シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayont pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日

昭和11年(1936年)1月: 『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』冨士新年號附録

« Cinema & Revues Famous Stars Photo Album »
supplement to the « FUJI » magazine Vol.9, No.1 (Jan 1936)
published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

以前から何度か投稿で扱ってきた雑誌『冨士』の付録、今回は1936年度版で表紙は山路ふみ子さん。タイトルの通り映画と歌劇の二本立てで構成されています。歌劇編(松竹・宝塚)も充実して面白かったのですが今回は映画編のみの紹介となります。

冒頭は彩色のグラビアが並び、高杉早苗・飯塚敏子・水の江瀧子・小夜福子の4名が登場。続いて映画界から92名、歌劇界から82名の紹介が行われ、最後に特集記事が幾つか収められていました。

松竹の充実ぶりは圧倒的。三羽烏(高田稔、上原謙、 佐分利信)に加えて林長二郎、高田浩吉、阪東好太郎ら若手が成長を見せ、女優陣も田中絹代、桑野通子、川崎弘子と盤石の面々が並びます。バイプレーヤーにも味のある個性派(坂本武、小林十九二、近衛敏明)が集結。

日活は主要メンバーが大分入れ替わった印象があります。20年代に比べると小粒な印象は否めないものの実力派を揃えていてまだまだ健在。

華美な感じではないものの雰囲気のある俳優さんが揃っていたのが新興。

PCLの存在は短期間に留まりましたが現在でも根強い評価・人気を得ています。若手を中心に勢いのあった様子は伝わってきます。

大都、第一映畫、東京発聲辺りにも見るべき才能が埋もれています。

以前の『冨士』付録と比べて落ち着いた絵面が多数。不景気が体感できるほど広まっていた時期でもあって20年代〜30年代初頭の非現実な華やかさを前に押し出す人は少なくなっています。世相的に暗い方向に向かいつつも、照明や脚本術などの向上と相まって良作を生み出していたこの時期の邦画界に層の厚さ、底力を感じます。

[発行年]
昭和11年1月

[発行者]
大日本雄弁会講談社

[フォーマット]
164頁 26.2cm×18.9cm

[定価]
本誌と共に七十銭

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン第2部:クリームヒルトの復讐』(フリッツ・ラング監督)1930年代初頭 独パテックス版

« Kriemhilds Rache » (1924, UFA/Decla-Bioscop, dir/Fritz Lang)
Early 1930s German Pathex 9.5mm Print

1930年代初頭に独パテックス社から発売された4巻物のプリント。以前にも何度か紹介(『メトロポリス』『ファウスト』『スピオーネ』)したドイツの無声映画・9.5ミリ映画愛好家、ヴォルフ=ヘルマン・オッテ氏の旧蔵プリントです。

上映時間はオリジナルの約半分の65分程。100メートル×4巻を上映用に200メートルの大型リール×2巻に巻き直しています。傷や汚れ、歪みは少なく大事に扱われていた様子が伝わってきました。

『ニーベルンゲン』には高画質のデジタル修復版(ムルナウ財団2010年版)がありますので通常の観賞はそちらで差し支えないと思います。とはいえオリジナル公開から10年も経たずに発売された9.5ミリ版には修復版と「違う」点も多いため目を通してみる価値は十分にあります。2010年デジタル修復版を収めたDVD・ブルーレイの特典動画『ニーベルンゲンの遺産』(Das Erbe der Nibelungen, 2011)の要点を挙げていくと:

1)撮影現場では2台のカメラが回っていて、同一場面でもアングルや構図の異なるカメラネガが存在している

カメラ2台使いでは左右に並べることが多く同一場面でも角度や構図がわずかに変わります。


2)複数のテイクが残されている

映画撮影ですので一つの場面にOKが出るまで複数回の取り直しが発生します。テイクが変わると役者さんの位置関係、表情、動きも多少変わります。


複数のカメラネガを元にa)ドイツ国内向けネガ、b)海外輸出用ネガ、c)合衆国向けネガの3つの異なった35ミリ上映用ネガが制作された。そしてこの3種類をベースに様々なコピープリントが派生していった

『ニーベルンゲン』上映用ネガは最終的に3種類製作されたそうです。さらにそれぞれのネガを元にトーキー版や小型映画版など無数のヴァリエーションが生み出されていきます。

ムルナウ財団のリストア版はドイツ国内向け上映用ネガをできるかぎり再現したもので、しかも上映用ポジを作るためのネガではなくカメラネガをスキャンすることで高い画質を実現。このアプローチとしては今後これ以上を望めない完成度になっています。

で、手持ちの独パテックス9.5ミリ版。確認して見たところそもそも「ドイツ国内向け上映用ネガ」を基にしていませんでした。

『ニーベルンゲン』9.5ミリ版は英パスコープ社が1931年に市販したプリントが基になっていています。独版は英パスコープ社版の字幕部をドイツ語に翻訳したもので、ネガのルーツを探っていくとUK版=b)の海外用輸出ネガになると思われます。

別に紹介した合衆国のメディアライブラリー旧蔵版16ミリは上のどちらとも違っておりc)合衆国向けネガベースのプリントだと断定して良いと思います。

結末部、ヒロインの死の場面には3つのネガの違いがはっきり出ています。

ドイツ国内向けネガ(左)と国外輸出用ネガ(中央)はトリミング幅が異なるも被写体の位置関係や角度などは同一。ただし手の重なり方を見てみるとドイツ国内向けネガでは右手を上に両手を重ねているのに対し、輸出用ネガでは左手が上になっています。同一カメラの別テイクが使用されているのだと分かります。それに対し米国向けネガ(右)はもう一台のカメラで撮られたネガを使っています

最初から3つのネガを同じように作ろうという計画があったという可能性はとても高い。つまりひとつはドイツ市場のため、もうひとつはウーファの輸出部のため、そしてもうひとつはこのフィルムをアメリカで公開することになっていたパラマウントのためのネガ。当時、いくつかのネガの平行した制作は一般的な慣例だった。[…]

ただ一方で、複数のネガがあるということは、演技、カメラの位置、時間的な長さ、コンティニュイティの点で異同を持つ複数のヴァージョンがあるということを意味している。それはマテリアルを組み合わせようとするときに大きな問題を生み出すことになる。さらに復元者は倫理的な葛藤にも向かい合わなければならない。つまり、いくつものネガを寄せ集めることによって、自分はこれまで存在しなかった形の映画を編集しているのではないか、というジレンマを持つことになるのだ。

