澤村春子 (1901 – 1989)

「日本 [Japan]」より

sawamura-haruko-autographed-postcard-mSawamura Haruko Autographed Postcard

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

澤村春子、1927年の残暑見舞い

川島実市氏の絵葉書帳より

澤村 春子(川島実市氏の絵葉書帳より)


明治四十三年北海道に生る。大正九年上京して小山内薫の松竹キネマ研究所を卒へて処女映画『路上の靈魂』に出演、後『山暮るる』に出演して退社し田中欽之の下で『春の命』を撮影し大正十二年の末日活に入る。同社では『白痴の娘』『街の物語』『血涙記』『月形半平太』『憂国の少年』最近では『下郎』『轉婚二重』の主演があり日活主腦女優に屬するスターである。趣味は乗馬、琵琶、讀書、三味線、琴、舞踊、の各方面。

『玉麗佳集』(1928年)


本名澤村春子。明治卅四年北海道に生る。裁縫女學校卒業。役所勤めなどの後女優を志し、松竹キネマ俳優學校を經て松竹蒲田に入社。二年の後大正十二年一月より日活に出演す。主な近作は「流轉」「斷魔閃光」「白井權八」等。身長四尺九寸五分。體重十四貫五百目。趣味は三味線、踊り、琴等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


ある日来客から「沢村春子のことが週刊誌にのっている」と教えられ、あわててその週刊誌を探しましたが、ついに手に入らずじまいになりました。たしか読売とか。それには「昔の映画スター沢村春子が苦労に苦労の末、いまでは自分の故郷近くの津軽の寒村で、うら寂しく一文菓子を子供相手に売っている」というのだそうです。[…]

想像どおり沢村さんは不幸の連続でした。要約すれば親類筋を浮草のように泊り歩き、年をとったのでどこでも使ってくれない、いまは他人の家の手伝いやせんたく物洗い程度の仕事をして、一人ぽっちの私はどうやら生きているが、この先どうなることやら、どうか笑って下さい、と結んでいます。

『髪と女優』(伊奈もと著、1961年)


映画の黎明期、無声映画のスターと云われた女優がいた。
沢村春子
女優にかけた思いを
浅虫で息絶えるまでの人生を、
三人の役者が演じる。

『驟雨激しく』 ―ある無声映画女優の生涯―
2011年6月17・18日青森県「ねぶたの家ワ・ラッセ」で
上演された舞台劇の宣伝文句より


日活が女優に本腰を入れ始めた初期から活動をしていた古参の一人で、1925年の女優揃えでも上座と思われる左端(左上位)に配置される評価を得ていました。切れ長の目でグッと堪えた悲劇調の役柄を得意とし、日活期の松之助作品ヒロイン(1925年『荒木又右衛門』池田富保監督)など20年代中盤の邦画界に功大なり。

『髪と女優』で紙数を割かれて述べられていたように、20年代後半の女優ブームの中で埋もれてしまい一時期は消息不明となっていました。晩年は青森で不遇な生活を送り80年代末にひっそりと亡くなっていますが、その後彼女の生涯を追った舞台劇が制作されています。

[JMDb]
稲田春子

[IMDb]
Haruko Sawamura

[出身地]
北海道

[誕生日]
1月20日

[データ]
8.6 × 13.7cm

1929年 日活・撮影稲荷前の女優揃え(『婦女界』昭和4年2月号)

1929年日活・撮影稲荷前の女優揃え

京都太秦の日活撮影所内に祀つてあります撮影稲荷の前に集まつた、日活の時代劇部と現代劇部の女優さんたちです。後列右より入江たか子津島るい子鈴川和子衣川光子、櫻井秀子、村松高子、前列右が常盤みどりで左が一色あけみさん。

『婦女界』1929年(昭和4年)2月号「婦女界グラフ 映画女優の生活 その一」

齣フィルムを収める小袋として使用されていた『婦女界』掲載の写真。二つの齣フィルム用に割かれていたのを画像加工でくっつけています。

右脇で存在感を放つおたかさんと左端を〆る横田永之助氏の圧で面白い構図に仕上がりました。今の三吉稲荷が出来る以前、太秦撮影所内にも稲荷があったんですね。村松高子さんはjmdbで「松村」と登録、「櫻井秀子」は櫻井京子かな。そろそろ無声映画の黄金期が終わりトーキーの足音が聞こえてきます。1925年(大正14年)の日活女優揃えと並べたい一枚ですね。

