1975 – 『ジャッセ』(ジャック・デランド著、アンソロジー・デュ・シネマ第85巻)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

« Jasset » (Jacques Deslandes,
Editions de l’Avant Scène, Supplément Anthologie n° 85, 1975)

監督としての活動時期が6年に留まったジャッセの映画芸術を現在の我々の手持ちデータから見極め定義しようというのは、D・W・グリフィスが『ベッスリアの女王』までしか撮らなかったという縛りで映画史を書いてみようというのに等しい。

Essayer toutefois de définir l’art de Jasset à partir de ce que nous connaissons aujourd’hui de ses films, et il n’a tourné que pendant six ans, ce serait un peu comme si l’on voulait écrire une histoire du cinéma en arrêtant l’oeuvre de D. W. Griffith à JUDITH DE BETHULIE.

活動写真期の映画愛好家には名の知られた『ジゴマ』ですが、その監督であるヴィクトラン・ジャッセを扱った書籍は没後一世紀以上が経った現時点でも2冊しかなく、いずれも既存の雑誌の別冊または別巻として発売されたものです。

ジャッセの研究や作品分析が進んでいない要因は資料の少なさです。第一次大戦が始まる以前に亡くなっていてめぼしい一次資料が残っておらず、書簡類や日記もないため叩き台となるデータがありません。アンリ・ラングロワが調査を開始した1940年代には作品リストすらなく、どの映画会社で何の作品を撮ったかすら見えていない状態になっていた位です。ある程度リストが固まり、一部作品のデジタル化版を見ることができるようになった現状は大幅に改善されたものですが、それでも紛れが多く(共同監督ジョルジュ・アトとの作業分担がどの程度だったか分からない、現存プリントに異同が目立ち「オリジナル」の形が分からない等)研究対象としてはややハードルが高い、と言えます。

アンソロジー・デュ・シネマ別冊版『ジャッセ』(1975年)はそういった状況に一つの道筋をつけたという意味で画期的だったと言えます。

この時点でジャッセ作品と確定できた作品を時系列に並べつつ、当時の映画雑誌の記事を元に作品の特徴や作風の変遷を追っていくアプローチをとっています。1908~09年の『ニック・カーター』連作の成功を受けて翌年に『ファントム博士』シリーズを監督。1911~12年に『ジゴマ』三部作を完成させ、1913年に『プロテア』の第一部を残した所で病没。犯罪連続劇とは別に社会派作品(『闇の國で』)、幻想奇譚(『猿人バラウー』)も残している。そんな流れが浮かび上がってきます。後年のもう一冊のジャッセ本にせよ現在の仏ウィキなどでの紹介にせよ大枠は似たような感じなのですが、それが初めて可視化されたのがこのアンソロジー・デュ・シネマ版だったことになります。

本書には同時期の映画誌の記事が多く引用されています。主な情報源は3つ。1)1909~10年の『キネマトグラフ&ランタン週報』2)1911~12年の『シネ・ジュルナル』紙、3)1920年代の『モンシネ』誌。

『キネマトグラフ&ランタン週報』は『キネ・ウィークリー』の前身となったイギリスの映画雑誌ですが、パリに置いた特派員が何度か撮影現場を訪れ紹介記事を残しています。

かつてイポドローム劇場で監督を務めていたジャッセ氏は細部と完成度にこだわり抜いた役者指導を行っている。リハーサルを繰り返し行い、実際にカメラでの撮影が始まる迄に役者の演技の完成度を納得いくレベルに高めていく。1度、2度、3度…ガルニエ劇場の女優 [原註によるとスターシャ・ナピエルコフスカ] が妹を毒殺してから別な部屋へ戻ってくる場面だ。6度目のリハーサル、部屋に入ってきた女優の表情には残酷さと恐怖の雰囲気があって、演技の完成度にその場にいた者たちが皆身震いするほどであった。そこで初めて撮影が開始される。30メートルほどのフィルムを使い、慎重を期して2台の撮影機が同時に回っていた。

撮影スタッフたちの辛抱強さと有能さには驚くべきものがあった。絨毯を変え、鏡台の鏡の角度を微調整しなくてはならなかった。当初は女優の左側に置かれていた白粉の小壜の位置を移動させ、女優の右側に置き直すほどであった。犯罪者を演じた女優は鏡の自分を見つめ、後悔の涙の筋が残っていた頬に静かに白粉を当てながら次第に冷血さを取り戻していく。

「スリル満点の映画を作る」
『キネマトグラフ&ランタン週報』1909年8月5日第117号

Monsieur Jasset, l’ancien directeur de l’Hippodrome, dirigeait les acteurs avec l’extrème souci du détail et de la perfection qui le caractérise. Il fait répéter chaque scène autant de fois qu’il est nécessaire pour obtenir des actrices la perfection au moment où la caméra va enregistrer la séquence. Une fois, deux fois, trois fois l’actrice (du Théâre Garnier) revient dans la même pièce après avoir, dans une autre, empoisonné sa soeur. Six fois, elle recommença son entrée avec sur le visage le même air de cruauté et d’effroi jusqu’à ce que la perfection de son interprétation fasse frissoner tous ceux qui étaient présent; alors seulement on effectua la prise de vue, impressionant une trentaine de mètres de ellicule, dans deux appareils à la fois pour plus de précaution.

La patience, la compétence de tous les assistants étaient surprenantes. Il avait fallu changer un tapis, modifier l’angle d’inclinaison du miroir de la coiffeuse. On alla même jusqu’à déplacer la boîte de poudre, la mettant à la droite sur la coiffeuse : elle était avant à gauche de l’actrice. Celle-ci qui jouait la criminelle.retrouvant peu à peu son sang-froid, en face de la glace, calmement repoudrait ses joues où les larmes de remord avaient laissé de longues traînées.