ドイツ人研究者M・ケルバー氏の論文「増幅する『メトロポリス』に関するノート」邦訳(訳・矢田聡)からの一節。引用した部分については『ニーベルンゲン』2部作にもそのまま当てはまります。高画質の修復版が完成したと手放しで喜んでいる訳ではなく、特に最後の一文は色々考えさせられるものです。

1924 – 16mm 『ニーベルンゲン第2部:クリームヒルトの復讐』(フリッツ・ラング監督) 英語字幕US版

今年の正月休みに『クリームヒルトの復讐』16ミリ版を鑑賞しました。

2013年4月に入手したもので実写は今回が初めてです。1100フィート2本組で英語字幕、ダブルパーフォレーション無声。上映時間は約63分でオリジナルの半分に編集されています。製作会社のクレジットは無くプリントも無銘ですが、傷が少なく個人で視聴する分には十分でした。

デジタルリストア版の基になったドイツ国内用ネガ、9.5ミリ版の基になった輸出用ネガのどちらとも異なったアングル・テイクを含むもので、UFAが合衆国向けに準備したネガから派生したコピーだと思われます。アッティラ王による求婚をめぐる王家の紛糾、ハーゲンがその在り処を知るニーベルンゲンの財宝をめぐる駆け引きといった前半のエピソードが多く省略され、その代わりにできる限り後半の戦闘場面を残そうとしていました。

この16ミリ版には1)クリームヒルトによる「回想場面」が多く含まれています。前篇『ジークフリート』の名場面が幾つか映し出される趣向はデジタルリストア版には無いものです。2)また結末部、クリームヒルトは本来刺されて亡くなる設定ですが16ミリ版では復讐を遂げたことで精魂尽き果てて息絶える展開に改変されています。

このフィルムはメディア・ライブラリーが旧蔵していた「Ex-Library Film」と呼ばれる類のプリントです。到着した時に図書館名が黒塗りで消されていたので不安になり、消された文字を解読して見ました。アラスカ州の「アンカリッジ市立図書館(Anchorage Municipal Library)」と判明しホームページ経由で確認。「以前に売却処分したフィルムの一つですので持っていて構わないですよ」の回答でホッとしたのを今でもよく覚えています。

マリー・ヨンソン Mary Johnson (1890 – 1975) スウェーデン

Mary Johnson 1920s Autograhed Postcard

1910年代後半、スウェーデンのハッセルブラッド映画社でイェオイ・アフ・クレルケル監督によるメロドラマに多く出演し人気を博していたのがマリー・ヨンソンでした。

Mary Johnson in Förstadsprästen (1917)

1917年『Förstadsprästen』より

1918年『灯台守の娘(Fyrvaktarens dotter)』より

ハッセルブラッド社作品は国外輸出された形跡がなく、その人気はスウェーデン国内に留まっていました。1919年にスウェディッシュ・バイオグラフ社とスカンディア社の大手二社が合併、本格的に海外市場の展開を始めた時スティルレル監督が『吹雪の夜』のヒロイン役に彼女を抜擢します

Mary Johnson in Herr Arnes pengar (1919)

1919年『吹雪の夜』より

1920年の米フォトプレイ誌より

同作は公開当初から欧米で話題を呼びました。ヨン・W・ブリューニウス監督による歴史ドラマ『福騎士』(En lyckoriddare、1921年)でユスタ・エークマンと共演、『グンナール・ヘデ物語』(1923年)ではスティルレルと再度タッグを組み「スウェーデンのメアリー・ピックフォード」と称されるまでになりました。

Filmnyheter誌 1923年第1号
『グンナール・ヘデ物語』公開時の特集記事より

20年代中盤〜後半にスティルレルがガルボらと共に渡米、北欧映画の弱体化がはっきりしていく中でマリー・ヨンソンは旧大陸(ドイツ、フランス)に進出し舞台/映画での女優活動を続けていきます。

1932年にラング作品で知られるルドルフ・クライン・ロッゲと再婚、一児を設け一旦は落ち着いた生活を取り戻すも2年後にその子供が亡くなり精神的なバランスを崩していきます。ナチス台頭と共に夫婦はドイツ映画界での居場所を失いオーストリアに移住。第二次大戦後ロッゲが亡くなると故国スウェーデンに戻り、1970年代にひっそりと亡くなっています。

10〜20年代の華やかな活躍とそれ以後の凋落の対比があまりにも極端なのですが、清純な娘役のイメージが固定してしまい成熟した女優に脱皮できなかったのが大きな要因だったとは思います(『グンナール・ヘデ物語』の演技にもその予兆を見て取れます)。それでも『吹雪の夜』はエイゼンシュテインにまで影響を与えた無声映画屈指の作品の一つですし、スウェーデン映画勃興期に残した功績も無視できないものです。

[Movie Walker]
マリー・ヨンソン

[IMDb]
Mary Johnson

[誕生日]
5月11日

[出身]
スウェーデン

[データ]
Ross Verlag, 8.7 × 13.9cm

ブランシュ・スウィート Blanche Sweet (1896–1986)

ブランシュ・スウィート嬢はシカゴで生れ加州バークレーカリッジにて教育を受けた。幼い頃から舞臺に立ち始めチェインシー・オルコット氏や他の著名役者と共演している。舞臺を離れ銀幕に移るやいなや初の出演作「ベッスリアの女王」で忽ちにその名を上げた。爾来、多くの寫眞に姿を見せ益々人気を高めている。他に比べるもののない魅力的な性格のスウィート嬢は映畫界随一の慕われ振りで、舊作の素晴らしい演技から更なる将来の飛躍が期待せらる。スウィート嬢はグリフィス監督が発掘してきた最初の花形で、現在はパテ社連作のヒロインを任されている。金髪碧眼。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Blanche Sweet was born in Chicago and received her education at Berkeley College in California. She began her stage career at an early age, appearing with Chauncey Olcott and other stars. Deserting the stage for the screen she found fame at once, her first appearance being in « Judith of Bethula. » [sic] Since then Miss Sweet has added to her popularity in the great number of productions in which she has appeared. The singularly appealing personality of Blanche Sweet has endeared her to lovers of the best in motion pictures and her delightful impersonations in the past give promise of greater things for the future. Miss Sweet was D. W. Griffith’s first star. She is now starred by Pathe in a series of productions. She has golden hair and blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

