1930 – 『映画百面鑑』(権田保之助編訳註、独和対訳小品文庫 第4冊、友朋堂)

Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute (German-Japanese Bilingual Edition, Translated by Gonda Yasunosuke, Yuho-sha, 1930)

大正期のドイツ語学者で辞典・文法書の編纂で知られる権田保之助(1887-1951)氏が「独和対訳小品文庫」というコレクションで公刊していた翻訳書。権田氏には社会学者、大衆娯楽研究家の側面もあって活動写真論(『活動写真の原理及応用』『映画説明の進化と説明芸術の誕生』)も残しています。

先例となったのは有朋堂が第一次大戦前に展開していた対訳形式の「独逸文学叢書」で、当時まだ新進言語学者だった権田氏も訳者に名を連ねていました。大戦後に権田氏自身が中心となって新たな対訳コレクションを立ち上げ『童話』、『独逸新聞研究』、『アルセーヌ・ルパンの冒険』に次ぐ第4番として出版されたのが『映画百面鑑』。偶数ページに日本語訳と慣用句・文法・語源の説明、奇数ページにドイツ語の原文が置かれています。

ページを開くとヨーエ・マイによる「映画監督」、エミール・ヤニングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」…日本でも知られた名前が続きます。

私が-僭越(arrogant)ではないが- 決して独逸映畫を作つてゐるのでも、又決して米國映畫を作つてゐるのでもなくして、ルビッチ映畫を作つてゐるからであり、私が常住(jedesmal)、人間的なモティーヴを(ein menschliches Motiv)、有效な修飾の中に装はせて(eingekeidet)、人間的に扮せしめやうと(zu gestalten)試みて來たからであり、又、私が、私の心の中の(in meinem Sinn)愛と憎しみ、惱みと怒を、言語の境界や政治的區分とは超越して(unabhängig von…)、遍く人々が了解するやうに、明瞭にする(zu verdeutlichen)技能があつた俳優に、信頼し得たからである。

「映画国際性」
エルンスト・ルビッチ

[…] weil ich -ohne arrogant zu sein- keine deutschen oder amerikanischen Filme mache, sondern Lubitsch-Bilder, weil ich jedesmal versucht habe, ein menschliches Motiv, eingekleidet in wirksame Dekorationen, menschlich zu gestalten, weil ich mich auf Darsteller stützen konnte, die befäfigt waren, Lieben und Hassen, Leidenschaft und Zorn in meinem Sinn so zu verdeutlichen, daß man es überall versteht, unabhängig von Sprachgrenzen und politscher Einteilung.

Film-Internationalität
Ernst Lubitsch

[これらの作品が成功を収めた]理由は(偉そうな御託を垂れる気はないのですが)まず私がドイツ映画を作っている訳でもアメリカ映画を作っている訳でもなくルビッチ映画を作っているからで、また主題として人を選び、主題を上手く生かす飾りつけを与えて人のぬくもりを感じられる話にしようと各作品で試みてきたからであり、さらにまた信頼できる俳優たちに恵まれたからでもあって、彼等/彼女等は私の考えている意味での喜怒哀楽を分かりやすく表現する力量があり、言葉や政治の壁を越えて誰もが理解できる風になっているのです。

私訳

ルビッチのこの論考は良く知られており、英語訳[1]もあってルビッチ論や初期ドイツ映画論で目にする機会の多いものです。

引用したのはアメリカとドイツどちらでも成功を収めた理由について私見を述べている部分。英語の「なぜなら(because/for)」に相当する接続詞「weil」を3度用いて3つの理由を挙げているのですが、ローカルな発想や方法に拘泥せず普遍的な表現を目指していく考え方が強調されています。海外市場を狙って、という話ではなく「良い映画作品であれば国内外の評価は自ずからついてくる(Jeder gute Film ist von Haus aus international)」の信念があればこその議論です。

底本は1924年に出版された「Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute(ドイツ映画本:昨今の映画をめぐる諸問題)」。独キネマトグラフ誌の編集長だったアルフレート・ローゼンタール氏が編集総責任者となり、映画監督、俳優、大学研究者による15本の各論をまとめたものです。

キネマトグラフ誌(1923年12月879/880合併号)に掲載された出版告知

[1] The Promise of Cinema: German Film Theory, 1907–1933, Anton Kaes, Nicholas Baer and Michael Cowan (Ed.) 1996, University of California Press, 978-0-52021-908-3

[出版者]
友朋堂

[出版年] 昭和5年

[原題]
Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute

[編集者]
Heinrich Pfeiffer

[元作品出版者]
Verlag August Scherl G.M.B.H.

1924 – 『浦邊粂子小唄集』(春江堂、キネマ花形叢書)

Urabe Kumeko : Songbook (1924, Shunko-do, Collection « Cinema Stars » )

春江堂が大正13年(1924年)に手掛けていた流行歌集のコレクション。14.2×10.5㎝、全80頁。

大正期~昭和初期の映画に興味のある方であれば、1923年公開の『船頭小唄』、翌年の『籠の鳥』を皮切りに展開された「小唄映画」の名に馴染みがあるのではないでしょうか。大正期のメディアミックスの流れの一つとして興味深いもので、近年になって幾つかの研究書、論文が発表されるなど再注目を集めているジャンルでもあります。

小唄映画の勃興は、日本における花形女優文化の誕生と時期を一にしています。浦邊粂子さんが日活作品の『清作の妻』で注目を浴びたのもこの大正13年(1924年)。春江堂によるキネマ花形叢書はこういった時代の流れに反応したもので、栗島すみ子を筆頭に8名の女優名を冠した小唄集を公刊。

(女) 指をさゝれよと恐れはせぬが 妾や出られぬ籠の鳥
(男) 世間の人よ笑わば笑へ 命がけした仲じやもの
(女) 命がけした二人が仲も 今は逢ふさえまゝならぬ
(男) まゝにならぬは浮世の定め 無理から逢ふのが戀じやもの
(女) 逢うて話して別れる時は 何時も涙が落ちて來る
(男) 落ちる涙は誠かうそか 女心はわからない
(女) うそに涙は流せぬものを ほんに悲しい籠の鳥

新籠の鳥

『浦邊粂子小唄集』と題されているものの、彼女に関係のある作品は『新籠の鳥』と『金色夜叉』だけで、その他の収録作品は「船頭小唄」(栗島すみ子主演作より)「水藻の歌」(同左)「戀慕小唄」(酒井米子主演作より)「闇の五本松」(梅村蓉子主演作より)と一人の女優に特化したものではありませんでした。他の女優編もおそらくは内容は同一で、表紙のみ差し替えていた可能性があるのかな、と。

こういった書物が時代やテクノロジーの変化に揉まれて後年の「映画主題歌集」に形を変えていきます。大正末期にはまだ「主題歌」の概念はなく音楽ソフトを再生できる環境(蓄音機)を備えた家庭も少数派でしたが、この手の冊子で歌詞を覚え、互いに教えあっていた風景というのがどこかにあったのだな、と想像させてくれる紙資料です。

映写機用レンズの肖像 [07]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー I f1.6 40ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior I F1:1.6 40mm for Pathex 200B Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアー Iメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ40mm1.6パテックス200B1930年代中盤ペッツバール型3群4枚64.6529.9
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット26.19.115.25メニスカス21.14.21.621.15.0

数々の個性派レンズ(トリオプラン、オレストール、テレメゴール…)で知られている独光学メーカー、メイヤー・ゲルリッツ社が映写機用レンズの主力として製造していたのが「キノン・スーペリアー(Kinon Superior)」です。こちらの個体は焦点距離40ミリ、1930年代半ばの独パテックス社200B映写機に付属していたものです。

この時期の標準だったペッツバール型3群4枚のレンズ構成。前玉がかなりがっしりしていて厚みもあります。

フィルムの映写作例では四隅まで光量が落ちず、中心部分で細やかな質感を再現できていました。ただし画面の中央に比較的近い所から放射状に流れるような動きが見られます。

ミラーレスにマウントして撮影してみました。

キノン・スーペリアーは絞り開放で使用した際に周縁部にグルグルとしたボケが出やすいレンズとして知られています。個性的な写真を狙っている愛好家が探している一本ですが、今回テストした40ミリはそこまで極端な結果は出ませんでした。強い点光源を中央付近に集めるとバブルボケ/グルグルボケがはっきり出てくるのですが、狙い過ぎた感じになるので今回は避けました。

このレンズに関しては後年の焦点距離50ミリが有名で、ミラーレスにマウントした作例が多く紹介されています。昨今の改造レンズブームで入手しにくくなっているものの同レンズを搭載したバウアー社パンタリュクス映写機(Bauer Pantalux)が時折安く中古市場に出てくるので探している方はその辺が狙い目だと思います。