« Making a sensational film »
in Kinematograph and Lantern Weekly, vol. V, no 117 du Août 1908

さらに同紙別号の引用では『ジゴマ』が映画化されるまでの経緯も触れられていました。

レオン・サジイの手による悪漢冒険譚の映画企画が形を取ったのは1910年初めであった。当初の仕掛け人はラファエル・アダム氏、俳優から監督へと職業替えした人物で「映画フィルムの独立系プロデューサー」である。しかし2月末時点でも自力で映画を製作するのかそれとも他社に権利を売却して任せるのか決めかねていた。3月初旬、[エクレール社の置かれた] エピネーで商談が進められた。「ジゴマの映画化権を所有するアダム氏がエクレール社にいたので話を聞いた。5作の映画が作られるそうである」、当時の記者がそう記している。実際に制作されたのは『ジゴマ』『ジゴマ対ニック・カーター』『探偵の勝利』の3作のみで監督はジャッセになっていた。

また、本サイトで訳出したジャッセの映画論「活動写真監督術考」(1911年)についても「第一次大戦前の映画産業史のありがちな要約ではなく」「映像美学のマニフェストである」の的確な指摘がなされています。

公刊から半世紀近くが経過しており最新データを反映している書籍ではないため一字一句を鵜呑みにする訳にはいきませんが、1910年前後の仏活劇映画を理解する鍵が幾つも含まれている気はします。

[出版年]
1975年11月

[出版者]
Editions de l’Avant Scène

[ページ数]
56

[サイズ]
13.5 × 18.0cm

1992 – 『1895』誌 第12号 特集:エクレール撮影所 1907-1918(仏映画史研究協会編)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Revue « 1895 », n° 12
Studio Eclair 1907-1918 (Octobre 1992)

1992年、伊ポルデノーネ無声映画祭でエクレール社初期作の回顧上映会が開催されました。この企画にあわせフランスの映画史専門誌『1895』からエクレール社の特集号が公刊されています。内容は大きく1)経営状況の分析、2)主要俳優紹介、3)現存初期作(≒映画祭での上映作品)の粗筋、の三本立て。

1)に関しては1907年の設立時の定款、翌年の増資、収支報告などの一次資料をまとめたもの。資本金15万旧フランという小さな規模で誕生したエクレールがどのような運営を行っていたか見えてくる資料群です。

2)は1913年のフィルム・ルヴュ誌の俳優紹介企画を転載したもので『ジゴマ』『プロテア』で主演を務めたアルキリエール、アンドリオ以外にも『ジゴマ』で探偵役を務めたアンドレ・リアベル、『猿人バラウー』や『プロテア』で存在感を見せたリュシアン・バタイユなどジャッセ映画の常連俳優が紹介されています。

またあまり脚光を浴びてこなかった喜劇連作(「ゴントラン」「ガヴロッシュ」「リトル・ウィリー」)の主演役者にも紙数が割かれていて初期エクレール社の全体像が伝わってきます。

3)もフィルム・ルヴュ誌からの記事転載。モーリス・トゥールヌールの初監督作がエクレール社で、初期作『イヴリーの女羊飼』の粗筋も含まれていました。1913年5月にジャッセが亡くなって数か月後にトゥールヌールがデビューした形。画家を志した過去があり、構図や細部へのこだわりなど共通点のある両監督の接点、因縁を感じます。

全体としては当時物の記事や紙データに特化した内容で、国外(そしてフランスでもパリ以外)では入手の難しい情報が一冊に集約されています。ジャッセ作品の背景理解だけではなく普通に読み物として読んでも楽しめる特集号でした。

[出版年]
1992年10月

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
192

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

1986/2020 – 山地幸雄氏による『ジゴマ』説明(『おゝ活動大写真』カセットより)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Victorin-Hippolyte Jasset Jasset]」より

戦前弁士の映画説明をまとめた音声資料『おゝ活動大写真』が10日ほど前(8月5日)にキングレコードから再発されました。

LP版は1976年発売、カセット版は1986年、2枚組CD版が1997年に発売、いずれも絶版になっていたものです。今回のCD版は1997年版そのままの復刻ではなくカセット版と同じ全8曲1枚組で、Mora.jpでハイレゾ音源を楽曲ごとに単体購入することもできます。

本作冒頭には山地幸雄氏による『ジゴマ』(1913年)の説明が収められています。


花の巴里か倫敦か、月が泣いたか不如帰。今や巴里市民を恐怖のどん底へ追いこむ、風の如き怪盗團在り。現場(げんじょう)に殘る「Z」の一字、「Z」とはそも何者か。ここに名探偵ポーリン、この秘密をば解かんとす。ジゴマ変装すれば、ポーリン探偵もまた変装。ジゴマ勝つか、またポーリンか。果たして勝利は何れの手に。内容は云はぬが花の玉手箱。文明開化はエレキ応用、場面の開展につれまして詳細に申し上げますれば、これまた絶大なる拍手喝采の内に御高覧を願つておきます。

今や画面は刻暗々、こゝは何処ぞ、草木も眠る丑三つ時、折しもピカリピカリと闇を照らす異様な光、大蛇(おろち)の目玉か、さにあらず。これ[…] 腐心の大発明、文明の利器、懐中電灯であつた。闇に紛れて忍び寄る怪しの影、抜き足差し足忍び足。ああ恐ろしや。これぞ稀代の大悪漢、Z團團長ジゴマであつた。危うし、今や金庫を開けんとすれば突如「ジゴマ御用だ!」、やにわに飛びつく夜番のおやじ、用意周到ポーリン探偵、かくもあらんかと予ての変装、[…]の闇の中、ここに両者は組んづほぐれつ、善玉悪玉入り乱れ、服は裂け釦(ぼたん)は飛ぶ、今も尚歴史に殘る肉弾相討つ、壮烈なる一騎討ちとはなつたのであります。

パツと電球がつくなれば、こはそも如何に、ジゴマの姿ははや何処。

「おのれ逃がしてなるものか、ジゴマ待てい」

ジゴマはそんなに馬鹿ではない。これには答えぬ韋駄天走り。巴里停車場、ヒラリ列車へ飛び移る。轟々たる大音響、レールの上をば汽車は驀進(ばくしん)、一足遅れたばつかに残念至極、「ここでジゴマを逃がしては我何の顔(かんばせ)ありてか[…]に見(まみ)えん」。おお見よ、全速力急行列車、電光石火ポーリン探偵ヒラリ決死の離れ業。「悪漢ジゴマ卑怯なり、我はポーリン探偵ぞ」、絶叫すればビツクリ仰天、ジゴマは「見つかつては一大事」と早くも列車の屋根へ上れば続くはポーリン。進行する列車の上、再び生者は一生一会、しばしは激しい大格闘。

されど無念、ジゴマの力や優りけん、あつと云ふ間にポーリン墜落、重症の身とはなつた。飛んで火に入る夏の虫、してやつたりと悪漢ジゴマ、倒れしポーリン探偵後目(しりめ)にカンラカンラと打ち笑ふ。ジゴマを乗せた汽車は何処へ、ポーリン探偵の運命や如何に。残念ながら今週上映全篇の終はり。

七五調を基本とした流麗な語りです(流麗すぎて数ヶ所聞き取れませんでした)。『ジゴマ』の他に『不如帰』『さらば靑春』『血煙り高田の馬場』『渋川伴五郎』『忠次旅日記』『プラーグの大学生』を収録。戦前話芸のひとつの進化形として映像抜きでも十分楽しめそうです。