以前に1920年頃のパラマウント社でスチル撮影を行っていたカメラマン、ドナルド・キース(Donald Biddle Keyes)氏旧蔵のサイン入りポートレート群を紹介しました。こちらは同氏によるブランシュ・スウィート(日本語版ウィキは「ブランチ」表記ですが古い表記に従います)の写真。1924〜25年にMGM社の『スポーツの女神』に出演した頃の一枚だと思われます。

キース氏は綺麗さ、可憐さといったスター女優の「型」に被写体を落としこもうとはせず、素に近い表情や雰囲気を切り取るのを得意とした写真家でした。素を演じていただけだよと言われると身も蓋もありませんが、晩年にメディアに登場していた頃の姿は白髪で皺が増えた以外ほとんど変わっていなかったりします。

メアリー・ピックフォードの代わりとなり最後は逆にリリアン・ギッシュに取ってかわられるまでの5年の間、ブランシュ・スウィートはグリフィスと米バイオグラフ社の下に留まった。この三女優は演技スタイル、外見上の相違が大きく比較は出来ない。ブランシュ・スウィートは天上的な儚さを備えたギッシュと違ってふくよかな十代の少女だったし、ピックフォードの明快な個性も備えてはいなかった。その二人どちらと比べても自然な演技の出来る役者ではあった。

『サイレント・プレイヤーズ』
(アンソニー・スライド著。2002年、ケンタッキー大学出版)

Blanche Sweet was to remain with Griffith and American Biograph for five years, replacing Mary Pickford and, in turn, being replaced by Lilian Gish. The style and appearance of the three actresses is so diverse that it is impossible to compare one to the the other. Blanche is still a teenager with « puppy fat », unlike the ethereal Gish, and lacks the obvious personality of Mary Pickford. She is a more natural actress than either of the two.

(Silent Players: A Biographical and Autobiographical Study of 100 Silent Film Actors and Actresses, Anthony Slide, University Press of Kentucky, 2002.)

また『サイレント・プレイヤーズ』の著者が最初にコンタクトをとったのが彼女で、その後もイベントでのエスコート役など縁が続いたそうです。「気分の波が激しい典型的なサイレント花形女優」の形容からは振り回された様子も伝わってきますがそれでも文章に静かな愛情が漂っています。

[IMDb]
Blanche Sweet

[Movie Walker]
ブランシュ・スウィート

[出身地]
合衆国(シカゴ)

[生年月日]
6月18日

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 トーキー時代・スター誕生』

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 2 : Talkie… Stars Are Born »
1970s Super8 Anthology


1) 戸田家の兄妹(1941年、小津安二郎) 桑野通子、高峰三枝子、三宅邦子、坪内美子ほか [JMDb]


2)信子 (1940年、清水宏) 高峰三枝子、三浦光子、飯田蝶子ほか[JMDb]


3)木石 (1940年、五所平之助) 木暮実千代、赤木蘭子ほか [JMDb]


4)隣りの八重ちゃん (1934年、島津保次郎) 逢初夢子、高杉早苗、岡田嘉子ほか [JMDb]


5)暖流 (1939年、吉村公三郎) 水戸光子、高峰三枝子 [JMDb]

松竹映画史を女優視点で振り返っていくスーパー8版アンソロジーの第二篇。

冒頭を飾るのは小津作品『戸田家の兄妹』。妖婦や悪女役など翳りの多い役柄が多かった桑野通子さん新境地が評価されたものです。続いて高峰三枝子さんが女学校の女性教師を演じた『信子』。しばしば女性版『坊ちゃん』と呼ばれますが、多感な女生徒たちと教師・信子の関係には数年前に日本で公開された『制服の処女』の影響を見て取ることもできます。

ベテラン看護婦(赤木蘭子)とその娘襟子(木暮実千代)の物語を描いた『木石』。母娘二人のコントラスを効かせながら、襟子の出生の謎が次第に解き明かされていきます。8ミリ版ナレーションでは時局を踏まえ、戦前期松竹の最後を飾るメロドラマの位置付けをされていました。

一旦1930年代前半に戻って『隣りの八重ちゃん』に移ります。撮影や脚本、配役に無声期の雰囲気が強く残っている感じ。八重の友人役で瑞々しい存在感を見せた高杉早苗さんが高く評価されていました。

トーキー篇のトリを務めるのは『日本映画史・前編』でも紹介されていた『暖流』。喫茶店での抜粋も含まれています。男一人、女二人の三角関係を軸に進んで行く物語で当時は映画フアンがぎん派(水戸光子)と啓子派(高峰三枝子)に分かれていたエピソードも紹介されていました。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート(24コマ/秒) 光学録音・テープ付き

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 サイレント時代・草分けの美女たち』

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 1 : Pioneers from The Silent Era »
1970s Super8 Anthology


1) 伊豆の踊子(1933年、五所平之助監督) 田中絹代、若水絹子ほか [JMDb]


2)松竹スタジオ紹介他


3)不壊の白珠(1929年、清水宏監督) 及川道子、八雲恵美子ほか [JMDb]


4)与太者と海水浴(1933年、野村浩将監督) 井上雪子、光川京子、高峰秀子ほか [JMDb]


5)夜ごとの夢(1933年、成瀬巳喜男監督) 栗島すみ子、飯田蝶子ほか [JMDb]


6)金色夜叉(1937年、清水宏監督) 川崎弘子 [JMDb]

2018年初頭に入手したスーパー8版アンソロジー。トーキー篇の紹介にあわせてこちらもスキャンしました(前回は映写した画面をそのまま撮影)。

田中絹代さん主演の『伊豆の踊子』で始まり、松竹スタジオの外観などを挟みながら井上雪子さん主演の『与太者と海水浴』へ。浅瀬に着衣のまま飛びこんでしまう大胆な展開に。

名作『不壊の白珠』を挟んで『夜ごとの夢』。栗島すみ子さんキャリア後期の作品で子供に頬をつけて泣いている時の表情が圧倒的。最後に『金色夜叉』での寛一お宮のやりとりが紹介されています。どの女優さんも雰囲気ありますね。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート 磁器録音(24コマ/秒)

戦前の映画解説本・説明本・ストーリー集(2020年度総括)

