2022年1月5日 – 京都等持院 マキノ省三・雅弘墓所 & 京都蓮華寺 伊藤大輔墓所 「熱眼熱手」

先年、伊藤大輔監督が雅弘氏に謹呈した自著を譲り受ける機会がありました。「等持院に先生のお墓があります。是非寄ってあげて下さい」と教えてもらい、今回は必ず寄ろうと決めていました。

吟松寺を離れてそのまま紙屋川沿いに南下。金閣寺の脇を抜けてきぬかけの路に入っていきます。立命大の敷地に隣接した観光道路で、普段は通学する学生や走りこみの部活生が見られますがさすがにこの日はほぼ無人でした。

衣笠キャンパスのすぐ南、住宅街に囲まれるように等持院が位置しています。墓地の南西に牧野家のお墓がありました。

The Makino Family Tomb at the Toji-in/Kyoto

省三氏の墓を中心に右に卒塔婆、左に雅弘氏のお墓。

荘厳院浄空映画雄飛居士、直心院禪機映光雅人居士。雅弘氏の方は青文字、省三氏はおそらく金色で戒名が刻まれていました。智子(輝子)さんは東京・高徳寺の加藤家のお墓に入られたそうです。

Grave of Ito Daisuke, at the Renge-ji/ Kyoto

風情の或る住宅街を抜け、等持院から歩いて15分ほど。蓮華寺の五智如来が出迎えてくれました。境内墓地の南側に伊藤監督のお墓があります。誰かがお参りを済ませた後で仏花と鏡餅がお供えしてありました。雲の合間から射しこんだ日差しが熱眼熱手の碑を照らし出していました。

今回移動したルートは上のようになっています。四条大宮からバスで鷹峯源光庵前(A)に向かい、そこから吟松寺(B)、等持院(C)を経て蓮華寺(D)へ。距離にして5キロ程の旅となりました。

2022年1月5日 – 京都・おもちゃ映画ミュージアム

2022年1月5日夕方、京都のおもちゃ映画ミュージアムにお邪魔してきました。

戦前の映写機やフィルムについて調べていると頻繁に名前を見かけます。開館した2015年にはすでに京都を離れていたため訪れるのは今回が初めて。

Toyfilm Museum

四条大宮から北西に道なりで進み、壬生馬場町、中京警察署の辺りまで行くと看板が出ていました。古民家を改修したもので、木窓の隙間から映写機が顔をのぞかせています。

玄関を開けてすぐ、左手の土間に沿ってチラシやグッズが並んでいます。右手の和室を改造した大きな部屋がメイン展示室になっていました。

木棚にズラリと並んでいるのは1900~30年代の幻灯機と、そこから派生してきた初期型の35ミリ映写機です。エルンスト・プランクなどドイツ製から朝日やキング映写機の国産まで揃っています。

紙製フィルム専用のレフシー映写機。実物を見るのは初めてです。9.5ミリ形式ではパテベビー映写機とリュクスが複数台、独アレフ製、国産のアルマ映写機などが置かれていました。

幻灯機・映写機と並ぶミュージアム収集品の中心がプレ・シネマと呼ばれるジャンルです。

手持ち型のステレオスコープ

据置き型のステレオスコープ

ゾーイトロープ

ミュートスコープ

フェナキストスコープ

いずれも日本では入手しにいものでまとまった形で見ることが出来たのは貴重な体験でした。

展示室の奥の広い土間が映写室となっていて、大型スクリーンで動画を見ることができます。お邪魔した時には次回のイベント時に使用予定の米スラップスティック短編集が流れていました。フィルムをデジタル化した動画データも閲覧可能で市川右太衛門主演の『浄魂』、阪東妻三郎主演の『雲母坂』を見せていただきました。

一通りコレクションを見終えた後、元大阪芸術大学教授、現在ミュージアムの代表を勤めておられる太田米男氏、理事をされている河田隆史氏に貴重なお話を色々お伺いすることができました。とても楽しく充実した時間でした。お忙しい中ご対応していただきありがとうございました。

2022年1月6日 – 京都・今出川通り 古書店めぐりと『メトロポリス(他一篇)』(昭和3年)

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Metropolis (Thea von Harbou, Translated by Hata Toyokichi, Kaizo-sha, 1928)

松之助像に挨拶を済ませて古本屋巡りをスタート。ゴールデンウィークであれば春の古本市に足を運ぶのですが時期がずれたので一軒一軒足で潰していきます。

まずは百万遍の吉岡書店~井上書店へ。大正期の映画誌や説明本が埋もれていないかな、と床の木箱まで漁りましたが収穫はなし。それでも人文系や洋書の充実はさすがでタイトルを見ているだけで刺激になります。

その後白河通りへと向かい善行堂~竹岡書店へ。

善行堂はセレクトショップ指向の古本屋さんで店内にジャズが流れています。横積みになっていた書籍のひとつで手が止まりました。

「…メトロポリス?」

奥付を見ると昭和3年(1928年)の初版。正式書名は『メトロポリス(他一篇)』。訳者は秦豊吉。映画のスチル写真も10枚ほど収められています。

邦訳があること自体初耳でした。ドイツ語版、英訳、仏訳いずれも1920年代の版は入手困難で灯台下暗しとはまさにこのこと。喫茶店で足を休めながら400ページを一気読み。巡礼の最後に素敵な発見がありました。

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(フリッツ・ラング監督)イリス商会1925年製 二折りリーフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Die Nibelungen: Siegfried (2-Folded Leaflet Made by C. Illies & Co. for 1925 Japanese Première)

ジークフリート物語

いつの頃と確とは知らず。ただゲルマン人々の血に潜み、骨に徹して傳へ来りし物語よ。

ネーザーランド王ジークムントは公子ジークフリートに稀代の劍鍛つ業収めしめんとてその頃鍛冶の誉高かりしニーベルング族の老傴僂ミーメの洞に遣はしぬ。日毎夜毎劍鍛つ業公子に勵む内三年五年は束の間よ。公子は眉秀で眼圓らに肉緊りて、心智く、業も一極優れて逞しき若者とはなりぬ。今はミーメに別れを告げグラニと呼ぶ雪白の名馬に跨りてアルベリツヒの崫に「ニーベルンゲンの寶」を得んと勇み行きぬ。やがてウオルムスの深き谿へと來れば地を轟かし森を震して、大な火龍熖を吹きて丘の如く道を阻みぬ。ジークフリートは名劍バルムンクを揮ひて火龍を殺しぬ。血奔りて掌を燒けるに思はず唇を當つれば不思議や、彼は梢なる小鳥の歌を解し得ぬ。

「人は知らぬ」火龍の秘密よ、血潮に浴せば不死身になるぞ。人は知らぬ、われ等のみ知る、火龍の秘密よ。ジークフリート喜びて裸身にて血の池に浴びぬ。此時上よりライムの枯葉一つ舞い落ちかゝりて、脊に拳程の肌、血に染みざりしを彼は知らざりしぞ悲しき禍の源なる。アルベリツヒの許には崫々に寶物數多充み滿たれば、之を獲んとて遂にアルベリツヒを倒しぬ。アルベリツヒは最後の際に「ニーベルンゲンの寶」に呪を與へ自ら石と化して死せり。ジークフリートは、隠身の蓑を携へて今は只管にラインを指して急ぎぬ。