2013 -『アルデンヌ⁼ワロン誌増刊 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』(ポワント・デ・ギヴェと周辺地域地方史研究会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

2013 - Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 - 1913

ヴィクトラン・ジャッセ監督の死後百年となる2013年、同氏の生家があるアルデンヌ地方の地方誌が特集号を出しました。

序文が置かれた後、第1章)劇場に雇われていた青年時代からニック・カーター連作で映画監督として名を上げるまで、第2章)ニック・カーターから『ジゴマ』、第3章)遺作『プロテア』を含む晩年作品と展開していき、最後に「付録」として本作でも全訳を掲載したジャッセの論考『活動寫眞監督術考』が収められています。

ヴィクトラン・ジャッセがフュメ(Fumay)で過ごした幼少時や青年期の情報はほとんど知られていない。

冒頭の断り書きにあるようにジャッセ監督については若い頃の情報がほとんど伝わっておりません。それでも父親がイゼール県出身の大工さんで鉄道の敷設工事に関わっていたこと、母親は再婚でジャッセにとって義兄にあたる人物がいた話が触れられています。序文ではこの義兄の家に残されていた親族写真が掲載されていました。数少ないプライベート写真と思われます。

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第1章ではエクレール社の映画監督として名を上げるまでの話が触れられています。断定されてはいないものの現在でもパリのナシオン広場に置かれている「共和国の勝利像」作者である彫刻家エティエンヌ・ジュール・ダルーの弟子だった可能性があるそうです。世紀が変わって1900年代冒頭となりイポドローム劇場に雇われます。舞台背景のデザインやポスター制作を担当していたそうで、雑誌にはジャッセのデザインしたイベント告知用ポスターが掲載されていました。

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この後初期映画界と接点が生まれ、アリス・ギィ・ブランシュのアシスタントを経て自身が監督として生計を立てるようになっていきます。ニック・カーター物でヒットを飛ばし、ジゴマで一世を風靡、その後社会派作品や怪異色にも展開しつつ『プロテア』を遺作として1913年に病没。とりたてて新しい情報はないものの『ジゴマ』封切時に映画館前に貼り出されていたポスター、『ニック・カーター』演出中のバックヤード・ショット、『プロテア』主人公役のジョゼット・アンドリオの全身ポートレートなど貴重な写真が含まれていました。

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ジゴマ公開中の映画観の様子

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ジョゼット・アンドリオ

地元の歴史愛好家たちによる「自分たちの町からこんな凄い監督が生まれたんだよ」の思いがこめられた一冊。地方紙の増刊号ですのでフランス全土に流通しているものではありません。

とはいえジャッセ監督についての単独の著作物は1975年の『ジャッセ』が唯一で、本作は35年ぶりにその記録を変えたことにもなります。本誌が映画史視点ではなく、地方史の観点から出版されたのはある意味示唆に富むものです。

例えばジャッセの後継者となったフイヤード監督は当初パリを中心に活動しつつ、中期以降は出身地の南仏(ニース)に戻り地方色・郷土色を強めた作品を発表するようになっていきました。首都一極の世界観に逆らう感覚は「郷土色重視 (régionalisme)」とも呼ばれ、映画のみならず文芸・アート一般で重要な意味を持ってくるものです。

ジャッセ作品にはフイヤードほど直接に反=パリ指向を打ち出した形跡はありませんが、地方の労働者の子として生まれ育った記憶・経験が何らかの形で反映されている可能性は高く『活動寫眞監督術考』などと照らしあわせながら視点を掘り下げていくことはできると考えています。

[原題]
Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 – 1913

[出版者]
Revue Ardenne Wallonne

[出版年]
2013

[フォーマット]
ソフトカバー、32ページ、29.5 × 21.0 cm

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。

1933年 – アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1933年 - アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡
Alexandre Arquillière 1933 Letter to Emile Drain

10月5日の12時半、バリュ通りのレストラン「デ・ヴォージュ」に世界演劇協会(SUDT)の同志数名が集まる予定になっています。興味あるのではないかな、と。良ければご参加を。

Quelques camarades de la S.U.D.T. se réunissent le 5 Octobre à midi et demi au restaurant « des Vosges » rue Ballu. Je pense que cela peut vous interesser et vous demande d’en être.

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1912年『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』宣材スティル。左手前にジゴマ役のアルキリエール

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スーパー8『松竹 日本映画史 前編』より『ジゴマ』抜粋

1911年の映画版『ジゴマ』で主役ジゴマを演じたのは舞台出身のアレクサンドル・アルキリエールでした。

アンドレ・アントワーヌが1887年に設立した「自由劇場」の古参メンバー。大手と一線を画した自然派志向で知られた演劇一派で、今で言うなら演劇界のオルタナティヴな流れに位置しています。

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1916年の演芸誌ランプ表紙を飾ったアルキリエール

同劇場時代に知りあったフィルマン・ジェミエとはその後長く交友が続いていきます。ジェミエは1922年にオデオン座支配人となり、次いで1925年に国内活動に留まらないグローバル演劇を指向する「世界演劇協会(SUDT)」を設立しています(現在のユネスコ国際演劇協会のルーツの一つ)。

アルキリエールも多かれ少なかれこの活動に絡んでいたようで、俳優仲間のエミール・ドレン宛に会合の日時を知らせたのがこちらの手紙です。封筒も残っていて消印は1933年10月2日付。

いわゆる美形俳優の枠に括られる俳優さんではないものの、存在感と豊かな表情が舞台映えします。映画との関連も深く、1908年からアルベール・カペラーニ短編に登場、10年代にジャッセ作品の主要俳優となって「ジゴマ」が当たり役となりました。その後もジェルメーヌ・デュラックの不条理家庭劇『微笑むブーデ夫人』(1923年)やジャン・ルノワールのエキゾチックな南部劇『荒地(ブレッド)』(1929年)で重要な役割を演じていました。

[IMDb]
Alexandre Arquillière

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(ロワール県)

[誕生日]
4月18日

[データ]
住所入りの個人用便箋に手書き、13,5 x 21 cm。封筒はパリ市ガール・サン・ラザール局の1933年10月2日付消印有。

1911年 – 「活動写真監督術考」 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ著


活動写真監督術考
ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ
(1911年 シネ・ジュルナル誌 165、166、167、168、170号連載 [未完])

 

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911)
Victorin-Hippolyte Jasset

 

