1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その三) 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ/新興、寿々喜多呂九平)

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こちらは浪花、十郎兵衛と約束した鱶七は、或る夜小幡の室へ忍び込んで、まんまと名刀國次を盗み出し、之を十郎兵衛の宅へ持來して「サー旦那、お約束の刀は持つて參りました……五百兩の方はいかゞでございます」十郎兵衛「未だ江戸から參らぬ故もう二三日猶予してはくれまいか」鱶七「私の方には他の買手も出ましたから……ではその方へ譲るとしませう」十郎兵衛「では明日の晩まで待つてくれ……きつと五百兩、耳を揃へてお渡し申さう」

足利将軍の末裔阿波家では権力争いが苛烈を極め、家老の一人鐵川は同僚松永の保管する名刀を盗ませ松永の失脚を狙おうとした。阿波家伝来の宝刀盗難に気付いた松永は大阪に赴き、かつて仕えていた阿波十郎兵衛(雲井龍之介)に事件の解決を依頼する。十郎兵衛は刀のありかを突きとめたものの買い戻すには500両の大金が必要だった…

マキノや東亞で脚本(1924年『逆流』、1925年『雄呂血』)を手掛けた寿々喜多呂九平が30年代に帝キネ〜新興で監督業に進出した時期に残した作品。主演に雲井龍之介、その妻に鈴木澄子を配しています。

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阿波十郎兵衛は様々な逸話で知られた江戸期の凶賊でした。金品狙いで巡礼の娘を殺した一件が発覚し逮捕されます。陰惨な殺人事件を近松門左衛門が美談化したのが『傾城阿波鳴門』第八段で、帝キネ版はこの浄瑠璃バージョンを展開した内容となっています。

JMDbを確認したところこの作品に対応する1931年のエントリーが二つありました。一つが帝キネ製作、もうひとつは新興キネマ版です。

帝キネは1931年8月に消滅し新興キネマに改組しています。そもそも活動文庫版の出版された9月には会社自体が存在していなかったのです。1931年7月に試写が行われキネマ旬報など映画誌の8月号に記事が掲載されるも実際には上映されずに元の製作会社が消滅。立て直しが終わった11月に改めて新興キネマ版『阿波の十郎兵衛』として公開された流れでしょうかね。

[JMDb]
阿波十郎兵衛(帝キネ)
阿波の十郎兵衛(新興キネマ)

[IMDb]
Awa jûbei

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1927年 『國民新聞 附録 現代俳優寫眞と名鑑』

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« Contemporary Actors & Actresses » (Kokumin Shinbun Saturday Supplement, 5th Nov. 1927)

昭和2年(1927年)11月5日付の國民新聞の付録。

一面と四面は主に広告で占められており、日活の『砂絵呪縛』、松竹『海の勇者』(電氣館)、パラマウント社『決死隊』(邦楽座)、『通し狂言 忠臣蔵』(帝劇)などの宣伝が掲載されています。城戸四郎氏による「製作者の見た最近映畫の傾向」では剣戟、喜劇、傾向映画(「社會組織に對する問題を含んだ映畫」)と母性愛映画への言及がありました。

二・三面全体を使って俳優名鑑と成し192名を収録。二面は上から歌舞伎・新派・新劇・ハリウッド映画俳優となっていました。

三面は国内映画俳優で、松竹・日活・マキノ・帝キネ・東亞・阪妻・無所属・国外組の並びです。

俳優名鑑が掲載された日刊紙を入手したのは今回が初めてです。焼けや折れ、シミ、虫食いの跡など状態は良くないものの触るとボロボロ崩れてくるほどではなかったのが幸いでした。

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泉 清子 (1909 – 1950)

「日本 [Japan]」より

Izumi Kiyoko Autographed Postcard
Izumi Kiyoko Autographed Postcard

未だ「小坂時代劇」が在つた頃、尾上紋十郎の主演映畫に出てゐたが、後アシア時代劇部に編入された年若い女優。連續映畫『孔雀の光』に重要な姫君の役を受持つてから頓にその腕を認められた。二十瞼の、髪のうつくしい、そして頬の線の整った美人である。今は、時代、現代の両刀使ひ。

『日本映画年鑑 大正十五年昭和二年 第三年版』
(大日本雄弁会講談社、1927年4月、「泉晴子[原文ママ]」)