映写機用レンズの肖像 [06]: 仏エルマジ社 マジステール F1.9 45ミリ

Hermagis Magister F=1.9 45mm for Paillard Bolex Type DA Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
マジステール仏エルマジ社フランス45mm1.9ボレックスDA型1930年代中盤ペッツバール型3群4枚46.025.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット20.08.0メニスカス22.54.60.522.44.0

パイヤール・ボレックス社の9.5ミリ/16ミリ両用DA型映写機に付属していたレンズ。同映写機はF1.9の40ミリを装備していたD型のアップデート版に当たります。鏡胴の形は他のマジステールとは異なるものの、レンズ構成はペッツバール式で変更はありません。

9.5ミリフィルムを実写してみたときのサンプル画像がこちらです。F1.6/40ミリとF1.9/40ミリがやや褐色気味の柔らかい描写をしていたのと比べ、F1.9/45ミリは彩度が低く、かっちりした印象の絵を返してきます。

ミラーレスにマウントした接写作例。被写体深度はやや深めでピントあわせがしやすいです。彩度が低いため「枯れた」感じの渋いアウトプットになりました。ピントがあっている部分の解像度はF1.9/40ミリより一段階高いものとなっています。

焦点距離40mmを装備しているボレックス社のD型映写機は250ワット光源での映写を前提とした一台です。焦点距離45mmを装備しているDA型は400ワットのランプで映写する形にアップデートされていました。無理に明るさを追求する必要がなくなり描写の精度を重視したレンズづくりに向ったのがF1.9/45mmだった、と見ることもできます。

ジーナ・レリ Gina Relly(1891–1985)仏

フランス [France]より

Gina Relly Early 1920s Autographed Postcard

類い稀な才の音楽家の母親、巧みな畫家である父親の元で育てられ、ジーナは美しさと調和を好む子供に育つていつた。齢二十五ながら藝術家として残してきた實績は、より年を重ねた者たちも敵わないほどである。

若くしてデビユーを果たしたのは歌劇であつた。妙なる声の持ち主だつたのである。しかし程なくして舞臺を離れ映画界に足を踏み入れる。寫眞で映えるに違いない、最初に氣がついたのは喜劇役者のジヨルジユ・トレヴイル氏である。手始めの契約でまずは嬢を一本映畫に出演させてみたのだが、氏の満足はこの上なく契約の更新と相成つた。

次いでルネ・ナヴアール氏が『秘密文書』で大役を割り当て、さらにリユシアン・レーマン氏の『キマイラ』に出演。これらの作品を通じて他の多くの映画監督が嬢に目を留めることとなつた。他に『仮面の少女ニーヌ』次いで『借り』に登場している。

米國フオツクス會社との契約は嬢の才能が認められた証でもあつた。撮影で紐育にいたところ連續劇『貧しき者たちの王』のヒロイン役でルネ・ルプランス監督から白羽の矢が当たる。国外への再流出は避けたい所である。我が国の花形女優の数は決して多くないのであるから!

「仏蘭西花形物語:ジーナ・レリ嬢」
『モンシネ』誌 1922年2月創刊号

[…] Sa mère, musicienne d’un rare talent, et son père, habile artiste-peintre, contribuèrent à développer chez leur enfant le gôut de la beauté et de l’harmonie.

Sachez de plus que Gina Relly a seulement vint-cinq ans, et que cependant ella a déjà derrière elle un passé artistique que bien des artistes plus âgées ne possèdent pas.

Toute jeune, elle débuta dans l’opérette, car elle a une voix exquise.

Mais elle ne devait pas tarder à abandonner le théâtre pour le cinéma. Ce fut Tréville qui, le premier, songéa qu’elle devait être très photogénique. Il l’engagea pour un film d’abord et fut si satisfait qu’il renouvela l’engagemnt.

René Navarre, ensuite, lui confia un rôle important, dans Document secret, puis ce fut Lehman qui la fit tourner dans La Chimère. Ces créations l’avient signalée à l’attention d’autres metteurs en scènes, aussi la vimes-nous dans Nine, et puis dans La Dette, chez Harry.

La consécration de son talent fut un engagement de la célèbre firme américaine, la Fox-film. Elle tourna donc à New York et c’est là que René Leprince fut la chercher pour L’Empereur des pauvres. Espérons que nous ne laisserons plus cette vedette. Nous n’en avons pas tellement!

Une Vedette française : Gina Relly
Mon Ciné, No 1 (Février 1922)

1922年に仏映画雑誌モンシネが創刊された時、国産の花形女優として最初に紹介されたのがジーナ・レリ。以前に紹介したフランス・デリアジュヌヴィエーヴ・フェリクス等と並び、1910年代末頃に台頭してきた女優さんの一人です。

この世代は巡りあわせ的に不運なところがあって、経験を積んでいざ本格的に活躍!となった1920年代初頭に業界が大きく変貌、映画のスタイルが変わり、愛好家層が入れ替わり、ファッションや髪型の流行も激変し、余程の実力者でもなければ時代に取り残されて忘れられていった者が目立ちます。

モンシネ誌の紹介にあるように、ジーナ・レリは1920年に米フォックス社と契約を結び『窓の顔(The Face at Your Window)』でヒロインを務めます。その後フランスに戻り12幕物の連続ドラマ『貧しき者たちの王』でも主人公(レオン・マト)の恋人~妻役を務めて話題を呼びました。

『貧しき者たちの王』(L’Empereur des pauvres, 1922)でのジーナ・レリ。GPアーカイヴより。

モンシネ誌 1922年6月8日付第16号表紙


同作公開後のインタビュー(モンシネ誌16号)では将来の夢として再度ハリウッド行きの話などもしていたのですが実現することはありませんでした。元々彼女が得意としていたのは初期のメアリー・ピックフォードやメエ・マレーに近い可憐な娘役、1920年代にモダンな女性像が受け入れられていく中で過去のイメージが足かせとなって活躍の場を失っていきます。1920年代中盤まで雑誌モデルでの活動記録が残っていますがその後の消息は不明となっています。

[IMDb]
Gina Relly

[Movie Walker]
Gina Relly

[出身地]
フランス

[生年月日]
12月24日

バルトシュ・オルガ Bartos Olga(生没年不詳) ハンガリー

ハンガリー [Hungary]より

Bartos Olga 1921 Inscribed Postcard

第一次大戦の末期、1917年にハンガリーのロイヤル・オルフェウム劇場(Royál-Orfeum)で軽歌劇の主役として注目を浴びた女優さん。翌1918年にウィーンのロナッヒャー劇場と契約を結んだニュースがハンガリーの演劇誌でも大きく取り上げられていました。

「演劇生活」誌(Színházi Élet) 1918年9月1日 第35号表紙

この後もウィーンのアポロ藝術劇場で幾つかの出演記録(1920年『Die Apachen』、1921年『タンゴの女王 Die Tangokönigin』)が残されていますが、同劇場の支配人であるヘルベルト・トラウ氏と入籍したようで雑誌での名字表記が「Bartos-Trau」に変わります。今回入手したサインはこの時期のもの。

面識こそ御座いませんが貴方様からの讃辞に親愛なる感謝をこめて

1921年2月8日 オルガ・バルトシュ=トラウ

Unbekannterweise freundliche Grüße und Dank für ihre schmeichelhaften Zeilen.

8 II 1921. Olga Bartos-Trau

20年代中盤以降はメディアでの露出が減っていくものの、1927年の雑誌の紹介記事からは活躍の場をチューリッヒまで広げていた様子が伺えます。

独「ライフ」誌(Das Leben)
1927年7月号

映画界との接点は多くありませんが一作主演の記録あり。1919年公開の墺作品『Die lichtscheue Dame』で、ジョルジュ・オーネの小説『灰色の淑女(La Dame en gris)』を下敷きにした作品のようです。

[IMDb]
Olga Bartos

[Movie Walker]


[出身地]
ハンガリー

[データ]
1301 Bildnis von Angelo Budapest 1918

1931 – Super8 『雪の渡り鳥』(阪妻プロ、宮田十三一監督)東映/サングラフ版

阪東妻三郎関連 [Bando Tsumasaburo Related Items]より

Koina no Ginpei: Yuki no wataridori
(1931, Bantsuma Production, dir/Miyata Tomikazu)
Early 1970s Toei/Sungraph Super8 Print

明治三十四年東京に生まれる。本名 田村伝吉。

歌舞伎から出て、大正十二年マキノ映画に入る。

チャンバラ映画史上最大のスターの一人で、昭和初期の時代劇革新運動の流れの中で、(それまでの時代劇映画は、講談本を材料としたものや、歌舞伎の引き写し的なものが大部分であったが、ここに至って、人間そのものを追究しようとする方向に向かった)尾上松之助調のおっとりとした立廻りを、すさまじい怨念のこもったスピーディーなものにつくり変え、豪放な立廻りの第一人者となる。

