1948年1月 -「ヴィクトラン・ジャッセと仏無声映画」(「歴史調査委員会」主催座談会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

戦中1943年に映画産業界組織委員(COIC)の提言を受け、映画史家アンリ・ラングロワ主導で「歴史調査委員会」が活動を始めました。1)初期映画に関わる情報収集、2)監督や出演者、公開年などが分からなくなっていた無声映画の同定、3)シネマテーク・フランセーズへの資料集約を目的とした組織です。

この活動の一環として、1940年代後半~60年代中盤に俳優や監督・技術スタッフのインタビューが行われ、約110点の資料が残されることになりました。このうち1948年1月に行われた対談を文字に起こした資料番号5番(CRH5-B1)と、同年3月に行われたインタビューをタイプ打ちした資料番号52番(CRH52-B2)がヴィクトラン・ジャッセに関わった内容となっています。

Victorin Jasset : réunion du 24 janvier 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH5-B1) pdf

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表紙には「歴史調査委員会」を表す「RH」と対談の日付「1948年1月24日」、対談の主な内容が手書きで記されています。この文字を書いたのは初期連続活劇で活躍し、当時は「秘書」として歴史調査委員会に同行していた元女優のミュジドラでした。

30頁の原稿の内、前半の12頁がジャッセ監督とエクレール社を扱った内容となっています。当時の同社の雰囲気について、対談参加者の一人J・J・ルノー氏が次のように語っています。


J・J・ルノー:[…] 特にパテ社等では製作スタッフが金銭的にむしりとられていたのに対して、エクレール社では皆が家族の様な一体感がありました。

またエクレール社の経営に関わっていたマルセル・ヴァンダル氏はジャッセについて次のように語っています。

アンリ・ラングロワ:ジャッセ監督と個人的なやりとりはあったのですか?

マルセル・ヴァンダル:5〜6年程仕事で御一緒させていただきました。彼が監督として名を上げたのは弊社にいた頃の話です。『プロテア』を含めた彼の作品は全て彼と私との契約から生み出されてきたものです。

ジャッセ監督の経歴についてヴァンダル氏は次のように述べています。

マルセル・ヴァンダル:ジャッセはゴーモン社の映画館に建て替えられる前にあった「イポドローム劇場」で監督をしていました。映画に初めて携わったのはゴーモン社で、イポドローム劇場では舞台監督をしていました。エクレール社が当時雇った監督が二人いて、一人がジャッセ、もう一人がアトでした。ジャッセは一流の人物で、亡くなるまで弊社で働いてくれました。

『ジゴマ』についてヴァンダル氏は次のように述べています。

アンリ・ラングロワ:『ジゴマ』について話していただけますか。

マルセル・ヴァンダル:題を『ジゴマ』に決めたのは私とジョルジョンでした。変装の名人の設定だったからです。『プロテア』の題も私たちが決めたものです。フランスで初の連続劇となったニック・カーター物と違い、下敷きにした原作はありませんでした。

ジャッセ監督の遺作となった『プロテア』(1914年)について、ヴァンダル氏は「『プロテア』は主演女優のジョゼット・アンドリオの件もあっていつもと違う特別な動きをした」の微妙に含みのある言い回しを用いています。同作製作に関わったJ・J・ルノー氏は「(エクレール社トップの)ジョルジョン氏に『プロテア』を作るよう頼まれたのだけれど正直気乗りはしなかった」とのこと。

前後の文脈を総合すると、エクレール社の内部でジャッセ監督の愛人だったアンドリオが特権的な位置を占めてしまい、彼女のため『プロテア』を作らざるを得なかった構図が浮かび上がってきます。必ずしも快く思っていなかったスタッフもいた訳で、ルノー氏自身の発言にあったエクレール社の「家族の様な一体感」も若干割引いて考えた方が良い気がします。