今年は古い解説本を探していた覚えがあって手元に25冊程のミニコレクションができました。サイト内でデータがばらけてしまったので時系列(公開順)に並べてみます。20年代半ばから30年代初頭の盛り上がりも伝わってくるのではないでしょうか。最初に入手した作品が紹介できていないのでその辺は追々。

春江堂大活劇文庫に関しては国立国会図書館、またトーキー文庫については日本大学の芸術学部にまとまったコレクションが所蔵されています。


映畫文庫(湯川明文館)

1925年7月公開『剣の舞』(東亜、市川小文治主演、松屋春翠)
1925年11月 『雄呂血』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、二川文太郎)
1925年12月 『落武者』(松竹蒲田、森肇主演、清水宏)
1925年12月『魔保露詩』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、志波西果)


出版者不明

1925年12月〜26年1月『南蠻寺の怪人』(東亞、高木新平主演、長尾史録)
1926年2月 『傷魂』(東亜、1926年 – 高木新平・生野初子主演、長尾史録)
1926年2月 『孔雀の光 前編』(マキノ、市川右太衛門主演、沼田紅緑)
1926年2月 『尊王』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、志波西果)
1926年6月 『幕末』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、宇澤芳幽貴)
1926年6月 『侠血』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、門田清太郎)


瀧本時代堂

1929年7月 『此村大吉』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、山口哲平)
1929年7月 『月形半平太』(東亞、草間實主演、枝正義郎)
1929年8月 『冷眼』(右太プロ、市川右太衛門主演、悪麗之助)
1929年8月 『傳奇刀葉林』(帝キネ、市川百々之助主演、渡辺新太郎)
1929年8月 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山)
1929年9月 『斬人斬馬剣』(松竹、月形龍之介主演、伊藤大輔)


トーキー文庫(映画研究会)

1930年10月 『九条武子夫人 無憂華』(東亞、鈴村京子・三原那智子主演、後藤岱山他)


大島印刷株式会社

1931年7月 『海江田譲二の高田の馬場』(日活、海江田譲二主演、辻吉朗)
1931年7月 『野に叫ぶもの』(松竹、 鈴木伝明・高田稔主演、島津保次郎)
1931年11月 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ、雲井竜之介主演、寿々喜多呂九平)


大活劇文庫(春江堂)

1918年公開 『曲馬団の秘密』(The Iron Test、ヴァイタグラフ社)篠田緑水訳
1919年公開 『蛸の手』(The Trail of the Octopus、ユニヴァーサル社)麻生重人訳


活動文庫(榎本書店)

1921年公開 『キッド』(The Kid、チャールズ・チャップリン)
1921年公開 『ハリケンハッチ』(Hurricane Hutch、ジョージ・B・サイツ)
1922年公開 『血と砂』(Blood and Sand、フレッド・ニブロ)
1923年公開 『十八日間世界一周』(Around the World in Eighteen Days、リーブス・イーソン&ロバート・F・ヒル)


1957 – Super8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』(Japanese Cinema History Part I, super8)

c1970 Super8 日本映画史 前編

« Japanese Cinema History : Part I 1887-1949 » (1957, Shochiku Ofuna, dir/Iwaki Kimio)
c1970 Sungraph Super8 Print

1957年に公開された松竹制作による短編ドキュメンタリー。同社が制作した戦前作品を中心とし、活動寫眞の到来から戦後までの映画史の展開を貴重な映像でまとめ上げた一作。

8ミリ版は1960年代末~70年代初頭に発売されたと思われ、前後編の2巻構成。前編は19世紀末の映画前史から終戦後の1949年までを扱っています。2年前の購入時に一度紹介しているのですが画質が悪く、今回綺乃九五式で再度スキャンし直しました。


1887年 『疾走中の馬の連続写真』 エドワード・マイブリッジ

Sallie Gardner at a Gallop [imdb]

まずは明治時代まで遡り「動く写真」の発明としてエジソンの功績と並びマイブリッジ作品が紹介されていきます。


1899年 『紅葉狩』 柴田常吉監督

Momijigari [imdb] [jmdb]

現存する最古の日本映画として知られた『紅葉狩』。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎出演。現在は国立映画アーカイヴの「映像で見る明治の日本」の動画紹介ページで閲覧が可能です。


1900年 『鳩の浮巣』土屋常二撮影

Nio No Ukisu imdbjmdb

『明治二十八年の両國大相撲』(別名『回向院夏場所大相撲』)でも知られる土屋常二(ジョージ)氏が残したもう一本の映像作品。初代中村鴈治郎出演。


1911-12年 『白瀬中尉の南極探検』 記録映画 田泉保直撮影

Japanese Expedition to Antarctica imdbjmdb

明治末期に行われた白瀬矗注意による南極探検の実録もの。JMDbでは『南極実景』として登録されている一篇で、こちらも「映像で見る明治の日本」で高画質なバージョンを閲覧できます。


1911年 『ジゴマ』ヴィクトラン・ジャッセ監督

Zigomar imdb

日本で大規模な社会現象を引き起こした仏エクレール社の悪漢活劇。ジゴマの百面相を描いた紹介場面と物語途中の抜粋が収録されています。


製作年不明 『自雷也』尾上松之介主演

Jiraiya (Unidentified Version)

松之助十八番。自雷也が妖術を使う場面ながら松之助版自雷也のどれに当たるのか未特定。明治42年ではなくもう少し後年の作品と思われます。


1913年 『アントニィとクレオパトラ』 エンリコ・ガッツォーニ監督

Marcantonio e Cleopatra imdb

絢爛たる古代ローマ世界を描き出し日本でも大きな話題を呼んだ一作。8ミリ版では弁士・玉井旭洋の語りが付されていました。


1913年 『天馬』ハリー・ピール監督

Die Millionenmine imdb

第一次大戦開戦直前に輸入され、国内でのドイツ冒険活劇流行のきっかけとなった一作。ブラウン探偵(ルートヴィヒ・トラウトマン)が囚われの美女(ヘッダ・ヴェルノン)を救い出す場面で弁士・泉天嶺の語りが付されています。


1915年 『後のカチューシャ』細山喜代松監督

Nochi no Katyusha imdbjmdb

向島に新設されたばかりの初期ガラススタジオで撮影された初期日活現代劇。出演は立花貞二郎と関根達発ほか。国立映画アーカイヴやマツダ映画社にも所蔵記録のない作品で、断片を見れたのは感動でした。