旅衣はるかに、ジークフリートはラインの邊に來りぬ。彼方突几と高く聳ゆるグンター城には、ブルガンデイーの美と徳との徴、髪長く眸淨らなる王妹クリームヒルトなる乙女ありぬ。彼は必ず得て永く共に契らんと心決めぬ。され共、グンター王の股肱、心剛く知惠深きハーゲン、トロンエは優れたる若者を憚りて、クリームヒルトを許す爲に一つの難題を與へぬ。「我は十二人の王を統べたり。いかで、グンター王の配下に立たん!」と怒るジークフリートを優しくクリームヒルトは難題を受けよと乞ひぬ。 ジークフリート心を決めて、北極光紫に映ゆる氷島で強勇の女王ブルンヒルダと戰技を競ふ、グンター王を助け勝たしめ女王を得て歸城しぬ。

ブルガンデイーの城内に祝の頌歌高く擧りぬ。王はブルンヒルダと、ジークフリートはクリームヒルトと、婚宴の夜は歡びに溢れれぬれど、胸の中秘かにジークフリートを慕へるブルンヒルダはグンター王に冷やなりければ王の氣を入れ、變身の蓑もてグンター王に化身し、女王の心を試みしが、この秘密を覺りしブルンヒルダは、怨み憤り、さきに、クリームヒルトを欺きて不死身の秘密を知れるハーゲン、トロンエと計りて、鹿猟に事寄せて彼を失んとしぬ。其の日、トロンエは、ジークフリートの渇けるに乗じ、美しき池に到り脊後より鋭き槍を投げてジークフリートを殺しぬ。あはれ、若き王、ジークフリートは、かの呪はれし寶の爲に命を果てぬ。愛惜と悔恨に胸破れてブルンヒルダも亦、彼が亡體の側に自ら死せり。しかも、心深く、永く呪と復讐の誓を刻みし。クリームヒルトは只黙して冷たき涙を流してありぬ。

さもあればあれ、今とは樣變わりて、古の世、人心義に厚く、仇には剛くありしこそ、あはれ掬めども盡きぬ味かな。

◇◇◇

1925年2月、日本で二ーベルンゲン第一部『ジークフリート』が封切りされた際に先行して配布された2色刷りの粗筋・配役紹介。

木版画調の枠に飾られた4枚のスチル写真が大きくあしらわれ、下に粗筋がまとめられています。筋をまとめた人物の名は明記されてはいませんが堂々とした擬古文の調べは素人離れしておりそれなりに名の知れた活動弁士、又はそれに類した経験を積んだ持ち主と思われます。硬質なゲルマン古神話が「もののあはれ」に違和感なく置き換えられているのには驚きました。

大正14年(1923年)頃 35ミリ齣フィルム 30枚

c1923 35mm nitrate film fragments

大正末期に個人コレクターが集めた35ミリ齣フィルムのセット。革製の表紙に金文字で商品名をあしらった蛇腹型フィルムブックに収納されています。写真や絵葉書を貼るアルバムと違い、4か所のスリットに囲まれた中心部に四角い切り抜きがあり、光に翳すとコンテンツが見える仕組みになっていました。

齣フィルムは全部で30枚。邦画(8枚)、洋画(15枚)、相撲(7枚)の三種に大別できます。

邦画では尾上松之助と阪東妻三郎のフィルムが収められていました。その他のフィルムもすべて時代劇/旧劇のみで新派劇や現代劇は含まれていません。

一番充実していたのは米国映画でした。左はパール・ホワイトの中期活劇『電光石火の侵入者』(1919年)の広告をあしらったもの。名脇役ワーナー・オーランド演じるアジア系の悪漢に銃を突きつけている場面です。左はフェアバンクス短編からの一コマ。

アクション多めのヒーロー活劇が好きだった様子は他のフィルムからも伝わってきます。左はエディー・ポーロ。右は西部活劇からの一枚。

最も登場回数の多かったのがチャールズ・ハッチソン。以前に『ハリケーン・ハッチ』(1921年)の説明本『スピードハッチ』(1923年)の齣フィルムを紹介済。上の4枚はその両作の間に制作・公開された『豪傑ハッチ』(Go Get ‘Em Hutch、1922年)用のスチル写真をベースにしています。右上の一枚にはヒロイン役のマーガレット・クレイトンが登場、右下で驚いた顔をしているのは悪役のリチャード・ニール。

他に一枚ハリー・ケイリー(Harry Carey Sr.)も含まれていました。長いキャリアを持つ西部劇俳優で自国では根強い人気を誇っています。残り6枚は現時点で未特定。

角界関連の齣フィルムは初めて目にしました。

最上段のベテラン力士、第19代横綱・常陸山を除くと若手が並んでいます。中段左から伊吹山末吉、常陸島朝吉、阿蘇ヶ嶽寅吉と続き下段左から若葉山鐘、東雲衑藏、福栁伊三郎。

「故常陸山」とあるように常陸山は1922年の夏に亡くなっています。また阿蘇ヶ嶽は1924年春に廃業。阪妻が1923年初頭にマキノ等寺院に入社し知名度を上げ始めた点も考慮すると齣フィルム全体が1923年に流通したと見て間違いないと思われます。

大正4年 – 「フイルムの行衛」(森田 淸、『キネマ・レコード』 1915年6月 通巻第24号)

« Destiny of A Film » (Morita Kiyoshi, Kinema Record No.24, 1915 June Issue)

毎月我國へ輸入せらるゝ處の陰陽のフイルムは尺數に於て實に何十萬呎を算するのであるがその割合に映畫商及び映畫會社の倉庫に充滿しないのは如何なる原因かと沈思默考したあげく漸く會社その他映畫商の内幕から魂膽を知る事が出來た。[…]

敢へて會社名は云はないが、一昨年中に輸入せられた千呎余りの一米國映畫は或る購買者のあつた爲め會社は賣つて了つた。購入した商會は此映畫を以て東北地方の巡業に六ヶ月間使用した處から疵を生じた爲め一端元の商會へ送り返した。商會では加工術を以て再び無疵な映畫としたあげく複寫して陰画を作りそして之は保存して陽画は直ちに大阪の或る個人經營の映畫商に賣却した。その時の賣値は一呎に付いて四銭と云ふ事であつた。求めた商会では又々之れを以て地方巡業に使用しその後數ヶ月後にして田舎廻りの小活動屋に賣つたが此の時には既に此の映畫は複寫手數料などゝ云ふ裏面の難に遭つて來たのみならず最初の千呎は映寫禁止の爲め沒収となつて警察官の手の殘つた場面や巡業中不正技師の爲に他に賣られた場面等にて大半は影が無くなつて居た。田舎廻りの活動屋は之を以て尚村の鎮守の祭禮等に村人の前に提供して大能書を並べ立てゝ居たが今度は殆ど映寫に絶へぬ處から或る玩具屋点に賣却して了つた。玩具店では其の中の比較的良好なる場面を接續して小兒用教育活動の映畫とし尚且つ殘余は一駒一駒に切つて小袋に入れて之れも子供の「樂しみ袋」として了つたのである […]。