この対談は「歴史調査委員会」の調査の最初期に行われたひとつでそこまで深入りした内容にはなっていません。ただ、本対談でエクレール社に在席していたもう一人の映画監督ジョルジュ・アト(Georges Hatot)の名が挙がったのが収穫でした。この後ラングロワはアトに連絡を入れ、2か月後の3月15日に単独インタビューを行っています。アトの口から語られたジャッセ監督の人物像は本対談で語られている姿とずいぶん異なったものとなります。

1948年3月 -「初期映画の思い出」ジョルジュ・アト(「歴史調査委員会」インタビュー)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Georges Hatot : réunion du 15 mars 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH52-B2) pdf

1910年代初頭にエクレール社で活動していた「もう一人の映画監督」、ジョルジュ・アトのインタビュー。1948年3月にアンリ・ラングロワとミュジドラが同氏宅を訪れ実現したもので、録音を起こしたタイプ原稿にアト氏本人とミュジドラが目を通し手を加えた修正稿が保存されています。

ジョルジュ・アト(Georges Hatot, 1876 – 1959)の名は現在ほとんど忘れ去られています。1890年代の半ばからリュミエール社で修業を積み1905年にパテ社と契約、追跡劇や歴史劇、喜劇作品を監督しています。ジャッセをパテ社に紹介したのがアト氏だったそうですが、程なくして両者ともパテ社を離れエクレール社に雇われる形となりました。アトはエクレール社運営の「上質な映画作り」になじめず1910年頃には業界を離脱。一方のジャッセは『ジゴマ』を発表し同社の花形監督となっていきます。

『ジゴマ』や『プロテア』で初期映画史に名を残した「光」のジャッセに対し、アトはエクレール社の「影」と呼べそうな監督でした。

アト氏はインタビューで自身とジャッセの比較をしています。


ジャッセと私とはお互い見事に補いあうような存在でね。私はどう筋を組み立てて行けばよいか分かっていて、あいつは衣装や舞台装飾で尋常ではないアイデアを出してくるんだ。

Nous nous complétions admirablement. Moi, j’avais la compréhension du jeu, et lui il avait une conception extraordinaire, quand il fallait habiller quelqu’un ou décorer quelque chose.

ジャッセが1900年頃に舞台劇(『ウェルキンゲトリクス』)用にデザインしたポスターが特集雑誌に掲載されていましたが、アト氏はこの作品にも言及しています。

ジャッセは謂わば別階級に属している人物で[フェルディナン・]ゼッカのような性格とは確かに相性は良くなさそうだった。元々は衣装デザイナーで才能の塊だった。『ウェルキンゲトリクス』も彼の手によるもので、後にゴーモン社映画館に改装されるイポドローム劇場が出来た時に監督をしていた。

Jasset était un homme d’un autre classe, qui certainement ne pouvait pas s’accorder avec la mentalité d’un Zecca, c’était un homme de talent, un dessinateur de costume. Il était l’auteur de « Vercingétorix » et directeur à l’ouverture de l’Hippodrome qui est devenu depuis le Gaumont Palace.

こういった一連の発言から、ジャッセの衣装デザインや舞台装飾の才を高く評価しているのが伝わってきます。

またアト氏はジャッセ監督の作業時のパターン、癖を指摘しています。

映画作りが始まると熱に浮かされたように作業を始めた。でも終わりがけに手を抜き始める。ムラのある感じだった。最初から全力で取りかかってしまうんだよね。その後足が止まってしまう。頭の中は次の映画のアイデアで一杯だった。

Quand il commençait un film, il était tout feu, tout flamme. Quand il était pour le finir, il sabotait. C’était inconscient. Il commeçait en faisant le maximum. Après, ça traînait: il pensait déjà à l’autre film.

