浦辺 粂子(1902 – 1989)

「日本 [Japan]」より


本名濱田粂子、明治三十四年十月伊豆下田に生る。嘗て歌劇俳優として金龍館や樂天地に出演、後小松商會を経て大正十二年日活に入社し一躍性格俳優としてフアンに認められスターとなる。處女出演は『乙女の心』主演は『清作の妻』『お澄と母』『金色夜叉』があり、最近の『シベリアお龍』で物凄いところを見せめきめき人氣を高めてゐる。現住所京都市上京區北野白梅町衣笠園三四三。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


「技藝部長、山本嘉一さん」ある撮影監督から恁う言つて紹介された人を、「おゝ、この方が」と私はその落附きと澁さとに、何處か英吉利好みの上品なモーニングの紳士を、熟々と見上げました。酒井米子さんは、私たちの手を執つて、「ほんとうに京都へ來て、すつかり落附ましたわ。どうか、これからは御一緒にねえ」と、沁々として言ふのでございました。私は此の気品高い落人の胸を察して、ほろりとして了ひました。恁うして、向島から四人の監督と、五十餘名の技藝員と、技師、舞臺装置の就業員一百餘名を新しく迎へた私たちのスタヂオは、恰度春の太陽に恵まれた大地のやうに、若さと元氣に賑ひ始めたのでございました。

『映画女優の半生』(浦辺粂子著、1925年、東京演藝通信社)


もう六七年も前、「淸作の妻」等に出演して當時の人気スターであつた浦邊粂子は今は上野製作所主人との結婚に破れて、撮影所に歸り、某カメラマンと新しい生活に入つてゐるが、彼女上野家へ玉のコシに乗った時、當時たゞれた愛慾の世界にタンデキしてゐた彼女だったので、生れ變るのだと、大きな感激のもとに、その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女びいきのフアンを歎かわしく思はせた。

「映畫界エロ双紙」(小倉浩一郎、『デカメロン』1931年9月号所収、風俗資料刊行會)


[JMDb]
浦辺粂子

[IMDb]
Kumeko Urabe

[出身地]
日本(静岡)

[誕生日]
10月5日

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

1917 – スーパー 8 『チャップリンの勇敢』(大沢商会/東宝/東和版、1970年代中頃)

« Easy Street » (1970s Super8 Ôsawa Shokai version, based on Towa B Negative)

チャップリン短編の8ミリ版は幾種類かあり、中でも大沢商会から発売されていたこのシリーズは比較的よく知られています。

元々は東和株式会社(現・東宝東和)の創業45周年を記念した「ビバ!チャップリン」という企画の一環で発売されたものです。東和商事合資会社としての創業は1928年にさかのぼりますのでフィルムの発売は1973年頃となるようです。「ビバ!チャップリン」は第一弾に『冒険』『拳闘』『移民』『勇敢』『消防夫』の5作を発売、その後ジャケットを変えて第二弾の『誘拐船』『大番頭』『活動屋』の3作が発表されています。

今回はその中から『勇敢(Easy Street)』の紹介です。ミューチャル社から公開された1917年作品で、チャップリンとヒロイン役のエドナ・パービアンス、悪漢役のエリック・キャンベルの絶妙なバランス感覚を楽しめる一作。

プリントは輸出用ネガ(Bネガ)ベース。戦後の比較的新しいプリントのため傷なども少なく、劣化も見られない良いコンディションでした。サンプル画像はHQカメラに差し替えた綺乃九五式でスキャンしたものです。

現在フリッカーアレイから発売されているブルーレイ盤ストリーミング版の最新修復バージョンは基本Aネガを元にしています。AネガとBネガのアングルの違いを幾つか確認しておきます。

「オルガンを弾くエドナ」の場面で見てみるとAネガは右側のカメラから撮られており、座ってうたた寝している男性がエドナに隠れるアングルになっています。一方のBネガは左側のカメラから撮られていて、男性の姿がエドナの背後に見える角度になっています。

また同じBネガ由来でも東和版とパテ版を比べると、前者は左端をやや大きくトリミングしてエドナを中央に配している(結果として左端の女性が半分で見切れている)のに対して、パテ版は左端の女性が切れないよう右端を広めにトリミングしていて、その代りエドナが中央を外れて右に寄った構図になっています。

「チャップリンのバストショット」「エリック・キャンベルとの乱闘場面」も同様でAネガは右側のカメラで、Bネガは左側に置かれたカメラで撮影されています。キャンベルの背中にチャップリンが飛び乗る後者の場面は良く知られていますが、被写体と背景の位置関係がAネガとBネガで微かに違っており別カメラだと分かるのです。

唯一の例外は「エリック・キャンベルのクローズアップ」。トリミング幅は異なっているも両者は同じネガを元にしています。東和が持ちこんだネガにAネガ由来のプリントが紛れこんでいたのか、ブルーレイ用に修復した際にあえてBネガを選択したか(現存フィルムのコンディションに応じてブルーレイ版も一部Bネガを使用しているそうです)は不明。

先日紹介した仏コダック16ミリ版ともつながってくる話で、物語あるいは世界観で言うとAネガもBネガも同じ『勇敢』なのです。でもフィルム視点で見ると別作品なんですよね。近年のデジタル修復作業が画質重視でAネガとBネガを混ぜてしまっている状況は少し怖いな、とは思います。

[原題]
Easy Street

[公開年]
1917年

[IMDb]
Easy Street

[メーカー]
大沢商会/東宝/東和

[フォーマット]
Super8、600フィート、30分(24fps)、白黒、光学録音(サウンドテープ付)、定価12,800円

1930年頃 – 16mm『チャップリンのスケート』抜粋 +『チャップリンの伯爵』抜粋 仏パテ・コダック社プリント

「16ミリ 劇映画」より

c1930 – 16mm « Charlot Bout en Train » & « Charlot en Soirée » (French Kodak Print, Ciné « Kogagraph »)

1927年にジョルジュ・イーストマンとシャルル・パテの合意を元に仏「パテ・コダック社」が設立されます。コダック製のカメラや映写機の輸入は同社を介して行われるようになりました。

エクセルシオール紙1928年5月24日付掲載の広告より

1928年の仏パテ・コダック社の広告。右下を見るとチャップリン作品も引き合いに出しつつ16ミリフィルムのレンタルサービスとして「コダスコープ(Kodascope)」が紹介されており、その下に市販用16ミリフィルムのブランドとして「コダグラフ(Kodagraphs)」の名称が使用されています。

仏パテ・コダック社が実際に市販していたのがこのような外箱入りのフィルムでした。右下に「フランス製(Fabriqué en France)と印刷され、フィルム本体のパーフォレーション部分にも「仏コダック」の文字があります。

ブザンソン市の写真店フォト・コステ社のラベルが貼ってあり、薄くなったタイプライターの印字は「Charlot Bout en Train/Charlot en Soirée」となっています。改題されているもののそれぞれ『チャップリンのスケート』と『チャップリンの伯爵』の有名な場面を100フィートずつ抜粋したものです。フォト・コステ社が16ミリのレンタル用に2本のフィルムを繋ぎあわせたと考えられます。

『スケート』『伯爵』両作品ともチャップリンがミューチャル社と契約していた時期の短編です。同社は配給時に米国内用ネガ(Aネガ)、輸出用ネガ(Bネガ)二種類を用意していたことで知られています。フランスで市販されていたこのフィルムはどちらを元にしたものでしょうか。

他のフィルムと照らしあわせてみたところ個人的な予想と裏腹にAネガを元にしていました。親会社のコダックが合衆国拠点だったため、という話なのでしょうね。一方で同時期にフランスで市販されていたパテ社9.5ミリ版『伯爵』はBネガ由来でした。

同じ国で同時期に同名チャップリン作品が売られていても実はネガは違っていた(=厳密に言えば同一作品ではなかった)という興味深い結論がでてきます。

2013 -『アルデンヌ⁼ワロン誌増刊 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』(ポワント・デ・ギヴェと周辺地域地方史研究会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

2013 - Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 - 1913

ヴィクトラン・ジャッセ監督の死後百年となる2013年、同氏の生家があるアルデンヌ地方の地方誌が特集号を出しました。

序文が置かれた後、第1章)劇場に雇われていた青年時代からニック・カーター連作で映画監督として名を上げるまで、第2章)ニック・カーターから『ジゴマ』、第3章)遺作『プロテア』を含む晩年作品と展開していき、最後に「付録」として本作でも全訳を掲載したジャッセの論考『活動寫眞監督術考』が収められています。

ヴィクトラン・ジャッセがフュメ(Fumay)で過ごした幼少時や青年期の情報はほとんど知られていない。

冒頭の断り書きにあるようにジャッセ監督については若い頃の情報がほとんど伝わっておりません。それでも父親がイゼール県出身の大工さんで鉄道の敷設工事に関わっていたこと、母親は再婚でジャッセにとって義兄にあたる人物がいた話が触れられています。序文ではこの義兄の家に残されていた親族写真が掲載されていました。数少ないプライベート写真と思われます。

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第1章ではエクレール社の映画監督として名を上げるまでの話が触れられています。断定されてはいないものの現在でもパリのナシオン広場に置かれている「共和国の勝利像」作者である彫刻家エティエンヌ・ジュール・ダルーの弟子だった可能性があるそうです。世紀が変わって1900年代冒頭となりイポドローム劇場に雇われます。舞台背景のデザインやポスター制作を担当していたそうで、雑誌にはジャッセのデザインしたイベント告知用ポスターが掲載されていました。

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この後初期映画界と接点が生まれ、アリス・ギィ・ブランシュのアシスタントを経て自身が監督として生計を立てるようになっていきます。ニック・カーター物でヒットを飛ばし、ジゴマで一世を風靡、その後社会派作品や怪異色にも展開しつつ『プロテア』を遺作として1913年に病没。とりたてて新しい情報はないものの『ジゴマ』封切時に映画館前に貼り出されていたポスター、『ニック・カーター』演出中のバックヤード・ショット、『プロテア』主人公役のジョゼット・アンドリオの全身ポートレートなど貴重な写真が含まれていました。

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ジゴマ公開中の映画観の様子

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ジョゼット・アンドリオ

地元の歴史愛好家たちによる「自分たちの町からこんな凄い監督が生まれたんだよ」の思いがこめられた一冊。地方紙の増刊号ですのでフランス全土に流通しているものではありません。

