ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

イワン・ペレスチアーニとグルジア国営活動会社(グルジンスカヤ・ゴスキンプロム)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [08]

Ivan (Ivane) Perestiani c1916 Russian Postcard


ペレスチアニは帝政時代からの有名な活動俳優であつて、彼は革命後の同胞戰時代から引續きコーカサスのチブリスにあつて、一人で藝術的制作に從事していた。彼が最初の映畫は『アルセン・ジョルヂアシウィリ』といつて、これが三年前に初めて公開された時は全ロシアのキネマ界を驚歎せしめたものである。[…] ペレスチアニの傑作は何んと言つても一昨年暮れに出來上つた『赤色小悪魔』(十巻物)である。これは啻に彼一個の傑作であるばかりでなく、また過去七年間の唯一の傑作たるばかりでなく、ロシア全キネマ界の最も傑出した作品の一つと見られている。(『新ロシヤ・パンフレツト;第5編 プロレタリア劇と映画及音楽』 昇曙夢著、新潮社、1925年、93~94頁)

『アルセン・ジョルヂアシウィリ』(« არსენა ჯორჯიაშვილი » 1921年)より


『赤い小悪魔』の成功はペレスティアニ監督による處が大きい。原作・脚本はパヴェル・ブリャーヒンの手によるもので、蛇足ながら出版当時ドイツの帝国主義者たちの激しい怒りをかった事で知られている。連続仕立てとなったこの大層な作品は、所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもするのであるが、心が揺れるようなエピソードが多く、藝術的なセンスで描かれている。幾つかの場面は美しさに達していて、強烈な表現は政治主張の是非はともかくとしても作品に高い芸術的価値を与えている。にもかかわらずこの作品はスタジオ、さらに照明器具が無い状態で製作されたのである。作品の90%は戸外での撮影で、照明が必要な場面ではブリキ板でグルジアの強い太陽光線を反射させ代用したそうである!(『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン著、リーデ出版社、1927年)

『スラムの要塞』(« სურამის ციხე » 1922年)より


ブリャーヒンによる素晴らしい脚本は、ウクライナのネストル・マフノに抗する赤軍パルチザンの戦いを自由に、想像を膨らませながら脚色したものである。マフノは1918年にゲリラを組織し自国を占領しているドイツ人と戦った。その後内戦時にマフノ一味は大きな役割を演じた。赤軍との抗争、略奪、強奪、ユダヤ人虐殺を繰り返す。1921年には完全に討伐されルーマニアに逃げ込んだ。

こういった歴史背景を元にブリャーヒンは『拳骨』風の連続活劇を構成してみせた。やりとりは生々しく、活気と陽気さ、時に革命の熱気に満ち溢れている。この古い映画作品を今見る。途中でだれることもない。ありえなさそうな冒険が雪崩のように続いていく中で、赤軍主導で行われた最初の戦いの息吹を感じることが一度ならずある。(『世界映画史:第5巻』(ジョルジュ・サドゥール著、ドゥノエル社、1975年)

『赤い小悪魔』(« წითელი ეშმაკუნები » 1923年)より


『新ロシア藝術:映画編』の紹介で触れたようにソ連では1923〜24年にかけ中央政府による映画産業の縛りがきつくなっていきます。この直前、中央の統制が緩やかだった時期に才能の輝きを見せたのがイワン・ペレスチアーニでした。

若くして役者を志し、旅芸人の一座に加わって演技のみならず脚本書きや演出の修業も重ねていきます。1916年にモスクワの劇場監督に就任、同年に映画俳優デビュー。エフゲーニー・バウエル作品(『命には命を』『瀕死の白鳥』『革命家』)で重用され次第に自身の監督作も手掛けるようになっていきました。

革命勃発後の1920年にグルジア(現ジョージア)に拠点を移し、新設されたグルジア国営活動会社の中心監督として活躍。1921年から23年に発表した3作品(『アルセン・ジョルヂアシウィリ』『スラムの要塞』『赤い小悪魔』)はいずれも興味深い作品でした。

グルジアで実際に起こった暗殺劇を下敷きにした硬派な政治物、古城を舞台とした民族色豊かなメロドラマ、喜劇と活劇色濃い能天気な革命冒険譚…扱っている題材は様々ですが、グダグダした展開(「所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもする」)とひらめきに満ちた美しい表現(「幾つかの場面は美しさに達していて」)が混在、ムラっ気のある天才肌を感じさせる辺りが共通しています。

また連続活劇や西部劇などハリウッド映画からの影響が強いのも特徴です。帝政ロシア~ソ連への過渡期に生れ、なおかつどちらの価値観からも距離を置き、独特の自由さを備えている。昇曙夢氏やサドゥールの高評価も納得、再発見されるべき監督の一人だと思われます。


[IMDb]
Ivane Perestiani

[Movie Walker]


[出身地]
ロシア(ロストフ州)

[誕生日]
4月13日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)