1919 – 連続活劇 『ティーミン』 (ルイ・フイヤード監督)仏語小説版 ロマン・シネマ全12冊揃

「ルイ・フイヤード」より

« Tih-Minh » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
1919 « Romans-Cinéma » French Novelization

2004年、米映画批評家のジョナサン・ローゼンバウム氏が自著の『エッセンシャル・シネマ』でお気に入りの作品千本をリストアップしました。国外の映画愛好家が「このうち何本見れるか」とチャレンジする機会も多く、英語圏では大きな影響力を持っています。同リストには94本の無声映画が含まれており、グリフィスの7作とキートンの6作に次いで多く取り上げられていた監督がフイヤード(5作)でした。

『ティーミン』(1918年)はフイヤード監督が第一次大戦後に初めて手掛けた連続活劇となります。全12話、トータル5時間ほどの上映時間。ゴーモン社が35ミリポジを保管しており2018年から4Kデジタル修復プロジェクトが始動、一般公開から百年目となる2019年に最新デジタル版が完成しました。

『ティーミン』の各エピソード公開にあわせ、毎週木曜日に小説版も出版されていました。24頁ページの冊子形式で、表紙は二色刷り。小説版は単に映像を文字に起こしただけではなく映画版で言葉不足のまま展開されていた個所が説明されています。

フイヤード活劇史において『ティーミン』は物語の「語り」を変える意識が表面化してきた一作となります。

前半4エピソードの主人公はどのような事件に巻きこまれているかを知らず防戦一方となっていて目につくアクションの要素が希薄。中盤4エピソードでは新登場のキャラクター(フランシス)を迎え次第に反撃に向かい、後半に敵を壊滅させる流れになっています。初期作と比べるとスロースタートな展開ながら計5時間の流れを配慮した起承転結と全体の完成度を意識。この傾向は次作『バラバス』にも継承されていくものです。

『ティーミン』のゆったりした物語の流れは同作の弱点にもなっている部分です。旧来の連続活劇のめくるめくアクションやジェットコースター的展開を期待していると肩透かしを食らいます。逆に活劇ジャンルを幼稚とみなしていた一部の映画愛好家がこの作品で初めて活劇を評価した例が見られます。型通りの連続活劇は十分に観てきたという中級~上級者、主流からは外れながらも個性のある活劇を見たいという方が楽しめそうな作品になっています。

2020年ボローニャ復元映画祭でデジタル修復版が上映された際に2021年末にDVD版が発売される旨が告知されており、今後フイヤード活劇再発見の中心となっていくのではないかと期待されます。日本語環境で見れる機会がいつになるか分かりませんので最後に各章の要約を付しておきます(各章のスクリーンショットはGPアーカイヴより)。全体の流れはある程度掴めるのではないでしょうか。

[IMDb]
Tih Minh

[Movie Walker]


[公開]
1919年2月~4月

[出版社]
ルネッサンス・デュ・リーヴル社

付録:連続活劇『ティーミン』各章要約

プロローグ:

冒険家ジャック・アティス(ルネ・クレステ)がインドシナから帰国、車から降りてきた青年の隣には黒髪の女性の姿。現地で世話になったティーミン(マリ・アラルド)であつた。互いに憎からず思っていた二人の運命を一通の電報が変えてしまう。ジャックは単身インドヘと向かわなくてはならなくなった。名残を惜しむ中、ふと不吉な予感に苛まれるティーミンであつた。

第1話:忘却薬

インドでの仕事を終えて帰途についたジャック。しかし彼の動きをこっそり追っている怪しげな一団。ジャックがインドで手に入れた一冊の書籍を狙っているようである。悪党団の狙いは見返しに残されたインド語の手書き文書。まずはキストナ(ルイ・ルーバ)が世間話に紛れて書籍を借りようと試みるが、ジャックの下男(ビスコ)がいたずら書きと勘違いして文章を消してしまったため失敗。悪党達はティーミンを拉致、催眠術をかけて彼女に紙片を奪わせようと試みる。だがしかしティーミンは無意識で抗い言なりにはならなかつた。悪党団は薬を飲ませ女の記憶を消すとジャックの元に返すのあつた。

第2話:事件は夜に二度起きる

インド語のメッセージを書き写した紙片があると知ったキストナ一団はその強奪を計画。「事件の真相を教える」を口実に海岸までジャックを呼び出してから溺死させようと画策。謀略を感じたジャックは下男プラシッドに身代わりを依頼し海岸へと行ってもらい、自身は部屋の薄暗がりに隠れて約束の時間を待つ。部屋の窓から侵入してきた一つの影。机を物色したところを取り押さえたところ以前にキストナという人物から紹介されたサンタフェ侯爵夫人ではないか。女から事情を聞こうとするも、一瞬の隙をついて逃げられてしまうのであつた。

第3話:シルケー館の秘密

記憶を失ったティーミンは病院で療養しながら次第に体調を取り戻していつた。悪党の一味は再度女を拐して紙片との交換条件にしようと画策。ティーミンを見張っていたアティス家の下女ロゼッタの気を逸らしている間に誘拐に成功。一方、キストナを疑い始めていたジャックは下男プラシッド共にキルケー館に潜入、地下室に幽閉されている多数の女を発見。表情は一様にうつろだった。最近巷で多発していた婦女子誘拐事件の被害者だと気づくまで時間はかからなかった。館の一角には怪しげな薬品を調合しているキストナの姿。いったんは館を離れようと試みた二人だったが、プラシッドが庭に仕掛けられた罠に掛かってしまう。館に鳴り響いた警報音。「私を殺すまではしないでしょう。行ってください」、プラシッドの言葉にジャックはその場を離れるのであつた。

第4話:ケースに潜む男

囚われの身となったプラシッドだったが機転を利かせ薬品をすり替えたのが功を奏し、意識を失わずに済んだ。服を運ぶための籠の底に身を隠す。使用人たちは何も気づかず籠を車を乗せた。行先は悪漢が秘密の拠点としているコートダジュールの豪邸であった。プラシッドは館の二階に幽閉されていたティーミンを発見。薬を飲まされていたが動けるようではあった。プラシッドは女を誘導して小舟に乗せ無事脱出に成功、ティーミンをジャックのもとに送り届けるのであった。ジャックは旧友の外交官フランシス(エドゥアール・マテ)に連絡をとり、ヒンディー語文章の解読を試みる。

第5話:精神病院にて

英国から到着したフランシスだったが、駅では悪漢たちが先回りして待っていた。「迎えに来ました」に騙されて乗った車の行先は精神病院であった。悪党一味のジルソン(ガストン・ミシェル)はフランシスの叔父だと身元を偽って「甥に妄想癖があって」と病院長に説明をしていた。病院職員たちはフランシスを独房に閉じこめてしまう。奸計を見抜いたジャック達は病院に乗りこみ友人の救出に成功。フランシスによるとヒンドゥー語の文章は「第29文書」と呼ばれる国家機密で、英仏の国防にも関わるこの書類の入手を目論んで独スパイが暗躍しているとの話だった。

第6話:夜鳥

「第29文書」がフランシスの手に渡ったと知った悪党団は狙いを外交官に変える。フランシスの執事として雇われた青年は隣室で働いている美しい小間使いに心を奪われてしまう。この小間使いに変装していたのはドロレス侯爵夫人だった。ドロレスは執事を薬で意識不明にさせると部屋の物色を始めた。だが帰宅したフランシスにつかまってしまう。ジャックは女を尋問し悪党団の所在地を突き止めようと試みる。

第7話:よみがえる記憶

旧知の医学者クルーゼルの力を借り、ドロレスに催眠をかけて尋問を開始。「機密文書の存在をどうやって知った?」女の口から語られたのは、かつて仏領インドシナで起こったある事件の話だった。当時ローランソンという外交官がトンキンに赴任していたが、在任中に老いた地元民からラジャーの隠し財産と欧州の国防に関わる秘密を記した書籍の存在を知らされる。その時の会話に偶然立ち会ったのがドイツの間諜ジルソンであった。深夜、ジルソンは外交官宅に侵入し秘密の書かれた書類を奪おうとするが見つかってしまう。ジルソンはローランソンを射殺し逃亡。このローランソンこそティーミンの父であった。女の告白を聞いていたティーミンは次第に過去の記憶を取り戻していく。

第8話:ヴェールの下に

悪党団は反撃の機会を狙っていた。ドロレスを奪い返したのち、次の目標はティーミンだった。尼僧に変装したキストナがジャック宅に入りこむのに成功。ティーミンを銃で脅して機密書類の在りかを白状させようとした。危うく命を失いかけたティーミンたちであるが、執事プラシッドとその婚約者ロゼット(ジャンヌ・ロレット)の活躍で悪人たちの撃退に成功する。

第9話:慈悲の枝

一旦は平穏を取り戻したかに見えたジャック達。だが悪党一味は次の襲撃機会を狙っていた。内通者として潜りこませた小間使いを通じてジャック達の動きは筒抜けだった。ジャックとフランシスが悪漢の捕縛に向かおうとした時ティーミンも同行を望んだのだが「危険さに晒す訳にいかない」と断られてしまう。諦めきれないティーミンは荷物の片隅に隠れこっそり後を追おうとするが、その動きをキャッチした悪党団が反撃に出る。

第10話:13日の金曜日

キストナは「金曜日」の伝言を付した白い粉末を内通者に送りジャック達を人事不詳に陥れようと試みる。小間使いの一人が敵に通じていると知ったジャックは謀略を逆手に取り、騙された振りをして悪党一味をおびき寄せようと試みる。金曜、何も知らずやってきたキストナ達を返り討ちにするのだが、一党が退却中にティーミンと鉢あわせとなり、これ幸いとばかりに女を拉致しようと試みる。再度危地に陥ったティーミンを救ったのは意外な人物であった。

