマ/秒)

昭和2年(1927年)頃 パテーベビー フィルム目録(東京、三友商会)

Late 1920s Sanyu & Co. 9.5mm Film Catalogue (in Japanese)

1920年代後半、芝区の桜田本郷にあった三友商会が仏パテ社9.5ミリフィルムを輸入し各地の業者に卸していた際のカタログ。

リストは1番から始まり1050番位まで欠けの少ない形で続いていきます。タイトルの左に「×」印の付されたものは輸入予定の無い作品。時事ニュースや仏国の内政に関わるフィルムなどはこの時点で輸入予定から外されています。

裏表紙の見返しにフィルムと映写機(パテベビーD型とPB-Ex型)の定価、送料が記されています。10メートルフィルム一本の定価は2円50銭、箱入りD型映写機が250円(物価指数の差を考慮すると現在の15万円強に相当)でした。目録の発行年が明記されていないのですが120メートルリール作品が載っていないため1927~28年頃でしょうか。

戦前9.5ミリフィルムのリストは後年のものになるに従い絶版・入手不能な初期作欠番が多くなります(=連番が歯抜けになる)。三友商会版はこの欠けが少なく、輸入しない作品まで邦題を付している勝れ物でした。

戦前の映画解説本・説明本・ストーリー集(2020年度総括)

今年は古い解説本を探していた覚えがあって手元に25冊程のミニコレクションができました。サイト内でデータがばらけてしまったので時系列(公開順)に並べてみます。20年代半ばから30年代初頭の盛り上がりも伝わってくるのではないでしょうか。最初に入手した作品が紹介できていないのでその辺は追々。

春江堂大活劇文庫に関しては国立国会図書館、またトーキー文庫については日本大学の芸術学部にまとまったコレクションが所蔵されています。


映畫文庫(湯川明文館)

1925年7月公開『剣の舞』(東亜、市川小文治主演、松屋春翠)
1925年11月 『雄呂血』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、二川文太郎)
1925年12月 『落武者』(松竹蒲田、森肇主演、清水宏)
1925年12月『魔保露詩』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、志波西果)


出版者不明

1925年12月〜26年1月『南蠻寺の怪人』(東亞、高木新平主演、長尾史録)
1926年2月 『傷魂』(東亜、1926年 – 高木新平・生野初子主演、長尾史録)
1926年2月 『孔雀の光 前編』(マキノ、市川右太衛門主演、沼田紅緑)
1926年2月 『尊王』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、志波西果)
1926年6月 『幕末』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、宇澤芳幽貴)
1926年6月 『侠血』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、門田清太郎)


瀧本時代堂

1929年7月 『此村大吉』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、山口哲平)
1929年7月 『月形半平太』(東亞、草間實主演、枝正義郎)
1929年8月 『冷眼』(右太プロ、市川右太衛門主演、悪麗之助)
1929年8月 『傳奇刀葉林』(帝キネ、市川百々之助主演、渡辺新太郎)
1929年8月 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山)
1929年9月 『斬人斬馬剣』(松竹、月形龍之介主演、伊藤大輔)


トーキー文庫(映画研究会)

1930年10月 『九条武子夫人 無憂華』(東亞、鈴村京子・三原那智子主演、後藤岱山他)


大島印刷株式会社

1931年7月 『海江田譲二の高田の馬場』(日活、海江田譲二主演、辻吉朗)
1931年7月 『野に叫ぶもの』(松竹、 鈴木伝明・高田稔主演、島津保次郎)
1931年11月 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ、雲井竜之介主演、寿々喜多呂九平)


大活劇文庫(春江堂)

1918年公開 『曲馬団の秘密』(The Iron Test、ヴァイタグラフ社)篠田緑水訳
1919年公開 『蛸の手』(The Trail of the Octopus、ユニヴァーサル社)麻生重人訳


活動文庫(榎本書店)

1921年公開 『キッド』(The Kid、チャールズ・チャップリン)
1921年公開 『ハリケンハッチ』(Hurricane Hutch、ジョージ・B・サイツ)
1922年公開 『血と砂』(Blood and Sand、フレッド・ニブロ)
1923年公開 『十八日間世界一周』(Around the World in Eighteen Days、リーブス・イーソン&ロバート・F・ヒル)


1934 – 9.5mm 日本・個人撮影動画 「鰊の話」(北海道、積丹、ニシン漁、刺網、モッコ、奇岩)長谷川久敏氏制作作品

« Herring Fishing in Hokkaido »
Early 1930s 9.5mm Japanese Private Documentary Film

1934年、北海道在住の9.5ミリ撮影家・長谷川久敏氏によって製作された50m物のドキュメンタリー作品。小さな漁村での鰊(にしん)漁の様子を記録した一本です。

人々が浜辺で漁の準備をしている場面で始まります。女性を中心に丁寧に網をほぐし修理していきます。

沖合の魚群に向けて船を進めていく漁師の姿。一糸乱れぬ動きで櫂を漕ぐ様子が壮観です

網起こしが始まります。ムシロをかぶせた「起し船」の男たちが網を興していきます。

舷に並んだ漁師たちが網を手繰ってニシンを網の端に寄せていきます。

学生と思われる若い漁師たちの姿も見られます。

港まで戻ってから陸揚げを行います。地元民が総出で「モッコ」と呼ばれる木製の四角い箱を背負い運搬を続けていきます。

木製のウィンチが稼働し網ごと運んでいく様子。

スタイリッシュにデザインされたの「完」の文字で動画は終了。

映像には看板など文字情報が含まれておらず、撮影場所の特定にてこずりました。ヒントになったのが一瞬姿を見せた奇岩。漁に向った船が回りこむように進んでいく中で撮影された場面。