スタートダッシュを頑張りすぎて後半息切れするイメージでしょうか。ジャッセ監督が途中で放置した作品をアト氏が完成させたこともあったそうです。

更にアト氏はジャッセの人格的な難点にも触れています。一つは「他人に厳しく自分に甘い」ところ。もう一つは女癖の悪さです。現場にやってくる女優に手を出し、未成年女性のヌード写真を撮影し会社側(短期間在席していたパテ社やエクリプス社)と揉める原因になったそうで、アト氏は「病気」と言い切っています。『ジゴマ』や『プロテア』にもペドフィリア要素は見られますし、元々エキストラだった無名女優ジョゼット・アンドリオの寵愛を考えあわせるとあながちでたらめではないと思われます。

ジャッセ監督の生涯については同時代の証言や記録が少なく、表面的なデータを並べて良しとしてしまうケースがほとんどでした。アト氏の発言は好意的な内容ばかりではありませんが、長所も短所も兼ね備えた人間味のあるジャッセ像を垣間見せる貴重なものです。

ミッツィ・パルラ Mizzi Parla (生没年不詳) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Mitzi Parla Autographed Postcard-1

フランスの映画製作会社にとって、ドイツ帝国は疑いもなく最も魅力的なマーケットのひとつであった。自国の競争力が充分ではなく、1914年時点でさえメスター社、PAGU社、ヴァイタスコープらの製作会社だけでは自国の映画館での需要を満たすことができなかったのである。

(「フレンチ・コネクション:第一次大戦以前の仏独映画連携」)

For French film producers, the German Reich was undoubtedly a most attractive market. National competition was not up to par (even as late as 1914, firms such as Messter, PAGU and Vitascope were unable to satisfy the demand from German cinemas out of their own production […].

« The French Connection: Franco-German Film Relations before World War I »,
Frank Kessler and Sabine Lenk
in A Second Life: German Cinema’s First Decades (1996)

サイレント映画産業が発達し始めた1910年代、普仏戦争の遺恨を残しつつも仏独ではある程度の交流は行われていました。特にフランスの映画界はドイツ進出に積極的で、多くの大手会社がベルリンを拠点に自作配給を行っています。

1913年頃から反仏感情が掻きたてられ、プロパガンダを交えた喧々諤々の状況となるとフランスの映画製作会社はそれぞれの対応を始めた。パテ社はフランス語の響きが強い「パテ・フレール社」を旗印とした配給を続けていた。レオン・ゴーモンは自社作品をドイツの配給網に委ねることに決め、1913年9月12日には「独ゴーモン社」を設立した。

As from about 1913 onwards anti-French feelings were being stirred up and propaganda polemics came to the fore, French firms reacted in different ways. Pathe continued to advertise with its own French-sounding name ‘Pathe Freres & Co’ and kept its own distribution. Leon Gaumont decided to have his films handled by well-known German distributors […]; he also founded the ‘Deutsche Gaumont Gesellschaft’ on September 12th, 1913.

当初、ゴーモン社はフランスで公開していた作品(看板女優シュザンヌ・グランデ主演ドラマ、子役ビュビ君シリーズ、レオンス・ペレ監督の短編コメディ、ドキュメンタリー作など)をそのまま輸出していました。1913年秋から様相が変わってきます。組織改編に伴い、ドイツ人俳優を主演としドイツ国内で制作されたオリジナル作品が封切られていきます。

第一弾は実力派の若手俳優レオ・ポイカートを主演とした『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』でした。1913年10月4日公開。同作品にヒロインとして登場したのがミッツィ・パルラでした。

Mizzi Parla in Durch Leid zum Glück [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』

歌と踊りを得意とし、明るい性格でステージの人気を得ていたようです。レオ・ポイカートとのダブル主演映画は初めてではなく、これ以前にもBB映画社~タルガ映画社で数本製作されています。独ゴーモンがタルガ映画社に制作を委託して時代の流れに対応したのが実際の様です。

またこの時期の仏ゴーモン社は初期トーキーの実験を行っていました。フィルム上で録音をシンクロさせた訳ではなく、映写機に併設された「蓄音機」で音を出すゴーモン社独特のシステムを開発。ルドルフ・クリスティアンとミッチ・パルラ主演の『おいらの女中』がこの方式で製作され、実際にウニオン劇場で公開された記録が残っています。