※本稿は『ジゴマ』(1911年)『プロテア』(1913年)等の活劇を監督したヴィクトラン・イポリット・ジャッセが生前に唯一残した映画論の私訳です。1911年のシネ・ジュルナル誌に掲載されたもので、その後1946年『初期映画批評集』に抜粋が、2013年公刊の地方誌『ルデンヌ⁼ワロン別巻 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』に全編が転載されています。また1993年に公刊された『フランス映画批評集・第一巻』(プリンストン大学出版局)に英語の抄訳が掲載されていました。

 

 

フランスでの著作権はEU基準に基づき著者の死後70年まで保護されることになっており、1913年に亡くなったジャッセに関してはすでにパブリック・ドメインに入っています。やや古風なフランス語で日本語に直訳しにくい部分が多く、だいぶ訳し崩したもののまだ生硬な個所が目立ちます。時間を見ながら修正をかけていく予定です。邦訳に関してはクリエイティヴ・コモンズの扱いとします。

 

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911) Hippolyte-Victorin Jasset
『活動写真監督術考』シネ・ジュルナル誌初出

[1]

活動写真が始まったばかりの頃、この若き産業が後々驚くべき飛躍を見せるだろうとか、発展とともに倦むことのない進化を遂げていくだろうと予想できた人は誰もいませんでした。

動きを[スクリーン上に]再現するやり方が見つかりました。人々が最初に考えたのはどう作品や商品に応用するかでした。考えられるかぎり最も単純な映画作品が生み出されていきました。駅に到着する機関車、工場から退出する人々、壊された壁が埃を舞いあげ倒れこむ様子、滝の水、岩礁に打ちつけて砕けていく波…動きがあって見栄えしているならありとあらゆるものが映画を作る口実になったのです。

『壁の取り壊し』(1896年、リュミエール兄弟)

1898〜99年の映画の長さはまだ20メートルでした。短編喜劇も作られてはいたものの尺的にはそれほどではありませんでした。

この時期、モンマルトル界隈で活動していた画家・イラストレーター達の考え方を十年に渡って束ねあげていた日刊紙シャ・ノワールがジル・ブラス紙増刊号と並んで映画の力を借りていました。スタインライン[1]やヴィエット[2]、ドエス[3]、ギヨーム[4]、カランダッシュ[5]らのセリフ無しイラスト作品は当時の短編喜劇映画から生み出されてきたものです。

次いで自然の只中での屋外撮影、時事ドキュメンタリー、風光明媚なる景色、機関車で世界中を旅する作品が作られていきました。映画は単に目新しい流行り物でしかなく、舞台芸術と真面目に比較する者など一人もいませんでした。

次いで人々によく知られた物語、歴史物(服屋で廃棄処分予定だった服を使い、撮影場所は古めかしければどこでも構わないという適当さ)、戦争物、闘牛などが映画化されるようになっていきます。撮影機材の移動コストを抑えるためならパリのどんな場所、どんな一角で撮影しても良いというのが当時の一般的なやり方でした。ビュット・ショーモン公園には当時の撮影で、勝ち誇ったボーア人を前に敗走するイギリス軍が馬に乗って駆けていった跡が残っていたりします。

当時はこんな調子でも問題なく、観衆は英軍対ボーア人の戦闘実録を目の当たりにしていると思いこんでしまうのでした。

この頃の映画製作の裏舞台はどのような感じだったのでしょうか。この点をまとめておくのは大事なことです。というのも映画芸術のゆったりとした変容に少なからぬ影響を与えているからです。

冒頭で触れたように、映画ビジネスに関わり始めた人々は将来的な展望を持っていませんでした。頭にあったのは作品を超特急で作り上げることばかり、完成度を高めようとは露ほども考えてはいませんでした。まだ映画専用の劇場もありません。成り行き任せで役者を集め、演技させる口実を探し出すのに一生懸命でした。

当時[俳優やカメラマンなど]技芸を持った人たちは大した創造力を発揮する必要もなく、制作側からそういった人々への配慮は為されていませんでした。劇場で配役の割当てを行っていた人物、キャスティング部門の長が映画製作の起源の役割を担うことになりました。

大雑把に大人数を捌くスキル、劇場の手配者との仕事つながりを活用したのです。とはいえそれが彼らのもたらした全てでした。

にもかかわらずこれらの人々は映画業界に棲みついてしまい我が物顔で振る舞うようになっていきます。芸術の観点からするとこの連中がもたらしたものはちぐはぐでまとまりのないものでした。独力で、かつ経験で身につけた映画製作の仕事を自分本位に展開させていき、自分たちを困らせたり、状況に文句をつけたりしない連中だけを輪の中に入れていったのです。

その結果として1893年から1903年にかけて映画は足踏みし何の発展もないままでした。「ピークで高止まり中」とされたこの産業などいつ見捨てても良いくらいの気に誰もがなっていたのです。

業界で先行していた英国は映画向きとは言えない霧の多い空模様があだとなりつつ、フランスとは違った喜劇一派を成していきました。この一派からは「追跡物」のジャンルが生み出され大衆的な成功を収めていきます[6]

『戸外の大胆な強盗』(1903年、フランク・モッターショウ)

手掛け始めたばかりのビジネスが面白いものを生み出していきそうだ、と気がついたのがパテ社でした。同社は映画作りにルールを敷き、各部門の質を高めようと試みます。この努力は華々しい商業的成功によって報われることとなります。

パテ社初期の監督たちは知識も技術もありませんでした。それで彼らのおかげで映画はそのカバーする範囲をここまで広げていくことができたのです。直感的に、パッと目につく質にこだわったことで売上が上り、映画の真の側面が見えるようになりました。英国派は独創的ではありましたがまだ完成度に難があり、フランスの監督たちによって良い所取りされてしまったため方針転換と調整を図られます。パテ社監督たちは喜劇のジャンルで現在でもモデルとされつづけている秀作を生み出していきました。ここにフランス派が生れたのです。(シネ・ジュルナル紙 1911年165号51頁)

[2]

特撮あるいはトリック映画が登場してきます。最初は動きを逆に見せるものでした。映写技師はコメディ映画を上映している際に時々フィルムを逆回転させました。するとどうでしょう。壊れてしまった物が集まって元通りになり、液体が瓶に戻り、人間が高い場所に飛び乗ってしまうのでした。

メリエスは映像のおとぎ話を作り出しました。写真の分野で知られていたトリックを出発点としておとぎ話じみた一連のエフェクト全てを発明していったのです。それ以降(合衆国のアニメを例外とすれば)新たに付け加わった技法は何一つないほどでした。