「フイルムの行衛 – 行衛不明のフイルムと盗賊に等しき行爲」 森田 淸
『キネマ・レコード』1915年6月通巻第24号

今回投稿したいわゆる「齣フィルム」の発生経緯に関して、1915年のキネマ・レコード誌に興味深い一節を見つけました。

齣フィルムをめぐる社会・文化・経済的な背景は以前にも何度か引用した福島可奈子氏の論文「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」で詳述されています。

映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売した。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

福島論文では齣フィルムの発生経緯について一般論のレベルで記述されているのみです。間違いではないものの、キネマ・レコード誌の例のように個別案件で見ていくと実態はもっと錯綜し複雑だったと分かります。

1910年代は各国で映画産業が軌道に乗り始めた時期であり法規制が追いつかずグレーゾーンが多数存在していました。そのため森田氏が伝えているような怪しげな動き(映画会社が許可なくネガを複製してしまう、映写技師がフィルムの一部を勝手に自分のものにする等)が横行する余地が大きかったといえます。

初期映画をめぐる混沌とした状況を前に法制度が整えられていきます。1)コンテンツ面を管理する検閲、2)年齢制限を含めた作品のレーティング、3)フィルムの物理的リスク(燃えやすい可燃性フィルム)の管理を目的とした法制度と技術の整備、4)フィルムの所有権や著作権管理をめぐるシステムの厳格化などが急ピッチで進められていきました。

齣フィルムは2番目と4番目の問題に深く関わっています。

(福島論文で指摘されているように)年齢制限が導入され、一部の作品を見ることが出来なくなった児童向けに発案された救済ツールであったと同時に、著作権や所有権の制度が十分に整っていなかった時代に流通最末端に発生してきたあぶく銭を生み出す魔法の「殘余」でもあった。切れ切れになって生き残ったフィルムを通じてそんな時代風景が見えてきます。

1924 – 『靑春の歌』(日活京都、村田實監督) 鈴木傳明&高島愛子 絵葉書

Suzuki Denmei & Takashima Aiko in « Seishun no Uta »
(A Song of Youth, 1924, Nikkatsu Kyoto, dir/Murata Minoru) Postcard

村田實氏の「運轉手榮吉」に次ぐ作品は新加入の高島愛子孃と鈴木傳明氏共演になる學生ローマンス劇と決し、目下脚本選定中である。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月1日付第176号

村田實氏は既報の如く高島愛子孃第一回作品として田中總一郎氏原作脚色になる戀愛詩劇の「靑春の譜」と決し愈々監督を開始した。俳優は高島愛子孃鈴木傳明氏南光明氏東城坊恭長氏等にて、技師は横田達之氏擔當である。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月11日付第177号

村田實氏の監督中なる高島愛子孃鈴木傳明氏共演の第壹回作品は「靑春の歌」と改題されて近日完成される筈である。尚既報出演俳優の外近藤伊與吉氏がリューコデー張りの敵役で出演して居る。ロケーションは阪神沿線の芦屋へ出張した。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月21日付第178号

畧筋 – スポーツマンとして其名を知られた工科大學生瀨戸は歴史学を専攻して居る津田とは親友で、津田の師たる原文學博士の令孃美代子とは淡い初戀の仲であつた。四年の後、米國へモーターの研究に留學して居た瀨戸は歸朝して來て、彼の發明したモーターをもつてオートバイ競爭に現はれ、優勝の月桂冠を戴いた。彼は絶ゑて久しく美代子と再會したが、美代子は今や父博士の助手たる津田に戀されて居る身であつた。瀨戸は親友たる津田が美代子を戀して居ると知つて、戀を諦めやうとしたが、美代子としては初戀の儚忘れ難く瀨戸を愛して居たのである。

近作映畫紹介
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月21日付第178号

比較的に短いので倦怠を來さないといふ事が唯一の取柄である所の情ない映畫である。あの原作とあの俳優では少し位監督が氣を効かした所で全然無駄である。表はす可き事を少しも摑まずに、本筋とは無關係な御説教や饒舌やで好い氣になつてゐる脚色は特に笑止である。[…]

俳優は皆駄目。元來活劇專門たる可き人達をかういふ所に使ふのが間違ひである。近藤氏はも少し重味があつたらと思はれる。

どうせあの顔觸れである以上、も少し活劇味をふんだんに盛らなければ成功しないことは初めから判り切つた事である。映畫全躰としての弱點は茲にある。

主要映畫批評 岩崎秋良
『キネマ旬報』 大正14年(1925年)1月1日付第181号


高島愛子日活入社第一回作品として新人鈴木傳明其他素晴らしい配役で自働車、馬を飛ばしての大活劇。

『映画と劇』 大正14年(1925年)新年号

さて「靑春の歌」は良いのかと云はれると誠に困るのである。名監督の評ある村田實だつて、如何に大家の作でも内容の貧弱さと空虚なのは救はれやうがない。それでも此の監督だから、あれだけ興味のあるものとして觀られたのだ、部分ゝゝに良い味が出てゐた、小手先の利いていることが特に目立つていた。[…]

批評家は口を揃へて傳明も愛子も演技が下手だと誹してゐる、が傳明も愛子もあのタイプだけで今の人氣は湧いて來たのである、二人の演技はこれからの問題なのである。それ程に今の映畫俳優の演技は役者じみた極りきつたものになつてしまつていて、どれも、これも、時代離れのした性格の表現しか出來ないのである。この物足りなさの中へ、フアンの生きてゐる時代のある一面を代表した、清新なタイプの人間がスクリーンに現れて來た。そこに彼等の人氣の根據がある。

「高島愛子と鈴木傳明 – 『靑春の歌』を觀て」東四郎
『映画と劇』大正14年(1925年)2月号

日活に転じた高島愛子さんの第一回主演作品『靑春の歌』スチール写真をあしらった絵葉書一点。

『靑春の唄』は前々から気になっていた作品でもあって今回上映前後の情報をまとめてみました。1924年11月のキネマ旬報で企画から製作の流れが丁寧に追われており、日活による広告も二度挟まれています。ただし公開後の同誌批評欄は酷評と呼べる内容でした。キネ旬のみならず批評家筋の評価はのきなみ低かったようで、それに対し東四郎氏が『映画と劇』に擁護の一文を寄稿した…という流れになっています。

東氏にしても作品が「貧弱」で「空虚」な点や、両主演の演技力に問題のあることを否定している訳ではありません。それでも現在という「時代」につながった「清新」な人物像(タイプ)が登場してきている、という点を強調したがっているのです。こういう議論って往々にして古い形式や価値観と新しいそれが入れ替わる端境期に見られるものですよね。旧来の表現や形式が停滞を見せる中、若い感性が(ヌーヴェルヴァーグ的な)一瞬の切り込みを見せたとも解釈できる流れで、その切れ味の怜悧さは絵葉書の写真からも伝わってきます。

[JMDb]
青春の歌

[IMDb]
Seishun no uta

1925 – 9.5mm 『江戸怪賊伝 影法師』 (東亜マキノ等持院、二川文太郎監督) 伴野商店プリント

Edo Kaizokuden Kagebôshi (1925, Tôa Makino Tôjiin, dir/Futagawa Buntarô)
Episode 1 – 3, Late 1920s Banno 9.5mm Print