とはいえジャッセ監督についての単独の著作物は1975年の『ジャッセ』が唯一で、本作は35年ぶりにその記録を変えたことにもなります。本誌が映画史視点ではなく、地方史の観点から出版されたのはある意味示唆に富むものです。

例えばジャッセの後継者となったフイヤード監督は当初パリを中心に活動しつつ、中期以降は出身地の南仏(ニース)に戻り地方色・郷土色を強めた作品を発表するようになっていきました。首都一極の世界観に逆らう感覚は「郷土色重視 (régionalisme)」とも呼ばれ、映画のみならず文芸・アート一般で重要な意味を持ってくるものです。

ジャッセ作品にはフイヤードほど直接に反=パリ指向を打ち出した形跡はありませんが、地方の労働者の子として生まれ育った記憶・経験が何らかの形で反映されている可能性は高く『活動寫眞監督術考』などと照らしあわせながら視点を掘り下げていくことはできると考えています。

[原題]
Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 – 1913

[出版者]
Revue Ardenne Wallonne

[出版年]
2013

[フォーマット]
ソフトカバー、32ページ、29.5 × 21.0 cm

1924 – 榎本書店の活動文庫

1921〜22年にキネマ文庫(A6:14.8×10.5㎝)を扱った後、榎本書店は「活動文庫」という豆本サイズ(A7:10.5×7.4㎝)の薄い説明本を公刊していました。今回4冊をまとめて入手。いずれも大正13年(1924年)8月15日に出版された初版です。ページ数は32で文章は吉田絶景氏。

『キッド』The Kid、1921年、チャールズ・チャップリン監督)

『血と砂』Blood and Sand、1922年、フレッド・ニブロ監督、ルドルフ・ヴァレンチノ主演)

『十八日間世界一周』Around the World in Eighteen Days、1923年、ウィリアム・デズモンド主演)

『ハリケンハッチ』Hurricane Hutch、1921年、ジョージ・B・サイツ監督)

日本で公開された洋画のシナリオを翻訳したキネマ文庫は、いささか毛色の変わった文庫本である。定かではないが、外国映画関係の文庫本としてはこれが濫觴となるのではないだろうか。

一九二〇年(大正九年)に三つの新しい映画会社が誕生したのだが、そのなかの一社である大正活映ではアメリカ映画を輸入配給していた。この時代に日本で輸入・公開されたアメリカ映画のシナリオを翻訳したものが、キネマ文庫である。手元にあるのは一九二四年(大正十三年)一月十日発行の『ブライド13』第七版(初版一九二一年十月二十日発行)と、一九二三年四月十日発行の『白馬の騎手』(初版一九二二年二月十日発行)の二冊。意外に版を重ねているのだが、装丁は紙装で、表紙も本文もほとんど藁半紙に近い粗末な紙質である。扉の次に二枚の口絵があり、次に映画の便概、主要人物及び俳優名、目次、本文と続く。

『文庫博覧会』(奥村敏明、青弓社、1999年)

キネマ文庫以前にも映画関連の「文庫」や「叢書」はありましたし、「シナリオを翻訳」というのは少し違う気がします。それでも1990年代に榎本書店に言及していた点で重要な一文かな、と思います。

最近では2015年には東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)で「シネマブックの秘かな愉しみ」が開催され、本地陽彦氏の旧蔵本である貴重なジゴマ本や、榎本書店が1910年代に出版していた連続活劇物『名金』『拳骨』が展示されていました。

また2013年に早稲田大の『リテラシー史研究』第6号で発表された論文(「映画と小説の異種混交メディア:大正期映画物語本」)を確認するも学術論文は他になさそうでした。SP盤による音声劇を含めた大正期ミックスメディアの全貌は未だ深い闇に包まれています。

マルコ・ド・ガスティーヌ、昭和2年(1927年)の直筆書簡 Marco de Gastyne (1889 – 1982) 仏

「『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』[La Merveilleuse vie de Jeanne D’Arc, 1929]」より

貴殿の手紙を此の地にて受け取ました。仕事の都合でまだ2、3週間程足止めの予定です。巴里に戻り次第電話にてご連絡させていただきますので、待ち合わせの日取りを決めつつ面白そうな話でも出来たらと思っています。ご不在やむなきようであれば次に巴里に来られる予定日を教えていただければ調整させていただきます。

親愛なる
マルコ・ド・ガスティーヌ

Cher ami,
Votre lettre m’atteint ici, où mon travail me retiendra encore une ou deux semaines. Aussitôt que je serai à Paris, je vous appellerai au téléphone, pour que nous prenions rendez-vous et que nous parlions de ce qui vous intéresse. Si vous devriez alors être absent, avertissez-moi de votre prochain passage à Paris, et espérons que nous pourrons nous atteindre.
Croyez-moi, cher ami, bien sincèrement votre,

Marco de Gastyne

マルコ・ド・ガスティーヌ監督が作家ポール・ブラック(Paul Brach、1893-1939)に送った手紙。1927年8月18日付、仏メッツ市のレジーナ・ホテル専用便箋を使用しています。

◇◇◇

映画監督として知名度を上げる以前、1910年代のガスティーヌは画家として成功を収めていました。

昨日午後、芸術アカデミーは芸術学校に於いて会合を開き画家を対象としたローマ賞選考を行った。栄誉に浴したのは以下の者である。
ローマ賞グランプリ:コルモン氏に師事したド・ガスティーヌ。[…]
マルコ・ド・ガスティーヌ氏は1889年生まれ。前回の仏芸術サロンで第3位となり、1909年度の芸術学校のデッサン部門で優勝、今年度は人物画の部門で準優勝を果たしている。

『十九世紀』紙1911年7月24日付

L’Académie des beaux-arts s’est réunie hier après-midi, à l’Ecole des beaux-arts pour le jugement du concours du prix de Rome (peinture). Elle a décerné les récompenses suivantes:
Grand prix de Rome, M. de Gastyne, élève de M. Cormon […].
M. Marco de Gastyne est né en 1889; il a obtenu une troisième médaille au dernier Salon des Artistes français; et à l’Ecole des beaux-arts, la grande médiaille d’esquisse en 1909, et cette année, une 2e médaille de figure (expression).

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『十九世紀』紙1911年7月24日付

人物画、風景画どちらも得意としており特に北アフリカの景色を好んで描いています。大戦中には雑誌の表紙や書籍挿画を手掛けるようになり、終戦後に絵筆を置いて映画界に参入。当時力をつけていた映画プロデューサー、ルイ・ナルパの制作した千夜一夜風奇譚『戀のスルタン』(1919年)のデザイン担当でした。

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『戀のスルタン』(1919年)より

何よりアルジェリア。南アルジェリアとサハラアトラス山脈。人生で一番贅沢な時間を過ごした場所で沢山の思い出があります。大地や地元民の荒々しさ、豊かな蜃気楼、ありとあらゆるものが前代未聞のレベルなんです。

(ラ・ラペル紙1927年6月3日付「マルコ・ド・ガスティーヌ」インタビュー)

Mais surtout l’Algérie. L’Algérie du Sud, l’Atlas saharien. C’est là que j’ai passé les heures les plus copieuses de ma vie, celles qui ont fécondé mes souvenirs. Cette région-là est inouïe, par la rudesse de son sol et de ses habitants, par sa richesse en mirages, par toutes sortes de choses.

(La Rappel, 3 juin 1927, Intimité: Marco de Gastyne)

このインタビューを読むと『戀のスルタン』に絡んだのは必然だったのかな、の気がします。自身が監督を手掛けた初期作品(1922年『インシャラー』、1923年『南の地平』、1926年『レバノンの女城主』)も同様で、何らかの形でアラブ世界と接点を持っていました。

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『レバノンの女城主』(1926年)。GPアーカイヴ(旧ゴーモン・パテ・アーカイヴ)所蔵プリント

『レバノンの女城主』からは大手パテ・ナタン社に拠点を移します。映像美、海外ロケの経験値、監督としての人望と将来性などを買われ『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』監督に抜擢。オルレアンの戦闘ではロシア流の速いモンタージュ術を組みこんだ圧倒的な表現を展開していました。

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『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』(1929年)より

30年代となり波止場のサーカスを舞台とした人情劇『麗しき悪女』(Une belle garce、1930年)、アラスカを舞台にした西部劇『彷徨える獣』(La Bête errante、1931年)でトーキーに挑戦。それまでのアフリカ指向とは大きく趣を変えているものの、エキゾチックな異世界への憧憬という点で初期作品の延長と見る事ができます。

1930年代半ば短編ドキュメンタリー監督に転向し1960年代まで撮り続けました。現在の映画史上の扱いは不当なまでに低いものの、『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』『麗しき悪女』『彷徨える獣』の3作品が9.5ミリ形式で市販されていたのは同時代の評価が高かった証です。

[IMDb]
Marco de Gastyne

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月15日

1930 – 9.5mm『麗しき悪女』(Une belle garce、マルコ・ド・ガスティーヌ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』に次いで製作されたガスティーヌ監督初のトーキー作品。英9.5ミリ版は無声で英語字幕入り。

舞台は波止場で営業を続けている小さなサーカス一座。猛獣使いのラバス(ガブリエル・ガブリオ)は妻子ある立場にも関わらず新入りの娘ロゼッタ(ジーナ・マネス)に惚れ上げてしまいます。ところが女はラバスの息子レオに色目を使い、ラバスの心は乱れるばかり。ある日のショーで、ロゼッタに良い所を見せようとライオン二頭を相手に無理な芸を披露したところ…と続いていきます。

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曲芸団を舞台にした不貞と愛憎のドラマとしては1925年のドイツ作品『ヴァリエテ』が有名です。『ヴァリエテ』が生々しい欲望を劇的に描き上げていたのと比べると『麗しき悪女』はウエットなメロドラマ感が強く出ています。また幾つかのサイドストーリーが展開されていて、そちらに監督の趣味性が色濃く反映されています。

1)野生動物への愛着:

ガスティーヌは1932年にはパテ社を離れ短編ドキュメンタリーを撮り始めます。この時に多く主題とされていたのがアフリカの野生動物でした。『麗しき悪女』に登場するサーカス一座の猿やライオンはこういった監督の個人的な好みを反映したものです。

