1913 – 『プロテア』(エクレール社、ヴィクトラン・ジャッセ監督) 仏シネマテーク・フランセーズ 2Kデジタル版を見る

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Victorin-Hippolyte Jasset]」より

Protéa (1913, Eclair, dir/Victorin-Hippolyte Jasset)
La Cinémathèque Française 2K Restauration

『ジゴマ』(1911年)で知られるジャッセ監督による犯罪活劇物で、1913年に他界した同監督の遺作となったものです。不完全なフィルムの現存は以前から知られており、1998年に複数のネガ(35mm/16mm)を元に修復版が作成され、2013年に2Kデジタル化が行われました。

デジタル版はシネマテーク・フランセーズの公式サイトで視聴可能。中盤にフィルムの見つかっていない個所があり字幕で補完する形になっています。

物語の大枠としては、欧州の架空の国メッセニア、セルティア、スラヴォニア3国の緊張関係を背景とし、セルティアとスラヴォニア間で秘密裏に締結された条約にメッセニアの外務大臣が危機感を抱きます。指示を受けた同国の警視総監(シャルル・クラウス)は旧知の女スパイ・プロテア(ジョゼット・アンドリオ)に条約の草案奪取を依頼します。

プロテアは収監中である相棒の「ウナギ(アンギーユ)」の釈放を条件に依頼を引き受けます。

ウナギ(アンギーユ)役のリュシアン・バタイユ

ウナギ(アンギーユ)と合流したプロテアはセルティアに向かうのですが同国ではすでに間諜潜入の知らせを受けており、二人の捕縛に乗り出していきます。プロテアとウナギ(アンギーユ)は次々と姿を変えながら条約の草案を盗み出し、お尋ね者の身となりながらメッセニアへの国境に向かっていく…

物語はシンプルながら登場人物が多いためフランス語字幕では関係が見えにくいかもしれません。春江堂から出ていた日本語小説版が内容理解の助けになるかと思います。

『探偵活劇 プロテア』
(1916年、春江堂、筑峰 翻案)

見どころについては実際に見てもらうのが一番だと思います。個人的に指摘しておきたいポイントが2つ。

1点目は冒頭の人物紹介の場面です。『ジゴマ』、『ファントマ』など当時の仏連続活劇では冒頭で主人公が様々な姿に身を変えて変装の達人ぶりを強調しています。『プロテア』も同じ「型」をなぞっているのですがフレームを使用することで絵のように見せています。枠のデザインはアールヌーヴォーの影響を受けており若い頃に画家を志していたジャッセ監督の趣味を強く反映しています。

プロテアの相棒「ウナギ(アンギーユ)」の紹介では枠そのものにウナギのデザインを採用。やはりアールヌーヴォー期の日本趣味、東洋趣味にインスパイアされた発想です。1:1.33の画面を使って何をどう見せるか、卓越した構図力がジャッセの強みだった訳で『プロテア』では冒頭からそのセンスを発揮しているといえます。

もう1点は作品中盤、プロテアと相棒が機密書類を盗みに入る場面。この時に二人がまとっていたタイトな黒装束は後にフイヤード監督作『レ・ヴァンピール』(1915年)のミュジドラ、さらに同作へのオマージュである『イルマ・ヴェップ』(1996年)のマギー・チャンに受け継がれていくものです。

『レ・ヴァンピール』(1915年)でのミュジドラ

『イルマ・ヴェップ』(1996年)でのマギー・チャン

暗闇に乗じて暗躍する悪党団の不気味さ、身体のラインを強調したフェティッシュなエロスを混在させる想像力はフランス連続活劇特有のもので、ハリウッド物との差別化を図る重要な要素となっていました。

[原題]
Protéa

[公開年]
1913

[IMDB]
Protéa

1917年頃 仏エクレール社 業務用貸出フィルムカタログ

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Victorin-Hippolyte Jasset]」より

c1917 « Extrait du catalogue des films en location » (Union/Films Eclair)

『ジゴマ』や『プロテア』で成功を収めた仏エクレール社が業務用(個人ではなく映画館向け)に配布していたカタログ。サイズは縦21.0×横13.5センチ。計20ページで、メモ用の罫線が引かれた最後の2ぺージ以外の18ページが作品目録に割かれています。

表紙には社名、タイトル、所在地、電報番号、電話番号が記載されており、開くとすぐにカタログが始まります。「劇映画」として199作、「喜劇」124作、「お笑いと舞台芸」100作、「ドキュメンタリー」108作の4つのカテゴリーに分けられており、計531本のフィルムがリストアップされていました。

カタログの一番目立つ最初に置かれているのはジャッセ監督による『ジゴマ』第一篇と第二篇。その後も『プロテア』などジャッセ作品を中心としたリストが続き、同監督がエクレール社の花形監督だった様子が伝わってきます。

ちなみに『プロテア』に関しては

「プロテア 第1篇 ……… 1,475
 プロテア 第2篇 ……… 1,315
 プロテア 第3篇 ……… 2,031
   -     ……… 1,710
   -     ……… 1,330」

という書き方になっています。これはプロテア第3篇が3話物として公開された状況を受けたものです。

また「劇映画」欄の後半にはシャーロック・ホームズ・シリーズをまとめて掲載。1912年にジョルジュ・トレヴィル監督主演で製作されたもので、数作(「マスグレーヴ家の儀式」「ぶな屋敷」)が現存しています。

続く「喜劇」の項目では、同一主人公によるシリーズ物が多く紹介されていました。「ウィリー少年物」が一番本数が多く(23作)、そのあとにゴントラン連作、ガブロッシュ連作、カジミール連作…と続いていきます。

作品の公開時期に目をやると1917年9月に公開された『プロテア』第4篇は載っていないのに対し、それ以前に製作・公開された『プロテア』第1〜3篇が掲載されています。その他の作品も1917年春公開の作品まで掲載(1917年5月公開『黒大尉 Le Captaine noir』、1917年4月公開『見えない死 Le Mort invisible』)。1917年半ばに製作・配布されたカタログだと思われます。

1915 -「小供俳優(其二):ウイリー・ランダース君」 (森田淸『キネマ・レコード』誌1915年3月号)

« The Popular Child-players Series »
(Morita Kiyoshi, in « Kinema Record » 1915 March Issue)

ゴーモン在社時代のボビー君が演じたその喜劇シリーズが盛んに輸入された過去二三年は恰も我が活動界は此の少年俳優の無邪氣な喜劇によつて蹂躙されてゐたが間も無く此処に同じ佛國エクレール會社の少年俳優ウイリー君の演じた喜劇のシリーズが現れて來たのであつた。最初少年俳優と云へばボビー君より知らなかつた人は此の新顔のウイリー君を見てなかなか侮り難い巧な藝を持つた小供だと云つてゐた。多くの愛活連中の中にはボビー君とウイリー君との色々な點を比べてやれボビーより顔が悪いの可愛らしくないの等と口憤泡を飛ばして論じてゐた事もあつた。その位であつたからボビー物を見た人は必ずウイリー物も欠かさずに見る位二人の喜劇映畫が流行したのであつたがかなしいかな當今ではウイリー君の喜劇は全く我が國へは輸入されなくなつて時々ボビーがパテーへ入社してからのものが輸入されるのみである。

私の初めてウイリー君の喜劇を見たのは大正元年八月淺草金龍館で映寫した「ウイリーのボート」 »Willy’s sailor suit » 次いで同じく福和館で映寫した「ウイリーの計略」 »Willy’s ruse » 同じく金龍館で映寫した「ウイリーとジゴマ」 »Willy wants to be like Nick Carter » 等の數本であつた。[…]

「小供俳優(其二):ウイリー・ランダース君」
(森田淸『キネマ・レコード』誌1915年3月号)

1915年のキネマ・レコード誌に掲載されていた記事からの一節で、仏エクレール社のウィリー君喜劇について日本語で残された数少ない紹介文。比較対象として何度か名の上がっているボビー君とはルイ・フイヤード監督による「ベベ(Bébé)」連作で、1912~13年頃の日本でこの二つのシリーズが人気を博していた様子が伝わってくる一文です。

1933 – 9.5mm 『嵐の孤児』(パテ・ナタン社、モーリス・トゥールヌール監督) 英パテスコープ社無声版

Orphans of The Storm (« Les deux orphelines », 1933, Pathé-Nathan, dir/Maurice Tourneur) UK Pathescope 9.5mm Print

戦前フランスを代表する監督の一人、トゥールヌールによる『嵐の孤児』(1933年)の9.5ミリ版。元々トーキーとして公開されたものですがこちらは英語字幕埋めこみ版となっています。プリント状態が悪く全体に傷が目立ちます、ご了承ください。