10月半ばには独ゴーモンオリジナル作品第二弾の『エルゼは踊る(Tanz=Else)』公開。ミッツィ・パルラの単独主演作で映画誌の表紙も飾っています。

Mizzi Parla in Tanz-Else [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『エルゼは踊る(Tanz=Else)』

こういった活動も歴史の流れに逆らうことはできませんでした。1914年8月に独仏が開戦、独ゴーモン社は映画製作・配給機能を停止。ミッツィ・パルラはBB映画社で映画出演を続けますが次第に露出も減り1918年の短編を最後に業界を離れています。

[IMDb]
Mizzi Parla

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[サイズ]
8.6 × 13.5 cm

[データ]
Verlag Photochemie, Berlin N. K.273 Bildnis von A. Binder, Berlin

大正6年 (1917年) 仏連続活劇『ジュデックス』小説版

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

1917 Judex (Arthur Bernède & Louis Feuillade)
1917 Judex (Arthur Bernède & Louis Feuillade)

第一次大戦中の1917年に公開されて人気を博した連続活劇『ジュデックス』の小説版。

映画の各エピソード公開と同時進行で小冊子として売られていたもので、映画の完結後にハードカバー版が作られていました。こちらはそのハードカバー版で全12章、288頁あります。

同作は先行する『レ・ヴァンピール(Les Vampires)』の成功を受け、ほぼ同一キャストで作られた活劇でした。『レ・ヴァンピール』が活劇の伝統を受け継ぎ、一話一話の完結性が高く、目まぐるしいアクションを繰り出していく手法を採用していたのに対し、『ジュデックス』はより静かな復讐譚の形式を取っています。

物語はかつて冷酷な銀行家(ルイ・ルーバ)に騙されて父親を失ってしまった兄弟(ルネ・クレステとエドゥアール・マテ)による復讐物語として始まります。クレステ演じる義士「ジュデックス」は銀行家を単純に成敗はせず、とことんまで苦しめようと城の一角に軟禁。しかし銀行家の娘ジャクリーヌ(イヴェット・アンドレヨール)への恋愛感情が芽生えてくる中で自分の行為に疑問を抱くようになり始めました。一方銀行家の資産を狙い暗躍する一派(ミュジドラ)がジュデックスとジャクリーヌ双方を狙い始め、物語は南仏での死闘へなだれこんでいきます。

仏ゴーモン社にとっても大きな企画だったようで、小説版は当時人気の高かった大衆作家アルチュール・ベルネード(『ルーヴルの怪人』原作者)に依頼、けだし名文家ではないものの、こなれた筆致で映画世界を小説に落としこんでいきます。

1917-judex-cover-02

[出版年]
1917年

[出版者]
ルネサンス・ドュ・リーヴル

[ページ数]
288頁

[サイズ]
16.5 x 24.5 cm

1910年頃 古写真 スタシア・ナピエルコウスカ Stacia Napierkowska (1886 – 1945) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)
Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)

1910年代を中心に活躍した踊り子・女優スタシア・ナピエルコウスカのキャビネット写真。撮影は当時ファッション写真家で名を馳せたルーランジェ写真店(Reutlinger)によるものです。

ナピエルコウスカはポーランド人の父親の娘として1886年パリで生まれています。幼少時に数年トルコに滞在、その後フランスへ戻りますが直後に父親が亡くなり、生計を立てるためオデオン座やオペラ・コミーク座に立ち始めました。この時14才。異国情緒と優雅さを兼ね備えた舞踏が話題となり、舞台雑誌やモード誌で頻繁に取り上げられていきます。

