ミスタンゲット Mistinguett (1873 – 1956) 仏

フランス [France]より

Mistinguett Autographed Postcard

Mistinguett Autographed Postcard

2018年12月、東京大学で『ミスタンゲットを発見せよ――フランス・サイレント映画の夕べ』が開催されていました。1910年代の短編3本に弁士の語りを加えた内容で日本でも無声映画女優としての彼女にスポットが当たったのは喜ばしい出来事でした。

公私ともに付きあいのあったモーリス・シュヴァリエと並び、ミスタンゲットは1920~50年代のフランス下町文化を代表する位置付けです。日本で言うと昭和レトロに近い懐かしさを覚える世界がフランスにもあって、そこにミスタンゲットの姿と歌声が含まれている訳です。下町っ子らしい、気さくで、愛嬌と温かみを感じる「粋」が彼女の持ち味です。

[IMDb]
Mistinguett

[Movie Walker]


[出身地]
フランス (アンジャン=レ=バン)

[誕生日]
4月3日

[データ]
Edition artistique de WALERY, photographe. 9 bis, rue de Londres, Paris

« A Gabrielle Marrodin
souvenir,
Mistinguett »
ルーマニアのヴァスルイ在住のガブリエル・マロディン嬢宛

[サイズ]
8.9 × 13.8 cm

1922 – 9.5mm 『カマルグの王』(アンドレ・ユゴン監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

魔法をつかふ一人のボヘミアの女がルノ婚約女であるリヴエットに或る運命を告げました。所がその勇氣と武功とから人々の賞讃を得た傲慢なルノーはカマルグ王の綽名を受けたのであります。而してリヴエットを怖れさせた魔法つかひを罸しやうと思ひました。併しそのボヘミアの女に出會つた彼はその女から發する不思議なチヤームに捕へられたのであります。でその眼の權威とその輝やくほゝ笑みから彼女はルノーに泥地の眞中の一軒家であひゞきを約束しました。とその婚約者の裏切りを知らされたリヴエットは不實ものに出會ふべく同じ場所へと赴いたのであります。けれどルノーは人々が踏込むたゞ一つの淺瀬を示したその標示杭を變へたのであります。それでリヴエツトは彼女を葬むつた泥水よりも尚一層ルノーの裏切りから死んだのであります。この立派なドラマのその感動させる演出の所作にプロヴアンスの美しき空がまた詩的なありさまを加へます。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

1890年に公刊された地方色の色濃い運命劇をアンドレ・ユゴン監督が自身の脚本を元に映像化した一作。ゴーモン=パテ社アーカイヴに35ミリを元にした一時間版が現存。

冒頭から西部劇風の世界が展開し驚かされますが、南仏カマルグに伝わる独自の土着文化を元にしたものです。二枚目俳優として人気のあったシャルル・ド・ロシュフォールが「カマルグ王」を演じ、若手女優として台頭していたエルミール・ヴォーティエがヒロイン役、呪術的な力を持つ流浪の女にクロード・メレルを配しています。

アンドレ・ユゴンは大手制作会社と一線を画した独立系/仏インディ系映画監督の祖に位置づけられる人物です。ユゴン映画社製作による本作は宿命劇、土着風味やメロドラマの要素を上手く絡めて要を得た作品に仕上がっています。

本作の特徴としてはあまり強調したくないのですが、『カマルグの王』はフランスで初めて長編劇映画に女性の全裸を登場させた作品になるのではないかと思われます(9.5ミリ版ではカット)。1920年代のフランスの規制はアメリカや日本に比べて緩く、濡れ場とは違う、文脈に沿った裸体は許容される傾向にありました。倫理規制の強い時代ですし、原作に基くとは言え当時も賛否両論あったと思われます。それでも商業的リスクの大きいチャレンジに取り組む辺りが大手の監督とはやはり異なった姿勢となっています。

9.5ミリ版は1924年発売。早い時期に絶版になったタイトルで今回入手したフィルムもほぼ一世紀前のものとなります。1/4程に切り詰められていてもオリジナルの良さをある程度伝えているのかな、と。脚本の完成度、演技・演出の質も高く1920年の『労働』(アンリ・プクタル監督)、1919年の『恋するスルタン』と並び1920年前後の仏映画を代表する隠れた名作の一つです。

[公開年]
1922年

[IMDB]
Le Roi de Camargue

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
692

[9.5ミリ版発売年]
1924年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×6巻

瀧 蓮子 (生没年不詳)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Taki Renko c1930 Autographed Postcard

蓮子さんは『サロメ』を演りたいと何日も云ひます。みどり孃とは正反對に理智的な女性で、岩田祐吉氏に藝才滿點と賞められたことがありました。將來有望な若手で、矢張り研究所出です。

「藝才滿點と云はれた瀧蓮子孃」
『映画女優スタアになるまで』、小池善彦著、章華社、1926年

本名笠原らく。

蒲田研究所で演技を学び、その後は舞台(解散直前の築地小劇場)を中心に活躍。1928年10月の『国姓爺合戦』には杉村春子、及川道子さんと並び女官役で出演、同年末の『晩春騒夜』で山本安英らと共演。1930年代初頭に数本のトーキー映画に出演の記録あり。1934年に関西新派が結成された才にはその中心メンバーとして道頓堀・角座の舞台に立つ。1937年に東愛子の提言で国防婦人会の松竹分会が結成された折に副会長に就任した記録が残っています。

小山内薫系の舞台女優さんで映画との接点こそ少ないものの、杉村春子関連の文章ではしばしば名前があがってきます。また1934年にラジオで漫才が初めて公開放送された(『家庭天気図』、秋田実作)際に山口俊雄氏と共に主演を務め、ラジオ漫才の普及にも一役買っています。

[JMDb]
滝蓮子

[IMDb]


[生年月日]
不詳

映写機用レンズの肖像 [09]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー I f=25ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior I F=25mm Projection Lens from Eumig P3 8mm Silent Projector

以前にf=20mm40mmの2本を紹介した独メイヤー・ゲルリッツ社の映写機用レンズ「キノン・スーペリアー」の25mmを手に入れることができました。3群4枚のペッツバール型。1930年代中盤に市販されていた墺オイミッヒ社の8ミリ映写機P3についていたものです。

映写機は配線が大きくいじられていて現状で動かないのですが、スイッチ類を変えれば使えそうな気配もあってレストアするかどうか思案中。ひとまず先にレンズの写りを試してみました。

前回同様にイハゲー社の金属製エクステンションチューブ一部を流用し、3Dプリンタで作成した樹脂リングをかませる形でExaktaマウントに変更、さらにマイクロフォーサーズに変換してミラーレスカメラに取り付けていきます。

外出ついでに試写してみたのが下のサンプル画像2枚。

f=20mmと同じくイメージセンサーより若干小さく映るため四隅がケラレています。コーティングされていない戦前レンズで逆光に弱いものの、点光源が多い被写体を選ぶと強いグルグルボケが発生。