ニシン漁が盛んな町で、漁場の近くに奇岩がある。この組みあわせであれば選択肢を絞れそうです。

調査の結果、余市郡余市町のローソク岩と判明しました。現在はもっと細い形になっているのですが、1940年代に地震の影響で割れたそうで、それ以前の姿が新聞記事に掲載されていました。

新聞記事にある「1934年」のシルエットを左右反転させたものと一致します

1932年公刊の『パテー・シネ』(大伴喜祐著、古今書院)には当時の9.5ミリ作品競技会の受賞作をまとめた「代表作品」の章があります。このリストに「北海道の鰊漁」が含まれていました(265頁)。東京ベビーシネマ倶樂部主催による昭和2年の競技会で第3等を受賞。製作者名は札幌在住の「長谷川久敏」氏。本編「鰊の話」には1934年のクレジットが含まれているため同一作品ではなく続編あるいはアップデート版でしょうか。9.5ミリ界隈で知られた実力者だったのは間違いなさそうです。

1918 – 『侠艶録』 (日活向島、田中栄三監督) 絵葉書2点 東猛夫・藤野秀夫主演

「まア、何うしたんだらう。こんなに詰まつちやつて。」と、懐紙を出して͡紙撚を撚り初めた。覺束無い手許を留守にして、ちらちらと男の顔を見てゐたが、ふと思ひついた様子で、
「アゝ、貴方も一つ撚つて下さいな。」
「僕は紙撚なんかうまく撚れないよ。」
「そんな事を云はないで。どうぞ只一本でいゝんだから。」
「下手ですよ。」
「下手でもいゝからさ。貴方が撚つたんでなくちや不可ないからさ。」
「面倒臭いね、種々の事をいふ人だなア。」と澁々ながらも、撚つて出した紙撚を力枝は受け取つて自分で撚つたのと合せて二つに折り、向かいの端を男の鼻先に突き付けて
「済みませんがね、どつちでも貴方の好きな方を結んで引いて見て下さい。」
「斯うですか」と男が結んで引いたのを見て、
「オヤ、結ばつた!」と首をすくめて鼠鳴きしたのであつた。
「夫は何です?」と男は不思議さう。
「縁結び!」
「下らん事を云つてゐる。」と男は苦笑して立上つた。

『侠艶録』(佐藤紅緑著、新潮社、1912年)

Azuma Takeo as Rikie (Left) and Fujino Hideo as Fujio (Right)

Azuma Takeo as Rikie Holding Her Baby

1912年に出版された佐藤紅綠の同名小説を映像化した日活の新派映画。

一枚目の絵葉書は木橋で思いつめた表情を浮かべていた文学青年・富士雄(藤野秀夫)の自殺を女役者・力枝(東猛夫)が思いとどまらせた場面に続く「縁結びの紙撚(こより)」のエピソードに一致。

二枚目は小説版に対応する描写はないものの、単なる立姿ではなく赤子を抱えているように見えます。力枝が役者稼業との両立に苦労しつつ、富士雄との間に生まれた愛児を懸命に育てている場面に相当すると思われます。

富士雄は爵位を持つ一家の跡取り、親の決めた許婚もいる設定でした。力枝と所帯を持ち、子供を設けるも父の死をきっかけに実家に戻らざるを得なくなります。力枝は母親の画策から子供を勝手に里子に出されてしまい孤独の内に次第に正気を失っていく。物語は力枝の現状を知った富士雄がそのもとに駆けつけることで収斂していきます。

1910年代中盤~20年頃まで隆盛を誇った日活向島の新派作品は現存数が少なく映画史でもあまり大きく取りあげてこられなかった流れでした。それでも2011年末に早稲田大学において「日活向島と新派映画の時代展」が開催され、2016年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイヴ)がスチル写真群をまとめて紹介するなど再発見・再評価の動きも見てとれます。

日本映畫は山本嘉一、東猛夫、衣笠貞之助、藤野秀夫一派の日活向島の新派[…]が創始以來相當の年月日を經ながら只撮影技巧等に幾分かの進歩の跡を示したのみで、映画劇の要素であるべき劇筋の思想、俳優の演技、監督術といつた方面には全然無關心で只無暗矢鱈に制作をつゞけてゐたといふに過ぎない。

「日本映畫界の成長」 井關種雄、枕野流三(『映画大觀』、1924年所収)

1920年代以降の邦画近代化の途上、先行の新派映画は否定される運命を辿りました。この時期の言説(「映畫劇としては全然価値のない舞臺劇をそのまゝカメラに収めたに過ぎないといつていい低級な舊劇や新派」)は現在の映画史観にも影を落としてます。1920年代のトレンドがそのまま日本映画史の勝者=正統になったため、新派映画や連鎖劇などの敗者に復権の機会を与える言説の環境を構築しにくい、という話なのだと思います。1910年代中頃の欧米映画(アメリカ、フランス、デンマーク、ロシア、イタリア)も十分舞台がかっていますがそれはそれで別枠の評価を出来る訳ですしそれならば新派映画も同じはず。

ちなみに学究肌で誠実ではあるが心ならずも妻と子供を捨ててしまう男、夫と子供を失い理性を失っていく女の関係性は『ファウスト』と同一です。そもそも『ファウスト』自体、魔=メフィストが差して女と子供を見捨てた男とその魂の救済を描いた「下種」な物語でした。『侠艶録』では感情の機微や描かれる風景に和の感覚があって、しかも明治期の和洋折衷感覚を残した独特の混ざり方をしています。

[JMDb]
侠艶録

[IMDb]
Kyôenrokû

1957 – Super8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』(Japanese Cinema History Part I, super8)

c1970 Super8 日本映画史 前編

« Japanese Cinema History : Part I 1887-1949 » (1957, Shochiku Ofuna, dir/Iwaki Kimio)
c1970 Sungraph Super8 Print

