【今週の動画】1912 – 9.5mm 『消えゆく民 アイヌの人々』(仏パテ・フレール社作品)

「9.5ミリ 科学/歴史/地誌/産業」より

1912 - Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos
Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos (French Pathé)

1912年末にフランスで公開されたほぼ同名の作品を9.5ミリ用に再編集したもの。この作品については海外の映像研究家が論文を発表(『オリエンタリア』2017年第17号)しているため、一旦そちらを参照させていただきます。

アイヌの民が登場してくるもう一つの1912年映像作品は『消えゆく民 アイヌの人々』(英題:The Hairy Ainos)で、パレ・フレール社の製作によるものであった。同社は1902年に映画技術の特許を購入、時事映像の分野でリュミエール兄弟の後を継いだ。忽ちにしてパテ・フレール社は当時最大の映画製作会社となり、1909年に日本にも拠点を設立している。『消えゆく民 アイヌの人々』は長さにして僅か三分足らずの作品である。冒頭ではチセ(アイヌ式住宅)の前に立った四人の男性、次いで四人の女性が映し出される。字幕により、アイヌの人々は大半が猟と漁で生活しているとの説明が入る。次の場面では、海を背景として女性と子供とが歩いてくる。さらに丸木舟に乗った二人の男性が登場。

『消えゆく民 アイヌの人々』が公開された時期、原初の映画術でもたらされた驚きはすでに乗り越えられていた。このパテ社作品には儀式などの伝統から一旦距離を置き、日常生活に密着したいとの意思を読み取ることができる。旧来の時事映像作品と違い、リュミエール兄弟の下でアイヌ民族を撮っていたジレル氏が描いた古い舞踏であるとか、その他の特徴的な要素は本作にない。その代わりとして、朽ちた小屋の前で子供をあやしている女性が登場するのだ。広角レンズで撮影された老人も儀式用の服は着ておらず、頭にラウンペはなく、髭もほとんど見ることはできない。(マルコス・センテノ=マルティン「表象外の眼差し:初期映画におけるアイヌ民族の描写について」『オリエンタリア』2017年第17号)

The other film featuring the Ainu people in 1912 is entitled Un peuple qui disparaît, les Aïnos (aka The Hairy Ainos) and was produced by Pathé Frères Company, which had bought the cinematograph patents in 1902 and succeeded the Lumière brothers in the production of actulités. Very soon, Société Pathé Frères became the biggest film production company of the time, and in 1909, it established headquarters in Japan. Un peuple qui disparaît, les Aïnos, which only lasts for three minutes, begins with four men followed by four women posing before a chise and an intertitle explaining that the Ainu were mainly hunters and fishers. In the next scene, a woman and a child are seen walking with the sea in the background and afterwards, two men enter scene on a chip (Ainu canoe). […]

When Un peuple qui disparaît, les Aïnos was released, the astonishment produced by primitive cinema was already overcome. Pathé film demonstrated an interest to move away from ritualized traditions and a willingness to get closer to everyday chores. Unlike previous actuality films, this footage does not contain traditional dances or other distinctive elements depicted by Girel. Instead, the sequence features a woman and her child before a dilapidated hut; a wide shot framing an elderly man who does not wear the ceremonial clothes nor any raunpe on his head, and his beard can be hardly seen.(enteno Martín, Marcos P. “Gazes outside the Representation. Early Film Portrayals of the Ainu People (1897-1918)”, Orientalia, issue 17, 2017, pp. 189-211)

筆者センテノ=マルティン氏は実際に北海道を訪れ、アイヌ民族についてのドキュメンタリー映画(“Ainu. Pathways to memory”)も監督されている人物です。論考後半では、タイトルの「消えゆく」という表現が同時期にアメリカン・ネイティヴに使われていた(1925年出版のゼイン・グレイの小説『滅び行く民族(原題:The Vanishing Americans)』)点にも注意を促していました。

映画の発明当初から少数民族への興味は見られたものの、独自の踊りや入墨、髭といった表層的な関心が優先されていたのに対し、『消えゆく民 アイヌの人々』では生活に密着していく発想が顕著となり、結果として表現されている「リアリティ」の質が変化している、というのがセンテノ=マルティン氏の主張の一つです。

当初の好奇の眼差しが次第に研ぎ澄まされていくという話は一般的に見ても分かりやすいのではないかと思われます。


[タイトル]
Les Peuples qui disparaissent. Les Ainos

[原題]
Un peuple qui disparaît, les Aïnos

[メーカー]
仏パテ・フレール社

[公開]
1912年

[IMDb]


[メーカー]
仏パテ・フレール社

[仏パテ社版カタログ番号]
1230

[フォーマット]
20m(2707フレーム、14fps、3分)、無声、ノッチ有

1930年代中盤 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第一部:ジークフリード』(1924年) & 『メトロポリス』(1926年)独パテックス版予告編

「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」より

« Nibelungen » & « Metropolis »
c1933 German Pathex 9.5mm trailer


1933〜34年頃、独パテックス社がプロモの為に制作した9.5ミリ版の予告編。

ちょうど昨年の今頃、古い映写機をベースに9.5ミリ専用スキャナーの制作を行っていました。この際、解像度を確認していくサンプルに使用していたのこの予告編でした。コマ数がそこまで多くないため扱いやすかったのと、自分自身のモチベーションを上げるのにちょうど良かったのかなと思います。

綺乃九五式はその後レンズ回りを中心に改良を加えています。どのくらい画質が向上したのか確認してみました。

まずは『ニーベルンゲン 第一部:ジークフリートの死』から。左が2019年10月9日にラズパイカメラのV2を使ってスキャンした画像。右が2020年9月5日にラズパイHQカメラで同一フレームをスキャンした画像です。

昨年スキャンを行った際は、光の散らし方が上手くいっておらず画面右に明るい個所がまだら状に発生、文字が滲んでいました。今回のスキャンではその欠点が修正されています。

またHQカメラに切り替えたことで解像度が向上、細やかな濃淡をシャープに撮影することができるようになっています。主人公の腰の辺りを拡大してみました。

汚れや傷もクリアになっているのが分かります。

ニーベルンゲン予告編の最後のショットと、『メトロポリス』予告編の最初の場面。どちらも縦線が強調された構図です。旧スキャンにはわずかながらレンズの「歪み」があります。いわゆる「球面収差」に関わる話で、右のHQカメラの方が縦横の直線を正確に描写できています。

新スキャンの方では肌のグラデーションが自然に再現されています。

映写機で投影した画像と比べれば旧スキャンでも十分にシャープな映像だとはいえます。ラズパイHQカメラは一段階アップグレードされていて目標に一歩近づいた気がします。後はノイズ除去や修復力勝負ですね


光川 京子(1918 – ?)