第11話:第29文書

ジャック達の尽力が実り、スパイたちへの包囲網が着々と完成しつつあった。だがキストナ一味は最後の反撃を試みる。早朝、まだ就寝中のフランシスの部屋を襲い身動きをとれなくしてしまう。英国からフランソワ宛に届いた書簡を見ると第29文書がすでに無効化された旨が記されていた。「もはやこれまでか」。フランソワを救出にやってきたジャック、プラシッドらに追われ悪漢たちはアパルトマンの屋根伝いに逃走を試みる。

第12話:正義の鉄槌

ジャック達は車で逃走したスパイ団を追跡していく。逃げ場を失った悪党たちは次第に仲間割れを始めていた。最後に残ったキストナとジルソンの二人もまた互いを警戒しながらの逃避行を続けていく。車のガソリンが切れ、徒歩での移動を強いられたジルソンは地元の採掘場で使われていた鉱石を運ぶケーブルカーを思い出した。何としても逃げ切りたい悪党一味とそれを必死で追うジャックと仲間たち。最後の追跡劇、ジャックを待つティーミンらの想いの行方や如何に。

1918 – 『ぶどう月』 (ルイ・フイヤード監督) 撮影風景写真3枚

「ルイ・フイヤード」より

1918 - Vendémiaire (Louis Feuillade)

« Vendémiaire » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
3 photos de tournage (3 behind-the-scenes shots with annotations on back)

第一次大戦終戦の大正7年(1918年)に撮影され、翌8年(1919年)に公開された劇作品『ぶどう月』撮影中の写真三点。販促用スチルではなく、撮影関係者が内々のやりとりで保管していたオフショットで、ここにある以外現存していない資料と思われます。

フイヤード監督の作品は1)初期習作(1913年まで)、2)前期活劇(1914~17年)、3)後期活劇と逝去(1922年まで)の大きく三つに分けることができます。

『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『続ジュデックス』など大戦中の作品で仏活劇に旋風を巻き起こした後、戦後から作風に変化が見られるようになってきます。『ティーミン』や『バラバス』といった後期作品は、アクションの要素を抑えドラマの流れや一貫性を重視し、さらに幻想色を加えたものに変わっていくのです。

前期から後期への橋渡しとなった作品が『ぶどう月(Vendémiaire)』でした。 この監督は「フイヤード組」と呼ばれた固定メンバーを軸に作品作りを進めるのが常だったのですが、終戦の前後に大きな入れ替えがありました。『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』で存在感を見せたミュジドラ、喜劇の要素を加えていたマルセル・ルヴェスクの二人が一座を離脱。その代わりにアジア風の繊細さを持つ女優マリ・アラルドが加入、ルヴェスクの代わりに若い喜劇俳優ビスコが参加します。また『ジュデックス』主役を演じたルネ・クレステもこの後しばらくして『ティーミン』製作後に離脱しています。

『ぶどう月』はマリ・アラルドやビスコが初めて登場したフイヤード作品となります。

『ぶどう月』の物語は、軍隊を離れ、新たな生活を始めようと南仏にやってきた退役軍人(ルネ・クレステ)を軸に進んでいきます。盲目の貴族(エドゥアール・マテ)が所有するワイン園で雇われるのですが、ジプシーと間違われ追い払われそうになっていた貧しい未亡人(マリ・アラルド)を助け、次第にロマンスが生まれてきます。一方では敗走したドイツ兵(ルイ・ルーバ)が身分を偽ってワイン園に潜りこみ、盗みを重ねながらその罪を貧しい未亡人に押しつけようとしていく。未亡人の濡れ衣を晴らすため主人公は…という展開を持つ映画です。

冒頭、主人公はブドウ園の管理人に身分証明書を見せ、雇ってもらうことに成功します。この時ジプシーと勘違いされ雇用を断られた女性に話を聞くと、大戦で夫を亡くしたばかりとのこと、クレステはブドウ園の管理人に話をし、「ジプシーではなく英雄の妻だ」と誤解を解いてあげました。

ゴーモン社所有のプリントでは以下のような映像が続いていきます。

主人公を演じたクレステを中心に、未亡人を演じたマリ・アラルド、管理人を演じたエミール・アンドレを左右に配して撮影されたのが一枚目の写真。作中でマリ・アラルドは頭に布を巻いていましたが、こちらでは首の後ろに下ろしています。

この後悪役ドイツ人が登場、国籍を偽って農園に入りこみ、窃盗を繰り返していきます。途中にベルギー人の同僚が内緒話をしているのを見つけ、小耳を立てる場面がありました。

悪漢を演じたルイ・ルーバを撮影したのが二枚目の写真です。映画では正面と真横からのアングルでしたが、写真は斜め前からのアングルになっています。

最後の一枚はカメラマン。今回「1895」誌のフイヤード特集号に収められていた写真から『ジュデックス』等でも撮影を務めたレオン・クラウス氏と特定できました。

3枚の写真の裏面にはいずれも手書きの説明が付されています。


クレステがブドウ園管理人の元に薄汚れた女を連れて行く。管理人と握手を交わす。女に罪はないと信じていた。

Cresté amène la caraque auprès du régisseur, qui va lui serrer la main: il croit à sa innocence

René Cresté (Judex)


ベルギー人のおしゃべりを盗み聞きしているドイツ人

le boche écoute les belges parler


カメラを「回している」連中の一人

un de ceux qui « tournèrent »

別投稿で紹介したルネ・クレステ直筆の年賀メッセージ葉書と同じ出所で、1919年頃にクレステと親交のあった関係者が保管していた資料の一つです。

この3枚と同じ撮影者の手によるもう1枚の写真も併せて紹介しておきます。

『ぶどう月』に該当する風景・人物は登場していませんが、同時期に南仏の農村で撮影された一枚で間違いなさそうです。カメラマンがスチル撮影を手掛けた合間に見かけた農夫たちを撮ったのではないでしょうか。井戸のデザイン、人々の雰囲気など妙に心を揺すぶる何かがあります。

[IMDb]
Vendémiaire

[Movie Walker]


[公開]
1919年1月17日

2000 – 「1895」誌 別巻 特集:ルイ・フイヤード(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

1895 N° Hors-série Octobre 2000 : Louis Feuillade
(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

別稿で紹介している『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』と同じ仏映画史研究協会(AFRHC)の公刊物で、「1895」誌別冊のフイヤード監督特集号。2007年出版。この数年前に合衆国では査読済の学術論文をまとめた「ヴェルヴェット・ライト・トラップ」誌第37号がフイヤード特集を組んでいました。批評家や愛好家ではなく、大学研究者からのアプローチをまとめたフイヤード本としては現時点でこの2冊が双璧をなしています。

フイヤード作品の登場人物、「ヒーロー」たちは日常を超えた場所から立ち現れ、日常を抜け出し、日常から逃れ去っていく。

「幸福な思い出のルイ・フイヤードに寄せて」
ジャック・プレヴェール

Les personnages, les « héros » de ses films, surgissaient de l’extraordinaire, sortaient, s’évadaient de l’ordinaire.

« A Louis Feuillade en mémoire heureuse »
Jacques Prévert, Novembre 1967

四百頁近い大部なもので冒頭に置かれた詩人ジャック・プレヴェールの文章を含めて22のテクスト・資料群を掲載しています。初期短編から戦中期の連続活劇、戦後の第二期活劇期、晩年の喜劇への回帰、さらには監督デビュー以前の闘牛雑誌への寄稿を含め、フイヤード監督のキャリア全体を過不足なくカバー、それ以外に小説版や脚本家としての分析などテマティークな論考が幾つか含まれていました。図版(当時物のオリジナルポスター)や写真を多数収録しており完成度は非常に高いです。

1918年製作作品『ぶどう月』について書かれた論考『ぶどう月:あるいは葡萄詩、連続劇の大洋に豊穣のぶどう畑』が個人的な収穫でした。

『ぶどう月』はルイ・フイヤード作品中最も知られておらず、また最も誤解されてきた一作である。公開時には十分な客数を集めるには至らなかったし、慧眼な映画史家が「再発掘」してはきたものの表層しか見ていない者たちの目には「国粋愛国主義」「メロドラマ展開」の致命的欠陥を積み重ねた作品と映っている。

「ぶどう月:あるいは葡萄詩、連続劇の大洋に豊穣のぶどう畑」 フランソワ・ド・ラ・ブルテーク

Vendémiaire reste un des films plus méconnus de Louis Feuillade et l’un des plus mésestimés. Il échoua à trouver son public à sa sortie. « Repêché » par les historiens du cinéma les plus lucides, il demeure entaché, aux yeux des observateurs superficiels, de péchés rédhibitoires; patriotisme cocardier, intrigue mélodramatique…

« Vendémiaire (1918): le poème de la vigne, un cru de terroir dans l’océan du serial » François de la Bretèque

冒頭で触れられているように『ぶどう月』は諸事情が重なったことで現時点で最も評価しにくくそして上映しにくいフイヤード作品となっています。とはいえ単発の人間ドラマの形を選択したことで同監督の当時の人間観や世界観が凝縮されており、また戦後作品への転換点となったことからも重要な作品であるのは間違いないと思います。

もう一つの収穫が157頁に掲載されていた一枚の写真でした。

『ジュデックス』撮影中のスタッフ
中央にカメラマンのレオン・クラウス、左にフイヤード監督

今回特定できた『ぶどう月』撮影時のオフショット
使用しているカメラ、三脚も同一のものです

下段に『ジュデックス』撮影時のバックヤードショットが収録されています。フイヤード監督とカメラマンらが前列に並び、背後の土手にルネ・クレステらが座って待機している様子を写した一枚。