1957年に公開された松竹制作による短編ドキュメンタリー。同社が制作した戦前作品を中心とし、活動寫眞の到来から戦後までの映画史の展開を貴重な映像でまとめ上げた一作。

8ミリ版は1960年代末~70年代初頭に発売されたと思われ、前後編の2巻構成。前編は19世紀末の映画前史から終戦後の1949年までを扱っています。2年前の購入時に一度紹介しているのですが画質が悪く、今回綺乃九五式で再度スキャンし直しました。


1887年 『疾走中の馬の連続写真』 エドワード・マイブリッジ

Sallie Gardner at a Gallop [imdb]

まずは明治時代まで遡り「動く写真」の発明としてエジソンの功績と並びマイブリッジ作品が紹介されていきます。


1899年 『紅葉狩』 柴田常吉監督

Momijigari [imdb] [jmdb]

現存する最古の日本映画として知られた『紅葉狩』。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎出演。現在は国立映画アーカイヴの「映像で見る明治の日本」の動画紹介ページで閲覧が可能です。


1900年 『鳩の浮巣』土屋常二撮影

Nio No Ukisu imdbjmdb

『明治二十八年の両國大相撲』(別名『回向院夏場所大相撲』)でも知られる土屋常二(ジョージ)氏が残したもう一本の映像作品。初代中村鴈治郎出演。


1911-12年 『白瀬中尉の南極探検』 記録映画 田泉保直撮影

Japanese Expedition to Antarctica imdbjmdb

明治末期に行われた白瀬矗注意による南極探検の実録もの。JMDbでは『南極実景』として登録されている一篇で、こちらも「映像で見る明治の日本」で高画質なバージョンを閲覧できます。


1911年 『ジゴマ』ヴィクトラン・ジャッセ監督

Zigomar imdb

日本で大規模な社会現象を引き起こした仏エクレール社の悪漢活劇。ジゴマの百面相を描いた紹介場面と物語途中の抜粋が収録されています。


製作年不明 『自雷也』尾上松之介主演

Jiraiya (Unidentified Version)

松之助十八番。自雷也が妖術を使う場面ながら松之助版自雷也のどれに当たるのか未特定。明治42年ではなくもう少し後年の作品と思われます。


1913年 『アントニィとクレオパトラ』 エンリコ・ガッツォーニ監督

Marcantonio e Cleopatra imdb

絢爛たる古代ローマ世界を描き出し日本でも大きな話題を呼んだ一作。8ミリ版では弁士・玉井旭洋の語りが付されていました。


1913年 『天馬』ハリー・ピール監督

Die Millionenmine imdb

第一次大戦開戦直前に輸入され、国内でのドイツ冒険活劇流行のきっかけとなった一作。ブラウン探偵(ルートヴィヒ・トラウトマン)が囚われの美女(ヘッダ・ヴェルノン)を救い出す場面で弁士・泉天嶺の語りが付されています。


1915年 『後のカチューシャ』細山喜代松監督

Nochi no Katyusha imdbjmdb

向島に新設されたばかりの初期ガラススタジオで撮影された初期日活現代劇。出演は立花貞二郎と関根達発ほか。国立映画アーカイヴやマツダ映画社にも所蔵記録のない作品で、断片を見れたのは感動でした。


1921年 『路上の霊魂』村田実監督

Souls on the Road (Rojô no reikion) imdbjmdb

日本の映画制作が新しい段階に入った様子を告げるモダンな現代劇。国外からの評価が高いことでも知られる一作です。


1921年 『虞美人草』小谷ヘンリー監督

Gubijinsô imdbjmdb

歸山教正氏と並び国産映画の近代化に功あった小谷ヘンリー監督の代表作。グリフィスの影響が濃く、戦闘場面での流動的な表現など日本映画になかった新しい試みを持ちこんでいます。


1923年 『船頭小唄』池田義信監督

Sendô kouta imdbjmdb

帝キネの『籠の鳥』と並ぶ小唄映画ブームの先駆け作品。栗島すみ子の健気で可憐なイメージ戦略をさらに一歩推し進めたものでもあります。


1923年 『関東大震災』記録映画

The Great Kantō earthquake

被災直後、瓦礫の山と化した街並みや、炊き出しに並ぶ被災者たちの姿などを生々しく記録した巨大災害の記録。首都圏を襲った未曽有の災害は初期日本映画の展開にも少なからぬ影響を与えました。


1931年 『マダムと女房』五所平之助監督

Madame and Wife imdbjmdb

斉藤達雄と田中絹代のかけあいが楽しい初期トーキー。


1938年 『愛染かつら』野村浩将監督

The Tree of Love imdbjmdb

看護婦として働くシングルマザーと医学者との悲恋を描いた戦前を代表する和製メロドラマ秀作。


1939年 『暖流』吉村公三郎監督

Warm Current imdbjmdb

高峰三枝子、水戸光子、佐分利信の入り組んだ人間模様を背景に描かれる、硬質な叙情性を帯びた恋愛ドラマ。


1943年 『花咲く港』 木下恵介監督

Port of Flowers imdbjmdb

九州の離島を訪れたペテン師二人組の行く末を軽妙に描いた木下恵介監督デビュー作。


1945年 『そよかぜ』 佐々木康監督

Soyokaze imdbjmdb

「リンゴの唄」の朗らかな響きと共に終戦直後の人々に希望を与える一作となりました。


1949年 『悲しき口笛』家城巳代治監督

Sad Whistling imdbjmdb

笠木シズ子をアップデートする形で日本歌謡を刷新した不世出の歌姫の映画デビュー作。10代前半でこの貫禄はさすが。


1949年 『晩春』 小津安二郎

Late Spring imdbjmdb

20世紀前半の(松竹版)日本映画史は小津の形式美と情緒によって完成された…とまとめたくなる編集です。


白黒110メートル(約18分)
光学録音
サングラフ/松竹

1916 – 「活動繪もの語:呪の列車」(『飛行少年』大正5年12月号所収、日本飛行研究會)

