1953 – Super 8 入江たか子主演『怪談佐賀屋敷』(荒井良平監督)


「8ミリ 劇映画」より

Super8 « Ghost of Saga Mansion » (dir. Ryohei Arai)

大映による化け猫映画第一弾として知られ、その後の化け猫ホラーブームの牽引役となった一作。後続の『怪猫岡崎騒動』『怪猫有馬御殿』などと共に何度かデジタルソフト化されており比較的知られた作品ではないかなと思います。

スーパー8は約30分(240メートル)のダイジェスト版。フィルムの劣化(ビネガーシンドローム)が始まっている状態でしたが傷や汚れは少なくスキャンには耐える状態でした

華族の娘として生まれ戦前に美人女優として鳴らし、一時期は自身のプロダクションまで有していた入江たか子さんが戦後、相当の覚悟をもって本作に挑んだ話は良く知られています。古くからのフアンの中には複雑な思いで見た方も多かったのではないかと思います。

一時期(1960年代〜70年代初め)の海外でも古典映画期の女優をホラー映画に出演させるのがブームになったことがありました。ベット・デイヴィスの『何がジェーンに起こったか』(1962年)に始まりバーバラ・スタンウィック(最後の映画出演となった1964年『夜歩く者 The Night Walker』)やヴェロニカ・レイク(1970年の遺作『肉体の宴 Flesh Feast』)、エリザベス・テイラーの『夜をみつめて』 1974年)と錚々たるメンツが並んでいます。

制作視点からすればホラー映画の固定フアン層以外の注目を集め、比較的低ギャラで経験値の高い女優を使えたことにもなります。『怪談佐賀屋敷』と完全に重なる訳ではないものの、発想はリンクしている気がします


[原題]
怪談佐賀屋敷

[公開年]
1953年

[JMDb]
怪談佐賀屋敷

[IMDb]
Kaidan Saga Yashiki

[メーカー]
ライリー/大映

[メーカー記号]
日本名作劇場 T-343

[フォーマット]
Super8、240メートル、31分(24fps)、白黒、光学録音

1926年 – 阪東妻三郎主演『幕末』(阪妻プロ 、宇澤芳幽貴監督)説明本・出版者不明


「阪東妻三郎関連」より


彼の武士は、いよいよ圖に乗つて亂暴を働いて居る、此有様を見た兵之助は忽ちムツと怒り出し「ヤア無禮な奴である。場所もあろうに斯る遊里の巷で亂暴を爲すとは男らしくもない奴じゃヨシ俺が取つ締めてやるぞ」と猛然として進み寄つたる兵之助は彼に近寄ると見る間に、ドツと背ひ投げを喰はしてしまつた。其勢に恐れて始めの勇氣は何處へやら鼠の如く小さくなつて人込みの中へ逃げ込んでしまつた、兵之助はカラカラと打ち笑ひながら其場を立ち去つて行った。そして神前組の所へ歸つて來た。隊長の近藤勇は彼を読んで何事か密儀を始めた。兵之助の妻の綾は後妻であつたそして先夫との間に出來た一人娘を連れて兵之助の許へ來たのであるが其の連れ子の娘が何者かに誘かいされて行方不明となつたのでお綾は毎日夫れを氣に病んで悲しい日を送つて居る[…]。


阪妻プロの初期作の一つ(第8作目)で『蛇眼』の次作として公開された作品。先日紹介した東亞の『傷魂』と同じ発行者と思われる小型サイズの解説本です。

『雄呂血』で助監督を務めた宇澤芳幽貴が初めて監督に挑戦。また松竹の特作映画(『修羅八荒』『孔雀の光』)で注目を集めていた新進女優・五味国枝が初めて阪妻と共演した一作でもあります。


[JMDb]
幕末

[IMDb]
Bakumatsu

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

1926 – 高木新平・生野初子主演『傷魂』(東亜キネマ、長尾史録監督)説明本・出版者不明



京傳は、遂に此の玄右衛門を暗殺して仕舞つた、其後に残されたのが伜の銀之助である、『あゝ我が父を殺したのは京傳である、『彼れを討ち取つて父の仇を返さなければならぬ』とさまざまに苦心して居たが却つて京傳に覺られて已に危くなつて來たのを、京傳の娘なる彌生のために計らずも、助けられたのが妙な縁となつて、二人は仇同士の子と子でありながら、戀と戀との不思議な運命の仲となつてしまつた。


1926年に出版された豆本サイズの解説本で出版者の記載はなし。表紙を開くと写真が一枚あって、次ページに配役一覧、その後文章が7頁続いていきます。同時に公刊されたと思われるものを他に2冊所有しており、他に東亜の『南蛮寺の怪人』『強狸羅』が出ていたのも確認しています。

天草四郎の乱を背景とし、島原藩での権力争いに巻きこまれる形で仇の子供同士である相馬銀之助(高木新平)と久利部彌生(生野初子)が戀に落ちていく…の展開となっていきます。

物語のさわりの部分だけを紹介したものでこの後銀之助と彌生にどのような運命が待ち受けているのかは分からないままです。体裁、内容的にみて市販されたものではなく、客の興味を引くため映画館が宣材として配っていた非売品かなの印象があります。


[JMDb]
傷魂

[IMDb]
Shokon

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

ダマール・ゴドウスキー、1930年代後半の直筆書簡 Dagmar Godowsky (1897 – 1975) 露/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より


本当にとても傷ついております。カクテルパーティーにご招待したのはキプリン氏に引きあわせようと思ってのことで、「後で連絡するよ」と仰ったにも関わらずその後は梨のつぶて。何があったのですか。来週は船旅の予定となっているため、確実に連絡のつきそうな日曜の早い時間帯に電話くださいね。貴方の怠慢にもめげぬ温かい心持ちをこめてダマール・ゴドウスキー


I am really very hurt. I invited you for cocktails to meet Kiplins and you said you would let me know, but never a word ! What happened ? I am sailing next week so do call me sunday early that will be the best time to reach me. In spite of your neglect warm feelings Dagmar Godowsky


1920年代にニタ・ナルディやヴァレスカ・スラット等と並ぶエキゾチックな女優として評価を得ていたのがダマール・ゴドウスキーでした。名ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーの娘として生まれ、第一次大戦開戦後に父と共に合衆国に移り住みました。

映画デビューは1919年で、アルベール・カペラーニ監督がナジモヴァを主演にして撮ったハリウッド無声版『紅楼夢』(邦題『赤き灯』)でした。翌年からユニヴァーサル社作品に出演するようになり、同社の花形男優のフランク・マイヨと結婚。1922年にはロン・チェイニー主演作『狼の心』ヒロインを務めました。