白黒フィルムを前提に作られているにもかかわらず色の立ち具合の強いレンズでもあります。レンズ中央で色味の強い対象を捉え、周辺(今回は左半分)に点光源を置くと面白いアウトプットになります。

1952年頃のメイヤー社カタログより。キノンに関しては1.8/35mm、1.8/50mm、1.8/65mm、2.2/65mm、1.6/105mmの5種類を掲載。20mmや25mm辺りの短い焦点距離は戦後作られなくなっていたのが分かります。

試写に使用したマイクロフォーサーズのセンサーサイズであればf=25~35mmで十分な気がしました。センサーサイズの大きなカメラで使うなら50~65mmを見つけたいところです。

1925 – 9.5mm 『三人』 (トッド・ブラウンニング監督)仏フィルム・オフィス社プリント

小人症映画小史(02)

Les Trois « X » (« The Unholy Three », 1925, Metro-Goldwyn-Mayer, dir/Tod Browning) Postwar French Film Office 9.5mm Print

腹話術師のエコー(ロン・チェイニー)、小人症芸人のトウィードルディー(ハリー・アール)、怪力男のヘラクレス(ヴィクター・マクラグレン)が芸を披露している建物には今日も多くの客が集まつていた。観衆の前では愛想笑いを受かべてはいたが、彼らには裏の顔があつた。三人は手つ取り早く大金を稼ぐため奇想天外なる計画を実行するのである。

大通りに面したペットショップに変装した三人が住みこんでいた。売り物のオウムを出しにして、富裕な客の自宅を物色し貴金属を盗み出していく。計画はうまくいったかに見えた。だがエコーの情婦であるスリのロージー(メエ・ブッシュ)が店員として雇われた青年ヘクターと恋に落ちた時、三人の緻密な計画にほころびが生まれ始める…

1932年のカルト作品『フリークス』でも知られるトッド・ブラウニング監督のもう一つの代表作品。1925年のサイレント版と配役変更を行った1930年トーキー版の二つがありこちらはサイレント版。仏フィルム・オフィス社が戦後に発売していた仏語字幕物で100メートルリール4巻構成、上映時間は1時間強。

現行DVDと比べ描写が潰れており良いプリントとは言えません。ただ、今回一部をスキャンして確認したところデジタル化されているUS版とは別プリントだと判明しました。

上の2枚は仲間割れしたヘラクレスがトウィードルディーを車の助手席に押しこんで店を離れる場面です。背景に注目するとUS版DVD(左)では家から出た後の扉が完全に開ききっています。ところが仏9.5ミリ版では扉が反動で戻ってきてしまい半開きになっています(右)。

また3人組が悪だくみの相談をしている場面では9.5ミリ版(右)だと ロン・チェイニーの背後にドアノブが見えているのに対し、DVD版(左)ではカメラの角度が異なっていてドアノブが見えなくなっています。

9.5ミリ版はDVD版と共通のショットの一切ないオルタネイト・バージョンでした。チャップリンのミューチャル短編や20年代のラング作品、あるいは一部のキートン主演作と同様に国外向けに用意された別ネガを基にしているようです。トッド・ブラウンニング作品で海外向けのネガが違っているという話は聞いた覚えがなく驚かされました。

ロン・チェイニーの悲哀、メエ・ブッシュの程よい透明感、ハリー・アールの振り切れた二面性など見どころが多く個人的には『フリークス』以上に優れた作品と見ています。また悪漢三人+美悪女一人のルパン三世的フォーメーションは19世紀までの小説や演劇には見られないもので、遡っていくとこの作品(原作小説は1917年)やジョン・フォードの『三惡人』(1926年)に辿りつきます。

[原題]
The Unholy Three

[IMDb]
The Unholy Three

[Movie Walker]


[公開年]
1925年

[メーカー]
仏フィルム・オフィス社

[フォーマット]
9.5ミリ 白黒無声 120メートル×4巻 ノッチ無し

1925 – 『國定忠治』 (東亜キネマ、マキノ省三監督) 絵葉書3点 澤田正二郎主演

Kunisada Chûji (1925, Tôa Kinema, dir/Makino Shôzô) 1925 Promotional Postcards

澤田正二郎氏が等持院にて映畫製作の風評あれど、次號にて詳報す。

「撮影所通信:東亞等持院通信」
(キネマ旬報第178号 大正14年11月21日付)

澤田正二郎氏一派の映畫製作は愈々實現される事となり、第壹回作品は「國定忠治」と決し十一月廿七日より等持院撮影所に於て牧野省三氏總指揮の下に撮影を開始した。監督は金森万象氏二川文太郎氏仁科熊彦氏の三氏が擔當し、撮影は宮崎安吉氏持田米彦氏が擔當した。尚第弐回作品には菊池寛氏の「恩讐の彼方」と内定し本年度中に完成する豫定である。さらに來年度には中里介山氏の「大菩薩峠」を映畫化する計畫もある由である。

「撮影所通信:東亞等持院通信」
(キネマ旬報第179号 1924年12月1日付)

大正14年(1925年)1月に公開された『國定忠治』の宣材絵葉書3点。

1枚目は旅姿の忠治(澤田正二郎)を斜め前から捉えた立ち姿。8ミリ版フィルム外箱の写真と似た構図ながらスチル写真のため表情や姿勢に異同が見られます。

2枚目は8ミリ版に対応する場面のなかった一枚。右の女優さんは「夙に澤田正二郎の教を受け、現在新国劇中唯一の女優。小柄なれども持味のゆたかな人」(『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』1931年1月 冨士新年號附録)と評された久松喜代子さんではないか、と。映画では忠治の子分・長五郎の妻役を演じています。

最後の一枚は忠治(左)が山形屋に乗りこんでいってだまされた百姓の金を奪い返す場面からの一コマでした。

今回キネマ旬報を読み直していて気がついたのですが、同誌の記事や広告だと牧野省三氏はあくまでも「製作総指揮」の位置づけで、監督としては金森万象、二川文太郎、仁科熊彦の三名の名が挙がっていました(JMDbではいずれも助監督扱い)。

1925 – スーパー8 『国定忠治』(澤田正二郎主演、マキノ省三監督)

「8ミリ 劇映画」より

1925 - 国定忠治(スーパ8)

Kunisada Chûji (1925, Tôa Kinema, dir/Makino Shôzô) Early 1970s Sungraph Super8 Print

映畫劇ではない。澤正一派が舞臺では十八番の「國定忠次」をその儘撮影したに過ぎない映畫である。然し澤田正二郎氏の忠次は立派に成功して居る。舞臺で聞く彼獨特の沈痛な臺詞こそ聞かれないが、彼一流の力強い演技は映畫に於ても充分味へられた。舞臺から映畫に移つた俳優の誰よりも巧い事は確かである。決して映畫俳優の演技ではない彼の演技が見る者に何の不自然さも感じさせず思はず拍手を惜しませぬ、彼の力強い演技には全く敬服した。その型の好き敏捷な動作は舞臺同様觀客を唸らせずに置かない。牧野省三氏の監督は映畫劇としては成功して居ないけれど澤正を活かした事は成功して居るそして舞臺俳優を使つて短日時の内にこれ丈のものを作り上げる事は恐らく氏以外にはあるまいと思はせた。老練と云ふ言葉が滿ちている監督振りである。俳優は澤正以外全くゼロで澤正ピカ一である事は止むを得ない。場面では山形屋の痛快さで唸らせ最後の落入りで十分泣かせて居る。