1925年に公開された阪東妻三郎主演作の9.5ミリ版。同作は国立フィルムアーカイヴ、マツダ映画社、プラネット映画資料図書館が16ミリまたは35ミリ断片を所蔵、VHSとDVDで発売されたこともあり阪妻初期作としては名の知れた一作となっています。

以前に紹介した『坂本龍馬』(1928年)伴野版9.5ミリは1930年代のプリントで120m×2本、ノッチ無しで市販されたものでした。『影法師』は1920年代末のプリントで、長編から5つのエピソードを抜粋した5作(ノッチ有)を独立して市販する形をとっていました。伴野社のナンバリングに従うと171、173、175、177、257番の5本で、それぞれ20m×2本の構成です。

今回入手したのは当時のコレクターが全巻をつなぎ合せて120mリールに再マウントしたものです。第1~第3エピソードまでを一巻にまとめ前編とし、第4~第5エピソードを後編にまとめたようで、入手できたのはその前編。伴野カタログの171、173、175番に相当します。

9.5ミリ化に当たり伴野商店はそれぞれのエピソードに独自の副題をつけています。171番は「活躍篇」、173番は「任侠篇」、175番は「出沒篇」となっていました。エピソード毎に画質の差があって、最初の「活躍篇」が一番綺麗なプリントで、「出沒篇」がそれに続き、「任侠篇」は粒子感の強い粗めの画面になっています。

「影法師 第一篇活躍篇」(伴野商店、171番)20m×2本

 影法師…阪東妻三郎
 流星十太…高木新平
 お美江…生野初子

「活躍篇」は現行DVD版の12:38~17:53の流れをまとめたもので、旗本の娘お美江(生野初子)がスリに簪(かんざし)を盗られたのを影法師が取り上げて返したところ、巡回していた岡っ引きが影法師の姿を認め詰問~チャンバラに展開していきます。

幾つかのフレームをDVD版と比較してみました。

DVD版は情報密度は高いもののかすれた感じが強く全体的に低コントラスト。9.5ミリ版は逆にコントラストが高めで暗い部分が黒飛びしています。また9.5ミリ版の縦のアスペクト比が若干狂っていてDVD盤と比べ2.5%ほど縦に圧縮されています。同一フレームでも印象が変わりますね。

「影法師 第二篇任侠篇」(伴野商店、173番)20m×2本

 影法師…阪東妻三郎
 流星十太…高木新平
 盲権次…中根龍太郎
 似非影法師…美浪光

「任侠篇」はDVD版24:21~26:59に対応している部分で、民家に強盗に入った「似非(えせ)影法師」を本物が退治するエピソードです。ただしDVD版はエピソードの冒頭部が欠落しており、いきなり少女が影法師一党に助けを求める場面から始まっていました。

上のキャプチャ―画面のように似非影法師が夫婦を脅し、それに気づいた子供が逃げ去る一連の流れが冒頭にありました。この点に関しては2012年に神戸映画資料館で「江戸怪賊伝 影法師」が上映された際、「欠落部を京都のコレクター田渕宇一郎が入手した9.5ミリプリントから補完した」の記録が残されています。

9.5ミリ版「任侠篇」にはもう一つ重要情報が含まれています。似非影法師を演じた俳優名です。「美浪光(みなみひかる)」は以前に東亞キネマのサイン帳で紹介した尾上紋弥の初期芸名だそうです。右門捕物帳で「あばたの敬四郎」を演じた名脇役です。

JMDb(およびそれを下敷きにした「影法師」のウィキページ)には似非(えせ)影法師を演じた俳優名は記載されていません。国立映画アーカイブマツダ映画社の作品紹介ページに美浪光の名前が見つかりましたが「鴉の仙太」役として登録されています。「鴉の仙太」は第一エピソード「活躍篇」に登場したスリの名前です。

本当だ、どちらも尾上紋弥です。

「かんざし泥棒のエピソード」で懲らしめられた悪役・鴉の仙太が後に「似非影法師」として再登場、今度も本物に見つかって斬られて果てる…という流れになっていることが分かります。『江戸怪賊伝 影法師』の理解・解釈で見過ごされてきた要素です。

「影法師 第三篇出没篇」(伴野商店、175番)20m×2本

 影法師…阪東妻三郎
 盲権次…中根龍太郎
 赤鬼喜蔵…中村吉松

「出沒篇」はDVD版の23:21~24:21に対応するエピソードです。DVD版では短い断片しか残っておらず、影法師(阪東妻三郎)と権次(中根龍太郎)が囲碁をしている所に誰かがやってきた場面でフェードアウト。

この場面は岡っ引きの喜蔵を中心としたエピソードで、影法師の所在地を突き止めようと「編み笠」を頼りに捜査を進めていきます。聞き込みで浮かんできたのは「碁會所・金鷹」。配下の者とともに捕縛に向かうも影法師が動きを察知、如何にして喜蔵たちから逃れるか…が描かれていきます。

DVD版では脈略を欠いた場面に見えていたのは独立したエピソードが隠されていたことになります。

お茶目さを備えた権次(中根龍太郎)、くせ者の気配を漂わせた十太(高木新平)、端正な正義漢の喜蔵(中村吉松)、憎々しい仙太(尾上紋弥)…3つのエピソードには脇役のキャラを立てる発想が強く出ています。『影法師』第一作時点で既にシリーズ化が念頭に置かれていたと思われ、次作以降も使いまわしの効く世界観、人間関係を第一作で組み立てておこうとしたと考えられます。

1929年8月19日 – 9.5ミリ個人撮影動画 『ツエ伯号着の三井より望む』

c1929 Japanese 9.5mm Home Movies including
« The Graf Zeppelin, watched from the Mitsui Building »

この前の伴野版『君戀し』(1929年)の所有者が撮影、保管していた7本の個人撮影動画。全て手書きのタイトルが付されています。

『ツエ伯号着の三井より望む』
『格納庫内のツエ号及利根渡り』
『ツエ号の雄姿 1929.8.19-20』
『国立公園大觀峰』
『嵐山(1)』
『嵐山(2)』
『宮島と岩国』

4本は観光地(富山、京都、広島&山口)での映像ですが、それに加えて昭和4年、世界一周航行の折に日本に寄港したドイツの飛行船グラーフ・ツェッペリン号(通称「ツエ伯号」)を記録した動画が3本含まれていました。

1本目の動画『ツエ伯号着の三井より望む』は昭和4年8月19日に飛来したツェッペリン号と、それを見守る観衆を日本橋の三井のビル屋上から捉えたものです。

屋上に「エムプレス食堂」の看板が設置された向かいのビル(三越?)に人が集まっている様子。カメラがそのまま視点を左に移動させていくと、通りを挟んで撮影者のいるビル屋上が写り込んできます。

その後空を写した映像がしばらく続きます。フィルムにダメージ(湿度による細かな割れ)が多いのですが、飛行船を先導している複葉機の機影が捉えられていました。

市街地の俯瞰からカメラは三井ビル屋上へと戻り、ツエ伯号飛来を一緒に見ている友人たちの映像がさしはさまれます。カメラがそのまま再び空を捉えると、今度は三角形のフォーメーションを組んだ3機の複葉機が飛んでいます。

そしていよいよツエッペリン号の登場です。

万国旗で飾られた尖塔の先、画面の中央部上側に飛行船が写っています!