フォトプレイ・マガジン 1922年6月号

その後ヴァレンチノ主演作の『情熱の悪鬼』(1924年)などに妖婦・ヴァンプ女優として登場、1920年代末には映画業界から離れ、社交界でその存在感やユーモアに長けたコミュニケーション能力を発揮していくことになります。

今回入手した書簡は(以前に紹介したサンドラ・ミロワノフ宛と同じく)仏ジャーナリストのルネ・ブレステ氏に送った一通。パーティーの招待をスルーされたダマールさんが恨み節を交えて再度連絡するよう迫った内容。シャンゼリゼ通りのカールトン・ホテルの専用便箋が使われています。


[IMDb]
Dagmar Godowsky

[Movie Walker]
ダマール・ゴドウスキー

<[出身地]
ロシア(ヴィルナ、現リトアニア)

[誕生日]
11月24日

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

キャスリン・ウィリアムス Kathlyn Williams (1888-1960) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Kathlyn Williams 1910s Autographed Photo

かつての銀幕花形で、初恋相手である活動写真に戻つてきた一人がキャスリン・ウィリアムス孃である。モンタナ州の町ビュートに生れ、ウェズリアン大学とニューヨーク演劇学校で学んだ。舞台では『21歳なりし頃』『デイン夫人の擁護』などに出演した。嬢はパラマウント社やアートクラフト映画社の映画に多く出演しており、『ビッグ・ティンバー』『遭難脱出』『囁きの合唱』『すべてが手に入る訳ではなし』。近作に『愛と芸術』があり、トーマス・ミーアンの相手を務めてゐる。丈は5尺5寸、體重は16貫700匁、金髪に灰色がかった青の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

One of the old favorites of the screen to return to her first love — motion pictures — is Kathlyn Williams. Miss Williams was born in Butte, Montana, and educated at Wesleyan University and the New York School of Dramatic Art. On the stage she appeared in « When We Were Twenty One, » « Mrs. Dane’s Defence » and others. Miss Williams has appeared in many Paramount and Artcraft pictures, including « Big Timber, » « Out of the Wreck, » « The Whispering Chorus » and « We Can’t Have Everything. » One of her latest pictures is « The Prince Chap, » in which she plays opposite Thomas Meighan. Miss Williams is five feet five inches high, weighs a hundred and thirty-eight pounds and has blonde hair and grey-blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

「モーション・ピクチャー・マガジン」1916年11月号表紙

1910年代初頭ビオグラフ社で女優デビューを果たし、ゼリグ社に移って製作された「キャスリンの冒険(The Adventures of Kathlyn)」活劇シリーズで人気を得ていました。会社での序列が上がるにつれて脚本などにも携わるようになり、ゼリグ社で数本自作を監督した記録が残っています。その後はドラマへと比重を移し、パラマウント系列の映画会社を拠点に活動を続けていきました。

映画製作にも関与したパイオニアの一人に位置づけられることもありWFPP(映画業界女性先駆者プロジェクト)でも大きく扱われています。ゼリグ社時代のプリントをEYE映画博物館が保存しており現在YouTubeでも閲覧できます。

『キャスリンの冒険』(1913年、ゼリグ映画社) EYE映画博物館所蔵プリント

[IMDb]
Kathlyn Williams

[Movie Walker]
キャスリン・ウィリアムス

[出身地]
合衆国(モンタナ)

[誕生日]
5月31日

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その三) 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ/新興、寿々喜多呂九平)

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こちらは浪花、十郎兵衛と約束した鱶七は、或る夜小幡の室へ忍び込んで、まんまと名刀國次を盗み出し、之を十郎兵衛の宅へ持來して「サー旦那、お約束の刀は持つて參りました……五百兩の方はいかゞでございます」十郎兵衛「未だ江戸から參らぬ故もう二三日猶予してはくれまいか」鱶七「私の方には他の買手も出ましたから……ではその方へ譲るとしませう」十郎兵衛「では明日の晩まで待つてくれ……きつと五百兩、耳を揃へてお渡し申さう」

足利将軍の末裔阿波家では権力争いが苛烈を極め、家老の一人鐵川は同僚松永の保管する名刀を盗ませ松永の失脚を狙おうとした。阿波家伝来の宝刀盗難に気付いた松永は大阪に赴き、かつて仕えていた阿波十郎兵衛(雲井龍之介)に事件の解決を依頼する。十郎兵衛は刀のありかを突きとめたものの買い戻すには500両の大金が必要だった…

マキノや東亞で脚本(1924年『逆流』、1925年『雄呂血』)を手掛けた寿々喜多呂九平が30年代に帝キネ〜新興で監督業に進出した時期に残した作品。主演に雲井龍之介、その妻に鈴木澄子を配しています。

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阿波十郎兵衛は様々な逸話で知られた江戸期の凶賊でした。金品狙いで巡礼の娘を殺した一件が発覚し逮捕されます。陰惨な殺人事件を近松門左衛門が美談化したのが『傾城阿波鳴門』第八段で、帝キネ版はこの浄瑠璃バージョンを展開した内容となっています。

JMDbを確認したところこの作品に対応する1931年のエントリーが二つありました。一つが帝キネ製作、もうひとつは新興キネマ版です。

帝キネは1931年8月に消滅し新興キネマに改組しています。そもそも活動文庫版の出版された9月には会社自体が存在していなかったのです。1931年7月に試写が行われキネマ旬報など映画誌の8月号に記事が掲載されるも実際には上映されずに元の製作会社が消滅。立て直しが終わった11月に改めて新興キネマ版『阿波の十郎兵衛』として公開された流れでしょうかね。

[JMDb]
阿波十郎兵衛(帝キネ)
阿波の十郎兵衛(新興キネマ)

[IMDb]
Awa jûbei

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その二)『海江田譲二の高田の馬場』(日活、辻吉朗監督)

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或る一日街頭の易者に己の身上を占はせました。
『世辭追従の嫌ひな貴殿の氣質を當世向きにしなければ士官はなかなか困難です……それに今の世の中は何といつても腕前なぞより金ですからね』
と淡泊と片付けられ、氣早な安兵衛憤つたの怒らないの易者の机を引ッ繰り返し道具をメチヤメチヤにして歸つたこともありました。

昭和6年(1931年)に『新釈高田の馬場』として公開された作品。前年春に日活に入社した海江田譲二の初期作で、説明本も同氏の名前を前に出しています。海江田譲二はこの後同社の股旅物(『沓掛時次郎』)で知名度を上げ、日活を離れ大都に流れ着いてからも剣戟物で活躍していきます。

海江田氏の初期作は「近代味のある時代劇」とも評されていました。本作でも腕は立つが協調性に難があって士官先を見つけられない安兵衛の設定に世界恐慌後の就職難、拝金主義が重ねあわされているようです。

[JMDb]
新釈高田の馬場

[IMDb]
Shinshaku Takadanobaba

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その一)『野に叫ぶもの』(松竹、島津保次郎監督)