「主要映画批評:國定忠次」
(山本綠葉『キネマ旬報』183号 大正14年1月21日付)

関東一帯の不作と、悪政に苦しむ百姓を見かねた上州長脇差・国定忠治は悪代官を血祭に上げ、一党三百名と共に、関八州の捕手を向うに廻して赤城の山に立てこもった。しかし川田屋惣次などの情義により赤城の山を降りることにした。

「赤城の山も今宵が限り、生れ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨て、可愛いい子分の手前等とも別れ別れになる門出だ。加賀の国の住人・小松五郎義兼が鍛えし技物、万年田、溜の雪水に清めて、俺には生涯手前という強え味方があったのだ」……忠治は一人旅に出る。

その道中、通りがかった権堂の宿場外れで、百姓喜衛門の難儀を知り、事情を聞いて山形屋に乗りこみ、だまし取られた金を取り戻してやる。

忠治に恥ずかしめられた山形屋は、子分と共に小松原に待ち伏せ、闇討ちせんと企てたが、白刃一閃二閃忠次に切り倒される。 忠治は再び旅へ…

今回宣材の絵葉書紹介にあわせてスキャンをし直しました。強いコントラストのプリントで白飛びが目立つものの解像度が若干改善されました。

[原題]
国定忠治

[公開年]
1925年

[JMDb]
国定忠次

[IMDb]
Kunisada Chûji

[フォーマット]
スーパー8 白黒無声 55メートル 約10分(18コマ/秒)

1928 – スーパー8『坂本龍馬・前編』(枝正義郎監督、阪妻プロ)マツダ映画社版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Matsuda Film Productions Super8 Print

マツダ映画社が戦後、無声映画鑑賞会の会員向けに限定で販売していた『坂本龍馬』8ミリ版。前後編100メートルずつの構成で上映時間はトータル34分。今回入手したのは前編のみで後編用ケースに収められていました。ビネガーシンドロームが進み始めた状態だったため実写はせず一部のスキャンのみ行いました。

『坂本龍馬』に関しては以前に戦前1930年代の伴野9.5ミリ版を紹介しております。比較のため対応場面を並べていきます。

顔の細やかな陰影、衣類のひだなど8ミリ版は細部が潰れてしまっています。それでも決して悪いプリントではありませんよね。一方の9.5ミリ版は上と右のトリミング幅が大きく人物の頭が見切れてしまっています。パーフォレーション(フィルム送り用の穴)が人物の頭にかかってしまっているため映写時に構図が崩れてしまうのです。構図に関してはマツダ映画社版がオリジナルに忠実という結果になりました。

2年前にフラットベッドスキャナーで取り込んだ画像データ。上部中央の穴(パーフォレーション)が頭にかかってしまっています

画質以上の大きな違いは編集方針です。

8ミリ版は「つなぎ」の場面を多く含んでいます。薩長土の連合に向けた打ちあわせのため、龍馬が寺田屋から駕籠で薩摩藩邸に向かうところで見回り中の新選組がその姿を認め情報収集を行います。この場面は8ミリ版のみ収録。

また寺田屋襲撃の場面でも龍馬が一旦はお龍(森静子)を逃してから新選組との死闘に向かいます。その後寺田屋2階の窓から脱出し、なんとか川辺に辿りついたところをお龍らの乗った小舟によって救われる…という展開です。9.5ミリ版では最初のお龍を逃す場面が欠けています。そのためお龍たちが唐突にどこからともなく助けにやってくるやや不自然な流れになっていました。

9.5ミリ版は細かなつなぎの場面を省略する代わりに、藩邸での龍馬の弁舌や寺田屋での立ち回りを長く収録。

どちらが良いという単純な問題ではないのですが、すでにスクリーンで作品を見ていて流れを知っている視聴者にとっては名場面を長く収めた9.5ミリ版の方が見ごたえがあるのかなと思います。一方の8ミリ版は全体の流れが分かりやすく初見に優しい構成となっていました。

気になったのは龍馬が後藤象二郎に大政奉還の建白書提出を持ちかける場面。

流れ的に同じ場面なのですが8ミリ版では龍馬を単体で捉えているのに対し、9.5ミリ版では後藤象二郎の肩越しに龍馬を捉える構図になっています。どちらも元の35ミリネガに含まれていてマツダ版と伴野版では選んだ場面が異なっていたのかもしれません。そうでないとすると別テイクに差し替えられていた可能性が出てきます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
スーパー8 白黒 100メートル 光学録音

1928 – 9.5mm『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)戦前伴野版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Banno Co., Early 1930s 9.5mm Print

枝正義郎氏を監督に迎えた最初期の龍馬映画9.5ミリ縮約版。100メートルリール2巻物。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。

前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

伴野版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5ミリ版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

もう一点重要な指摘として、1928年版『坂本龍馬』は撮影アングルや照明を重要視した映画作りとなっています。

寺田屋立ち回りでのミドルショットでは左側からメインの照明を当てつつ、陰が出すぎないよう右側から補助の光を照射(襟元の影で分かります)。さらに黒い髪が背景と一体化しないよう背後上から光を当て後光のような輪郭を形成しています。これは「ハリウッド式の3点ライティング」を採用した典型的作例です。

殺陣の速度感や迫力は『雄呂血』に軍配があがるものの、あの立ち回りは屋外ロケの自然光下で撮影されたもので光や陰に対する配慮は感じられませんでした。カメラマンとして業界で名を成した枝正義郎氏はコントラストや構図を重視。ハリウッドでは1920年代以降スタジオ撮影の比重が上がるにつれて照明の重要性が増し「ライティングで狙った絵を作る」発想が顕著になってきます。枝正氏はそういった傾向を自作に取り込もうとしているのです。『坂本龍馬』を評価する際もそういった要素を考慮する必要があるだろうと考えられます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5ミリ 白黒無声 100メートル×2巻 ノッチ無

1913 – 『プロテア』(エクレール社、ヴィクトラン・ジャッセ監督) 仏シネマテーク・フランセーズ 2Kデジタル版を見る

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Victorin-Hippolyte Jasset]」より

Protéa (1913, Eclair, dir/Victorin-Hippolyte Jasset)
La Cinémathèque Française 2K Restauration

『ジゴマ』(1911年)で知られるジャッセ監督による犯罪活劇物で、1913年に他界した同監督の遺作となったものです。不完全なフィルムの現存は以前から知られており、1998年に複数のネガ(35mm/16mm)を元に修復版が作成され、2013年に2Kデジタル化が行われました。

