アスタ・ニールセン(1881 – 1972)、1949年の書簡

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Asta Nielsen 1949 Singed Letter

1949年10月11日
親愛なるフィッシャー樣

お問いあわせ心より感謝しております。
(そうそう、ドイツ語で書かないといけないですよね)
「スイス画報」誌のためとの話で心より感謝申し上げます。 御誌への好奇心がムクムク湧いてきています。
最近撮った写真は手元に御座いませんのでご了承くださいませ。
貴殿と御誌のご発展を心よりお祈り申し上げます。
かしこ

アスタ・ニールセン

11.10.49

Käre Her Redaktör Fischer.

Hjertelig Tak for Deres Henvendelse For mi (det er sandt, jeg maa jo skrive Tysk)
Also, herzlichem Dank für Ihre Bemühung mit der Schweizer Illustrierten, nun bin ich neugierig, ob ich etwas davon höre.
Wie ich Ihnen schon hier sagte, bin ich nicht im Besitz von Bildern aus der letzte Zeit.
Ich hoffe, dass es Ihnen beide nach Wunsch geht und sende dir herzlichste Grüsse.
Ihre sehr ergebene,

Asta Nielsen

アスタ・ニールセンが戦後の1949年、スイスの雑誌の編集者に送った書簡。記事用に近影の写真を所望した編集者にやんわりと断りを入れた内容です。折りたたんで封をすると三辺にミシン目ができるタイプの封筒を使用。印刷された15オーレの切手の脇に5オーレの切手が追加で貼ってあります。

最初はデンマーク語で書き出しながらすぐドイツ語に変わるのですが、狙ってやったわけではなく間違えに途中で気づいてそのまま修正し書き続けたように見えます。ミスタイプを打ち直した個所も多く、秘書に打ってもらったのではなく本人がタイプしているのではないのかな、と。

オスロ(ノルウェー)のホテルに滞在しているスイスの雑誌の編集者に宛て、デンマークからドイツ語の手紙を書く…欧州を股にかけて活躍した名女優さんらしいスケールの大きな話です。

1926年12月、ケルンで残されたと思われる
サイン入り絵葉書

Asta Nieslen Signed Card

雑誌切抜きを貼りつけた手製カードに
(戦後、1940年台後半から50年台始め)

アスタ・ニールゼン、彼女の名は今や我愛活家の腦裡より忘れられようとして居るけれどもニールゼンはその藝能に於て又技巧に於て、他の追從を許さぬ獨得の領域を持つた名女優であつた。幻惑的な嫋弱[たおやか]なすつきりした姿、人の胸に迫る沈痛な面持。ニールゼンには斯うした北歐の女性の備ふる典型を持つて居る。さうしてその五體より湧き出る彼女の表現、夫[それ]はあの物寂たビオスコツプ藝術映畫に缺くべからざる權威でもあつた。『ハンナ嬢』の如き、『愛の叫び』の如き、『女優の末路』の如き、『浮縁の血統』の如き、實に彼女の藝術の一旦を伺ふにて遺憾なきものであつた。

ニールゼンの生國は平和に満ちた丁抹である。北歐劇壇にニールゼンの名が漸く表れ始めた頃、彼女は故国を後にして独逸伯林の都に來て、劇作家ウルバン、ガツトウ氏と知り、兩者は戀にも生き、結婚して共々ビオスコツプ社の招聘により、ガツトウ氏劇作指導の下にニールゼン映畫を作る事となり、數十の映畫を撮影したのであつたが、折から戰亂となり、嬢は夫君と共に避けて故國丁抹に歸つた。

「歐州活動女優物語:アスタ・ニールゼン嬢」
『活動画報』 1919年8月号

身振りの多様さと表情の豊かさは、アスタ・ニールセンの場合驚嘆に値する。

「アスタ・ニールセン:その愛の演技と老け役の演技」
ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫版所収
(佐々木基一、高村宏訳)