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悌二(ていじ:鈴木伝明「あの海岸を埋立てられたら漁家二千人の生活はどうなると思ふ」
健(たけし:高田稔)「知らん」
悌二「二千人の人間を殺してまで君は金を儲けたいのか」
健「儲けたい」
悌二は云ふことを知らなかつた。そして呆れたやうに見つめた。
健「世の中は力だよ、強いものが勝つて弱いものが負けるのは當り前のことだよ」
悌二は福原のこの變つた樣に涙ぐましく健を見て淋しく微笑した。

かつて大学野球で同じチームに属し共に戦った北條悌二(鈴木伝明)と福原健(高田稔)。二人の父親もまたビジネスでのやりとりがあったが北條銀行の破産の余波を受け無一文となった福原健の父親(藤野秀夫)が自殺。不況の世界をどう乗り切っていくのか、意見の大きく分かれた親友は決別した。

二人が再開したのは6年後だった。弁護士となった悌二は弱い人々のために戦っていた。海岸の埋立計画で漁師たちが困っていると聞きその助けに乗り出したが、埋立賛成派として資金援助したのがかつての旧友の健であった…

佐藤紅緑の同名長編小説を元にした前後編仕立ての松竹現代劇。初期はスポーツ俳優として鳴らした鈴木伝明を上手く生かす大学野球のやりとりに始まり、中盤以降は傾向映画色を強めていきます。高田稔の妹に澤蘭子、鈴木伝明の妹に及川道子を配し、藤野秀夫や岩田祐吉、鈴木歌子のベテラン勢が物語を支えています。

淺草に拠点を置いていた「大島印刷株式会社」が手掛けた活動文庫の一冊。大きさはB7(13×9センチ)でページ数は16。以前に紹介した瀧本時代堂の説明本に似ていますが一回り小さいです。

[JMDb]
野に叫ぶもの 青春篇
野に叫ぶもの 争闘篇

[IMDb]
Noni sakebu mono seishunhen
Noni sakebu mono sotohen

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1927年 齣フィルム 『尊王攘夷』50枚 (日活オールスター特作、池田富保監督)

「池田富保 関連コレクション」より

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『尊王攘夷』はVHS〜DVDのソフト化がされており池田富保作品では比較的アクセスしやすい一つです。前半1/3程は江戸城の井伊直弼(大河内伝次郎)を中心に物語が進み、中盤は視点が切り替わり水戸藩士(尾上多見太郎、谷崎十郎、新妻四郎)の動きが追われ、最後に両者が絡みあい桜田門外の場面に収斂していきます。

駄菓子屋でくじ引きとして扱われていた「齣フィルム」を入手したのは今回が3度目ですが、手元に実際の動画データがあるパターンは初めてです。比べてみると色々興味深い発見がありました。

齣フィルム50枚の内訳は下の形になっています。

1)マーク入り:7枚(大河内版4枚、新妻版3枚)

2) 江戸城下での大河内伝次郎:10枚

3) 江戸城下での市川百之助、大河内伝次郎、川上弥生らを収めたロングショット:5枚
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4)井伊直弼との談判にやってきた尾張大納言慶勝(谷幹一)、一橋大納言慶喜(桂武男)らを収めたグループショット:2枚
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5)新妻四郎:5枚

6)大河内伝次郎と中村英雄:2枚
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7)脱藩水戸藩士と幕府からの命を伝える一団との衝突場面:4枚

8)水戸斉昭(山本嘉一):2枚
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9)廓での新妻四郎、桜木梅子、徳川良子:6枚
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10)廓での新妻四郎と酒井米子:2枚

11)廓での谷崎十郎と酒井米子:2枚

12)有村治左衛門(尾上多見太郎):3枚

雑誌を切り貼りして作った小袋には、中身が見えないようフィルムが小さな紙に包まれて入っています。この紙自体が作品の宣材になっていました。

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下の画像は井伊直弼(大河内)に蟄居を命じられた水戸斉昭(山本嘉一)が一旦穏やかに話を受けつつ、表情を変え凄みを見せる場面です。作品版と比較したところ背後のふすまの角度から別カメラ(スチル撮影用でしょうか)によるショットだと分かりました。厳密に言うと照明も変わっていて齣フィルムは天上背後からのライティングがありません。

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他の齣フィルムも同様で、対応する場面があっても人の並びが微妙に違ったり目線の向きが違ったりしており、撮影しているカメラ位置も変わっています。50枚全てをチェックした結果、実写用フィルムと完全一致する画像は一枚もありませんでした。

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映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売したりして、大正期を中心に一大ブームとなった。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

実写用のポジから切り出された齣フィルムも現存しておりますが、「丸愛」印のくじはそういう経緯で発生したものではなく映画会社から提供のあったスチル写真用ネガを元にしたと考えることが出来ます。「齣フィルム風の何か」だった、という訳です、

ちなみにフィルム収納の小袋に転用されていた雑誌は1927年の『映画時代』でした。マキノ省三による論考「續減資の一途」、澤田正二郎と菊池寛らの鼎談に加え日活女優の座談会「日活花形女優懇談會」が掲載されていました。

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座談会に登場していたのが澤村春子、櫻木梅子、徳川良子、夏川静江に岡田嘉子。最初の3名は『尊王攘夷』にも登場。リアルタイムならではのシンクロぶりです。

[JMDb]
建国史 尊王攘夷

[IMDb]
Son’nô jôi

1913 – 16mm グヴェンドリン・ペイツ主演 米パテ社作品『凍てついた道の果てに(The Frozen Trail)』

Gwendoline Pates from 1913 Motion Picture Story Magazine January Issue
グヴェンドリン・ペイツ
『モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン』1913年1月号グラビアより

或る町にうら若き乙女マドレーヌ(グヴェンドリン・ペイツ)が住んでいた。この娘に想いを寄せる男が二人、ジョンとチャーリーの兄弟であつた。チャーリーは性格に難があり、かつとなると何をしでかすか分からない男であつた。マドレーヌが心を決めた相手はジョンであつたが、さうと知つたチャーリーは血相を変えて娘を責め始めた。やつてきたジョンと取っ組みあいの喧嘩が始まる。「二人でこの街を離れよう」、ジョンの言葉に娘はうなずいた。マドレーヌは荷物をまとめジョンとともに町を離れるのであつた。

五年後、アラスカの自然に取り囲まれながら、小さな丸太小屋で娘と暮らしている夫婦の姿があつた。貧しくはあつたが幸せであつた。或る日、二人の住み家から少し離れた酒場に無精ひげの男がふらり姿を現した。五年の間マドレーヌたちを探し続けたチャーリーであつた。酒場で得た情報を元に夫婦の家に向ったが、あいにくに天候に阻まれ遭難、ちょうどそこを通りかかったジョンに助けられた。