晩年は「破れ太鼓」等の小市民映画に出演、その重みのある演技には定評があった。「雪の渡り鳥」は、昭和六年度・阪東プロ作品で、原作は股旅物の名匠長谷川伸。人間味にあふれたヤクザ・鯉名の銀平に扮し、思い人の夫を悪徳ヤクザの手から助け、一切の罪を我身に引受けて、役人の手に引かれていく男の悲劇を、見事に演じ切っている。その他の代表作に「雄呂血」「無法松の一生」(戦前)、「素浪人罷通る」(戦後)などがある。

昭和二十八年死去。

阪東妻三郎『雪の渡り鳥』
(活動写真名優シリーズ・解説書)

「あの…帆立一家の者…今日も散々の目にあわされ…悔しがってあの人が一人であたしを縛り上げて今…殴りこみに行ったんだよ。ねぇ、銀平さん…あの人ひとりじゃとても」
「うーむ、当たりめえのこった。卯之ひとりであれだけの大勢に敵うわけがねえ。折角幸せになったオメエもなあ。よし、俺に任してくれい。必ず卯之は連れてきてやるよ」

「…だ、だ、誰だ!」
「誰でもねぇ!やくざに戻った卯之吉でい。よくもあんな目に遭わせやがったなぁ。仕返しに来たんでい」
「何ぃ、唯一人でてめえがけい。おう、知れたこってい」

「誰だ!」
「…鯉名の銀平よ」
「て、てめえは銀平!」
「当たりめえだ。覚悟しやがれ!」

「お、お役人さん。待っておくんねえ、待っておくんねえ。お願いでござんやす。この下手人は…この卯之でございやす。あの、銀平兄貴には何の罪がねえんだ」
「いけませんぜ、お役人。それは違いやすよ。ねえ、あっしが下手人でござんすから、どうぞ。あんな野郎に何ができるもんじゃございやせんよ」

1970年代前半~中盤と思われるサングラフ版で(同梱の愛読者カードの差出有効期間が1976年2月末まで)長さは60メートル(約12分)。3年程前に一度実写のスクリーン画像を撮影。今回自作スキャナーで取りこみ直しましたが正直そこまで大きな画質の改善はなかったです。

カセットテープ付きで弁士は竹本嘯虎。喉を鳴らすような威勢の良いべらんめい口調が特徴です。

[タイトル]
雪の渡り鳥

[JMDb]
雪の渡り鳥

[IMDb]
Koina no Ginpei: Yuki no wataridori

[公開]
1931年10月15日(常盤座)

[メーカー]
東映ビデオ(製作)/サングラフ(配給)

[フォーマット] Super8、60m、白黒

1931 – Super8 『雪の渡り鳥』(阪妻プロ、宮田十三一監督)マツダ映画社版

阪東妻三郎関連 [Bando Tsumasaburo Related Items]より

Koina no Ginpei: Yuki no wataridori
(1931, Bantsuma Production, dir/Miyata Tomikazu)
Matsuda Film Productions Super8 Print

『雪の渡り鳥』の小型映画版としては東映ビデオが制作したサングラフ社版(60メートル)が有名で、何度か中古市場に出ているのを見た覚えがあります。それ以前にマツダ映画社が無声映画鑑賞会の会員向けに配布していた4巻物(240メートル)のプリントを見つけました。

語りは無声映画鑑賞会の設立者の一人でもある松田春翠氏。フィルムにあわせカセットテープも4本組になっていました。

画質的にはサングラフ版に劣るものの、前半の流れ(物語背景の説明)がしっかり含まれており、また尺が長いため弁士の語りにも余裕があって細かなニュアンスまで表現できています。

「銀平さん、卯之さんは、帆立一家へたった一人で殴りこみに…」
「何、殴りこみ?そりゃお前…本当かい」
「あの人一人を殺すわけにはいかない…わたしも一緒に死にたい…あたしも…」
「待っていなよ、カタギで通そうと我慢してきた卯之吉が男の意地を立てに出かけたというのか…なぁに、かたぎ衆には何にもさせはしねえ。こういうことを引き受けるのが渡世人だ。お市ちゃん、きっと卯之吉は連れて帰ってくるぜ」

「お、お待ちくださいまし、お役人。本当の下手人はこの…あっしでございやす。」
「何!?」
「な、何を言うんでい、馬鹿野郎。渡世人の手柄を横取りする気けい。…旦那、こんな野郎の、どうして帆立の親分などが斬れる訳のもんがありません。どうか、あっしをお引きなすって」

これまでに紹介してきたフィルムでは1931年の右太衛門主演作『旗本退屈男』がマツダ映画社のプリントでありながら市販の形跡がなく出所が分かっていませんでした。あのフィルムも限定配布されていたのでしょうね。

『雪の渡り鳥』には110~113までのナンバリングが付されていたところから同種のフィルムがまだ100本以上存在していたことも分かりました。頻繁に市場に出てくる類ではなさそうですが記憶の片隅に留めておいて良さそうです。

[タイトル]
雪の渡り鳥

[JMDb]
雪の渡り鳥

[IMDb]
Koina no Ginpei: Yuki no wataridori

[公開]
1931年10月15日(常盤座)

[メーカー]
マツダ映画社

[メーカーカタログ番号]
110~113

[フォーマット] Super8、60m×4、白黒、非売品

1922 – Super8 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督) 西独DEFA版

1922-『吸血鬼ノスフェラトゥ』

Nosferatu: Ende des Vampirs
(From « Nosferatu », dir/F.W. Murnau, 1922) DEFA Super8 Print

先月末にスキャンと併せて映写機での実写を行いました。

名の知れた一作でもあって英語版の16ミリや8ミリを市場で見かけることがあります。フィルムの現存状況や修復版の元となった35ミリプリントの詳細な情報はブレントン・フィルム [英語]でまとめられています。

ドイツでは西ドイツのDEFA社から2巻(前編『吸血鬼の棲まう城』245番、後編『吸血鬼の最期』247番)に分けられたスーパー8のダイジェスト版が発売されていました。こちらはその後編。

このフィルムに関しては2017年に一度実写でのスクリーン画像をそのまま撮影しています(使用映写機はベル&ハウエルのフィルモソニック498型)。

実写では中央部で白飛びが目立ち顔の肌の細かな陰影が消えてしまっています。ただし光量の落ちる周辺部は比較的しっかりと描写できていました。ランプを使うと光源となる中心がどうしても明るくなるためこういった質感になります。一方デジタルスキャンは四隅まで満遍なく安定しているものの暗い部分で潰れてしまい細部を拾えていない所があります。

またDEFA版8ミリではフィルムを送る穴(パーフォレーション)の上下まで映像が広がっています。実写時にこの部分は映写されないため、左側がトリミングされる形になり被写体が左に寄っていました。

本作を下敷きにしたヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)では吸血鬼と同時にやってくるペストの要素が強調されていました。古来から吸血鬼伝説と疫病への恐怖は連動してきたもので、本作にも公開の2年程前まで猛威を振るったスペイン熱の記憶が見え隠れしています。

[原題]
Nosferatu: Ende des Vampirs

[製作年]
1922

[IMDB]
Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens

[Movie Walker]


[メーカー]
DEFA

[カタログナンバー]
247

[フォーマット]
Super8 白黒無声

レオポルディーネ・コンスタンチン Leopoldine Konstantin (1886–1965) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Leopoldine Konstantin Late 1910s Autographed Postcard

オーストリア出身の舞台女優/映画女優で1900年代後半にはすでにベルリンの劇場に立っていました。

1910年頃にドイツで映画産業が勃興した折、舞台界から先駆者として業界に参入したのがマックス・ラインハルトでした。神話世界と現実世界を交差させた『恵みの島』(Die Insel der Seligen、1913年)はエロスを含みこんだファンタジーとして高い評価を受けているものです。同作後半では、妖精の島に紛れこんでしまった老紳士二人が魔女キルケ(レオポルディーネ・コンスタンチン)にたぶらかされ、妖術によって豚に変えられてしまう場面が含まれています。

ラインハルト門下生は個性的な演技派が多かったこともあり初期ドイツ映画界では重宝されていました。レオポルディーネ・コンスタンチンも1910年代を通じメスター社のハンス・オーベルレンダー監督作品を中心に活躍。10年代中盤にドイツで探偵活劇が流行した時にはスチュワート・ウェッブス連作と並ぶ人気シリーズ、ジョー・ディーブス物に出演した記録も残っています(1917年)。

『カイロの結婚』(1933年)より

1920年代初頭に映画界を離れ舞台に専念、10年以上のブランクを経てカムバックした後は母親役を中心に活動。この時期の出演作の幾つか(ウーファ社『カイロの結婚(Saison in Kairo)』『桃源境(Prinzessin Turandot)』など)は日本でも公開されていました。