最初は後尾が見えていて、進路をゆっくりと左に変えて進んでいきます。観衆の反応なども記録しつつ、ちょうど飛行船の半身がこちらを向いたところでフィルムが終了しました。

ツエ伯号飛来は当時国内で大きな話題を呼んだ出来事でした(リアルタイムの反応については国立国会図書館HPの「本の万華鏡」が詳しいです)。ニュース動画としての需要もあり伴野商店から複数の9.5ミリ動画が市販されていました。

『ツエ伯號霞ケ浦到着』(178番)
『ツエ伯號霞ケ浦出發』(180番)
『訪日のツエツペリン伯號』(205番)

今回入手した動画は個人撮影で手振れが目立ちます。それでも周囲が盛り上がっている中で撮影された臨場感は十分伝わってくるものです。

また撮影場所が三井ビルの屋上でそこからの眺望が多く含まれていたのも興味深いところです。

本サイトでも9.5ミリ動画で追ったことがあるように東京が関東大震災(大正12/1923年)から復興していく様子は帝都復興祭(昭和5年/1930年)で記録されていました。今回の映像はその半年前に当たっておりアップデートされたばかりの首都が記録されていることになります。三井と向かいの三越の屋上を撮影した戦前動画はそう残っていないはずで都市開発や都市計画、建築の側面からも面白い発見が出てきそうです

1929年8月 – 9.5ミリ個人撮影動画 『格納庫内のツエ号及利根渡り』

ツエ伯号関連フィルムの2本目『格納庫内のツエ号及利根渡り』です。

飛行船の到来を東京で見た後に撮影者さんは家族と共に格納庫の位置する霞ケ浦に向かいました。利根川を渡って茨木県に移動。フィルム前半は小舟を使って乗用車を渡す様子(「利根渡り」)を記録したものです。

利根川の河畔、「取手病院」の看板を出した建物の前に乗用車が並んでいます。車から降りてくる日傘の女性陣は撮影者さんのご家族ではないかと思われます。車のナンバーは黒地に白文字で「2-863」となっていました。

もう一台の車が到着するのを待っていたようです。小舟が到着、上陸した車がカメラの前を通り過ぎていきます。制服姿で一般人ではなさそうな感じ。

この後格納庫に収まったツェッペリン号の姿が映し出されていきます。

格納庫からはみ出さんばかりの後端部、機体に書かれた「GRAF ZEPPELIN」の文字。カメラはゆっくりと船体外観を捉えていきます。

タラップ近辺に集まっている観衆とスタッフたち。そして複雑に入り組んだ格納庫の構造物…

後半、薄暗がりの中に飛行船の機体が大写しにされる流れが非常に素晴らしい一本です。

格納庫の位置する土浦市では現在でも土浦ツェッペリン倶楽部を中心にゆかりのある品の収集・保管・展示が続いています。先週、土浦市商工会議所を通じて同倶楽部にデータの一部をお渡しさせていただきました。以前の『沖縄』もそうでしたがこのレベルの専門性の高いトピックは詳しい人に見てもらうのが一番ですね。

また1920年代後半に首都近郊でも舟で車を渡していたのは初めて知りました。水運史の観点からも貴重な映像ではないでしょうか。

1925 – スーパー8 『国定忠治』(澤田正二郎主演、マキノ省三監督)

「8ミリ 劇映画」より

1925 - 国定忠治(スーパ8)

Kunisada Chûji (1925, Tôa Kinema, dir/Makino Shôzô) Early 1970s Sungraph Super8 Print

映畫劇ではない。澤正一派が舞臺では十八番の「國定忠次」をその儘撮影したに過ぎない映畫である。然し澤田正二郎氏の忠次は立派に成功して居る。舞臺で聞く彼獨特の沈痛な臺詞こそ聞かれないが、彼一流の力強い演技は映畫に於ても充分味へられた。舞臺から映畫に移つた俳優の誰よりも巧い事は確かである。決して映畫俳優の演技ではない彼の演技が見る者に何の不自然さも感じさせず思はず拍手を惜しませぬ、彼の力強い演技には全く敬服した。その型の好き敏捷な動作は舞臺同様觀客を唸らせずに置かない。牧野省三氏の監督は映畫劇としては成功して居ないけれど澤正を活かした事は成功して居るそして舞臺俳優を使つて短日時の内にこれ丈のものを作り上げる事は恐らく氏以外にはあるまいと思はせた。老練と云ふ言葉が滿ちている監督振りである。俳優は澤正以外全くゼロで澤正ピカ一である事は止むを得ない。場面では山形屋の痛快さで唸らせ最後の落入りで十分泣かせて居る。

「主要映画批評:國定忠次」
(山本綠葉『キネマ旬報』183号 大正14年1月21日付)

関東一帯の不作と、悪政に苦しむ百姓を見かねた上州長脇差・国定忠治は悪代官を血祭に上げ、一党三百名と共に、関八州の捕手を向うに廻して赤城の山に立てこもった。しかし川田屋惣次などの情義により赤城の山を降りることにした。

「赤城の山も今宵が限り、生れ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨て、可愛いい子分の手前等とも別れ別れになる門出だ。加賀の国の住人・小松五郎義兼が鍛えし技物、万年田、溜の雪水に清めて、俺には生涯手前という強え味方があったのだ」……忠治は一人旅に出る。

その道中、通りがかった権堂の宿場外れで、百姓喜衛門の難儀を知り、事情を聞いて山形屋に乗りこみ、だまし取られた金を取り戻してやる。

忠治に恥ずかしめられた山形屋は、子分と共に小松原に待ち伏せ、闇討ちせんと企てたが、白刃一閃二閃忠次に切り倒される。 忠治は再び旅へ…

今回宣材の絵葉書紹介にあわせてスキャンをし直しました。強いコントラストのプリントで白飛びが目立つものの解像度が若干改善されました。

[原題]
国定忠治

[公開年]
1925年

[JMDb]
国定忠次

[IMDb]
Kunisada Chûji

[フォーマット]
スーパー8 白黒無声 55メートル 約10分(18コマ/秒)

1928 – 9.5mm『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)戦前伴野版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Banno Co., Early 1930s 9.5mm Print

枝正義郎氏を監督に迎えた最初期の龍馬映画9.5ミリ縮約版。100メートルリール2巻物。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。

前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

伴野版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5ミリ版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

もう一点重要な指摘として、1928年版『坂本龍馬』は撮影アングルや照明を重要視した映画作りとなっています。

寺田屋立ち回りでのミドルショットでは左側からメインの照明を当てつつ、陰が出すぎないよう右側から補助の光を照射(襟元の影で分かります)。さらに黒い髪が背景と一体化しないよう背後上から光を当て後光のような輪郭を形成しています。これは「ハリウッド式の3点ライティング」を採用した典型的作例です。