ジョンは仇敵の兄を助けたとは露知らず、男を小屋に連れて帰った。マドレーヌの懸命な介護のおかげでチャーリーは一命をとりとめる。しかし悪漢の心に感謝の気持ちはなかつた。夫婦が出かけた隙に犬ぞりを用意し、戻ってきたマドレーヌを拉致しようと試みる。驚いて自室に逃げこんだ女。男はマドレーヌの娘を人質にとり、自らの素性を明かして女に出てくるよう促した。子供の命には代えられず、マドレーヌは部屋の鍵を開けた。チャーリーは女を抱え上げると犬ぞりに放りこんで一路町を離れた。

自宅に戻ってきたジョンの気がついた異変。妻が見知らぬ男と駆け落ちしたと勘違いしてしまう。猟銃を手に追いかけていく。幸いにも愛娘を取り返すことはできたが、後の二人は手の届かない先へと消えてしまっていた。

ところがである。しばらくして丸太小屋の外で物音がした。扉を開けると妻が倒れていた。「何をしに戻ってきた」、ジョンの言葉は冷たかった。「雪に埋もれて死んでいるのはあなたのお兄樣ですのよ」。マドレーヌの蒼白な唇から放たれたのは驚くべき言葉であった。「あの方は私が貴方を愛しているのを逆恨みしてやってきたのでございます。たつた今…撃ち殺して参りました」。女は証拠として一枚の写真を取り出した。それはかつて、幼き頃のマドレーヌがジョン宛に送った自身の写真であつた。真実を知つたジョンは妻と娘をかたく抱きしめるのであつた。

◇◇◇

パテ社監督のレオ・ウォートンはサラナックレイクへのロケを目論んでいる。大規模なスタッフを同行予定で、チャールズ・アーリングとグヴェンドリン・ペイツが含まれている。雪景色を添えた大掛かりな長編映画が出来上がる予定である。(モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン1913年3月号)

Leo Wharton, Pathé director, contemplates a trip to Saranac Lake Region. Wharton will take with him a large company, including Charles Arling and Gwendoline Pates, and will produce some large feature pictures with winter backgrounds. (The Motion Picture Story Magazine, 1913 March Issue)

1913年米パテ社公開の短編映画。この前後のハリウッドは新興映画社(ヴァイタグラフ、ビオグラフ、エッセネイ、クリスタル、タンホイザー、パテ・フレール、カレムなど)による群雄割拠の時代となっていました。各社が発掘してきた俳優たち(アリス・ジョイス、ノーマ・タルマッジ、フローレンス・ラバディ、ブランシュ・スウィート、リリアン・ギッシュ、ルース・ローランド、パール・ホワイト)も粒ぞろいで、1910年代を通じて活躍していく重要な才能がそろい踏みしています。

米パテ社が1911年に契約したグヴェンドリン・ペイツもまたそんな新進女優の一人でした。幼いころからボードヴィルで鍛えられていたため舞台慣れしていてすぐに同社花形に出世していきます。しばらくは自身と同じ「グヴェンドリン」をヒロイン名とした軽喜劇に主演、知名度が上がるにつれて本格的なドラマにも進出。雪景色のアラスカ(撮影は近場のサラナックレイク)を舞台とした2リール物の情念ドラマ『凍てついた道の果てに』主演を果たしています。

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監督はレオポルド・ウォートン。10代初めから自身ステージに登場しローラースケートの軽業を披露していました。俳優として米パテ社に合流後ほどなくして監督業に携わるようになり、グヴェンドリン・ペイツとチャールズ・アーリングを主演とした軽喜劇でヒットを飛ばすようになります。1914年にパテ社から独立。弟のテオドアと共にウォートン映画社を設立、同社作品をパテ社経由で配給していくようになりました。実力を買われ1914年にはルイ・ガスニエと共にパール・ホワイト主演の『拳骨』監督に抜擢、この作品の成功で連続活劇の道が開け、以後『ミラの秘密』(1916年)、『パトリア』(1917年)、『ベアトリクス・フェアファックス』(1920年)などの名作を製作・監督していきました。

『凍てついた道の果てに』はウォートンが1)俳優、2)短編喜劇監督、3)短編ドラマ監督、4)連続活劇監督とステップアップしていく3)に位置しています。『拳骨』で名を上げる監督がその一年前にどのような作品を撮っていたのか見えるという話であり、ハリウッド活劇発展史の一断片としても興味深いものです。

一方のグヴェンドリン・ペイツは1914年にはパテ社を離れ夫と共に自身の会社(グリュー・ペイツ・プレイヤーズ)を設立、舞台に専念していきます。元々運動能力が高かったようで、1914年秋にはパテ社の許可を得た『ポーリーンの危難』舞台版の主演も勤めていました。この後映画史から忘れられてしまうのですが、短期間ではありながらもウォートン作品のメイン女優として活躍した功績は強調されても良さそうです。

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1920 – 春江堂書店・大活劇文庫『曲馬団の秘密』(The Iron Test、ヴァイタグラフ社)篠田緑水訳

大活劇文庫『曲馬団の秘密』篠田緑水訳
The Iron Test [1918 Vitagraph]
1920 Japanese Novelization by Shunko-Do

1918年に公開された15章物の連続活劇『曲馬団の秘密』をベースにした日本語小説版。モノクロのデジタル版を国立国会図書館のアーカイヴで読むことができます。

パール・ホワイトの中期作品『呪の家(The House of Hate)』で活劇スターの地位を確立したアントニオ・モレノを主演とした作品で、西海岸で活躍するサーカス団の花形エディス(キャロル・ホロウェイ)が危機に巻きこまれモレノ演じる若手芸人が助けていく展開となっています。

1910年代中盤の連続活劇ではウィリアム・ダンカンやエディー・ポロらの男優が日本でも人気を博していました。10年代後半あたりから甘いルックスの若手俳優(ラルフ・ケラード他)が目立つようになってきます。モレノはそういった時流に乗って活劇界のマチネー・アイドル的なポジションに付けていきます。

モレノはこの後『見えざる手』(1919年)と『隠された謎』(1920年)でポーリン・カーリーと共演。サイレント連続活劇の最盛期を飾っていきました。

『呪の家』(1918年)でアントニオ・モレノはパール・ホワイトの相手役となった。ホワイトは『ポーリーンの危難』と『拳骨で世界的な成功を収めたばかりであった。新作は20章仕立てとなっていて、モレノは軍需産業の王と呼ばれる男の愛娘と恋に落ちる若手科学者を演じている。「恐怖頭巾団」の魔の手を逃れるこのカップルの行く末が毎週のエピソードで追われていた。

続いてモレノは『曲馬団の秘密』に出演、獰猛な「赤いマスク」団に追われる軽業師役であった。

1920年、ヴァイタグラフ社社長のアルバート・スミスはさらに危険度の高い15章物活劇の主演にモレノを配した。『見えざる手』である。同じく15章仕立ての『隠された謎』がすぐに続いた。

フォトプレイ誌の編集者ジェームズ・R・クヮーク氏は1920年の映画評でモレノの「観衆を惹きつける驚くべき力」に触れ、彼こそが「連続活劇の王である」と断言した。ロマンチックなアイドルと剛勇ぶりを両立させた点で他の男優に優っている、というのであった。

『花形男優事始め』(D・W・メネフィー、2007年)

The House of Hate (1918) paired Antonio [Moreno] with Pearl White, fresh from her tremendous, worldwide success in the serilas The Perils of Pauline, The Exploits of Elaine, and The Romance of Elaine. This new, twenty-chapter serial cast Antonio as a young scientist in love with the daughter of a munitions king. Each weekly episode followed the young lovers as they escaped the perils of « The Hooded Terror ».