「日本 [Japan]」より


若き日の榮えよ、めでたさよ!この一句を光川京子の讃とする。當年わづかに十七歳の京子の、現在の人氣はどうだろう!『お駒ちやん』といふ名で、蒲田撮影所員んみんなから可愛がられてゐるが、この名こそ第一囘作品『初戀と与太者』の京子の役名だつたのである。輝かしいスター生活は、實にこの處女作から始まつたのである。ちよつとユーモアが感じられるのは、清楚な京子が、甚だ肉類を好むことである。牛込に生れて赤坂に育ち、氷川小學校に通ひながら長唄と三味線に精進した。これが爲め京子は純日本風の娘に仕あげられたので、蒲田に入つてまだ三年(昭和六年十一月二十一日入社)だが、早くもあの人氣を克ち得たのである。若き日の榮え!

『最新映画大鑑』
(1934年8月、冨士9月號附録)


[JMDb]
光川 京子

[IMDb]
Kyôko Mitsukawa

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.5 × 8.5 cm

浅間 昇子(1910 – 1973)

「日本 [Japan]」より


本名瀧澤昇子。明治四十五年東京市赤坂區に生る。靑山女學校修業。大正八年帝國劇場にて初舞臺後引継ぎ舞臺にあり映畫界入りは大正十四年マキノ入社は昭和五年二月。娘役が得意、主な近作は「鴨川小唄」「光を求めて」「僞婚眞婚」等。身長五尺二寸。體重十一貫三百目。趣味は繪畫、三味線、讀書。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


[JMDb]
浅間 昇子

[IMDb]
Shôko Asama

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.0 × 8.5 cm

1924 – 9.5mm 『二少年によるフランス周遊記』(ルイ・ド・カルボナ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より


或る夜、ジユリアンとアンドレ兄弟は闇に乗じてファルスブールの孤児院を抜け出した。亡き父の遺言を果たすため叔父が住む南仏マルセイユへ向かつたのである。父の旧友の助けもあり、二人は無事国境を越えフランスに辿りつくことができた。手持ちの路銀は乏しく、兄弟は徒歩で南下を始めた。

道中では多くの人々に助けてもらう。エピナルの町では宿屋の亭主夫婦に可愛がられ、ジユリアンは錠前屋の修業をし、アンドレは学校で勉強させてもらう。しかし長居は出来なかった。一ヶ月の休息の後に二人は再度旅に出た。ブドウ作りの盛期を迎えたブルゴーニユ、工業の町クレルモン・フェラン、宗教建築の立ち並ぶアヴイニヨンを経由してプロヴァンスに入つていく。

マルセイユまで六十里となつた所で南仏の強風に煽られアンドレが足に怪我を負った。ジユリアンはルートを汽車に切替え、弟を背負つて客車に乗りこんだ。マルセイユに辿りつくも、折あしく叔父はボルドーに長期滞在中とのこと。肩を落とした兄弟を見てマルセイユっ子たちが一肌脱ぐ。港町で船主に話をつけ、運河を使いボルドーまで送つてもらう話になった。

ボルドーで叔父と再会。事情を知つた叔父は二人を養子にしようと決める。手続きの爲に孤児院へ戻らなくてはならない。ダンケルクまで船で移動して汽車でファルスブールへ。父の墓参りを済ませ役所へ向かう。交付されたのはフランス国籍を証明する書類であつた。晴れてフランス市民となつた兄弟は叔父の親友ギヨーム氏一家の元に身を寄せ、幸せに暮らしたのであつた。


『二少年によるフランス周遊記』は19世紀後半に出版された児童向けの物語です。第二次大戦前のフランスでは国語の読本として使われており当時の人に馴染み深い内容でした。1924年公開の映画版は3時間を越える大部なもので、パテベビー9.5ミリ版は前後半の二部構成とし40分程度まで切り詰めています。

主人公を演じているのはいずれも映画出演経験のない素人の子供さん。お兄さんのジュリアン役に素朴と端整さを兼ね備えたリュシアン・ルゲイ君。弟アンドレ役は天然パーマに笑顔が可愛らしいグレゴワール・ウィリ君でした。

父の遺言を果たすため貧しい兄弟が叔父のもとへ徒歩で向かう設定を口実に、様々な町の産業や文化が紹介されていきます。地理の勉強に役立つだけではなく北極星を見つけて方角を割り出したり、当時最新技術だった写真の話が出てくるなど教養ネタも多く含まれています。

同時期に公開された『狼の奇跡』(レイモン・ベルナール監督)の大衆受けを狙ったスペクタクル性はなく、エプスタイン(『蒙古の獅子』)らのインテリ受けする表現とも違っていて、話題となることのないまま埋もれてしまった一作ではありました。それでも各地の風景や産物を現地ロケで記録した功績は大きく、ナチュラルな演技も相まって好感度の高い作品に仕上がっています。


[IMDb]
Le tour de France par deux enfants

[公開年]
1924年

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
2010(前編6巻)& 2012(後編6巻)

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×12巻 ノッチ有

ベレギ・オスカー Beregi Oszkár (Sr.) (1876 – 1965) と『黄金の男』(1919年)&『怪人マブゼ博士』(1933年)

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1910年代ハンガリー映画(03)

Beregi Oszkár (Sr.) c1909 Autographed Postcard

1890年代末から本格的に演劇活動を始め、劇場を転々としつつ下積みを重ね、1900年代に人気役者の仲間入り、映画産業の勃興した1910年代に人気のピークを迎えています。

舞台では古典劇、歴史劇を得意としハムレットやリア王、ファウスト等を十八番としていました。

『演劇生活』誌1917年第22号表紙
同号では小特集が組まれ少年時代の写真も掲載されていました

声が魅力の一つでもあったため無声映画との相性を疑問視する声もありましたが、コルヴィン映画社からの主演作で杞憂だと証明してみせました。1917年には4作品で主演、この内一本がコルダ・シャーンドル監督作『カリフの鶴』(Gólyakalifa)です。二年後に再度コルダ監督と組んで製作されたのが『黄金の男』(Az aranyember)でした。

『演劇生活』誌1917年第43号より
『カリフの鶴』スチル

『黄金の男』より
左端に義母役のベルキー・リリ

19世紀後半の同名小説を原作としたもので、オスマントルコからドナウ川を越えてハンガリー領に入ろうとしたトルコ人の父娘と、二人を助けようとしたハンガリー人大尉(ベレギ)の物語を綴っていきます。

1920年代になるとドイツ映画界に進出。マイケル・カーティスの大作歴史劇『イスラエルの月』(Die Sklavenkönigin、1924年)等で活躍、短期間ハリウッドにも渡りますが旧大陸と同じ成功を収めることはできませんでした。

マイケル・カーティス監督作品『イスラエルの月』(1924年)より

映画キャリアの代表作となるもう一作はトーキー到来後の1930年代に公開されています。フリッツ・ラング監督の戦前ドイツ最終作となる『怪人マブゼ博士』(Das Testament des Dr. Mabuse、1933年)です。怪優ルドルフ・クライン=ロッゲを相手に一歩も引かない濃厚な演技にハンガリー戦前演劇を支えてきた名優の意地を見ることができます。

『怪人マブゼ博士』(1933年)でのベレギ(左)とルドルフ・クライン・ロッゲ(右)

[IMDb]
Oscar Beregi Sr.