以前に『ぶどう月』のオフショット3点を入手、そのうちカメラマンを映した一枚が特定できていませんでした。もともと同作には撮影として二人がクレジットされていてどちらなのか特定できなかったのです。今回フイヤード特集号に収められた写真からレオン・クラウス(Léon Klauss/Clauss)氏であると判明。長年のつかえがようやく取れた感じです。

[原題]
«Louis Feuillade» Revue 1895 hors-série

[出版年]
2000

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
391

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-24-7

2007 – 『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

« Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives » (l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

ルイ・フイヤード(1873-1925)監督については自国フランスを中心に研究が進んでいて、確認できている限り十数冊の書籍(雑誌特集号や増刊号含む)が公刊されています。『ルイ・フイヤード、その源泉へ』は「1895誌」を出版している仏映画史研究協会編がまとめた一冊で、同監督がゴーモン社や知人、友人とやりとりした書簡、契約書の草稿等223点の資料を時系列に並べています。時期によって6つの章に分かれています。

1) 監督デビュー前(1902-1905)
2) ゴーモン社初期作品期(1906-1914)
3) 戦中期(1914-1916)
4) 『ジュデックス』周辺期(1916-1918)
5) 拠点をニースに移してから(1918-1925)
6) 晩年(1922-1925)

青年時代のフイヤードは闘牛好きで専門誌に寄稿していたこともありました。その時期に残された数点の書簡以外は基本映画監督として書かれた文章。相手としてはゴーモン社レオン・ゴーモンと、俳優マルセル・ルベスクの比重が多くなっています。また後半は自身の映画作品のマルチメディア展開(小説版プロジェクト)に触れた内容が増えてきます。

ゴーモン氏への書簡は完全なビジネス仕様で、撮影に掛かった経費の報告が多くなっています。ルベスクとは旧友同士のやりとりといった感じで自身や共通の友人の近況報告が中心となっていました。

『ルイ・フイヤード、その源泉へ』にまとめられた書簡類では映画論や技法論は一切触れられていません。「映画はかくあってほしい」の理想論にはほとんど興味がなかったのだろうという印象を受けました。限られた予算枠の中でその都度最善の結果を出して会社に貢献しそれに相応しい収入を得ていく、そういったスタンスを貫いた職人肌の監督像が近いのかな、と。

一方で場面ごとの経費の報告が多数残されていて、1910年代の仏連続活劇撮影時にどのような個所でコストがかかっていたのかが見えやすくなっています。初期映画撮影を経済/マネジメント視点で分析していくアプローチもできそうです。

ルベスクとのやりとりは気の知れた友人相手のリラックスした雰囲気が特徴的。ルベスク自身がゴーモン社との契約で揉めて同社を離れた経緯、フイヤードがクレステと疎遠になっていた様子など細かな人間模様が浮き彫りになってきます。自身の映画の常連俳優たちを「一座の連中」と呼んでいたり、『ティーミン』に出演していた女優リュガヌと結婚して「うちの女神さん」と溺愛振りを示すなど「身内」を大事にしていく姿勢も伝わってきます。

1914~16年に関してはパリを拠点としていたためゴーモン社との書類のやりとりが少なく、フイヤード活劇愛好家の多くが期待している情報が残っていないのが残念ですが1910年代映画制作の裏舞台が垣間見える貴重な一次資料です。

[原題]
Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives

[出版年]
2007

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
316

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-77-3

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

1939-sandra-milowanoff-handwritten-lettr-01
1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

1911年 – 「活動写真監督術考」 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ著


活動写真監督術考
ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ
(1911年 シネ・ジュルナル誌 165、166、167、168、170号連載 [未完])

 

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911)
Victorin-Hippolyte Jasset

 

※本稿は『ジゴマ』(1911年)『プロテア』(1913年)等の活劇を監督したヴィクトラン・イポリット・ジャッセが生前に唯一残した映画論の私訳です。1911年のシネ・ジュルナル誌に掲載されたもので、その後1946年『初期映画批評集』に抜粋が、2013年公刊の地方誌『ルデンヌ⁼ワロン別巻 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』に全編が転載されています。また1993年に公刊された『フランス映画批評集・第一巻』(プリンストン大学出版局)に英語の抄訳が掲載されていました。

 

 

フランスでの著作権はEU基準に基づき著者の死後70年まで保護されることになっており、1913年に亡くなったジャッセに関してはすでにパブリック・ドメインに入っています。やや古風なフランス語で日本語に直訳しにくい部分が多く、だいぶ訳し崩したもののまだ生硬な個所が目立ちます。時間を見ながら修正をかけていく予定です。邦訳に関してはクリエイティヴ・コモンズの扱いとします。

 

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911) Hippolyte-Victorin Jasset
『活動写真監督術考』シネ・ジュルナル誌初出

[1]

活動写真が始まったばかりの頃、この若き産業が後々驚くべき飛躍を見せるだろうとか、発展とともに倦むことのない進化を遂げていくだろうと予想できた人は誰もいませんでした。

動きを[スクリーン上に]再現するやり方が見つかりました。人々が最初に考えたのはどう作品や商品に応用するかでした。考えられるかぎり最も単純な映画作品が生み出されていきました。駅に到着する機関車、工場から退出する人々、壊された壁が埃を舞いあげ倒れこむ様子、滝の水、岩礁に打ちつけて砕けていく波…動きがあって見栄えしているならありとあらゆるものが映画を作る口実になったのです。

『壁の取り壊し』(1896年、リュミエール兄弟)

1898〜99年の映画の長さはまだ20メートルでした。短編喜劇も作られてはいたものの尺的にはそれほどではありませんでした。

この時期、モンマルトル界隈で活動していた画家・イラストレーター達の考え方を十年に渡って束ねあげていた日刊紙シャ・ノワールがジル・ブラス紙増刊号と並んで映画の力を借りていました。スタインライン[1]やヴィエット[2]、ドエス[3]、ギヨーム[4]、カランダッシュ[5]らのセリフ無しイラスト作品は当時の短編喜劇映画から生み出されてきたものです。

次いで自然の只中での屋外撮影、時事ドキュメンタリー、風光明媚なる景色、機関車で世界中を旅する作品が作られていきました。映画は単に目新しい流行り物でしかなく、舞台芸術と真面目に比較する者など一人もいませんでした。

次いで人々によく知られた物語、歴史物(服屋で廃棄処分予定だった服を使い、撮影場所は古めかしければどこでも構わないという適当さ)、戦争物、闘牛などが映画化されるようになっていきます。撮影機材の移動コストを抑えるためならパリのどんな場所、どんな一角で撮影しても良いというのが当時の一般的なやり方でした。ビュット・ショーモン公園には当時の撮影で、勝ち誇ったボーア人を前に敗走するイギリス軍が馬に乗って駆けていった跡が残っていたりします。

当時はこんな調子でも問題なく、観衆は英軍対ボーア人の戦闘実録を目の当たりにしていると思いこんでしまうのでした。

この頃の映画製作の裏舞台はどのような感じだったのでしょうか。この点をまとめておくのは大事なことです。というのも映画芸術のゆったりとした変容に少なからぬ影響を与えているからです。

冒頭で触れたように、映画ビジネスに関わり始めた人々は将来的な展望を持っていませんでした。頭にあったのは作品を超特急で作り上げることばかり、完成度を高めようとは露ほども考えてはいませんでした。まだ映画専用の劇場もありません。成り行き任せで役者を集め、演技させる口実を探し出すのに一生懸命でした。

当時[俳優やカメラマンなど]技芸を持った人たちは大した創造力を発揮する必要もなく、制作側からそういった人々への配慮は為されていませんでした。劇場で配役の割当てを行っていた人物、キャスティング部門の長が映画製作の起源の役割を担うことになりました。

大雑把に大人数を捌くスキル、劇場の手配者との仕事つながりを活用したのです。とはいえそれが彼らのもたらした全てでした。

にもかかわらずこれらの人々は映画業界に棲みついてしまい我が物顔で振る舞うようになっていきます。芸術の観点からするとこの連中がもたらしたものはちぐはぐでまとまりのないものでした。独力で、かつ経験で身につけた映画製作の仕事を自分本位に展開させていき、自分たちを困らせたり、状況に文句をつけたりしない連中だけを輪の中に入れていったのです。

その結果として1893年から1903年にかけて映画は足踏みし何の発展もないままでした。「ピークで高止まり中」とされたこの産業などいつ見捨てても良いくらいの気に誰もがなっていたのです。

業界で先行していた英国は映画向きとは言えない霧の多い空模様があだとなりつつ、フランスとは違った喜劇一派を成していきました。この一派からは「追跡物」のジャンルが生み出され大衆的な成功を収めていきます[6]

『戸外の大胆な強盗』(1903年、フランク・モッターショウ)

手掛け始めたばかりのビジネスが面白いものを生み出していきそうだ、と気がついたのがパテ社でした。同社は映画作りにルールを敷き、各部門の質を高めようと試みます。この努力は華々しい商業的成功によって報われることとなります。

パテ社初期の監督たちは知識も技術もありませんでした。それで彼らのおかげで映画はそのカバーする範囲をここまで広げていくことができたのです。直感的に、パッと目につく質にこだわったことで売上が上り、映画の真の側面が見えるようになりました。英国派は独創的ではありましたがまだ完成度に難があり、フランスの監督たちによって良い所取りされてしまったため方針転換と調整を図られます。パテ社監督たちは喜劇のジャンルで現在でもモデルとされつづけている秀作を生み出していきました。ここにフランス派が生れたのです。(シネ・ジュルナル紙 1911年165号51頁)

[2]