1910年コメディア・イリュストレ紙10月1日号より
1910年コメディア・イリュストレ(Comoedia Illustrée)紙10月1日号より

同時期に勃興していたのが映画産業でした。短編作品に多く出演、喜劇からミステリー、歴史物まで多彩な活躍を見せていきます。

そんな彼女の名を映画史に残したのは1915年公開の連続活劇『レ・ヴァンピール』でした。第2話で主人公(エドゥアール・マテ)の婚約者として登場、劇場で踊りを披露中に何者かに毒殺されます。登場場面は短いものの「吸血鬼の舞」の禍々しさは印象深く、同作を代表する一場面として幾度となく引用されていくこととなりました。

『レ・ヴァンピール』(1915年)第2話より
『レ・ヴァンピール』(Les Vampires、1915年)第2話より

その後映画の出演は減っていき、そのまま忘れ去られてもおかしくありませんでした。しかしながら20年代になって再度脚光を浴びます。1921年『女郎蜘蛛』での女王アンティネア役です。

『女郎蜘蛛』(1921年)より
『女郎蜘蛛』(L’Atlantide、1921年)より

第一次大戦後の仏映画はリアリズムにこだわり話のテンポが悪くなる癖が抜けず、外国映画に押されてかつての勢いを失っていました。この苦しい状況で冒険やファンタジーを強く押し出した『女郎蜘蛛』は活路として期待されたのです。ナピエルコウスカは1922年に創刊された映画雑誌『シネミロワール』創刊号の表紙を飾っています。

『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ
『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ

同時期に初めて市販されたのが家庭用映写機のパテベビーでした。初期カタログにはナピエルコウスカ主演作『ミロール・ラルスイユ』(Milord l’Arsouille、1912)も含まれています。そしてもう一本、手持ちでは『カンボジア風舞踏』にも登場。これは社会派ドラマの中編『黄金に浮かされて』(La Fièvre de l’or)の一場面を抜粋したものです。

『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』
『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(Napierkowska in Danses Cambodgiennes)

フランス劇映画の始まり(1910年頃)から黄金期(1912~18年)、そして停滞期(1919年~)に関わった点で重要な役割を果たした女優だと言えます。伝記面はほとんど知られていないのですが、1922年の『シネ・ミロワール』誌に前後篇2回に分けた自伝エッセイが掲載されています。

[IMDB]
nm0621051

[Movie Walker]
スタシア・ドウ・ナピエルコウスカ

[誕生日]
12月16日

[出身]
フランス(パリ)

[サイズ]
11.0 × 16.5cm

[撮影]
ルーランジェ写真店

シュザンヌ・ビアンケッティ Suzanne Bianchetti (1889 – 1936)

「フランス [France]」より

映画に携わることになったのは全くの偶然がきっかけでございました。1917年の或る日、コメディ・フランセーズで女優をしている友達に会うためヴァンセンヌのパテ社撮影所に顔を出しました。彼女は国威高揚映画『戦中の仏蘭西女たち』を撮っていた最中で、女優が一人休んでいた代わりをしてほしいと監督に頼まれ脇役として出演したのです。監督さんが演技を気に入ってくれたのでしょうかね、数ヵ月後、『家族三様』という別な国威高揚作品の主要キャストの役を任せていただくことになり、セヴラン・マルス氏やジャン・トゥルー氏、アンリ・ボスク氏やジャラベール夫人とご一緒させて頂いたのです。

その次の年、喜劇短編二つは割愛して、デフォンテーヌ監督の下で『ラ・マルセイエーズ』に出演いたしました。それまで頂戴していた役はどれも軽喜劇でしたし、ありふれた感情だけを表現して居れば良かったのです。ところが突然、グラン・ギニョルでしかお目にかからない様な極端にドラマチックな役柄をアンドレ・ノックス氏の脇で演じなくてはならなくなったのです。映画が上映された時、それが自分だとはどうしても思えなくて、自分のあまりの経験不足に映画界から足を洗おうとすら考えました。あの時ほど自分が役者稼業を何も知らないと思い知らされたことはありません。自分の経験不足を補うため、ジャック・バロンセリ氏が監督した『フリポット』と『夢』の二作でガブリエル・シニョル氏と共演させていただきました。お二方が私の御師匠様のようなものです。