[IMDb]
Az aranyember

[Hangosfilm]
Az Aranyember

ホッライ・カミッラ(Hollay Kamilla / Camilla von Hollay, 1899 -1967) と『アフロディーテ』(1918年、デエーシ・アルフレード監督)

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1910年代ハンガリー映画(04)

Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard
Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard

ハンガリー映画の黎明期に勢いのあったスター映画社と契約を結び、イレーシュ・イェネ監督作品『János vitéz』(1916年)の脇役として映画デビュー。同作で主演を務めたデエーシ・アルフレードが監督転向後、その作品のヒロインとして重用されるようになりました。

デエーシ・アルフレード監督作品
『Siófoki történet』でヒロインを務める
「演劇生活」誌1917年44号より

水着姿での一枚
「演劇生活」誌1918年35号

スター映画社の宣伝ページ
「演劇生活」誌1918年46号より

スター映画社の作品はほとんど残っていないのですが、近年の調査から少なくとも3本の現存が確認されハンガリー国立映画アーカイヴに返還されました。その一本『アフロディーテ』(1918年)にホッライ・カミッラ名義時代の演技を見ることができます。

Hollay Camilla in Afrodite (1918)

『アフロディーテ』(1918年)より

「演劇生活」誌1918年37号スター映画社
特集記事より『アフロディーテ』スチル

1922年からはカミーラ・フォン・ホレイ名義でドイツに活動拠点を移します。日本でも公開された表現主義調の戦争ドラマ『世の果』では準ヒロインの妊婦役を演じていました。

Hollay Camilla in Am Rande der Welt (1927)

『世の果』(Am Rande der Welt、1927年)より

[Movie Walker]
カミーラ・フォン・ホレイ

[IMDb]
Camilla von Hollay

[Hangosfilm]
Aphrodite

ルートヴィヒ・トラウトマン(Ludwig Trautmann、1885 ‐ 1957)と『天馬』の記憶

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Ludwig Trautmann 1910s Autographed Postcard

独逸のフイルムが上野みやこ座へ盛んに出た時分澤山にあらはれたブラウン探偵としてその顔は諸君の記憶に深ひことゝと思ふ。本誌十號にもこのことについて述べてあるから更に言ふ必要もない位である。この優の最もよく知られたのは彼の »天馬 » The Million Mine (Die Millionenmine) である。陸に海に地に空に到る所の活躍はこの俳優の右に出る者は先づ無いと云つて差支へない。自動車から自動車、橋から列車、船から船或は飛行機、乗馬、屋上の輕業、さては綱渡り等あらゆる危險は彼の前にも亦後にも類が無い。活劇俳優の第一指に數へられるとも決して大言ではあるまい、ルツドヴィツヒ・トラウトマン氏 (Herr Ludwig Trautmann)とは其人である、彼の出る劇は殆ど皆一つの作者を持つて居る、卽彼の活劇の考案者はハリー・ピール氏(Herr Harry Piel)で彼あると共に是等の劇に對する作者ピール氏あることを忘れてはならない。

「活劇及びその俳優:其二 ブラウン探偵」
(水澤武彦、『キネマ・レコード』収録、1915年2月号)


『天馬(てんば)』(ヴァイタスコープ社の作ルドウイツヒ・トロウトマンの演じたブラウン、探偵劇の中で最も成功したものです。戰前独逸探偵活劇の隆盛は此の映画の出現に依つて初まりました。)此の映畫程客を呼んだ映畫はありません。餘り頭腦の明晰でない-と云つては失礼かも知れませんが事實だから仕方ありません-活動屋さんも、此の『天馬』のことだけは末に記憶して居ます。そのブラウン探偵事トラウトマン氏は現在自社を設けて居ます。

「独逸映畫界の今日此頃」 (鈴木笛人、
『活動花形改題 活動之世界 7月号』収録、1921年)


この年の忘れ難い寫眞として「フアントマ」(佛エクレール社連續寫眞)又はトラウトマン氏の「天馬」又は「名馬」「第二天馬」といつた、劇を舉げて置く。

「映畫十年」(石上敏雄、
『映畫大観』収録、1924年、大阪毎日新聞社)


活劇の幕は独逸映畫の『天馬』によつて切つて落され、独逸活劇の花形としてルドウイヒ・トラウトマンが人氣を背負つて立つた。併しトラウトマン以前にもヨセフ・デルモントの如きがあつて、エルコ會社から『夢か眞か』『秘密』などの探偵活劇を出し、その軽妙な離れ業に可なり價値を認められたこともあつたが、トラウトマンが現はれてからは、全く姿を沒し、愈よこれから独逸活劇の全盛時代となり、トラウトマンの獨り舞臺に入つたのである。 […] その表情は無味乾燥であり、動作は殺伐であつたが、活劇そのものゝ目的は外にあるので、それ等の點で少しも價値を傷けることなしに、觀客はその冒險的演技を却てよろこび、輕快なる動作にすつかり酔はされた。『天馬』における彼がブラウン探偵としての活躍を見よ。陸に海に空に到るところに離れ業を演じて、手に汗を握らせた。船から船、橋から列車、自動車から自動車とあらゆる冒險に、前にも後にもトラウトマンの右に出づるものがない。『天馬』といふのは日本での改題で、原名は『ジ・ミリオン・マイン』(百萬圓の鑛山)である。その映畫が當つてから、あとで出來たコンチネンタル映畫の『夜の影の秘密』が『名馬』と改められ、またヴァイタスコープ映畫の『黑手組の末路』が『名馬續篇』と改まり、興行者の人氣取りから、標題を『天馬』に眞似たのが多く、終ひには『天空馬』といふやうな奇怪な名の映畫まで現はれてゐる。これで見ても、『天馬』が如何に人氣を取つたかゞ知れるであらう。