『汚名』(1946年)より

40年代に渡米しハリウッドに挑戦、言葉の壁もあって大成こそしませんでしたが、ヒッチコックの『汚名』(Notorious、1946年)でナチス残党グループリーダー(クロード・レインズ)の母親役を演じ熟練の演技を見せました。同作が最後の映画出演となり50年代に女優業から引退しています。

[IMDb]
Leopoldine Konstantin

[Movie Walker]
レオポルディーネ・コンスタンチン

[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(モラヴィア地方ブルノ、現チェコ)

[データ]
[Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 9271 Phot. Becker & Maas, Berlin]

映写機用レンズの肖像 [03]: 仏パテ社 リュクス映写機用スタンダードレンズ

Pathé Lux Projector Standard Lens F=32mm (Early 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
パテ・リュクス映写機 スタンダードレンズ仏パテ社フランス32mm不明パテリュクス映写機1930年代前半ペッツバール型3群4枚40.030.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット15.65.7510.0メニスカス15.35.350.515.12.9

仏パテ社の初期カタログで「焦点距離32ミリの標準レンズ(Objectif ordinaire foyer 32mm)」と記載されているもので、30年代初頭のパテ・リュクス映写機に標準装備されていたもの。単品での市販はしておらずカタログ番号はありません。

パテベビー/キッド映写機用スタンダードレンズと同様4枚のレンズを組みあわせたペッツバール式ですが、ベビー用とは違って中玉と後玉の間に厚さ0.5ミリの薄いスペーサーが噛ませてあって3群4枚の形となっています。レンズ本体は直径で1.5倍ほど大きくなっています。

ベビー映写機用のレンズとは質感が異なり、コントラストをはっきり捉えたかっちり目の描写です。四隅が僅かに暗くなっていますが全体的に緻密な描写で歪みも小。ただし周辺部に流れるような個所も見られます。

ミラーレスカメラにマウントしてマクロ撮影で実写した結果。焦点のあっている部分は繊細かつシャープで、周辺にグルグルボケと歪みも発生。ペッツバール式レンズの癖や特徴が素直に出たアウトプットです。外に持ち運んで遊ぶ分には面白そう。

リュクス映写機用の標準レンズはもう一本所有しています。こちらは鏡胴が金属ではなく樹脂製で色が黒。筒の先端部分に欠けがあるものの映写そのものに影響はありませんでした。オマケで貰ったもので出所が不明、本当にリュクス映写機用かどうかも自信がありません。今回こちらも試し撮りして見ました。

金属鏡胴の個体と比べてややピントが甘く、背後にバブルボケが強く出ています

映写機用レンズの肖像 [01]: 仏パテ社 パテベビー/キッド映写機用スタンダードレンズ

Pathé-Baby Projector Standard Lens F=26mm ( Mid-Late 1920s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
パテベビー映写機用 スタンダードレンズ仏パテ社フランス26mm不明パテベビー映写機1920年代前半から30年頃ペッツバール型3群4枚20.014.1
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット11.73.97.0メニスカス11.652.5511.72.2

仏パテ社の初期カタログで「短焦点レンズ(Objectif court foyer F 26mm)」と記載されているタイプで、現存しているパテベビー映写機の多くに標準装備されていたもの。単品でのカタログ番号はF22で定価は20旧フラン。

貼りあわせた2枚の前玉と、後群に凹レンズ+凸レンズを配した3群4枚のペッツバール式。後群の2枚の間にスペーサーはなく、軽く触れる形でセットされているため2群4枚と見ることもできます。

投影した9.5ミリフィルムをミラーレスカメラのセンサーで取りこんだ画像。1930年代以降のレンズと比べるとコントラストが低目で、周辺光量の落ちが目立ちます。歪みや流れは目立ちませんが、レンズの周辺部に行くほど色収差が強くなり滲んだ感じになります。9.5ミリフィルムが得意とする細やかなグラデーションもしっかり再現されており、全長2センチの小さなレンズとしては優秀なアウトプットだと思います。

レンズの向きを逆にしてミラーレスカメラに装着しカスミソウを接写した一枚。ピントが外れた部分の淡い滲み方はフィルム実写と同じ質感。

パテベビー映写機の弟機パテ・キッド用のレンズ(一番上の写真、左端のラッパ型フードが着いた一本)は鏡胴・フード一体型になっていますがレンズとその構成はパテベビー用と同じです。

1917 – 16mm 『チャップリンの勇敢』第2リール 米コダック社シネグラフ琥珀染色版

「16ミリ 劇映画」より

« Easy Street » (1917, Mutual Film Co., dir/Charles Chaplin)
Late 1920s Kodak Cinegraph 16mm Amber Tinted Print 2nd Reel

一文無しに落ちぶれ果てたチャーリー君は伝道所に迷いこんでしまひ、そこで更生を果たした。まず成し遂げた善行は、盗んだばかりの募金箱を返したことであつた。次いで警察に勤めはじめ「イージー・ストリート」を任されるに相成つた。警官が担架で自宅送りされるのが当たり前といふ町一番に治安の悪い一画である。しかしチャーリーは悪番長をやつつけてしまい、教会で自身の更生を手伝つてくれた麗しき女性を助けその心を掴むのである。誰もが好きにならずにいられないチャップリン定番喜劇で、最初から最後まで笑い転げる程に面白い。

「コダスコープ・レンタル用フィルムカタログ詳細版」(1932年、初年度版)

Charlie, a down-and-outer, wanders into Hope Mission where he is reformed, his first good act being to give back the collection plate which he had stolen. He then joins the police force and is assigned to Easy Street, the city’s worst section from which as a regular thing the policemen are brought home on stretchers. But in a characteristic manner he overcomes the ring leader of the ruffians and rescues and wins the beautiful mission worker who had reformed him. A regular Chaplin comedy of the kind everybody likes. Uproariously funny from end to end.

Descriptive Catalogue of Kodascope Library Motion Pictures (1st Edition, 1932)

米コダック社が1920年代にレンタル権を獲得して扱いを始めたコダック・シネグラフ16ミリ版の『勇敢』。このシリーズは質の高いプリントと美しい琥珀色の染色で知られています。元々2巻物で今回入手したのは後半第2リール。

ミューチャル期短編について復習しておくと現行のプリントは米国内用(Aネガ)と海外用(Bネガ)の異なった二種から派生してきたものです。コダック版の大元はAネガですが一度改編が施されたものであるため早期に派生した亜種(A’ネガ)の扱いをされることもあります。今まで入手してきた『勇敢』(仏パテ9.5ミリ版、英パテスコープ9.5ミリ版、東和スーパー8版)はいずれもBネガ由来。今回初めて戦前Aネガ系の実物が手に入ったことになります。

左がコダック版16ミリ、右が東和プリント版スーパー8。

エリック・キャンベル演じる悪番長との乱闘場面で言うとコダック版(Aネガ由来)は右に置かれたカメラから撮影されており、二人の姿を斜め前から撮っています。東和版(Bネガ)は左に置かれたカメラで撮影されており、二人の姿をほぼ真横からのアングルで撮っています。近景にある物(通りの名が入ったプレート)と遠景の事物(窓枠)との位置関係がずれているのも分かるかと思います。

2021年GWは遠出ができなかったため、家時間を利用して16ミリフィルムをデジタルスキャンする簡易装置を製作していました。白飛び/黒潰れがありますが悪くないかな、と思います。綺乃九五式とは違って単発のスキャンのみなのでここまできたら16ミリ用自動連続スキャナーを作るしかない気がしてきました。

1930年頃 – 16mm『チャップリンのスケート』抜粋 +『チャップリンの伯爵』抜粋 仏パテ・コダック社プリント

「16ミリ 劇映画」より

« Charlot Bout en Train » & « Charlot en Soirée »
(« The Rink » & « The Count » excerpts, 1916, Mutual Film Co., dir/Charles Chaplin)
c1930 French Pathé-Kodak 16mm Print, Ciné « Kodagraph »

※2021年5月にスキャンを行いスクリーンショットをアップデートしました。


1927年にジョルジュ・イーストマンとシャルル・パテの合意を元に仏「パテ・コダック社」が設立されます。コダック製のカメラや映写機の輸入は同社を介して行われるようになりました。

エクセルシオール紙1928年5月24日付掲載の広告より

1928年の仏パテ・コダック社の広告。右下を見るとチャップリン作品も引き合いに出しつつ16ミリフィルムのレンタルサービスとして「コダスコープ(Kodascope)」が紹介されており、その下に市販用16ミリフィルムのブランドとして「コダグラフ(Kodagraphs)」の名称が使用されています。