[JMDb]
泉清子

[IMDb]
Kiyoko Izumi

[出身地]
日本(大阪府大阪市)

[誕生日]
12月21日

[データ]
8.5 × 13.5cm

1928年『日本映画年鑑 第四年版』(昭和二年・三年版、朝日新聞社)

Japan Movie Annual vol.4 (1928, Asahi-shinbun-sha)
Japan Movie Annual vol.4 (1928, Asahi-shinbun-sha)
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『海の勇者』より。松井千枝子と鈴木伝明

1927年(昭和2年)の内外映画界を振り返った一冊。ハリウッド作品では『第七天国』『サンライズ』『あれ』『三悪人』『ビッグ・パレード』『ボー・ジェスト』などが公開され、独ウーファ社『メトロポリス』や『ヴァリエテ』が紹介されるなど、現在まで無声映画傑作として知られている作品が軒並み名を連ねています。

邦画では帝キネ(『競艶美男』)や東亞(『王政復古』)、マキノや阪妻が気を吐き日活(『尊王攘夷』『慈悲心鳥』『忠次旅日記』)と松竹(『白虎隊』)二強体制に待ったをかけています。一方では諸口十九と筑波雪子の獨立、岡田嘉子と竹内良一の駆け落ち騒動など業界全体がやや浮ついていた印象もあり。

監督特集も充実。二川文太郎、伊藤大輔、鈴木重吉、山下秀一、廣瀬五郎氏などが次世代日本映画を支えていく存在として期待されています。

その他特筆すべき特集として、ハリウッドやドイツで活躍する日系俳優の紹介、男女優(百々乃助、伏見直江)のメーキャップ特集、映画ポスター秀作紹介が目を引きました。

時代の趨勢がまさにトーキーに移りつつある中、サイレント映画が質実共に完成されつつある様子が伝わってきます。

[出版者]
東京朝日新聞發行所

[発行]
昭和3年(1928年)3月

[定価]
一圓五十銭

[フォーマット]
B5版ハードカバー、 25.7×18.5cm、152頁

小阪 照子 (1910 – ?)

「日本 [Japan]」より

小阪照子 サイン入り絵葉書
Kosaka Teruko Autographed Postcard

やつと肩揚げの取れたばかりのおいとはん。何しろまだ取つての十八歳の若さですもの、何もかもこれからです。映畫生活の第一歩は帝キネ・スタジオに踏まれました。小坂照子の名前も其處から來るたものです。それから衣笠プロダクシヨンへ、それから東亞へ – と移つて今日の有望な地位を獲得したのでした。純粹の日本娘らしい色彩の濃厚な彼女の存在は東亞にとつてはどの位の強味かしれません。これから、何もかもかれからです。多幸な小坂照子ではあります。

『日本映画年鑑 昭和二年昭和三年 第四年版』
(朝日出版社、1928年4月)

本名は森田勝子。明治43年4月26日生まれ。趣味のひとつに乗馬を上げています。

1924年帝キネで女優デビュー。『孔雀の光』など尾上紋十郎主演作品に出演。後に東亜キネマへ移籍し、やはり時代劇で雲井龍之介作品などで活躍を見せます。東亜キネマの解消と共に映画界を離れていますが、キャリア後期はヒロイン役での登場も増え地力、人気をつけていた最中でした。

[JMDB]
p0172280

[IMDB]
nm2361872

1926年『キネマ花形』 (『活動花形』改題 11月号 花形社)

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1926 Kinema-Hanagata Magazine (November Issue)

京都を拠点に活動していた花形社の雑誌のひとつで、こちらは1926年末に「キネマ花形」と改題後出版された新生第一号となります。

表紙を飾っているのはコリーン・ムーア。本文は全て一色刷り、数点のグラビアを除くと大半が公開された新作のスチルと粗筋紹介となっています。内容は:

日活:「シベリアお瀧」「月形半平太」「水戸黄門
松竹:「カラーボタン」「美しき禱」「若き日の罪」「いとしの我が子」「妖刀」「いかりの刄」「海人
帝キネ:「關東綱五郎」「澁川伴五郎」「海の妖婦」「自由の天地
マキノ:「どんぐり長屋」「どんどろ堀」「大江戸の丑満頃」「大尉の娘
東亜:「富士に立つ影」「逆風」「劒闘」「森の石松
阪妻:「情炎流轉」「狂へる人形師