1929年頃 齣フィルム『時代劇マーク大会(大乱闘劇・大猛闘劇)』5冊254枚

1929年 齣フィルム『時代劇マーク大会(大乱闘劇・大猛闘劇)』
元々35ミリフィルムはコレクション対象から外しておりいわゆる「齣フィルム」も手元にありませんでした。ところが先日まとまった未使用の束が売られており、今回手に入れてみることにしました。

厳密な意味の「齣フィルム」は映写で実使用された35ミリフィルムをぶつ切りにして市販したり駄菓子屋の景品として扱ったりしたものでした。そういった古い「齣フィルム」のコレクションを見ていると、作品名と主役俳優を前に出したポスター風のフィルムが時折混じっています。あれは何だろうと常々思っていたのですが、どうやら当時(少なくとも業者から)「マーク」と呼ばれていた物に当たるようです。

1929年 『時代劇マーク大会』包み紙1929年 『時代劇マーク大会』フィルム
こちらは無声映画の有名時代劇の「マーク」が当たる駄菓子屋の引き物です。全く手つかずの状態で50枚を一束にした同じロットが5つありました。一つ一つが雑誌の紙を折って糊付けした袋に入っており、なおかつチラシも兼ねた小さな紙片にくるまれて中が見えないようになっています。後に触れる理由から1929年に制作されたものと推測され、1927~28年頃に公開された時代劇が中心となっています。

扱っている作品は河部五郎、大河内伝次郎、阪東妻三郎、林長二郎、市川百々乃助の5人の俳優の主演作のみ。

全ての袋を空けて(後で全部戻しました)統計を取った所、興味深い分析結果がでてきました。

1)各束に1つずつ、フィルムが2枚入った「当たり」がある(そのため合計枚数が250枚より多い)
2)俳優にもレア度があって、河部五郎が一番レア度が低く、市川百々乃助と林長二郎のレア度が高い
3)各俳優ごとの出演作でも出現率に濃淡があり、繰り返し出てくる作品と滅多に出てこない作品がある
4)タイトルやデザインに厨二病的な雰囲気があるものはレア度が高い

河部五郎主演『鬼傑の叫び』
河部五郎主演『鬼傑の叫び』
大河内伝次郎主演『血煙り高田馬場』
大河内伝次郎主演『血煙り高田馬場』
阪東妻三郎主演『血染めの十字架』
阪東妻三郎主演『血染めの十字架』
阪東妻三郎主演『阪本龍馬』
阪東妻三郎主演『阪本龍馬』
市川百々乃助主演『怪兇刄』
市川百々乃助主演『怪兇刄』
林長二郎主演『乱軍』
林長二郎主演『乱軍』
林長二郎主演『かゞり火』
林長二郎主演『かゞり火』

『鬼傑の叫び』はこのデザインで2枚含まれていて(出現率0.8%)、残りの5種は1枚ずつしか出てきませんでした。出現率0.4%はなかなかシビアな数字で幼い子供の射幸心を煽りたてています。

フィルムを個包装していた小袋は1929年『婦女界』2月号を再利用しています。コスト面からわざわざ雑誌を買ったとは考えにくく、手元にあった雑誌を流用したと思われます。当時の女性が行っていた内職の一つだったのではないでしょうか。

フィルム全てのスキャン画像と分析データは後日別記事で掲載する予定です。

スナップショット歌人としての五月信子 (1894 – 1959)

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悪役によろしといはれ、たゝへられ
 わがいひしらぬもの思ひかな

皆様のみ胸に多く妖婦役としてのみ印されて居るわたくし。おもへば、多少のうら寂しい氣もちがいたさぬでもありません。至難な妖婦役への抱負の萌芽はその頃より、わたくしの胸に培はれてゐたのです。

(『五月信子』五月信子著、1925年)