おまけに才能と機知を兼ね備えていて、トリックを物語にまとめあげて独創的で面白みのある奇譚を生み出していったのです。

メリエス作品は長期に渡って流行を見せていましたがこの成功は作品価値に見あったものでした。メリエス一派が衰退したのは進化しようとしなかったためです。メリエスの作品では被写体を見せるためにいつも特殊な飾りつけをした舞台が必要とされていました。こういった装飾を必ずしも必要とせず、できる限り戸外で撮影する方向に映画は進んでいきました。メリエスは自分のやり方を変えようとはしなかったため流行から取り残されてしまったのです。

メリエス流の作品はパテ社でも作られていくことになりますが、意図に反して手直しが加えられていきます。ある器用な現場技術者[7]がトリックを応用した作品作りに熱心に取り組んでいました。彼の欠点はメリエスがしていたように場面を面白く見せようとする工夫を充分にせず、細工さえあれば事足りると甘んじてしまったことにありました。1908年から10年にかけこの種のおとぎ話は下火になっていきました。

1904~05年には英国起源の「追跡物」が大流行。喜劇だけではなくドラマ作品の肝としても使われるようになっていました。典型的な例で言うと、浮浪者が不注意から藁の山に火をつけてしまいます。放火だ!消防士の到着に消火、犯人を追跡して森を抜け、野原を駆け抜け、障害物を乗り越え鉄道に飛び乗り、峡谷をまたぎ、川を越え…ようやく犯人逮捕で罪を償いめでたしめでたし。追っかけだけで作り上げた物語ですが、しっかりした脚力さえあれば撮れてしまう作品でもありました。この時期には軽業師が映画の王様だったのです。

追跡喜劇は相当数制作され、その多くが現在でも語り継がれています。

この時期(1906年)に本格化したのが遠隔地での屋外ロケでした。それまではヨーロッパ各地、アジア、アフリカからアメリカを舞台にした場面でも近場のヴァンセンヌの森、ビュット・ショーモン公園、マルヌ川の河畔のノジャンやジョアンヴィル=ル=ポン(日露戦役の場面もそこで撮影されました)を使って撮影されていました。キリスト伝の映画化に際し、ゴーモン社が最初の屋外ロケを行ったのはフォンテーヌブローの森だったのです。

それに続いて映画製作会社各社がこの森に入りこんで撮影を始めました。フォンテーヌブローの森は長きに渡って「どことでも解釈できる場所」と見なされるようになっていたのです。

一旦屋外ロケが軌道に乗ると目的地が広がるようになってきました。撮影スタッフはまずはフランス国内全土、次いでスイス、イタリア、コルシカ島、アルジェリアにチュニジアを次々と訪れていきます。

にもかかわらず、観衆の方は無邪気にも全ての場面がフォンテーヌブローの森で(或いはジャーナリストの言葉を鵜呑みにしてパリ周辺の旧城郭跡で)撮影されたと信じこんでいる始末でした。

1906~07年。及び腰ながらも映画は一歩一歩進化していました。映画業界についてはこの頃まで見世物小屋の支配人を相手にしか商売してはいけない決まりになっていました。まだそんな世界が隠されていなかった時代のパリで奇異を生業にしていた人々です。

見世物小屋にやってくる客は単純で子供じみた映画以外を理解できる教養を備えてはいませんでした。芸術家肌の連中、あるいは芸術の話をしたがる者は胡散臭く思われ映画界から容赦なくつまはじきにあいます。映画を作り出した連中が業界をまだ牛耳っていたのです。メロドラマが初めて現れてきたのが1906年頃。その成功は凄まじいものでした。当時の作品の一つ『赦しの掟』[8]は現在でもよく知られています。内容は単純そのもの。おそらくそれが成功の一因でもあったのでしょう。『鐘突きの娘』[9]公開もほぼ同時期でしたが内容はもっと複雑でした。でも『赦しの掟』の成功には到底及びませんでした。これで道筋が決まりました。メロドラマは映画に活路を見出したのです。

『赦しの掟』(1906年、アルベール・カペラーニ)

追跡劇はまだ作られていて簡単に衰退しそうな気配はありませんでした。人間の追跡劇を一通り済ませると動物を使った追跡物が始まりました。『密売犬』[10]はスキルの高い調教師とスタッフを揃えた映画監督の共同作業となり、犬による追跡場面だけを作品の目玉として大きな成功を収めました。便乗作品が続々と登場しますが一作目の盛り上がりは別格で乗り越えることはできませんでした。

この時期は救出物の時代でもありました。これほど多くの人々の命をありとあらゆる方法で救った時代は今までありませんでした。ありとあらゆる物が人命を救います。映画産業が衰えつつあった英国がこのジャンルを得意としていました。あらゆる種類の犬たちがあらゆるシチュエーションに登場、挙句の果てには人の命を救う馬まで現登場し、観衆は熱狂的に囃したてていたものでした。

撮影術は大きな進歩を見せていました。この時期から逆光などの効果を取り入れるようになっていきます。直射日光の下で撮影していた時代とは雲泥の違いです。見せ方も素朴なものから芸術性を凝らしたものに変わってきました。単に当たり前の事をするだけの時代はとっくに終わっていて、監督がそれぞれのこだわり・趣味性を発揮し場面を調整していくようになっていたのです。

それにも関わらず、役者の演技は改善されないままでした。さらに言うならばこの時期、真剣に演技に取り組んでいる役者はそもそも映画にはやってきませんでした。速度感を要求され、何度も撮影機材の邪魔が入る上にやたら誇張された演技に恐れをなしていたのです。小遣い稼ぎのアルバイトでやってくる連中か、配役部が劇場から調達してくる人々しかいませんでした。

さらに言えば他とは違う質の高さを映画に持ちこもうとする発想そのものが意味を持ってはいませんでした。演技などは必要ではなく、見てとることすらほとんどできませんでした。作品冒頭で状況を手短に、できる限り簡略に説明し、すぐ重要度の高い激しいアクション場面に入っていきます。キャラクターの設定を作るとかニュアンスを与えるといった些細な事に時間をかけている暇はなかったのです。

当時の決め事で大事だったのは主人公の動きの追跡でした。例えば主人公が通りに出ます。建物のドアをノックし、廊下に入っていき、また部屋の扉をノックする…という形で見せないといけませんでした。延々と主人公を追い続けなくてはいけなかったのです。

その結果、細かい部分を気にする演技達者は無用の長物で、仕事のコツをつかんだちょっと頭の回る役者に取って代わられてしまいます。そのため表現力のある役者は映画に関与しないという状況になってしまいました。