『嵐の孤児』は革命期のフランスで生き別れとなった姉妹の運命を描いたメロドラマで、映画化作品としては1921年の無声版(グリフィス監督、リリアン&ドロシー・ギッシュ主演)がよく知られています。元々1870年代に戯曲として書かれた作品が後年小説化されたもの。グリフィス版は小説を下敷きとしつつ独自要素を多く加えていて、後半はほとんどオリジナルの展開となっていました。

ルネ・サンシール
(Renée Saint-Cyr as Henriette)

トゥールヌール版で姉アンリエットを演じたのはルネ・サンシール。戦後まで長く活躍された女優さんで、個人的にも晩年に出演した喜劇作の芸達者ぶりで記憶によく残っています。『嵐の孤児』は彼女の映画初主演作で、全盛期のダニエル・ダリューに肉薄する演技を見せています。

ジャン・フランセイとレジーヌ・ドレアン
(Jean Francey as Pierre & Rosine Deréan as Louise)

盲いた妹ルイーズを演じたのはロジーヌ・ドレアン。サッシャ・ギトリやマルク・アレグレ監督の戦前作品で活躍、化粧の仕方もあってルネ・サンシールと並ぶとリアルな姉妹感があります。

トーキー定着で俳優の入れ替えが進んでいた時期に新進女優のキャスティングに成功した一作ながら見どころは他にもあります。『嵐の孤児』には市中で拉致してきた盲目の少女(ロジーヌ・ドレアン)を物乞いにして日銭を稼がせる「貧困ビジネス」物語が含まれていました。元締めのラ・フロシャールという中年女性が登場するのですが、トゥルヌール版『嵐の孤児』ではこの女性のインパクトが姉妹の可憐さを上回っています。

イヴェット・ギルベール
(Yvette Guilbert as La Frochard)

強欲で憎々しいラ・フロシャールを演じたのはイヴェット・ギルベール。ムルナウの『ファウスト』でも存在感を見せていた戦前フランス演芸界の大物、彼女の映画女優キャリアでベストの演技になるだろうと思われます。他にも脇役で無声映画時代からのベテラン(カミーユ・ベール、ガブリエル・ガボリオ、エミー・リン)が多く出演しており演技の質全体を底上げしています。

1933年はフランスでも不況の影響が如実に表れてきた時期でした。トゥルヌール版『嵐の孤児』は小規模予算で製作されており、セットや衣装の華やかさではグリフィス版に相当見劣りします。一方で装飾がないために演技や照明・構図の重要性が否応なく増すという話でもあって、トゥルヌールの卓越したセンスが(後年のより大掛かりな作品以上に)伝わってきやすい一作になっています。

[タイトル]
Orphans of The Storm

[原題]
Les deux orphelines

[公開年]
1933

[IMDB]
Les deux orphelines

[Movie Walker]


[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB 30165

[9.5mm発売]
1935年11月

[フォーマット]
9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無 英語字幕

1930 – 『映画百面鑑』(権田保之助編訳註、独和対訳小品文庫 第4冊、友朋堂)

Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute (German-Japanese Bilingual Edition, Translated by Gonda Yasunosuke, Yuho-sha, 1930)

大正期のドイツ語学者で辞典・文法書の編纂で知られる権田保之助(1887-1951)氏が「独和対訳小品文庫」というコレクションで公刊していた翻訳書。権田氏には社会学者、大衆娯楽研究家の側面もあって活動写真論(『活動写真の原理及応用』『映画説明の進化と説明芸術の誕生』)も残しています。

先例となったのは有朋堂が第一次大戦前に展開していた対訳形式の「独逸文学叢書」で、当時まだ新進言語学者だった権田氏も訳者に名を連ねていました。大戦後に権田氏自身が中心となって新たな対訳コレクションを立ち上げ『童話』、『独逸新聞研究』、『アルセーヌ・ルパンの冒険』に次ぐ第4番として出版されたのが『映画百面鑑』。偶数ページに日本語訳と慣用句・文法・語源の説明、奇数ページにドイツ語の原文が置かれています。

ページを開くとヨーエ・マイによる「映画監督」、エミール・ヤニングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」…日本でも知られた名前が続きます。

私が-僭越(arrogant)ではないが- 決して独逸映畫を作つてゐるのでも、又決して米國映畫を作つてゐるのでもなくして、ルビッチ映畫を作つてゐるからであり、私が常住(jedesmal)、人間的なモティーヴを(ein menschliches Motiv)、有效な修飾の中に装はせて(eingekeidet)、人間的に扮せしめやうと(zu gestalten)試みて來たからであり、又、私が、私の心の中の(in meinem Sinn)愛と憎しみ、惱みと怒を、言語の境界や政治的區分とは超越して(unabhängig von…)、遍く人々が了解するやうに、明瞭にする(zu verdeutlichen)技能があつた俳優に、信頼し得たからである。

「映画国際性」
エルンスト・ルビッチ

[…] weil ich -ohne arrogant zu sein- keine deutschen oder amerikanischen Filme mache, sondern Lubitsch-Bilder, weil ich jedesmal versucht habe, ein menschliches Motiv, eingekleidet in wirksame Dekorationen, menschlich zu gestalten, weil ich mich auf Darsteller stützen konnte, die befäfigt waren, Lieben und Hassen, Leidenschaft und Zorn in meinem Sinn so zu verdeutlichen, daß man es überall versteht, unabhängig von Sprachgrenzen und politscher Einteilung.

Film-Internationalität
Ernst Lubitsch

[これらの作品が成功を収めた]理由は(偉そうな御託を垂れる気はないのですが)まず私がドイツ映画を作っている訳でもアメリカ映画を作っている訳でもなくルビッチ映画を作っているからで、また主題として人を選び、主題を上手く生かす飾りつけを与えて人のぬくもりを感じられる話にしようと各作品で試みてきたからであり、さらにまた信頼できる俳優たちに恵まれたからでもあって、彼等/彼女等は私の考えている意味での喜怒哀楽を分かりやすく表現する力量があり、言葉や政治の壁を越えて誰もが理解できる風になっているのです。

私訳

ルビッチのこの論考は良く知られており、英語訳[1]もあってルビッチ論や初期ドイツ映画論で目にする機会の多いものです。

引用したのはアメリカとドイツどちらでも成功を収めた理由について私見を述べている部分。英語の「なぜなら(because/for)」に相当する接続詞「weil」を3度用いて3つの理由を挙げているのですが、ローカルな発想や方法に拘泥せず普遍的な表現を目指していく考え方が強調されています。海外市場を狙って、という話ではなく「良い映画作品であれば国内外の評価は自ずからついてくる(Jeder gute Film ist von Haus aus international)」の信念があればこその議論です。

底本は1924年に出版された「Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute(ドイツ映画本:昨今の映画をめぐる諸問題)」。独キネマトグラフ誌の編集長だったアルフレート・ローゼンタール氏が編集総責任者となり、映画監督、俳優、大学研究者による15本の各論をまとめたものです。

キネマトグラフ誌(1923年12月879/880合併号)に掲載された出版告知

[1] The Promise of Cinema: German Film Theory, 1907–1933, Anton Kaes, Nicholas Baer and Michael Cowan (Ed.) 1996, University of California Press, 978-0-52021-908-3

[出版者]
友朋堂

[出版年] 昭和5年

[原題]
Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute

[編集者]
Heinrich Pfeiffer

[元作品出版者]
Verlag August Scherl G.M.B.H.

ジーナ・レリ Gina Relly(1891–1985)仏

フランス [France]より

Gina Relly Early 1920s Autographed Postcard

類い稀な才の音楽家の母親、巧みな畫家である父親の元で育てられ、ジーナは美しさと調和を好む子供に育つていつた。齢二十五ながら藝術家として残してきた實績は、より年を重ねた者たちも敵わないほどである。

若くしてデビユーを果たしたのは歌劇であつた。妙なる声の持ち主だつたのである。しかし程なくして舞臺を離れ映画界に足を踏み入れる。寫眞で映えるに違いない、最初に氣がついたのは喜劇役者のジヨルジユ・トレヴイル氏である。手始めの契約でまずは嬢を一本映畫に出演させてみたのだが、氏の満足はこの上なく契約の更新と相成つた。

次いでルネ・ナヴアール氏が『秘密文書』で大役を割り当て、さらにリユシアン・レーマン氏の『キマイラ』に出演。これらの作品を通じて他の多くの映画監督が嬢に目を留めることとなつた。他に『仮面の少女ニーヌ』次いで『借り』に登場している。

米國フオツクス會社との契約は嬢の才能が認められた証でもあつた。撮影で紐育にいたところ連續劇『貧しき者たちの王』のヒロイン役でルネ・ルプランス監督から白羽の矢が当たる。国外への再流出は避けたい所である。我が国の花形女優の数は決して多くないのであるから!

