1917 – 9.5mm 『淑女騎手』(トライアングル社、ロイ・ウィリアム・ニール監督、エニッド・ベネット主演) イタリア語版

9.5ミリ 劇映画より

Enid Bennett in « They’re Off » (1917, Triangle Film, dir/Roy William Neil) late 1920s 9.5mm Italian Version

株式で財を成したダニエル・ハケット氏が娘のリタ(エニッド・ベネット)と共に南部を旅行中、車が故障して足止めを余儀なくされた。修理中にふと趣のある古い一軒家に目がとまる。「こんな家が持てたらいいのに」、娘の言葉にダニエル氏は交渉に乗り出した。

一軒家ではランドルフ(ローランド・リー)という青年が執事(リンカーン・サミュエル)と生活していた。小切手帳を手にしたダニエル氏の提案をランドルフは拒絶、交渉は物別れに終わった。

ランドルフが煙草に投資していると知ったダニエル氏は手を回して市場に介入する。予想外の株価暴落にランドルフは成すすべくもなく、不動産を手放さざるを得なくなった。かくしてダニエル氏が豪邸の新たな持ち主となったのであった。

ダニエル氏は娘と知人たちを邸宅へと招待した。雰囲気のある間取りや装飾にリタは大喜びであったが、離れの厩舎で沈痛な面持ちの青年と出会う。家を失い、今は執事のモーゼとともに離れの厩舎を住まいとしているランドルフであった。父親が不当な手を使って館を手に入れたと知ったリタは憤慨、一策を案じて青年の力になろうとする。

地元の競馬場には多くの観客が集まっていた。その中には双眼鏡を片手にしたダニエル氏の姿。自身の持ち馬の優勝を確信していたが、その後を対抗馬が猛追してくる。この対抗馬に乗っていたのは騎手姿に身を包んだ娘のリタであった…

軽めの恋愛劇とスポーツ物を組みあわせたトライアングル社1917年作品。この年ハリウッドデビューしたばかりのエニッド・ベネットを売り出す発想が強く、ドレス姿や乗馬服姿にドレスアップしたヒロインを強調する場面が目立ちます。ベネット自身の演技はまだ感情表現や動作が荒削りで良くも悪くもそれが初々しく画面に出ています。

最後に収められた競馬の場面について補足をしておきます。

父親ダニエル氏の持ち馬の名前が「WASP」、同氏が娘リタに与えた黒い馬の名前が「SATAN」。レースではリタの騎乗する黒馬「SATAN」が「WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」を打ち負かす展開となっていきます。北の善良なヒロインの助力を得つつ、南部の弱者が差別構造を打ち破っていくアレゴリーと読むことができるのでしょう。脚本が後に西部劇監督として名を上げるランバート・ヒルヤー(Lambert Hillyer)である事実と併せて考えてみると興味深いものがあります。

9.5ミリフィルムは1926年に発売されていた英パテスコープ版3巻物の字幕をイタリア語に置き換えたもの。以前に紹介した『快漢ブレーズ』と同じ伊コレクターの旧蔵品で3巻とも冒頭が欠けており、フィルム途中に切れや傷、焼け跡が目立つ状態でした。

[IMDb]
They’re Off

[Movie Walker]


[公開]
1917年8月19日

[9.5ミリ版]
イタリア語字幕版

[イタリア語版タイトル]
L’Amazzone

[カタログ番号]
10-050

[フォーマット] 20m×3、ノッチ有、白黒無声

1916 – 9.5mm 『快漢ブレーズ』(米トライアングル社、ダグラス・フェアバンクス主演、ジョン・エマーソン監督) イタリア語版

9.5ミリ 劇映画より

« The Americano » (1916, Triangle/Fine Arts Film Company, dir/John Emerson) 1920s 9.5mm Italian Version

鉱山技師のブレーズ(フェアバンクス)の元にカリブ海の小国パラゴニアから仕事の依頼が舞いこんだ。鉱山の再開作業に手を貸してほしいと云ふのである。一旦は斷つたブレーズであつたが、帰り際に垣間見た同国大統領の令嬢フアナ(アルマ・ルーベンス)の美しさに心惹かれ前言を翻すのであつた。