『欧米及日本の映画史』
(石巻良夫著、1925年、プラトン社)


スーパー8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』
(監修:岩城其美夫、『天馬』特別説明:泉天嶺)

1914年公開のドイツ映画『天馬(てんば)』で探偵ブラウンを演じたのがルートヴィヒ・トラウトマンでした。

第一次大戦の開戦前後の日本ではドイツ映画ブームが起こっていて『天馬』はその火付け役のひとつでした。山本知佳氏による論文『日本におけるドイツ映画の公開』(日本大学文理学部人文科学研究所第97号、2019年研究紀要)によると、日本では1913年にドイツ映画の輸入が始まり(61作)、翌1914年に139作まで増えています。その後大戦の余波で公開数が激減。一年程度の流行ながら短期間に200作以上のドイツ作品が紹介されていたことになります。

盛り上がりを覚えている愛好家は一人ならずいて、1920年代以降も折に触れて『天馬』の名が上がっています。その内の幾つかをまとめてみました。本来ブラウン物ではない作品まで『第二天馬』や『名馬』、『名馬續篇』として紹介されていた様子が伝わってきます。

1910年代前半のドイツ映画としてはラインハルト劇団系統の作品(『ゴーレム』『プラーグの大学生』『奇跡』)に重点が置かれがちです。同時期の冒険活劇、探偵劇、メロドラマへの関心は低く、ライヒャー主演のウェブス物ハリー・ピール主演作がようやく評価され始めたのが現状です。オーストリアやスイス、フランスなど周辺国を見ても、1910年代に『天馬』やその周辺作品で盛り上がっていた国はありませんでした。

日本だけが異質な反応を見せていました。

リアルタイムで旺盛な言及対象となっていた。1920年代に昔話のネタとなり、半世紀後になおフィルムが残っていて、倉庫のどこかに今でも眠っているかもしれない…

作品全体を見ていないためこの状況をどう判断するか難しい所です。大したことのない作品を有り難がっていた可能性も零ではありません。逆に本国で見落とされていた良作を目ざとく見つけていた可能性だってある訳です。もし仮に後者だった場合、映画史的な「レフュジア」(本来生息していた地で絶滅した種が他の環境下で局所的に保存されている状態)が形成された、と見ることができると思います。


[IMDb:ルートヴィヒ・トラウトマン]
Ludwig Trautmann

[IMDb:『天馬』]
Die Millionenmine

[IMDb:『名馬』]
Der geheimnisvolle Nachtschatten

※『第二天馬』『名馬續篇』については現時点で未特定。後者は『黑手組の末路』の別タイトルから「Die schwarze Natter」ではなかろうかと当たりをつけています。

ゴンバセージ・フリーダ (Gombaszöghy/Gombaszögi Frida, 1890 – 1961) と『私は死にたい』(1918年、アンタルッフィ・シャーンドル監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(02)

1890年生まれ。1909年演劇学校卒業後に舞台女優の活動を始め、1910年代中盤にかけ知名度を上げていきます。1916年にコメディ劇場(Vígszínház)付き女優となり、翌年から主役が付き始め以後1933年まで同劇場花形として活躍します。

コメディ劇場(Vígszínház)と契約後 初めて「演劇生活」誌表紙を飾った1916年第8号(2月)

同劇場で花形となり
「演劇生活」誌1917年第1号の表紙を飾る

1918年末、アンタルッフィ・シャーンドル監督・主演作
『ボディガード(A testõr)』でヒロインを務める

1919年に一青年による襲撃を受け、顔面部を撃たれるという事件の被害者となりました。著名な整形外科医エルネー・ラースローによる施術で傷はほとんど見えない状態まで回復しましたが、しばらくの間休業を余儀なくされます。事件当時、『演劇生活』誌では「病気による数ヵ月の療養」と説明されており襲撃の事実は伏せられていました。

1922年にハンガリー新聞業界の大物ミクローシュ・アンドール氏と二度目の結婚。同氏が1933年に亡くなった後に事業を引き継ぎ女優業から一旦は引退。戦後になって演劇活動を再開し1961年に亡くなっています。

1917〜20年にかけ数作の映画に出演。確認できる限り最も古い出演作はマイケル・カーティスの初期作『Farkas』(1917年)。その後レックス映画社(Rex Filmgyár)で無名時代のポール・ルーカス(Lukács Pál)と共演。1918年に公開された『私は死にたい(Vorrei morir)』が現存しハンガリー国立映画協会がVimeoで公開しています。舞台色の強いメロドラマながらバストショット〜クローズアップでの感情表現は質が高く見るべきものがあります。

[IMDb]
Vorrei morir

[Hangosfilm]
Vorrei morir

フェダーク・シャーリ (Fedák Sári, 1879 – 1955)と『三週間』(1917年、ガラシュ・マールトン監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(01)

『シビル』(1914年)より

『シビル』(1914年)より、直筆サイン入り絵葉書 右は共演のアールパード・ラタバール(Árpád Latabár)

フェダーク・シャーリは1890年代末からの長いキャリアを持つオペレッタ女優です。1910年代中盤には『シビル』(1914年)、『謝肉祭』(1916年)、『大理石の花嫁』(1917年)で人気のピークを迎えていました。

1917年に初めて映画に出演。英作家エリノア・グリンの同名小説を下敷きにした『三週間』(Három hét)です。『演劇生活』誌ではブダペストで公開された際のリポートが掲載されていました。前売り券が売り切れ、当日券の発売がなく見れない人々が続出したエピソードが紹介されています。

『三週間』の功績の一つとして同国の舞台劇愛好家に「映画」を認識させた点を挙げることができます。当時、まだまだ映画は格下のジャンル、見世物だと考えている人が多くいました。絶大な人気を誇っていたフェダーク・シャーリが映画に主演した事自体がインパクトであり、風向きの変化を後押ししていきました。

ドイツ・キネマテークが公開しているドイツ語版

[IMDb]
Három hét

[Hangosfilm]
Három hét

1948年1月 -「ヴィクトラン・ジャッセと仏無声映画」(「歴史調査委員会」主催座談会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

戦中1943年に映画産業界組織委員(COIC)の提言を受け、映画史家アンリ・ラングロワ主導で「歴史調査委員会」が活動を始めました。1)初期映画に関わる情報収集、2)監督や出演者、公開年などが分からなくなっていた無声映画の同定、3)シネマテーク・フランセーズへの資料集約を目的とした組織です。

この活動の一環として、1940年代後半~60年代中盤に俳優や監督・技術スタッフのインタビューが行われ、約110点の資料が残されることになりました。このうち1948年1月に行われた対談を文字に起こした資料番号5番(CRH5-B1)と、同年3月に行われたインタビューをタイプ打ちした資料番号52番(CRH52-B2)がヴィクトラン・ジャッセに関わった内容となっています。

Victorin Jasset : réunion du 24 janvier 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH5-B1) pdf

.