大正五年に日本で公開された『呪の列車』はキネマ文庫(榎本法令館)など当時の説明本文庫で取り扱われることはありませんでした。唯一、子供向けの読み物雑誌として人気のあった「飛行少年」誌の大正五年十二月号に「繪もの語」版6頁が掲載されています。

« The Juggernaut : Moving Picture Illustrated Story »
(1916 Illustrated adaptation for children, published in
« Hikou-Shounen [Flying Kids] » 1916 December Issue)

十章構成で紙数の都合上一部の設定(ルイズの母親をめぐる三角関係など)が削除されています。12点含まれている挿画は大正期に『科学畫報』『飛行少年』『幼年畫報』で活躍したイラストレーター・川目逹の手によるものです。

結末部の数枚は左右反転になっています。先日の投稿で触れた米Those Awful Reviewsでは『呪の列車』のロビーカード画像の左右反転例が紹介されていました。イラストレーターに渡った資料画像が元々反転していた、の仮説が成り立ちそうです。

1916 -『活動之世界』 大正5年(1916年)12月号より『呪の列車』関連記事

『呪の列車』は元々ヴァイタグラフ社が新たに立ち上げたブルーリボンレーベルの第一弾として製作・公開されたものです。ブルーリボンは4巻物以上の(当時の基準としては)尺の長い「特作長編」に特化した制作会社の位置付けをされていました。

本国では1915年3月7日にプレミア上映、翌4月に一般公開開始。日本では一年半遅れの大正5年(1916年)10月11日に淺草電氣館で封切られています。

まだ『活動画報』や『キネマ旬報』はありませんでした。雑誌では老舗『キネマ・レコード』があって、それに対抗すべく『活動之世界』が創刊されたのが大正5年。同年10月号で『呪の列車』が紹介されたと思われるのですがこちらは未見で、2ヶ月後の12月号に関連記事を二つ見つけました。

「アニタ・ステアート嬢の消息」

電氣館に上場された『呪の列車』にラスキン嬢、ルイズ嬢の二役を演じたアニタステアート嬢は、ヴアイタグラフ社撮影所の近くに、嬢のお母さんと弟と三人で住んで居る。

[…] 嬢の人氣をよんだヒルムは『女神』と『森の中のすみれ』とで今春以來風邪がもとで、嬢の氣分はあまり勝れなかつた。そして一月前までは、病氣の爲に、暫く休んで居たが、やつと快復して再びヒルムを撮ることになつた。

嬢の相手役は、アール、ウヰリアム氏で、氏は本年三十六歳、米國キネマ界の人氣俳優である。嬢の二十一歳の花盛りと相俟つて、その撮つたヒルムは人氣をよんで居る。

最近報ずるところによれば嬢は一週間一五〇〇弗(三千圓)の給料を得て、メトロ社へ移つるといふ。

「アニタ・ステアート嬢の消息」まこと
『活動之世界』1916年12月号

「映畫新舊譚」

外國の活劇や人情劇の中に、本物の列車が衝突したり、鉄橋から墜落したりする場面がある。現に、十月十一日から淺草電氣館に上場された米國ヴアイタグラフ社の『呪の列車』の最後の場面に、三臺の客車から成つてゐる列車が、腐れ鐵橋の上から河中に墜落する所がある。

[…] 列車の衝突、墜落等にも、活動寫眞が始まる以前から、米國には老朽の汽車を買ひ受けて之を衝突させたり、墜落させたりする商賣をしてゐる人がある。それが、現今では活動寫眞業者間に流行して來て、前期の樣な場面を撮影しなければならない時は、古い汽車を買ひ受けて、何月何日午前幾時から何處に假設の鐵道、鐵橋を設けて、衝突或いは墜落をせしめる、と云ふ辻ビラを街の隅々迄も貼り附ける。一人の觀覧料は五十銭から一圓位迄であるが、物見高い米國人の事であるから、忽ち數千の人々が集つて來る。それで莫大な觀覧料が得られるさうである […]。

「映畫新舊譚」四影生
『活動之世界』1916年12月号

アニタ・スチュワートは大正4~5年頃(1915〜16年)から日本の活動愛好家に知られるようになっています。大正7年(1918年)にヴァイタグラフを退社、メイヤーの援助を受け自身の映画会社を立ち上げるものの思った成功を収めることはできませんでした。それでも大正8年(1919年)の『活動之世界』誌人気投票では全体で36位、海外女優で21位に入っています。日本でも一定数のフアンを抱えていた訳で、そういった人々は少なくとも『呪の列車』の名を知っていたと思われます。

1920年代になると映画界の勢力図は大きく変わり愛好家も入れ替わっていきます。大正10年(1921年)7月に発行された『活動花形改題 活動之世界』のヴァイタグラフ社沿革紹介で、アニタ・スチュワートは「かつての花形」の位置付けになっています。5、6年間で過去の扱いとされ作品を見たことのない人々が多数派となっていくのです。流行の慌ただしい変遷に紛れ『呪の列車』の記憶は日本でも失われていきました。

1930 – 『パテーの自家現像』(吉川新形式寫眞叢書・第一篇、吉川速男著、アルス社)

今回9.5ミリ動画カメラを実使用するに当たってまず参考にしたのは歸山教正氏の『シネ・ハンドブック』(1930年)でした。もう一冊9.5ミリ専用の書籍が欲しいな…と見つけ出したのがこちらの『パテーの自家現像』。某古書店ブログで触れられているように直線をベースにした素敵なデザイン(フォントやその配列を含む)にはバウハウス等の影響を見ることができます。