1921年『女ハムレット』より


[Movie Walker]
アスタ・ニールセン

[IMDb]
Asta Nielsen

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
9月11日

カルロ・ヴィート Carlo Wieth (1885–1943) デンマーク

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Carlo Wieth Autographed Postcard

1885年コペンハーゲン生まれ。1900年代に舞台俳優として修業を積んだ後、1910年にウアバン・ガーズの監督処女作でもある戦争メロドラマ『1864年の一徴兵』の主人公役でスクリーンデビュー。

Carlo Wieth in En rekrut fra 64 (1910)
『1864年の一徴兵』での負傷した兵士役

その後ノルディスク社と契約しオーガスト・ブロム(『モルモン教の犠牲となり/Mormonens offer』1911年)、シェストレム(『聖職者/Prästen』1914年)、ホルガー・マドセン(『永遠の平和/Pax aeterna』1917年)、ドライヤー(『サタンの書の数ページ』第4エピソード)など北欧サイレント映画の全盛期に安定した演技で貢献していきました。また私生活では以前に紹介したクララ・ヴィートの最初の夫でもありました。

1920年代前半に舞台へと戻り映画主演が途切れていましたが、30年代後半に復帰し9作のトーキーに出演。1943年に心臓発作で亡くなっています。

[IMDb]
Carlo Wieth

[Movie Walker]

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
12月11日

[サイズ]
8.8 × 13.4 cm

[データ]
Photochemie, Berlin K.1765

1917-22 忘れじの独り花(26)マリア・ヴィダル Maria Widal (生没年不詳) デンマーク


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Maria Widal Autographed Postcard
Maria Widal Autographed Postcard
1910年のアスタ・ニールセン銀幕デビューはデンマーク国内のみならず全世界的な話題を呼び、同嬢は1912年に拠点をドイツへと移し個性的な活動を展開していくこととなりました。この展開を支えたのが夫でもあったウアバン・ガーズ監督です。

同監督は1916年までニールセン短編シリーズを手掛けておりましたが、夫婦仲の悪化に伴い共同作業を解消、1917年からサチュルヌ映画社で再出発を図ります。新シリーズのヒロインとして抜擢されたのがマリア・ヴィダルという無名の新人女優でした。

Maria Widal in Die Gespensterstunde (1917)
『丑三つ時』 (Die Gespensterstunde、1917年)
現存する『丑三つ時』 Die Gespensterstundeではニルス・クリサンダーと共演。しかしニールセン程の成功を収めることは出来ず、1918年頃までサチュルヌ社に作品を残し大戦終了後に姿を消していきました。
Luzzy Werne01
1914年デンマーク『フィルメン』誌より
現代のメッサリナ』広告での「Luzzy Werne」
Maria Widal in Ned med våbnene (1915)
『武器を捨てよ!』(1915年公開、
ノルディスク社、ホルガー=マドセン監督作品)
主人公の友人である男爵夫人役として登場
(左から二番目のティアラ姿の女性)
1917年より前に「マリア・ヴィダル」が活動していた記録はありません。ドイツ的な要素を強調していたにも関わらず、その正体はデンマーク初期映画でLuzzy Werren(或いはWerne)として活躍していた女優さんでした。ガーズ監督がニールセンとの関係解消後、同郷の知己だった中堅女優を「ロンダリング」してドイツで再デビューさせたのが実際だったようです。

[IMDb]
Maria Widal

[Movie Walker]

[出身地]
不詳(推定デンマーク)

[誕生日]
未詳

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
Film-Sterne 112/3 phot. Nicola Perscheld Berlin W. 9

1917-22 忘れじの独り花(22)マルギット・バルナイ Margit Barnay (1896 – 1974)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Margit Barnay c1920 Autographed Postcard
Margit Barnay c1920 Autographed Postcard
母親が画家、祖父が歌手という芸術家一家の環境に育ち、本人も早くから絵画や音楽の世界を志しています。1919年、当時人気のあった監督ジークフリート・デサウァーの目に留まり『愛の子』で女優デビュー、映画スタジオを立ち上げたばかりのムルナウが監督デビュー作『青衣の少年』と次作『サタン』でヒロインに起用して名前が知られるようになりました。