表紙には「歴史調査委員会」を表す「RH」と対談の日付「1948年1月24日」、対談の主な内容が手書きで記されています。この文字を書いたのは初期連続活劇で活躍し、当時は「秘書」として歴史調査委員会に同行していた元女優のミュジドラでした。

30頁の原稿の内、前半の12頁がジャッセ監督とエクレール社を扱った内容となっています。当時の同社の雰囲気について、対談参加者の一人J・J・ルノー氏が次のように語っています。


J・J・ルノー:[…] 特にパテ社等では製作スタッフが金銭的にむしりとられていたのに対して、エクレール社では皆が家族の様な一体感がありました。

またエクレール社の経営に関わっていたマルセル・ヴァンダル氏はジャッセについて次のように語っています。

アンリ・ラングロワ:ジャッセ監督と個人的なやりとりはあったのですか?

マルセル・ヴァンダル:5〜6年程仕事で御一緒させていただきました。彼が監督として名を上げたのは弊社にいた頃の話です。『プロテア』を含めた彼の作品は全て彼と私との契約から生み出されてきたものです。

ジャッセ監督の経歴についてヴァンダル氏は次のように述べています。

マルセル・ヴァンダル:ジャッセはゴーモン社の映画館に建て替えられる前にあった「イポドローム劇場」で監督をしていました。映画に初めて携わったのはゴーモン社で、イポドローム劇場では舞台監督をしていました。エクレール社が当時雇った監督が二人いて、一人がジャッセ、もう一人がアトでした。ジャッセは一流の人物で、亡くなるまで弊社で働いてくれました。

『ジゴマ』についてヴァンダル氏は次のように述べています。

アンリ・ラングロワ:『ジゴマ』について話していただけますか。

マルセル・ヴァンダル:題を『ジゴマ』に決めたのは私とジョルジョンでした。変装の名人の設定だったからです。『プロテア』の題も私たちが決めたものです。フランスで初の連続劇となったニック・カーター物と違い、下敷きにした原作はありませんでした。

ジャッセ監督の遺作となった『プロテア』(1914年)について、ヴァンダル氏は「『プロテア』は主演女優のジョゼット・アンドリオの件もあっていつもと違う特別な動きをした」の微妙に含みのある言い回しを用いています。同作製作に関わったJ・J・ルノー氏は「(エクレール社トップの)ジョルジョン氏に『プロテア』を作るよう頼まれたのだけれど正直気乗りはしなかった」とのこと。

前後の文脈を総合すると、エクレール社の内部でジャッセ監督の愛人だったアンドリオが特権的な位置を占めてしまい、彼女のため『プロテア』を作らざるを得なかった構図が浮かび上がってきます。必ずしも快く思っていなかったスタッフもいた訳で、ルノー氏自身の発言にあったエクレール社の「家族の様な一体感」も若干割引いて考えた方が良い気がします。

この対談は「歴史調査委員会」の調査の最初期に行われたひとつでそこまで深入りした内容にはなっていません。ただ、本対談でエクレール社に在席していたもう一人の映画監督ジョルジュ・アト(Georges Hatot)の名が挙がったのが収穫でした。この後ラングロワはアトに連絡を入れ、2か月後の3月15日に単独インタビューを行っています。アトの口から語られたジャッセ監督の人物像は本対談で語られている姿とずいぶん異なったものとなります。

1948年3月 -「初期映画の思い出」ジョルジュ・アト(「歴史調査委員会」インタビュー)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Georges Hatot : réunion du 15 mars 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH52-B2) pdf

1910年代初頭にエクレール社で活動していた「もう一人の映画監督」、ジョルジュ・アトのインタビュー。1948年3月にアンリ・ラングロワとミュジドラが同氏宅を訪れ実現したもので、録音を起こしたタイプ原稿にアト氏本人とミュジドラが目を通し手を加えた修正稿が保存されています。

ジョルジュ・アト(Georges Hatot, 1876 – 1959)の名は現在ほとんど忘れ去られています。1890年代の半ばからリュミエール社で修業を積み1905年にパテ社と契約、追跡劇や歴史劇、喜劇作品を監督しています。ジャッセをパテ社に紹介したのがアト氏だったそうですが、程なくして両者ともパテ社を離れエクレール社に雇われる形となりました。アトはエクレール社運営の「上質な映画作り」になじめず1910年頃には業界を離脱。一方のジャッセは『ジゴマ』を発表し同社の花形監督となっていきます。

『ジゴマ』や『プロテア』で初期映画史に名を残した「光」のジャッセに対し、アトはエクレール社の「影」と呼べそうな監督でした。

アト氏はインタビューで自身とジャッセの比較をしています。


ジャッセと私とはお互い見事に補いあうような存在でね。私はどう筋を組み立てて行けばよいか分かっていて、あいつは衣装や舞台装飾で尋常ではないアイデアを出してくるんだ。

Nous nous complétions admirablement. Moi, j’avais la compréhension du jeu, et lui il avait une conception extraordinaire, quand il fallait habiller quelqu’un ou décorer quelque chose.

ジャッセが1900年頃に舞台劇(『ウェルキンゲトリクス』)用にデザインしたポスターが特集雑誌に掲載されていましたが、アト氏はこの作品にも言及しています。

ジャッセは謂わば別階級に属している人物で[フェルディナン・]ゼッカのような性格とは確かに相性は良くなさそうだった。元々は衣装デザイナーで才能の塊だった。『ウェルキンゲトリクス』も彼の手によるもので、後にゴーモン社映画館に改装されるイポドローム劇場が出来た時に監督をしていた。

Jasset était un homme d’un autre classe, qui certainement ne pouvait pas s’accorder avec la mentalité d’un Zecca, c’était un homme de talent, un dessinateur de costume. Il était l’auteur de « Vercingétorix » et directeur à l’ouverture de l’Hippodrome qui est devenu depuis le Gaumont Palace.