仏パテ・コダック社が実際に市販していたのがこのような外箱入りのフィルムでした。右下に「フランス製(Fabriqué en France)と印刷され、フィルム本体のパーフォレーション部分にも「仏コダック」の文字があります。

ブザンソン市の写真店フォト・コステ社のラベルが貼ってあり、薄くなったタイプライターの印字は「Charlot Bout-en-train/Charlot en Soirée」となっています。改題されているもののそれぞれ『チャップリンのスケート』と『チャップリンの伯爵』の有名な場面を100フィートずつ抜粋したものです。フォト・コステ社が16ミリのレンタル用に2本のフィルムを繋ぎあわせたと考えられます。

『スケート』『伯爵』両作品ともチャップリンがミューチャル社と契約していた時期の短編です。同社は配給時に米国内用ネガ(Aネガ)、輸出用ネガ(Bネガ)二種類を用意していたことで知られています。フランスで市販されていたこのフィルムはどちらを元にしたものでしょうか。

他のフィルムと照らしあわせてみたところ個人的な予想と裏腹にAネガを元にしていました。親会社のコダックが合衆国拠点だったため、という話なのでしょうね。一方で同時期にフランスで市販されていたパテ社9.5ミリ版『伯爵』はBネガ由来でした。同じ国で同時期に同名チャップリン作品が売られていても実はネガは違っていた(=厳密に言えば同一作品ではなかった)という興味深い結論がでてきます。

2013 -『チャップリンズ・ヴィンテージ・イヤー:チャップリン・ミューチャル短編物語』

« Chaplin’s Vintage Year: The History of the Mutual-Chaplin Specials »
(Michael J Hayde, BearManor Media, 2013)

2013年に公刊された研究書。チャップリンに関しては伝記や作品論など多くの書物が発表されていますが、本作は1916~17年にミューチャル社で制作された作品の「版権」の運命を辿ることで通常の映画史では見えてこない業界の実態や、チャップリンのビジネスマンとしての側面を浮き上がらせていきます。

「ミューチャル短編」とは 『替玉(The Floorwalker)』から『冒険(The Adventurer)』まで、1916年~17年に製作・公開された12のチャップリン短編を指しています。厳密に言うとミューチャル社は配給会社で、その関連会社であるローンスター映画社(Lone Star Film Corporation)が制作を行い版権を所有していました。「チャップリン・スペシャルズ」のシリーズ名で紹介されていたため、この時期のプリントを「スペシャルズ」と呼ぶことがあります。

『午前一時』初公開時の広告。左下に星型に囲まれた「Mutual Chaplin」のロゴがあります

チャップリンとミューチャル社の契約が切れた1918年以降、フィルムの版権を巡った動きが激しくなっていきます。

1918年11月、「チャップリン・スペシャルズ」の安定した配給を目的とし、映画フィルムの配給・上映に関わっていた人々が共同出資してエキジビターズ・ミューチャル配給社が設立されました。同社の主要役員であったハロルド・コーネリアスはフィルムの資産価値に着目し、私財を投じてクラーク・コーネリアス社を立ち上げます。1919年6月に同社は60万ドルをかけ、ローンスター映画社の株式51%と2種類のネガ(国内用と国外用)、アウトテイクを取得しました。

クラーク・コーネリアス社は間幕を新たに作り直し(書体・書式の変更、一部内容改変)1920年から米国内での再公開を行っていきます。この際に「チャップリン・クラシックス・デラックス」シリーズとして紹介したため、この時期のプリントは「クラシックス」と呼ばれています。

クラーク・コーネリアス社による
「チャップリン・クラシックス・デラックス」広告

クラーク・コーネリアス社は1923年に一度発展解消しCCピクチャー社と名前を変えました。それでも「チャップリン・クラシックス」のロゴは生き続け、1925年まで国内各地での上映が続けられていきます。

しかし時代に波にのまれ次第に売り上げは低迷、負債を抱えたCCピクチャー社は借財返済のため二種類のネガとアウトテイクをオークションにかけます。1925年3月、国内向け/輸出向け2種類のネガの版権を買い取ったのがルイス・オーバックでした(アウトテイクはチャップリン自身が買い取っています)。オーバックは自身が社長となり設立したミューチャル・チャップリン社(Mutual-Chaplins, Inc.)に権利を売却。

ちょうどこの時期に小型映画産業が拡大したこともあり、ミューチャル・チャップリン社はライセンスビジネスを活発化させていきます。米コダック社は16ミリのレンタル権、英パテスコープ社/仏パテ社が9.5ミリの販売権を取得しました。1920年代末に市販されていたこれらの9.5ミリ、16ミリフィルムは「チャップリン・クラシックス」のネガを元にしたものです。

こういった展開の結果生じてきたのが「チャップリン・ミューチャル短編問題」です。

初公開時に使用されたスペシャルズ版が(『午前一時』を除いて)失われてしまいオリジナルの形が分からなくなってしまったのです。国内用ネガ、国外用ネガ、アウトテイクなど複数のネガがあることが状況をややこしくしており、現在決定版として市販されているデジタル修復版も実際には仮説や推測をまじえてつぎはぎされた再構成版でした。

『チャップリンズ・ヴィンテージ・イヤー』はこの問題に「正解」をもたらしてくれる書籍ではないのですが、オリジナル再現を試みる人々が直面している状況の厄介さ、入り組み具合を正確に浮き上がらせていきます。

[ハロルド・]コーネリアスとそのビジネス・パートナーであるウィリアム・クラークは、映画公開に携わる者であれば誰しもそうであるように、「チャップリン・スペシャルズの権利を所有するのは投資として間違いない」、そう考えたのであった。

Cornelius and his associate, William Clark, believed, as any exhibitor might, that owning the Chaplin Specials was a sure-fire investment.

本書には多くのビジネスマンが現れては消えていきます。中には詐欺師と呼んだ方が良さそうな胡散臭い連中もチラホラと。映画製作はこういったレベルにコミットする事でもある訳です。チャップリン自身も百戦錬磨の猛者たちを相手に時に交渉で、時に裁判を起こして立ち向かっていきます。フィルムの権利を巡る物語は自身の権利を守ろうとする創造者の物語でもあって、いわゆる「伝記」から見えてくる人物像とも異なった「ビジネス人格」としてのチャップリンの姿が浮き彫りになってくるのです。

1930年代前半 – 9.5mm 『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』(陸軍省撮影、伴野商店版)

「伴野商店」より

”Three Human Bombs, Sham Battle of Miao Hang Zhen” (1932)
Early 1930s Banno Co. 9.5mm Print

日本精神の精髄を外國までも傳へんとする意圖から、十六日の廟行鎭に於ける三勇士爆死實演の模擬演習は午前十一時半開始され午後一時終了した。日本義勇隊が支部兵に假装して支那塹壕陣地に着き、これに對し碇少佐の率ゆる一個大隊の歩兵は松下大尉引率の一個中隊の工兵掩護の下に鉄條網を越えんとして攻撃を開始し、小銃と地雷火、手榴弾など列爆中を三勇士は爆弾を背負つて鐵條網破壊に突進し、爆破作業を完了し、模造の三勇士の死體が空中に吹上げられるまで實に巧妙に演出された。陸軍省撮影隊の外フオツクス、ユニバーサルその他外國撮影會社も約五會社参加し、この感激的情景は完全にフイルムに収まつた。

「三勇士」模擬戰 – 各國撮影班を前に
キネマ週報 第百三號 昭和七年三月廿五日付


「大橋幸太郎主宰の軍事劇太陽団は、(中略)二十一日から二十八日まで八日間、昼夜二回南座で開演する。だしものは軍事社会教育連鎖劇「国の光人の妻」十三場(中略)昨年度陸軍特別大演習実況映画を映写する。特等八十銭、一等六十銭、二等四十銭。」(「大阪朝日新聞(京都版)」 4.17 ) ○「呼物は(中略)肉弾三勇士の鉄条網爆破の廟行鎮における模擬戦実写等いづれも一行の統率者大橋幸太郎氏が、講演する内容の一部として上場する時局中心の劇と映画である。」(「京都日出新聞」 4.20 )

昭和七年四月二十一~(二十八)日
京都南座 軍事社会教育連鎖劇『国の光人の妻』
近代歌舞伎年表京都篇: – 270 ページ

先日ご紹介した『復興帝都御巡幸』と同じ東北在住の9.5ミリ小型映画愛好家の旧蔵品。

肉弾(あるいは爆弾)三勇士については1932年3月初頭に映画会社6社競作でフィクション作品が発表されていました。こちらは陸軍省主導により実際の兵士を動員して「再現」した模擬演習を撮影したものです。