第五章と第七章だけを御覧下さるだけでも、獨りで容易に好結果を擧げる事が出來ます。

冒頭にある通り現像の具体的な流れを詳述したのが第5章(薬品の配合)と第7章(現像の手順)。吉川氏本人の自筆イラストが多くあしらわれ9.5ミリフィルム現像の実際を視覚的に追うことができます。

現像用薬品(現像液/反転液)の配合については『シネ・ハンドブック』とほぼ同じ。ただし『パテーの自家現像』には9.5ミリ用の作業時間配分の一覧が掲載されていて参考になりました。

1930年頃に撮影された9.5ミリの個人撮影動画では時々画面に液体が流れたような跡を見ることができます。長期保管による褪色や変色だと思っていたのですが、現像液や反転液の洗浄不足による現像ムラなのだと気づきました。撮影者・現像者視点からフィルムを見てみるとまた違った発見があるものですね。

自家現像時の現像ムラの一例
(『池掃除』、1929年頃、個人コレクションより)

[出版年]
1930年

[発行所]
アルス

[定価]
壹円

[ページ数]
150

[フォーマット]
13.0 × 19.5 cm、函入

1938 – 『パテータイムス 第三巻第二號』 「救國の乙女ジャンヌ・ダーク(『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』)」紹介

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

Pathe Times 1938 February Issue
« Presents La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc »

戦前に9.5ミリ小型映画の愛好家向けに発売されていた冊子では『パテベビー月報』、『ベビーシネマ』、『日本パテーシネ』、『パテータイムス』などが知られています。このうち『パテータイムス』昭和13年(1938年)の2月号で、「救國の乙女ジヤンヌ・ダーク」が取り上げられていました。

本文中に「パテスコープ提供」「特大二巻」「タイトル [間字幕] は英文」とあるように、英パテスコープ社が『聖ジャンヌ(St Joan the Maid)』として発売していた2巻物の英縮約版を輸入販売したものです。

齢二十に満たぬ一介の乙女が祖國フランスを救ひ世界の奇蹟として今尚人口に膾炙する聖少女ジヤンヌ・ダルクの悲壮な行為を史實に依り、叙事詩的に描いた雄篇。しかも九ミリ半愛好者に手頃な特大2巻に壓縮され乍ら些かも無理な感じのない近来の傑作です。學校用としては歴史科、修身科教材として應用でき、御家庭、アマチユアの集會には觀賞用として洋畫飢饉の昨今必ずや皆様を堪能せしめませう。

時は今純戦時状態に入り國民精神總動員愈々徹底されて居りますが、斯る崇高な祖國愛の事蹟に接するは絶對必要ではありますまいか。その意味に於ても本映畫を御觀賞されることを敢えてお奨めいたします。

以上の2段落の紹介文があった後、フィルム前半に当たる第一巻の字幕の日本語訳が丸々掲載されています。

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』は日本で劇場公開されておらず、戦前に日本語で言及された文章を見たことはありませんでした。戦時下の「祖國愛」を鼓舞する形ではあるものの、9.5ミリフィルム経由で紹介が行われていたのを確認できたのは収穫でした。

また今年のNHK連続テレビ小説『エール』にパテベビー撮影機が登場した話は御存じかと思われます。本号のパテータイムスでは古関裕而氏を「この天才作曲家古關氏が熱心を通り越したとも評さるべき九ミリ半アマチユアであることを御承知の人はあまり多くはない。氏はコンテスト等には殆ど出品せぬが默々として素晴らしい九ミリ半映畫をつくつてゐる」と紹介しています。

時は1938年。戦時下となった緊張感や不安感が見え隠れする一冊でもあります。それでもまだ「供給に餘裕ある九ミリ半フヰルム」の見通しが述べられていました。いかに楽観的だったかを翌年思い知らされるわけで、日本における9.5ミリ文化が潰えようとするギリギリの瞬間が記録されています。

1917 – 『毒草』(井上正夫監督、小林商会) 絵葉書4点

1917 « Doku-sô » (Poison Grass, dir/Inoue Masao)
Original Promotional Postcards

1)毒草劇 井上正夫のお源

 果して母親は眞赤になつた焼火箸を焚火の中から取出すと、思ひ知れとばかり、まづお品の半身像にじウとそれを突刺した上、今度は更に二人立の寫眞の方にも突刺すのだ、さうして滅茶々々にお品の顔を潰したうえ、にたりと會心の物凄い笑を漏らした。(『毒草 お品の巻』菊池幽芳、至誠堂書店、大正5年、「寫眞」)

2)毒草劇 木下藤吉郎のお品 藤野秀夫の土手の福 葛城文子のお仙 栗島狭衣の吉蔵

 彼の髪は蓬々と伸びて額や肩に亂れかゝり、口髭も頤髭も延びるに任した様子から、頬骨の突出て居るところから、眉の太く濃いところから、一寸アイヌの容貌を思ひ出させるところがあつた。着物は木綿の布子を着て居るのが見る影もなくぼろぼろになり、ところどころ垢ずれで光つて居るのに三尺帯を巻つけ、尻からげもせず、だらしなく着流して、足は素跣足のまゝである。腰には巾着のやうなものやら煙草入やらに、小猿の髑髏を二つ括つて居るのが異樣の音を立てゝ、足拍子を取つて踊るたびにちやらちやらとなり、こつこつと響いた。

 土手の福がさも愉快さうに踊つて來る跡から、界隈の子供等がぞろぞろと囃し立てゝついて來た。(『毒草 お品の巻』「土手の福」の章)