「仏蘭西花形物語:ジーナ・レリ嬢」
『モンシネ』誌 1922年2月創刊号

[…] Sa mère, musicienne d’un rare talent, et son père, habile artiste-peintre, contribuèrent à développer chez leur enfant le gôut de la beauté et de l’harmonie.

Sachez de plus que Gina Relly a seulement vint-cinq ans, et que cependant ella a déjà derrière elle un passé artistique que bien des artistes plus âgées ne possèdent pas.

Toute jeune, elle débuta dans l’opérette, car elle a une voix exquise.

Mais elle ne devait pas tarder à abandonner le théâtre pour le cinéma. Ce fut Tréville qui, le premier, songéa qu’elle devait être très photogénique. Il l’engagea pour un film d’abord et fut si satisfait qu’il renouvela l’engagemnt.

René Navarre, ensuite, lui confia un rôle important, dans Document secret, puis ce fut Lehman qui la fit tourner dans La Chimère. Ces créations l’avient signalée à l’attention d’autres metteurs en scènes, aussi la vimes-nous dans Nine, et puis dans La Dette, chez Harry.

La consécration de son talent fut un engagement de la célèbre firme américaine, la Fox-film. Elle tourna donc à New York et c’est là que René Leprince fut la chercher pour L’Empereur des pauvres. Espérons que nous ne laisserons plus cette vedette. Nous n’en avons pas tellement!

Une Vedette française : Gina Relly
Mon Ciné, No 1 (Février 1922)

1922年に仏映画雑誌モンシネが創刊された時、国産の花形女優として最初に紹介されたのがジーナ・レリ。以前に紹介したフランス・デリアジュヌヴィエーヴ・フェリクス等と並び、1910年代末頃に台頭してきた女優さんの一人です。

この世代は巡りあわせ的に不運なところがあって、経験を積んでいざ本格的に活躍!となった1920年代初頭に業界が大きく変貌、映画のスタイルが変わり、愛好家層が入れ替わり、ファッションや髪型の流行も激変し、余程の実力者でもなければ時代に取り残されて忘れられていった者が目立ちます。

モンシネ誌の紹介にあるように、ジーナ・レリは1920年に米フォックス社と契約を結び『窓の顔(The Face at Your Window)』でヒロインを務めます。その後フランスに戻り12幕物の連続ドラマ『貧しき者たちの王』でも主人公(レオン・マト)の恋人~妻役を務めて話題を呼びました。

『貧しき者たちの王』(L’Empereur des pauvres, 1922)でのジーナ・レリ。GPアーカイヴより。

モンシネ誌 1922年6月8日付第16号表紙


同作公開後のインタビュー(モンシネ誌16号)では将来の夢として再度ハリウッド行きの話などもしていたのですが実現することはありませんでした。元々彼女が得意としていたのは初期のメアリー・ピックフォードやメエ・マレーに近い可憐な娘役、1920年代にモダンな女性像が受け入れられていく中で過去のイメージが足かせとなって活躍の場を失っていきます。1920年代中盤まで雑誌モデルでの活動記録が残っていますがその後の消息は不明となっています。

[IMDb]
Gina Relly

[Movie Walker]
Gina Relly

[出身地]
フランス

[生年月日]
12月24日

1922 – Super8 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督) 西独DEFA版

1922-『吸血鬼ノスフェラトゥ』

Nosferatu: Ende des Vampirs
(From « Nosferatu », dir/F.W. Murnau, 1922) DEFA Super8 Print

先月末にスキャンと併せて映写機での実写を行いました。

名の知れた一作でもあって英語版の16ミリや8ミリを市場で見かけることがあります。フィルムの現存状況や修復版の元となった35ミリプリントの詳細な情報はブレントン・フィルム [英語]でまとめられています。

ドイツでは西ドイツのDEFA社から2巻(前編『吸血鬼の棲まう城』245番、後編『吸血鬼の最期』247番)に分けられたスーパー8のダイジェスト版が発売されていました。こちらはその後編。

このフィルムに関しては2017年に一度実写でのスクリーン画像をそのまま撮影しています(使用映写機はベル&ハウエルのフィルモソニック498型)。

実写では中央部で白飛びが目立ち顔の肌の細かな陰影が消えてしまっています。ただし光量の落ちる周辺部は比較的しっかりと描写できていました。ランプを使うと光源となる中心がどうしても明るくなるためこういった質感になります。一方デジタルスキャンは四隅まで満遍なく安定しているものの暗い部分で潰れてしまい細部を拾えていない所があります。

またDEFA版8ミリではフィルムを送る穴(パーフォレーション)の上下まで映像が広がっています。実写時にこの部分は映写されないため、左側がトリミングされる形になり被写体が左に寄っていました。

本作を下敷きにしたヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)では吸血鬼と同時にやってくるペストの要素が強調されていました。古来から吸血鬼伝説と疫病への恐怖は連動してきたもので、本作にも公開の2年程前まで猛威を振るったスペイン熱の記憶が見え隠れしています。

[原題]
Nosferatu: Ende des Vampirs

[製作年]
1922

[IMDB]
Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens

[Movie Walker]


[メーカー]
DEFA

[カタログナンバー]
247

[フォーマット]
Super8 白黒無声

レオポルディーネ・コンスタンチン Leopoldine Konstantin (1886–1965) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Leopoldine Konstantin Late 1910s Autographed Postcard

オーストリア出身の舞台女優/映画女優で1900年代後半にはすでにベルリンの劇場に立っていました。

1910年頃にドイツで映画産業が勃興した折、舞台界から先駆者として業界に参入したのがマックス・ラインハルトでした。神話世界と現実世界を交差させた『恵みの島』(Die Insel der Seligen、1913年)はエロスを含みこんだファンタジーとして高い評価を受けているものです。同作後半では、妖精の島に紛れこんでしまった老紳士二人が魔女キルケ(レオポルディーネ・コンスタンチン)にたぶらかされ、妖術によって豚に変えられてしまう場面が含まれています。

ラインハルト門下生は個性的な演技派が多かったこともあり初期ドイツ映画界では重宝されていました。レオポルディーネ・コンスタンチンも1910年代を通じメスター社のハンス・オーベルレンダー監督作品を中心に活躍。10年代中盤にドイツで探偵活劇が流行した時にはスチュワート・ウェッブス連作と並ぶ人気シリーズ、ジョー・ディーブス物に出演した記録も残っています(1917年)。

『カイロの結婚』(1933年)より

1920年代初頭に映画界を離れ舞台に専念、10年以上のブランクを経てカムバックした後は母親役を中心に活動。この時期の出演作の幾つか(ウーファ社『カイロの結婚(Saison in Kairo)』『桃源境(Prinzessin Turandot)』など)は日本でも公開されていました。

『汚名』(1946年)より

40年代に渡米しハリウッドに挑戦、言葉の壁もあって大成こそしませんでしたが、ヒッチコックの『汚名』(Notorious、1946年)でナチス残党グループリーダー(クロード・レインズ)の母親役を演じ熟練の演技を見せました。同作が最後の映画出演となり50年代に女優業から引退しています。

[IMDb]
Leopoldine Konstantin

[Movie Walker]
レオポルディーネ・コンスタンチン

[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(モラヴィア地方ブルノ、現チェコ)

[データ]
[Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 9271 Phot. Becker & Maas, Berlin]

1917 – 16mm 『チャップリンの勇敢』第2リール 米コダック社シネグラフ琥珀染色版

「16ミリ 劇映画」より

« Easy Street » (1917, Mutual Film Co., dir/Charles Chaplin)
Late 1920s Kodak Cinegraph 16mm Amber Tinted Print 2nd Reel

一文無しに落ちぶれ果てたチャーリー君は伝道所に迷いこんでしまひ、そこで更生を果たした。まず成し遂げた善行は、盗んだばかりの募金箱を返したことであつた。次いで警察に勤めはじめ「イージー・ストリート」を任されるに相成つた。警官が担架で自宅送りされるのが当たり前といふ町一番に治安の悪い一画である。しかしチャーリーは悪番長をやつつけてしまい、教会で自身の更生を手伝つてくれた麗しき女性を助けその心を掴むのである。誰もが好きにならずにいられないチャップリン定番喜劇で、最初から最後まで笑い転げる程に面白い。

「コダスコープ・レンタル用フィルムカタログ詳細版」(1932年、初年度版)

Charlie, a down-and-outer, wanders into Hope Mission where he is reformed, his first good act being to give back the collection plate which he had stolen. He then joins the police force and is assigned to Easy Street, the city’s worst section from which as a regular thing the policemen are brought home on stretchers. But in a characteristic manner he overcomes the ring leader of the ruffians and rescues and wins the beautiful mission worker who had reformed him. A regular Chaplin comedy of the kind everybody likes. Uproariously funny from end to end.