デジタル版はシネマテーク・フランセーズの公式サイトで視聴可能。中盤にフィルムの見つかっていない個所があり字幕で補完する形になっています。

物語の大枠としては、欧州の架空の国メッセニア、セルティア、スラヴォニア3国の緊張関係を背景とし、セルティアとスラヴォニア間で秘密裏に締結された条約にメッセニアの外務大臣が危機感を抱きます。指示を受けた同国の警視総監(シャルル・クラウス)は旧知の女スパイ・プロテア(ジョゼット・アンドリオ)に条約の草案奪取を依頼します。

プロテアは収監中である相棒の「ウナギ(アンギーユ)」の釈放を条件に依頼を引き受けます。

ウナギ(アンギーユ)役のリュシアン・バタイユ

ウナギ(アンギーユ)と合流したプロテアはセルティアに向かうのですが同国ではすでに間諜潜入の知らせを受けており、二人の捕縛に乗り出していきます。プロテアとウナギ(アンギーユ)は次々と姿を変えながら条約の草案を盗み出し、お尋ね者の身となりながらメッセニアへの国境に向かっていく…

物語はシンプルながら登場人物が多いためフランス語字幕では関係が見えにくいかもしれません。春江堂から出ていた日本語小説版が内容理解の助けになるかと思います。

『探偵活劇 プロテア』
(1916年、春江堂、筑峰 翻案)

見どころについては実際に見てもらうのが一番だと思います。個人的に指摘しておきたいポイントが2つ。

1点目は冒頭の人物紹介の場面です。『ジゴマ』、『ファントマ』など当時の仏連続活劇では冒頭で主人公が様々な姿に身を変えて変装の達人ぶりを強調しています。『プロテア』も同じ「型」をなぞっているのですがフレームを使用することで絵のように見せています。枠のデザインはアールヌーヴォーの影響を受けており若い頃に画家を志していたジャッセ監督の趣味を強く反映しています。

プロテアの相棒「ウナギ(アンギーユ)」の紹介では枠そのものにウナギのデザインを採用。やはりアールヌーヴォー期の日本趣味、東洋趣味にインスパイアされた発想です。1:1.33の画面を使って何をどう見せるか、卓越した構図力がジャッセの強みだった訳で『プロテア』では冒頭からそのセンスを発揮しているといえます。

もう1点は作品中盤、プロテアと相棒が機密書類を盗みに入る場面。この時に二人がまとっていたタイトな黒装束は後にフイヤード監督作『レ・ヴァンピール』(1915年)のミュジドラ、さらに同作へのオマージュである『イルマ・ヴェップ』(1996年)のマギー・チャンに受け継がれていくものです。

『レ・ヴァンピール』(1915年)でのミュジドラ

『イルマ・ヴェップ』(1996年)でのマギー・チャン

暗闇に乗じて暗躍する悪党団の不気味さ、身体のラインを強調したフェティッシュなエロスを混在させる想像力はフランス連続活劇特有のもので、ハリウッド物との差別化を図る重要な要素となっていました。

[原題]
Protéa

[公開年]
1913

[IMDB]
Protéa

1917年頃 仏エクレール社 業務用貸出フィルムカタログ

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Victorin-Hippolyte Jasset]」より

c1917 « Extrait du catalogue des films en location » (Union/Films Eclair)

『ジゴマ』や『プロテア』で成功を収めた仏エクレール社が業務用(個人ではなく映画館向け)に配布していたカタログ。サイズは縦21.0×横13.5センチ。計20ページで、メモ用の罫線が引かれた最後の2ぺージ以外の18ページが作品目録に割かれています。

表紙には社名、タイトル、所在地、電報番号、電話番号が記載されており、開くとすぐにカタログが始まります。「劇映画」として199作、「喜劇」124作、「お笑いと舞台芸」100作、「ドキュメンタリー」108作の4つのカテゴリーに分けられており、計531本のフィルムがリストアップされていました。

カタログの一番目立つ最初に置かれているのはジャッセ監督による『ジゴマ』第一篇と第二篇。その後も『プロテア』などジャッセ作品を中心としたリストが続き、同監督がエクレール社の花形監督だった様子が伝わってきます。

ちなみに『プロテア』に関しては

「プロテア 第1篇 ……… 1,475
 プロテア 第2篇 ……… 1,315
 プロテア 第3篇 ……… 2,031
   -     ……… 1,710
   -     ……… 1,330」

という書き方になっています。これはプロテア第3篇が3話物として公開された状況を受けたものです。

また「劇映画」欄の後半にはシャーロック・ホームズ・シリーズをまとめて掲載。1912年にジョルジュ・トレヴィル監督主演で製作されたもので、数作(「マスグレーヴ家の儀式」「ぶな屋敷」)が現存しています。

続く「喜劇」の項目では、同一主人公によるシリーズ物が多く紹介されていました。「ウィリー少年物」が一番本数が多く(23作)、そのあとにゴントラン連作、ガブロッシュ連作、カジミール連作…と続いていきます。

作品の公開時期に目をやると1917年9月に公開された『プロテア』第4篇は載っていないのに対し、それ以前に製作・公開された『プロテア』第1〜3篇が掲載されています。その他の作品も1917年春公開の作品まで掲載(1917年5月公開『黒大尉 Le Captaine noir』、1917年4月公開『見えない死 Le Mort invisible』)。1917年半ばに製作・配布されたカタログだと思われます。

1915 -「小供俳優(其二):ウイリー・ランダース君」 (森田淸『キネマ・レコード』誌1915年3月号)

« The Popular Child-players Series »
(Morita Kiyoshi, in « Kinema Record » 1915 March Issue)

ゴーモン在社時代のボビー君が演じたその喜劇シリーズが盛んに輸入された過去二三年は恰も我が活動界は此の少年俳優の無邪氣な喜劇によつて蹂躙されてゐたが間も無く此処に同じ佛國エクレール會社の少年俳優ウイリー君の演じた喜劇のシリーズが現れて來たのであつた。最初少年俳優と云へばボビー君より知らなかつた人は此の新顔のウイリー君を見てなかなか侮り難い巧な藝を持つた小供だと云つてゐた。多くの愛活連中の中にはボビー君とウイリー君との色々な點を比べてやれボビーより顔が悪いの可愛らしくないの等と口憤泡を飛ばして論じてゐた事もあつた。その位であつたからボビー物を見た人は必ずウイリー物も欠かさずに見る位二人の喜劇映畫が流行したのであつたがかなしいかな當今ではウイリー君の喜劇は全く我が國へは輸入されなくなつて時々ボビーがパテーへ入社してからのものが輸入されるのみである。

私の初めてウイリー君の喜劇を見たのは大正元年八月淺草金龍館で映寫した「ウイリーのボート」 »Willy’s sailor suit » 次いで同じく福和館で映寫した「ウイリーの計略」 »Willy’s ruse » 同じく金龍館で映寫した「ウイリーとジゴマ」 »Willy wants to be like Nick Carter » 等の數本であつた。[…]