1921年 『路上の霊魂』村田実監督

Souls on the Road (Rojô no reikion) imdbjmdb

日本の映画制作が新しい段階に入った様子を告げるモダンな現代劇。国外からの評価が高いことでも知られる一作です。


1921年 『虞美人草』小谷ヘンリー監督

Gubijinsô imdbjmdb

歸山教正氏と並び国産映画の近代化に功あった小谷ヘンリー監督の代表作。グリフィスの影響が濃く、戦闘場面での流動的な表現など日本映画になかった新しい試みを持ちこんでいます。


1923年 『船頭小唄』池田義信監督

Sendô kouta imdbjmdb

帝キネの『籠の鳥』と並ぶ小唄映画ブームの先駆け作品。栗島すみ子の健気で可憐なイメージ戦略をさらに一歩推し進めたものでもあります。


1923年 『関東大震災』記録映画

The Great Kantō earthquake

被災直後、瓦礫の山と化した街並みや、炊き出しに並ぶ被災者たちの姿などを生々しく記録した巨大災害の記録。首都圏を襲った未曽有の災害は初期日本映画の展開にも少なからぬ影響を与えました。


1931年 『マダムと女房』五所平之助監督

Madame and Wife imdbjmdb

斉藤達雄と田中絹代のかけあいが楽しい初期トーキー。


1938年 『愛染かつら』野村浩将監督

The Tree of Love imdbjmdb

看護婦として働くシングルマザーと医学者との悲恋を描いた戦前を代表する和製メロドラマ秀作。


1939年 『暖流』吉村公三郎監督

Warm Current imdbjmdb

高峰三枝子、水戸光子、佐分利信の入り組んだ人間模様を背景に描かれる、硬質な叙情性を帯びた恋愛ドラマ。


1943年 『花咲く港』 木下恵介監督

Port of Flowers imdbjmdb

九州の離島を訪れたペテン師二人組の行く末を軽妙に描いた木下恵介監督デビュー作。


1945年 『そよかぜ』 佐々木康監督

Soyokaze imdbjmdb

「リンゴの唄」の朗らかな響きと共に終戦直後の人々に希望を与える一作となりました。


1949年 『悲しき口笛』家城巳代治監督

Sad Whistling imdbjmdb

笠木シズ子をアップデートする形で日本歌謡を刷新した不世出の歌姫の映画デビュー作。10代前半でこの貫禄はさすが。


1949年 『晩春』 小津安二郎

Late Spring imdbjmdb

20世紀前半の(松竹版)日本映画史は小津の形式美と情緒によって完成された…とまとめたくなる編集です。


白黒110メートル(約18分)
光学録音
サングラフ/松竹

1925 – 『落武者』(松竹蒲田、清水宏監督) 湯川明文館・映畫文庫

« Ochimusha » (1925, Shochiku, dir/Shimizu Hiroshi)
Yukawa-Meibunnkann « Eiga-Bunko (Collection Cinema) » Novelization

 嶮しいだらだら坂を下りて、もう麓も近いと思はれた頃、ふと眞十郎は歩みをとゞめて、
「靜に。」
と皆を制した。
「あれは何んだらふ。」
 眞十郎が指さす方を見下すと、木の間がくれに白いものが飜つてゐる。
「はて何でせう。」
「暫時このまゝ待つて居給へ、今確かめて來やう。」
 眞十郎は身輕に岩をよぢ登り、松の枝に手をかけて遙麓の片を見下した。
 とそれは定紋附の幔幕だ、思ふに捕方の野陣に相違あるまい。
 眞十郎一同の所に立ちかへつて云つた。
「麓は既に敵に圍まれてゐる、あの樣子では蟻の這ひ出る隙もないであらふ、吾々は覺悟をせねばならぬ。運を天帝にまかせ、刄の續く限り戰つてみるより外は無い。天運あらば此の内の幾人かはこの重圍を突破する事が出來るであらふ。」
「時が來たのだ、吾々の 覺悟はよい。」
誰も多くを語らない、同胞同志、盟友同志、萬感を籠めた眼を見合はせて悲壮な微笑をかはした。

鬱蒼とした境内での捕物劇

中央に森肇。右に若衆姿の田中絹代

生け捕りにした芳江(筑波雪子)に言い寄る幕府方役人

大正15年(1924年)の監督デビュー後にしばらく時代劇を担当していた清水宏監督の初期作。

山中での捕縛劇、寺社での乱闘、城下町の斬りあいなど物語の要所要所にアクションを交えつつも剣戟だけに焦点が当たっている訳ではありません。味方を一人、また一人と失っていく喪失感、仲間との協力で難局を突破していく連帯感が描かれ、登場人物がそれぞれの理想を追いつつも現実に悪戦苦闘していく姿が描かれていきます。

眞十郎を演じるのは映画初主演となる森肇。若衆姿の妹役で田中絹代さんが登場、後年の清水作品『ありがたうさん』で渋い紳士役として登場してくる石山龍嗣氏が精神に障がいのある青年を演じ、また後の小津や溝口作品で活躍する名優・坂本武氏が本作でデビュー…と、現時点で振り返ってみると1930年代以降に邦画現代劇を動かしていく監督と俳優がなぜか剣戟作品に集まってチャンバラをしている不思議な感覚を覚えました。

社会的な弱者(一向に付き従う老僕、芸者、障碍者、女性一般)へのフラットな視線を含んでいるのも大きな特徴で「清水タッチ」の原型を見てとることもできます。やや異色ながら「人」に比重を置いた興味深い時代劇です。

[JMDb]
落武者

[IMDb]
Ochimusâ

[著者]
映畫劇同好会

[出版者]
湯川松次郎

[発行所]
湯川明文館

[フォーマット]
14.6 × 10.7 cm、124頁、映畫文庫 十二

[出版年]
1925年

アスタ・ニールセン(1881 – 1972)、1949年の書簡

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Asta Nielsen 1949 Singed Letter

1949年10月11日
親愛なるフィッシャー樣

お問いあわせ心より感謝しております。
(そうそう、ドイツ語で書かないといけないですよね)
「スイス画報」誌のためとの話で心より感謝申し上げます。 御誌への好奇心がムクムク湧いてきています。
最近撮った写真は手元に御座いませんのでご了承くださいませ。
貴殿と御誌のご発展を心よりお祈り申し上げます。
かしこ

アスタ・ニールセン

11.10.49

Käre Her Redaktör Fischer.