1920~22年がキャリアのピークでディミトリー・ブコエツキーやウアバン・ガーズ、フランツ・ホーファ作品の主演を歴任していきました。この頃の作品でオランダの映画社で撮った『アレクサンドラ』(1922年)が現存しており、同国の映像資料館オンライン・アーカイヴEYEで公開されています。

Margit Barnay in Alexandra (1922)
1922年の『アレクサンドラ』より

20年代中盤に出演作が減っていき27年を最後に映画界を引退。家系にユダヤの血が多く流れていたため目立った活動が出来なくなりました。旦那さんがナチスお抱えの建築家だったため、収容所などには送られず済んだようです。

絵葉書には「エーマンス嬢へ、マルギット・バルナイより親愛をこめて」の宛名入りメッセージが付されています。

[IMDB]
Margit Barnay

[Movie Walker]
マルギット・バルナイ

[誕生日]
4月5日

[出身]
ドイツ(ベルリン)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser, Berlin Wilm. 6628. Phot. Becker & Maass. Berlin-W.

クリスチャン・シュレーダー Christian Schrøder (1869 – 1940) デンマーク

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Christian Schrøder Autograph/autogramm/autographeChristian Schrøder in Pat und Patachon

先日北欧物のサインをまとめ買いした中から一枚。デンマーク出身の男優クリスチャン・シュレーダー氏によるもので、1937年3月29日の日付が付されていました。

1910年代初頭、北欧映画の創始期から活躍し、舞台と並行しながら多くの短編喜劇映画の主役を務めました。20年代になると大ヒットシリーズ「フュー・オ・ビー」常連となります。「二重あごで恰幅の良いおじさん」役を得意とし、しばしば名女優スティナ・ベウとペアを組みながら作品にユーモアと温かみを加えていきました。

[IMDb]
nm0775725

[出身]
デンマーク(ミゼルファート)

[誕生日]
7月13日

[データ]
[1937年3月29日、リーフカット・オートグラフ]

[サイズ]
16.8 × 10.8cm

ニルス・オラフ・クリサンダー Nils Olaf Chrisander (1884–1947) スウェーデン

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

映画産業の初期に北欧~ドイツ~アメリカを渡り歩いた経歴の俳優さん。ドイツ時代(1910年代後半~20年頃)と思われる直筆サインです。

1910年代半ば、スウェーデンのハッセルブラッド映画社ではイェオイ・アフ・クレルケル監督作品に多く主演して人気を集めました。同社の花形女優マリー・ヨンソンとの共演作(『目覚め』『ノーベル賞を獲る者』)も現存しています。

次第にドイツに拠点を移しウアバン・ギャズ監督に重用されます(1918年『丑三つ時』)。また監督業にも乗り出し、エゲデ・ニッセンやユーシ・エレオートとの共演作を残しています。

さらに新天地を求め監督としてハリウッドに渡り、20年台後半にジェッタ・グーダル主演作などを撮っていますが成功を収めることは出来ず映画界から離れていきました。

[Movie Walker]
ニルス・オラフ・クリサンダー

[IMDb]
nm0159633

[出身]
スウェーデン(ストックホルム)

[誕生日]
2月14日

ヴァルデマール・スィランダ Valdemar Psilander (1884 – 1917)

Valdemar Psilander Autographed Postcard
Valdemar Psilander 1910s Autographed Postcard

1910年代前半デンマークで最も人気のあった男優で1917年に若くして亡くなっています。

Valdemar Psilander in Den sorte drøm
Valdemar Psilander in Den sorte drøm (1911)

「P」の縦棒を下から跳ね上げるように書くのが特徴です。「⊃」も下から上に書き上げる手癖があり、それがうまく閉じ切らず先行の「V」とあわさって「W」に見えてしまっています。年号は冒頭の「1」を省略した「914」表記になっています。

Valdemar Psilander 1914 Autographed Postcard