殺陣の速度感や迫力は『雄呂血』に軍配があがるものの、あの立ち回りは屋外ロケの自然光下で撮影されたもので光や陰に対する配慮は感じられませんでした。カメラマンとして業界で名を成した枝正義郎氏はコントラストや構図を重視。ハリウッドでは1920年代以降スタジオ撮影の比重が上がるにつれて照明の重要性が増し「ライティングで狙った絵を作る」発想が顕著になってきます。枝正氏はそういった傾向を自作に取り込もうとしているのです。『坂本龍馬』を評価する際もそういった要素を考慮する必要があるだろうと考えられます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5ミリ 白黒無声 100メートル×2巻 ノッチ無

ロー・ホール Loo Holl と『武士道』(東亜キネマ、1926年、H・K・ハイラント&賀古残夢)

Loo Holl c1920 Autographed Postcard

日本とドイツが共同制作し、1926年に公開された映画「武士道」のフィルムがロシアで見つかり、9月の第4回京都映画祭で特別上映されることになった。日本で最初の本格的な国際合作映画とみられる。

日本最初の国際合作を発見/1926年映画「武士道」
四国新聞 2004年8月11日付

2004年、邦画史上初めての国際合作作品となる『武士道』(1925年)が発見され、京都映画祭で上映されることになったというニュースが報じられました。東京国立近代美術館フィルムセンター(当時)研究員の常石史子氏を中心として1996~2004年に行われたロシア・ゴスフィルモフォンドの調査および収蔵作業(NFCニューズレター 2005年6-7月 第61号PDF)による成果のひとつです

日本側では東亜キネマが制作の中心となり、賀古残夢監督が現場を回す形で作業が進められていきました。出演は明石潮と岡島艶子。本作で「日本」がどう描かれていたかについては立命館大学のアート・リサーチセンターのサイトに報告がありますので興味のある方はご参照ください。

ドイツでは邦題をそのままアルファベット表記した「Bushido」として公開されました。

専門誌の様々な記事で伝えられているように、ハインツ・カール・ハイラント氏は日本で時代劇映画を作り上げた。日本の映画会社東亜キネマが共同で製作に当たった。監督は賀古残夢氏。主演はロー・ホール、カール・W・テティング、岡島艶子、明石潮の四氏。現時点でドイツ版が公開中。

独キネマトグラフ誌 1926年3月 第994号

Wie durch verschiedene Artikel in den Fachzeitungen bekannt geworden ist, fertigte Heinz Karl Heiland in Japan einen historischen Film an, und zwar mit Unterstützung der Toa Cinema Co., eines japanischen Fiimkonzerns. Die Regie führte Zanmu Kako. die Hauptrollen sind besetzt mit Loo Holl, Carl W. Tetting, Tsuyako Okazima und Ushio Akashi. Die deutsche Bearbeitung liegt nunmehr vor.

« Einsendungen aus der Industrie »
Der Kinematograph, Nr. 994 (1926 March Issue)


独キネマトグラフ誌1927年5月1056号に
掲載された粗筋紹介ページ(右半分)

共同監督として名を連ねているハインツ・カール・ハイラント(Heinz Carl Heiland)は元々旅行家兼エッセイストで、第一次大戦前に映画監督として業界に参加してからも異国情緒を重視した設定を得意としていました。戦後、自身の名を関した制作会社を立ち上げ、女優ロー・ホール(Loo Holl)をヒロインに据えた作品を多く発表していきます。

ロー・ホールは『武士道』と同時期に日本で撮影された『白い藝者』(ドイツ=デンマーク合作、1926年公開)でも主演エヴァ役を担当。日本を訪れたドイツ人技師が芸者と恋に落ちて…の展開は蝶々夫人に影響を受けた感じでしょうか。初期邦画に縁のあった女優さんのサイン絵葉書を日本にお迎えできるのは光栄です。

1957 – 9.5mm 『太平洋の怪獣ゴジラ』(『ゴジラ』仏編集版、東宝他) 1960年頃 仏フィルム・オフィス版

Godzilla (« Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique », Toho)
c1960 French Film Office 9.5mm Print

『ゴジラ』の日本初公開(1954年)から2年後の1956年、追加撮影された場面を加え設定を変更した編集版『怪獣王ゴジラ(Godzilla, King of the Monsters! )』がアメリカで公開されています。オリジナル版『ゴジラ』を英語字幕付きで正式に観ることができるようになったのは2000年代になってからで、それまでの欧米ではUS編集版を元にゴジラの受容・理解が進んでいったとされています。

実際には欧州でも国によってプリントの異同がありました。西ドイツでUS版は採用されず東宝オリジナル版を独自編集した版が公開されていました。フランスではUS版を再編集し完全吹き替え版とした『太平洋の怪獣ゴジラ(Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique)』が1957年にリリースされています。

今回紹介するのはこの『太平洋の怪獣ゴジラ』をベースにした9.5ミリ版です。仏フィルム・オフィス社が1958~62年頃に発売したもので100mリール4本構成、実写時の上映時間は50分程。音声は含まれておらず会話や説明が仏語字幕で画面に埋めこまれた形になっています。

US版は1)米国の観客が感情移入しやすくするため”語り部”となる米国人リポーター(レイモンド・バー)を導入し、2)当時の米国世論にそぐわない反核の要素を削除する、という二つの方針を軸に編集されたものでした。仏版ではこの版をベースとしつつも米国人記者の要素を減らし、時系列上の展開をオリジナルに近い形に戻そうとする傾向が見られます。

仏9.5ミリ版は大戸島の浜辺で物語が始まります。不漁が続き「呪いだ」「呉爾羅(ゴジラ)の仕業だ」と島民たちが噂しあうなか、ある夜民家が謎の理由で押しつぶされる災害が発生。国会で原因を調査する委員会が組織され、その会議の報告を傍聴する席に米国特派員スティーブ・マーティン(レイモンド・バー)の姿がありました。

古生物学者・山根(志村喬)の提言を受け調査団が派遣され、マーティンも同行します。放射能による汚染が確認され人々の警戒心が募る中、突如鳴り響いた半鐘。尾根の先に顔をもたげた怪獣が彷徨を轟かせ一帯はパニックに。

山根博士は撮影した写真を持ち帰り国会で怪獣の発生を報告、地元の伝承にちなみゴジラと名付けます。国会は自衛隊を派遣しゴジラ攻撃に乗り出していきます。一方山根博士の娘・恵美子(河内桃子)はかつての婚約者・芹沢(平田昭彦)から秘密裏に実験していた研究の話を聞かされます。

自衛隊による攻撃は失敗しゴジラは東京湾から上陸。品川駅を破壊し辺り一帯を焦土と化していきます。

非常警報発令。取材を行っていた建物が倒壊し逃げ遅れたマーティンは大怪我を負います。万策尽きたかと思える中、被害に心を痛めた恵美子は約束を破って芹沢の秘密を明かし首都を救おうするのでした…

仏フィルム・オフィス版は元となったUSプリントの影響もあって原水爆の言及は一切ありません。人間関係もできるかぎり省略されていて恵美子と萩原(宝田明)の恋模様、ゴジラに対する考え方の対立、市井の人々の反応といった要素は見えなくなっています。またUS版で主役だった米国記者マーティンは被災者の一人として扱われていました。