誤植(「お瀧」→「お龍」、「丑満頃」→「丑満時」)もそのまま転記。その他海外作品として「グリード」や「バツト」「雀」「女郎蜘蛛」「滅び行く民族」なども紹介あり。

後半の下の方には小さくゴシップ欄があり、マキノ輝子の醜聞と共に日活でのリストラの話が掲載されていました。

尾上松之助氏の死とともに所内に蔓る積弊一掃の機會を早めるものと觀測されてゐたが果然拾八日午後京都市木屋町中村屋にて横田副社長根岸支配人池永所長杜重支店長等が會合協議の結果新劇部男優小村新一郎齋藤達雄宇田川寒待弓削宗貞外三拾六名女優部では宮部静子、本田歌子、衣笠みどり、松島英子、高島京子、香川満子、巽久子、橘道子外数名を解雇した。
それと同時に東坊城恭長、若葉馨、木藤茂に俳優を廃めさせ東坊城若葉の兩名は一時名目だけの脚本部附となし木藤は監督助手に祭り上げるなど大整理を行ふ[…]。

「新劇部男女俳優大整理」

1931年 – 『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』 冨士新年號附録

1931年-名流花形大寫眞帖
« Stars Photo Album » supplement to the « FUJI » magazine Vol.4, No.1 (Jan 1931) published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

[発行年]
昭和6年1月

[発行者]
大日本雄弁会講談社

[フォーマット]
356頁 18.4cm×12.8cm

[定価]
本誌と共に七十銭

若葉馨、昭和3年(1928年)の転職報告ハガキ

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

Wakaba Kaoru 1928 postcard
Wakaba Kaoru 1928 postcard announcing his career change
(« I resumed my acting career,
this time as a Jidai-geki actor at Nikkatsu » etc. )

若葉馨 (1900 – 没年不詳)

本名須田庄一。明治三十四年、前橋市に生る。東京齒科醫專を中途退學し、舞臺を經て映畫へ、日活松竹を經て昭和四年九月帝キネに入社。各社に佳作を残す。最近の作品は「曲馬團の娘」「最後の女性」「浅草紅團」等々。身長五尺四寸八分。體重十四貫。趣味は俳句寫眞、雑誌の發行。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

Wakaba Kaoru 1931

髙島栄一氏宛、昭和3年(1928年)4月16日付西陣の消印有。「先日は失礼いたしました。又御土産まで頂戴いたし誠に有りがたく御礼申上ます」の直筆メッセージが左上に残されています。

[JMDB]
p0162750

[IMDB]
nm2121629

[出身]
日本(群馬県前橋)

[サイズ]
14.0 × 9.0 cm

1929 – 瀧本時代堂の説明本 ~1920年代後半の説明集ブーム私見~

「阪東妻三郎関連」より

Benshi-narration-oriented Novelizations :
Ito Daisuke’s « Man-Slashing Horse-Piercing Sword » (Zan-jin Zan-ba Ken),
Aku Reinosuke’s « Cold Eyes » (Reigan) etc.

『斬人斬馬剣』(1929年 松竹京都 伊藤大輔)
『冷眼』(1929年 右太プロ 悪麗之助)
『此村大吉』(1929年 阪妻プロ 山口哲平)
『傳奇刀葉林』(1929年 帝キネ 渡辺新太郎)

表紙に独特な雰囲気があります。

いずれも昭和4年(1929年)の公開作品。伊藤監督の重要作の一つ『斬人斬馬剣』、悪麗之助の『冷眼』など剣戟愛好家に興味深いラインナップとなっています。14.3×10.6センチ、15ページ。紙質は荒く、表紙を開くと配役一覧があってすぐに物語が始まります。

危機一髪の眞つ最中へ馳せ付けて來たのが十時來三郎及び賴母等の正義の士であった。
『ヤアヤア臣下の身として、君家を乱し、暴擧を企て、世継の若君に危害を加へんとするなどとは言語道斷のくせ者である』

(『斬人斬馬剣』)

見る見るお千代は遂に九郎次の爲めに取られてしまつた。其日からしての甚十郎の胸中はモンモンとして悶えて居る。殊にお千代が残してある、着物などを見ると其面影が偲ばれて、悲嘆の涙が自らわき出して來る。

(『冷眼』)