ラマルティーヌの詩を元にレオ・・ポワリエ監督が製作した『ジョスラン』でヒロインの姉役を演じました。ピエール・コロンビエ監督で撮った『大晦日の夜』という面白い作品はこの合間に作られたものです。

『ジョスラン』の撮影終了後、シャルル・ビュルゲ監督からお声がかかり、『巴里の秘密』でアルヴィル侯爵夫人の役を演じることになりました。数週間の間友人のユゲット・デュフロと撮影で一緒だったのが楽しい思い出です。彼女と私が似ていると仰られる方もおられて、二人でクスクスと面白がっています。8月1日からは再びポワリエ監督の弟子に戻って『リヨンへの密使殺害事件』に出演、ルズリュクの恋人クロチルド役を任されております。

「スター女優自身を語る:スザンヌ・ビアンケッティ」
シネ・ミロワール誌13号、1922年11月1日付

C’est tout à fait par hasard que je suis venue au cinéma. Etant allée un jour de 1917 au studio Pathé, à Vincennes, pour y trouver une amie de la Comédie-Française qui trounnait un film de propagande La Femme française pendant la guerre, j’acceptai, pour rendre service au metteur en scène de ce film, de tenir un petit rôle en remplacement d’une actrice absente. Sans doute ce metteur en scène trouva-t-il ce début satisfaisant car, quelques mois plus tard, il me confiait, à côté de Séverin Mars, de Jean Toulout, d’Henri Bosc et de Mme Jalabert, le principal rôle féminin d’un nouveau film de propagande : Trois familles.

L’année suivante, sous la direction de M.H. Desfontaines, je tournai La Marseillaise, sans parler de deux petits films comiques. Jusqu’alors, les rôles qui m’avaient été distribués étaient de pure comédie et je n’avais à y exprimer que de sentiments moyens et pour ainsi dire quotidiens. Brusqument, on me demanda d’incarrnner, à côté d’André Nox, un personnage extrèmement dramatique, comme on n’en rencontre qu’au Grand-Guignol. A la projection de ce film, je crus ne pas me reconnaître et pensai un moment à renoncer au cinéma tant j’étais effrayée par mon manque d’expérience: jamais je ne regrettai autant qu’alors de tout ignorer du métier dramatique. Pour acquérir ce qui me manquait, je tournait dans Flipotte et le Rêve, de petits rôles à côté de Gabriel Signoret et sous la direction de J. Baroncelli, qui furent ainsi mes véritables maîtres.

M. Poirier me chargea d’incarner la soeur de Jocelyn, dans l’adaptation qu’il commençait du poème de Lamartine. Entre temps, M. Pierre Colombier m’avait fait tourner son amusant Soirée de réveillon.

Jocelyn terminé, M. C. Burguet me fit appeler pour me distribuer, dans les Mystères de Paris, le rôle de la Marquise d’Harville, cce qui me donna le plaisir de travailler quelques semaines à côté de mon amie Huguette Duflos, à qui certains prétendent que je ressemble, ce qui nous amuse fort toutes deux. Depuis 1er août je suis redevenue la pensionnaire de M. L. Poirier, qui m’a confié dans l’Affaire du Courrier de Lyon, le rôle de Clotilde d’Argence, la maîtresse de l’honnête Lesurques.

Nos Vedettes par elles-mêmes : Suzanne Bianchetti
Ciné-Miroir, No 13, 1er Novembre 1922

元々演技畑の出身ではありませんでしたが温かみのある人柄や自然な動きが重宝され、この後もアンリ・ルーセルやガンスなど優れた監督の作品に次々出演していきます。1936年に惜しまれつつ早世。死後、彼女の名を冠した映画賞が作られ、現在にいたるまで若手女優の登竜門となっています。