2)映像デザインとしての照明

画家として名を上げ、デザイナーとして映画業界に関わりはじめたガスティーヌにとってセットやコスチュームのデザインは大きな意味を持っています。『麗しき悪女』は照明を上手く使った構図が幾つか見られました。

サーカス一座の踊り子がダンスを披露する場面や、猛獣使いがライオンと対峙する場面では照明が画面上でキラキラする効果を強調しています。

3)女優の選択

中年男の心を狂わせる「美麗な悪女」を演じたのは演技派ジーナ・マネス。ガスティーヌ旧作で主役を張ってきた女優は古風なタイプが多いのですが、本作には自由奔放で気の強い新時代の女優を抜擢、フェミニズム的な流れを多分に意識した配役でもあります。

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一方で踊り子としてシモーヌ・ジュヌヴォワも出演。彼女自身がこの時期の書簡で「モダンな女性を演じたい」と語っていて、ガスティーヌが願いを叶えてあげた形になっています。上の写真で二人並んで踊っている右側がジュヌヴォワです。

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以前に『恋山彦』の投稿で触れたように無声映画からトーキーへの移行期はカメラの移動が重くなり今見るとぎこちない印象を与える作品が多かったりします。『麗しき悪女』にもその欠点は見られ、トーキー肯定派と否定派が激論を交わしていた1930年のフランスで賛否両論を引き起こしていました。正直どちらの言い分も分かるのですがそれでもガスティーヌ監督の個性やセンスは随所に見て取れると思います。

[タイトル]
Jealousy in the Circus

[原題]
Une belle garce

[公開年]
1930年

[IMDB]
Une belle garce

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB846

[9.5ミリ版発売年]
1937年5月発売

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無

1923 – 9.5mm サンドラ・ミロワノフ主演『聖女ベアトリクス伝説』 (ジャック・ド・バロンセリ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix

映画を倫理教育に活用していこうとする発想は古く、欧米では早くから宗教的テーマを扱った作品が製作されていました。1920年代フランスでも例えば『聖テレーズ伝説』(La vie miraculeuse de Thérèse Martin、1929)やルルドの奇跡譚を扱った『聖ベルナデット伝説』(La vie merveilleuse de Bernadette、1929)が公開されています。

今回紹介する『聖女ベアトリクス伝説』も同様の傾向を持つ作品ですが、サンドラ・ミロワノフやエリック・バークレー、シュザンヌ・ビアンケッティら有名な俳優を配することでより広い客層をターゲットに入れています。

時は13世紀、若い修道女が幼馴染の領主と再会、恋愛感情から修道院を脱走。世俗の幸福を手に入れるもやがて現実(夫の不貞、子供の病死、貧困)に打ちのめされ、無一文で修道院に戻った所…と続いていくのがメインストーリーです。シャルル・ノディエの短編を下敷きにしていますがキリスト教社会では古くから知られた伝承です。

1910年代にはドイツのマックス・ラインハルトがマリア・カルミ主演で舞台化し、後に同女優の主演で映画化(『奇蹟』)されてもいます。『奇蹟』と『聖女ベアトリクス伝説』 は対照的な作品で、前者が視覚的な訴えかけを重視しているのに対し、後者は伝説の流れを丁寧に追おうとしています。

以前に『氷島の漁夫』でも触れたようにバロンセリ作品は個々の構図を見ると勝れているのに映画としては冗長に流れる欠点があります。好みの問題と言えなくもなく、一続きのストーリー感のある聖女伝としてはこちらの方が分かりやすいかもしれません。

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix
Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix (1923, Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathé Version

[タイトル]
La Légende de soeur Béatrix

[公開年]
1923年

[IMDB]
La Légende de soeur Béatrix

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
986

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 20m×4巻 ノッチ有

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

1939-sandra-milowanoff-handwritten-lettr-01
1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その一)『野に叫ぶもの』(松竹、島津保次郎監督)

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悌二(ていじ:鈴木伝明「あの海岸を埋立てられたら漁家二千人の生活はどうなると思ふ」
健(たけし:高田稔)「知らん」
悌二「二千人の人間を殺してまで君は金を儲けたいのか」
健「儲けたい」
悌二は云ふことを知らなかつた。そして呆れたやうに見つめた。
健「世の中は力だよ、強いものが勝つて弱いものが負けるのは當り前のことだよ」
悌二は福原のこの變つた樣に涙ぐましく健を見て淋しく微笑した。

かつて大学野球で同じチームに属し共に戦った北條悌二(鈴木伝明)と福原健(高田稔)。二人の父親もまたビジネスでのやりとりがあったが北條銀行の破産の余波を受け無一文となった福原健の父親(藤野秀夫)が自殺。不況の世界をどう乗り切っていくのか、意見の大きく分かれた親友は決別した。

二人が再開したのは6年後だった。弁護士となった悌二は弱い人々のために戦っていた。海岸の埋立計画で漁師たちが困っていると聞きその助けに乗り出したが、埋立賛成派として資金援助したのがかつての旧友の健であった…

佐藤紅緑の同名長編小説を元にした前後編仕立ての松竹現代劇。初期はスポーツ俳優として鳴らした鈴木伝明を上手く生かす大学野球のやりとりに始まり、中盤以降は傾向映画色を強めていきます。高田稔の妹に澤蘭子、鈴木伝明の妹に及川道子を配し、藤野秀夫や岩田祐吉、鈴木歌子のベテラン勢が物語を支えています。

淺草に拠点を置いていた「大島印刷株式会社」が手掛けた活動文庫の一冊。大きさはB7(13×9センチ)でページ数は16。以前に紹介した瀧本時代堂の説明本に似ていますが一回り小さいです。

[JMDb]
野に叫ぶもの 青春篇
野に叫ぶもの 争闘篇

[IMDb]
Noni sakebu mono seishunhen
Noni sakebu mono sotohen

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1927年 齣フィルム 『尊王攘夷』50枚 (日活オールスター特作、池田富保監督)

「池田富保 関連コレクション」より

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『尊王攘夷』はVHS〜DVDのソフト化がされており池田富保作品では比較的アクセスしやすい一つです。前半1/3程は江戸城の井伊直弼(大河内伝次郎)を中心に物語が進み、中盤は視点が切り替わり水戸藩士(尾上多見太郎、谷崎十郎、新妻四郎)の動きが追われ、最後に両者が絡みあい桜田門外の場面に収斂していきます。

駄菓子屋でくじ引きとして扱われていた「齣フィルム」を入手したのは今回が3度目ですが、手元に実際の動画データがあるパターンは初めてです。比べてみると色々興味深い発見がありました。

齣フィルム50枚の内訳は下の形になっています。

1)マーク入り:7枚(大河内版4枚、新妻版3枚)

2) 江戸城下での大河内伝次郎:10枚

3) 江戸城下での市川百之助、大河内伝次郎、川上弥生らを収めたロングショット:5枚
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4)井伊直弼との談判にやってきた尾張大納言慶勝(谷幹一)、一橋大納言慶喜(桂武男)らを収めたグループショット:2枚
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5)新妻四郎:5枚

6)大河内伝次郎と中村英雄:2枚
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7)脱藩水戸藩士と幕府からの命を伝える一団との衝突場面:4枚

8)水戸斉昭(山本嘉一):2枚
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9)廓での新妻四郎、桜木梅子、徳川良子:6枚
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10)廓での新妻四郎と酒井米子:2枚

11)廓での谷崎十郎と酒井米子:2枚

12)有村治左衛門(尾上多見太郎):3枚

雑誌を切り貼りして作った小袋には、中身が見えないようフィルムが小さな紙に包まれて入っています。この紙自体が作品の宣材になっていました。

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下の画像は井伊直弼(大河内)に蟄居を命じられた水戸斉昭(山本嘉一)が一旦穏やかに話を受けつつ、表情を変え凄みを見せる場面です。作品版と比較したところ背後のふすまの角度から別カメラ(スチル撮影用でしょうか)によるショットだと分かりました。厳密に言うと照明も変わっていて齣フィルムは天上背後からのライティングがありません。

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他の齣フィルムも同様で、対応する場面があっても人の並びが微妙に違ったり目線の向きが違ったりしており、撮影しているカメラ位置も変わっています。50枚全てをチェックした結果、実写用フィルムと完全一致する画像は一枚もありませんでした。

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映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売したりして、大正期を中心に一大ブームとなった。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

実写用のポジから切り出された齣フィルムも現存しておりますが、「丸愛」印のくじはそういう経緯で発生したものではなく映画会社から提供のあったスチル写真用ネガを元にしたと考えることが出来ます。「齣フィルム風の何か」だった、という訳です、

ちなみにフィルム収納の小袋に転用されていた雑誌は1927年の『映画時代』でした。マキノ省三による論考「續減資の一途」、澤田正二郎と菊池寛らの鼎談に加え日活女優の座談会「日活花形女優懇談會」が掲載されていました。

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座談会に登場していたのが澤村春子、櫻木梅子、徳川良子、夏川静江に岡田嘉子。最初の3名は『尊王攘夷』にも登場。リアルタイムならではのシンクロぶりです。

[JMDb]
建国史 尊王攘夷

[IMDb]
Son’nô jôi

1918 – 『演劇生活』誌 28号〜39号(7~9月) 合本 « Színházi Élet »

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1910年に創刊されたハンガリーの演劇週刊誌。18年夏〜秋の12冊を合本にして愛蔵版としたもの。グラビア、新作劇の紹介・講評、劇中歌の楽譜や諸々のエッセイ、広告を含んだ内容です。1冊の紙数は52ページで12冊だと600頁になります。

第一次大戦の負け戦がほぼ確定となっていて、オーストリアのハプスブルグ家から独立し共和国となる(1918年11月)直前、国として大きな岐路に立っていた時期に当たります。エンタメ誌ですので政治の話はされていませんが、ハンガリー俳優がハンガリー語で演じた劇を扱った雑誌が売れるようになった状況そのものが文化アイデンティティの自覚とつながっていたのでしょう。

終戦後、国内に平和が戻ってくるとハンガリー演劇はさらなる盛り上がりを見せ、アイドル的な雰囲気を漂わせた若手も目立つようになってきます。今回入手した雑誌はその直前でガチの演劇人が多く登場してくる印象があります。