Descriptive Catalogue of Kodascope Library Motion Pictures (1st Edition, 1932)

米コダック社が1920年代にレンタル権を獲得して扱いを始めたコダック・シネグラフ16ミリ版の『勇敢』。このシリーズは質の高いプリントと美しい琥珀色の染色で知られています。元々2巻物で今回入手したのは後半第2リール。

ミューチャル期短編について復習しておくと現行のプリントは米国内用(Aネガ)と海外用(Bネガ)の異なった二種から派生してきたものです。コダック版の大元はAネガですが一度改編が施されたものであるため早期に派生した亜種(A’ネガ)の扱いをされることもあります。今まで入手してきた『勇敢』(仏パテ9.5ミリ版、英パテスコープ9.5ミリ版、東和スーパー8版)はいずれもBネガ由来。今回初めて戦前Aネガ系の実物が手に入ったことになります。

左がコダック版16ミリ、右が東和プリント版スーパー8。

エリック・キャンベル演じる悪番長との乱闘場面で言うとコダック版(Aネガ由来)は右に置かれたカメラから撮影されており、二人の姿を斜め前から撮っています。東和版(Bネガ)は左に置かれたカメラで撮影されており、二人の姿をほぼ真横からのアングルで撮っています。近景にある物(通りの名が入ったプレート)と遠景の事物(窓枠)との位置関係がずれているのも分かるかと思います。

2021年GWは遠出ができなかったため、家時間を利用して16ミリフィルムをデジタルスキャンする簡易装置を製作していました。白飛び/黒潰れがありますが悪くないかな、と思います。綺乃九五式とは違って単発のスキャンのみなのでここまできたら16ミリ用自動連続スキャナーを作るしかない気がしてきました。

1930年頃 – 16mm『チャップリンのスケート』抜粋 +『チャップリンの伯爵』抜粋 仏パテ・コダック社プリント

「16ミリ 劇映画」より

« Charlot Bout en Train » & « Charlot en Soirée »
(« The Rink » & « The Count » excerpts, 1916, Mutual Film Co., dir/Charles Chaplin)
c1930 French Pathé-Kodak 16mm Print, Ciné « Kodagraph »

※2021年5月にスキャンを行いスクリーンショットをアップデートしました。


1927年にジョルジュ・イーストマンとシャルル・パテの合意を元に仏「パテ・コダック社」が設立されます。コダック製のカメラや映写機の輸入は同社を介して行われるようになりました。

エクセルシオール紙1928年5月24日付掲載の広告より

1928年の仏パテ・コダック社の広告。右下を見るとチャップリン作品も引き合いに出しつつ16ミリフィルムのレンタルサービスとして「コダスコープ(Kodascope)」が紹介されており、その下に市販用16ミリフィルムのブランドとして「コダグラフ(Kodagraphs)」の名称が使用されています。

仏パテ・コダック社が実際に市販していたのがこのような外箱入りのフィルムでした。右下に「フランス製(Fabriqué en France)と印刷され、フィルム本体のパーフォレーション部分にも「仏コダック」の文字があります。

ブザンソン市の写真店フォト・コステ社のラベルが貼ってあり、薄くなったタイプライターの印字は「Charlot Bout-en-train/Charlot en Soirée」となっています。改題されているもののそれぞれ『チャップリンのスケート』と『チャップリンの伯爵』の有名な場面を100フィートずつ抜粋したものです。フォト・コステ社が16ミリのレンタル用に2本のフィルムを繋ぎあわせたと考えられます。

『スケート』『伯爵』両作品ともチャップリンがミューチャル社と契約していた時期の短編です。同社は配給時に米国内用ネガ(Aネガ)、輸出用ネガ(Bネガ)二種類を用意していたことで知られています。フランスで市販されていたこのフィルムはどちらを元にしたものでしょうか。

他のフィルムと照らしあわせてみたところ個人的な予想と裏腹にAネガを元にしていました。親会社のコダックが合衆国拠点だったため、という話なのでしょうね。一方で同時期にフランスで市販されていたパテ社9.5ミリ版『伯爵』はBネガ由来でした。同じ国で同時期に同名チャップリン作品が売られていても実はネガは違っていた(=厳密に言えば同一作品ではなかった)という興味深い結論がでてきます。

2013 -『チャップリンズ・ヴィンテージ・イヤー:チャップリン・ミューチャル短編物語』

« Chaplin’s Vintage Year: The History of the Mutual-Chaplin Specials »
(Michael J Hayde, BearManor Media, 2013)

2013年に公刊された研究書。チャップリンに関しては伝記や作品論など多くの書物が発表されていますが、本作は1916~17年にミューチャル社で制作された作品の「版権」の運命を辿ることで通常の映画史では見えてこない業界の実態や、チャップリンのビジネスマンとしての側面を浮き上がらせていきます。

「ミューチャル短編」とは 『替玉(The Floorwalker)』から『冒険(The Adventurer)』まで、1916年~17年に製作・公開された12のチャップリン短編を指しています。厳密に言うとミューチャル社は配給会社で、その関連会社であるローンスター映画社(Lone Star Film Corporation)が制作を行い版権を所有していました。「チャップリン・スペシャルズ」のシリーズ名で紹介されていたため、この時期のプリントを「スペシャルズ」と呼ぶことがあります。

『午前一時』初公開時の広告。左下に星型に囲まれた「Mutual Chaplin」のロゴがあります

チャップリンとミューチャル社の契約が切れた1918年以降、フィルムの版権を巡った動きが激しくなっていきます。

1918年11月、「チャップリン・スペシャルズ」の安定した配給を目的とし、映画フィルムの配給・上映に関わっていた人々が共同出資してエキジビターズ・ミューチャル配給社が設立されました。同社の主要役員であったハロルド・コーネリアスはフィルムの資産価値に着目し、私財を投じてクラーク・コーネリアス社を立ち上げます。1919年6月に同社は60万ドルをかけ、ローンスター映画社の株式51%と2種類のネガ(国内用と国外用)、アウトテイクを取得しました。

クラーク・コーネリアス社は間幕を新たに作り直し(書体・書式の変更、一部内容改変)1920年から米国内での再公開を行っていきます。この際に「チャップリン・クラシックス・デラックス」シリーズとして紹介したため、この時期のプリントは「クラシックス」と呼ばれています。

クラーク・コーネリアス社による
「チャップリン・クラシックス・デラックス」広告

クラーク・コーネリアス社は1923年に一度発展解消しCCピクチャー社と名前を変えました。それでも「チャップリン・クラシックス」のロゴは生き続け、1925年まで国内各地での上映が続けられていきます。

しかし時代に波にのまれ次第に売り上げは低迷、負債を抱えたCCピクチャー社は借財返済のため二種類のネガとアウトテイクをオークションにかけます。1925年3月、国内向け/輸出向け2種類のネガの版権を買い取ったのがルイス・オーバックでした(アウトテイクはチャップリン自身が買い取っています)。オーバックは自身が社長となり設立したミューチャル・チャップリン社(Mutual-Chaplins, Inc.)に権利を売却。

ちょうどこの時期に小型映画産業が拡大したこともあり、ミューチャル・チャップリン社はライセンスビジネスを活発化させていきます。米コダック社は16ミリのレンタル権、英パテスコープ社/仏パテ社が9.5ミリの販売権を取得しました。1920年代末に市販されていたこれらの9.5ミリ、16ミリフィルムは「チャップリン・クラシックス」のネガを元にしたものです。

こういった展開の結果生じてきたのが「チャップリン・ミューチャル短編問題」です。

初公開時に使用されたスペシャルズ版が(『午前一時』を除いて)失われてしまいオリジナルの形が分からなくなってしまったのです。国内用ネガ、国外用ネガ、アウトテイクなど複数のネガがあることが状況をややこしくしており、現在決定版として市販されているデジタル修復版も実際には仮説や推測をまじえてつぎはぎされた再構成版でした。

『チャップリンズ・ヴィンテージ・イヤー』はこの問題に「正解」をもたらしてくれる書籍ではないのですが、オリジナル再現を試みる人々が直面している状況の厄介さ、入り組み具合を正確に浮き上がらせていきます。

[ハロルド・]コーネリアスとそのビジネス・パートナーであるウィリアム・クラークは、映画公開に携わる者であれば誰しもそうであるように、「チャップリン・スペシャルズの権利を所有するのは投資として間違いない」、そう考えたのであった。

Cornelius and his associate, William Clark, believed, as any exhibitor might, that owning the Chaplin Specials was a sure-fire investment.