「小供俳優(其二):ウイリー・ランダース君」
(森田淸『キネマ・レコード』誌1915年3月号)

1915年のキネマ・レコード誌に掲載されていた記事からの一節で、仏エクレール社のウィリー君喜劇について日本語で残された数少ない紹介文。比較対象として何度か名の上がっているボビー君とはルイ・フイヤード監督による「ベベ(Bébé)」連作で、1912~13年頃の日本でこの二つのシリーズが人気を博していた様子が伝わってくる一文です。

EYE映画博物館 ジャン・デスメット・コレクション収蔵の初期エクレール社喜劇短編

『ジャン・デスメットと初期オランダのフィルムトレード』(Ivo Blom著、2003年、アムステルダム大学出版)

『ジャン・デスメットの夢工場:映画フィルム冒険時代 1907-1916』(EYE映画博物館編、2015年、 nai010出版社)

20世紀初頭に映画配給者として活動していたジャン・デスメット(Jean Desmet)氏の35ミリフィルム・コレクションは現在ユネスコの記憶遺産に指定されています。現在フィルムはオランダのEYE映画博物館が管理していて同組織のYouTube公式でデジタル版を見ることが可能です。

コレクションには仏エクレール社の作品も多く含まれています。その中で同社が制作していた喜劇短編を整理してみました。

1:ウィリー少年物

英リヴァプール出身のウィリー君(本名 William Jackson)を主演に据えたジュヴナイル・コメディ。小憎らしい表情を浮かべた少年が様々なシチュエーションでドタバタと笑いを引き起こしていく内容で、ゴーモン社の「ベベ」シリーズ(ルイ・フイヤード監督)と人気を競っていました。

『ウィリー少年と老求婚者』
(Willy et le vieux soupirant、1912) IMDB/YouTube

『管理人の王ウィリー』
(Willy roi des concierges、1912) IMDB/YouTube

2:ゴントラン物

カイゼル髭を生やしたゴントラン君を主人公に据えた連作で、主演はルネ・グレアン(René Gréhan)。他シリーズに比べ攻撃性や破壊力は控えめで、展開にロマッチック・コメディの要素を含んでいます。

『ゴントラン君と麗しき謎の隣人』
(Gontran et la voisine inconnue、1913) YouTube

3:ガヴロッシュ物

破天荒な太眉キャラでエクレール喜劇の中心となっていたのがポール・ベルト(Paul Bertho)でした。初期作品でぽっちゃり系喜劇女優サラ・デュアメルとの共演で息の合った凸凹ぶりを見せています

『ガブロッシュ君の画伯』
(Gavroche peintre célèbre、1912) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の遊園地』
(Gavroche au Luna-Park、1912)IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の傘屋』
(Gavroche vend des parapluies、1913) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の狩猟夢』
(Gavroche rêve de grandes chasses、1912) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の玉の輿』
(Gavroche veut faire un riche mariage、1912) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君とカジミール君の肉体改造』
(Gavroche et casimir s’entrainent、1913) IMDB/YouTube

映画史上に残る作品ではないもののいずれも及第点以上の出来映え。

米語には「忘れられた喜劇俳優(Forgotten Clowns)」の呼び方があって、戦前期の無名の喜劇役者を一括で評価していく動きを見ることができます。ごく一部にコレクターが存在、略歴や作品データをまとめた書籍が公刊されていたりするのです。

実際はそういった動きが始まってすらいない国の方が多いわけで初期エクレール喜劇についても正当な評価にはまだ時間がかかりそうです。それにしても、かつて無声映画祭の特別企画でしか見ることのできなかった作品が当たり前のようにYouTubeで公開されている状況は驚くべきものがあります。

キャスリーン・クリフォード Kathleen Clifford (1887 – 1962) 米

Kathleen Clifford Late 1910s Inscribed Photo

男装のヴォードヴィル芸人として、キャスリーン・クリフォードは山高帽、燕尾服に方眼鏡姿で登場していた。垢ぬけたファッション感覚で「町一番の伊達男」の異名を受けることとなつた。

「昔活躍していた男装芸人キャスリーン・クリフォードが
シャーロッツヴィル出身だった件について」
シャーロッツヴィル・コム

As a male impersonator doing vaudeville, Clifford wore a top hat, coattails and a monocle. Her smart fashion sense earned her the nickname “the Smartest Chap in Town.”

« Early male impersonator Kathleen Clifford had Charlottesville origins »
C-Ville.com

1910年代から30年代にかけ、米舞台で「男装の麗人」として人気を博していたのがキャスリーン・クリフォードでした。燕尾服に山高帽姿で歌や踊りを披露、衣服を自前で作り楽曲も自身で手掛けるなどマルチな才能の持ち主だったそうです。

1917年11月17日付「ムービング・ピクチャー・ワールド」誌より『ナムバーワン』広告

遺憾で堪らなかつたのは、後に殘されたエミー孃であつた。
『私も一緒に行き度いな。』
と何度いつても、とうとう許されなかつた。
一行を見送つて、すごすごと室に這入つたエミー孃、自分の室には行かず、エーリー君の室にと這入つた。
『そうだ私は女だから行けないんだ、男でさえあれば、何處までも一緒に行けるんだ。』
と獨り言し乍ら、手早く自分の着物をぬぎすて、エーリー君の服を着て、忽ち男となり濟ました。
一寸姿見の前に現はれて、
『オゝ是で立派な男になつた。
是なれば何處までも御伴が出來るんだ。』
といつてニツコと笑つて、スタスタと二階から駈け下りて往来にと出た。

探偵大活劇『ナムバァワン』
(浦峰雪訳、春江堂書店、「大活劇文庫」、1919年)

1917年、パラマウント社による初の連続活劇『ナムバァワン』で主人公に抜擢されます。同作ではヒロインによる男装場面が含まれていて彼女の資質や知名度を生かしたものだったようです。舞台活動をメインとしていたため映画出演は断続的となりましたが、そのうちの一つダグラス・フェアバンクス主演作の『暗雲動く時(When the Clouds Roll By)』が現存しています。

1919年『暗雲動く時』(When the Clouds Roll By)より

[IMDb]
Kathleen Clifford

[Movie Walker]
キャスリーン・クリフォード

[出身地]
合衆国(ヴァージニア州)

[生年月日]
2月16日

ノーマ・タルマッジ Norma Talmadge (1894 – 1957) 米

Norma Talmadge c1920 Autographed Postcard

ノーマ・タルマッヂ孃は、一千八百九十七年、米國ニュー・ジャーセー州のニュウワークに生れたとも言ひ又紐育州のナイアガラ瀑布に近い同名の町に生れたとも云ふ。[…]

十四歳の時、好機會は遂ひに來た。孃は何等の舞臺經驗も無しに映畫に現はれる事となつた。臨時雇としてゞはあつたが、初めから可成勝れた藝を見せた。それで兩親も漸く納得するやうになつた。