特撮あるいはトリック映画が登場してきます。最初は動きを逆に見せるものでした。映写技師はコメディ映画を上映している際に時々フィルムを逆回転させました。するとどうでしょう。壊れてしまった物が集まって元通りになり、液体が瓶に戻り、人間が高い場所に飛び乗ってしまうのでした。

メリエスは映像のおとぎ話を作り出しました。写真の分野で知られていたトリックを出発点としておとぎ話じみた一連のエフェクト全てを発明していったのです。それ以降(合衆国のアニメを例外とすれば)新たに付け加わった技法は何一つないほどでした。

おまけに才能と機知を兼ね備えていて、トリックを物語にまとめあげて独創的で面白みのある奇譚を生み出していったのです。

メリエス作品は長期に渡って流行を見せていましたがこの成功は作品価値に見あったものでした。メリエス一派が衰退したのは進化しようとしなかったためです。メリエスの作品では被写体を見せるためにいつも特殊な飾りつけをした舞台が必要とされていました。こういった装飾を必ずしも必要とせず、できる限り戸外で撮影する方向に映画は進んでいきました。メリエスは自分のやり方を変えようとはしなかったため流行から取り残されてしまったのです。

メリエス流の作品はパテ社でも作られていくことになりますが、意図に反して手直しが加えられていきます。ある器用な現場技術者[7]がトリックを応用した作品作りに熱心に取り組んでいました。彼の欠点はメリエスがしていたように場面を面白く見せようとする工夫を充分にせず、細工さえあれば事足りると甘んじてしまったことにありました。1908年から10年にかけこの種のおとぎ話は下火になっていきました。

1904~05年には英国起源の「追跡物」が大流行。喜劇だけではなくドラマ作品の肝としても使われるようになっていました。典型的な例で言うと、浮浪者が不注意から藁の山に火をつけてしまいます。放火だ!消防士の到着に消火、犯人を追跡して森を抜け、野原を駆け抜け、障害物を乗り越え鉄道に飛び乗り、峡谷をまたぎ、川を越え…ようやく犯人逮捕で罪を償いめでたしめでたし。追っかけだけで作り上げた物語ですが、しっかりした脚力さえあれば撮れてしまう作品でもありました。この時期には軽業師が映画の王様だったのです。

追跡喜劇は相当数制作され、その多くが現在でも語り継がれています。

この時期(1906年)に本格化したのが遠隔地での屋外ロケでした。それまではヨーロッパ各地、アジア、アフリカからアメリカを舞台にした場面でも近場のヴァンセンヌの森、ビュット・ショーモン公園、マルヌ川の河畔のノジャンやジョアンヴィル=ル=ポン(日露戦役の場面もそこで撮影されました)を使って撮影されていました。キリスト伝の映画化に際し、ゴーモン社が最初の屋外ロケを行ったのはフォンテーヌブローの森だったのです。

それに続いて映画製作会社各社がこの森に入りこんで撮影を始めました。フォンテーヌブローの森は長きに渡って「どことでも解釈できる場所」と見なされるようになっていたのです。

一旦屋外ロケが軌道に乗ると目的地が広がるようになってきました。撮影スタッフはまずはフランス国内全土、次いでスイス、イタリア、コルシカ島、アルジェリアにチュニジアを次々と訪れていきます。

にもかかわらず、観衆の方は無邪気にも全ての場面がフォンテーヌブローの森で(或いはジャーナリストの言葉を鵜呑みにしてパリ周辺の旧城郭跡で)撮影されたと信じこんでいる始末でした。

1906~07年。及び腰ながらも映画は一歩一歩進化していました。映画業界についてはこの頃まで見世物小屋の支配人を相手にしか商売してはいけない決まりになっていました。まだそんな世界が隠されていなかった時代のパリで奇異を生業にしていた人々です。

見世物小屋にやってくる客は単純で子供じみた映画以外を理解できる教養を備えてはいませんでした。芸術家肌の連中、あるいは芸術の話をしたがる者は胡散臭く思われ映画界から容赦なくつまはじきにあいます。映画を作り出した連中が業界をまだ牛耳っていたのです。メロドラマが初めて現れてきたのが1906年頃。その成功は凄まじいものでした。当時の作品の一つ『赦しの掟』[8]は現在でもよく知られています。内容は単純そのもの。おそらくそれが成功の一因でもあったのでしょう。『鐘突きの娘』[9]公開もほぼ同時期でしたが内容はもっと複雑でした。でも『赦しの掟』の成功には到底及びませんでした。これで道筋が決まりました。メロドラマは映画に活路を見出したのです。

『赦しの掟』(1906年、アルベール・カペラーニ)

追跡劇はまだ作られていて簡単に衰退しそうな気配はありませんでした。人間の追跡劇を一通り済ませると動物を使った追跡物が始まりました。『密売犬』[10]はスキルの高い調教師とスタッフを揃えた映画監督の共同作業となり、犬による追跡場面だけを作品の目玉として大きな成功を収めました。便乗作品が続々と登場しますが一作目の盛り上がりは別格で乗り越えることはできませんでした。

この時期は救出物の時代でもありました。これほど多くの人々の命をありとあらゆる方法で救った時代は今までありませんでした。ありとあらゆる物が人命を救います。映画産業が衰えつつあった英国がこのジャンルを得意としていました。あらゆる種類の犬たちがあらゆるシチュエーションに登場、挙句の果てには人の命を救う馬まで現登場し、観衆は熱狂的に囃したてていたものでした。

撮影術は大きな進歩を見せていました。この時期から逆光などの効果を取り入れるようになっていきます。直射日光の下で撮影していた時代とは雲泥の違いです。見せ方も素朴なものから芸術性を凝らしたものに変わってきました。単に当たり前の事をするだけの時代はとっくに終わっていて、監督がそれぞれのこだわり・趣味性を発揮し場面を調整していくようになっていたのです。

それにも関わらず、役者の演技は改善されないままでした。さらに言うならばこの時期、真剣に演技に取り組んでいる役者はそもそも映画にはやってきませんでした。速度感を要求され、何度も撮影機材の邪魔が入る上にやたら誇張された演技に恐れをなしていたのです。小遣い稼ぎのアルバイトでやってくる連中か、配役部が劇場から調達してくる人々しかいませんでした。

さらに言えば他とは違う質の高さを映画に持ちこもうとする発想そのものが意味を持ってはいませんでした。演技などは必要ではなく、見てとることすらほとんどできませんでした。作品冒頭で状況を手短に、できる限り簡略に説明し、すぐ重要度の高い激しいアクション場面に入っていきます。キャラクターの設定を作るとかニュアンスを与えるといった些細な事に時間をかけている暇はなかったのです。

当時の決め事で大事だったのは主人公の動きの追跡でした。例えば主人公が通りに出ます。建物のドアをノックし、廊下に入っていき、また部屋の扉をノックする…という形で見せないといけませんでした。延々と主人公を追い続けなくてはいけなかったのです。

その結果、細かい部分を気にする演技達者は無用の長物で、仕事のコツをつかんだちょっと頭の回る役者に取って代わられてしまいます。そのため表現力のある役者は映画に関与しないという状況になってしまいました。

パテ社は労力をかけただけの収益を上げることに成功しました。非の打ちどころのない作品を生み出し続け、完成度だけでなく使用機材の面でも他に先駆けて市場のトップを走り続けていました。競合他社があちこちから現れてきます。フランスで映画会社の設立ラッシュが始まります。パテ社は単独でフランスの映画産業を束ねたがっていたにも関わらず、そして自身望んだ訳ではないにも関わらずひとつの流派になっていました。そして望んだ訳ではないにも関わらず雇っていた労働者や技術者、監督たちを他社に流出させてしまいました。

イタリアの動きが始まります。同国の映画産業はマーケットで大きな位置を占めるようになっていきます。

そこまでに至るイタリアの武器は素晴らしいものでした。他国以上に撮影に適した太陽光線があって、天気を気にせずいつでも撮影することができます。顔立ちも映画向けで素晴らしく、映画製作や現場でかかる費用は少なめで、駄目押しに潤沢な資本を備えていました。

自身の作り出した映画産業をほぼ独占してきたフランスにとって、イタリアは真っ向勝負を挑んできた恐るべきライバルとなりました。

これだけ有利な側面を持ちながら、イタリア映画は長きに渡ってフランスの専門家たちの手を借りていました。

イタリア映画が独り立ちしたのはしばらく経ってからの話でした。

その気質もあって、イタリアの役者たちは荘厳で誇張気味の演技を見せるようになります。一方で人件費を比較的抑えることができたため、役者の人数を増やし、豪華な衣装を使った大掛かりな群衆場面に登場させることができるようになりました。

歴史映画はイタリアの独壇場となります。

一つの流派が形成されたのでした。(シネ・ジュルナル紙 1911年166号 33、35-37頁)

[3]

一つの流派が形作られていきました。

この流派で重要視されていたのは映像の細部ではなく全体の効果で、見ている人を驚かせようとしています。装飾に装飾を積み重ねていき、モブシーンを熱気のある形で、しかも多くの場合見映え良く動かしていきます。ただし衣装や時代考証を正確に行っているかといえば必ずしもそうではありませんでした。

イタリア一派はフランス史やフランス文学への好みを強く見せていましたが、その解釈は往々にして軽薄で考証に欠けたものでした。他国でならさほど目立たなかったかもしれませんがフランス国内では相当の衝撃が走ったのです。フランス一派は細かな部分に気を使っていたにも関わらず、イタリアだと細部は取るに足らないと見えているようでありました。