本書には多くのビジネスマンが現れては消えていきます。中には詐欺師と呼んだ方が良さそうな胡散臭い連中もチラホラと。映画製作はこういったレベルにコミットする事でもある訳です。チャップリン自身も百戦錬磨の猛者たちを相手に時に交渉で、時に裁判を起こして立ち向かっていきます。フィルムの権利を巡る物語は自身の権利を守ろうとする創造者の物語でもあって、いわゆる「伝記」から見えてくる人物像とも異なった「ビジネス人格」としてのチャップリンの姿が浮き彫りになってくるのです。

1961 – 『髪と女優』(伊奈もと著、日本週報社)

« Hairmaking and Actresses »
(« Kami to Joyu », Ina Moto, Nihon Shūhōsha, 1961)

日本映画の黎明期から髪結い/ヘアデザイナーとして活躍された伊奈もとさんによる随筆集。古くから原節子愛好家界隈で知られており、彼女の残した名言「自分を卑しくすると、 あとでさびしくなるのでそういうことは一切しないようにしています」の典拠となっています(159頁)。

宮城県生まれ。旧姓亀田。尋常小学校卒業後に上京し、後に美髪学会を設立する高木きくに師事。1917年(大正6年)頃から姉弟子の増渕いよのと共に活動写真(主に日活向島新派劇の女形)の結髪に関わるようになり、松竹蒲田撮影所発足時から女優の髪結いを担当。1923年(大正12年)、酒井米子が松竹から日活に復帰したのに伴い籍を移す。戦後は東映大泉に移籍。

日活で監督として活躍した伊奈精一氏を夫とし、その間に生れた娘の圭子さんもまたフリーの髪結師として原節子や対馬恵子を担当していました。1959年(昭和34年)の映画の日に勤続41年の表彰を受け、この表彰をきっかけに自身の辿ってきた道筋や出会ってきた俳優の回想をまとめたのが本書でした。

分量が多いわけではないものの1910年代末から20年頃にかけての「女優以前」の活動写真にも触れられていて、先日の「日活俳優名鑑」でも名が上がっていた木藤茂氏の女形時代の写真が掲載されていたりします。また「日本初の女優は誰か」の問いにも私見が述べられています。

本サイトで『髪と女優』を最初に引用したのは「大正14年の日活俳優揃え」。同書にはもう一点「昭和9年の日活女優揃え」の写真も掲載されています。星玲子、久松美津江、近松里子など30年代中旬の多摩川撮影所女優がアタミホテル裏で撮影した水着姿の集合写真で、それぞれの女優についてのコメントが情報の宝庫となっています。おそらくは「昭和4年の日活女優揃え」にも絡んでいるのではないかな、と。

『唐人お吉』(1930年)撮影スチル

駆け落ち事件後に岡田嘉子から届けられた書簡など邦画女優史の一資料としてその重要性は疑うべくもないのですが、化粧や衣装と並び映画産業を支えてきた結髪技術の確立者だった点も強調しておきたいところです。1922年(大正11年)の平和博覧界の折に出展用人形の髪を頼まれて考案した髪型「耳かくし」が評判を呼び一般女性の間で流行した話は知られています。

また梅村蓉子主演の溝口作品『唐人お吉』(1930年)で女優の額の形と前髪のボリュームを整えるためつけひげにアイデアを得た「前はり」と呼ばれる技術を初めて導入。現在でも様々な目的で使用されている「前貼り」のルーツに当たります。

澤蘭子の有名なポートレート
この髷も伊奈さんの「作品」のようです

髪(型)は社会的記号として機能するだけではなく、流行として世相や時代の雰囲気を映し出し、また個々人が個性を表現していく手段でもある。そういった前提から現場視点で邦画史を読み解いている点で唯一無二の書籍。向学心の強さと人懐っこさの伝わってくる文章も素敵です。

[出版社]
日本週報社

[ページ数]
221

[フォーマット]
19.9 × 13.3 cm

1976 – 『時代劇映画の詩と真実』(伊藤大輔著/加藤泰編) 自筆サイン入り栞付き マキノ雅弘監督旧蔵品 

‘Poesy’ and ‘Truth’ in Jidai-geki Films (Ito Daisuke [Author], Kinema Junpo-sha, 1976) Dedicated to Makino Masahiro

伊藤大輔監督が新聞や映画雑誌に寄稿したエッセイと、加藤泰氏との対談、フィルモグラフィー、旧作のスチル写真や撮影風景写真を軸にまとめた一冊。

名古曽ノ滝は、今でも遺跡としてわずかに石組みだけが残っている。場所は大沢ノ池の北方の田んぼのはずれで、現在の町名は北嵯峨山王-そこに旧友清水宏君の居宅がある。

清水君との思い出は、ことごとく「食」につながる。彼は無類の美食家で、それがまた、うまい物を見つけると、それを友人にも食べさせないと気がすまない。

「名古曽ノ滝」


龍安寺道停留所の踏切ぎわに「マキノ衣装」の倉庫があり、その二階に、いまだ世に出ぬ阪東妻三郎とそのグループが寝泊まりしていた。

「龍安寺界隈」

前半の3部までは昭和30年代後半~40年代中盤に新聞で連載されていた一連のエッセイをとりまとめています。個人的に面白いと思ったのは京都新聞連載の『京都 – 町と人』。清水宏、小津安二郎、稲垣浩、伊丹万作、田坂具隆、牧野省三、山中貞雄…京都の風景や地名がそのまま映画史の記憶とリンクしている様子が伝わってきます。

先生: 唐沢[弘光]君は、他のキャメラマンと違う独特なところがありましてね。キャメラマンはピントはキャメラのレンズを通して右の眼で合わせ、撮影の際には左の眼でキャメラの左側に付いているファインダーを覗くのが通例でしょう。おそらく百人が百人。ところが、唐沢君は、キャメラの本体へ望遠レンズ(長焦点)を装着し、キャメラの左側に単焦点(ワイド)レンズのアイモキャメラをガム・テイプで装着する(このほうはボタンを押し続けておれば自動的にフィルムが廻る)、右手で望遠レンズ装着のキャメラ本体のクランクを廻しながら、同時に左手でアイモの自動回転を操作したり、ストップしたり……、両眼両手づかいの稀有な特技の技術者で。

第4部には100頁を超える対談を収録。リラックスした雰囲気の中で思い出話を咲かせている感じで撮影現場でのエピソードがあちこちに織り交ぜてあります。唐沢弘光氏が2台のカメラを同時に使用していたエピソードは初耳でした。『斬人斬馬剣』も同氏の撮影ですのでそういった視点から見直してみるのも楽しそう。

先生: 夢が多く、目の前に幻影がチラついているんだ。とくに私の場合はキリスト教への幻影が頭の芯にありますから、甘くて美しくて暗いんですね。その暗さがいつまでも尻尾となって私の仕事の上に残っていますね。

この書籍の出版時、伊藤大輔氏は自筆の署名入りの栞を付したものを友人に謹呈したそうです。こちらはマキノ雅弘氏旧蔵の一冊。同監督に縁のあった人物が保管していたものを譲っていただきました。和紙の短冊を使った栞で、空気に触れていた上部に色褪せが目立つ以外は綺麗な状態です。「マキノ先生は多分パラパラとしか見られておられないと思います」とのお話。戦前邦画を代表する二監督の手を経てきた一冊、と考えると感慨深いものがあります。

[出版年]
1976年

[発行所]
キネマ旬報社

[ページ数]
342

[データ]
カバー付 A5判 初版 定価2500円

[ISBN]
0374-01004-1320

1919 – 連続活劇 『ティーミン』 (ルイ・フイヤード監督)仏語小説版 ロマン・シネマ全12冊揃

「ルイ・フイヤード」より

« Tih-Minh » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
1919 « Romans-Cinéma » French Novelization

2004年、米映画批評家のジョナサン・ローゼンバウム氏が自著の『エッセンシャル・シネマ』でお気に入りの作品千本をリストアップしました。国外の映画愛好家が「このうち何本見れるか」とチャレンジする機会も多く、英語圏では大きな影響力を持っています。同リストには94本の無声映画が含まれており、グリフィスの7作とキートンの6作に次いで多く取り上げられていた監督がフイヤード(5作)でした。

『ティーミン』(1918年)はフイヤード監督が第一次大戦後に初めて手掛けた連続活劇となります。全12話、トータル5時間ほどの上映時間。ゴーモン社が35ミリポジを保管しており2018年から4Kデジタル修復プロジェクトが始動、一般公開から百年目となる2019年に最新デジタル版が完成しました。

『ティーミン』の各エピソード公開にあわせ、毎週木曜日に小説版も出版されていました。24頁ページの冊子形式で、表紙は二色刷り。小説版は単に映像を文字に起こしただけではなく映画版で言葉不足のまま展開されていた個所が説明されています。

フイヤード活劇史において『ティーミン』は物語の「語り」を変える意識が表面化してきた一作となります。

前半4エピソードの主人公はどのような事件に巻きこまれているかを知らず防戦一方となっていて目につくアクションの要素が希薄。中盤4エピソードでは新登場のキャラクター(フランシス)を迎え次第に反撃に向かい、後半に敵を壊滅させる流れになっています。初期作と比べるとスロースタートな展開ながら計5時間の流れを配慮した起承転結と全体の完成度を意識。この傾向は次作『バラバス』にも継承されていくものです。