またこの時期にハンガリーでも映画産業が拡大しておりグラビアや特集で登場してくる役者たちも多かれ少なかれ映画と接点を持っていました。手元の合本でも幾つかの記事で映画作品や映画会社が取りあげられています。20年代には舞台と映画の棲み分けがはっきりしてくるので過渡期的な状況と見ることもできます。

◇◇◇

ハンガリー初期映画に関わる記事や写真を幾つかピックアップしてみます。

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35号ではマイケル・カーティス監督の初期作『99』が取りあげられています。後にハリウッドに渡って初代ドラキュラとなるベラ・ルゴシの初期作品でもあります。ヒロイン役はクレール・ロットー

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次いで37号でデエーシ・アルフレード(Deésy Alfréd)監督の『アフロディーテ』の紹介記事と『カサノヴァ』のスチル写真が掲載されていました。前者のヒロインはホッライ・カミッラでした。

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38号にはアレクサンダー・コルダ監督の初期作『森の精』。ヒロインにレンケッフィ・イツァを配しています。

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39号にはアストラ映画社の紹介記事。ちなみに『99』はフェニックス映画社、『アフロディーテ』がスター映画社、『森の精』がコルヴィン映画社で、この辺が1910年代末に認知度を増してきている様子が伝わってくるものです。

フェダーク・シャーリラーバシュ・ユーツィが表紙を飾っている他、先日スペイン風邪流行との絡みで触れたバンキー・ユディットのグラビアやセントジョールジー・マールタ訃報を見つけました。

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現在のハンガリーはユーロ圏には属さず文化・政治面で独自路線を取っています。市場も閉じた感じで現地の物を日本に輸入するのは難しいです。今回和歌山を拠点にハンガリー製品の輸入販売を行っているコツカマチカ(Kockamacska)さんに輸入の代行を依頼、コロナ禍に伴う配送難と重なりながらも無事届けていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。

ファニー・ワード Fannie Ward/Fanny Ward (1872 – 1952)

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

ファニー・ワード1927年の直筆サイン入り絵葉書
Fannie Ward 1927 Autographed Postcard

嬢をして今日の人氣を博せしめた作品は、一千九百十四年に、早川雪洲氏やヂャック・ディーン氏などと一座して撮影した日本劇「チート」である。この映畫を製作して以来、嬢は米国映畫界の首腦女優となつた。

爾来、「テネッシーの赦罪者」「國防の爲めに」などを撮影して、益々名聲を昂めたが、昨年の始めに、パセ會社のエストラ映畫の專属女優となつた。

目下は、ラスキー會社の初舞臺當時に戀に落ちたヂャック・ディーン氏と結婚して、幸福な樂しい生活を送って居る。

當年四十四であるけれども、尚未だ二八の少女のやうに、若々しい容貌と豊かな肉體とを持つてゐる。嬢が斯界に喧傳される所以も一つには、この絢爛たる名花の趣を備へて居る爲めである。しかし、技藝そのものから云つても、嬢は優に大花形の中に加へられるだけの天分を持つて居る。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

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『チート』でのファニー・ワード

1910年代にハリウッドで花形となった女優としては最も芸歴の長い一人で1890年代にはすでにブロードウェイの舞台に立っていました。英米を股にかける形でキャリアを積み上げていくものの、1910年代半ばに舞台での人気が翳りを見せる中でデミルの要請に応じて映画女優に転身。1915年公開の『チート』(ラスキー社)でトップ女優の仲間入りを果たしました。

その後しばらくラスキー社花形として活動、1918年にパテ社傘下のアストラ社に転籍。パテ社が「特選長編(Extra-Selected Feature)」として配給した第一作がファニー・ワード主演の『お雪さん(A Japanese Nightingale)』でした。

日本人から見ると不自然なセットや設定が目につきますが当時の欧米の観衆はエキゾチックな魅力を感じたようです。1922年には3リール物の短編に編集されて再公開されるという当時としてはやや珍しい運命を辿った一篇です。

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ムービング・ピクチャー・ワールド誌1918年8月17日

1920年代半ばに米パテックス社が9.5ミリ小型映画を市販し始めた時『お雪さん』が9.5ミリ化されたのもこの延長上にあります。ファニー・ワード出演作では実はもう一作『ミュージックホールでの初舞台』という作品が仏パテ社から9.5ミリ形式で販売されていました。短い抜粋ですが『チート』でも『お雪さん』でもありません。「遺失」作品の一部ではないのかなと気になっています。

サイン物は今回が2枚目の入手。絵葉書サイズのカードに名前と「1927年」の年号が手描きされています。もう一枚は仏シネマガジン誌のプロマイド写真で裏面に日付、仏語メッセージ、名前、住所が書かれています。

Fanny Ward's French Inscription dated Aug. 10 1921

謹しんで、1921年8月10日
ファニー・ワード
シャンゼリゼ通り114番

Sincèrement à vous, 10-8-21
Fanny Ward 114 Av. des Champs-Elysées

[IMDb]
Fannie Ward

[Movie Walker]
ファニー・ワード

[出身地]
合衆国(ミズリー)

[誕生日]
2月22日

[サイズ]
8.6 × 13.6cm(撮影:「S. Georges of Green St. W.C.2」)
17.2 × 23.8cm(シネマガジン製ポートレート写真))

1933年 – アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1933年 - アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡
Alexandre Arquillière 1933 Letter to Emile Drain

10月5日の12時半、バリュ通りのレストラン「デ・ヴォージュ」に世界演劇協会(SUDT)の同志数名が集まる予定になっています。興味あるのではないかな、と。良ければご参加を。

Quelques camarades de la S.U.D.T. se réunissent le 5 Octobre à midi et demi au restaurant « des Vosges » rue Ballu. Je pense que cela peut vous interesser et vous demande d’en être.

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1912年『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』宣材スティル。左手前にジゴマ役のアルキリエール

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スーパー8『松竹 日本映画史 前編』より『ジゴマ』抜粋

1911年の映画版『ジゴマ』で主役ジゴマを演じたのは舞台出身のアレクサンドル・アルキリエールでした。

アンドレ・アントワーヌが1887年に設立した「自由劇場」の古参メンバー。大手と一線を画した自然派志向で知られた演劇一派で、今で言うなら演劇界のオルタナティヴな流れに位置しています。

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1916年の演芸誌ランプ表紙を飾ったアルキリエール

同劇場時代に知りあったフィルマン・ジェミエとはその後長く交友が続いていきます。ジェミエは1922年にオデオン座支配人となり、次いで1925年に国内活動に留まらないグローバル演劇を指向する「世界演劇協会(SUDT)」を設立しています(現在のユネスコ国際演劇協会のルーツの一つ)。

アルキリエールも多かれ少なかれこの活動に絡んでいたようで、俳優仲間のエミール・ドレン宛に会合の日時を知らせたのがこちらの手紙です。封筒も残っていて消印は1933年10月2日付。

いわゆる美形俳優の枠に括られる俳優さんではないものの、存在感と豊かな表情が舞台映えします。映画との関連も深く、1908年からアルベール・カペラーニ短編に登場、10年代にジャッセ作品の主要俳優となって「ジゴマ」が当たり役となりました。その後もジェルメーヌ・デュラックの不条理家庭劇『微笑むブーデ夫人』(1923年)やジャン・ルノワールのエキゾチックな南部劇『荒地(ブレッド)』(1929年)で重要な役割を演じていました。

[IMDb]
Alexandre Arquillière

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(ロワール県)

[誕生日]
4月18日

[データ]
住所入りの個人用便箋に手書き、13,5 x 21 cm。封筒はパリ市ガール・サン・ラザール局の1933年10月2日付消印有。

1911年 – 「活動写真監督術考」 イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ著


活動写真監督術考
イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ
(1911年 シネ・ジュルナル誌 165、166、167、168、170号連載 [未完])

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911)
Hippolyte-Victorin Jasset

※本稿は『ジゴマ』(1911年)『プロテア』(1913年)等の活劇を監督したイポリット・ヴィクトラン・ジャッセが生前に唯一残した映画論の私訳です。1911年のシネ・ジュルナル誌に掲載されたもので、その後1946年『初期映画批評集』に抜粋が、2013年公刊の地方誌『ルデンヌ⁼ワロン別巻 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』に全編が転載されています。また1993年に公刊された『フランス映画批評集・第一巻』(プリンストン大学出版局)に英語の抄訳が掲載されていました。

フランスでの著作権はEU基準に基づき著者の死後70年まで保護されることになっており、1913年に亡くなったジャッセに関してはすでにパブリック・ドメインに入っています。やや古風なフランス語で日本語に直訳しにくい部分が多く、だいぶ訳し崩したもののまだ生硬な個所が目立ちます。時間を見ながら修正をかけていく予定です。邦訳に関してはクリエイティヴ・コモンズの扱いとします。

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911) Hippolyte-Victorin Jasset
『活動写真監督術考』シネ・ジュルナル誌初出

[1]

活動写真が始まったばかりの頃、この若き産業が後々驚くべき飛躍を見せるだろうとか、発展とともに倦むことのない進化を遂げていくだろうと予想できた人は誰もいませんでした。

動きを[スクリーン上に]再現するやり方が見つかりました。人々が最初に考えたのはどう作品や商品に応用するかでした。考えられるかぎり最も単純な映画作品が生み出されていきました。駅に到着する機関車、工場から退出する人々、壊された壁が埃を舞いあげ倒れこむ様子、滝の水、岩礁に打ちつけて砕けていく波…動きがあって見栄えしているならありとあらゆるものが映画を作る口実になったのです。

『壁の取り壊し』(1896年、リュミエール兄弟)

1898〜99年の映画の長さはまだ20メートルでした。短編喜劇も作られてはいたものの尺的にはそれほどではありませんでした。

この時期、モンマルトル界隈で活動していた画家・イラストレーター達の考え方を十年に渡って束ねあげていた日刊紙シャ・ノワールがジル・ブラス紙増刊号と並んで映画の力を借りていました。スタインライン[1]やヴィエット[2]、ドエス[3]、ギヨーム[4]、カランダッシュ[5]らのセリフ無しイラスト作品は当時の短編喜劇映画から生み出されてきたものです。

次いで自然の只中での屋外撮影、時事ドキュメンタリー、風光明媚なる景色、機関車で世界中を旅する作品が作られていきました。映画は単に目新しい流行り物でしかなく、舞台芸術と真面目に比較する者など一人もいませんでした。