Hjertelig Tak for Deres Henvendelse For mi (det er sandt, jeg maa jo skrive Tysk)
Also, herzlichem Dank für Ihre Bemühung mit der Schweizer Illustrierten, nun bin ich neugierig, ob ich etwas davon höre.
Wie ich Ihnen schon hier sagte, bin ich nicht im Besitz von Bildern aus der letzte Zeit.
Ich hoffe, dass es Ihnen beide nach Wunsch geht und sende dir herzlichste Grüsse.
Ihre sehr ergebene,

Asta Nielsen

アスタ・ニールセンが戦後の1949年、スイスの雑誌の編集者に送った書簡。記事用に近影の写真を所望した編集者にやんわりと断りを入れた内容です。折りたたんで封をすると三辺にミシン目ができるタイプの封筒を使用。印刷された15オーレの切手の脇に5オーレの切手が追加で貼ってあります。

最初はデンマーク語で書き出しながらすぐドイツ語に変わるのですが、狙ってやったわけではなく間違えに途中で気づいてそのまま修正し書き続けたように見えます。ミスタイプを打ち直した個所も多く、秘書に打ってもらったのではなく本人がタイプしているのではないのかな、と。

オスロ(ノルウェー)のホテルに滞在しているスイスの雑誌の編集者に宛て、デンマークからドイツ語の手紙を書く…欧州を股にかけて活躍した名女優さんらしいスケールの大きな話です。

1926年12月、ケルンで残されたと思われる
サイン入り絵葉書

Asta Nieslen Signed Card

雑誌切抜きを貼りつけた手製カードに
(戦後、1940年台後半から50年台始め)

アスタ・ニールゼン、彼女の名は今や我愛活家の腦裡より忘れられようとして居るけれどもニールゼンはその藝能に於て又技巧に於て、他の追從を許さぬ獨得の領域を持つた名女優であつた。幻惑的な嫋弱[たおやか]なすつきりした姿、人の胸に迫る沈痛な面持。ニールゼンには斯うした北歐の女性の備ふる典型を持つて居る。さうしてその五體より湧き出る彼女の表現、夫[それ]はあの物寂たビオスコツプ藝術映畫に缺くべからざる權威でもあつた。『ハンナ嬢』の如き、『愛の叫び』の如き、『女優の末路』の如き、『浮縁の血統』の如き、實に彼女の藝術の一旦を伺ふにて遺憾なきものであつた。

ニールゼンの生國は平和に満ちた丁抹である。北歐劇壇にニールゼンの名が漸く表れ始めた頃、彼女は故国を後にして独逸伯林の都に來て、劇作家ウルバン、ガツトウ氏と知り、兩者は戀にも生き、結婚して共々ビオスコツプ社の招聘により、ガツトウ氏劇作指導の下にニールゼン映畫を作る事となり、數十の映畫を撮影したのであつたが、折から戰亂となり、嬢は夫君と共に避けて故國丁抹に歸つた。

「歐州活動女優物語:アスタ・ニールゼン嬢」
『活動画報』 1919年8月号

身振りの多様さと表情の豊かさは、アスタ・ニールセンの場合驚嘆に値する。

「アスタ・ニールセン:その愛の演技と老け役の演技」
ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫版所収
(佐々木基一、高村宏訳)

1921年『女ハムレット』より


[Movie Walker]
アスタ・ニールセン

[IMDb]
Asta Nielsen

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
9月11日

ケーテ・ハーク Käthe Haack (1897–1986) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Käthe « Käte » Haack c1920 Autographed Postcard

1910年代に女優デビュー、戦前〜戦後と途切れることなく映画出演を積み重ね、亡くなる直前の1985年まで長い役者人生を送ったのがケーテ・ハークでした。

女優に憧れ10代でレッシング劇場と契約を結んだ直後にマックス・マック監督の目に留まり、その勧めに従って映画界に入ったそうです。演技に芝居がかった大袈裟さがなく、独特の柔らかさと温かみを帯びています。そのため自然体の演技を好む監督さん(パウル・レニ、フィル・ユッツィ、ゲルハルト・ランプレヒト、パブスト、オフュルス)との相性が良く、とりわけ20年代のランプレヒト作品の常連になっていました。同監督が1931年に発表し、日本でも人気の高い『少年探偵団』(日本での公開後に原作邦訳が三冊同時出版されたそうです)で探偵エミール君の母親を演じていたのもそういった流れに連なるものです。

その後母親役から老け役へ、活動拠点も映画からテレビに移っていきます。女優歴は71年に及び、ダニエル・ダリュー(80年)やリリアン・ギッシュ(76年)に次ぐ息の長いものとなりました。特定の映画会社の花形女優ではなかったため雑誌の表紙を飾ることは稀でしたし、知名度で言っても先の二人にはかないませんが、彼女の出演作にはドイツ戦前映画の裏名作が多く含まれていて質的に見劣りしないものです。

今回入手した絵葉書は名前が「Käthe」ではなく初期の「Käte」表記となっている一枚(発音は変わらず)。サインもKäteと書いていますので1910年代末から20年頃でしょうか。

[IMDb]
Käthe Haack

[Movie Walker]
ケーテ・ハーク

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

[誕生日]
8月11日

[データ]
[Photochemie, Berlin. K.1863. Bildnis von A. Binder, Berlin] 9.0 × 13.6cm

1929 – 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山監督、山中貞雄助監督) 瀧本時代堂 説明本

« Ôtone no Satsujin » (Tôa Kinema, 1929, dir/Gotô Taizan)
1929 Takimoto Jidaido Novelisation

『サアサア、行け行け、今日こそは思ひのまゝに腕だめしをしてやるぞつ…』と、乾分どもはわいわいと出かけて行くので、今や大利根一帶の沿岸は殺氣滿ち充ちて今にも血の雨、血の川は目前に現はれ出るやうな氣がして來るのであつた。