パラゴニアに到着したブレーズ。しかし市民の様子がおかしい。話を聞くと大統領バルデス派と軍部のエスパダ大臣の対立が激化し、バルデスは監獄に幽閉され、娘フアナも自宅に軟禁されたのだと云ふ。バルデス宅に入りこんだブレーズ青年。男の姿に目を留めたフアナは小さな毬にメッセージを添へ窓の外に投げ放ち助けを求めるのであつた。

ブレーズ青年の動きを警戒したクーデター派はその一挙一動を監視していた。カフエのテラスで食事中のブレーズの元に貧しい身なりの物売りが声をかける。此の物売りこそ、大統領を救はんと身をやつした首相カスティーユ(トート・デュクロウ)であつた。カスティーユに案内され監獄付近を探索していると「1899年11月23日」の文言がしたためられた紙片を発見。その謎を解くべくブレーズは再度フアナの元に向かう。

政変は成功したかに見えた。フアナは父の命と引き換えにクーデター派将軍(チャールス・スティーヴンス)に嫁ぐよう強要され涙に暮れている。残された時間は少ない。ブレーズらは大統領救出作戦に乗り出した。カリブ小国の命運と青年技師の恋物語の行く末や如何に。

1916年末公開、フェアバンクスにとってトライアングル社最後の作品となった一作。中米の架空の島国パラゴニアを舞台とし、政変の只中で奮闘する青年技師ブレーズの活躍を描いていきます。

トライアングル社での旧作と比べ人間関係やプロットの絡み具合が段違いに複雑。9.5ミリ版は元の1/4程に縮約されていたこともあって展開を追うのに一苦労。アクションの比率も少なく単体のエンタメ作品として見るなら前作『空中結婚』に軍配が上がると思います。一方で単純明快な作品ばかりを作っている状況から脱却したい製作側の思いも伝わってきます。この後独立プロを立ち上げユナイテッド・アーチストに合流していくフェアバンクスの試行錯誤のひとつなのかな、と。

Mildred Harris as a stenographer

小動物の使い方、手のクローズアップ、群衆表現などにスーパーバイザーとして関わったD・W・グリフィスの影響大。また前半に一瞬登場したタイピストの女性に見覚えがあって、確認したところ後にチャップリン夫人となるミルドレッド・ハリスと判明、当時日本でも名の知られていた女優ながら初期出演作の大半が失われていて今回初めて動いている姿を見ることができました。

[IMDb]
The Americano

[Movie Walker]


[公開]
1916年12月24日

[9.5ミリ版]
イタリア語字幕版(※)

[カタログ番号]
10-010

(※)フェアバンクスの初期短編については米パテックス社から『ドーグラスの好奇(Manhattan Madness)』、英パテスコープ社から『ドーグラスの飛行(American Aristocracy)』『空中結婚(The Matrimaniac)』『快漢ブレーズ』の9.5ミリプリントが発売されていました。ドイツやフランス、イタリアなどではイギリス版の字幕を差し替えたものが市販されており、今回入手したのは英パテスコープ版をベースにしたイタリア語版です。

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcard

Alma Rubens03

Alma Rubens 1926 Autographed Postcard

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

コンスタンス・タルマッジ Constance Talmadge (1898 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Constance Talmadge c1917 Autographed Photo
Constance Talmadge c1917 Autographed Photo

 コンスタンス・タルマッジ嬢は、一千九百年四月十九日、米國紐育州のブルックリン市に生れた。一説には一千八百九十九年の四月十九日生れであるとも云ふ。ノーマ・タルマッジ嬢の實妹である。初頭教育はブルックリン市で受けたが、後に紐育市に出て、エラスマス學院に學び目出度く同學院を卒業した。嬢が卒業した頃に姉のノーマ嬢はヴァイタグラフ會社の花形として盛んに世間の人気を煽り、殊に「戰争?滅亡?」の主役を勤めて嘖々たる名聲を博してゐた。その姉の境遇を見て、コンスタンス嬢は少なからず心を動かした。そして自分も如何かして映畫界に身を投じたいと考へて、姉に相談をして見ると、姉も直に賛成したので、何等の舞臺經験も持つてはゐなかつたけれども、早速、姉の周旋に依つてヴァイタグラフ會社へ入社する事になつた。それは一千九百十五年の事で、嬢が恰度十五歳の時であつた。その第一回作品として撮影されたのは「ビル叔父さん」である。