次いで人々によく知られた物語、歴史物(服屋で廃棄処分予定だった服を使い、撮影場所は古めかしければどこでも構わないという適当さ)、戦争物、闘牛などが映画化されるようになっていきます。撮影機材の移動コストを抑えるためならパリのどんな場所、どんな一角で撮影しても良いというのが当時の一般的なやり方でした。ビュット・ショーモン公園には当時の撮影で、勝ち誇ったボーア人を前に敗走するイギリス軍が馬に乗って駆けていった跡が残っていたりします。

当時はこんな調子でも問題なく、観衆は英軍対ボーア人の戦闘実録を目の当たりにしていると思いこんでしまうのでした。

この頃の映画製作の裏舞台はどのような感じだったのでしょうか。この点をまとめておくのは大事なことです。というのも映画芸術のゆったりとした変容に少なからぬ影響を与えているからです。

冒頭で触れたように、映画ビジネスに関わり始めた人々は将来的な展望を持っていませんでした。頭にあったのは作品を超特急で作り上げることばかり、完成度を高めようとは露ほども考えてはいませんでした。まだ映画専用の劇場もありません。成り行き任せで役者を集め、演技させる口実を探し出すのに一生懸命でした。

当時[俳優やカメラマンなど]技芸を持った人たちは大した創造力を発揮する必要もなく、制作側からそういった人々への配慮は為されていませんでした。劇場で配役の割当てを行っていた人物、キャスティング部門の長が映画製作の起源の役割を担うことになりました。

大雑把に大人数を捌くスキル、劇場の手配者との仕事つながりを活用したのです。とはいえそれが彼らのもたらした全てでした。

にもかかわらずこれらの人々は映画業界に棲みついてしまい我が物顔で振る舞うようになっていきます。芸術の観点からするとこの連中がもたらしたものはちぐはぐでまとまりのないものでした。独力で、かつ経験で身につけた映画製作の仕事を自分本位に展開させていき、自分たちを困らせたり、状況に文句をつけたりしない連中だけを輪の中に入れていったのです。

その結果として1893年から1903年にかけて映画は足踏みし何の発展もないままでした。「ピークで高止まり中」とされたこの産業などいつ見捨てても良いくらいの気に誰もがなっていたのです。

業界で先行していた英国は映画向きとは言えない霧の多い空模様があだとなりつつ、フランスとは違った喜劇一派を成していきました。この一派からは「追跡物」のジャンルが生み出され大衆的な成功を収めていきます[6]

『戸外の大胆な強盗』(1903年、フランク・モッターショウ)

手掛け始めたばかりのビジネスが面白いものを生み出していきそうだ、と気がついたのがパテ社でした。同社は映画作りにルールを敷き、各部門の質を高めようと試みます。この努力は華々しい商業的成功によって報われることとなります。

パテ社初期の監督たちは知識も技術もありませんでした。それで彼らのおかげで映画はそのカバーする範囲をここまで広げていくことができたのです。直感的に、パッと目につく質にこだわったことで売上が上り、映画の真の側面が見えるようになりました。英国派は独創的ではありましたがまだ完成度に難があり、フランスの監督たちによって良い所取りされてしまったため方針転換と調整を図られます。パテ社監督たちは喜劇のジャンルで現在でもモデルとされつづけている秀作を生み出していきました。ここにフランス派が生れたのです。(シネ・ジュルナル紙 1911年165号51頁)

[2]

特撮あるいはトリック映画が登場してきます。最初は動きを逆に見せるものでした。映写技師はコメディ映画を上映している際に時々フィルムを逆回転させました。するとどうでしょう。壊れてしまった物が集まって元通りになり、液体が瓶に戻り、人間が高い場所に飛び乗ってしまうのでした。

メリエスは映像のおとぎ話を作り出しました。写真の分野で知られていたトリックを出発点としておとぎ話じみた一連のエフェクト全てを発明していったのです。それ以降(合衆国のアニメを例外とすれば)新たに付け加わった技法は何一つないほどでした。

おまけに才能と機知を兼ね備えていて、トリックを物語にまとめあげて独創的で面白みのある奇譚を生み出していったのです。

メリエス作品は長期に渡って流行を見せていましたがこの成功は作品価値に見あったものでした。メリエス一派が衰退したのは進化しようとしなかったためです。メリエスの作品では被写体を見せるためにいつも特殊な飾りつけをした舞台が必要とされていました。こういった装飾を必ずしも必要とせず、できる限り戸外で撮影する方向に映画は進んでいきました。メリエスは自分のやり方を変えようとはしなかったため流行から取り残されてしまったのです。

メリエス流の作品はパテ社でも作られていくことになりますが、意図に反して手直しが加えられていきます。ある器用な現場技術者[7]がトリックを応用した作品作りに熱心に取り組んでいました。彼の欠点はメリエスがしていたように場面を面白く見せようとする工夫を充分にせず、細工さえあれば事足りると甘んじてしまったことにありました。1908年から10年にかけこの種のおとぎ話は下火になっていきました。

1904~05年には英国起源の「追跡物」が大流行。喜劇だけではなくドラマ作品の肝としても使われるようになっていました。典型的な例で言うと、浮浪者が不注意から藁の山に火をつけてしまいます。放火だ!消防士の到着に消火、犯人を追跡して森を抜け、野原を駆け抜け、障害物を乗り越え鉄道に飛び乗り、峡谷をまたぎ、川を越え…ようやく犯人逮捕で罪を償いめでたしめでたし。追っかけだけで作り上げた物語ですが、しっかりした脚力さえあれば撮れてしまう作品でもありました。この時期には軽業師が映画の王様だったのです。

追跡喜劇は相当数制作され、その多くが現在でも語り継がれています。

この時期(1906年)に本格化したのが遠隔地での屋外ロケでした。それまではヨーロッパ各地、アジア、アフリカからアメリカを舞台にした場面でも近場のヴァンセンヌの森、ビュット・ショーモン公園、マルヌ川の河畔のノジャンやジョアンヴィル=ル=ポン(日露戦役の場面もそこで撮影されました)を使って撮影されていました。キリスト伝の映画化に際し、ゴーモン社が最初の屋外ロケを行ったのはフォンテーヌブローの森だったのです。

それに続いて映画製作会社各社がこの森に入りこんで撮影を始めました。フォンテーヌブローの森は長きに渡って「どことでも解釈できる場所」と見なされるようになっていたのです。

一旦屋外ロケが軌道に乗ると目的地が広がるようになってきました。撮影スタッフはまずはフランス国内全土、次いでスイス、イタリア、コルシカ島、アルジェリアにチュニジアを次々と訪れていきます。

にもかかわらず、観衆の方は無邪気にも全ての場面がフォンテーヌブローの森で(或いはジャーナリストの言葉を鵜呑みにしてパリ周辺の旧城郭跡で)撮影されたと信じこんでいる始末でした。

1906~07年。及び腰ながらも映画は一歩一歩進化していました。映画業界についてはこの頃まで見世物小屋の支配人を相手にしか商売してはいけない決まりになっていました。まだそんな世界が隠されていなかった時代のパリで奇異を生業にしていた人々です。

見世物小屋にやってくる客は単純で子供じみた映画以外を理解できる教養を備えてはいませんでした。芸術家肌の連中、あるいは芸術の話をしたがる者は胡散臭く思われ映画界から容赦なくつまはじきにあいます。映画を作り出した連中が業界をまだ牛耳っていたのです。メロドラマが初めて現れてきたのが1906年頃。その成功は凄まじいものでした。当時の作品の一つ『赦しの掟』[8]は現在でもよく知られています。内容は単純そのもの。おそらくそれが成功の一因でもあったのでしょう。『鐘突きの娘』[9]公開もほぼ同時期でしたが内容はもっと複雑でした。でも『赦しの掟』の成功には到底及びませんでした。これで道筋が決まりました。メロドラマは映画に活路を見出したのです。

『赦しの掟』(1906年、アルベール・カペラーニ)

追跡劇はまだ作られていて簡単に衰退しそうな気配はありませんでした。人間の追跡劇を一通り済ませると動物を使った追跡物が始まりました。『密売犬』[10]はスキルの高い調教師とスタッフを揃えた映画監督の共同作業となり、犬による追跡場面だけを作品の目玉として大きな成功を収めました。便乗作品が続々と登場しますが一作目の盛り上がりは別格で乗り越えることはできませんでした。

この時期は救出物の時代でもありました。これほど多くの人々の命をありとあらゆる方法で救った時代は今までありませんでした。ありとあらゆる物が人命を救います。映画産業が衰えつつあった英国がこのジャンルを得意としていました。あらゆる種類の犬たちがあらゆるシチュエーションに登場、挙句の果てには人の命を救う馬まで現登場し、観衆は熱狂的に囃したてていたものでした。

撮影術は大きな進歩を見せていました。この時期から逆光などの効果を取り入れるようになっていきます。直射日光の下で撮影していた時代とは雲泥の違いです。見せ方も素朴なものから芸術性を凝らしたものに変わってきました。単に当たり前の事をするだけの時代はとっくに終わっていて、監督がそれぞれのこだわり・趣味性を発揮し場面を調整していくようになっていたのです。

それにも関わらず、役者の演技は改善されないままでした。さらに言うならばこの時期、真剣に演技に取り組んでいる役者はそもそも映画にはやってきませんでした。速度感を要求され、何度も撮影機材の邪魔が入る上にやたら誇張された演技に恐れをなしていたのです。小遣い稼ぎのアルバイトでやってくる連中か、配役部が劇場から調達してくる人々しかいませんでした。

さらに言えば他とは違う質の高さを映画に持ちこもうとする発想そのものが意味を持ってはいませんでした。演技などは必要ではなく、見てとることすらほとんどできませんでした。作品冒頭で状況を手短に、できる限り簡略に説明し、すぐ重要度の高い激しいアクション場面に入っていきます。キャラクターの設定を作るとかニュアンスを与えるといった些細な事に時間をかけている暇はなかったのです。

当時の決め事で大事だったのは主人公の動きの追跡でした。例えば主人公が通りに出ます。建物のドアをノックし、廊下に入っていき、また部屋の扉をノックする…という形で見せないといけませんでした。延々と主人公を追い続けなくてはいけなかったのです。