斯うして居る中にも兩方の人數が次第次第に接近して來た、そして愈々大殺陣が布かれて、一大爭鬪が起らんとして居るのであつた。

時しもあれ、此の大利根の流れ沿ふて此の邊を通りかゝつたのが其の頃男の中の男と云はれ、侠骨いういうたる大前田英五郎であつた。

上州では相良金三郎(尾上紋彌)と久宮の丈八(頭山桂之助)一党の抗争が激化していた。劣勢を感じた金三郎は火の車のお萬(原駒子)に助勢を頼むが、その動きが挑発ととられ殺気立った丈八一党が結集、利根川河畔で大喧嘩が始まろうとしていた。たまたまそこを通りかかったのが大前田英五郎(嵐寛壽郎)であった。事情を聞いた英五郎は仲裁に入り一旦その場を収めるのに成功した。とはいえ火種が消えたわけではなかった。英五郎はお萬に惹かれていく一方、乳姉弟であるおつまが丈八の妻であるのを知り板挟みとなっていく…

嵐寛壽郎が東亞キネマで俳優キャリアの再構築に取りかかっていた時期の一作で、『鞍馬天狗』(1929年7月13日公開)と『右門一番手柄』(1929年11月1日公開)の間に公開されています。原駒子、尾上紋弥、頭山桂之助など東亞期のアラカン出演作ではお馴染みの面々が脇を固めているほか、後の山中貞雄監督が「社堂沙汰夫」名義で助監督を務めていました。

日本映画情報システムを含めた幾つかの日本語情報サイトでは「おおとねのたて」で登録されています。しかし物語は剣戟振付の「たて」と関係ありませんし、解説本でも「大殺陣/だいさつじ(ん)」の読み仮名が振られていいました。素直に「さつじん」と読むのが正ではないかな、という気もします。


[JMDb]
大利根の殺陣

[IMDb]
Ôtone no satsujin

[出版年]
1929年

[編集兼発行者]
瀧本昇

[発行所]
瀧本時代堂

[ページ数]
16

[フォーマット]
10.5 × 14.8 cm

1938 – 『パテータイムス 第三巻第二號』 「救國の乙女ジャンヌ・ダーク(『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』)」紹介

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

Pathe Times 1938 February Issue
« Presents La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc »

戦前に9.5ミリ小型映画の愛好家向けに発売されていた冊子では『パテベビー月報』、『ベビーシネマ』、『日本パテーシネ』、『パテータイムス』などが知られています。このうち『パテータイムス』昭和13年(1938年)の2月号で、「救國の乙女ジヤンヌ・ダーク」が取り上げられていました。

本文中に「パテスコープ提供」「特大二巻」「タイトル [間字幕] は英文」とあるように、英パテスコープ社が『聖ジャンヌ(St Joan the Maid)』として発売していた2巻物の英縮約版を輸入販売したものです。

齢二十に満たぬ一介の乙女が祖國フランスを救ひ世界の奇蹟として今尚人口に膾炙する聖少女ジヤンヌ・ダルクの悲壮な行為を史實に依り、叙事詩的に描いた雄篇。しかも九ミリ半愛好者に手頃な特大2巻に壓縮され乍ら些かも無理な感じのない近来の傑作です。學校用としては歴史科、修身科教材として應用でき、御家庭、アマチユアの集會には觀賞用として洋畫飢饉の昨今必ずや皆様を堪能せしめませう。

時は今純戦時状態に入り國民精神總動員愈々徹底されて居りますが、斯る崇高な祖國愛の事蹟に接するは絶對必要ではありますまいか。その意味に於ても本映畫を御觀賞されることを敢えてお奨めいたします。

以上の2段落の紹介文があった後、フィルム前半に当たる第一巻の字幕の日本語訳が丸々掲載されています。

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』は日本で劇場公開されておらず、戦前に日本語で言及された文章を見たことはありませんでした。戦時下の「祖國愛」を鼓舞する形ではあるものの、9.5ミリフィルム経由で紹介が行われていたのを確認できたのは収穫でした。

また今年のNHK連続テレビ小説『エール』にパテベビー撮影機が登場した話は御存じかと思われます。本号のパテータイムスでは古関裕而氏を「この天才作曲家古關氏が熱心を通り越したとも評さるべき九ミリ半アマチユアであることを御承知の人はあまり多くはない。氏はコンテスト等には殆ど出品せぬが默々として素晴らしい九ミリ半映畫をつくつてゐる」と紹介しています。

時は1938年。戦時下となった緊張感や不安感が見え隠れする一冊でもあります。それでもまだ「供給に餘裕ある九ミリ半フヰルム」の見通しが述べられていました。いかに楽観的だったかを翌年思い知らされるわけで、日本における9.5ミリ文化が潰えようとするギリギリの瞬間が記録されています。

1929 – 『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』 米プロモ用プレス写真

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

« La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc » 1929 US Press Photo

現在フランスで祝典が行われているジャンヌ・ダルク400年祭に関連した忘れ難い出来事のひとつが、仏歴史大作映画『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオペラ座プレミア公開である。映画はジャンヌの生き様を生き生きと描き出している。この写真は軍馬に乗り、兵を率いてオルレアン解放に向うジャンヌの姿を写したものである。

A memorable event in connection with the Quincentenary of St. Joan, now being celebrated in France, is the production, at the National Opera House in Paris, of Great French Historical Film, « La Merveilleuse Vie De Jeanne D’Arc, Fille De Lorraine. » The film portraits graphically the life of the immortal Joan of Arc. Photo shows Joan of Arc mounted her charger, leading her troops to relieve the siege of Orleans.

合衆国で紹介された際のプレス用写真。映画中盤にジャンヌ・ダルク(シモーヌ・ジュヌヴォワ)が兵を率いてオルレアン奪還に向かう場面を撮影した一枚。解像度の高い写真ではありませんがVHSや9.5mmフィルムで確認しにくいエキストラの表情や衣装が写っています。

裏面に映画の紹介文をタイプ打ちした紙が貼られており、ニューヨークの「アトランティック写真(Atlantic Photos)」「1929年5月22日(22 MAY 1929)」のスタンプが押されています。

IMDbによると『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』の劇場公開は1929年11月1日。その半年前の4月18日にパリ・オペラ座でプレミア公開されており、4日後の4月22日に文章がタイプ打ちされ、5月22日に写真が準備された流れになっています。

1917 – 『毒草』(井上正夫監督、小林商会) 絵葉書4点

1917 « Doku-sô » (Poison Grass, dir/Inoue Masao)
Original Promotional Postcards

1)毒草劇 井上正夫のお源

 果して母親は眞赤になつた焼火箸を焚火の中から取出すと、思ひ知れとばかり、まづお品の半身像にじウとそれを突刺した上、今度は更に二人立の寫眞の方にも突刺すのだ、さうして滅茶々々にお品の顔を潰したうえ、にたりと會心の物凄い笑を漏らした。(『毒草 お品の巻』菊池幽芳、至誠堂書店、大正5年、「寫眞」)