ナポレオン英雄譚も映画の素材とされていきました。しかしイタリアの人々には理解できなかったようで軽めの歌劇として扱われてしまいました。

役者の演技も押しなべて力足らず。ある意味当然です。当初イタリアの俳優は映画界で働くなんて自分たちにふさわしくないと思っていたのです。短期契約の映画俳優業に対しフランスだと役者養成の下積み期間がありましたが、イタリアにはありませんでした。大袈裟に強調されたイタリア流の演技は一目で分かるものでした。無知な映画人によるこの手の演技は舞台喜劇の教えからすると到底許しがたいものでした。着付け一般についても同様の悪印象が見られます。

それでもイタリア映画は勃興期に傑作をひとつ生み出しています。以来映画が目覚ましい進化を見せたにも関わらず、三年後の今でさえ最高峰の監督術を伺わせる作品の一つです。『ポンペイ最後の日』[11]は公開されるやいなや芸術のセンス、丁寧な演出、アイデアの巧みさ、作品を支えるコンセプトとその実現の重厚さ、同時に例外的な映像美によって市場を激変させるに至りました。

『ポンペイ最後の日』(1908年、アルトゥーロ・アンブロージオ)

この例外的作品でアンブロージア社は最良の映画社の一つと見なされるようになりました。

この後の同社作品は、多くが一級の出来映えだったとしてもまだ『ポンペイ最後の日』を超えることはできていません。

喜劇に挑戦したこともありました。納得のいく作品を作るため自国俳優を諦めフランスの役者を招き入れました。フランス俳優はイタリア映画に独特の調子をもたらしたのですが、そこにはアンドレ・ディードが主演したグリブィユ連作が含まれていました。別なフランス男優も他社のスター女優と組んで大きな成功を収めたりしています。

手短にまとめるなら、イタリア一派は映画術の進歩に貢献しなかったということです。フランス派に追随し、もとから決して少なかったとは言えない仏一派の欠点を増幅した形になります。

他方イタリアの映画界は豊かでした。仕事ぶりは目覚ましく意識の高さが伝わってきます。

往々にしてフランス映画よりイタリア映画の方が一般受けが良かったりもしました。真の芸術という点では不完全だったとは言え、イタリアの映画は面白く、大胆さだけではなく、その壮大さや人の動きに目を見張るものがありました。弱点もまた個性に変わります。イタリア人たちはフランス派が怖気をなすようなことも果敢に試みていきます。映画として扱うのが難しそうな主題を前にしてもひるむことがなかったのです。イタリア映画には演技が、独自流とはいえ演技があったという話でもあります。

芸術性を備えた映画作品が生み出されました。丁寧に見ていけば時代錯誤や勘違いが多く含まれてるとしても、それにも関わらず内容として面白く、しかも売れたのです。

新興イタリア映画にとっては売れた者勝ちであり、フランス側からは恨み節も聞こえてきました。でも戦って勝てる相手ではありません、フランスでの製作費を考えると人材や資材をこれほど無駄使いする余裕はなかったからです。

イタリア喜劇には勝れた作品が多く含まれていました。ただ実際の製作はフランスで、演じているのもフランス俳優でした。配給に携わった者たちはフランスでは絶対にありえないレベルの贅沢な舞台や小道具類を配したフランス映画が進化していくのを見続けていたことになります。

イタリアはフランス映画界にとって最強のライバルの一つになったのです。

同時期のフランス映画産業にも目覚ましい発展が見られました。

新たな会社が生まれていました。パテ社で生れた一派は業界で重きをなしたのち、新天地を求め同社を離れていきます。監督と技術畑のスタッフと共に現場で教わってきた、または経験で覚えてきた厳格な規則が同業他社に流出。それまでほぼ門外不出だった映画製作術が他社の手に渡ります。

イギリス資本のアーバン社はフランスの映画社エクリプスに姿を変えました。時事ニュースを止めて劇映画に進出。市場に展開した作品はとても成功し名声を上げていきます。そこから派生してきたのがラディオ社でした。同社トップには映画界で初の職人の一人、最も知名度のある技術者だったクレマン・モーリス氏[12]が就任しています。

エクリプス社は存在感を増していきます。

ゴーモン社の扱うジャンルは飛躍的に広がっていました。初めて純パリっ子と呼べる独創的な喜劇ジャンルを生み出しています。このジャンルは現在でも同社の十八番となっています。追跡物でもこれまでの通常の喜劇短編でもありませんでした。機転を利かせ、アクションが多く、新たなアイデアと手法に満ちています。今でも覚えている人が多いのでここで作品名を上げるのは気が引けるのですが、たとえば『管理人室でのお茶会』[13]『磁石になった男』[14]『包まれた配達人』[15]『提督の物語』[16]『デモをしない男のある一日』[17]。もっと味気ない作も他に何十何百と作られていました。

『磁石になった男』(1907年、ルイ・フイヤード)

他ジャンルでゴーモン社は何も生み出してはいません。大掛かりな歴史物で時折イタリア一派に肉薄してみせた程度でした。

エクレール社が市場に登場してきました。

この新興会社はすぐに注目を集めました。ニック・カーター探偵物を映画化して名を上げます。また本作によって初めての「連続物」が開始されました。同じ役者が話をまたいで再登場するもので、観衆は自分が見た作品の続きを見たくなる仕掛けです。此の発想は以後独自の道を歩んでいくことになります。エクレール社はドラマとアクション物を得意とするようになり、これが同社の評価につながっていきます。

同時期、撮影レベルが低く、演技も上手いとは言えず、人の姿が太ももまでしか映っていない、支離滅裂か愚劣としか形容できない脚本を元にしたまとまりない作品が市場に現れてきました。欧州では驚き、あるいは皮肉交じりに受け止められたものです。

アメリカ一派が誕生していたのです。

この時期に脚本術の研究や、演出に費やされるこだわりが強まっていたとはいえ、フランス派は何一つ進歩を見せていませんでした。

俳優たちはかつてのように映画を忌避することは少なくなっていて、映画出演の機会が増えていきました。でもすぐに既存の流派に染まってしまいます。決まった型に必要とされる厳密な決めごとだけを守るようになり個性は消え失せていきます。慌ただしく演技させてしまうことで、役者の個性がもたらしうる面白い部分を殺してしまうのです。

衣装や小道具、舞台などの点から見ると映画の監督術は丁寧で細やかなものになりつつありました。でも演技については相変わらずでした。あわただしく、ぶつ切れで、あってよさそうなニュアンスが欠けていました。

しかしこういった状況に逆らう動きが幾つかの映画会社で見られるようになります。この傾向は映画を扱う業者たちからすぐに押さえつけられてしまう結果になりました。彼らが欲していたのは上質な演技ではなく、アクションであり短編だったからです。

映画の進化を決定していく出来事が起ころうとしていました。

悲観的な者たちに「映画業界は死にかけている」と毎日のように言われながらも映画は拡大を続け、劇場へと進出し舞台人たちを震え上がらせました。今や映画を力のあるライバルと認めざるを得なかったのです。

パリや欧州主要都市に映画館が続々と作られていきます。

この新興産業はありとあらゆるものに手を出し、全てを呑みこんでいきました。旅行記、時事ニュース、歴史物、人間ドラマ、喜劇…さらに音声をつかった映画の試みも幾つか行われています。

拡がりつづける動きに演劇界、そしてコメディ・フランセーズ座の花形が追随したのがこのタイミングでした。

映画との全面対決が無理だと分かったため、むしろ映画を利用していく方向に舵を切ったのです。

芸術映画派(フィルム・ダール)の誕生でした。(シネ・ジュルナル紙 1911年167号 31、33、35頁)

[4]

芸術映画は革命であり、古くからのやり方をゆっくりと、絶え間なく進化させていくことになりました。

[シャルル・] ル・バルジ氏[18]がコメディ・フランセーズ座の役者を監督し映画を作る話が広まった際、人々は映画界の流儀を知らない舞台人がどんな映画を作るのか議論を交わしながら成り行きを見守っていました。超大作になりそうだ、製作費が怖ろしいほど膨れ上がるのでは。そんな話が出ていました。

製作には時間がかかりました。どう演技するか、どう尺を使い物語を紡いでいくか、様々な問題にぶつかったのです。ようやくフィルム公開にこぎつけます。確かに驚きでした。一般客の多くは理解できず、心を動かされることはありませんでした。しかし業界人たちに今まで守ってきたルールが無駄であったと理解させるには十分だったのです。実力派の役者たちが出演し劇場と同じ成功を収めます。彼らは劇場と変わらぬかのように演技していました。演技は生硬で、走り回ったりはせず身じろぎ一つしません。演技のもたらす強度が高まる効果が得られたのです。驚き以外のなにものでもありません。出来映えは見事でした。業界視点から見て許容できる程度のミスはあり、しょうがないと思える点も多かったのは事実です。それは初挑戦の役者が様々な困難を乗り越えようと試行錯誤した痕跡でもありました。諸々を含めて『ギーズ公の暗殺』[19]は傑作だったと言えます。

『ギーズ公の暗殺』(1908年、アンドレ・カルメット&ル・バルジ)

ル・バルジ氏は自身の役柄を細心かつ緻密に、豊かな細部を織り交ぜながら演じています。注意深く見ている者にとっては青天の霹靂でした。百戦錬磨の監督が慣習を破りたくないと怖がってできなかったことを新米監督が成し遂げてしまったのです。

氏によって新たな原則がもたらされました。先人たちによる経験は考慮には入れられていませんでした。それでも彼のやりかたはこれ以上正しいものはないものでした。技術面に関わる規則を幾つか除いてしまうと、旧派がのんびりと発展させてきたものは何も残りません。旧習は音を立てて崩れ落ちていきました。

芸術映画派が映画の流れに及ぼした影響は如何ほどだったと言えるでしょうか。当初ほぼゼロでありながら、途轍もない結果をもたらしています。アメリカ映画を覚醒させ、変容をうながし、今そうである一つの流派に形作っていったのですから。