その結果、細かい部分を気にする演技達者は無用の長物で、仕事のコツをつかんだちょっと頭の回る役者に取って代わられてしまいます。そのため表現力のある役者は映画に関与しないという状況になってしまいました。

パテ社は労力をかけただけの収益を上げることに成功しました。非の打ちどころのない作品を生み出し続け、完成度だけでなく使用機材の面でも他に先駆けて市場のトップを走り続けていました。競合他社があちこちから現れてきます。フランスで映画会社の設立ラッシュが始まります。パテ社は単独でフランスの映画産業を束ねたがっていたにも関わらず、そして自身望んだ訳ではないにも関わらずひとつの流派になっていました。そして望んだ訳ではないにも関わらず雇っていた労働者や技術者、監督たちを他社に流出させてしまいました。

イタリアの動きが始まります。同国の映画産業はマーケットで大きな位置を占めるようになっていきます。

そこまでに至るイタリアの武器は素晴らしいものでした。他国以上に撮影に適した太陽光線があって、天気を気にせずいつでも撮影することができます。顔立ちも映画向けで素晴らしく、映画製作や現場でかかる費用は少なめで、駄目押しに潤沢な資本を備えていました。

自身の作り出した映画産業をほぼ独占してきたフランスにとって、イタリアは真っ向勝負を挑んできた恐るべきライバルとなりました。

これだけ有利な側面を持ちながら、イタリア映画は長きに渡ってフランスの専門家たちの手を借りていました。

イタリア映画が独り立ちしたのはしばらく経ってからの話でした。

その気質もあって、イタリアの役者たちは荘厳で誇張気味の演技を見せるようになります。一方で人件費を比較的抑えることができたため、役者の人数を増やし、豪華な衣装を使った大掛かりな群衆場面に登場させることができるようになりました。

歴史映画はイタリアの独壇場となります。

一つの流派が形成されたのでした。(シネ・ジュルナル紙 1911年166号 33、35-37頁)

[3]

一つの流派が形作られていきました。

この流派で重要視されていたのは映像の細部ではなく全体の効果で、見ている人を驚かせようとしています。装飾に装飾を積み重ねていき、モブシーンを熱気のある形で、しかも多くの場合見映え良く動かしていきます。ただし衣装や時代考証を正確に行っているかといえば必ずしもそうではありませんでした。

イタリア一派はフランス史やフランス文学への好みを強く見せていましたが、その解釈は往々にして軽薄で考証に欠けたものでした。他国でならさほど目立たなかったかもしれませんがフランス国内では相当の衝撃が走ったのです。フランス一派は細かな部分に気を使っていたにも関わらず、イタリアだと細部は取るに足らないと見えているようでありました。

ナポレオン英雄譚も映画の素材とされていきました。しかしイタリアの人々には理解できなかったようで軽めの歌劇として扱われてしまいました。

役者の演技も押しなべて力足らず。ある意味当然です。当初イタリアの俳優は映画界で働くなんて自分たちにふさわしくないと思っていたのです。短期契約の映画俳優業に対しフランスだと役者養成の下積み期間がありましたが、イタリアにはありませんでした。大袈裟に強調されたイタリア流の演技は一目で分かるものでした。無知な映画人によるこの手の演技は舞台喜劇の教えからすると到底許しがたいものでした。着付け一般についても同様の悪印象が見られます。

それでもイタリア映画は勃興期に傑作をひとつ生み出しています。以来映画が目覚ましい進化を見せたにも関わらず、三年後の今でさえ最高峰の監督術を伺わせる作品の一つです。『ポンペイ最後の日』[11]は公開されるやいなや芸術のセンス、丁寧な演出、アイデアの巧みさ、作品を支えるコンセプトとその実現の重厚さ、同時に例外的な映像美によって市場を激変させるに至りました。

『ポンペイ最後の日』(1908年、アルトゥーロ・アンブロージオ)

この例外的作品でアンブロージア社は最良の映画社の一つと見なされるようになりました。

この後の同社作品は、多くが一級の出来映えだったとしてもまだ『ポンペイ最後の日』を超えることはできていません。

喜劇に挑戦したこともありました。納得のいく作品を作るため自国俳優を諦めフランスの役者を招き入れました。フランス俳優はイタリア映画に独特の調子をもたらしたのですが、そこにはアンドレ・ディードが主演したグリブィユ連作が含まれていました。別なフランス男優も他社のスター女優と組んで大きな成功を収めたりしています。

手短にまとめるなら、イタリア一派は映画術の進歩に貢献しなかったということです。フランス派に追随し、もとから決して少なかったとは言えない仏一派の欠点を増幅した形になります。

他方イタリアの映画界は豊かでした。仕事ぶりは目覚ましく意識の高さが伝わってきます。

往々にしてフランス映画よりイタリア映画の方が一般受けが良かったりもしました。真の芸術という点では不完全だったとは言え、イタリアの映画は面白く、大胆さだけではなく、その壮大さや人の動きに目を見張るものがありました。弱点もまた個性に変わります。イタリア人たちはフランス派が怖気をなすようなことも果敢に試みていきます。映画として扱うのが難しそうな主題を前にしてもひるむことがなかったのです。イタリア映画には演技が、独自流とはいえ演技があったという話でもあります。

芸術性を備えた映画作品が生み出されました。丁寧に見ていけば時代錯誤や勘違いが多く含まれてるとしても、それにも関わらず内容として面白く、しかも売れたのです。

新興イタリア映画にとっては売れた者勝ちであり、フランス側からは恨み節も聞こえてきました。でも戦って勝てる相手ではありません、フランスでの製作費を考えると人材や資材をこれほど無駄使いする余裕はなかったからです。

イタリア喜劇には勝れた作品が多く含まれていました。ただ実際の製作はフランスで、演じているのもフランス俳優でした。配給に携わった者たちはフランスでは絶対にありえないレベルの贅沢な舞台や小道具類を配したフランス映画が進化していくのを見続けていたことになります。

イタリアはフランス映画界にとって最強のライバルの一つになったのです。

同時期のフランス映画産業にも目覚ましい発展が見られました。

新たな会社が生まれていました。パテ社で生れた一派は業界で重きをなしたのち、新天地を求め同社を離れていきます。監督と技術畑のスタッフと共に現場で教わってきた、または経験で覚えてきた厳格な規則が同業他社に流出。それまでほぼ門外不出だった映画製作術が他社の手に渡ります。

イギリス資本のアーバン社はフランスの映画社エクリプスに姿を変えました。時事ニュースを止めて劇映画に進出。市場に展開した作品はとても成功し名声を上げていきます。そこから派生してきたのがラディオ社でした。同社トップには映画界で初の職人の一人、最も知名度のある技術者だったクレマン・モーリス氏[12]が就任しています。

エクリプス社は存在感を増していきます。

ゴーモン社の扱うジャンルは飛躍的に広がっていました。初めて純パリっ子と呼べる独創的な喜劇ジャンルを生み出しています。このジャンルは現在でも同社の十八番となっています。追跡物でもこれまでの通常の喜劇短編でもありませんでした。機転を利かせ、アクションが多く、新たなアイデアと手法に満ちています。今でも覚えている人が多いのでここで作品名を上げるのは気が引けるのですが、たとえば『管理人室でのお茶会』[13]『磁石になった男』[14]『包まれた配達人』[15]『提督の物語』[16]『デモをしない男のある一日』[17]。もっと味気ない作も他に何十何百と作られていました。

『磁石になった男』(1907年、ルイ・フイヤード)

他ジャンルでゴーモン社は何も生み出してはいません。大掛かりな歴史物で時折イタリア一派に肉薄してみせた程度でした。

エクレール社が市場に登場してきました。

この新興会社はすぐに注目を集めました。ニック・カーター探偵物を映画化して名を上げます。また本作によって初めての「連続物」が開始されました。同じ役者が話をまたいで再登場するもので、観衆は自分が見た作品の続きを見たくなる仕掛けです。此の発想は以後独自の道を歩んでいくことになります。エクレール社はドラマとアクション物を得意とするようになり、これが同社の評価につながっていきます。

同時期、撮影レベルが低く、演技も上手いとは言えず、人の姿が太ももまでしか映っていない、支離滅裂か愚劣としか形容できない脚本を元にしたまとまりない作品が市場に現れてきました。欧州では驚き、あるいは皮肉交じりに受け止められたものです。

アメリカ一派が誕生していたのです。

この時期に脚本術の研究や、演出に費やされるこだわりが強まっていたとはいえ、フランス派は何一つ進歩を見せていませんでした。

俳優たちはかつてのように映画を忌避することは少なくなっていて、映画出演の機会が増えていきました。でもすぐに既存の流派に染まってしまいます。決まった型に必要とされる厳密な決めごとだけを守るようになり個性は消え失せていきます。慌ただしく演技させてしまうことで、役者の個性がもたらしうる面白い部分を殺してしまうのです。

衣装や小道具、舞台などの点から見ると映画の監督術は丁寧で細やかなものになりつつありました。でも演技については相変わらずでした。あわただしく、ぶつ切れで、あってよさそうなニュアンスが欠けていました。

しかしこういった状況に逆らう動きが幾つかの映画会社で見られるようになります。この傾向は映画を扱う業者たちからすぐに押さえつけられてしまう結果になりました。彼らが欲していたのは上質な演技ではなく、アクションであり短編だったからです。

映画の進化を決定していく出来事が起ころうとしていました。

悲観的な者たちに「映画業界は死にかけている」と毎日のように言われながらも映画は拡大を続け、劇場へと進出し舞台人たちを震え上がらせました。今や映画を力のあるライバルと認めざるを得なかったのです。

パリや欧州主要都市に映画館が続々と作られていきます。

この新興産業はありとあらゆるものに手を出し、全てを呑みこんでいきました。旅行記、時事ニュース、歴史物、人間ドラマ、喜劇…さらに音声をつかった映画の試みも幾つか行われています。

拡がりつづける動きに演劇界、そしてコメディ・フランセーズ座の花形が追随したのがこのタイミングでした。

映画との全面対決が無理だと分かったため、むしろ映画を利用していく方向に舵を切ったのです。

芸術映画派(フィルム・ダール)の誕生でした。(シネ・ジュルナル紙 1911年167号 31、33、35頁)

[4]