Antonio went into immediately to work in fifteen episodes of yet another serial, The Iron Test (1918) , as a circus acrobat hounded by menacing « Red Mask. »

[…] In 1920, Albert Smith put Antonio through fifteen weekly episodes of more danger in the serial, The Invisible Hand. This was immediately followed by another fifteen-episode serial, The Veiled Mystery.

James R. Quirk, editor of Photoplay magazine, in his 1920 review, noted Antonio’s tremendous drawing power, declaring him « the king of serial actors, » superior to others because of his onscreen prowess as a romantic idol.

(The First Male Stars: Men of the Silent Era,
David W. Menefee, BearManor Media, 2007)

The Iron Test in 1918 Exhibitors Herald Sep-Dec Issue
『曲馬団の秘密』
エキシビターズ・ヘラルド紙1918年9-12月号

[タイトル]
曲馬団の秘密

[出版年]
1920年

[発行者]
高橋友太郎

[発行所]
春江堂書店

[叢書]
大活劇文庫

[ページ数]
260頁

[サイズ]
四六判 18.6×12.5 cm

[原題]
The Iron Test (1919)

[製作]
米ヴァイタグラフ社

[Movie Walker]

[IMDb]
The Iron Test

[公開年]
1918年

マートル・ステッドマン Myrtle Stedman (1885 – 1938) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo
Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo

マートル・ステッドマン夫人は1888年にイリノイ州シカゴに生まれ、スターレツト夫人経営による同地の学校で教育を受けた。舞臺での長い活動歴を有した実力派の女優である。1912年に銀幕デビューする以前、劇場で音楽喜劇や軽いオペラ作品に出演して大きな成功を収めている。映画女優の始まりはかつてのゼリグ映画社で、以来一流プロデューサーによる製作会社のほぼ全てで何がしかの出演を果たしてきた。尊厳や忍耐力、温かみあるユーモアの感覚や芸術力が必要とされる大人の女性役でその力が発揮されており、あちこちのプロデューサーから引っぱりだこになつている。息子のリンカーン・ステッドマンは将来を嘱望されている若手男優である。趣味はハリウッドに構えた大邸宅のお手入れ。身長5尺6寸、体重は16貫900匁、金髪に淡い褐色の瞳を持つ。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

Myrtle Stedman from Famous Film Folk (1925)

MYRTLE STEDMAN was born in Chicago, Ill., in 1888, and received her education in Mrs. Starret’s School of that city. She has had a wide theatrical career, and is an accomplished actress. She has had a successful stage career, having appeared in musical comedy and light opera, prior to her screen debut which was made in 1912. Her screen debut was made with the old Selig Company, and she has since appeared in the productions of almost every first class producer, her ability to portray roles of matured womanhood, wherein proper dignity, bearing, humor and art are so necessary, making her services by all producers always in demand. Mrs. Stedman is the mother of Lincoln Stedman, himself a promising young actor. Her hobby is naturally the care of her pretty Hollywood bungalow. She is 5 feet 7 inches in height, weighs 140 lbs., and has blond hair and hazel eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

1910年代初頭、ゼリグ社のウィリアム・ダンカン主演西部劇でヒロイン役に重用されその後ボスワース映画社の人情劇や活劇へ活動範囲を広げていきます。彼女の名前を映画史に刻むことになったのは、ハリウッド女性監督のパイオニアであるロイス・ウェバーの『偽善者』(1915年、ボスワース社)のヒロイン役でした。社会派の傾向を持つウェバーの作風は当時のハリウッドで異彩を放っており、挑発的で鋭利な美的感覚は今見ても新鮮さを失ってはいません。

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1915年『偽善者(Hypocrites)』より

ステッドマンは20年代になってもフレッド・ニブロ監督の『性』(1920年)、早川雪洲主演の『黒薔薇』(1921年)などで存在感を発揮。20年代中盤から助演が増えますが、母親役から老け役までこなしトーキーにも対応、30年代末に心臓発作で亡くなるまで四半世紀に渡る女優人生を全うしています。20年代初頭の出演作『断腸の笛』をYouTubeで見ることができます。

Myrtle Stedman in The Whistle (1921)
1921年ウィリアム・S・ハート主演作
『断腸の笛(The Wilstle)』より

[IMDb]
Myrtle Stedman

[Movie Walker]
マートル・ステッドマン

[出身地]
合衆国(イリノイ州シカゴ)

[誕生日]
3月3日

[データ]
22.7 × 17.8 cm. 写真面に「エリザベス(Elizabeth)」の宛名書きあり。裏面に旧所有者の書きこみが多数見られ、1925年7月にニュージャージー州在住のエリザベス・ライド・ウォーカーさん(Elizabeth Reid Walker)が受け取った旨が印されています。

1913 – スタンダード8 『老いらくの戀(An Old Man’s Love Story)』(米ヴァイタグラフ社、ノーマ・タルマッジ主演)

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1913 - An Old Man's Love (Vitagraph) starring Norma Talmadge

マーシャム夫婦には見栄っ張りなところがあり、身の丈にあわない生活を続けているうちにいつしか家計は火の車となっていた。夫婦にとつての一縷の望みは美しく成長した一人娘エスター(ノーマ・タルマッジ)で、金持ちの男と結婚してさえくれれば…と食事中にも口にする始末であつた。

旧友である富裕な老人グレイソーン氏を招いたのはエスターとの結婚話を今度こそ決めてしまうためであつた。エスターには以前から心を決めた若者フランクがいたのであるが、両親を悲しませる訳にもいかず、心に悲しみを秘めながら老人の求婚を受け入れたのであつた。