芸術映画の企画そのものは商売での結果につながりませんでした。期待していたほどではなかったのです。観客は急激な変化を理解できず冷たい反応を見せました。映画のテーマはしばしば退屈。成功しているごくわずかな場面を生み出すためにどれほど失敗が多かったことか。制作費も法外に高騰していました。つまるところ、関係者たちの戦意喪失という話です。芸術映画が形骸化し、良く知られたブランドマークを冠したありふれた映画会社となり果てた時点でル・バルジ氏は離脱していきます。

それでも確立された規範は残り続けていきます。フランス派は一歩一歩賢くなっていきます。映画に何が出来るか見てとったあらゆる分野の芸術家が力を貸すようになってきました。

映画が変わりつつあった当初の時期が賢明ではなかったという点は疑いようがありません。長く続いてきた伝統をすぐに打ち切る訳にもいかないのです。それでも動き出してしまったものを止めることはできず、配給側も芸術に関心を示す客もいるのだと理解し、認め始めるようになりました。題名に「芸術」「ゴールド」「ダイヤモンド」「原理」「美」を冠した連作物が各社より発表される展開となったのです。イタリア絵映画では二百名の俳優を追加して芸術映画と銘打ったことがあります。

軌を一にして異なった流派が形成されていきました。集まってきたのはフランスの作家、文芸畑の人々(作家・文人映画協会)。彼ら脚本レベルを改良しようとしていました。

質の高い俳優の演技とこだわり派の監督による演出も相まって、この流派がしばしば優れた脚本を生み出した点に疑いはありません。しかしながら芸術映画派が一歩先んじており、文藝一派では結局到達できなかった独創まで突き進んでいました。文芸派のもうひとつの誤ちは、旧派がこれまで幾度となく繰り返してきた物語を繰り返してしまったことです。質が落ちた訳ではなかったのですが良くなったとは言い難いものでした。そのため同派はフランス一派の進歩に影響を与えませんでした。それでも売り物としては立派なもので、他社のレベルを超えはせずとも一定の質を維持していました。同派の脚本には掘り出し物が幾つか見つかります。しかしジャンルを生み出すまでには至らず、業界に新しい要素を持ちこむことはできませんでした。

芸術映画派によって悲劇作品の道が開かれました。猫も杓子も追随していったものの特筆すべきジャンルは開拓されませんでした。しかし1909年の終わりがけに作家文人映画協会が公開したミミ・パンソン嬢[20]の連作が各地で話題を呼びました。叙情的な恋愛物がしばらくの間流行。同時期、俳優たちはピンで主役を張れるよう奮闘していました。アンドレ・ディード氏[21]は先にデビューしていたマックス・ランデ氏[22]と時期を一にして自身を主役にした作品での成功を収めました。俳優たちは誰も彼も連作で当てしようとし始めました。シャルル・ルプランス氏[23]は作家文人映画協会でプリンス君シリーズを始めます。観衆の興味を引き、お気に入りの役者「ディード&プリンス」をドラマや喜劇で見たい!の声が上がるようになりました。画面に繰り返し出てくる役者には目が止まり、知名度があがって客も良し悪しを見極めるようになっていきました。ゴーモン社はアベラール少年[24]が好感度の高いスターになりそうだと考えました。

同じ役者が何度も出てくると見ている側は飽きてしまうと言われています。真逆だったのです。業界ではこういった俳優を契約で囲いこむ動きが見られました。(シネ・ジュルナル紙 1911年168号 38、39、41頁)

[5]

映画産業は繁栄し、強力な産業になっていました。専属の技師と技術者を抱えるようになっていました。部門毎の専門性も高いものになっています。始まったばかりの頃の棚ぼたで成功した映画界とは別物でした。働いている人の数は相当数に上ります。これらの諸部門で最も重要性が高かったのが演劇部門でした。世界各国で毎日のように新会社が設立されていました。かつて世界市場を牛耳っていたフランスに今度は国外の映画会社が食いこんでくるようになり、しばしば国産映画以上の成績を収めるようになっていました。合衆国からは恐ろしい一撃がもたらされました。

長きに渡りアメリカ人は手探りの模索を続け、独自の路線を見つけ出そうとしていました。彼らが最初に撮った作品の出来は酷いものでした。失敗にもめげることはありませんでした。というのも手持ちの資金は潤沢で、やり遂げようとする意志があったからです。ありとあらゆる挑戦をしてみました。歴史劇やシェークスピア劇はあまり上手くいきませんでした。続いて製作した作品は鉄道や、アメリカ風追跡劇、ネイティヴアメリカン、カウボーイなど手近な素材を題材にしたものではるかに良い出来映えでした。客たちは大いに沸いたものですがフランス映画との差異は大きくはなく、せいぜい演出時の大胆さと巧みさの違い程度でしかありませんでした。その後にヴァイタグラフ社が公開した『幽霊ホテル』[24]が大きな話題を呼んだのは妥当だったと言えます。業界の古いやり方を完全に捨て去り、誰も予期していなかった真新しい手法[ストップモーション]を組みあわせたのです。静物が動き始め、魂を与えらえるのを目の当たりにするのは初めてでした。どういう手法を使ったのかあらかじめ知らなければ注意深く見ても何が起こっているか分からない位でした。ヨーロッパの監督たちは秘密が漏れてきたのを聞いてようやくトリックを理解しました。応用範囲は広くなく、順当と言ってよい大成功を収めた後でこのアメリカ流のやりかたは使われなくなりました。ネタが限られていたからです。それでもこの手法はアメリカ一派に栄えある成功をもたらし、人々が同派を意識し怖れるようになるきっかけとなりました。

『幽霊ホテル』(1907年、ジェームズ・スチュアート・ブラックトン)

1909~10年にかけてヴァイタグラフ社初の喜劇が公開されています。それまでは出来も酷く、その後に並レベルの作品が続いていました。一挙に傑作群が公開され始めました。新たな流派が形成され、市場全体で存在感を示すようになります。勢いを感じていたのは業界関係者ばかりではなく一般の観客たちも同様で、アメリカ作品を熱狂的に受け入れるようになっていきます。

アメリカ一派は以下の3点においてフランスと異なっています。

1)カメラによる画面の切り取り方
2)役者の演技
3)脚本の組み立て方

画面前景に位置する役者の表情の変化・動きに客の関心が向けられている点にアメリカ人は気が付いていました。それを上手く利用し、必要であれば舞台装飾や全体の構図は犠牲にしてでも俳優の姿(決して大きな身動きはしていません)を見せようと試みています。

慌ただしい動きを避けたとても静かな、誇張されていると思えるほど静かな演技です。また[ヨーロッパ映画の]最近の脚本は劇的な状況、舞台劇由来の悲壮さを含んでいます。アメリカ人はできる限り単純かつ素朴に映画を作ろうとしていて、複雑に絡んだ筋立てや舞台がかった大袈裟な展開を避けようとしています。実人生に出来るかぎり近づけようとし、紙一重のアクションで陽気なハッピーエンドに結びつけていきます。そう見ていくとアメリカ流の映画製作術は人々が今まで行ってきたどの手法よりずっと優れています。客の熱狂がその証拠です。アメリカ映画に関わるスタッフは大勢いても役者数は実際そこまで多くはなく、客たちは次第に顔を覚え、名を覚え、もう一度見たいと思うようになっていきました。同じ役者が定期的にスクリーンに戻ってきてほしいと願い、要求するようになっていたのです。ヴァイタグラフ社作品だけあれば良い、最後はそんな風になっていきます。この後フランスの映画会社はヴァイタグラフの真似事を始めました。

ヴァイタグラフ映画の理論は果たしてどのようなものなのでしょうか。

物事を単純に考える客たちの見解をまとめると次のような感じでしょうか。アメリカ映画は才能ある役者が演じている、彼らはカメラの前でどっしり構えた演技を見せる。だからフランス俳優を使っても同じことが簡単にできる、難しくない、と。

この見方には深刻な間違いが含まれています。

アメリカ流の監督術が示しているのは忍耐力、演技法、柔軟さを持った役者と、長期に渡る規律意識を有した監督による作業でした。勢いで一発撮りした作品ではなくなっていたのです。諸々の規則を徹底的に守った結果であり、ルールを破ってしまうと昔のやりかたに戻らざるをえなくなってしまうのです。

スクリーンで映画を見ていると、静かで抑制された、調和のある役者の演技で実体験さながらの錯覚を覚えたりします。ところが細部まで見る監督の目には単純さと言われているもの自体がトリック、操作によって生み出されたと映りますし、演技と演出の全てが完全に偽物・フェイクだと分かるのです。しかしそれは観客にリアリティを錯覚させるために必要なものでもありました。もう少し詳しく説明していきましょう。

(シネ・ジュルナル紙 1911年170号 25-27頁、未完)