芸術映画は革命であり、古くからのやり方をゆっくりと、絶え間なく進化させていくことになりました。

[シャルル・] ル・バルジ氏[18]がコメディ・フランセーズ座の役者を監督し映画を作る話が広まった際、人々は映画界の流儀を知らない舞台人がどんな映画を作るのか議論を交わしながら成り行きを見守っていました。超大作になりそうだ、製作費が怖ろしいほど膨れ上がるのでは。そんな話が出ていました。

製作には時間がかかりました。どう演技するか、どう尺を使い物語を紡いでいくか、様々な問題にぶつかったのです。ようやくフィルム公開にこぎつけます。確かに驚きでした。一般客の多くは理解できず、心を動かされることはありませんでした。しかし業界人たちに今まで守ってきたルールが無駄であったと理解させるには十分だったのです。実力派の役者たちが出演し劇場と同じ成功を収めます。彼らは劇場と変わらぬかのように演技していました。演技は生硬で、走り回ったりはせず身じろぎ一つしません。演技のもたらす強度が高まる効果が得られたのです。驚き以外のなにものでもありません。出来映えは見事でした。業界視点から見て許容できる程度のミスはあり、しょうがないと思える点も多かったのは事実です。それは初挑戦の役者が様々な困難を乗り越えようと試行錯誤した痕跡でもありました。諸々を含めて『ギーズ公の暗殺』[19]は傑作だったと言えます。

『ギーズ公の暗殺』(1908年、アンドレ・カルメット&ル・バルジ)

ル・バルジ氏は自身の役柄を細心かつ緻密に、豊かな細部を織り交ぜながら演じています。注意深く見ている者にとっては青天の霹靂でした。百戦錬磨の監督が慣習を破りたくないと怖がってできなかったことを新米監督が成し遂げてしまったのです。

氏によって新たな原則がもたらされました。先人たちによる経験は考慮には入れられていませんでした。それでも彼のやりかたはこれ以上正しいものはないものでした。技術面に関わる規則を幾つか除いてしまうと、旧派がのんびりと発展させてきたものは何も残りません。旧習は音を立てて崩れ落ちていきました。

芸術映画派が映画の流れに及ぼした影響は如何ほどだったと言えるでしょうか。当初ほぼゼロでありながら、途轍もない結果をもたらしています。アメリカ映画を覚醒させ、変容をうながし、今そうである一つの流派に形作っていったのですから。

芸術映画の企画そのものは商売での結果につながりませんでした。期待していたほどではなかったのです。観客は急激な変化を理解できず冷たい反応を見せました。映画のテーマはしばしば退屈。成功しているごくわずかな場面を生み出すためにどれほど失敗が多かったことか。制作費も法外に高騰していました。つまるところ、関係者たちの戦意喪失という話です。芸術映画が形骸化し、良く知られたブランドマークを冠したありふれた映画会社となり果てた時点でル・バルジ氏は離脱していきます。

それでも確立された規範は残り続けていきます。フランス派は一歩一歩賢くなっていきます。映画に何が出来るか見てとったあらゆる分野の芸術家が力を貸すようになってきました。

映画が変わりつつあった当初の時期が賢明ではなかったという点は疑いようがありません。長く続いてきた伝統をすぐに打ち切る訳にもいかないのです。それでも動き出してしまったものを止めることはできず、配給側も芸術に関心を示す客もいるのだと理解し、認め始めるようになりました。題名に「芸術」「ゴールド」「ダイヤモンド」「原理」「美」を冠した連作物が各社より発表される展開となったのです。イタリア絵映画では二百名の俳優を追加して芸術映画と銘打ったことがあります。

軌を一にして異なった流派が形成されていきました。集まってきたのはフランスの作家、文芸畑の人々(作家・文人映画協会)。彼ら脚本レベルを改良しようとしていました。

質の高い俳優の演技とこだわり派の監督による演出も相まって、この流派がしばしば優れた脚本を生み出した点に疑いはありません。しかしながら芸術映画派が一歩先んじており、文藝一派では結局到達できなかった独創まで突き進んでいました。文芸派のもうひとつの誤ちは、旧派がこれまで幾度となく繰り返してきた物語を繰り返してしまったことです。質が落ちた訳ではなかったのですが良くなったとは言い難いものでした。そのため同派はフランス一派の進歩に影響を与えませんでした。それでも売り物としては立派なもので、他社のレベルを超えはせずとも一定の質を維持していました。同派の脚本には掘り出し物が幾つか見つかります。しかしジャンルを生み出すまでには至らず、業界に新しい要素を持ちこむことはできませんでした。

芸術映画派によって悲劇作品の道が開かれました。猫も杓子も追随していったものの特筆すべきジャンルは開拓されませんでした。しかし1909年の終わりがけに作家文人映画協会が公開したミミ・パンソン嬢[20]の連作が各地で話題を呼びました。叙情的な恋愛物がしばらくの間流行。同時期、俳優たちはピンで主役を張れるよう奮闘していました。アンドレ・ディード氏[21]は先にデビューしていたマックス・ランデ氏[22]と時期を一にして自身を主役にした作品での成功を収めました。俳優たちは誰も彼も連作で当てしようとし始めました。シャルル・ルプランス氏[23]は作家文人映画協会でプリンス君シリーズを始めます。観衆の興味を引き、お気に入りの役者「ディード&プリンス」をドラマや喜劇で見たい!の声が上がるようになりました。画面に繰り返し出てくる役者には目が止まり、知名度があがって客も良し悪しを見極めるようになっていきました。ゴーモン社はアベラール少年[24]が好感度の高いスターになりそうだと考えました。

同じ役者が何度も出てくると見ている側は飽きてしまうと言われています。真逆だったのです。業界ではこういった俳優を契約で囲いこむ動きが見られました。(シネ・ジュルナル紙 1911年168号 38、39、41頁)

[5]

映画産業は繁栄し、強力な産業になっていました。専属の技師と技術者を抱えるようになっていました。部門毎の専門性も高いものになっています。始まったばかりの頃の棚ぼたで成功した映画界とは別物でした。働いている人の数は相当数に上ります。これらの諸部門で最も重要性が高かったのが演劇部門でした。世界各国で毎日のように新会社が設立されていました。かつて世界市場を牛耳っていたフランスに今度は国外の映画会社が食いこんでくるようになり、しばしば国産映画以上の成績を収めるようになっていました。合衆国からは恐ろしい一撃がもたらされました。

長きに渡りアメリカ人は手探りの模索を続け、独自の路線を見つけ出そうとしていました。彼らが最初に撮った作品の出来は酷いものでした。失敗にもめげることはありませんでした。というのも手持ちの資金は潤沢で、やり遂げようとする意志があったからです。ありとあらゆる挑戦をしてみました。歴史劇やシェークスピア劇はあまり上手くいきませんでした。続いて製作した作品は鉄道や、アメリカ風追跡劇、ネイティヴアメリカン、カウボーイなど手近な素材を題材にしたものではるかに良い出来映えでした。客たちは大いに沸いたものですがフランス映画との差異は大きくはなく、せいぜい演出時の大胆さと巧みさの違い程度でしかありませんでした。その後にヴァイタグラフ社が公開した『幽霊ホテル』[24]が大きな話題を呼んだのは妥当だったと言えます。業界の古いやり方を完全に捨て去り、誰も予期していなかった真新しい手法[ストップモーション]を組みあわせたのです。静物が動き始め、魂を与えらえるのを目の当たりにするのは初めてでした。どういう手法を使ったのかあらかじめ知らなければ注意深く見ても何が起こっているか分からない位でした。ヨーロッパの監督たちは秘密が漏れてきたのを聞いてようやくトリックを理解しました。応用範囲は広くなく、順当と言ってよい大成功を収めた後でこのアメリカ流のやりかたは使われなくなりました。ネタが限られていたからです。それでもこの手法はアメリカ一派に栄えある成功をもたらし、人々が同派を意識し怖れるようになるきっかけとなりました。

『幽霊ホテル』(1907年、ジェームズ・スチュアート・ブラックトン)

1909~10年にかけてヴァイタグラフ社初の喜劇が公開されています。それまでは出来も酷く、その後に並レベルの作品が続いていました。一挙に傑作群が公開され始めました。新たな流派が形成され、市場全体で存在感を示すようになります。勢いを感じていたのは業界関係者ばかりではなく一般の観客たちも同様で、アメリカ作品を熱狂的に受け入れるようになっていきます。

アメリカ一派は以下の3点においてフランスと異なっています。

1)カメラによる画面の切り取り方
2)役者の演技
3)脚本の組み立て方

画面前景に位置する役者の表情の変化・動きに客の関心が向けられている点にアメリカ人は気が付いていました。それを上手く利用し、必要であれば舞台装飾や全体の構図は犠牲にしてでも俳優の姿(決して大きな身動きはしていません)を見せようと試みています。

慌ただしい動きを避けたとても静かな、誇張されていると思えるほど静かな演技です。また[ヨーロッパ映画の]最近の脚本は劇的な状況、舞台劇由来の悲壮さを含んでいます。アメリカ人はできる限り単純かつ素朴に映画を作ろうとしていて、複雑に絡んだ筋立てや舞台がかった大袈裟な展開を避けようとしています。実人生に出来るかぎり近づけようとし、紙一重のアクションで陽気なハッピーエンドに結びつけていきます。そう見ていくとアメリカ流の映画製作術は人々が今まで行ってきたどの手法よりずっと優れています。客の熱狂がその証拠です。アメリカ映画に関わるスタッフは大勢いても役者数は実際そこまで多くはなく、客たちは次第に顔を覚え、名を覚え、もう一度見たいと思うようになっていきました。同じ役者が定期的にスクリーンに戻ってきてほしいと願い、要求するようになっていたのです。ヴァイタグラフ社作品だけあれば良い、最後はそんな風になっていきます。この後フランスの映画会社はヴァイタグラフの真似事を始めました。

ヴァイタグラフ映画の理論は果たしてどのようなものなのでしょうか。

物事を単純に考える客たちの見解をまとめると次のような感じでしょうか。アメリカ映画は才能ある役者が演じている、彼らはカメラの前でどっしり構えた演技を見せる。だからフランス俳優を使っても同じことが簡単にできる、難しくない、と。

この見方には深刻な間違いが含まれています。

アメリカ流の監督術が示しているのは忍耐力、演技法、柔軟さを持った役者と、長期に渡る規律意識を有した監督による作業でした。勢いで一発撮りした作品ではなくなっていたのです。諸々の規則を徹底的に守った結果であり、ルールを破ってしまうと昔のやりかたに戻らざるをえなくなってしまうのです。