2)毒草劇 木下藤吉郎のお品 藤野秀夫の土手の福 葛城文子のお仙 栗島狭衣の吉蔵

 彼の髪は蓬々と伸びて額や肩に亂れかゝり、口髭も頤髭も延びるに任した様子から、頬骨の突出て居るところから、眉の太く濃いところから、一寸アイヌの容貌を思ひ出させるところがあつた。着物は木綿の布子を着て居るのが見る影もなくぼろぼろになり、ところどころ垢ずれで光つて居るのに三尺帯を巻つけ、尻からげもせず、だらしなく着流して、足は素跣足のまゝである。腰には巾着のやうなものやら煙草入やらに、小猿の髑髏を二つ括つて居るのが異樣の音を立てゝ、足拍子を取つて踊るたびにちやらちやらとなり、こつこつと響いた。

 土手の福がさも愉快さうに踊つて來る跡から、界隈の子供等がぞろぞろと囃し立てゝついて來た。(『毒草 お品の巻』「土手の福」の章)

3)毒草劇 栗島狭衣の吉蔵 井上正夫のお源

 お源の手からバツタリ槌が落ちて、お源はよろよろと熊笹の中に尻餅を搗いた。

 「お母さん、お前、鬼になつたゞか。これ誰の形代だ。」

 母親は云知れぬ慙愧と憤怒のために、わなわなと顫へながら、吉蔵の顔を見上げて、續けさまに太い溜息を漏らした。

 吉蔵は母親を押へた腕を放すと、その猿臂を差延べて、力任せに藁人形をもぎ取り、

 「お母さん、お前はお品を祈り殺さうとするだな。お前、何でそんなにお品が憎いだ。」(『毒草 お品の巻』「三本杉」の章)

4)毒草劇 翠紅園納屋の慘劇

 いつも其卓子(テーブル)の上には煙草盆と燐寸が置いてあるので、その燐寸を探さうとしたのだ。……と燐寸と一緒に鐵の五本爪のついた除草器が觸つた。お源の頭に突然何ものかゞが閃いたらしく、その除草器を燐寸と共に取上げると、屹と中腰になつて納屋の方角を覗いた。しよんぼりと納屋の方に進んで行くお品の輪郭が闇の中に黑く見透された。(『毒草 お品の巻』菊池幽芳、至誠堂書店、大正5年、「兇行」の章)


三月浅草及び市中の各館各座は一斉に同じ毒草劇を上場して東京ツ子をあつと云はせた。(『キネマ・レコード』1917年)

日活、天活、小林の三會社で『毒草』劇を競争的に發表したことがある。この三つの作品を比較すると、各會社の技倆の程度を畧ぼ測定することが出來るのであつて、何れも各自の特色を發揮し、可なりの熱心さが認められた中にも、小林の作品は井上の扮装と、光線の巧みな應用とによつて、一際勝れてゐたといふことである。勿論日活にしてもその頃は著しき進境を示し、『毒草』を數年前の作品に比較すると、確かに凡ての點において進んで來た。(『欧米及日本の映画史』石巻良夫著、プラトン社、1925年)


『己が罪』で知られる大衆通俗作家・菊池幽芳氏が大正5年(1916年)に大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載していたのが『毒草』でした、地方を舞台とした猟奇的な物語が評判を呼び、連載終了後すぐに舞台化、映画化が進みます。映画版は小林商会、天活、日活向島の三社競作。井上正夫氏が監督した小林商会版の販促に使用された絵葉書です。

物語は病弱で内向的な娘・お品(木下藤吉郎)が、亡き父の知人を頼り、その息子・吉蔵(栗島狭衣)の営む草木店の手伝いとして働き始めたことで幕を開けます。足が悪く閉鎖的な吉蔵は当初はお品を邪険に扱うのですが、花好きで素直な心にやがて惹かれるようになっていきます。また吉蔵の妹で、人嫌いで閉じこもりがちなお仙(葛城文子)も次第にお品へと心を開いていきます。夫婦の約束を交わした吉蔵とお品ですが、この二人の幸せを憎しみの目で見ていたのが吉蔵の母・お源(井上正夫)であった…と続いていきます。

小林商会版は邦画に女優の登場した最初期の例として知られています。「映画女優」の概念が確立されたのは1919年『深山の乙女』でしたが、そこまでに試行錯誤があって女形・女優共存の本作もその流れに位置づけられます。お仙役の葛城文子さんはこの後『七つの海』(清水宏)、『隣の八重ちゃん』(島津保次郎)、『戸田家の兄妹』(小津安二郎)等に母親役として登場、初期邦画界を底上げしていきました。放浪者・土手の福は後の好々爺俳優・藤野秀夫氏で、吉蔵役と脚本で栗島すみ子の父・狭衣氏が絡むなどその他の配役も魅力的です。

[JMDb]
毒草

[IMDb]
Dokuso

[公開年]
1917年

[原作]
『毒草 お品乃巻』(国立国会図書館デジタル版)

藤田陽子 (1919 – 1938?)

「日本 [Japan]」より

Fujita Yoko & Takao Mitsuko 1920s Autographed Postcard


大正八年七月麻布區霞町元明治座の事務員藤田昌宏の次女に生る、大正十三年二月、姉藤田房子と共に松竹蒲田スタヂオに入る。古參役者として可愛がられ人氣がある。初舞臺は柳咲子の『猫』で鳴門のお鶴に扮して転載を認められ、引續き諸口、川田主演の『夜の一幕』にて無邪氣な姿でフアンの注目を惹く。『懐しの蒲田』『母よ戀し』『曲馬團の姉妹』にて愈々好評。好きなものは踊と三味線と甘栗。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


1920年代に人気のあった子役二人、藤田陽子&高尾光子さんの連名サイン。両者の共演は『少女の悩み』(蔦見丈夫監督、1924年)『母よ恋し』(五所平之助監督、1926年)、『九官鳥』(野村芳亭監督、1927年)の3作があります。

[JMDb]
藤田陽子

[IMDb]
Yôko Fujita

[出身地]
日本(東京・麻布)

[サイズ]
13.6 × 8.9 cm