嬢が正式に花形として立つに至つたのは、それから暫くの後で、ヴァイタグラフ會社に居る時であつた(「戰争?滅亡?」」)、その頃嬢はブルー・リボン映畫に現はれて人氣を博してゐた。同社を退くとトライアングル會社に移つてファイン・アーツ映畫に出演した。今年の春、三友館に上場された「疑問の釦」は同社の作品で、妹のコンスタンス孃と共演したものである。同社からセルツニック會社に移つて「パンテア」(電氣館上場)その他を作り、程經て今度はセレクト會社に移つて、其處に暫く勤めてゐた。而して、昨年、ファースト・ナショナル會社の新設と共に、同社に移つて、目下は其處に勤めてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


ノーマ・タルマッヂ孃はナイアガラ・フォールスで生まれブルックリンの小學校、エラスムス高校で教育を受けた。映畫に携わるやうになつたのは14歳の時であるがそれ以前舞臺の經驗はなく、まずはヴァイタグラフ會社作に出演、当初は同社の専属劇団の一員としてであつた。今やタルマッヂ孃は自身の製作會社を有しており、嬢の主演となる新たな特作はファースト・ナショナル會社を通じて配給されてゐる。現在感情表現に最も秀でた女優と目されており、輕喜劇でも複雑な性格設定の役でも等しく其の力量を發揮する。あらゆる映畫ジャンルに卓越した才を見せることから「万藝の女王」の綽名を広く轟かせてゐる。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Norma Talmadge was born in Niagara Falls and educated in the Brooklyn elementary schools and Erasmus High School. She entered pictures at the age of fourteen, with no previous stage experience, going first for the Vitagraph Studio as a member of its old stock company. Miss Talmadge now has her own Company, with her new special feature attractions, released through Associated First National Pictures, Inc. She is considered one of the foremost emotional actresses of the day, and is equally capable in light comedy and character roles. Because of her ability to excel in every branch of screen art, she has been universally nick-named “The Queen of Versatility.”

« Who’s Who On The Screen » (1920)

タルマッジ三姉妹(左よりナタリー、ノーマ、コンスタンス) 『銀幕名鑑』( »Who’s Who On The Screen », 1920年)

タルマッジ姉妹の長女ノーマの直筆サイン入り絵葉書。元々長女のノーマがヴァイタグラフ~トライアングル社の花形となり、その人気にあやかって妹コンスタンスとナタリーも女優デビュー、1919~20年にかけてはリリアン&ドロシ-のギッシュ姉妹以上の知名度と人気を博していました。

« Going Straight »、トライアングル社、1916年

« The Devil’s Needle »、ファインアーツ社/トライアングル社、1916年

1920年代の出演作では『復讐の灰』(Ashes of Vengeance、1923年)や『お転婆キキー』(Kiki, 1926年)等が現存しています。一般的にはこの時期の長編作品が代表作とされるのですが正直1910年代短編の方が圧倒的に面白いです。

[IMDb]
Norma Talmadge

[Movie Walker]
ノーマ・タルマッジ

[出身地]
合衆国(ニューヨーク州)

[生年月日]
5月2日

ロー・ホール Loo Holl と『武士道』(東亜キネマ、1926年、H・K・ハイラント&賀古残夢)

Loo Holl c1920 Autographed Postcard

日本とドイツが共同制作し、1926年に公開された映画「武士道」のフィルムがロシアで見つかり、9月の第4回京都映画祭で特別上映されることになった。日本で最初の本格的な国際合作映画とみられる。

日本最初の国際合作を発見/1926年映画「武士道」
四国新聞 2004年8月11日付

2004年、邦画史上初めての国際合作作品となる『武士道』(1925年)が発見され、京都映画祭で上映されることになったというニュースが報じられました。東京国立近代美術館フィルムセンター(当時)研究員の常石史子氏を中心として1996~2004年に行われたロシア・ゴスフィルモフォンドの調査および収蔵作業(NFCニューズレター 2005年6-7月 第61号PDF)による成果のひとつです

日本側では東亜キネマが制作の中心となり、賀古残夢監督が現場を回す形で作業が進められていきました。出演は明石潮と岡島艶子。本作で「日本」がどう描かれていたかについては立命館大学のアート・リサーチセンターのサイトに報告がありますので興味のある方はご参照ください。

ドイツでは邦題をそのままアルファベット表記した「Bushido」として公開されました。

専門誌の様々な記事で伝えられているように、ハインツ・カール・ハイラント氏は日本で時代劇映画を作り上げた。日本の映画会社東亜キネマが共同で製作に当たった。監督は賀古残夢氏。主演はロー・ホール、カール・W・テティング、岡島艶子、明石潮の四氏。現時点でドイツ版が公開中。

独キネマトグラフ誌 1926年3月 第994号

Wie durch verschiedene Artikel in den Fachzeitungen bekannt geworden ist, fertigte Heinz Karl Heiland in Japan einen historischen Film an, und zwar mit Unterstützung der Toa Cinema Co., eines japanischen Fiimkonzerns. Die Regie führte Zanmu Kako. die Hauptrollen sind besetzt mit Loo Holl, Carl W. Tetting, Tsuyako Okazima und Ushio Akashi. Die deutsche Bearbeitung liegt nunmehr vor.

« Einsendungen aus der Industrie »
Der Kinematograph, Nr. 994 (1926 March Issue)


独キネマトグラフ誌1927年5月1056号に
掲載された粗筋紹介ページ(右半分)

共同監督として名を連ねているハインツ・カール・ハイラント(Heinz Carl Heiland)は元々旅行家兼エッセイストで、第一次大戦前に映画監督として業界に参加してからも異国情緒を重視した設定を得意としていました。戦後、自身の名を関した制作会社を立ち上げ、女優ロー・ホール(Loo Holl)をヒロインに据えた作品を多く発表していきます。

ロー・ホールは『武士道』と同時期に日本で撮影された『白い藝者』(ドイツ=デンマーク合作、1926年公開)でも主演エヴァ役を担当。日本を訪れたドイツ人技師が芸者と恋に落ちて…の展開は蝶々夫人に影響を受けた感じでしょうか。初期邦画に縁のあった女優さんのサイン絵葉書を日本にお迎えできるのは光栄です。

リリー・ヤコブソン (Lilly Jacobsson/Jacobson 1893–1979) スウェーデン

Lilly Jacobsson c1920 Autographed Postcard

スウェーデン出身、1911年にスヴェンスカ・ビオグラフテアーテン社短編映画の端役で女優デビュー。その後デンマークのノルディクス社に籍を移し、1910年代後半の北欧映画を代表する花形となりました。目鼻立ちのくっきりした北欧美人で当時の人気も納得ながらお人形さんの扱いに辟易し1910年代末に結婚と共に女優業引退を表明。