 間もなく、姉のノーマ嬢が同社を退いてインターナショナル會社に移ると、嬢も共に去つてトライアングル會社に轉じ、ファイン・アーツ撮影所に行ってダヴィッド・グリフィス氏の配下に屬する事となつた。嬢が今日の名聲を得るに至つたのは、全く、この時にギリフィス氏の下に行つたからであると云つても可い。なぜなれば嬢の技倆を認めて、その技倆を充分に發揮せしめたのは、グリフィス氏であつたからである。グリフィス氏が豫て人に語った中に、「映畫を有名ならしめるものは俳優ではなくて監督者である。監督者は俳優を有名ならしめる事が出来る。」といふ言葉があるが、コンスタンス嬢は蓋しこの言葉を證明した人であるといつて可い。話は「イントレランス」の製作當時の事であるが、この映畫を製作するに當つて、氏は誰彼の差別なく藝の達者と役柄の相應するのとを標準にして俳優を選んだ。その時、嬢は數多の中から選ばれてバビロン時代の山の娘を勤める事になつたのである。この映畫が先頃帝國劇場に上場された時、嬢の藝風は一部の人々の問題となつた。三友館に上場された「疑問の釦」は姉のノーマ嬢がトライアングル會社に移つて來てから共演したものである。

 その後、セルツニック會社に轉じて十數本の映畫を製作したが、最近、またセレクト會社に移つたといふ。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

『活動名優寫眞帖』の後半にあるようにコンスタンス・タルマッジは1917年にファイン・アーツ社を離れ、セルズニック社に所属を移しています。

丁度この時期に姉のノーマはアメリカでも五本指に入る程の人気女優になっていたこともあり、セルズニックは好機到来と妹の売り出しにかかるのです。この1917年に撮影されたのがややうつむきがちな横顔のポートレート写真でした。

1917年12月6日付 『スキャンダル』宣伝記事
1917年12月6日付
『スキャンダル』宣伝記事

写真は万年筆のサイン入り。裏面に「セルズニック映畫社の新進花形 コンスタンス・タルマッジ」のスタンプが押されています。

”Constance Talmadge New Star om Selznick Pictures
”Constance Talmadge New Star in Selznick Pictures » stamped on the back

Constance Talmadge in Her Sister from Paris (1925)
ロナルド・コールマンと共演した喜劇『亭主教育』(1925年)より

[IMDB]
nm0848226

[Movie Walker]
コンスタンス・タルマッジ

[誕生日]
4月19日

[出身]
合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
19.5 × 24.3cm

[撮影]
Bangs-Selznick Photo

ポーリーン・カーリー Pauline Curley (1903 – 2000) 米

Pauline Curley 1920 Autographed Photo
Pauline Curley 1920 Autographed Photo

ポーリーン・カーリー嬢はマサチューセッツ州ホルヨークで生を受けた。舞台女優としてのキャリアは劇団に入った5才で始まっている。寄席演芸で一幕劇の寸劇『ダディ・バイ・エクスプレス』を披露しながら全米を回り、1914~15年にかけては「ポリガミー」で評判を呼んだ。映画女優のキャリアはハーバート・ブレノンが製作した『ロマノフ朝の最期』(1917年)が皮切りとなった。その後『ドグラスの跳ね廻り』でダグラス・フェアバンクスと共演。その他の出演作としては『故郷への道』『男の血』『孤独な罪』『愛の林檎』などがある。最新出演となった連続活劇『見えざる手』ではトニー・モレノ氏との共演となった。身長は五尺三寸、體重は十四貫、金色の髪にヘイゼルブラウンの瞳を有する。