フランクと会う事は普段から諫められていたため、若き二人の通信手段は木の幹をポスト代わりに使った手紙が全てであつた。エスターが婚約の件を手紙で伝えると、「君を失うのであれば僕はもう町を出る」の返信。絶望に打ちひしがれたエスターが木の幹にもたれかかって泣いているのを偶然見つけたのがグレイソーン氏であつた。若者たちの置かれた状況を理解したグレイソーンは一世一代の芝居を売ってみせるのであった…

タルマッジ姉妹の長女ノーマの初期主演作8ミリ版。家族の軋轢から生み出されてくるメロドラマになっています。途中でオチが読める単純な物語ながら役者が持ち役をカッチリ演じきっているため思った以上に心地よい作品となっていました。ノーマのお姫様ぶりも堂に入ったもので、ヴァイタグラフ社でアニタ・スチュワートと並ぶ花形だったのもうなずけます。

確認できた限り、以下の3つの形でデジタル版が市販されています。
『ノーマ・タルマッジ ヴァイタグラフ短編集』(グレープヴァイン社) Norma Talmadge Vitagraph Shorts
『俳優:ノーマ・タルマッジ希少作品集 第一巻』 The Actors: Rare Films Of Norma Talmadge Vol. 1
・米ハーポデオン社は自社サイトおよびアマゾン・プライム・ビデオでデジタル版を市販・公開中

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ハーポデオン社で公開されている市販動画のスキャン。

ハーポデオン社も8ミリベースでスキャンしているようです。

[公開年]
1913年

[IMDB]
An Old Man’s Love Story

[メーカー]
米ブラックホーク社

[メーカー記号]
810-34-819

[フォーマット]
Standard 8mm 200フィート (60m)

1937 – VHS 『恋山彦』(マキノ正博監督、阪東妻三郎主演)

「阪東妻三郎関連」より

時は元禄。信州伊那の谷に平家の末裔が住み着いていた。山腹にかかった霧の奥から御輿を担いだ男たちの姿が浮かび上がる。御輿には涙を浮かべた若い女(花柳小菊)が一人。女は村人によって人身御供とされ、山の神に差し出される運命であった。

山の神と呼ばれていたのは平家の末裔・小源太(阪東妻三郎)であった。神事を終えた小源太は掟を破り女を連れて村に戻ってきた。話を聞くと名をお品と言い、三味線の名手源四郎の一人娘だそうである。時の権力者・柳沢吉保(河部五郎)とその愛妾おさめ(原駒子)の求めに応じて名絃「山彦」の演奏を披露したのがあだとなり、三味線を奪おうとした吉保の配下の者に源四郎は殺され、お品は楽器を手にこの谷へと流れてきたのであった…

平家落人伝説を背景とし末裔の主人公が権力者の腐敗を懲らしめていく筋立てで、そこに三味線「山彦」の争奪戦や主人公のそっくりさんとの身代わり(妻三郎二役)のサイドストーリーが絡みあっていきます。

『恋山彦』の第一回目の映画化となる本作は、映画が無声からトーキーへと移り変わっていった時期に見られる幾つかの特徴を有しています。

1)マイクの感度が低く、俳優の声がエコーをかけたようにこもっていて聞き取りにくい。また、セリフの度に「サー」というノイズが入る
2)併設された録音機器のせいでカメラの動きが制限され、カメラワークの自由度が低く遅い

ハリウッドでは1928~31年位にこういった「移行期の作品」が見られたのですが、日本では30年代半ばから同傾向の作品が見られるようになってきます。マキノ監督は日本の同世代監督でも最もフレキシブルに、流動的にカメラを動かしていた一人で、本作では上記の弱点があまり目立たないような工夫が凝らしてあります。意識しなければ(特に2は)気にならない感じでした。

この作品ではモブシーンの演出が光っています。中盤で小源太が城で大暴れし、闘いの場が一階から天守閣に移っていきます。

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戦闘場面にあわせてカメラが上昇していく。1ショットでの撮影

複数階のセットを組み、俳優たちが上階に上っていくとセット脇の吹き抜けに置かれたクレーンに設置されたカメラが上昇していきます。1ショットでの長回しでカメラと俳優の動きを同期させるため緊密な連携が要求される場面です。

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『第七天国』で、主人公のカップルがアパートの階段を上っていく場面

ボーセージ監督が『第七天国』(1927年)で同種のクレーンショットを使っていました。マキノ監督なりのオマージュでしょうか。後年、戦中の『ハナコさん』(1943年)でもバスビー・バークレーを念頭に置いた演出を組みこむなど常にハリウッドへの敬意を忘れなかった監督でもあります。

阪妻の演技は台詞回しがまだ生硬な欠点がありますがラストの能舞台の立ち回りを含めて見どころはしっかり作っています。時代劇初出演となった花柳小菊さんの可憐な演技と三味線の腕前のみならず、河部五郎、原駒子、市川百々之助などベテラン勢も登場しサイレント映画好きには楽しい一作でした。

大正10年(1921年)『活動倶楽部』12月号

大正10年末に発売された『活動倶楽部』の12月号。冒頭は通常通りのグラビア。巻頭カラーはルイーズ・ラブリーで、メアリー・マイルズ・ミンター、ミルドレッド・ハリスなど当時日本でも人気の高かったハリウッド女優が並びます。

メイン企画が二つ。一つはアメリカ全土を騒がせていたロスコー・アーバックルによる若手女優過失致死事件。

[…] 直ちに當夜の嫌疑者と目すべきに充分なるアーバツクルに電報召喚状を發せるものなり。審問後ならざれば其死因を確かめ得られざれども記者の信ずる所によれば凌辱強姦の死因は疑ふに餘知なし。本事件は近來活動寫眞が我が米國に勢力を得たりし結果俳優連が益々有頂天になり社會に害毒を流しをり、はからずも今日彼等の極端な腐敗を社會に暴露せるものなり。

これを機會に我等ローサンゼルス市民は徹底的なる闡明を希望したし云々。(一九二一‐九‐十一日タイムス)

町の角の新聞賣りの少年等は『本日アーバツクル牢に入る』等と云ふ大聲の叫びを上げて居る。

「フアツテー女優殺しの眞相」ハリー・ウシヤマ

The Arbuckle Affair [Katsudou Kurabu 1921 Dec Iissue]
ファツテー女優殺しの眞相

「だがフアツテーは殺されない迄も死刑(リンチ)にされて了ふかも知れないぜ。桑港の人達は豪く興奮してゐると云ふからね…」のやりとりも紹介されています。事件発生から日が浅く情報が混乱している中、当初から映画を快く思っていなかった者たちが「それみたことか」の声を上げ、そうでない者までメディアに煽られ殺気立っている様子が伝わってきます。

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もう一つの企画は『活動倶楽部』発行人である森富太氏による『革新の時機臻る』と岡田宗太郎氏の『白日の下に曝されたる松竹キネマ』の2つの記事から成り立っています。