それを惜しいと思ったのが共演の経験もあるアスタ・ニールセンでした。自身が制作の中心となった大作『女ハムレット』(1921年)のオーフィリア役をオファーします。ハムレットへの淡い恋心が混乱に、狂気に変わり、自死で果てていく難しい役柄を見事にこなしました。

『マハラジャ最愛の妻』(Maharadjahens yndlingshustru 、1917年)より

『國民の友』(Folkets ven、1918年)より(右)

Lilly Jacobson & Gunnar Tolnaes in Himmelskibet (1918)

『エクセルシオール号/火星への旅』(Himmelskibet、1918年)でのヤコブソンとトルナエス

Lilly Jacobson in Hamlet (1921)

『女ハムレット』(Hamlet、1921年)より

今回入手したのは『マハラジャ最愛の妻』(1917年)のスチルをあしらった絵葉書。「リリー・ヤコブソン・エドワーズ (Lilly Jacobsson Edwards)」とサインしているため1919年にコーベット・エドワーズ氏と結婚した後のサインになると思われます。

[IMDb]
Lilly Jacobson

[Movie Walker]
リリー・ヤコブソン

[出身地]
スウェーデン(ヨーテボリ)

[生年月日]
6月8日

1933 – 9.5mm 『嵐の孤児』(パテ・ナタン社、モーリス・トゥールヌール監督) 英パテスコープ社無声版

Orphans of The Storm (« Les deux orphelines », 1933, Pathé-Nathan, dir/Maurice Tourneur) UK Pathescope 9.5mm Print

戦前フランスを代表する監督の一人、トゥールヌールによる『嵐の孤児』(1933年)の9.5ミリ版。元々トーキーとして公開されたものですがこちらは英語字幕埋めこみ版となっています。プリント状態が悪く全体に傷が目立ちます、ご了承ください。

『嵐の孤児』は革命期のフランスで生き別れとなった姉妹の運命を描いたメロドラマで、映画化作品としては1921年の無声版(グリフィス監督、リリアン&ドロシー・ギッシュ主演)がよく知られています。元々1870年代に戯曲として書かれた作品が後年小説化されたもの。グリフィス版は小説を下敷きとしつつ独自要素を多く加えていて、後半はほとんどオリジナルの展開となっていました。

ルネ・サンシール
(Renée Saint-Cyr as Henriette)

トゥールヌール版で姉アンリエットを演じたのはルネ・サンシール。戦後まで長く活躍された女優さんで、個人的にも晩年に出演した喜劇作の芸達者ぶりで記憶によく残っています。『嵐の孤児』は彼女の映画初主演作で、全盛期のダニエル・ダリューに肉薄する演技を見せています。

ジャン・フランセイとレジーヌ・ドレアン
(Jean Francey as Pierre & Rosine Deréan as Louise)

盲いた妹ルイーズを演じたのはロジーヌ・ドレアン。サッシャ・ギトリやマルク・アレグレ監督の戦前作品で活躍、化粧の仕方もあってルネ・サンシールと並ぶとリアルな姉妹感があります。

トーキー定着で俳優の入れ替えが進んでいた時期に新進女優のキャスティングに成功した一作ながら見どころは他にもあります。『嵐の孤児』には市中で拉致してきた盲目の少女(ロジーヌ・ドレアン)を物乞いにして日銭を稼がせる「貧困ビジネス」物語が含まれていました。元締めのラ・フロシャールという中年女性が登場するのですが、トゥルヌール版『嵐の孤児』ではこの女性のインパクトが姉妹の可憐さを上回っています。

イヴェット・ギルベール
(Yvette Guilbert as La Frochard)

強欲で憎々しいラ・フロシャールを演じたのはイヴェット・ギルベール。ムルナウの『ファウスト』でも存在感を見せていた戦前フランス演芸界の大物、彼女の映画女優キャリアでベストの演技になるだろうと思われます。他にも脇役で無声映画時代からのベテラン(カミーユ・ベール、ガブリエル・ガボリオ、エミー・リン)が多く出演しており演技の質全体を底上げしています。

1933年はフランスでも不況の影響が如実に表れてきた時期でした。トゥルヌール版『嵐の孤児』は小規模予算で製作されており、セットや衣装の華やかさではグリフィス版に相当見劣りします。一方で装飾がないために演技や照明・構図の重要性が否応なく増すという話でもあって、トゥルヌールの卓越したセンスが(後年のより大掛かりな作品以上に)伝わってきやすい一作になっています。

[タイトル]
Orphans of The Storm

[原題]
Les deux orphelines

[公開年]
1933

[IMDB]
Les deux orphelines

[Movie Walker]


[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB 30165

[9.5mm発売]
1935年11月

[フォーマット]
9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無 英語字幕

1957 – 9.5mm 『太平洋の怪獣ゴジラ』(『ゴジラ』仏編集版、東宝他) 1960年頃 仏フィルム・オフィス版

Godzilla (« Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique », Toho)
c1960 French Film Office 9.5mm Print

『ゴジラ』の日本初公開(1954年)から2年後の1956年、追加撮影された場面を加え設定を変更した編集版『怪獣王ゴジラ(Godzilla, King of the Monsters! )』がアメリカで公開されています。オリジナル版『ゴジラ』を英語字幕付きで正式に観ることができるようになったのは2000年代になってからで、それまでの欧米ではUS編集版を元にゴジラの受容・理解が進んでいったとされています。

実際には欧州でも国によってプリントの異同がありました。西ドイツでUS版は採用されず東宝オリジナル版を独自編集した版が公開されていました。フランスではUS版を再編集し完全吹き替え版とした『太平洋の怪獣ゴジラ(Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique)』が1957年にリリースされています。

今回紹介するのはこの『太平洋の怪獣ゴジラ』をベースにした9.5ミリ版です。仏フィルム・オフィス社が1958~62年頃に発売したもので100mリール4本構成、実写時の上映時間は50分程。音声は含まれておらず会話や説明が仏語字幕で画面に埋めこまれた形になっています。

US版は1)米国の観客が感情移入しやすくするため”語り部”となる米国人リポーター(レイモンド・バー)を導入し、2)当時の米国世論にそぐわない反核の要素を削除する、という二つの方針を軸に編集されたものでした。仏版ではこの版をベースとしつつも米国人記者の要素を減らし、時系列上の展開をオリジナルに近い形に戻そうとする傾向が見られます。

仏9.5ミリ版は大戸島の浜辺で物語が始まります。不漁が続き「呪いだ」「呉爾羅(ゴジラ)の仕業だ」と島民たちが噂しあうなか、ある夜民家が謎の理由で押しつぶされる災害が発生。国会で原因を調査する委員会が組織され、その会議の報告を傍聴する席に米国特派員スティーブ・マーティン(レイモンド・バー)の姿がありました。

古生物学者・山根(志村喬)の提言を受け調査団が派遣され、マーティンも同行します。放射能による汚染が確認され人々の警戒心が募る中、突如鳴り響いた半鐘。尾根の先に顔をもたげた怪獣が彷徨を轟かせ一帯はパニックに。