こういった一連の発言から、ジャッセの衣装デザインや舞台装飾の才を高く評価しているのが伝わってきます。

またアト氏はジャッセ監督の作業時のパターン、癖を指摘しています。

映画作りが始まると熱に浮かされたように作業を始めた。でも終わりがけに手を抜き始める。ムラのある感じだった。最初から全力で取りかかってしまうんだよね。その後足が止まってしまう。頭の中は次の映画のアイデアで一杯だった。

Quand il commençait un film, il était tout feu, tout flamme. Quand il était pour le finir, il sabotait. C’était inconscient. Il commeçait en faisant le maximum. Après, ça traînait: il pensait déjà à l’autre film.

スタートダッシュを頑張りすぎて後半息切れするイメージでしょうか。ジャッセ監督が途中で放置した作品をアト氏が完成させたこともあったそうです。

更にアト氏はジャッセの人格的な難点にも触れています。一つは「他人に厳しく自分に甘い」ところ。もう一つは女癖の悪さです。現場にやってくる女優に手を出し、未成年女性のヌード写真を撮影し会社側(短期間在席していたパテ社やエクリプス社)と揉める原因になったそうで、アト氏は「病気」と言い切っています。『ジゴマ』や『プロテア』にもペドフィリア要素は見られますし、元々エキストラだった無名女優ジョゼット・アンドリオの寵愛を考えあわせるとあながちでたらめではないと思われます。

ジャッセ監督の生涯については同時代の証言や記録が少なく、表面的なデータを並べて良しとしてしまうケースがほとんどでした。アト氏の発言は好意的な内容ばかりではありませんが、長所も短所も兼ね備えた人間味のあるジャッセ像を垣間見せる貴重なものです。

浦辺 粂子(1902 – 1989)

「日本 [Japan]」より


本名濱田粂子、明治三十四年十月伊豆下田に生る。嘗て歌劇俳優として金龍館や樂天地に出演、後小松商會を経て大正十二年日活に入社し一躍性格俳優としてフアンに認められスターとなる。處女出演は『乙女の心』主演は『清作の妻』『お澄と母』『金色夜叉』があり、最近の『シベリアお龍』で物凄いところを見せめきめき人氣を高めてゐる。現住所京都市上京區北野白梅町衣笠園三四三。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


「技藝部長、山本嘉一さん」ある撮影監督から恁う言つて紹介された人を、「おゝ、この方が」と私はその落附きと澁さとに、何處か英吉利好みの上品なモーニングの紳士を、熟々と見上げました。酒井米子さんは、私たちの手を執つて、「ほんとうに京都へ來て、すつかり落附ましたわ。どうか、これからは御一緒にねえ」と、沁々として言ふのでございました。私は此の気品高い落人の胸を察して、ほろりとして了ひました。恁うして、向島から四人の監督と、五十餘名の技藝員と、技師、舞臺装置の就業員一百餘名を新しく迎へた私たちのスタヂオは、恰度春の太陽に恵まれた大地のやうに、若さと元氣に賑ひ始めたのでございました。

『映画女優の半生』(浦辺粂子著、1925年、東京演藝通信社)


もう六七年も前、「淸作の妻」等に出演して當時の人気スターであつた浦邊粂子は今は上野製作所主人との結婚に破れて、撮影所に歸り、某カメラマンと新しい生活に入つてゐるが、彼女上野家へ玉のコシに乗った時、當時たゞれた愛慾の世界にタンデキしてゐた彼女だったので、生れ變るのだと、大きな感激のもとに、その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女びいきのフアンを歎かわしく思はせた。

「映畫界エロ双紙」(小倉浩一郎、『デカメロン』1931年9月号所収、風俗資料刊行會)


[JMDb]
浦辺粂子

[IMDb]
Kumeko Urabe

[出身地]
日本(静岡)

[誕生日]
10月5日

大正13~14年(1924~25年) 私家版・キネマ旬報合本(167~185号)を読む


1920年代中盤、大正末期に発行された167号から185号まで全19冊の『キネマ旬報』を合本にしたもの。

グラビアを重視しゴシップ記事も織りこんだ『活動倶楽部』や『活動画報』と異なり、『キネマ旬報』は網羅的な映画評を主とした構成となっていました。華やかさに欠け可読性は低いものの、データベースとしての使い勝手は他を寄せつけないレベルです。

第167号(1924年8月1日)  表紙:ポーラ・ネグリ
第168号(1924年8月11日) 表紙:メーベル・ノーマンド
第169号(1924年8月21日) 表紙:エステル・テイラー
第170号(1924年9月1日)  表紙:ベティ・コンプソン
第171号(1924年9月11日) 表紙:アリス・テリー
第172号(1924年9月21日) 表紙:ローラ・ラ・プラント
第173号(1924年10月1日) 表紙:ルドルフ・ヴァレンチノ
第174号(1924年10月11日) 表紙:ベビー・ペギー
第175号(1924年10月21日) 表紙:ローレット・テイラー
第176号(1924年11月1日) 表紙:グロリア・スワンソン
第177号(1924年11月11日) 表紙:ジャクリーヌ・ローガン
第178号(1924年11月21日) 表紙:ドロシー・マッケイル
第179号(1924年12月1日) 表紙:ロイス・ウィルソン
第180号(1924年12月11日)表紙:トム・ミックス
第181号(1925年1月1日)  表紙:ビーブ・ダニエルズ
第182号(1925年1月11日) 表紙:リリアン・ギッシュ
第183号(1925年1月11日) 表紙:メアリー・ピックフォード
第184号(1925年2月1日) 表紙:オッシ・オスヴァルダ
第185号(1925年2月11日) 表紙:アイリーン・プリングル

表紙を飾っているのはハリウッド女優を中心とした当時のスター俳優たち。1925年の新年号のみ多色刷りになっています。


内容を見ていくと、欧米作品としては1)ハリウッド新作(『バグダッドの盗賊』『椿姫』『幌馬車』『十戒』『ホワイト・シスター』『ボーケール』『ノートルダムの傴僂男』)に比重を置きつつ、2)数は少ないながらドイツ映画の大作路線(『阿修羅王国(ヘレナ)』『ジークフリート』)に心を奪われている様子が伝わってきます。3)フランス映画はほとんど紹介されていないのですが当時亡命ロシア映画人がパリで立ち上げたアルバトロス社が注目されていました。4)喜劇界ではチャップリンの制作ペースが落ちていた時期で、ロイド(『巨人制服』)やキートン(『荒武者』)が人気を博しています。


国内作品に目を転じると、日活・松竹・東亞・帝キネの4社がしのぎを削っている様子が伝わってきます。監督(溝口健二、伊藤大輔、清水宏、村田實…)の動静が丁寧に追われているのがキネマ旬報らしいと思いました。厳密には国内作品ではないものの、早川雪洲氏が渡仏して撮った『ラ・バタイユ』公開もこの時期に当たっています。