ボストン・ポスト紙1921年4月2日付の紹介記事より

Pauline Curley was born in Holyoke, and her stage career began at the age of five, when she entered stock. She made a coast-to-coast tour in vaudeville in an one-act playlet, « A Daddy by Express. » She scored a hit in « Polygamy » during 1914 and 1915. Her screen carrer started with Herbert Brenon’s production, « The Fall of the Romanoffs. » Later she played with Douglas Fairbanks in « Bound in Morocco. » She has also appeared in « The Turn in the Road, » « The Man Beneath, » « The Solitary Sin » and the « Love Apple. » Miss Curley plays opposite Tony Moreno in the latest and last serial « The Invisible Hand. » She is five feet four inches tall, weighs 115 pounds and has blond hair and hazel eyes.

« Pauline Curley » Boston Post, April 2, 1921.

芸人一家の子として生まれ早くから舞台を踏み1913年から映画業界にも進出。滑り出しは上々で、フェイマス・プレイヤー・ラスキー社を拠点とし、ダグラス・フェアバンクスや早川雪洲作品でヒロイン~準ヒロインを務めていきます。また1919年、キング・ヴィダー監督が『故郷への道』で長編デビューを飾った際、知人の勧めでポーリーン・カーリーをヒロイン役に招いています。

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『男の道』(1919年、上)と『国境の掟』(1923年、下)

やや特殊な家庭環境で育ち、母親の監視、拘束が強い中で1922年にカメラマンと結婚。この前後を境に大手会社の庇護を離れ、レオ・マロニーやキット・カーソン主役のB級西部劇への出演にシフトしていきました。夫のキャリアが安定したこともあり、1930年には映画界を離れ家庭に専念しています。

Pauline Curley on Who's Who on the Screen (1920)
『銀幕名鑑』での紹介ページ

興味深いことに、彼女の出演した1920年代の低予算ウェスタンは型通りの演技をしていた10年代以上に生き生きとしたものでした。大手西部劇では当たり前だった「かよわい女性」を離れた役柄に挑戦した女優として再評価されて良いと思われます。

[IMDB]
nm0192763

[誕生日]
12月19日

[出身地]
米(マサチューセッツ州ホルヨーク)

ルイズ・グローム Louise Glaum (1888 – 1970) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Louise Glaum Autographed Photo
Louise Glaum Autographed Photo

一千九百十五年は米國の映畫界が一時に隆盛に赴いた年であるが、嬢が映畫劇女優として初めてパセ會社に這入つたのも實に此年の事であつた。同社に暫らく止まつて居て、やがてトライアングル會社に移つたが、其處では専らトーマス・インス氏の厳格な監督の下に映畫を制作した。一昨年富士館に上場された「佛国士官」も、今年電氣館に上場された「蠻地の奇傑」も皆この社の作である。

同社を退いてからはパラルタ會社に現はれる事となつた。その第一回の作品は「外敵」と云つて、ワレーズ・ヲースレー氏の監督に依つたもの先ごとキネマ倶樂部に上場された。第二回目は「桎梏」第三回目は「華燭の典」第四回目は「女のいましめ」

嬢は、フォックス會社におけるセダ・バラ嬢やヴァージニア・パーソン嬢のやうに、妖婦役を第一の得意にして居る。實際、嬢の妖艶な微笑の裡には、恐ろしい妖女の面影が認められる。その瞳の裡には、マドンナのそれのやうに一種の崇高な輝きがあるけれども、それに反して唇の邊には、もの凄いやうな蠱惑の色が漂つて居る。毒蛇が渦輪を巻いたやうな髪の毛は、その時々の光線の調子に依つて或ひは嫋やかな暗褐色を呈し、或ひは魔界に燃える炎の輝きを示す。天稟の素質から云つても、嬢は妖婦役に最も適して居ると云つて好い。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1916-04-10-louise-glaum
ザ・タイムス紙1916年4月10日付より。妖婦役として定着してきた時期の紹介記事。
1917-03-11-ct-louise-glaum
シカゴ・トリビューン紙1917年3月11日付より。インス・トライアングル社期。