【訳註】

[1] テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Théophile Alexandre Steinlen, 1859-1923) スイス生まれのアールヌーヴォー画家
[2] ヴィレット (Villette)不詳
[3] ドエス(Louis-Christian Does、1859-1944) スイス生まれのイラストレーター
[4] アルベール・ギヨーム(Albert Guillaume、1873 – 1942) フランス生まれの風刺画家
[5] カランダッシュ(Caran d’Ache、1858 – 1909) ロシア出身の風刺画家
[6] 『戸外の大胆な強盗』フランク・モッターショウ(A Daring Daylight Burglary, 1903)
[7] フェルディナン・ゼッカ?セグンド・デ・チョーモン?
[8] 『赦しの掟』アルベール・カペラーニ(La Loi du pardon, 1906)
[9] 『鐘突きの娘』アルベール・カペラーニ(La Fille du sonneur, 1906)
[10] 『密売犬』ジョルジュ・アト(Les Chiens contrebandiers, 1906)
[11] 『ポンペイ最後の日』アルトゥーロ・アンブロージオ(Gli ultimi giorni di Pompei、1908)
[12] クレマン・モーリス(Clément Maurice、 1853–1933)フランス生まれの写真家・映画監督・映画プロデューサー
[13] 『管理人室でのお茶会』ルイ・フイヤード(Le Thé chez la concierge, 1907)
[14] 『磁石になった男』ルイ・フイヤード(L’homme aimanté, 1907)
[15] 『包まれた配達人』(Le Facteur emballé)未詳
[16] 『提督の物語』ルイ・フイヤード(Le Récit du colonel, 1907)
[17] 『デモをしない男のある一日』ルイ・フイヤード(La Journée d’un non-gréviste、1908)
[18] シャルル・ル・バルジ(Charles Le Bargy、1858-1936)フランスの舞台俳優
[19] 『ギーズ公の暗殺』アンドレ・カルメット&ル・バルジ(L’Assassinat du duc de Guise、1908)
[20] 『ミミ・パンソン』ジョルジュ・モンカ?(Mimi Pinson、1910?)
[21] アンドレ・ディード(André Deed、1879–1940)ボワロー君シリーズで人気のあった喜劇俳優
[22] マックス・ランデ(Max Linder、 1883–1925)チャップリンとも親交のあった喜劇俳優
[23] シャルル・ルプランス(Charles Prince、1872–1933)リガダン連作で人気のあった喜劇俳優
[24] アベラール少年(le petit Abellard)不詳
[25] 『幽霊ホテル』ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(The Haunted Hotel, 1907)


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

大正6年 (1917年) 仏連続活劇『ジュデックス』小説版

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

1917 Judex (Arthur Bernède & Louis Feuillade)
1917 Judex (Arthur Bernède & Louis Feuillade)

第一次大戦中の1917年に公開されて人気を博した連続活劇『ジュデックス』の小説版。

映画の各エピソード公開と同時進行で小冊子として売られていたもので、映画の完結後にハードカバー版が作られていました。こちらはそのハードカバー版で全12章、288頁あります。

同作は先行する『レ・ヴァンピール(Les Vampires)』の成功を受け、ほぼ同一キャストで作られた活劇でした。『レ・ヴァンピール』が活劇の伝統を受け継ぎ、一話一話の完結性が高く、目まぐるしいアクションを繰り出していく手法を採用していたのに対し、『ジュデックス』はより静かな復讐譚の形式を取っています。

物語はかつて冷酷な銀行家(ルイ・ルーバ)に騙されて父親を失ってしまった兄弟(ルネ・クレステとエドゥアール・マテ)による復讐物語として始まります。クレステ演じる義士「ジュデックス」は銀行家を単純に成敗はせず、とことんまで苦しめようと城の一角に軟禁。しかし銀行家の娘ジャクリーヌ(イヴェット・アンドレヨール)への恋愛感情が芽生えてくる中で自分の行為に疑問を抱くようになり始めました。一方銀行家の資産を狙い暗躍する一派(ミュジドラ)がジュデックスとジャクリーヌ双方を狙い始め、物語は南仏での死闘へなだれこんでいきます。

仏ゴーモン社にとっても大きな企画だったようで、小説版は当時人気の高かった大衆作家アルチュール・ベルネード(『ルーヴルの怪人』原作者)に依頼、けだし名文家ではないものの、こなれた筆致で映画世界を小説に落としこんでいきます。

1917-judex-cover-02

[出版年]
1917年

[出版者]
ルネサンス・ドュ・リーヴル

[ページ数]
288頁

[サイズ]
16.5 x 24.5 cm

1910年頃 古写真 スタシア・ナピエルコウスカ Stacia Napierkowska (1886 – 1945) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)
Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)

1910年代を中心に活躍した踊り子・女優スタシア・ナピエルコウスカのキャビネット写真。撮影は当時ファッション写真家で名を馳せたルーランジェ写真店(Reutlinger)によるものです。

ナピエルコウスカはポーランド人の父親の娘として1886年パリで生まれています。幼少時に数年トルコに滞在、その後フランスへ戻りますが直後に父親が亡くなり、生計を立てるためオデオン座やオペラ・コミーク座に立ち始めました。この時14才。異国情緒と優雅さを兼ね備えた舞踏が話題となり、舞台雑誌やモード誌で頻繁に取り上げられていきます。

1910年コメディア・イリュストレ紙10月1日号より
1910年コメディア・イリュストレ(Comoedia Illustrée)紙10月1日号より

同時期に勃興していたのが映画産業でした。短編作品に多く出演、喜劇からミステリー、歴史物まで多彩な活躍を見せていきます。

そんな彼女の名を映画史に残したのは1915年公開の連続活劇『レ・ヴァンピール』でした。第2話で主人公(エドゥアール・マテ)の婚約者として登場、劇場で踊りを披露中に何者かに毒殺されます。登場場面は短いものの「吸血鬼の舞」の禍々しさは印象深く、同作を代表する一場面として幾度となく引用されていくこととなりました。

『レ・ヴァンピール』(1915年)第2話より
『レ・ヴァンピール』(Les Vampires、1915年)第2話より

その後映画の出演は減っていき、そのまま忘れ去られてもおかしくありませんでした。しかしながら20年代になって再度脚光を浴びます。1921年『女郎蜘蛛』での女王アンティネア役です。

『女郎蜘蛛』(1921年)より
『女郎蜘蛛』(L’Atlantide、1921年)より

第一次大戦後の仏映画はリアリズムにこだわり話のテンポが悪くなる癖が抜けず、外国映画に押されてかつての勢いを失っていました。この苦しい状況で冒険やファンタジーを強く押し出した『女郎蜘蛛』は活路として期待されたのです。ナピエルコウスカは1922年に創刊された映画雑誌『シネミロワール』創刊号の表紙を飾っています。

『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ
『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ

同時期に初めて市販されたのが家庭用映写機のパテベビーでした。初期カタログにはナピエルコウスカ主演作『ミロール・ラルスイユ』(Milord l’Arsouille、1912)も含まれています。そしてもう一本、手持ちでは『カンボジア風舞踏』にも登場。これは社会派ドラマの中編『黄金に浮かされて』(La Fièvre de l’or)の一場面を抜粋したものです。

『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』
『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(Napierkowska in Danses Cambodgiennes)

フランス劇映画の始まり(1910年頃)から黄金期(1912~18年)、そして停滞期(1919年~)に関わった点で重要な役割を果たした女優だと言えます。伝記面はほとんど知られていないのですが、1922年の『シネ・ミロワール』誌に前後篇2回に分けた自伝エッセイが掲載されています。

[IMDB]
nm0621051

[Movie Walker]
スタシア・ドウ・ナピエルコウスカ

[誕生日]
12月16日

[出身]
フランス(パリ)

[サイズ]
11.0 × 16.5cm

[撮影]
ルーランジェ写真店

エドゥアール・マテ Edouard Mathé (1881 – 1934) 劇場支配人宛ての書簡

「フランス [France]」より

エドゥアール・マテ直筆書簡

Edouard Mathe Hand-written Letter Addressed to the Isora Brothers
Edouard Mathé Hand-written Letter Addressed to the Isora Brothers (c1915?)

やはりルイ・フイヤード活劇の常連で、『ジュデックス』でルネ・クレステの弟役を演じていたエドゥアール・マテが残した直筆書簡。ファルコネッティの手紙と同様、パリの大物興行師だったイゾラ兄弟が保管していたコレクションの一部となります。


「日曜に記す

劇場支配人さま。

今晩上演されるオペラ作品『ミニョン』の座席を二つ御手配いただくこと可能でしょうか。知人の歌手エドメ・ファヴァールの晴れのデビューに立ち会いたいと思っております。

誠にお世話になります。オペラ=コミック座には午後6時前後に着けるかと思います。

何卒よろしくお願いいたします。

エドゥアール・マテ」

当時オペラ=コミック座の支配人をしていたイゾラ兄弟に同劇場のチケットを所望しています。「知人」として紹介されているエドメ・ファヴァールは女性ソプラノ歌手で、オペラ=コミック座での初主役となった『ミニョン』が1915~25年まで10年に及ぶロングランを記録しています。「晴れのデビュー」とありますので大戦中の1915年ごろの手紙でしょうか。

Edmée Favart
エドメ・ファヴァール

マテが当時、映画俳優業の他に何をしていたのか全く知られていません。交友関係が伺い取れるだけでなく、パリでイゾラ兄弟と契約を結んでいたことも分かる資料です。

« Ce dimanche

Nos chers directeurs,

Voudriez-vous m’octroyer amicalement deux places pour ce soir « Mignon » afin que je puisse assister aux heureux débuts de mon [illisible] amie et interprète E[dmée]. Favart?

Je vous en serai infiniment reconnaissant et pourrai vers 6h à l’Op[éra]. comique.