「革新の時機臻る」は映画誌が業界の内輪誉めをしている状況に危機感をいだき、ダメな物にはダメと言える編集方針に変えていきたい、という内容です。次の『白日の下に曝されたる松竹キネマ』が具体例となっていて、理論先行かつ採算を度外視した「素人」仕事が横行しているシステムを批判、小山内薫氏や村田實監督などを槍玉に上げていきます。次号でも「愈々(いよいよ)、筆鋒を進めて松竹キネマの内情を語」る旨の予告あり。

積み重なってきたものはあるのでしょうが特定の映画会社をピンポイントで攻撃するのは異例で、目に見えない何かの闇を感じます。

個々の記事で面白かったのが映画創始期から弁士として活動していた中川慶二氏による連載企画「活動寫眞今昔物語(其四)」。明治31年(1898年)頃の地方巡業の様子などが細かく綴られており、現場で奮闘していた人々の息遣いまで伝わってきそうな素晴らしい内容でした。

伊太利の國情は、由來日本と非常に類型的な傾向を持つて居ります。従つて両者の國民性には必ず、他に求め得られない共通點を多く享有する事を否定されないのです。[…] 

「あゝさらば さらば青春よ!」若樹華影

また1918年に公開されたイタリア映画『さらば青春(Addio giovinezza!)』の紹介記事。マリア・ヤコビニ主演、サイレント青春映画の秀作として知られている一作。Vimeoに置かれた抜粋動画は一見の価値があると思います。

イーフェン・アンデルゼン主演の『蛇身の舞』の評を見つけ、また谷崎潤一郎が制作した一連の映画では最後の作品となった大活作品『蛇性の婬』に触れた記事も収録されています。

カルロ・ヴィート Carlo Wieth (1885–1943) デンマーク

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Carlo Wieth Autographed Postcard

1885年コペンハーゲン生まれ。1900年代に舞台俳優として修業を積んだ後、1910年にウアバン・ガーズの監督処女作でもある戦争メロドラマ『1864年の一徴兵』の主人公役でスクリーンデビュー。

Carlo Wieth in En rekrut fra 64 (1910)
『1864年の一徴兵』での負傷した兵士役

その後ノルディスク社と契約しオーガスト・ブロム(『モルモン教の犠牲となり/Mormonens offer』1911年)、シェストレム(『聖職者/Prästen』1914年)、ホルガー・マドセン(『永遠の平和/Pax aeterna』1917年)、ドライヤー(『サタンの書の数ページ』第4エピソード)など北欧サイレント映画の全盛期に安定した演技で貢献していきました。また私生活では以前に紹介したクララ・ヴィートの最初の夫でもありました。

1920年代前半に舞台へと戻り映画主演が途切れていましたが、30年代後半に復帰し9作のトーキーに出演。1943年に心臓発作で亡くなっています。

[IMDb]
Carlo Wieth

[Movie Walker]

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
12月11日

[サイズ]
8.8 × 13.4 cm

[データ]
Photochemie, Berlin K.1765

ミッツィ・パルラ Mizzi Parla (生没年不詳) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

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フランスの映画製作会社にとって、ドイツ帝国は疑いもなく最も魅力的なマーケットのひとつであった。自国の競争力が充分ではなく、1914年時点でさえメスター社、PAGU社、ヴァイタスコープらの製作会社だけでは自国の映画館での需要を満たすことができなかったのである。

(「フレンチ・コネクション:第一次大戦以前の仏独映画連携」)

For French film producers, the German Reich was undoubtedly a most attractive market. National competition was not up to par (even as late as 1914, firms such as Messter, PAGU and Vitascope were unable to satisfy the demand from German cinemas out of their own production […].

« The French Connection: Franco-German Film Relations before World War I »,
Frank Kessler and Sabine Lenk
in A Second Life: German Cinema’s First Decades (1996)

サイレント映画産業が発達し始めた1910年代、普仏戦争の遺恨を残しつつも仏独ではある程度の交流は行われていました。特にフランスの映画界はドイツ進出に積極的で、多くの大手会社がベルリンを拠点に自作配給を行っています。

1913年頃から反仏感情が掻きたてられ、プロパガンダを交えた喧々諤々の状況となるとフランスの映画製作会社はそれぞれの対応を始めた。パテ社はフランス語の響きが強い「パテ・フレール社」を旗印とした配給を続けていた。レオン・ゴーモンは自社作品をドイツの配給網に委ねることに決め、1913年9月12日には「独ゴーモン社」を設立した。

As from about 1913 onwards anti-French feelings were being stirred up and propaganda polemics came to the fore, French firms reacted in different ways. Pathe continued to advertise with its own French-sounding name ‘Pathe Freres & Co’ and kept its own distribution. Leon Gaumont decided to have his films handled by well-known German distributors […]; he also founded the ‘Deutsche Gaumont Gesellschaft’ on September 12th, 1913.

当初、ゴーモン社はフランスで公開していた作品(看板女優シュザンヌ・グランデ主演ドラマ、子役ビュビ君シリーズ、レオンス・ペレ監督の短編コメディ、ドキュメンタリー作など)をそのまま輸出していました。1913年秋から様相が変わってきます。組織改編に伴い、ドイツ人俳優を主演としドイツ国内で制作されたオリジナル作品が封切られていきます。

第一弾は実力派の若手俳優レオ・ポイカートを主演とした『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』でした。1913年10月4日公開。同作品にヒロインとして登場したのがミッツィ・パルラでした。

Mizzi Parla in Durch Leid zum Glück [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』

歌と踊りを得意とし、明るい性格でステージの人気を得ていたようです。レオ・ポイカートとのダブル主演映画は初めてではなく、これ以前にもBB映画社~タルガ映画社で数本製作されています。独ゴーモンがタルガ映画社に制作を委託して時代の流れに対応したのが実際の様です。

またこの時期の仏ゴーモン社は初期トーキーの実験を行っていました。フィルム上で録音をシンクロさせた訳ではなく、映写機に併設された「蓄音機」で音を出すゴーモン社独特のシステムを開発。ルドルフ・クリスティアンとミッチ・パルラ主演の『おいらの女中』がこの方式で製作され、実際にウニオン劇場で公開された記録が残っています。

10月半ばには独ゴーモンオリジナル作品第二弾の『エルゼは踊る(Tanz=Else)』公開。ミッツィ・パルラの単独主演作で映画誌の表紙も飾っています。

Mizzi Parla in Tanz-Else [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『エルゼは踊る(Tanz=Else)』

こういった活動も歴史の流れに逆らうことはできませんでした。1914年8月に独仏が開戦、独ゴーモン社は映画製作・配給機能を停止。ミッツィ・パルラはBB映画社で映画出演を続けますが次第に露出も減り1918年の短編を最後に業界を離れています。