山根博士は撮影した写真を持ち帰り国会で怪獣の発生を報告、地元の伝承にちなみゴジラと名付けます。国会は自衛隊を派遣しゴジラ攻撃に乗り出していきます。一方山根博士の娘・恵美子(河内桃子)はかつての婚約者・芹沢(平田昭彦)から秘密裏に実験していた研究の話を聞かされます。

自衛隊による攻撃は失敗しゴジラは東京湾から上陸。品川駅を破壊し辺り一帯を焦土と化していきます。

非常警報発令。取材を行っていた建物が倒壊し逃げ遅れたマーティンは大怪我を負います。万策尽きたかと思える中、被害に心を痛めた恵美子は約束を破って芹沢の秘密を明かし首都を救おうするのでした…

仏フィルム・オフィス版は元となったUSプリントの影響もあって原水爆の言及は一切ありません。人間関係もできるかぎり省略されていて恵美子と萩原(宝田明)の恋模様、ゴジラに対する考え方の対立、市井の人々の反応といった要素は見えなくなっています。またUS版で主役だった米国記者マーティンは被災者の一人として扱われていました。

オリジナルの完成度と比べダウンスケール感は否めないものの約50分の短い尺でゴジラそのものインパクトを伝えたい意図は伝わってきます。1950年代にオリジナル版を直輸出しても理解されにくい部分が多かったでしょうし、ワンクッション置いて広く認知してもらう戦略はあながち間違いではなかったと思います。

ちなみに9.5ミリ形式フィルムは1920代半ばから70年代半ばまで約半世紀の歴史があるのですが、欧米圏(英仏米独)で9.5ミリ化された日本の長編映画は後にも先にもこの『ゴジラ』一作だけです。

[参照リンク]
Toho Kingdom [英語] … 東宝作品に関する情報交換掲示板でイタリア語版や仏語版についての情報・画像あり
Schnittberichte [ドイツ語] … 独版と東宝オリジナル版の比較検証
Cinemore: 『ゴジラ』 原点にして異彩を放つ第一作目【川原瑞丸のCINEMONOLOGUE Vol.57】 [日本語] … 海外版への言及がある訳ではないのですが要を得ていて面白かったです。


[タイトル]
Godzilla

[原題]
Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique

[公開年]
1957

[IMDB]
Godzilla

[メーカー]
仏フィルム・オフィス社

[フォーマット] 9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無

1930 – 『映画百面鑑』(権田保之助編訳註、独和対訳小品文庫 第4冊、友朋堂)

Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute (German-Japanese Bilingual Edition, Translated by Gonda Yasunosuke, Yuho-sha, 1930)

大正期のドイツ語学者で辞典・文法書の編纂で知られる権田保之助(1887-1951)氏が「独和対訳小品文庫」というコレクションで公刊していた翻訳書。権田氏には社会学者、大衆娯楽研究家の側面もあって活動写真論(『活動写真の原理及応用』『映画説明の進化と説明芸術の誕生』)も残しています。

先例となったのは有朋堂が第一次大戦前に展開していた対訳形式の「独逸文学叢書」で、当時まだ新進言語学者だった権田氏も訳者に名を連ねていました。大戦後に権田氏自身が中心となって新たな対訳コレクションを立ち上げ『童話』、『独逸新聞研究』、『アルセーヌ・ルパンの冒険』に次ぐ第4番として出版されたのが『映画百面鑑』。偶数ページに日本語訳と慣用句・文法・語源の説明、奇数ページにドイツ語の原文が置かれています。

ページを開くとヨーエ・マイによる「映画監督」、エミール・ヤニングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」…日本でも知られた名前が続きます。

私が-僭越(arrogant)ではないが- 決して独逸映畫を作つてゐるのでも、又決して米國映畫を作つてゐるのでもなくして、ルビッチ映畫を作つてゐるからであり、私が常住(jedesmal)、人間的なモティーヴを(ein menschliches Motiv)、有效な修飾の中に装はせて(eingekeidet)、人間的に扮せしめやうと(zu gestalten)試みて來たからであり、又、私が、私の心の中の(in meinem Sinn)愛と憎しみ、惱みと怒を、言語の境界や政治的區分とは超越して(unabhängig von…)、遍く人々が了解するやうに、明瞭にする(zu verdeutlichen)技能があつた俳優に、信頼し得たからである。

「映画国際性」
エルンスト・ルビッチ

[…] weil ich -ohne arrogant zu sein- keine deutschen oder amerikanischen Filme mache, sondern Lubitsch-Bilder, weil ich jedesmal versucht habe, ein menschliches Motiv, eingekleidet in wirksame Dekorationen, menschlich zu gestalten, weil ich mich auf Darsteller stützen konnte, die befäfigt waren, Lieben und Hassen, Leidenschaft und Zorn in meinem Sinn so zu verdeutlichen, daß man es überall versteht, unabhängig von Sprachgrenzen und politscher Einteilung.

Film-Internationalität
Ernst Lubitsch

[これらの作品が成功を収めた]理由は(偉そうな御託を垂れる気はないのですが)まず私がドイツ映画を作っている訳でもアメリカ映画を作っている訳でもなくルビッチ映画を作っているからで、また主題として人を選び、主題を上手く生かす飾りつけを与えて人のぬくもりを感じられる話にしようと各作品で試みてきたからであり、さらにまた信頼できる俳優たちに恵まれたからでもあって、彼等/彼女等は私の考えている意味での喜怒哀楽を分かりやすく表現する力量があり、言葉や政治の壁を越えて誰もが理解できる風になっているのです。

私訳

ルビッチのこの論考は良く知られており、英語訳[1]もあってルビッチ論や初期ドイツ映画論で目にする機会の多いものです。

引用したのはアメリカとドイツどちらでも成功を収めた理由について私見を述べている部分。英語の「なぜなら(because/for)」に相当する接続詞「weil」を3度用いて3つの理由を挙げているのですが、ローカルな発想や方法に拘泥せず普遍的な表現を目指していく考え方が強調されています。海外市場を狙って、という話ではなく「良い映画作品であれば国内外の評価は自ずからついてくる(Jeder gute Film ist von Haus aus international)」の信念があればこその議論です。

底本は1924年に出版された「Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute(ドイツ映画本:昨今の映画をめぐる諸問題)」。独キネマトグラフ誌の編集長だったアルフレート・ローゼンタール氏が編集総責任者となり、映画監督、俳優、大学研究者による15本の各論をまとめたものです。

キネマトグラフ誌(1923年12月879/880合併号)に掲載された出版告知

[1] The Promise of Cinema: German Film Theory, 1907–1933, Anton Kaes, Nicholas Baer and Michael Cowan (Ed.) 1996, University of California Press, 978-0-52021-908-3

[出版者]
友朋堂

[出版年] 昭和5年

[原題]
Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute

[編集者]
Heinrich Pfeiffer

[元作品出版者]
Verlag August Scherl G.M.B.H.