Veuillez agréer, nos chers directeurs, l’expression de nos sentiments les plus dévoués et de nos sincère remerciement,

Edouard Mathé »

ミュジドラ Musidora (1889 – 1957)、昭和13年の従妹宛タイプ打ち書簡

「フランス [France]」より

1938年、ミュジドラがブエノスアイレス在住の従妹ジョルジェット宛てに送ったタイプ打ちの書簡。フレンドリーな口調ながら女流作家らしく凝った表現も随所に混ぜられています。

文中に登場する「ジャコル」君はおそらくジョルジェットの子供さんの愛称で、その手術と家族の心労をいたわる気遣いが伝わってきます。

一方でブエノスアイレスの大手書店の所在地を訪ね、自身の著作の販路を広げようとしている辺りにしたたかさを感じます。

文面は裏まで続いていて、最後に本人のサインで〆てあります。表面の余白には手書きで息子のクレマン君が愛らしいメッセージを残しています。


7月20日 シャティオン=シュル=マルヌにて

ジョルジェットへ

このブエノスアイレスってのは超危険、磁石並に引き寄せられている私。なぜか知らないけれど息子の来年のバカンスはブエノスアイレスに行ってほしいと思ってしまうのよ。

残念ながら夢物語かしら。でもそんなことばかり考えてしまって。

日々の記録のお手紙と、私&息子の写真2枚を同封させてもらいました。

私が一秒たりとも無駄にしていない様子が伝わるかなと思います。「おちおち死んでもいられない」みたいな?ジャコルの手術があって大変だったのも分かっているしちょっとでも笑ってもらえると幸いです。

こちらでは家がようやく完成しました。庭に15×8メートルのプール付き。ザズーの素潜りが凄いったらありゃしない。

良かったらブエノスアイレスの大きな書店の連絡先を教えてください。自分の本をどこかに置いてもらいたいと思っていて、向こうも興味持つのではないかと。この辺のお金絡みの分野が苦手なので、ヒントになりそうなものを幾つか教えてもらえると嬉しいです。

良き報せを待ちながら、みんなに、一人ひとり順番にキスを送ります。あなたからの温かい言葉は皆に伝えておきました。百倍返しするそうですよ。

(クレマン君のメッセージ)
こんにちはジョルジェットおばさんとジャコルかぞくみんなにキスおくるね

Chatillon-sur-Marne le 20 Juillet 1938

Ma chère Georgette,

Ce Buenos-aires est périlleux pour moi, il m’attire comme un aiment, et j’aimerais, je ne sais pourquoi que Clément l’année prochaine prenne des vacances pour faire un voyage jusqu’à Buenos-aires.

Tout ceci malheuresement n’est qu’une idée, mais cette idée revient souvent dans ma tête.

Je t’envoie par ce même courrier des nouvelles journalistiques de ta cousine ainsi que deux photos de Zazou et de moi.

Tu vois que je ne perds pas un instant et comme on dit « je ne prendrai même pas le temps de mourir ». Je veux te faire rire un peu car tu as de mauvais quart d’heure avec l’opération du Jakol.

Ici, la maison s’achève doucement, le jardin à une piscine de 15 mètres sur 8 mètres, et le Zazou y fait des plongeons magnifiques.

Veux tu être gentille de m’envoyer l’adresse d’un grand libraire de Buenos-aires, je voudrais bien faire un dépot de mes livres et cela peut l’interesser. Mais ne connaisant pas cette partie uniquement commerciale je te serais gré de bien vouloir me donner quelques indications.

Dans l’attente de vos bonnes nouvelles à tous, nous vous embrassons tous ensemble, séparèment. J’ai transmis toutes tes amitiés à toute la famille qui te les renvoie centuplées.

Ta cousine,
musidora

[message écrit par Zazou] : bonjour je t’embrasse ainsi que Jakol et ta famillle zazou

 

ミュジドラ Musidora (1889 – 1957)

「国別サインリスト フランス [France]」より

Musidora

1930年代中頃と思われるメッセージ&サイン入りの家族写真。

メッセージはエティエンヌ・ミシェル氏に宛てたもので、「一家の « 強き » 母である、ミュジドラ (Une « brave » mère de famille…. Musidora)」の文言になっています。先行するやり取りに同様の表現が使われていたと推察されます。

隣に写っているのは愛息のクレマンJr君、愛称「ザズー」。映画界を離れ、執筆に精を出す中で息子さんは精神的な拠り所となっていて、写真からもその溺愛ぶりは伝わってきます。1938年に出版された女性誌にも近況を伝える記事で同じ写真が掲載されています。

Musidora 01

Musidora with « Zazou » Inscribed & Autographed Photo

イヴェット・アンドレヨール Yvette Andréyor (1891 – 1962)

「フランス [France]」より

Yvette Andreyor 1923 Autographed Postcard
Yvette Andreyor 1923 Autographed Postcard

最初に映画に参加したのはゲオ・ジャナン社の「イヴェット・アンドレヨール主演映画シリーズ」、當時主流だった400メートル程の作品でした。大戦が始まる直前の1914年8月に撮影した5本の映画でシリーズは幕を下ろしました。その後1916年からゴーモン社で多くの脚本を演じました。『ジュデックス』『脱走した女』『他人』『目隠し』 『自由の魂』『十三日の夜』などで、最後の作品は1921年にアンリ・フェスクール監督の下で撮ったものです。『シャントルーヴの城』『ジュディット』に最後もう一つ『モニーク嬢の罪』。これはジャン・トゥールー氏との共演作でバルバザ映画社で撮ったのですが監督はゲオ・ジャナン社時代に知り合った親友のロベール・ペギー氏です。

「イヴェット・アンドレヨール」
モンシネ誌1923年5月3日付63号

Ce fut, pour mes débuts, la série des films Yvette Andreyor chez Janin. Des films d’environs 400 mètres, comme on en faisait à ce moment. Cinq furent tournés avant la guerre aôut 1914, et ce fut la in de la série. Puis, à partir de 1916, je tourné de nombreux scénarios chez Gaumont: Judex, Déserteuse, L’Autre, Le Bandeau sur les Yeux, La Sandorf, La Nuit du Treize. Ce dernier en 1921 pour Fescourt. Chantelouve, Judith, enfin, un autre film, Le Crime de Monique que j’ai tourné avec Toulout pour les films Barbaza et où j’ai trouvé, comme metteur en scène, mon vrai ami Robert Péguy que j’ai connu chez Janin…

Yvette Andreyor
(Mon Ciné, No 63, 3 Mai 1923)

フランスの連続活劇『ジュデックス』(1916年)でヒロインを演じたイヴェット・アンドレヨール(1891 – 1962) のサイン絵葉書。1923年、ミシェル・ドリュエズ(Michel Druesue)氏に宛てた一枚となっています。

エドゥアール・マテ Edouard Mathé (1881 – 1934) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Edouard Mathé Autographed Postcard
Edouard Mathé Autographed Postcard

今ある人気はゴーモン社とルイ・フイヤードのお陰だと思っています。適切な助言としっかりした役を頂けたことで役者稼業とは何か学ぶことができました。と言ってみたものの、まだ修業中の身な訳で、演技の場に立つとまだまだ色々と学んでいたりします。ルイ・フイヤード監督の役者一座は国内最良で粒ぞろいと言われていますが、まさにその通り、氏は私たちの良き点も悪しき点も巧みに使いこなし、役者を熟知した上でその気質にあわせて配役を分け与えていきます。スタッフ陣の仲良しぶりは国内随一ですし、同僚たちはみな魅力ある友人ばかりなので、かつて一度たりとも口論はありませんでした。配役は常に適材適所、一座はこれ以上ない位調和が取れています。ゴーモン社では様々な役を演じてきていて、時に善人、時に嫌な奴だったりもあります。観客受けするのは前者なのですが、役どころとして面白いかというとそうではなかったりします。

お気に入りの役は『レ・ヴァンピール』で演じたゲランド役でしょうかね。フイヤード監督の次回作『女孤児』では厭味ったらしい謎めいた男を演じる話になっていて、大親友のビスコにありとあらゆる嫌がらせをしてみせますよ!

「エドゥアール・マテ」
ロバート・フローリー執筆記事中のインタビューより
シネマガジン誌1921年7月22日付 27号

C’est aux Etablissements Gaumont et à Louis Feuillade que je dois ma popularité à l’écran: grâce aux bon conseils de celui-ci et aux rôles qu’il a bien voulu me confier, j’ai appris mon métier. Quand je dis « j’ai appris », j’apprends encore et, au théâtre, nous sommes tous ses éléves. Notre metteur en scène Louis Feuillade, dont la troupe passe pour être, à juste titre, une des meilleurs et des plus homogènes de France, sait admirablemet se servir de nos qualités et de nos défauts et nous connaissant à fond, il nous adapte les rôles de ses scénarios, suivant nos tempéraments. Le plus grande camaraderie règne entre tous les artistes et j’ai des partenaires qui sont pour moi des amis charmants, il n’y a jamais la moindre discussion entre nous; quant aux rôles distribués, ils nous conviennent toujours et la troupe est unie dans la plus parfaite harmonie. J’ai interprété aux Etablissement Gaumont différents rôles, les uns sympathiques les autres antipathiques, les premiers portent davantage sur le public, mais sont souvent moins intéressants.

Un de mes rôles préférés est celui de Guérande, dans Les Vampires. Dans le prochaine film de Louis Feuillade, L’Orpheline, je joue un personnage louche et équivoque et je fait toutes les misères possibles à mon grand ami Biscot!

« Edouard Mathé » interviewé par Robert Florey
Cinémagazine No 27, 22 Juillet 1921

連続活劇『ジュデックス』や『レ・ヴァンピール』出演で知られるエドゥアール・マテですが、生年生地及び本名に紛れがあります。1886年オーストラリア生れとする記述が多いのですが、ロバート・フローリーの記事にもあったようにオーストラリア系両親から生まれ、出身地はフランスだったというのが事実の様です。

Edouard Mathe - acte de naissance
日本での戸籍謄本・抄本に該当する出生記録帳
左上、32番の番号の下に「Matthyssens Edouard」

仏ウィキの注釈で示されているようにクルブヴォアの戸籍簿1881年度分に「エドゥアルド・マティサン(Edouard Matthyssens)」の出生が記録されており、こちらが本名とのことです。

[Movie Walker]

[IMDb]
Édouard Mathé

[出身]
フランス(オー=ド=セーヌ、クールブヴォア)

[誕生日]
1月25日

[データ]
Photo Studio Henri Lebrun