キネマ週報の記事によると1932年3月16日の昼に1時間半ほどかけて演習を実施。中隊長から命令の下達後、決死隊の青年兵に水盃が振る舞われ、その後煙幕に紛れ敵陣(廟行鎮/びょうこうちん)に進んでいきます。「勇壮なる哉三勇士 肉弾を以つて爆破」の字幕の直後に爆破による煙が立ち上がり、それを合図に兵士たちが突撃を開始。現場に立てられた木製の碑の映像でフィルムは終了。

鉄条網への突撃の場面に関しては敵地からの銃撃を避け、破壊筒を地面に置きながらしゃがみこむようにじりじりと進んでいく形で描かれていました。三兵士が大きな筒を小脇に抱えて勇ましく突進しているイメージが強いのですが、この作品の描き方はそういった一般に流布したイメージとは異なっています。

『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』が強調しているのは部隊全体による複合的なオペレーションです。煙幕を張る者たち、後方で掩護射撃を担当する兵士たち、鉄条網破壊後に突入を任されている面々が連携し、敵陣からの銃撃に苦労しつつも最後は攻略を成功させた。ただ、そのために若き兵士3名の命が失われた。当時のメディアによる過剰でいびつな神格化に対し、陸軍が「公式版」でその神話の微修正を図った痕跡、と個人的に読みました。

1961 – 『髪と女優』(伊奈もと著、日本週報社)

« Hairmaking and Actresses »
(« Kami to Joyu », Ina Moto, Nihon Shūhōsha, 1961)

日本映画の黎明期から髪結い/ヘアデザイナーとして活躍された伊奈もとさんによる随筆集。古くから原節子愛好家界隈で知られており、彼女の残した名言「自分を卑しくすると、 あとでさびしくなるのでそういうことは一切しないようにしています」の典拠となっています(159頁)。

宮城県生まれ。旧姓亀田。尋常小学校卒業後に上京し、後に美髪学会を設立する高木きくに師事。1917年(大正6年)頃から姉弟子の増渕いよのと共に活動写真(主に日活向島新派劇の女形)の結髪に関わるようになり、松竹蒲田撮影所発足時から女優の髪結いを担当。1923年(大正12年)、酒井米子が松竹から日活に復帰したのに伴い籍を移す。戦後は東映大泉に移籍。

日活で監督として活躍した伊奈精一氏を夫とし、その間に生れた娘の圭子さんもまたフリーの髪結師として原節子や対馬恵子を担当していました。1959年(昭和34年)の映画の日に勤続41年の表彰を受け、この表彰をきっかけに自身の辿ってきた道筋や出会ってきた俳優の回想をまとめたのが本書でした。

分量が多いわけではないものの1910年代末から20年頃にかけての「女優以前」の活動写真にも触れられていて、先日の「日活俳優名鑑」でも名が上がっていた木藤茂氏の女形時代の写真が掲載されていたりします。また「日本初の女優は誰か」の問いにも私見が述べられています。

本サイトで『髪と女優』を最初に引用したのは「大正14年の日活俳優揃え」。同書にはもう一点「昭和9年の日活女優揃え」の写真も掲載されています。星玲子、久松美津江、近松里子など30年代中旬の多摩川撮影所女優がアタミホテル裏で撮影した水着姿の集合写真で、それぞれの女優についてのコメントが情報の宝庫となっています。おそらくは「昭和4年の日活女優揃え」にも絡んでいるのではないかな、と。

『唐人お吉』(1930年)撮影スチル

駆け落ち事件後に岡田嘉子から届けられた書簡など邦画女優史の一資料としてその重要性は疑うべくもないのですが、化粧や衣装と並び映画産業を支えてきた結髪技術の確立者だった点も強調しておきたいところです。1922年(大正11年)の平和博覧界の折に出展用人形の髪を頼まれて考案した髪型「耳かくし」が評判を呼び一般女性の間で流行した話は知られています。

また梅村蓉子主演の溝口作品『唐人お吉』(1930年)で女優の額の形と前髪のボリュームを整えるためつけひげにアイデアを得た「前はり」と呼ばれる技術を初めて導入。現在でも様々な目的で使用されている「前貼り」のルーツに当たります。

澤蘭子の有名なポートレート
この髷も伊奈さんの「作品」のようです

髪(型)は社会的記号として機能するだけではなく、流行として世相や時代の雰囲気を映し出し、また個々人が個性を表現していく手段でもある。そういった前提から現場視点で邦画史を読み解いている点で唯一無二の書籍。向学心の強さと人懐っこさの伝わってくる文章も素敵です。

[出版社]
日本週報社

[ページ数]
221

[フォーマット]
19.9 × 13.3 cm

1915 – 『赤環(レッド・サークル)』(バルボア/パテ・エクスチェンジ社、シャーウッド・マクドナルド監督、ルース・ローランド主演) 35ミリ齣フィルム10枚

« The Red Circle » (1915-16, Balboa/Pathe Exchange, dir/Sherwood MacDonald)
Chapter 11 « Seeds of Suspition » 35mm Nitrate Fragments

1915年末から16年前半にかけて公開された連続活劇『赤環』の上映用ポジ断片10枚。製作はバルボア社で配給がパテ・エクスチェンジ社。カレム社の短編映画でヒロインを務めていたルース・ローランドが初めて連続劇に進出した記念すべき一作。短い予告編を除いて上映用フィルムは遺失したとされています。

1915年11月27日付「ムービング・ピクチャー・ワールド」誌より 別作品の代打として1ヶ月公開が早められた旨も記されています

興奮すると両手の甲が充血し「赤い環」が現れて犯罪を犯してしまう…そんな遺伝的疾患の事件を追っていた医学者ラマー(フランク・マヨ)と、同症状の持ち主である若きヒロイン、ジューン・トラヴィス(ルース・ローランド)の出会い、駆け引き、そしてロマンスが14章仕立てで語られていく内容。

今回入手したのは第11章「疑惑の種」の断片で、内2コマは字幕、1コマは次回予告でした。本作に関しては英語と仏語のノヴェライズ版(仏語版を担当したのはモーリス・ルブラン)がありますのでこの2種の小説版と突き合わせながら齣フィルムの文脈を再構成してみます。

先行エピソードで窮地に陥っていたヒロインを助けたのは自身お尋ね者となっていた弁護士ゴードンでした。事情を尋ねたところ元々はファーウェル・コーポレーションの顧問弁護士をしていたとのこと。現場の労働者への賃金未払いが起こり調整をしていたところ、当のファーウェル社社長に騙され賃金を横領した罪を被せられてしまった…医学者ラマーがファーウェルの事務所を訪れたのを知ったジューンは「賊が侵入した!」と狂言を演じ、混乱に乗じて横領の証拠となる署名入り領収書を奪い取ります。


部屋の隅から一脚の椅子を引っ張ってきて扉脇に寄せ、椅子の上に立って軽く背を伸ばし、愛らしくも好奇に満ちた一対の瞳を欄干越しに向けた。

Getting a chair from the corner of the room, she carried it to the door, jumped lightly up and applied a pair of very pretty but very curious eyes to the transom.



自分でもなぜか分からぬまま、事務所へと戻ってくると白い便箋を二枚とり、重ねたまま折りこむと二つの同じ大きさの輪に切り取った。

Ensuite, sans s’expliquer elle-même pourquoi elle agissait ainsi, elle revint au bureau, prit deux feuilles blanches, les plia et les découpa en deux cercles égaux.



無駄骨となつた追跡の途中にラマーとファーウェルは引き返してきた秘書と合流、口角泡を飛ばしながらロビーまで降りてきた。

During their wild-goose chase Lamar and Farwell met the returning secretary and they all came down the hall together, talking excitedly.



「泥棒にやられた!札束を持つていかれてしまったよ。これを読んでくれ」、ファーウェルは金庫のダイヤルにかかっていた白い紙の輪を取り外すとラマーの手に押しこんだ。男が目を落とすと「お金は”赤き環の淑女”が正しい使い方をさせていただきます」の文字。

« I’m robbed! They’ve taken a bundle of bank notes! Read this thing! » As he spoke he pulled the printed circle off the safe knob and thrust it into Lamar’s hands. What Lamar read was this: « The money will be put to a good use by the Circle Lady. »



「金庫から頂戴したお金は”赤き環の淑女”より正当な所有者の元に届けさせていただきます」

L’argent pris dans ce coffre sera remis à ses légitimes propriétaires par la dame au Cercle rouge.



ラマーはゆつくり受話器を手にした。立ち上がった時と同じ位緩慢な動きであつた。

Lamar slowly hung up the receiver. Just as slowly be got up.



「いいえ」、秘書のゲイジが大声で答えた。「見えたのは甲に赤い輪の浮き出た女性の手だけでした」

« No, » yelled Gage. « I couldn’t see a thing except a woman’s hand with a Red Circle on the back of it.