パテ社は労力をかけただけの収益を上げることに成功しました。非の打ちどころのない作品を生み出し続け、完成度だけでなく使用機材の面でも他に先駆けて市場のトップを走り続けていました。競合他社があちこちから現れてきます。フランスで映画会社の設立ラッシュが始まります。パテ社は単独でフランスの映画産業を束ねたがっていたにも関わらず、そして自身望んだ訳ではないにも関わらずひとつの流派になっていました。そして望んだ訳ではないにも関わらず雇っていた労働者や技術者、監督たちを他社に流出させてしまいました。

イタリアの動きが始まります。同国の映画産業はマーケットで大きな位置を占めるようになっていきます。

そこまでに至るイタリアの武器は素晴らしいものでした。他国以上に撮影に適した太陽光線があって、天気を気にせずいつでも撮影することができます。顔立ちも映画向けで素晴らしく、映画製作や現場でかかる費用は少なめで、駄目押しに潤沢な資本を備えていました。

自身の作り出した映画産業をほぼ独占してきたフランスにとって、イタリアは真っ向勝負を挑んできた恐るべきライバルとなりました。

これだけ有利な側面を持ちながら、イタリア映画は長きに渡ってフランスの専門家たちの手を借りていました。

イタリア映画が独り立ちしたのはしばらく経ってからの話でした。

その気質もあって、イタリアの役者たちは荘厳で誇張気味の演技を見せるようになります。一方で人件費を比較的抑えることができたため、役者の人数を増やし、豪華な衣装を使った大掛かりな群衆場面に登場させることができるようになりました。

歴史映画はイタリアの独壇場となります。

一つの流派が形成されたのでした。(シネ・ジュルナル紙 1911年166号 33、35-37頁)

[3]

一つの流派が形作られていきました。

この流派で重要視されていたのは映像の細部ではなく全体の効果で、見ている人を驚かせようとしています。装飾に装飾を積み重ねていき、モブシーンを熱気のある形で、しかも多くの場合見映え良く動かしていきます。ただし衣装や時代考証を正確に行っているかといえば必ずしもそうではありませんでした。

イタリア一派はフランス史やフランス文学への好みを強く見せていましたが、その解釈は往々にして軽薄で考証に欠けたものでした。他国でならさほど目立たなかったかもしれませんがフランス国内では相当の衝撃が走ったのです。フランス一派は細かな部分に気を使っていたにも関わらず、イタリアだと細部は取るに足らないと見えているようでありました。

ナポレオン英雄譚も映画の素材とされていきました。しかしイタリアの人々には理解できなかったようで軽めの歌劇として扱われてしまいました。

役者の演技も押しなべて力足らず。ある意味当然です。当初イタリアの俳優は映画界で働くなんて自分たちにふさわしくないと思っていたのです。短期契約の映画俳優業に対しフランスだと役者養成の下積み期間がありましたが、イタリアにはありませんでした。大袈裟に強調されたイタリア流の演技は一目で分かるものでした。無知な映画人によるこの手の演技は舞台喜劇の教えからすると到底許しがたいものでした。着付け一般についても同様の悪印象が見られます。

それでもイタリア映画は勃興期に傑作をひとつ生み出しています。以来映画が目覚ましい進化を見せたにも関わらず、三年後の今でさえ最高峰の監督術を伺わせる作品の一つです。『ポンペイ最後の日』[11]は公開されるやいなや芸術のセンス、丁寧な演出、アイデアの巧みさ、作品を支えるコンセプトとその実現の重厚さ、同時に例外的な映像美によって市場を激変させるに至りました。

『ポンペイ最後の日』(1908年、アルトゥーロ・アンブロージオ)

この例外的作品でアンブロージア社は最良の映画社の一つと見なされるようになりました。

この後の同社作品は、多くが一級の出来映えだったとしてもまだ『ポンペイ最後の日』を超えることはできていません。

喜劇に挑戦したこともありました。納得のいく作品を作るため自国俳優を諦めフランスの役者を招き入れました。フランス俳優はイタリア映画に独特の調子をもたらしたのですが、そこにはアンドレ・ディードが主演したグリブィユ連作が含まれていました。別なフランス男優も他社のスター女優と組んで大きな成功を収めたりしています。

手短にまとめるなら、イタリア一派は映画術の進歩に貢献しなかったということです。フランス派に追随し、もとから決して少なかったとは言えない仏一派の欠点を増幅した形になります。

他方イタリアの映画界は豊かでした。仕事ぶりは目覚ましく意識の高さが伝わってきます。

往々にしてフランス映画よりイタリア映画の方が一般受けが良かったりもしました。真の芸術という点では不完全だったとは言え、イタリアの映画は面白く、大胆さだけではなく、その壮大さや人の動きに目を見張るものがありました。弱点もまた個性に変わります。イタリア人たちはフランス派が怖気をなすようなことも果敢に試みていきます。映画として扱うのが難しそうな主題を前にしてもひるむことがなかったのです。イタリア映画には演技が、独自流とはいえ演技があったという話でもあります。

芸術性を備えた映画作品が生み出されました。丁寧に見ていけば時代錯誤や勘違いが多く含まれてるとしても、それにも関わらず内容として面白く、しかも売れたのです。

新興イタリア映画にとっては売れた者勝ちであり、フランス側からは恨み節も聞こえてきました。でも戦って勝てる相手ではありません、フランスでの製作費を考えると人材や資材をこれほど無駄使いする余裕はなかったからです。

イタリア喜劇には勝れた作品が多く含まれていました。ただ実際の製作はフランスで、演じているのもフランス俳優でした。配給に携わった者たちはフランスでは絶対にありえないレベルの贅沢な舞台や小道具類を配したフランス映画が進化していくのを見続けていたことになります。

イタリアはフランス映画界にとって最強のライバルの一つになったのです。

同時期のフランス映画産業にも目覚ましい発展が見られました。

新たな会社が生まれていました。パテ社で生れた一派は業界で重きをなしたのち、新天地を求め同社を離れていきます。監督と技術畑のスタッフと共に現場で教わってきた、または経験で覚えてきた厳格な規則が同業他社に流出。それまでほぼ門外不出だった映画製作術が他社の手に渡ります。

イギリス資本のアーバン社はフランスの映画社エクリプスに姿を変えました。時事ニュースを止めて劇映画に進出。市場に展開した作品はとても成功し名声を上げていきます。そこから派生してきたのがラディオ社でした。同社トップには映画界で初の職人の一人、最も知名度のある技術者だったクレマン・モーリス氏[12]が就任しています。