3)毒草劇 栗島狭衣の吉蔵 井上正夫のお源

 お源の手からバツタリ槌が落ちて、お源はよろよろと熊笹の中に尻餅を搗いた。

 「お母さん、お前、鬼になつたゞか。これ誰の形代だ。」

 母親は云知れぬ慙愧と憤怒のために、わなわなと顫へながら、吉蔵の顔を見上げて、續けさまに太い溜息を漏らした。

 吉蔵は母親を押へた腕を放すと、その猿臂を差延べて、力任せに藁人形をもぎ取り、

 「お母さん、お前はお品を祈り殺さうとするだな。お前、何でそんなにお品が憎いだ。」(『毒草 お品の巻』「三本杉」の章)

4)毒草劇 翠紅園納屋の慘劇

 いつも其卓子(テーブル)の上には煙草盆と燐寸が置いてあるので、その燐寸を探さうとしたのだ。……と燐寸と一緒に鐵の五本爪のついた除草器が觸つた。お源の頭に突然何ものかゞが閃いたらしく、その除草器を燐寸と共に取上げると、屹と中腰になつて納屋の方角を覗いた。しよんぼりと納屋の方に進んで行くお品の輪郭が闇の中に黑く見透された。(『毒草 お品の巻』菊池幽芳、至誠堂書店、大正5年、「兇行」の章)


三月浅草及び市中の各館各座は一斉に同じ毒草劇を上場して東京ツ子をあつと云はせた。(『キネマ・レコード』1917年)

日活、天活、小林の三會社で『毒草』劇を競争的に發表したことがある。この三つの作品を比較すると、各會社の技倆の程度を畧ぼ測定することが出來るのであつて、何れも各自の特色を發揮し、可なりの熱心さが認められた中にも、小林の作品は井上の扮装と、光線の巧みな應用とによつて、一際勝れてゐたといふことである。勿論日活にしてもその頃は著しき進境を示し、『毒草』を數年前の作品に比較すると、確かに凡ての點において進んで來た。(『欧米及日本の映画史』石巻良夫著、プラトン社、1925年)


『己が罪』で知られる大衆通俗作家・菊池幽芳氏が大正5年(1916年)に大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載していたのが『毒草』でした、地方を舞台とした猟奇的な物語が評判を呼び、連載終了後すぐに舞台化、映画化が進みます。映画版は小林商会、天活、日活向島の三社競作。井上正夫氏が監督した小林商会版の販促に使用された絵葉書です。

物語は病弱で内向的な娘・お品(木下藤吉郎)が、亡き父の知人を頼り、その息子・吉蔵(栗島狭衣)の営む草木店の手伝いとして働き始めたことで幕を開けます。足が悪く閉鎖的な吉蔵は当初はお品を邪険に扱うのですが、花好きで素直な心にやがて惹かれるようになっていきます。また吉蔵の妹で、人嫌いで閉じこもりがちなお仙(葛城文子)も次第にお品へと心を開いていきます。夫婦の約束を交わした吉蔵とお品ですが、この二人の幸せを憎しみの目で見ていたのが吉蔵の母・お源(井上正夫)であった…と続いていきます。

小林商会版は邦画に女優の登場した最初期の例として知られています。「映画女優」の概念が確立されたのは1919年『深山の乙女』でしたが、そこまでに試行錯誤があって女形・女優共存の本作もその流れに位置づけられます。お仙役の葛城文子さんはこの後『七つの海』(清水宏)、『隣の八重ちゃん』(島津保次郎)、『戸田家の兄妹』(小津安二郎)等に母親役として登場、初期邦画界を底上げしていきました。放浪者・土手の福は後の好々爺俳優・藤野秀夫氏で、吉蔵役と脚本で栗島すみ子の父・狭衣氏が絡むなどその他の配役も魅力的です。

[JMDb]
毒草

[IMDb]
Dokuso

[公開年]
1917年

[原作]
『毒草 お品乃巻』(国立国会図書館デジタル版)

藤田陽子 (1919 – 1938?)

「日本 [Japan]」より

Fujita Yoko & Takao Mitsuko 1920s Autographed Postcard


大正八年七月麻布區霞町元明治座の事務員藤田昌宏の次女に生る、大正十三年二月、姉藤田房子と共に松竹蒲田スタヂオに入る。古參役者として可愛がられ人氣がある。初舞臺は柳咲子の『猫』で鳴門のお鶴に扮して転載を認められ、引續き諸口、川田主演の『夜の一幕』にて無邪氣な姿でフアンの注目を惹く。『懐しの蒲田』『母よ戀し』『曲馬團の姉妹』にて愈々好評。好きなものは踊と三味線と甘栗。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


1920年代に人気のあった子役二人、藤田陽子&高尾光子さんの連名サイン。両者の共演は『少女の悩み』(蔦見丈夫監督、1924年)『母よ恋し』(五所平之助監督、1926年)、『九官鳥』(野村芳亭監督、1927年)の3作があります。

[JMDb]
藤田陽子

[IMDb]
Yôko Fujita

[出身地]
日本(東京・麻布)

[サイズ]
13.6 × 8.9 cm

1931 ‐ 『活動寫眞撮影術』(歸山教正&原田三夫共著、日本教材映画 [小型映画講座1])

Katsudou Shashin Satsueijutsu [Filming Moving Pictures] – Kaeriyama Norimasa (1931)

初期日本映画の発展に大きな影響を与えた映画理論家、歸山教正氏の残した概説書シリーズの一冊。「小型映画講座」の枠組みで、9.5ミリと16ミリを中心に動画カメラの原理、フィルムの種類、映画光学の基礎、照明、間字幕の作り方などについてまとめています。

技術面に特化した書籍ながら、巻頭に置かれた48頁の写真群は歸山氏の趣味やこだわり、人脈が反映されたものとなっています。洋画では現在でも無声映画の代表作とされる諸作(『裁かるるジャンヌ』『ニーベルンゲン』『戦艦ポチョムキン』)のスチルを収録。他にも独ウーファ社の作品が目立ちます。