一方でジューン嬢は自分の引き起こした騒動のことは頭から消し去り、ゴードンが待ち望んでいた領収書と札束とを胸にしつかと押しつけながら待ち合わせ場所の公園へと向かったのであつた。

Meanwhile, June, oblivious to all the trouble she had caused, made her way to the park, the coveted receipt and the banknotes hugged tight to her breast.



誰にも気づかれていなかったようなので足早にその場を去り、公園を離れると下町方面へと向かった。

人気のない一画を通り過ぎようとした時、まさに今一番必要としているものが目に留まった。焚火だ!

領収書を千切って炎に投げこんでいく。どの一片も本が何か見分けのつかない灰になってしまうまで見つめていた。

No one seemed to notice him, so he got out quickly, and leaving the park, made for the downtown district. […]

Just then he passed by a vacant lot and he saw what he needed most – a bonfire!

Tearing the receipt into tiny pieces, he threw them on the fire and watched them burn until every scrap had vanished into unrecognizable ashes.



『赤輪』次回予告
第12章「罠にかかった鼠の如く」
来週公開予定


ラマーとファーウェルがオフィスで話している様子をヒロインが盗聴する場面(齣番号01)に始まり、二人の男が部屋を開けた隙にジューンが領収書と紙幣を盗み出し、白い便箋で作った「環」に書置きを残す場面(齣番号02)、秘書と共にラマー、ファーウェルが戻ってくる場面 (齣番号03)、領収書が消えたのに気づき、ラマーが書置きに目を通す場面(齣番号04)、書置きの文面(齣番号05)、警察に電話しようと受話器を取り上げる場面 (齣番号06)、秘書が手錠で身動きを封じられた状況を説明する場面 (齣番号07)、ヒロインが待ちあわせ場所の公園に急ぐ場面 (齣番号08)、ゴードンが領収書を焚火で燃やす場面 (齣番号09)、そして次回予告 (齣番号10)。

英語版と仏語版小説で何とか流れを再構築できた感じながらも、以上で10フレームすべてが作品の中盤~後半の流れにぴったり収まりました。

[参考文献]

『赤環』英語版小説 アルバート・ペイスン・ターヒューン著、1915末〜1916年、各地の地方紙にて連載
”The Red Circle”, 14-chapter English novelization by Albert Payson Terhune, published in The Review (High Point, North Carolina) from December 23, 1915 to March 30, 1916.

『赤環』仏語版小説 モーリス・ルブラン著 初出ジュルナル紙、1916〜1917年連載
« Le Cercle rouge », 31-chapter French novelization by Maurice Leblanc, published in Le Journal from November 4, 1916 to January 20, 1917.

「パテ會社新作活劇 « 赤環 »」 モトグラフィー誌 1915年12月4日付
« The Red Circle » Pathe’s Next Serial Will Feature Ruth Roland Motography, 1915, December 4 Issue, p1179.

ムービング・ピクチャー・ワールド紙 1915年11月27日付より広告

[IMDb]
The Red Circle

[Movie Walker]


[公開]
1915年12月16日

1976 – 『時代劇映画の詩と真実』(伊藤大輔著/加藤泰編) 自筆サイン入り栞付き マキノ雅弘監督旧蔵品 

‘Poesy’ and ‘Truth’ in Jidai-geki Films (Ito Daisuke [Author], Kinema Junpo-sha, 1976) Dedicated to Makino Masahiro

伊藤大輔監督が新聞や映画雑誌に寄稿したエッセイと、加藤泰氏との対談、フィルモグラフィー、旧作のスチル写真や撮影風景写真を軸にまとめた一冊。

名古曽ノ滝は、今でも遺跡としてわずかに石組みだけが残っている。場所は大沢ノ池の北方の田んぼのはずれで、現在の町名は北嵯峨山王-そこに旧友清水宏君の居宅がある。

清水君との思い出は、ことごとく「食」につながる。彼は無類の美食家で、それがまた、うまい物を見つけると、それを友人にも食べさせないと気がすまない。

「名古曽ノ滝」


龍安寺道停留所の踏切ぎわに「マキノ衣装」の倉庫があり、その二階に、いまだ世に出ぬ阪東妻三郎とそのグループが寝泊まりしていた。

「龍安寺界隈」

前半の3部までは昭和30年代後半~40年代中盤に新聞で連載されていた一連のエッセイをとりまとめています。個人的に面白いと思ったのは京都新聞連載の『京都 – 町と人』。清水宏、小津安二郎、稲垣浩、伊丹万作、田坂具隆、牧野省三、山中貞雄…京都の風景や地名がそのまま映画史の記憶とリンクしている様子が伝わってきます。

先生: 唐沢[弘光]君は、他のキャメラマンと違う独特なところがありましてね。キャメラマンはピントはキャメラのレンズを通して右の眼で合わせ、撮影の際には左の眼でキャメラの左側に付いているファインダーを覗くのが通例でしょう。おそらく百人が百人。ところが、唐沢君は、キャメラの本体へ望遠レンズ(長焦点)を装着し、キャメラの左側に単焦点(ワイド)レンズのアイモキャメラをガム・テイプで装着する(このほうはボタンを押し続けておれば自動的にフィルムが廻る)、右手で望遠レンズ装着のキャメラ本体のクランクを廻しながら、同時に左手でアイモの自動回転を操作したり、ストップしたり……、両眼両手づかいの稀有な特技の技術者で。

第4部には100頁を超える対談を収録。リラックスした雰囲気の中で思い出話を咲かせている感じで撮影現場でのエピソードがあちこちに織り交ぜてあります。唐沢弘光氏が2台のカメラを同時に使用していたエピソードは初耳でした。『斬人斬馬剣』も同氏の撮影ですのでそういった視点から見直してみるのも楽しそう。

先生: 夢が多く、目の前に幻影がチラついているんだ。とくに私の場合はキリスト教への幻影が頭の芯にありますから、甘くて美しくて暗いんですね。その暗さがいつまでも尻尾となって私の仕事の上に残っていますね。

この書籍の出版時、伊藤大輔氏は自筆の署名入りの栞を付したものを友人に謹呈したそうです。こちらはマキノ雅弘氏旧蔵の一冊。同監督に縁のあった人物が保管していたものを譲っていただきました。和紙の短冊を使った栞で、空気に触れていた上部に色褪せが目立つ以外は綺麗な状態です。「マキノ先生は多分パラパラとしか見られておられないと思います」とのお話。戦前邦画を代表する二監督の手を経てきた一冊、と考えると感慨深いものがあります。

[出版年]
1976年

[発行所]
キネマ旬報社

[ページ数]
342

[データ]
カバー付 A5判 初版 定価2500円

[ISBN]
0374-01004-1320

1919 – 連続活劇 『ティーミン』 (ルイ・フイヤード監督)仏語小説版 ロマン・シネマ全12冊揃

「ルイ・フイヤード」より

« Tih-Minh » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
1919 « Romans-Cinéma » French Novelization

2004年、米映画批評家のジョナサン・ローゼンバウム氏が自著の『エッセンシャル・シネマ』でお気に入りの作品千本をリストアップしました。国外の映画愛好家が「このうち何本見れるか」とチャレンジする機会も多く、英語圏では大きな影響力を持っています。同リストには94本の無声映画が含まれており、グリフィスの7作とキートンの6作に次いで多く取り上げられていた監督がフイヤード(5作)でした。

『ティーミン』(1918年)はフイヤード監督が第一次大戦後に初めて手掛けた連続活劇となります。全12話、トータル5時間ほどの上映時間。ゴーモン社が35ミリポジを保管しており2018年から4Kデジタル修復プロジェクトが始動、一般公開から百年目となる2019年に最新デジタル版が完成しました。

『ティーミン』の各エピソード公開にあわせ、毎週木曜日に小説版も出版されていました。24頁ページの冊子形式で、表紙は二色刷り。小説版は単に映像を文字に起こしただけではなく映画版で言葉不足のまま展開されていた個所が説明されています。

フイヤード活劇史において『ティーミン』は物語の「語り」を変える意識が表面化してきた一作となります。

前半4エピソードの主人公はどのような事件に巻きこまれているかを知らず防戦一方となっていて目につくアクションの要素が希薄。中盤4エピソードでは新登場のキャラクター(フランシス)を迎え次第に反撃に向かい、後半に敵を壊滅させる流れになっています。初期作と比べるとスロースタートな展開ながら計5時間の流れを配慮した起承転結と全体の完成度を意識。この傾向は次作『バラバス』にも継承されていくものです。

『ティーミン』のゆったりした物語の流れは同作の弱点にもなっている部分です。旧来の連続活劇のめくるめくアクションやジェットコースター的展開を期待していると肩透かしを食らいます。逆に活劇ジャンルを幼稚とみなしていた一部の映画愛好家がこの作品で初めて活劇を評価した例が見られます。型通りの連続活劇は十分に観てきたという中級~上級者、主流からは外れながらも個性のある活劇を見たいという方が楽しめそうな作品になっています。