スクリーンで映画を見ていると、静かで抑制された、調和のある役者の演技で実体験さながらの錯覚を覚えたりします。ところが細部まで見る監督の目には単純さと言われているもの自体がトリック、操作によって生み出されたと映りますし、演技と演出の全てが完全に偽物・フェイクだと分かるのです。しかしそれは観客にリアリティを錯覚させるために必要なものでもありました。もう少し詳しく説明していきましょう。

(シネ・ジュルナル紙 1911年170号 25-27頁、未完)


【訳註】

[1] テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Théophile Alexandre Steinlen, 1859-1923) スイス生まれのアールヌーヴォー画家
[2] ヴィレット (Villette)不詳
[3] ドエス(Louis-Christian Does、1859-1944) スイス生まれのイラストレーター
[4] アルベール・ギヨーム(Albert Guillaume、1873 – 1942) フランス生まれの風刺画家
[5] カランダッシュ(Caran d’Ache、1858 – 1909) ロシア出身の風刺画家
[6] 『戸外の大胆な強盗』フランク・モッターショウ(A Daring Daylight Burglary, 1903)
[7] フェルディナン・ゼッカ?セグンド・デ・チョーモン?
[8] 『赦しの掟』アルベール・カペラーニ(La Loi du pardon, 1906)
[9] 『鐘突きの娘』アルベール・カペラーニ(La Fille du sonneur, 1906)
[10] 『密売犬』ジョルジュ・アト(Les Chiens contrebandiers, 1906)
[11] 『ポンペイ最後の日』アルトゥーロ・アンブロージオ(Gli ultimi giorni di Pompei、1908)
[12] クレマン・モーリス(Clément Maurice、 1853–1933)フランス生まれの写真家・映画監督・映画プロデューサー
[13] 『管理人室でのお茶会』ルイ・フイヤード(Le Thé chez la concierge, 1907)
[14] 『磁石になった男』ルイ・フイヤード(L’homme aimanté, 1907)
[15] 『包まれた配達人』(Le Facteur emballé)未詳
[16] 『提督の物語』ルイ・フイヤード(Le Récit du colonel, 1907)
[17] 『デモをしない男のある一日』ルイ・フイヤード(La Journée d’un non-gréviste、1908)
[18] シャルル・ル・バルジ(Charles Le Bargy、1858-1936)フランスの舞台俳優
[19] 『ギーズ公の暗殺』アンドレ・カルメット&ル・バルジ(L’Assassinat du duc de Guise、1908)
[20] 『ミミ・パンソン』ジョルジュ・モンカ?(Mimi Pinson、1910?)
[21] アンドレ・ディード(André Deed、1879–1940)ボワロー君シリーズで人気のあった喜劇俳優
[22] マックス・ランデ(Max Linder、 1883–1925)チャップリンとも親交のあった喜劇俳優
[23] シャルル・ルプランス(Charles Prince、1872–1933)リガダン連作で人気のあった喜劇俳優
[24] アベラール少年(le petit Abellard)不詳
[25] 『幽霊ホテル』ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(The Haunted Hotel, 1907)


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

1921年頃 – 帝劇女優 第一期生(森律子・初瀬浪子・藤間房子) 扇面直筆画3点

c-1921-fan-leaf-paintings-by-teigeki-actresses (1)
c1921 – Japanese Fan Leaf Paintings, by Imperial Theatre’s In-house Actresses [Mori Ritsuko, Hatsuse Namiko and Fujima Fusako]

理髮店の二階にあった教室はやがて飯倉一丁目に移転したが、明治四十一年九月の開所式に勢ぞろいした十三人のうち、四人が中途退学、すこし遅れて入学した村田嘉久子、藤間房子を加えた十一人が、二年のちの九月に、第一期生として卒業証書を受け[た]。

『物語近代日本女優史』 戶板康二 (中央公論社、 1980)

明治期の末、川上貞奴の設立した帝国女優養成所が帝劇に買収され「帝国劇場付属技芸学校」となりました。演技や音楽を2年学んだ11名が明治43年(1910年)に卒業。この第一期生たちは翌年に開場された帝劇を拠点に活動を続けていきました。

この帝劇女優一期生の3名(森律子、初瀬浪子、藤間房子)が扇面に残した直筆画を手に入れることができました。それぞれ幅が55センチ弱の大きな扇面で、裏面には糊で留めてあった跡が残されています。

森律子 (1890 – 1961) 俳号:小影

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森律子 1913年『鏡の友』口絵写真

女優劇の台本の多くは帝劇重役の益田太郎が太郎冠者の筆名で書き下ろした喜劇で、パリ仕込みの歌入り軽喜劇をもとにしていた。森の持つお茶目な愛らしさ、達者な台詞まわしなどが活かされ、数多く主演している。益田の庇護もあって、古典物でも花形女形だけが演じた役が与えられ、名実ともに「ミス帝劇」となっていった。

時代を拓いた女たち: かながわの131人(江刺昭子、神奈川新聞社、2005年)

初瀬浪子 (1888? – 没年不詳)
[JMDb]

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初瀬浪子 1917年山崎紫紅『祇王祇女』口絵写真(祇女役)

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『女人哀愁』(成瀬巳喜男、1937年)で入江たか子の母親役

二十一年生まれの初瀬浪子(本名岩尾日出子)は、大倉組の支店長の娘で、山脇女学校を出ている。帝劇開場後は、妖髄なタイプの女優として、人気があり、恋文が多く来るので、ふみ子と緯名された。

『婦人公論』 第 63 巻、第 7~8 号(中央公論社、1978年)

藤間房子 (1882 – 1954)
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藤間房子 1917年山崎紫紅『祇王祇女』口絵写真(祇女の母役)

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『まごころ』(成瀬巳喜男、1939年)で入江たか子の母親役

久松小學校出身。後、上野の音樂學校へ入つた。初めはひさごとなのつて市川宗家の門下であつた。舞台も歌舞伎座で勤めた。明治四十二年の春である。一度廃業して、劇界を去つたが帝劇の女優學校開かれるや、直ちに入學、四十四年の同舞台開きには第一期卒業生として出勤、大切の「羽衣」で迎ひの天女に扮した。藤間房子と改名したのも同時であつた。

『現代俳優名鑑』 揚幕社編(八宏社、 1923)

森律子さんは映画の出演記録はないようです。初瀬浪子さんは30年代の成瀬作品『女人哀愁』に出演、入江たか子さんの母親役を演じています。藤間房子さんは1930年代以降老け役として東宝映画に多く出演、やはり成瀬作品の『まごころ』で入江たか子さんの母親を演じていました。

ハリウッドでは20~30年代の母親役・老け役がかつての花形女優だった例(ローズマリー・セビーエセル・クレイトンナオミ・チルダースなど)が見られます。初期映画への功労を念頭に置いて、ルイス・B・メイヤーがナオミ・チルダースを脇役で使い続けた話を聞いたこともあります。日本でもこういったパターンがあるのだなと勉強になりました。

1937 – VHS 『恋山彦』(マキノ正博監督、阪東妻三郎主演)

「阪東妻三郎関連」より

時は元禄。信州伊那の谷に平家の末裔が住み着いていた。山腹にかかった霧の奥から御輿を担いだ男たちの姿が浮かび上がる。御輿には涙を浮かべた若い女(花柳小菊)が一人。女は村人によって人身御供とされ、山の神に差し出される運命であった。

山の神と呼ばれていたのは平家の末裔・小源太(阪東妻三郎)であった。神事を終えた小源太は掟を破り女を連れて村に戻ってきた。話を聞くと名をお品と言い、三味線の名手源四郎の一人娘だそうである。時の権力者・柳沢吉保(河部五郎)とその愛妾おさめ(原駒子)の求めに応じて名絃「山彦」の演奏を披露したのがあだとなり、三味線を奪おうとした吉保の配下の者に源四郎は殺され、お品は楽器を手にこの谷へと流れてきたのであった…

平家落人伝説を背景とし末裔の主人公が権力者の腐敗を懲らしめていく筋立てで、そこに三味線「山彦」の争奪戦や主人公のそっくりさんとの身代わり(妻三郎二役)のサイドストーリーが絡みあっていきます。

『恋山彦』の第一回目の映画化となる本作は、映画が無声からトーキーへと移り変わっていった時期に見られる幾つかの特徴を有しています。

1)マイクの感度が低く、俳優の声がエコーをかけたようにこもっていて聞き取りにくい。また、セリフの度に「サー」というノイズが入る
2)併設された録音機器のせいでカメラの動きが制限され、カメラワークの自由度が低く遅い

ハリウッドでは1928~31年位にこういった「移行期の作品」が見られたのですが、日本では30年代半ばから同傾向の作品が見られるようになってきます。マキノ監督は日本の同世代監督でも最もフレキシブルに、流動的にカメラを動かしていた一人で、本作では上記の弱点があまり目立たないような工夫が凝らしてあります。意識しなければ(特に2は)気にならない感じでした。

この作品ではモブシーンの演出が光っています。中盤で小源太が城で大暴れし、闘いの場が一階から天守閣に移っていきます。

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戦闘場面にあわせてカメラが上昇していく。1ショットでの撮影

複数階のセットを組み、俳優たちが上階に上っていくとセット脇の吹き抜けに置かれたクレーンに設置されたカメラが上昇していきます。1ショットでの長回しでカメラと俳優の動きを同期させるため緊密な連携が要求される場面です。

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『第七天国』で、主人公のカップルがアパートの階段を上っていく場面

ボーセージ監督が『第七天国』(1927年)で同種のクレーンショットを使っていました。マキノ監督なりのオマージュでしょうか。後年、戦中の『ハナコさん』(1943年)でもバスビー・バークレーを念頭に置いた演出を組みこむなど常にハリウッドへの敬意を忘れなかった監督でもあります。

阪妻の演技は台詞回しがまだ生硬な欠点がありますがラストの能舞台の立ち回りを含めて見どころはしっかり作っています。時代劇初出演となった花柳小菊さんの可憐な演技と三味線の腕前のみならず、河部五郎、原駒子、市川百々之助などベテラン勢も登場しサイレント映画好きには楽しい一作でした。