『ティーミン』のゆったりした物語の流れは同作の弱点にもなっている部分です。旧来の連続活劇のめくるめくアクションやジェットコースター的展開を期待していると肩透かしを食らいます。逆に活劇ジャンルを幼稚とみなしていた一部の映画愛好家がこの作品で初めて活劇を評価した例が見られます。型通りの連続活劇は十分に観てきたという中級~上級者、主流からは外れながらも個性のある活劇を見たいという方が楽しめそうな作品になっています。

2020年ボローニャ復元映画祭でデジタル修復版が上映された際に2021年末にDVD版が発売される旨が告知されており、今後フイヤード活劇再発見の中心となっていくのではないかと期待されます。日本語環境で見れる機会がいつになるか分かりませんので最後に各章の要約を付しておきます(各章のスクリーンショットはGPアーカイヴより)。全体の流れはある程度掴めるのではないでしょうか。

[IMDb]
Tih Minh

[Movie Walker]


[公開]
1919年2月~4月

[出版社]
ルネッサンス・デュ・リーヴル社

付録:連続活劇『ティーミン』各章要約

プロローグ:

冒険家ジャック・アティス(ルネ・クレステ)がインドシナから帰国、車から降りてきた青年の隣には黒髪の女性の姿。現地で世話になったティーミン(マリ・アラルド)であつた。互いに憎からず思っていた二人の運命を一通の電報が変えてしまう。ジャックは単身インドヘと向かわなくてはならなくなった。名残を惜しむ中、ふと不吉な予感に苛まれるティーミンであつた。

第1話:忘却薬

インドでの仕事を終えて帰途についたジャック。しかし彼の動きをこっそり追っている怪しげな一団。ジャックがインドで手に入れた一冊の書籍を狙っているようである。悪党団の狙いは見返しに残されたインド語の手書き文書。まずはキストナ(ルイ・ルーバ)が世間話に紛れて書籍を借りようと試みるが、ジャックの下男(ビスコ)がいたずら書きと勘違いして文章を消してしまったため失敗。悪党達はティーミンを拉致、催眠術をかけて彼女に紙片を奪わせようと試みる。だがしかしティーミンは無意識で抗い言なりにはならなかつた。悪党団は薬を飲ませ女の記憶を消すとジャックの元に返すのあつた。

第2話:事件は夜に二度起きる

インド語のメッセージを書き写した紙片があると知ったキストナ一団はその強奪を計画。「事件の真相を教える」を口実に海岸までジャックを呼び出してから溺死させようと画策。謀略を感じたジャックは下男プラシッドに身代わりを依頼し海岸へと行ってもらい、自身は部屋の薄暗がりに隠れて約束の時間を待つ。部屋の窓から侵入してきた一つの影。机を物色したところを取り押さえたところ以前にキストナという人物から紹介されたサンタフェ侯爵夫人ではないか。女から事情を聞こうとするも、一瞬の隙をついて逃げられてしまうのであつた。

第3話:シルケー館の秘密

記憶を失ったティーミンは病院で療養しながら次第に体調を取り戻していつた。悪党の一味は再度女を拐して紙片との交換条件にしようと画策。ティーミンを見張っていたアティス家の下女ロゼッタの気を逸らしている間に誘拐に成功。一方、キストナを疑い始めていたジャックは下男プラシッド共にキルケー館に潜入、地下室に幽閉されている多数の女を発見。表情は一様にうつろだった。最近巷で多発していた婦女子誘拐事件の被害者だと気づくまで時間はかからなかった。館の一角には怪しげな薬品を調合しているキストナの姿。いったんは館を離れようと試みた二人だったが、プラシッドが庭に仕掛けられた罠に掛かってしまう。館に鳴り響いた警報音。「私を殺すまではしないでしょう。行ってください」、プラシッドの言葉にジャックはその場を離れるのであつた。

第4話:ケースに潜む男

囚われの身となったプラシッドだったが機転を利かせ薬品をすり替えたのが功を奏し、意識を失わずに済んだ。服を運ぶための籠の底に身を隠す。使用人たちは何も気づかず籠を車を乗せた。行先は悪漢が秘密の拠点としているコートダジュールの豪邸であった。プラシッドは館の二階に幽閉されていたティーミンを発見。薬を飲まされていたが動けるようではあった。プラシッドは女を誘導して小舟に乗せ無事脱出に成功、ティーミンをジャックのもとに送り届けるのであった。ジャックは旧友の外交官フランシス(エドゥアール・マテ)に連絡をとり、ヒンディー語文章の解読を試みる。

第5話:精神病院にて

英国から到着したフランシスだったが、駅では悪漢たちが先回りして待っていた。「迎えに来ました」に騙されて乗った車の行先は精神病院であった。悪党一味のジルソン(ガストン・ミシェル)はフランシスの叔父だと身元を偽って「甥に妄想癖があって」と病院長に説明をしていた。病院職員たちはフランシスを独房に閉じこめてしまう。奸計を見抜いたジャック達は病院に乗りこみ友人の救出に成功。フランシスによるとヒンドゥー語の文章は「第29文書」と呼ばれる国家機密で、英仏の国防にも関わるこの書類の入手を目論んで独スパイが暗躍しているとの話だった。

第6話:夜鳥

「第29文書」がフランシスの手に渡ったと知った悪党団は狙いを外交官に変える。フランシスの執事として雇われた青年は隣室で働いている美しい小間使いに心を奪われてしまう。この小間使いに変装していたのはドロレス侯爵夫人だった。ドロレスは執事を薬で意識不明にさせると部屋の物色を始めた。だが帰宅したフランシスにつかまってしまう。ジャックは女を尋問し悪党団の所在地を突き止めようと試みる。

第7話:よみがえる記憶

旧知の医学者クルーゼルの力を借り、ドロレスに催眠をかけて尋問を開始。「機密文書の存在をどうやって知った?」女の口から語られたのは、かつて仏領インドシナで起こったある事件の話だった。当時ローランソンという外交官がトンキンに赴任していたが、在任中に老いた地元民からラジャーの隠し財産と欧州の国防に関わる秘密を記した書籍の存在を知らされる。その時の会話に偶然立ち会ったのがドイツの間諜ジルソンであった。深夜、ジルソンは外交官宅に侵入し秘密の書かれた書類を奪おうとするが見つかってしまう。ジルソンはローランソンを射殺し逃亡。このローランソンこそティーミンの父であった。女の告白を聞いていたティーミンは次第に過去の記憶を取り戻していく。

第8話:ヴェールの下に

悪党団は反撃の機会を狙っていた。ドロレスを奪い返したのち、次の目標はティーミンだった。尼僧に変装したキストナがジャック宅に入りこむのに成功。ティーミンを銃で脅して機密書類の在りかを白状させようとした。危うく命を失いかけたティーミンたちであるが、執事プラシッドとその婚約者ロゼット(ジャンヌ・ロレット)の活躍で悪人たちの撃退に成功する。

第9話:慈悲の枝

一旦は平穏を取り戻したかに見えたジャック達。だが悪党一味は次の襲撃機会を狙っていた。内通者として潜りこませた小間使いを通じてジャック達の動きは筒抜けだった。ジャックとフランシスが悪漢の捕縛に向かおうとした時ティーミンも同行を望んだのだが「危険さに晒す訳にいかない」と断られてしまう。諦めきれないティーミンは荷物の片隅に隠れこっそり後を追おうとするが、その動きをキャッチした悪党団が反撃に出る。

第10話:13日の金曜日

キストナは「金曜日」の伝言を付した白い粉末を内通者に送りジャック達を人事不詳に陥れようと試みる。小間使いの一人が敵に通じていると知ったジャックは謀略を逆手に取り、騙された振りをして悪党一味をおびき寄せようと試みる。金曜、何も知らずやってきたキストナ達を返り討ちにするのだが、一党が退却中にティーミンと鉢あわせとなり、これ幸いとばかりに女を拉致しようと試みる。再度危地に陥ったティーミンを救ったのは意外な人物であった。

第11話:第29文書

ジャック達の尽力が実り、スパイたちへの包囲網が着々と完成しつつあった。だがキストナ一味は最後の反撃を試みる。早朝、まだ就寝中のフランシスの部屋を襲い身動きをとれなくしてしまう。英国からフランソワ宛に届いた書簡を見ると第29文書がすでに無効化された旨が記されていた。「もはやこれまでか」。フランソワを救出にやってきたジャック、プラシッドらに追われ悪漢たちはアパルトマンの屋根伝いに逃走を試みる。