4冊いずれも佐藤綠葉(綠葉山人)が文章を担当。同氏は1927年の明文館「説明集」に関わっていたことでも知られています。現物は所有していないため国立映画アーカイブ所蔵分の表紙をコピーさせていただきました。

明文館説明集
『西洋新映画説明集』『欧米特作映画説明集』『新派映畫説明集』
(明文館)国立映画アーカイブ蔵

「説明集」とは弁士の語り(説明)を念頭に置きながら映画をノベリゼーションしたものです。本来は映像を補足する存在だった弁士が次第に重要性を増し始め、時に映画以上に目立つこともあった日本無声映画期に特有の発想です。

無声映画の後期には弁士が一大人気職業となって各地で語りの才を披露していました。1910年代の『ジゴマ』二次小説ブームも同様で、日本では映画の背景や表現技法を理解して味わうより作品をネタとして楽しむ傾向が強く見られます。ツイッター全盛の現在でも本質的には変わっていないもので、日本の文化風土にあったシステムだというのは直感的に分かります。

ところがこの方向性は危険もはらんでいました。弁士の語りが前に出すぎると映像は挿絵の扱いになってしまいます。『斬人斬馬剣』を読んでいても伊藤監督の個性はかき消されていて、当時の剣戟映画界でなぜ本作が際立っていたのかが見えてきません。説明集は、視覚芸術としての映画の本質を説明していないのです。

『弁士の説明を聞くより面白い』
明文館の映画文庫の紹介ページより。仮想敵が弁士だった様子が伝わってきます。
« More exciting than benshi-narration! »

映画を作る側からすると歯痒さの残る状況でもありました。1929年は初のマキノトーキー作品(『戻橋』)が公開された年でもあります。マキノ監督は単に欧米のテクノロジーを追おうとしていた訳ではありません。観衆側の解釈や盛り上がりに依存しすぎる状況に危機感をいだき、弁士システムを終了させ業界をリセットする発想が含まれているのです。

ハリウッドでは1920年代半ば、東欧や南米でも1931~32年にトーキー移行が完了していたにも関わらず、技術力で負けていた訳ではない日本が出遅れたのには理由がありました。多くの国でトーキーへの変化はテクノロジーのアップデートに過ぎなかったのに対し、映画が魔改造されて根付いてしまった日本では変えなくてはならない前提が他にもあったのです。

ガラパゴス的な状況は1935年頃には解消されていましたし、そのおかげで後の邦画黄金時代が実現する運びとなりました。ただ、今更ではありますが、ガラパゴスのまま独自進化を遂げていたとしてもそれはそれで面白い邦画史になっていたのだろうな、と思うのです。

1928 – 『玉麗佳集』

昭和3年(1928年)に公刊された俳優と芸妃の名鑑集。

1ページにつき2名の写真が掲載され国内外の俳優200名と芸妓20名が登場、巻末に俳優の略歴紹介が付されています。

1927~28年頃の俳優名鑑は初めてで、この時期に活躍された帝キネ女優(山下すみ子、櫻綾子、蘆屋桃子)の情報がありがたかったです。

薄手の紙を使用していますが紙質は良く劣化が少なかったのも幸いでした。中表紙や写真の背景に使用された手書きイラストも興味深く、昭和への移行期の雰囲気がよく伝わってきます。

[出版社]
中央書院

[定価]
1円80銭

[ページ数]
178p

[フォーマット]
22.2 × 15.0cm

明文館『映畵文庫』書籍一覧(1927年)

明文館・映画文庫一覧(1927年)

1927年時点で26冊が刊行されていた模様。扱われている作品の大半は1925年11月~1926年1月に公開された作品。

『御詠歌地獄』(松竹 1925年11月)
『雄呂血』(阪妻 1925年11月)
『荒木又右衛門』(日活 1925年11月)
『靑春』(松竹蒲田 1925年11月)
『上野の鐘』(松竹 1925年11月)
『辨天小僧』(帝キネ 1925年11月)
『松風村雨』(帝キネ 1925年11月)
『人間』(日活 1925年12月)
『戀の捕繩』(松竹 1925年12月)
『龍巻く嵐』(帝キネ 1925年12月)
『時勢は移る』(松竹)
『落武者』(松竹 1925年12月)
『命の懸橋』 (東亞1925年)
『お艶殺し』(東亞 1925年10月)
『寂しき道』(松竹 1925年11月)
『お初吉之助』(松竹蒲田 1926年1月)
『剣の舞』(東亞 1925年7月)
『女神の像』(帝キネ芦屋 1926年1月)
『いでゆの秋』(東亞 1925年12月)
『曲者は誰?』(帝キネ 1925年12月)
『征服者』(松竹蒲田 1925年12月)
『血刃の情火』(松竹 1926年2月)
『磯の仇浪』(東亞 1925年11月)
『魔保露詩』(阪妻 1925年12月)
『相模屋政五郎』(帝キネ芦屋 1926年2月)
『白川小天狗』(帝キネ 1925年12月)