エクリプス社は存在感を増していきます。

ゴーモン社の扱うジャンルは飛躍的に広がっていました。初めて純パリっ子と呼べる独創的な喜劇ジャンルを生み出しています。このジャンルは現在でも同社の十八番となっています。追跡物でもこれまでの通常の喜劇短編でもありませんでした。機転を利かせ、アクションが多く、新たなアイデアと手法に満ちています。今でも覚えている人が多いのでここで作品名を上げるのは気が引けるのですが、たとえば『管理人室でのお茶会』[13]『磁石になった男』[14]『包まれた配達人』[15]『提督の物語』[16]『デモをしない男のある一日』[17]。もっと味気ない作も他に何十何百と作られていました。

『磁石になった男』(1907年、ルイ・フイヤード)

他ジャンルでゴーモン社は何も生み出してはいません。大掛かりな歴史物で時折イタリア一派に肉薄してみせた程度でした。

エクレール社が市場に登場してきました。

この新興会社はすぐに注目を集めました。ニック・カーター探偵物を映画化して名を上げます。また本作によって初めての「連続物」が開始されました。同じ役者が話をまたいで再登場するもので、観衆は自分が見た作品の続きを見たくなる仕掛けです。此の発想は以後独自の道を歩んでいくことになります。エクレール社はドラマとアクション物を得意とするようになり、これが同社の評価につながっていきます。

同時期、撮影レベルが低く、演技も上手いとは言えず、人の姿が太ももまでしか映っていない、支離滅裂か愚劣としか形容できない脚本を元にしたまとまりない作品が市場に現れてきました。欧州では驚き、あるいは皮肉交じりに受け止められたものです。

アメリカ一派が誕生していたのです。

この時期に脚本術の研究や、演出に費やされるこだわりが強まっていたとはいえ、フランス派は何一つ進歩を見せていませんでした。

俳優たちはかつてのように映画を忌避することは少なくなっていて、映画出演の機会が増えていきました。でもすぐに既存の流派に染まってしまいます。決まった型に必要とされる厳密な決めごとだけを守るようになり個性は消え失せていきます。慌ただしく演技させてしまうことで、役者の個性がもたらしうる面白い部分を殺してしまうのです。

衣装や小道具、舞台などの点から見ると映画の監督術は丁寧で細やかなものになりつつありました。でも演技については相変わらずでした。あわただしく、ぶつ切れで、あってよさそうなニュアンスが欠けていました。

しかしこういった状況に逆らう動きが幾つかの映画会社で見られるようになります。この傾向は映画を扱う業者たちからすぐに押さえつけられてしまう結果になりました。彼らが欲していたのは上質な演技ではなく、アクションであり短編だったからです。

映画の進化を決定していく出来事が起ころうとしていました。

悲観的な者たちに「映画業界は死にかけている」と毎日のように言われながらも映画は拡大を続け、劇場へと進出し舞台人たちを震え上がらせました。今や映画を力のあるライバルと認めざるを得なかったのです。

パリや欧州主要都市に映画館が続々と作られていきます。

この新興産業はありとあらゆるものに手を出し、全てを呑みこんでいきました。旅行記、時事ニュース、歴史物、人間ドラマ、喜劇…さらに音声をつかった映画の試みも幾つか行われています。

拡がりつづける動きに演劇界、そしてコメディ・フランセーズ座の花形が追随したのがこのタイミングでした。

映画との全面対決が無理だと分かったため、むしろ映画を利用していく方向に舵を切ったのです。

芸術映画派(フィルム・ダール)の誕生でした。(シネ・ジュルナル紙 1911年167号 31、33、35頁)

[4]

芸術映画は革命であり、古くからのやり方をゆっくりと、絶え間なく進化させていくことになりました。

[シャルル・] ル・バルジ氏[18]がコメディ・フランセーズ座の役者を監督し映画を作る話が広まった際、人々は映画界の流儀を知らない舞台人がどんな映画を作るのか議論を交わしながら成り行きを見守っていました。超大作になりそうだ、製作費が怖ろしいほど膨れ上がるのでは。そんな話が出ていました。

製作には時間がかかりました。どう演技するか、どう尺を使い物語を紡いでいくか、様々な問題にぶつかったのです。ようやくフィルム公開にこぎつけます。確かに驚きでした。一般客の多くは理解できず、心を動かされることはありませんでした。しかし業界人たちに今まで守ってきたルールが無駄であったと理解させるには十分だったのです。実力派の役者たちが出演し劇場と同じ成功を収めます。彼らは劇場と変わらぬかのように演技していました。演技は生硬で、走り回ったりはせず身じろぎ一つしません。演技のもたらす強度が高まる効果が得られたのです。驚き以外のなにものでもありません。出来映えは見事でした。業界視点から見て許容できる程度のミスはあり、しょうがないと思える点も多かったのは事実です。それは初挑戦の役者が様々な困難を乗り越えようと試行錯誤した痕跡でもありました。諸々を含めて『ギーズ公の暗殺』[19]は傑作だったと言えます。

『ギーズ公の暗殺』(1908年、アンドレ・カルメット&ル・バルジ)

ル・バルジ氏は自身の役柄を細心かつ緻密に、豊かな細部を織り交ぜながら演じています。注意深く見ている者にとっては青天の霹靂でした。百戦錬磨の監督が慣習を破りたくないと怖がってできなかったことを新米監督が成し遂げてしまったのです。

氏によって新たな原則がもたらされました。先人たちによる経験は考慮には入れられていませんでした。それでも彼のやりかたはこれ以上正しいものはないものでした。技術面に関わる規則を幾つか除いてしまうと、旧派がのんびりと発展させてきたものは何も残りません。旧習は音を立てて崩れ落ちていきました。

芸術映画派が映画の流れに及ぼした影響は如何ほどだったと言えるでしょうか。当初ほぼゼロでありながら、途轍もない結果をもたらしています。アメリカ映画を覚醒させ、変容をうながし、今そうである一つの流派に形作っていったのですから。

芸術映画の企画そのものは商売での結果につながりませんでした。期待していたほどではなかったのです。観客は急激な変化を理解できず冷たい反応を見せました。映画のテーマはしばしば退屈。成功しているごくわずかな場面を生み出すためにどれほど失敗が多かったことか。制作費も法外に高騰していました。つまるところ、関係者たちの戦意喪失という話です。芸術映画が形骸化し、良く知られたブランドマークを冠したありふれた映画会社となり果てた時点でル・バルジ氏は離脱していきます。

それでも確立された規範は残り続けていきます。フランス派は一歩一歩賢くなっていきます。映画に何が出来るか見てとったあらゆる分野の芸術家が力を貸すようになってきました。