[IMDb]
Mizzi Parla

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[サイズ]
8.6 × 13.5 cm

[データ]
Verlag Photochemie, Berlin N. K.273 Bildnis von A. Binder, Berlin

1912 – スタンダード8 『若き女電信技手の勇猛(The Grit of the Girl Telegrapher)』(米カレム社、アンナ・Q・ニルソン主演)

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『カレム・カレンダー(Kalem Kalender)』1912年8月号、14-15ページ

電信技手ベチーの許婚は汽車専属の警官で、街の外からの呼び出しを受け、ベチーに手錠を託してその場を去った。程なくしてベチーが受け取った伝言には、列車内のスリとして悪名高い「煙巻きのスミス」を探し出せ、と事細かな描写が添えられていた。駅に現れたスミスは見破られないだらうと高をくくり、近くの宿に部屋を取つた。

ベチーはこの男こそ電報のスミスに違いないと確信し、手錠をポケットに忍びこませ宿屋へと向かった。呑気な泥棒は他の若い宿泊客と鬼ごつこに興じている最中であつた。ベチーがこれ幸いとスミスに手錠をかけると男は忽ちにしてその本性を現して一帯を混乱に陥れた。しかしベチーはこれを制して男を駅に閉じこめるに成功した。

何とか逃げ出したスミスは蒸気機関車に乗りこみ、速度を上げさせて駅を出立せしめた。しかしながらベチーは泥棒が高跳びしたのに気がつくともう一台の機関車に飛び乗り、機関士に先の車両を追うよう説得したのであつた。派手な追跡劇の後に泥棒は捕縛された。男を連行した機関車が駅に戻ると、婚約者が降りてきてスミスを引き受け、若き電信技手の勇猛を称えたのであつた。

『カレム・カレンダー(Kalem Kalender)』1912年8月号、14-15ページ

BETTY’S fiance, a railroad detective, is called out of town on private business and leaves his handcuffs in the care of the girl telegrapher. Shortly after the detective’s departure Betty receives a message to be on the lookout for Smoke-Up Smith, a notorious thief — a full description being given. Smith appears at the station, feeling assured that he will not be recognized and engages quarters at a nearby boarding house.

Betty, fully convinced that Smith is the person described in the message, slips the handcuffs into her pocket and goes over to the boarding house, where the happy-go-lucky thief is playing “blind man’s buff » with the young boarders. This gives Betty an opportunity to slip the irons on Smith and he immediately shows his true identity by the disturbance he causes, ere he is imprisoned in the station.

Smith manages to escape and, entering a locomotive, speeds down the track and out of the yards. Betty, however, discovers the flight of the thief and hastens to another engine, prevailing upon the engineer to steam up and follow in pursuit. A thrilling chase takes place and the criminal is captured. As the locomotive returns with the prisoner, the detective steps off a train and taking charge of “Smoke-Up,’’ congratulates the young operator on her bravery.

蒸気機関車を大きく扱い、駅構内に勤める女性を主人公としたアクションドラマ、という非常にピンポイントな短編映画がハリウッドでは1911年頃から盛んに作られるようになりました。その嚆矢となったのがグリフィスの『女の叫び』(The Lonedale Operator、バイオグラフ社、1911年)で、この流れはすぐにハリウッド史上最長の連続活劇『ヘレンの冒険』(The Hazards of Helen、カレム社、1914年)へと繋がっていきます。

この両作品を結び付けていくのが1912年のカレム社作品『若き女電信技手の勇猛』でした。主演は北欧系の若手女優として頭角を現していたアンナ・Q・ニルセン。ルース・ローランドやヘレン・ホームズ他のカレム社活劇女王と比べて背が高くスラリとした存在感があり、ワンピース姿で拳銃を手に悪漢を追いつめていく展開はかなりの迫力がありました。

ストーリーは訳出した通りですが、編集のテンポが良く文字で読む以上にスピーディー。ヒロインが電信を受け取る場面を長回しで寄って撮っていたり、二台の蒸気機関車の追跡では連結器の結合を丁寧に描くなど作りが丁寧です。

カレム社はこの時期に同系統の作品(『1862年鉄道急襲事件秘話(The Railroad Raiders of ’62)』『時との闘い(A Race with Time)』)を幾つか作っており、ここで蓄積されたノウハウが『ヘレンの冒険』を生み出していきました。米連続活劇が好きなら見ておいて損のない作品だと思います。

フィルムは英レスター在住のB・V・ベイツ氏の旧蔵品。オイミッヒの400フィートリールにグリフィス初期短編(「The Narrow Road」)と一緒にマウントされていたものです。クレジットは取り除かれていましたが米ブラックホーク社プリントだと思います。

[タイトル]
The Grit of the Girl Telegrapher

[公開年]
1912年

[IMDB]
tt0229427

[メーカー]
米ブラックホーク社?

[メーカー記号]
810-653?

[フォーマット]
Standard 8mm 200フィート (60m)

1924 – 9.5mm 『氷島の漁夫』(ジャック・ド・バロンセリ、仏パテ版)

「9.5ミリ 劇映画」より

Pêcheur d'Islande (1924,  Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathéé
Pêcheur d’Islande (1924, Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathé Version
Pêcheur d'Islande (1924,  Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathéé 01

フランス西部、ブルターニュ地方で遠洋漁業を営む漁師たちの物語で、19世紀末に出版された同名小説の二度目の映画化となるものです。

タイトルにある「氷島」はアイスランドを指しています。2月から8月にかけ港町パンポルからタラ漁の船がでるのですが、当時は危険と背中合わせで命を落とした漁師も多くいたそうです。パンポル港を見下ろす丘には「未亡人の十字架」が建ち、映画版はこの十字架を含むブルターニュの風景が多く使用されています。

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物語は首都パリから生まれ故郷に戻ってきたヒロイン(サンドラ・ミロワノフ)と、彼女をめぐる二人の男性(シャルル・ヴァネル、ロジェ・サンジュアン)のぎこちない恋愛模様を軸に進んでいきます。

地方色溢れる衣装や景色、建物、地元民の表情など興味深いショットが多く含まれています。絵としては綺麗。ただ監督バロンセリにはメリハリをつけたストーリーを語る力が不足していて、本作も曖昧な鬱展開の物語が淡々と進んでいくだけで終ってしまいます。個性派女優ミロワノフ、演技派ヴァネルを配しているだけに残念。

何にせよエキストラとして登場してくる地元民の皆さんが良い味を出しています。Vimeoに35ミリデジタル版の抜粋がありますがフィルムの再生速度を誤っていて(24コマ毎秒?)動きが早くなってしまっています。

[タイトル]
Pêcheur d’Islande

[公開年]
1924年

[IMDB]
Pêcheur d’Islande

[Movie Walker]
氷島の漁夫

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
952

[9.5ミリ版発売年]
1926年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×12巻