1925年に公刊された自伝『五月信子』(こちらで閲覧可能)は芸名の由来、下積み時代の苦労話、映画女優となってからの発見など、キャリア初期の出来事を平易な言葉遣いで綴ったチャーミングな書物です。

靜かな散歩の疲れを、「葵」の二階で癒すのがまた堪らないよろこびのひとつでございました。

「砂漠の人影」におけるエルシー・ファーガスンを、「蛇苺」におけるポーリン・フレデリツクを、またはルイーズ・グロームやシーダ・バラの蠱惑的な微笑に、あやしくも胸を躍らすわたくしでございました。

「一頃は、あつばれ、キネマフアンを氣どつたこともありました」とあるように、銀座の金春館や赤坂の葵館に足しげく通って初期映画を楽しんでいたようです。「わたくしはよく、拙い歌にこれらのひとびとの印象をかきしるしておきました。今筐底よりひきだしてそれをみるのも多少の懐舊の情がないでもございません」(144頁)。彼女は和歌を趣味としており、この時期に映画俳優に想いを凝らした歌を多く詠んでいます。

泣き笑ひ君がするとき人情の
その哀れさにしみじみとす
(チャーレイチヤツプリン)

うな垂れて白夜にあつき喝(むね)の火を
つゝまひ居らむ小百合花
(リリアン・ギツシユ)

彼女の歌は技法的に凝ったものではありません。深い情感を伝えるでもなく特異な視点を持っている訳でもなく、強い個性を伺わせるでもない、折々の雑感をまとめたものが大半です。「拙い歌」はさすがに言い過ぎとしても「一流歌人」と称して良いレベルに達していない、とは言えるかもしれません。

Satsuki-Nobuko

それでも五七五七七で歌を紡ぐのが日常の一部になっていた様子は伝わってくるのです。そこには手を加えすぎていない、採れたての自然野菜のみずみずしさや素朴さがあります。五月信子さんにとっての和歌とはそうでもしなければ消えてしまう刹那の雑感を閉じこめ、結晶化させる極私的な手段だったのだと思われます。

大正期には優れた女流歌人が多く登場しており、原阿佐緒らは現在でも高い評価を得ています。彼女たちの歌人としての在り方はとても古典的で19世紀文学を多く引きずっているように見えます。『モデルノロヂオ』が素描きしたように他愛ない日常の断片が積み重なって時代を浮き上がらせていくのが「モダン」であるとするならば、無名の歌好きが引き出しに書きためていた歌たちもまた新しい時代のスナップショットとして評価されて良いのではないでしょうか。

1927年 『國民新聞 附録 現代俳優寫眞と名鑑』

1927-11-05 Kokumin Shinbun
« Contemporary Actors & Actresses » (Kokumin Shinbun Saturday Supplement, 5th Nov. 1927)

昭和2年(1927年)11月5日付の國民新聞の付録。

一面と四面は主に広告で占められており、日活の『砂絵呪縛』、松竹『海の勇者』(電氣館)、パラマウント社『決死隊』(邦楽座)、『通し狂言 忠臣蔵』(帝劇)などの宣伝が掲載されています。城戸四郎氏による「製作者の見た最近映畫の傾向」では剣戟、喜劇、傾向映画(「社會組織に對する問題を含んだ映畫」)と母性愛映画への言及がありました。

二・三面全体を使って俳優名鑑と成し192名を収録。二面は上から歌舞伎・新派・新劇・ハリウッド映画俳優となっていました。

三面は国内映画俳優で、松竹・日活・マキノ・帝キネ・東亞・阪妻・無所属・国外組の並びです。

俳優名鑑が掲載された日刊紙を入手したのは今回が初めてです。焼けや折れ、シミ、虫食いの跡など状態は良くないものの触るとボロボロ崩れてくるほどではなかったのが幸いでした。

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浜口 富士子 (1909 – 1935)