オリジナルの完成度と比べダウンスケール感は否めないものの約50分の短い尺でゴジラそのものインパクトを伝えたい意図は伝わってきます。1950年代にオリジナル版を直輸出しても理解されにくい部分が多かったでしょうし、ワンクッション置いて広く認知してもらう戦略はあながち間違いではなかったと思います。

ちなみに9.5ミリ形式フィルムは1920代半ばから70年代半ばまで約半世紀の歴史があるのですが、欧米圏(英仏米独)で9.5ミリ化された日本の長編映画は後にも先にもこの『ゴジラ』一作だけです。

[参照リンク]
Toho Kingdom [英語] … 東宝作品に関する情報交換掲示板でイタリア語版や仏語版についての情報・画像あり
Schnittberichte [ドイツ語] … 独版と東宝オリジナル版の比較検証
Cinemore: 『ゴジラ』 原点にして異彩を放つ第一作目【川原瑞丸のCINEMONOLOGUE Vol.57】 [日本語] … 海外版への言及がある訳ではないのですが要を得ていて面白かったです。


[タイトル]
Godzilla

[原題]
Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique

[公開年]
1957

[IMDB]
Godzilla

[メーカー]
仏フィルム・オフィス社

[フォーマット] 9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無

2021 – ホームムービーのデジタルアーカイブ『世田谷クロニクル 1936-83』by 生活工房 紹介記事(アーバンライフ・メトロ)

先日、東京拠点のウェブマガジン「アーバンライフ・メトロ」に世田谷に特化した古フィルムのデジタルアーカイブの紹介記事が掲載されていました。

「見てるだけで涙が」とSNSで反響
8mmフィルムに残された
昭和時代の家族の肖像とは

『世田谷クロニクル 1936-83』はせたがや文化財団・生活工房がNPO法人(記録と表現とメディアのための組織)の協力を得て収集した個人撮影8ミリ動画のオンライン・デジタル・アーカイヴ。2021年5月のサイトリニューアルをきっかけに口コミで話題となっていったようです。

古い個人撮影動画をデジタル公開する試みはユーチューブを含め多く見られますが、対象を一つの行政単位、コミュニティに絞った企画は海外でも例がなく、「匿名者たちによって連綿と記録されてきた集団の記憶」と形容できる独特の世界線を描いています。8ミリ独特の発色や解像度、フリッカリングが被写体とあいまって良い感じに昇華されています。

1924 – 『浦邊粂子小唄集』(春江堂、キネマ花形叢書)

Urabe Kumeko : Songbook (1924, Shunko-do, Collection « Cinema Stars » )

春江堂が大正13年(1924年)に手掛けていた流行歌集のコレクション。14.2×10.5㎝、全80頁。

大正期~昭和初期の映画に興味のある方であれば、1923年公開の『船頭小唄』、翌年の『籠の鳥』を皮切りに展開された「小唄映画」の名に馴染みがあるのではないでしょうか。大正期のメディアミックスの流れの一つとして興味深いもので、近年になって幾つかの研究書、論文が発表されるなど再注目を集めているジャンルでもあります。

小唄映画の勃興は、日本における花形女優文化の誕生と時期を一にしています。浦邊粂子さんが日活作品の『清作の妻』で注目を浴びたのもこの大正13年(1924年)。春江堂によるキネマ花形叢書はこういった時代の流れに反応したもので、栗島すみ子を筆頭に8名の女優名を冠した小唄集を公刊。

(女) 指をさゝれよと恐れはせぬが 妾や出られぬ籠の鳥
(男) 世間の人よ笑わば笑へ 命がけした仲じやもの
(女) 命がけした二人が仲も 今は逢ふさえまゝならぬ
(男) まゝにならぬは浮世の定め 無理から逢ふのが戀じやもの
(女) 逢うて話して別れる時は 何時も涙が落ちて來る
(男) 落ちる涙は誠かうそか 女心はわからない
(女) うそに涙は流せぬものを ほんに悲しい籠の鳥

新籠の鳥

『浦邊粂子小唄集』と題されているものの、彼女に関係のある作品は『新籠の鳥』と『金色夜叉』だけで、その他の収録作品は「船頭小唄」(栗島すみ子主演作より)「水藻の歌」(同左)「戀慕小唄」(酒井米子主演作より)「闇の五本松」(梅村蓉子主演作より)と一人の女優に特化したものではありませんでした。他の女優編もおそらくは内容は同一で、表紙のみ差し替えていた可能性があるのかな、と。

こういった書物が時代やテクノロジーの変化に揉まれて後年の「映画主題歌集」に形を変えていきます。大正末期にはまだ「主題歌」の概念はなく音楽ソフトを再生できる環境(蓄音機)を備えた家庭も少数派でしたが、この手の冊子で歌詞を覚え、互いに教えあっていた風景というのがどこかにあったのだな、と想像させてくれる紙資料です。

1930年代前半 – 9.5mm 『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』(陸軍省撮影、伴野商店版)

「伴野商店」より

”Three Human Bombs, Sham Battle of Miao Hang Zhen” (1932)
Early 1930s Banno Co. 9.5mm Print

日本精神の精髄を外國までも傳へんとする意圖から、十六日の廟行鎭に於ける三勇士爆死實演の模擬演習は午前十一時半開始され午後一時終了した。日本義勇隊が支部兵に假装して支那塹壕陣地に着き、これに對し碇少佐の率ゆる一個大隊の歩兵は松下大尉引率の一個中隊の工兵掩護の下に鉄條網を越えんとして攻撃を開始し、小銃と地雷火、手榴弾など列爆中を三勇士は爆弾を背負つて鐵條網破壊に突進し、爆破作業を完了し、模造の三勇士の死體が空中に吹上げられるまで實に巧妙に演出された。陸軍省撮影隊の外フオツクス、ユニバーサルその他外國撮影會社も約五會社参加し、この感激的情景は完全にフイルムに収まつた。

「三勇士」模擬戰 – 各國撮影班を前に
キネマ週報 第百三號 昭和七年三月廿五日付


「大橋幸太郎主宰の軍事劇太陽団は、(中略)二十一日から二十八日まで八日間、昼夜二回南座で開演する。だしものは軍事社会教育連鎖劇「国の光人の妻」十三場(中略)昨年度陸軍特別大演習実況映画を映写する。特等八十銭、一等六十銭、二等四十銭。」(「大阪朝日新聞(京都版)」 4.17 ) ○「呼物は(中略)肉弾三勇士の鉄条網爆破の廟行鎮における模擬戦実写等いづれも一行の統率者大橋幸太郎氏が、講演する内容の一部として上場する時局中心の劇と映画である。」(「京都日出新聞」 4.20 )

昭和七年四月二十一~(二十八)日
京都南座 軍事社会教育連鎖劇『国の光人の妻』
近代歌舞伎年表京都篇: – 270 ページ

先日ご紹介した『復興帝都御巡幸』と同じ東北在住の9.5ミリ小型映画愛好家の旧蔵品。

肉弾(あるいは爆弾)三勇士については1932年3月初頭に映画会社6社競作でフィクション作品が発表されていました。こちらは陸軍省主導により実際の兵士を動員して「再現」した模擬演習を撮影したものです。