第12話:正義の鉄槌

ジャック達は車で逃走したスパイ団を追跡していく。逃げ場を失った悪党たちは次第に仲間割れを始めていた。最後に残ったキストナとジルソンの二人もまた互いを警戒しながらの逃避行を続けていく。車のガソリンが切れ、徒歩での移動を強いられたジルソンは地元の採掘場で使われていた鉱石を運ぶケーブルカーを思い出した。何としても逃げ切りたい悪党一味とそれを必死で追うジャックと仲間たち。最後の追跡劇、ジャックを待つティーミンらの想いの行方や如何に。

1918 – 『ぶどう月』 (ルイ・フイヤード監督) 撮影風景写真3枚

「ルイ・フイヤード」より

1918 - Vendémiaire (Louis Feuillade)

« Vendémiaire » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
3 photos de tournage (3 behind-the-scenes shots with annotations on back)

第一次大戦終戦の大正7年(1918年)に撮影され、翌8年(1919年)に公開された劇作品『ぶどう月』撮影中の写真三点。販促用スチルではなく、撮影関係者が内々のやりとりで保管していたオフショットで、ここにある以外現存していない資料と思われます。

フイヤード監督の作品は1)初期習作(1913年まで)、2)前期活劇(1914~17年)、3)後期活劇と逝去(1922年まで)の大きく三つに分けることができます。

『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『続ジュデックス』など大戦中の作品で仏活劇に旋風を巻き起こした後、戦後から作風に変化が見られるようになってきます。『ティーミン』や『バラバス』といった後期作品は、アクションの要素を抑えドラマの流れや一貫性を重視し、さらに幻想色を加えたものに変わっていくのです。

前期から後期への橋渡しとなった作品が『ぶどう月(Vendémiaire)』でした。 この監督は「フイヤード組」と呼ばれた固定メンバーを軸に作品作りを進めるのが常だったのですが、終戦の前後に大きな入れ替えがありました。『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』で存在感を見せたミュジドラ、喜劇の要素を加えていたマルセル・ルヴェスクの二人が一座を離脱。その代わりにアジア風の繊細さを持つ女優マリ・アラルドが加入、ルヴェスクの代わりに若い喜劇俳優ビスコが参加します。また『ジュデックス』主役を演じたルネ・クレステもこの後しばらくして『ティーミン』製作後に離脱しています。

『ぶどう月』はマリ・アラルドやビスコが初めて登場したフイヤード作品となります。

『ぶどう月』の物語は、軍隊を離れ、新たな生活を始めようと南仏にやってきた退役軍人(ルネ・クレステ)を軸に進んでいきます。盲目の貴族(エドゥアール・マテ)が所有するワイン園で雇われるのですが、ジプシーと間違われ追い払われそうになっていた貧しい未亡人(マリ・アラルド)を助け、次第にロマンスが生まれてきます。一方では敗走したドイツ兵(ルイ・ルーバ)が身分を偽ってワイン園に潜りこみ、盗みを重ねながらその罪を貧しい未亡人に押しつけようとしていく。未亡人の濡れ衣を晴らすため主人公は…という展開を持つ映画です。

冒頭、主人公はブドウ園の管理人に身分証明書を見せ、雇ってもらうことに成功します。この時ジプシーと勘違いされ雇用を断られた女性に話を聞くと、大戦で夫を亡くしたばかりとのこと、クレステはブドウ園の管理人に話をし、「ジプシーではなく英雄の妻だ」と誤解を解いてあげました。

ゴーモン社所有のプリントでは以下のような映像が続いていきます。

主人公を演じたクレステを中心に、未亡人を演じたマリ・アラルド、管理人を演じたエミール・アンドレを左右に配して撮影されたのが一枚目の写真。作中でマリ・アラルドは頭に布を巻いていましたが、こちらでは首の後ろに下ろしています。

この後悪役ドイツ人が登場、国籍を偽って農園に入りこみ、窃盗を繰り返していきます。途中にベルギー人の同僚が内緒話をしているのを見つけ、小耳を立てる場面がありました。

悪漢を演じたルイ・ルーバを撮影したのが二枚目の写真です。映画では正面と真横からのアングルでしたが、写真は斜め前からのアングルになっています。

最後の一枚はカメラマン。今回「1895」誌のフイヤード特集号に収められていた写真から『ジュデックス』等でも撮影を務めたレオン・クラウス氏と特定できました。

3枚の写真の裏面にはいずれも手書きの説明が付されています。


クレステがブドウ園管理人の元に薄汚れた女を連れて行く。管理人と握手を交わす。女に罪はないと信じていた。

Cresté amène la caraque auprès du régisseur, qui va lui serrer la main: il croit à sa innocence

René Cresté (Judex)


ベルギー人のおしゃべりを盗み聞きしているドイツ人

le boche écoute les belges parler


カメラを「回している」連中の一人

un de ceux qui « tournèrent »

別投稿で紹介したルネ・クレステ直筆の年賀メッセージ葉書と同じ出所で、1919年頃にクレステと親交のあった関係者が保管していた資料の一つです。

この3枚と同じ撮影者の手によるもう1枚の写真も併せて紹介しておきます。

『ぶどう月』に該当する風景・人物は登場していませんが、同時期に南仏の農村で撮影された一枚で間違いなさそうです。カメラマンがスチル撮影を手掛けた合間に見かけた農夫たちを撮ったのではないでしょうか。井戸のデザイン、人々の雰囲気など妙に心を揺すぶる何かがあります。

[IMDb]
Vendémiaire

[Movie Walker]


[公開]
1919年1月17日

2000 – 「1895」誌 別巻 特集:ルイ・フイヤード(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

1895 N° Hors-série Octobre 2000 : Louis Feuillade
(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

別稿で紹介している『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』と同じ仏映画史研究協会(AFRHC)の公刊物で、「1895」誌別冊のフイヤード監督特集号。2007年出版。この数年前に合衆国では査読済の学術論文をまとめた「ヴェルヴェット・ライト・トラップ」誌第37号がフイヤード特集を組んでいました。批評家や愛好家ではなく、大学研究者からのアプローチをまとめたフイヤード本としては現時点でこの2冊が双璧をなしています。

フイヤード作品の登場人物、「ヒーロー」たちは日常を超えた場所から立ち現れ、日常を抜け出し、日常から逃れ去っていく。

「幸福な思い出のルイ・フイヤードに寄せて」
ジャック・プレヴェール

Les personnages, les « héros » de ses films, surgissaient de l’extraordinaire, sortaient, s’évadaient de l’ordinaire.

« A Louis Feuillade en mémoire heureuse »
Jacques Prévert, Novembre 1967

四百頁近い大部なもので冒頭に置かれた詩人ジャック・プレヴェールの文章を含めて22のテクスト・資料群を掲載しています。初期短編から戦中期の連続活劇、戦後の第二期活劇期、晩年の喜劇への回帰、さらには監督デビュー以前の闘牛雑誌への寄稿を含め、フイヤード監督のキャリア全体を過不足なくカバー、それ以外に小説版や脚本家としての分析などテマティークな論考が幾つか含まれていました。図版(当時物のオリジナルポスター)や写真を多数収録しており完成度は非常に高いです。

1918年製作作品『ぶどう月』について書かれた論考『ぶどう月:あるいは葡萄詩、連続劇の大洋に豊穣のぶどう畑』が個人的な収穫でした。

『ぶどう月』はルイ・フイヤード作品中最も知られておらず、また最も誤解されてきた一作である。公開時には十分な客数を集めるには至らなかったし、慧眼な映画史家が「再発掘」してはきたものの表層しか見ていない者たちの目には「国粋愛国主義」「メロドラマ展開」の致命的欠陥を積み重ねた作品と映っている。

「ぶどう月:あるいは葡萄詩、連続劇の大洋に豊穣のぶどう畑」 フランソワ・ド・ラ・ブルテーク

Vendémiaire reste un des films plus méconnus de Louis Feuillade et l’un des plus mésestimés. Il échoua à trouver son public à sa sortie. « Repêché » par les historiens du cinéma les plus lucides, il demeure entaché, aux yeux des observateurs superficiels, de péchés rédhibitoires; patriotisme cocardier, intrigue mélodramatique…

« Vendémiaire (1918): le poème de la vigne, un cru de terroir dans l’océan du serial » François de la Bretèque

冒頭で触れられているように『ぶどう月』は諸事情が重なったことで現時点で最も評価しにくくそして上映しにくいフイヤード作品となっています。とはいえ単発の人間ドラマの形を選択したことで同監督の当時の人間観や世界観が凝縮されており、また戦後作品への転換点となったことからも重要な作品であるのは間違いないと思います。

もう一つの収穫が157頁に掲載されていた一枚の写真でした。

『ジュデックス』撮影中のスタッフ
中央にカメラマンのレオン・クラウス、左にフイヤード監督

今回特定できた『ぶどう月』撮影時のオフショット
使用しているカメラ、三脚も同一のものです

下段に『ジュデックス』撮影時のバックヤードショットが収録されています。フイヤード監督とカメラマンらが前列に並び、背後の土手にルネ・クレステらが座って待機している様子を写した一枚。