論考では「デヴィッド・ワーク・グリフィス(森岩男)」「アベル・ガンスの肖像(飯島正)」「滞米二年の私の生活(エルンスト・ルビッチ、田村幸彦訳)」など作家主義指向の力作が目立っていた感じです。


帝キネ撮影所は其後益々健全で、略一月足らず大阪芦邊劇場に於て舞臺實演に出演中であった蘆屋映画部の連中も再び撮影に着手し、活氣を呈して來た。(1924年8月167号「日本映畫欄」)


1924年夏〜25年初頭のキネマ旬報をまとめ読みしていて面白かったのは帝キネ分裂をめぐる経過報告です。小唄映画『籠の鳥』のヒットによって経営状況が上向き、大手から俳優やスタッフを大量に引き抜くも待遇の違いから古参組が反旗を翻し、最終的には三分裂(アシヤ/東邦)していく展開をとったものです。一連の経緯については別な資料(『欧米及日本の映画史』、石巻良夫、1925年)で読んだ覚えがありますが、『欧米及日本の映画史』はすでに完了した出来事を俯瞰的に追っているのに対し、キネマ旬報の情報は断片的ながら「今まさに内部抗争が起こりつつある」臨場感が伝わってきます。

立石駒吉氏入社と共に小阪撮影所の一大改革は行なはれ、近く各社より數名のスター監督が新たに入社する筈にて既に決定し足る者も少くはないが次號にてその詳細を確報すべし。(1924年10月173号)

[…] 帝キネに入社確定したる重なる俳優左の如し。
宮島健一氏。關操氏。横山運平氏。阪東妻三郎氏。瀨川路三郎氏。中村吉松氏。森静子孃。鈴木澄子孃。中村琴之助氏。(以上東亞キネマより。)中村太郎氏(松竹加茂より。)
尚監督としては松竹加茂に在りし、枝正義郎氏が入社した。
五月信子孃、梅村蓉子孃の入社説も專らなるがこれは未だ未定で確報は出來ない。(1924年10月175号)

[…] その後松竹日活より引抜いた監督及び俳優技師作者の確定した人達は左の如し。
細山喜代松氏。葛木香一氏、水島亮太郎氏、鈴木歌子孃、靑島順一郎氏(以上日活より。)
五月信子嬢、正邦宏氏、小澤得二氏、藤間林太郎氏(以上松竹蒲田より。)
髙木泰作氏、山下秀一氏、石川白鳥氏、原コマ子孃(松竹加茂より)
惡麗之助氏(東亞等持院より)。
右の如く素晴らしき陣容を整へた帝キネの今後の活躍こそ注目すべきであろう。(1924年11月177号)

[…] 松本泰輔氏一派及び松本英一氏市川百々乃助氏等は石井専務と行動を共にして斷然帝キネを退社する事を決議し連袂辭職を會社へ提出したがその眞相及び俳優名其他詳細は次號にて確報す。(1925年1月183号)

帝キネ撮影所對舊芦屋映畫一派の紛擾は遂に撮影所側の勝利となり、松本泰輔氏以下十數名の犠牲者を出だして解決するに至つた。退社した人々は左の通りである。
松本泰輔氏里見明氏濱田格氏以下數名。柳まさ子孃久世小夜子孃鈴木信子孃以下數名。市川百々乃助氏市川好之助氏市川瓢藏氏以下數名。(以上俳優)松本英一氏。(監督)佐藤靑秋氏。(作者)大森勝氏。(技師)等。
尚去就いづれかを注目されて居た歌川八重子孃澤蘭子孃は撮影所側に同意し居殘る事に決定。(1925年2月184号)


手元の合本で追われているのはここまで。『欧米及日本の映画史』では「十四年一月、一同は連袂退社の辭表を提出し、『芦屋映畫』といふ一派を起す計畫を進めたのであるが、會社はこれを以て背任行為と認め、松本泰輔以下十數名を進んで馘首した」(351頁)の一行で済まされている部分です。キネマ旬報のように具体的に個人名が挙げられているとずいぶん印象が変わってきます。例えば市川百々乃助、里見明&久世小夜子はそれぞれ時代劇、現代劇で初期帝キネを支えてきた功労者でした。そういった役者たちが問答無用で「馘首」された衝撃が生々しく伝わってくるのです。



それとは別に興味深かったのはこの前後のマキノ省三の動きです。1925年3月に直木三十五に手を貸す形で「聯合映畫藝術家協會」の立ち上げに関わった話は良く知られています。第一弾は澤田正二郎主演の『月形半平太』でしたが、実際には同年1月に公開された『國定忠次』がその布石の一つとなっていました。

舞台劇や文芸を通じて映画を「アート」に昇華する運動は様々な国の映画史で現れてくるもので、珍しい話ではありません。今回、キネ旬を読んでいて驚かされたのが『國定忠次』の前にもう一つ布石があったことです。

別項廣告の如く市川八百藏氏と守田勘彌氏も映畫を製作する。之は日米映畫社が配給するもので、八百藏氏は十二月九日から牧野省三氏の監督で第一回作品『お艶殺し』を撮影する筈。劇界の人々が續々と映畫の製作を始めたのは面白い現象と云はねば成らない。(1924年12月1日179号)


『お艶殺し』は何らかの理由で製作(又は配給)が中止になっています。キネ旬同号に掲載された「別項廣告」を見ると、製作は「日本聯盟映畫藝術協會」。翌年の「聯合」発足までに繰り広げられた紆余曲折の痕跡なのでしょうね。

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

1926~1935年 剣戟俳優映画 豆ブロミニコレクション

1926-35 various « kengeki » trading cards

10年近く前、国産無声映画の紙物で初めて手に入れたのがこの辺の豆ブロマイドでした。大正末期~昭和初期に九州で活動していた「活キチ」さんの旧蔵品がネットオークションに出品されていたのを発見、いずれも結構な勢いで落札されていました。1セット確保できましたが正直当時は自分でも何を手に入れたのかよく分かっていなかったです。

今回『孔雀の光(前編)』の説明本の紹介にふと思い出して引っ張り出してきました。1926〜35年にまたがる内容でアイドル感キラキラ時代の河部五郎、紙物にあまり恵まれていない佐々木清野嬢辺りの珍しい物が含まれています。


1)『孔雀の光』(1926年、マキノプロダクション・御室、沼田紅緑監督、市川右太衛門主演)

[JMDb]
孔雀の光 前編

[IMDb]
Kujaku no kikari – zenpen [sic]