2020年ボローニャ復元映画祭でデジタル修復版が上映された際に2021年末にDVD版が発売される旨が告知されており、今後フイヤード活劇再発見の中心となっていくのではないかと期待されます。日本語環境で見れる機会がいつになるか分かりませんので最後に各章の要約を付しておきます(各章のスクリーンショットはGPアーカイヴより)。全体の流れはある程度掴めるのではないでしょうか。

[IMDb]
Tih Minh

[Movie Walker]


[公開]
1919年2月~4月

[出版社]
ルネッサンス・デュ・リーヴル社

付録:連続活劇『ティーミン』各章要約

プロローグ:

冒険家ジャック・アティス(ルネ・クレステ)がインドシナから帰国、車から降りてきた青年の隣には黒髪の女性の姿。現地で世話になったティーミン(マリ・アラルド)であつた。互いに憎からず思っていた二人の運命を一通の電報が変えてしまう。ジャックは単身インドヘと向かわなくてはならなくなった。名残を惜しむ中、ふと不吉な予感に苛まれるティーミンであつた。

第1話:忘却薬

インドでの仕事を終えて帰途についたジャック。しかし彼の動きをこっそり追っている怪しげな一団。ジャックがインドで手に入れた一冊の書籍を狙っているようである。悪党団の狙いは見返しに残されたインド語の手書き文書。まずはキストナ(ルイ・ルーバ)が世間話に紛れて書籍を借りようと試みるが、ジャックの下男(ビスコ)がいたずら書きと勘違いして文章を消してしまったため失敗。悪党達はティーミンを拉致、催眠術をかけて彼女に紙片を奪わせようと試みる。だがしかしティーミンは無意識で抗い言なりにはならなかつた。悪党団は薬を飲ませ女の記憶を消すとジャックの元に返すのあつた。

第2話:事件は夜に二度起きる

インド語のメッセージを書き写した紙片があると知ったキストナ一団はその強奪を計画。「事件の真相を教える」を口実に海岸までジャックを呼び出してから溺死させようと画策。謀略を感じたジャックは下男プラシッドに身代わりを依頼し海岸へと行ってもらい、自身は部屋の薄暗がりに隠れて約束の時間を待つ。部屋の窓から侵入してきた一つの影。机を物色したところを取り押さえたところ以前にキストナという人物から紹介されたサンタフェ侯爵夫人ではないか。女から事情を聞こうとするも、一瞬の隙をついて逃げられてしまうのであつた。

第3話:シルケー館の秘密

記憶を失ったティーミンは病院で療養しながら次第に体調を取り戻していつた。悪党の一味は再度女を拐して紙片との交換条件にしようと画策。ティーミンを見張っていたアティス家の下女ロゼッタの気を逸らしている間に誘拐に成功。一方、キストナを疑い始めていたジャックは下男プラシッド共にキルケー館に潜入、地下室に幽閉されている多数の女を発見。表情は一様にうつろだった。最近巷で多発していた婦女子誘拐事件の被害者だと気づくまで時間はかからなかった。館の一角には怪しげな薬品を調合しているキストナの姿。いったんは館を離れようと試みた二人だったが、プラシッドが庭に仕掛けられた罠に掛かってしまう。館に鳴り響いた警報音。「私を殺すまではしないでしょう。行ってください」、プラシッドの言葉にジャックはその場を離れるのであつた。

第4話:ケースに潜む男

囚われの身となったプラシッドだったが機転を利かせ薬品をすり替えたのが功を奏し、意識を失わずに済んだ。服を運ぶための籠の底に身を隠す。使用人たちは何も気づかず籠を車を乗せた。行先は悪漢が秘密の拠点としているコートダジュールの豪邸であった。プラシッドは館の二階に幽閉されていたティーミンを発見。薬を飲まされていたが動けるようではあった。プラシッドは女を誘導して小舟に乗せ無事脱出に成功、ティーミンをジャックのもとに送り届けるのであった。ジャックは旧友の外交官フランシス(エドゥアール・マテ)に連絡をとり、ヒンディー語文章の解読を試みる。

第5話:精神病院にて

英国から到着したフランシスだったが、駅では悪漢たちが先回りして待っていた。「迎えに来ました」に騙されて乗った車の行先は精神病院であった。悪党一味のジルソン(ガストン・ミシェル)はフランシスの叔父だと身元を偽って「甥に妄想癖があって」と病院長に説明をしていた。病院職員たちはフランシスを独房に閉じこめてしまう。奸計を見抜いたジャック達は病院に乗りこみ友人の救出に成功。フランシスによるとヒンドゥー語の文章は「第29文書」と呼ばれる国家機密で、英仏の国防にも関わるこの書類の入手を目論んで独スパイが暗躍しているとの話だった。

第6話:夜鳥

「第29文書」がフランシスの手に渡ったと知った悪党団は狙いを外交官に変える。フランシスの執事として雇われた青年は隣室で働いている美しい小間使いに心を奪われてしまう。この小間使いに変装していたのはドロレス侯爵夫人だった。ドロレスは執事を薬で意識不明にさせると部屋の物色を始めた。だが帰宅したフランシスにつかまってしまう。ジャックは女を尋問し悪党団の所在地を突き止めようと試みる。

第7話:よみがえる記憶

旧知の医学者クルーゼルの力を借り、ドロレスに催眠をかけて尋問を開始。「機密文書の存在をどうやって知った?」女の口から語られたのは、かつて仏領インドシナで起こったある事件の話だった。当時ローランソンという外交官がトンキンに赴任していたが、在任中に老いた地元民からラジャーの隠し財産と欧州の国防に関わる秘密を記した書籍の存在を知らされる。その時の会話に偶然立ち会ったのがドイツの間諜ジルソンであった。深夜、ジルソンは外交官宅に侵入し秘密の書かれた書類を奪おうとするが見つかってしまう。ジルソンはローランソンを射殺し逃亡。このローランソンこそティーミンの父であった。女の告白を聞いていたティーミンは次第に過去の記憶を取り戻していく。

第8話:ヴェールの下に

悪党団は反撃の機会を狙っていた。ドロレスを奪い返したのち、次の目標はティーミンだった。尼僧に変装したキストナがジャック宅に入りこむのに成功。ティーミンを銃で脅して機密書類の在りかを白状させようとした。危うく命を失いかけたティーミンたちであるが、執事プラシッドとその婚約者ロゼット(ジャンヌ・ロレット)の活躍で悪人たちの撃退に成功する。

第9話:慈悲の枝

一旦は平穏を取り戻したかに見えたジャック達。だが悪党一味は次の襲撃機会を狙っていた。内通者として潜りこませた小間使いを通じてジャック達の動きは筒抜けだった。ジャックとフランシスが悪漢の捕縛に向かおうとした時ティーミンも同行を望んだのだが「危険さに晒す訳にいかない」と断られてしまう。諦めきれないティーミンは荷物の片隅に隠れこっそり後を追おうとするが、その動きをキャッチした悪党団が反撃に出る。

第10話:13日の金曜日

キストナは「金曜日」の伝言を付した白い粉末を内通者に送りジャック達を人事不詳に陥れようと試みる。小間使いの一人が敵に通じていると知ったジャックは謀略を逆手に取り、騙された振りをして悪党一味をおびき寄せようと試みる。金曜、何も知らずやってきたキストナ達を返り討ちにするのだが、一党が退却中にティーミンと鉢あわせとなり、これ幸いとばかりに女を拉致しようと試みる。再度危地に陥ったティーミンを救ったのは意外な人物であった。

第11話:第29文書

ジャック達の尽力が実り、スパイたちへの包囲網が着々と完成しつつあった。だがキストナ一味は最後の反撃を試みる。早朝、まだ就寝中のフランシスの部屋を襲い身動きをとれなくしてしまう。英国からフランソワ宛に届いた書簡を見ると第29文書がすでに無効化された旨が記されていた。「もはやこれまでか」。フランソワを救出にやってきたジャック、プラシッドらに追われ悪漢たちはアパルトマンの屋根伝いに逃走を試みる。

第12話:正義の鉄槌

ジャック達は車で逃走したスパイ団を追跡していく。逃げ場を失った悪党たちは次第に仲間割れを始めていた。最後に残ったキストナとジルソンの二人もまた互いを警戒しながらの逃避行を続けていく。車のガソリンが切れ、徒歩での移動を強いられたジルソンは地元の採掘場で使われていた鉱石を運ぶケーブルカーを思い出した。何としても逃げ切りたい悪党一味とそれを必死で追うジャックと仲間たち。最後の追跡劇、ジャックを待つティーミンらの想いの行方や如何に。