ご丁寧に対応して下さった国立映画アーカイブ図書室のスタッフの皆様ありがとうございました。

『大正名優鑑』 (劇と映画 第一周年記念臨時増刊、大正13年)

歌舞伎と映画を扱っていた月刊誌『劇と映画』の創刊一周年を記念し大正13年に作成された俳優特集号。表紙は木版を貼りこんだもの。本体と同じ大型サイズに多数のグラビアを収録しています。

前半は歌舞伎俳優をまとめており、後半が映画編。映画編では各映画会社の首脳陣(城戸四郎、白井信太朗氏ほか)が登場、その後5つの会社(松竹蒲田、松竹下加茂、日活、東亞、帝國)の専属俳優が紹介されていきます。

蝶ネクタイにモガ帽、鼻眼鏡…手彩色の写真に写しだされたファッションに時代の雰囲気が良く出ています。

[出版者]
東京国際情報社

[出版年]
大正13年 (1924年)

[サイズ]
32.4 × 24.5 cm

[定価]
2円

千草 香子 (1900 – ?)

Chigusa Kyoko Autographed Postcard

本名飯田千代子。明治卅一年名古屋に生る。女子商業卒業後、日活に入り後帝キネに移った。おつとりした芸風を持つて、可憐な娘に扮して毎時成功している。

『世界のキネマスター』1925年

明治三十一年名古屋市に生る。本名飯田千代子。姉は有名な新橋の芸妓、自分も若葉と名乗つて左褄を取り嬌名を謳はれたもの。女子商業の出身で大正十三年日活に入り、後帝キネに移つた。主なる主演は『新皿屋敷』『遺恨駒下駄』最近の映畫では『茜谷半七』『仇討高砂の松』に活躍しスターとしてフアンの人氣を高めてゐる。オツトリとした藝風で娘役が適している。好きな物は音樂と旅行と働くこと。嫌ひなものは志那料理。

『玉麗佳集』1928年

徳川 良子 (1906 – ?)

Tokugawa Yoshiko

1920年代前半に映画デビュー、日活現代劇を中心に活躍し30年代に帝キネ~新興キネマへと移っていきます。池田富保監督作品の『建国史 尊王攘夷』(1927年)にも出演、廓遊びに出かけた水戸藩士(谷崎十郎、新妻四郎)の相手をしている芸妓を演じていたのが桜木梅子、酒井米子、そして徳川良子の3女優でした。

Sonno Joi
『建国史 尊王攘夷』(1927年)より

喧嘩で乱れた鉄之助(新妻四郎)の髪をおあき(酒井米子)が直してあげようとしたところ、堅物の鉄之助は嫌がって両手で髪を隠します。そこで徳川良子演じる春駒が「エイ」と男の脇を突いておあきに加勢、場が笑いに包まれるという展開です。

歌川 八重子 (1903 – 1943)

歌川八重子 サイン入り絵葉書02Utagawa Yaeko Autographed Postcard

本名、深川政江。明治三十六年神戸市に生る。神戸市立商業學校を卒業。大正七年生地で初舞臺を踏み續いて大正十一年、松竹キネマに入り、翌年、帝キネに轉じ、以来主演映畫百數十本。主な近作は「三人の母」「赤い白鳥」「與へられた武器」身長四尺九寸。體重壱四貫4百目。趣味は舞踏、繪畫。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

筈見恒夫氏の『写真映画百年史』(昭和29年)は「主演映画は『酒中日記』『城ヶ島』『乳姉妹』『金色夜叉』『マダム・ニッポン』と百余を算したが特筆すべきものはない」と一刀両断。果たして単なるアイドル女優だったのでしょうか。『酒中日記』は伊藤大輔の監督デビュー作品でもありました。一度確認したいものです。

[JMDb]
p0056840

[IMDb]
nm0882485

[誕生日]
8月22日