2)『修羅八荒』(1926年、松竹・蒲田、大久保忠素監督、森野五郎主演)

[JMDb]
修羅八荒 第一篇

[IMDb]


3)市川百々之助(1926年頃、作品名不詳)


4)『月形半平太』(1926年、日活・大将軍、高橋寿康監督、河部五郎主演)

[JMDb]
月形半平太

[IMDb]
Tsukigata hanpeita


5)『素浪人』(1926年、阪妻プロ、志波西果監督、阪東妻三郎・森静子・佐々木清野他出演)

[JMDb]
素浪人

[IMDb]
Suronin


6)『八剣飛竜』(1929年、日活・太秦、池田富保監督、澤田清主演)

[JMDb]
八剣飛竜

[IMDb]


7)『京洛浅春譜』(1935年、千恵プロ、西原孝監督、片岡千恵蔵・歌川絹枝他出演)

[JMDb]
京洛浅春譜 同志闘争篇

[IMDb]


1926年 – 市川右太衛門主演『孔雀の光 前編』(マキノ、沼田紅緑監督)説明本・出版者不明


何は兎もあれ、生命に代えて守護して居る大切なる御宸筆が怪賊の手に奪られたあつては、朝廷に對し奉りて御申譯がない。何うあつても之れを尋ね出さなければならぬ、と一大決心を起したのが少將の令嬢八重姫である。

『譬え女でも武士の娘である、御宸筆取り戻して父の仇を討たなければ申譯がない』 健気な決心に侍女のお節も之れに勵まされて姫にお供を願ひ出た。

二人は甲斐甲斐しく身支度して門出の折から之も姫に同情して怪賊の在所を探しに出たのが藤島求馬である。


時は幕末。朝廷から水戸光圀に討幕の命が下された。その旨を記した宸筆が松島通忠左少将の手にあると知った佐幕派は通忠暗殺を決行、宸筆の強奪に成功する。父の仇を討つべく、通忠の娘・八重姫(マキノ輝子)は侍女のお節(泉春子)と共に宸筆探しの旅に出た。八幡山の奥に賊が隠れ潜んでいるのを見つけ出したが、誘拐され返り討ちの危機に陥る。窮地の八重姫を救ったのは、親友中岡慎太郎(中根龍太郎)の情報を受け馳せ参じた忠臣・藤島求馬(市川右太衛門)であった…

幕末を舞台にした勧善懲悪の冒険譚で、独立前の歌右衛門がマキノ時代に出演(『快傑夜叉王』『鳴門秘帖』)していた大作の一つとなります。説明本は3部作の第1部を扱っておりこの後鈴木澄子さんや武井龍三氏が登場、歌右衛門が二役をこなすなど物語が広がっていきます。


[JMDb]
孔雀の光 前編

[IMDb]
Kujaku no kikari – zenpen

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

1953 – Super 8 入江たか子主演『怪談佐賀屋敷』(荒井良平監督)


「8ミリ 劇映画」より

Super8 « Ghost of Saga Mansion » (dir. Ryohei Arai)

大映による化け猫映画第一弾として知られ、その後の化け猫ホラーブームの牽引役となった一作。後続の『怪猫岡崎騒動』『怪猫有馬御殿』などと共に何度かデジタルソフト化されており比較的知られた作品ではないかなと思います。

スーパー8は約30分(240メートル)のダイジェスト版。フィルムの劣化(ビネガーシンドローム)が始まっている状態でしたが傷や汚れは少なくスキャンには耐える状態でした

華族の娘として生まれ戦前に美人女優として鳴らし、一時期は自身のプロダクションまで有していた入江たか子さんが戦後、相当の覚悟をもって本作に挑んだ話は良く知られています。古くからのフアンの中には複雑な思いで見た方も多かったのではないかと思います。

一時期(1960年代〜70年代初め)の海外でも古典映画期の女優をホラー映画に出演させるのがブームになったことがありました。ベット・デイヴィスの『何がジェーンに起こったか』(1962年)に始まりバーバラ・スタンウィック(最後の映画出演となった1964年『夜歩く者 The Night Walker』)やヴェロニカ・レイク(1970年の遺作『肉体の宴 Flesh Feast』)、エリザベス・テイラーの『夜をみつめて』 1974年)と錚々たるメンツが並んでいます。

制作視点からすればホラー映画の固定フアン層以外の注目を集め、比較的低ギャラで経験値の高い女優を使えたことにもなります。『怪談佐賀屋敷』と完全に重なる訳ではないものの、発想はリンクしている気がします


[原題]
怪談佐賀屋敷

[公開年]
1953年

[JMDb]
怪談佐賀屋敷

[IMDb]
Kaidan Saga Yashiki

[メーカー]
ライリー/大映

[メーカー記号]
日本名作劇場 T-343

[フォーマット]
Super8、240メートル、31分(24fps)、白黒、光学録音

1926年 – 阪東妻三郎主演『幕末』(阪妻プロ 、宇澤芳幽貴監督)説明本・出版者不明


「阪東妻三郎関連」より


彼の武士は、いよいよ圖に乗つて亂暴を働いて居る、此有様を見た兵之助は忽ちムツと怒り出し「ヤア無禮な奴である。場所もあろうに斯る遊里の巷で亂暴を爲すとは男らしくもない奴じゃヨシ俺が取つ締めてやるぞ」と猛然として進み寄つたる兵之助は彼に近寄ると見る間に、ドツと背ひ投げを喰はしてしまつた。其勢に恐れて始めの勇氣は何處へやら鼠の如く小さくなつて人込みの中へ逃げ込んでしまつた、兵之助はカラカラと打ち笑ひながら其場を立ち去つて行った。そして神前組の所へ歸つて來た。隊長の近藤勇は彼を読んで何事か密儀を始めた。兵之助の妻の綾は後妻であつたそして先夫との間に出來た一人娘を連れて兵之助の許へ來たのであるが其の連れ子の娘が何者かに誘かいされて行方不明となつたのでお綾は毎日夫れを氣に病んで悲しい日を送つて居る[…]。


阪妻プロの初期作の一つ(第8作目)で『蛇眼』の次作として公開された作品。先日紹介した東亞の『傷魂』と同じ発行者と思われる小型サイズの解説本です。

『雄呂血』で助監督を務めた宇澤芳幽貴が初めて監督に挑戦。また松竹の特作映画(『修羅八荒』『孔雀の光』)で注目を集めていた新進女優・五味国枝が初めて阪妻と共演した一作でもあります。


[JMDb]
幕末

[IMDb]
Bakumatsu

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年