「日本 [Japan]」より

Hamaguchi Fuijiko Autographed Postcard
Hamaguchi Fuijiko Autographed Postcard

美人投票に當選したのがキツカケで日活に入社、幸運と云ふべく、余りに幸運にも「蒼白きバラ」に一躍主演級に据ゑられて大カツ躍。古くは澤正一座に加はるて居り、多少の舞台度胸もあつた事とて、第一回主演に失敗もせず、續いて「一番目の女」や「摩天樓」にも現はれて、日活映畫に一脈の若さとモダーン味を加へてゐる。年も廿二歳なら、之からはしつかりした藝を見せ樣し、とまれ若手新進中では、皆から目を付けられてゐる人。

『日本映画年鑑 昭和四年昭和五年 第五年版』
(朝日出版社、1930年4月)

私が書くよりその記事の主要な部分を抜き書きしますから読んでいただきましょう。

— 富士子は九月に入って全く重態に陥った。富士子の実母がかけつけた時には、手のつけられないほどだった。もう注射と酸素吸入だけでようやく命をつないでいるだけだった。それなのに俊二はもちろん、可愛いい誠之助もいない。富士子危篤の報にようやく二十九日の朝、俊二は生母杉山ふきと誠之助を連れて病院にきた。百日目に見舞う妻は全く明日をもしれない容体なのだ。

「ホウこれならまだ大丈夫だ。それぢァまたくるよ」

と慰めの言葉一つかけるでもなくさっさと帰るのだった。無情、冷酷、富士子の母はその翌日警視庁人事相談課に出頭して泣いて訴えた。しかしそれも富士子の死は時間の問題だった。華やかなスタート、きらびやかな映画スター、彼女は夫を心から憎み、愛児の名を呼びつつ二日後哀れにも悲惨な人生の終末を告げたのでああった。

『髪と女優』 伊奈もと著(1954年)

『髪と女優』からは筆者伊奈もとさんの穏やかで人懐っこい性格が伝わってきます。それでも例外的に調子の異なった章がひとつあってそれが浜口富士子さんを扱ったものでした。「仕事の上で二、三年ばかりのおつき合い」で「二人の恋愛ざた以外これという印象はありません」と前置きしつつ、無責任な夫から見捨てられた死の様子に「深い義憤を感ぜずにはおられません」と添えてありました。

一方ではあまりにもあっけなく辿りついてしまったスターダムに安住し、肝心の芸事の修練を怠っていた慢心を批判する文章もちらほら差し挟まれています。単純な夫婦問題のもつれではなく、安易にシンデレラを量産し消費するようになっていた当時の邦画界への自戒が含まれているようにも思えます。

[JMDb]
浜口富士子

[IMDb]
Fujiko Hamaguchi

[出身地]
日本(東京市神田)

[誕生日]
9月

[データ]
8.2 × 13.3cm

市川 市丸(1906 – 没年不詳)&大河内 伝次郎(1898 – 1962)

「日本 [Japan]」より

Ichikawa Ichimaru & Okochi Denjiro Mid 1920s Autographed Postcard
Ichikawa Ichimaru & Okochi Denjiro Mid 1920s Autographed Postcard

明治三十九年十月名古屋市に生る、野球と散歩がすキで蜘蛛と酒が嫌ひといふ變りもの。大正十年日活關西スタヂオへ入社し『憂国の少年』『姫小姓彌源太』『永樂德太郎』『水戸黄門』等に主演しフアンの好評を博し一躍スターとなる。最近退社して二三のものと日本プロダクシヨンを創設して牛耳を執り映畫の製作に從事してゐたが事志と違ひ遂に解散の憂き目を見たが近く擡頭するであらう。本名を森一太郎といふ。

「市川市丸」『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

1926年(大正15年)8月に発売された『キネマ』誌の第4回人気投票得点表で13位(男優では7位)にランクインしていたのが市川市丸でした。松之助が亡くなる(9月)直前辺りの人気勢力図は変化が見られ、森野五郎、高木新平や市川百々之助など若手が続々台頭する中で注目を浴びた一人でした。大河内傅次郎とは『修羅王』(池田富保)と『忠次旅日記 甲州殺陣篇』(伊藤大輔)の二作で共演しています。

[JMDb]
市川市丸

[IMDb]
Ichimaru Ichikawa

[出身地]
日本(愛知県 名古屋市)

[誕生日]
10月27日

[データ]
8.5 × 13.5cm