国産映画の珍しい画像(撮影中のショット含む)が多く含まれていました。

「或映畫場面のコンポジション(映畫藝術協會)」と題された一枚。さらっと紛れこんでいますがもしかして『深山の乙女』(歸山教正監督、花柳はるみ主演)ではないですか。

「「撮影と照明(1)松竹蒲田映畫」と題された一枚。八雲恵美子さんの姿が見えます。

「實物の室内撮影と照明(日活映畫)」。写真上、左から峰吟子、夏川静江、一人置いて中央に村田實監督でしょうか。そうだとすると『この太陽』(1930年)の撮影風景になります。

初期の日活向島が有していたグラスハウス型スタジオ。

『活動寫眞撮影術』は「小型映画講座」と題された6冊物の第1巻に当たります。他の巻も歸山氏が絡んでおり共著に村田實、夏川静江、徳川夢聲氏の名が挙がっています。

1930年代中頃 – 日本 9.5mm 個人撮影動画 『無題(草の上の昼食)』

Mid 1930s Japanese Untitled 9.5mm Home Movie

東北地方で撮影された動画群の一つで、家族での近場へのピクニックを記録した映像。リールに巻かれておらず、購入時のアルミケースで保管されていました。

動画は町内から徒歩で移動する家族の後ろ姿で始まります。大人は和装で子供は洋服姿。一人が食べ物を詰めたバスケットを運んでいます。

そのまま舗装されていない道を山の方へ向っていき…

いざピクニック開始!

女性陣は女子会モードで談笑。

運んできた食材を包丁で切り分けている男性の姿。戦前の個人動画では台所で撮られた料理の場面はあまり記録されていないため、こういった映像も貴重です。

一番年少の女の子が親族にあやされてます。ご飯を無心に食べている姿が可愛らしいですね。最後はぐるりと囲んで座っている全員を右から左へ、左から右へと映していきます。

休みの日に近場までちょっと…のささやかな贅沢、仲の良さは伝わってきます。着物姿でピクニックの図柄がなかなか面白く、ルノワールの『草の上の昼食』を和風に解釈した雰囲気もあります。

1930年代 – 9.5mm『北海道アイヌの熊狩』(伴野版)

「9.5ミリ 伴野商店」より

Ainu Bear Hunting in Hokkaido (Banno Co. early-mid 1930s)

仏パテ社の『消えゆく民、アイヌの人々』と並ぶもう一本のアイヌ関連9.5ミリフィルム。

『消えゆく民、アイヌの人々』が古いオルソクロマチック形式のフィルムで撮影されていたのに対し『北海道アイヌの熊狩』はパンクロマチック式フィルムで撮られていて1930年代前半頃の動画と推定できます。

既に1920年代、アイヌの文化変容は急激に進んでおり、撮影された映像が当時の、アイヌの生活ぶりを忠実に記録したものではなく、既に日常からは消えようとしている、あるいは消えたものを復元し映像化したと言うことである。(東京シネマ新社ホームページ「アイヌと民族誌映像」より)

『北海道アイヌの熊狩』も「昔時のアイヌ熊狩のいでたち」の字幕で始まっています。服装や装備に近代化の跡が見られ、時代の流れや同化政策によって伝統が失われつつある危機感を伺いとることもできます。

動画では雪の巣穴に閉じこもった熊の進路を木で塞ぐ「穴狩」、発見した熊を徒歩で追いつめていく「追狩」の2種類の猟法が紹介され、最後は獲物を囲んで祈りをささげる猟師の姿で幕を閉じます。

最後の場面では熊を中心に座った猟師たちが両手をこすりあわせ、手のひらを上に向けたまま上下させる「オンカミ」の動作が見られます。クマ=神への畏敬と感謝の意であり、アイヌの民と自然とが独自の思想・世界観でつながっている様子が映像からも伝わってきます。

[邦題]
アイヌの熊狩り

[英題]
Ainu Bear Hunting in Hokkaido

[発売元]
伴野商店

[カタログ番号]
044

[フォーマット]
20m×1巻

1912 – 9.5mm 『消えゆく民 アイヌの人々』(仏パテ・フレール社作品)

「9.5ミリ 科学/歴史/地誌/産業」より

1912 - Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos
Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos (French Pathé)

1912年末にフランスで公開されたほぼ同名の作品を9.5ミリ用に再編集したもの。この作品については海外の映像研究家が論文を発表(『オリエンタリア』2017年第17号)しているため、一旦そちらを参照させていただきます。

アイヌの民が登場してくるもう一つの1912年映像作品は『消えゆく民 アイヌの人々』(英題:The Hairy Ainos)で、パレ・フレール社の製作によるものであった。同社は1902年に映画技術の特許を購入、時事映像の分野でリュミエール兄弟の後を継いだ。忽ちにしてパテ・フレール社は当時最大の映画製作会社となり、1909年に日本にも拠点を設立している。『消えゆく民 アイヌの人々』は長さにして僅か三分足らずの作品である。冒頭ではチセ(アイヌ式住宅)の前に立った四人の男性、次いで四人の女性が映し出される。字幕により、アイヌの人々は大半が猟と漁で生活しているとの説明が入る。次の場面では、海を背景として女性と子供とが歩いてくる。さらに丸木舟に乗った二人の男性が登場。

『消えゆく民 アイヌの人々』が公開された時期、原初の映画術でもたらされた驚きはすでに乗り越えられていた。このパテ社作品には儀式などの伝統から一旦距離を置き、日常生活に密着したいとの意思を読み取ることができる。旧来の時事映像作品と違い、リュミエール兄弟の下でアイヌ民族を撮っていたジレル氏が描いた古い舞踏であるとか、その他の特徴的な要素は本作にない。その代わりとして、朽ちた小屋の前で子供をあやしている女性が登場するのだ。広角レンズで撮影された老人も儀式用の服は着ておらず、頭にラウンペはなく、髭もほとんど見ることはできない。(マルコス・センテノ=マルティン「表象外の眼差し:初期映画におけるアイヌ民族の描写について」『オリエンタリア』2017年第17号)