キネマ週報の記事によると1932年3月16日の昼に1時間半ほどかけて演習を実施。中隊長から命令の下達後、決死隊の青年兵に水盃が振る舞われ、その後煙幕に紛れ敵陣(廟行鎮/びょうこうちん)に進んでいきます。「勇壮なる哉三勇士 肉弾を以つて爆破」の字幕の直後に爆破による煙が立ち上がり、それを合図に兵士たちが突撃を開始。現場に立てられた木製の碑の映像でフィルムは終了。

鉄条網への突撃の場面に関しては敵地からの銃撃を避け、破壊筒を地面に置きながらしゃがみこむようにじりじりと進んでいく形で描かれていました。三兵士が大きな筒を小脇に抱えて勇ましく突進しているイメージが強いのですが、この作品の描き方はそういった一般に流布したイメージとは異なっています。

『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』が強調しているのは部隊全体による複合的なオペレーションです。煙幕を張る者たち、後方で掩護射撃を担当する兵士たち、鉄条網破壊後に突入を任されている面々が連携し、敵陣からの銃撃に苦労しつつも最後は攻略を成功させた。ただ、そのために若き兵士3名の命が失われた。当時のメディアによる過剰でいびつな神格化に対し、陸軍が「公式版」でその神話の微修正を図った痕跡、と個人的に読みました。

1961 – 『髪と女優』(伊奈もと著、日本週報社)

« Hairmaking and Actresses »
(« Kami to Joyu », Ina Moto, Nihon Shūhōsha, 1961)

日本映画の黎明期から髪結い/ヘアデザイナーとして活躍された伊奈もとさんによる随筆集。古くから原節子愛好家界隈で知られており、彼女の残した名言「自分を卑しくすると、 あとでさびしくなるのでそういうことは一切しないようにしています」の典拠となっています(159頁)。

宮城県生まれ。旧姓亀田。尋常小学校卒業後に上京し、後に美髪学会を設立する高木きくに師事。1917年(大正6年)頃から姉弟子の増渕いよのと共に活動写真(主に日活向島新派劇の女形)の結髪に関わるようになり、松竹蒲田撮影所発足時から女優の髪結いを担当。1923年(大正12年)、酒井米子が松竹から日活に復帰したのに伴い籍を移す。戦後は東映大泉に移籍。

日活で監督として活躍した伊奈精一氏を夫とし、その間に生れた娘の圭子さんもまたフリーの髪結師として原節子や対馬恵子を担当していました。1959年(昭和34年)の映画の日に勤続41年の表彰を受け、この表彰をきっかけに自身の辿ってきた道筋や出会ってきた俳優の回想をまとめたのが本書でした。

分量が多いわけではないものの1910年代末から20年頃にかけての「女優以前」の活動写真にも触れられていて、先日の「日活俳優名鑑」でも名が上がっていた木藤茂氏の女形時代の写真が掲載されていたりします。また「日本初の女優は誰か」の問いにも私見が述べられています。

本サイトで『髪と女優』を最初に引用したのは「大正14年の日活俳優揃え」。同書にはもう一点「昭和9年の日活女優揃え」の写真も掲載されています。星玲子、久松美津江、近松里子など30年代中旬の多摩川撮影所女優がアタミホテル裏で撮影した水着姿の集合写真で、それぞれの女優についてのコメントが情報の宝庫となっています。おそらくは「昭和4年の日活女優揃え」にも絡んでいるのではないかな、と。

『唐人お吉』(1930年)撮影スチル

駆け落ち事件後に岡田嘉子から届けられた書簡など邦画女優史の一資料としてその重要性は疑うべくもないのですが、化粧や衣装と並び映画産業を支えてきた結髪技術の確立者だった点も強調しておきたいところです。1922年(大正11年)の平和博覧界の折に出展用人形の髪を頼まれて考案した髪型「耳かくし」が評判を呼び一般女性の間で流行した話は知られています。

また梅村蓉子主演の溝口作品『唐人お吉』(1930年)で女優の額の形と前髪のボリュームを整えるためつけひげにアイデアを得た「前はり」と呼ばれる技術を初めて導入。現在でも様々な目的で使用されている「前貼り」のルーツに当たります。

澤蘭子の有名なポートレート
この髷も伊奈さんの「作品」のようです

髪(型)は社会的記号として機能するだけではなく、流行として世相や時代の雰囲気を映し出し、また個々人が個性を表現していく手段でもある。そういった前提から現場視点で邦画史を読み解いている点で唯一無二の書籍。向学心の強さと人懐っこさの伝わってくる文章も素敵です。

[出版社]
日本週報社

[ページ数]
221

[フォーマット]
19.9 × 13.3 cm

1926 – 9.5mm 『彌次喜多』(『新作膝栗毛』、日活、中山呑海監督)伴野商店版

「伴野商店」より

”Shinsaku hizakurige” (1926, Nikkatsu, dir/Nakayama Donkai)
Late 1920s Banno Co. 9.5mm Print

長屋の薄い壁の向こうから漏れ聞こえてきたのは夜逃げの相談である。そつと覗きこむと借金取りに追われた弥次と喜多が江戸を離れ伊勢参りに向かうとのことであつた。

今生の別れやもしれぬとあり、お調子者の二人の目にもきらりと光る涙があつた。ご近所仲間も別れを惜しみ、路銀の足しにと小銭を持ち寄るのであつた。

いざ出発。しかし桟橋に着いた時にはすでに舟は出たところであつた。「オーイ待つてくれー」、二人の声は船頭には届かない。舟を追って海に飛びこんだ弥次喜多の頭はやがて波間へと消えていく。前途多難な出立であつた。

20メートルの1リール物として発売された伴野初期の9.5ミリ作品。タイトル「彌次喜多」の後すぐに物語が始まっていて出演者や製作会社のクレジットがありません。手持ちカタログでは小泉嘉輔主演となっており1926年に公開された日活作品『新作膝栗毛』の一部のようです。彌次(小泉嘉輔)と喜多(児島三郎)が伊勢参りに出発する長編喜劇の冒頭を抜粋した形。

スキャン画像が綺麗ではなくスキャナー設定を失敗したと思いました。やや淡めでコントラストが低く、グラデーションの滑らかな画質…これってよく見るとパンクロマチック・フィルムの質感にも見えます。オルソクロマチックからパンクロに切り替わった最初の劇場公開作品はフラハティ監督『モアナ』(1926年1月)。日本でもすぐに大手が追随し、同年中には幾つかのパンクロ白黒フィルム映画が製作されていた可能性があるな、と。

『新作膝栗毛』公開は尾上松之助逝去の翌日の9月12日。この3カ月後には大正天皇が崩御し元号が変わります。この年の8月にはヴァイタホンで効果音を一部同期させた『ドン・ファン』のプレミア上映が行われていて翌年の『ジャズ・シンガー』の布石となっていますし、オルソからパンクロへとフィルムの種類も変わっていく…1926年は様々な意味で「変化」の年でもありました。

中山呑海監督のお孫さんがこんなツイートを残されています。

[JMDb]
新作膝栗毛

[IMDb]
Shinsaku hizakurige

[公開]
1926年9月12日

[9.5ミリ版]
伴野商店

[9.5ミリ版タイトル]
彌次喜多

[カタログ番号]
24

[フォーマット]
20m×1、ノッチ有、白黒無声

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