[IMDB]
Suzanne Bianchetti

[Movie Walker]
シュザンヌ・ビアンケッティ

[出身]
フランス

[生年月日]
2月24日

[コンディション]
C+

[入手]
2013年5月18日

エドゥアール・マテ Edouard Mathé (1881 – 1934) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Edouard Mathé Autographed Postcard
Edouard Mathé Autographed Postcard

今ある人気はゴーモン社とルイ・フイヤードのお陰だと思っています。適切な助言としっかりした役を頂けたことで役者稼業とは何か学ぶことができました。と言ってみたものの、まだ修業中の身な訳で、演技の場に立つとまだまだ色々と学んでいたりします。ルイ・フイヤード監督の役者一座は国内最良で粒ぞろいと言われていますが、まさにその通り、氏は私たちの良き点も悪しき点も巧みに使いこなし、役者を熟知した上でその気質にあわせて配役を分け与えていきます。スタッフ陣の仲良しぶりは国内随一ですし、同僚たちはみな魅力ある友人ばかりなので、かつて一度たりとも口論はありませんでした。配役は常に適材適所、一座はこれ以上ない位調和が取れています。ゴーモン社では様々な役を演じてきていて、時に善人、時に嫌な奴だったりもあります。観客受けするのは前者なのですが、役どころとして面白いかというとそうではなかったりします。

お気に入りの役は『レ・ヴァンピール』で演じたゲランド役でしょうかね。フイヤード監督の次回作『女孤児』では厭味ったらしい謎めいた男を演じる話になっていて、大親友のビスコにありとあらゆる嫌がらせをしてみせますよ!

「エドゥアール・マテ」
ロバート・フローリー執筆記事中のインタビューより
シネマガジン誌1921年7月22日付 27号

C’est aux Etablissements Gaumont et à Louis Feuillade que je dois ma popularité à l’écran: grâce aux bon conseils de celui-ci et aux rôles qu’il a bien voulu me confier, j’ai appris mon métier. Quand je dis « j’ai appris », j’apprends encore et, au théâtre, nous sommes tous ses éléves. Notre metteur en scène Louis Feuillade, dont la troupe passe pour être, à juste titre, une des meilleurs et des plus homogènes de France, sait admirablemet se servir de nos qualités et de nos défauts et nous connaissant à fond, il nous adapte les rôles de ses scénarios, suivant nos tempéraments. Le plus grande camaraderie règne entre tous les artistes et j’ai des partenaires qui sont pour moi des amis charmants, il n’y a jamais la moindre discussion entre nous; quant aux rôles distribués, ils nous conviennent toujours et la troupe est unie dans la plus parfaite harmonie. J’ai interprété aux Etablissement Gaumont différents rôles, les uns sympathiques les autres antipathiques, les premiers portent davantage sur le public, mais sont souvent moins intéressants.

Un de mes rôles préférés est celui de Guérande, dans Les Vampires. Dans le prochaine film de Louis Feuillade, L’Orpheline, je joue un personnage louche et équivoque et je fait toutes les misères possibles à mon grand ami Biscot!

« Edouard Mathé » interviewé par Robert Florey
Cinémagazine No 27, 22 Juillet 1921

連続活劇『ジュデックス』や『レ・ヴァンピール』出演で知られるエドゥアール・マテですが、生年生地及び本名に紛れがあります。1886年オーストラリア生れとする記述が多いのですが、ロバート・フローリーの記事にもあったようにオーストラリア系両親から生まれ、出身地はフランスだったというのが事実の様です。

Edouard Mathe - acte de naissance
日本での戸籍謄本・抄本に該当する出生記録帳
左上、32番の番号の下に「Matthyssens Edouard」

仏ウィキの注釈で示されているようにクルブヴォアの戸籍簿1881年度分に「エドゥアルド・マティサン(Edouard Matthyssens)」の出生が記録されており、こちらが本名とのことです。

[Movie Walker]

[IMDb]
Édouard Mathé

[出身]
フランス(オー=ド=セーヌ、クールブヴォア)

[誕生日]
1月25日

[データ]
Photo Studio Henri Lebrun