The other film featuring the Ainu people in 1912 is entitled Un peuple qui disparaît, les Aïnos (aka The Hairy Ainos) and was produced by Pathé Frères Company, which had bought the cinematograph patents in 1902 and succeeded the Lumière brothers in the production of actulités. Very soon, Société Pathé Frères became the biggest film production company of the time, and in 1909, it established headquarters in Japan. Un peuple qui disparaît, les Aïnos, which only lasts for three minutes, begins with four men followed by four women posing before a chise and an intertitle explaining that the Ainu were mainly hunters and fishers. In the next scene, a woman and a child are seen walking with the sea in the background and afterwards, two men enter scene on a chip (Ainu canoe). […]

When Un peuple qui disparaît, les Aïnos was released, the astonishment produced by primitive cinema was already overcome. Pathé film demonstrated an interest to move away from ritualized traditions and a willingness to get closer to everyday chores. Unlike previous actuality films, this footage does not contain traditional dances or other distinctive elements depicted by Girel. Instead, the sequence features a woman and her child before a dilapidated hut; a wide shot framing an elderly man who does not wear the ceremonial clothes nor any raunpe on his head, and his beard can be hardly seen.(enteno Martín, Marcos P. “Gazes outside the Representation. Early Film Portrayals of the Ainu People (1897-1918)”, Orientalia, issue 17, 2017, pp. 189-211)

筆者センテノ=マルティン氏は実際に北海道を訪れ、アイヌ民族についてのドキュメンタリー映画(“Ainu. Pathways to memory”)も監督されている人物です。論考後半では、タイトルの「消えゆく」という表現が同時期にアメリカン・ネイティヴに使われていた(1925年出版のゼイン・グレイの小説『滅び行く民族(原題:The Vanishing Americans)』)点にも注意を促していました。

映画の発明当初から少数民族への興味は見られたものの、独自の踊りや入墨、髭といった表層的な関心が優先されていたのに対し、『消えゆく民 アイヌの人々』では生活に密着していく発想が顕著となり、結果として表現されている「リアリティ」の質が変化している、というのがセンテノ=マルティン氏の主張の一つです。

当初の好奇の眼差しが次第に研ぎ澄まされていくという話は一般的に見ても分かりやすいのではないかと思われます。


[タイトル]
Les Peuples qui disparaissent. Les Ainos

[原題]
Un peuple qui disparaît, les Aïnos

[メーカー]
仏パテ・フレール社

[公開]
1912年

[IMDb]


[メーカー]
仏パテ・フレール社

[仏パテ社版カタログ番号]
1230

[フォーマット]
20m(2707フレーム、14fps、3分)、無声、ノッチ有

1933年 – 9.5mm個人撮影動画『総社・三ツ山大祭』(姫山公園、射楯兵主神社、置山、中二階町通り、満蒙と産業博覧會)

「9.5ミリ 個人撮影動画」より

1933 Mitsuyama Festival at Himeji, Hyogo Prefecture
(9.5mm japanese home movie)

兵庫県在住の9.5ミリ撮影家さんが残したフィルムを4点手に入れました。こちらはその一つで、20年に一度開催される姫路市の奇祭「三ツ山大祭」を記録したものです。

動画冒頭では三体の「置山」(二色山、五色山、小袖山)が順に映し出されていきます。

次いで祭りの見どころの一つ、地元の町々が制作した「造り物」。動画ではまず中二階町による「鞍馬天狗」が登場。現在では残っていない中二階町通りのアーケード街の屋根に設置されています。

お揃いの洋服を着た女の子が二人登場。撮影者の娘さんのようです。歩きながらアーケード街を撮影し、時折振り返って市街地の様子を記録しています。逆光気味で暗めですが、建築やデザイン視点で見るとこれはこれで面白いです。造り物「蜘蛛切丸」の説明文。

アーケードを抜けた瞬間、視界が開けて華やかに飾られた町が現れる場面がとても綺麗です。

最後は姫路城巡り。ここからは露出過多となって映像が淡くなります。同行している家族や、祭りに集まってきた観衆の様子が映し出されていきます。中國日日新聞社が主催していた「満蒙と産業博覧會」の会場入口付近でフィルムが終わりました。

1924 – 『映画大観』 (大阪毎日新聞社, 活動写真研究会 編)


1923年冬、大阪毎日新聞社の内部に活動写真研究会が結成され、上映会や研究発表を含む月例会が開かれるようになりました。自社ビルの会議室で開催されていた愛好家の集いではありましたが、協賛会員に池永浩之(日活撮影所長)や牧野省三(監督)、小山内薫(演劇人)、嵐璃徳(俳優)らが名を連ね、例会には男女優が挨拶に訪れる本格的な内容だったようです。

研究活動の延長で翌24年に刊行されたのが『映画大観』。大きく「寫眞」「記事」「名鑑」の3パートに分かれています。

「寫眞」パートは全体(約350頁)の1/3を占めています。国内篇が充実しており、勝見庸太郎や正邦宏、鈴木伝明といった若手有望株、山本嘉一や井上正夫、藤野秀夫らの中堅組、その一世代前の澤村四郎五郎まで登場。女優陣では定番メンバー(川田芳子、五月信子、柳さく子、環歌子、マキノ輝子)を中心としつつ、現在では知られていない珍しい名前(桂照子、堀富貴子、穴橋章子、水田たつ子)も散見されます。