以前に『ぶどう月』のオフショット3点を入手、そのうちカメラマンを映した一枚が特定できていませんでした。もともと同作には撮影として二人がクレジットされていてどちらなのか特定できなかったのです。今回フイヤード特集号に収められた写真からレオン・クラウス(Léon Klauss/Clauss)氏であると判明。長年のつかえがようやく取れた感じです。

[原題]
«Louis Feuillade» Revue 1895 hors-série

[出版年]
2000

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
391

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-24-7

2007 – 『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

« Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives » (l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

ルイ・フイヤード(1873-1925)監督については自国フランスを中心に研究が進んでいて、確認できている限り十数冊の書籍(雑誌特集号や増刊号含む)が公刊されています。『ルイ・フイヤード、その源泉へ』は「1895誌」を出版している仏映画史研究協会編がまとめた一冊で、同監督がゴーモン社や知人、友人とやりとりした書簡、契約書の草稿等223点の資料を時系列に並べています。時期によって6つの章に分かれています。

1) 監督デビュー前(1902-1905)
2) ゴーモン社初期作品期(1906-1914)
3) 戦中期(1914-1916)
4) 『ジュデックス』周辺期(1916-1918)
5) 拠点をニースに移してから(1918-1925)
6) 晩年(1922-1925)

青年時代のフイヤードは闘牛好きで専門誌に寄稿していたこともありました。その時期に残された数点の書簡以外は基本映画監督として書かれた文章。相手としてはゴーモン社レオン・ゴーモンと、俳優マルセル・ルベスクの比重が多くなっています。また後半は自身の映画作品のマルチメディア展開(小説版プロジェクト)に触れた内容が増えてきます。

ゴーモン氏への書簡は完全なビジネス仕様で、撮影に掛かった経費の報告が多くなっています。ルベスクとは旧友同士のやりとりといった感じで自身や共通の友人の近況報告が中心となっていました。

『ルイ・フイヤード、その源泉へ』にまとめられた書簡類では映画論や技法論は一切触れられていません。「映画はかくあってほしい」の理想論にはほとんど興味がなかったのだろうという印象を受けました。限られた予算枠の中でその都度最善の結果を出して会社に貢献しそれに相応しい収入を得ていく、そういったスタンスを貫いた職人肌の監督像が近いのかな、と。

一方で場面ごとの経費の報告が多数残されていて、1910年代の仏連続活劇撮影時にどのような個所でコストがかかっていたのかが見えやすくなっています。初期映画撮影を経済/マネジメント視点で分析していくアプローチもできそうです。

ルベスクとのやりとりは気の知れた友人相手のリラックスした雰囲気が特徴的。ルベスク自身がゴーモン社との契約で揉めて同社を離れた経緯、フイヤードがクレステと疎遠になっていた様子など細かな人間模様が浮き彫りになってきます。自身の映画の常連俳優たちを「一座の連中」と呼んでいたり、『ティーミン』に出演していた女優リュガヌと結婚して「うちの女神さん」と溺愛振りを示すなど「身内」を大事にしていく姿勢も伝わってきます。

1914~16年に関してはパリを拠点としていたためゴーモン社との書類のやりとりが少なく、フイヤード活劇愛好家の多くが期待している情報が残っていないのが残念ですが1910年代映画制作の裏舞台が垣間見える貴重な一次資料です。

[原題]
Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives

[出版年]
2007

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
316

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-77-3

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁

1920 – 8mm 『キスメット』(オーティス・スキナー主演、ルイ・ガスニエ監督) 米ブラックホーク社プリント

« Kismet » (1920, Waldorf Photoplays Inc., dir/ Louis J. Gasnier)
US Blackhawk Standard8 Print, with Paul Killiam Annotations

1920年前後のハリウッドではエキゾチックな設定を生かしたドラマや恋愛物がひとつの人気ジャンルとなっていました。ルドルフ・ヴァレンチノ主演の『シーク』や『血と砂』へと発展していく傾向で、中世のバグダッドを舞台にした1920年作品『キスメット』も大きくはこの流れに含まれています。

米ブラックホーク社の8ミリ版は作品全体を展開しているものではなく、映画史家ポール・キリアム氏の字幕解説コメントを中心とし、同作の見どころをまとめていく形を取っています。

『キスメット』の見どころの第一はその主人公。同作は元々舞台での人気作を映画化したものです。悪徳カリフに妻と息子を奪われ、今は物乞いとして暮らしている中年男ハジの復讐を描いた物語で、舞台版で主演を演じたオーティス・スキナーが映画版でもハジ役を務めています。スキナーはこの時点で還暦を越えているベテラン俳優。アイドル人気を博す要素はほとんどありませんが長年舞台で培った演技力は際立っており、登場の瞬間から生き生きした表情や動作で画面を支配していきます。

第二の見どころは豪華な設定…と続いていくものの、正直そこまで圧倒される感じはありませんでした。8ミリの解像度はこういった豪華絢爛なセットや衣装の凄みは伝えきれない気がします。

権力争いに巻きこまれ、ハジは豊かな皇子であると身分を偽って宮殿内に入りこみます。このとき冷遇されているカリフの妻とハジの間に恋愛感情が生まれてきます。妖艶な妻を演じたのは1910年代に娘役として活躍したローズマリー・セビー。1920年代前半のハリウッドらしいエキセントリックなファッションが目を引きます(リアルのイスラム圏の人は違和感を覚えそうですが)。

最後の見どころして挙げられていたのが「アイリス・エフェクト(瞳/絞り風の表現効果)」を使用した場面。

この見せ方は素敵。映画史の教科書に載って良いレベルだと思います。作品後半の物語展開に軽く触れてフィルムは終了。

ポール・キリアム氏は戦後、無声映画を紹介するテレビ番組のコメンテーターを務めていました。1950~70年代アメリカでサイレント映画に慣れ親しんだ世代には良く知られた人物でもあります。ブラックホーク社がその番組の権利を一部取得しており、同社の8ミリにはこれらのテレビ番組をダイジェスト化した作品も多く含まれています。こちらの『キスメット』も同様の経緯で生み出されてきたものです。見どころをピンポイントで説明してくれる啓蒙的な性質のフィルムで、言われないと気づかないままだった情報も多く含まれていて思った以上に楽しめる内容でした。

8ミリ版で触れられていなかった重要なポイントが一つ。『キスメット』の監督はパール・ホワイト初期連続活劇を担当したルイ・ガスニエでした。『ポーリンの危難』と『拳骨』で他作が霞んでしまう傾向がありますが1920年の『キスメット』や1932年の『トパーズ』など節目節目で秀作を生み出してきた戦前実力派、本作でもそのセンスを確認する事ができます。

[IMDb]
Kismet

[Movie Walker]
キスメット

[公開]
1920年11月14日

[8ミリ版]
米ブラックホーク社

[カタログ番号]
860-535

1918-1930 – DVD 『アウグスト・ジェニーナ作品集』(2020年、チネテカ・ディ・ボローニャ)

« Augusto Genina : Quattro film 1918-1930 »
(2020, Cineteca di Bologna)

ルイーズ・ブルックス主演作『ミス・ヨーロッパ』の新リストア版を含むDVD2枚組+ブックレット。収録作は以下の4作:

1)『さらば青春』(1918年、マリア・ヤコビニ&エレナ・マコウスカ他出演) Addio giovinezza!
2)『仮面と素顔』(1919年、イタリア・アルミランテ主演) La maschera e il volto
3)『さらば青春』(1927年、カルメン・ボニ&エレナ・サングロ他出演) Addio giovinezza!
4)『ミス・ヨーロッパ』(1930年、ルイーズ・ブルックス主演) Prix de beauté

ブックレットはイタリア語/英語によるもので、専門家による作品各論4編、主要俳優紹介、書き下ろしサントラ紹介を中心とした構成となっていました。

『ミス・ヨーロッパ』新リストア版よりルイーズ・ブルックス

旧版の低画質が指摘されていた『ミス・ヨーロッパ』の新デジタル化も朗報ながら、初期イタリア青春映画の秀作としてその名を語り継がれてきた1918年『さらば青春』を手の届くものにした功績は計り知れないものがあります。ジェニーナ監督の作風変遷、さらには第一次大戦後のイタリア映画変貌を理解していく手だてにもなり2020年に発売されたサイレント映画関連DVDでは最も重要な一枚になると思われます。

[出版年月日]
2020年8月27日

[出版者]
チネテカ・ディ・ボローニャ(Cineteca di Bologna)

[ISBN-10/13]
8899196672
978-8899196677

[再生時間]
338分

[フォーマット]
14.4 x 1.4 x 19.7cm 270g