映画が変わりつつあった当初の時期が賢明ではなかったという点は疑いようがありません。長く続いてきた伝統をすぐに打ち切る訳にもいかないのです。それでも動き出してしまったものを止めることはできず、配給側も芸術に関心を示す客もいるのだと理解し、認め始めるようになりました。題名に「芸術」「ゴールド」「ダイヤモンド」「原理」「美」を冠した連作物が各社より発表される展開となったのです。イタリア絵映画では二百名の俳優を追加して芸術映画と銘打ったことがあります。

軌を一にして異なった流派が形成されていきました。集まってきたのはフランスの作家、文芸畑の人々(作家・文人映画協会)。彼ら脚本レベルを改良しようとしていました。

質の高い俳優の演技とこだわり派の監督による演出も相まって、この流派がしばしば優れた脚本を生み出した点に疑いはありません。しかしながら芸術映画派が一歩先んじており、文藝一派では結局到達できなかった独創まで突き進んでいました。文芸派のもうひとつの誤ちは、旧派がこれまで幾度となく繰り返してきた物語を繰り返してしまったことです。質が落ちた訳ではなかったのですが良くなったとは言い難いものでした。そのため同派はフランス一派の進歩に影響を与えませんでした。それでも売り物としては立派なもので、他社のレベルを超えはせずとも一定の質を維持していました。同派の脚本には掘り出し物が幾つか見つかります。しかしジャンルを生み出すまでには至らず、業界に新しい要素を持ちこむことはできませんでした。

芸術映画派によって悲劇作品の道が開かれました。猫も杓子も追随していったものの特筆すべきジャンルは開拓されませんでした。しかし1909年の終わりがけに作家文人映画協会が公開したミミ・パンソン嬢[20]の連作が各地で話題を呼びました。叙情的な恋愛物がしばらくの間流行。同時期、俳優たちはピンで主役を張れるよう奮闘していました。アンドレ・ディード氏[21]は先にデビューしていたマックス・ランデ氏[22]と時期を一にして自身を主役にした作品での成功を収めました。俳優たちは誰も彼も連作で当てしようとし始めました。シャルル・ルプランス氏[23]は作家文人映画協会でプリンス君シリーズを始めます。観衆の興味を引き、お気に入りの役者「ディード&プリンス」をドラマや喜劇で見たい!の声が上がるようになりました。画面に繰り返し出てくる役者には目が止まり、知名度があがって客も良し悪しを見極めるようになっていきました。ゴーモン社はアベラール少年[24]が好感度の高いスターになりそうだと考えました。

同じ役者が何度も出てくると見ている側は飽きてしまうと言われています。真逆だったのです。業界ではこういった俳優を契約で囲いこむ動きが見られました。(シネ・ジュルナル紙 1911年168号 38、39、41頁)

[5]

映画産業は繁栄し、強力な産業になっていました。専属の技師と技術者を抱えるようになっていました。部門毎の専門性も高いものになっています。始まったばかりの頃の棚ぼたで成功した映画界とは別物でした。働いている人の数は相当数に上ります。これらの諸部門で最も重要性が高かったのが演劇部門でした。世界各国で毎日のように新会社が設立されていました。かつて世界市場を牛耳っていたフランスに今度は国外の映画会社が食いこんでくるようになり、しばしば国産映画以上の成績を収めるようになっていました。合衆国からは恐ろしい一撃がもたらされました。

長きに渡りアメリカ人は手探りの模索を続け、独自の路線を見つけ出そうとしていました。彼らが最初に撮った作品の出来は酷いものでした。失敗にもめげることはありませんでした。というのも手持ちの資金は潤沢で、やり遂げようとする意志があったからです。ありとあらゆる挑戦をしてみました。歴史劇やシェークスピア劇はあまり上手くいきませんでした。続いて製作した作品は鉄道や、アメリカ風追跡劇、ネイティヴアメリカン、カウボーイなど手近な素材を題材にしたものではるかに良い出来映えでした。客たちは大いに沸いたものですがフランス映画との差異は大きくはなく、せいぜい演出時の大胆さと巧みさの違い程度でしかありませんでした。その後にヴァイタグラフ社が公開した『幽霊ホテル』[24]が大きな話題を呼んだのは妥当だったと言えます。業界の古いやり方を完全に捨て去り、誰も予期していなかった真新しい手法[ストップモーション]を組みあわせたのです。静物が動き始め、魂を与えらえるのを目の当たりにするのは初めてでした。どういう手法を使ったのかあらかじめ知らなければ注意深く見ても何が起こっているか分からない位でした。ヨーロッパの監督たちは秘密が漏れてきたのを聞いてようやくトリックを理解しました。応用範囲は広くなく、順当と言ってよい大成功を収めた後でこのアメリカ流のやりかたは使われなくなりました。ネタが限られていたからです。それでもこの手法はアメリカ一派に栄えある成功をもたらし、人々が同派を意識し怖れるようになるきっかけとなりました。

『幽霊ホテル』(1907年、ジェームズ・スチュアート・ブラックトン)

1909~10年にかけてヴァイタグラフ社初の喜劇が公開されています。それまでは出来も酷く、その後に並レベルの作品が続いていました。一挙に傑作群が公開され始めました。新たな流派が形成され、市場全体で存在感を示すようになります。勢いを感じていたのは業界関係者ばかりではなく一般の観客たちも同様で、アメリカ作品を熱狂的に受け入れるようになっていきます。

アメリカ一派は以下の3点においてフランスと異なっています。

1)カメラによる画面の切り取り方
2)役者の演技
3)脚本の組み立て方

画面前景に位置する役者の表情の変化・動きに客の関心が向けられている点にアメリカ人は気が付いていました。それを上手く利用し、必要であれば舞台装飾や全体の構図は犠牲にしてでも俳優の姿(決して大きな身動きはしていません)を見せようと試みています。

慌ただしい動きを避けたとても静かな、誇張されていると思えるほど静かな演技です。また[ヨーロッパ映画の]最近の脚本は劇的な状況、舞台劇由来の悲壮さを含んでいます。アメリカ人はできる限り単純かつ素朴に映画を作ろうとしていて、複雑に絡んだ筋立てや舞台がかった大袈裟な展開を避けようとしています。実人生に出来るかぎり近づけようとし、紙一重のアクションで陽気なハッピーエンドに結びつけていきます。そう見ていくとアメリカ流の映画製作術は人々が今まで行ってきたどの手法よりずっと優れています。客の熱狂がその証拠です。アメリカ映画に関わるスタッフは大勢いても役者数は実際そこまで多くはなく、客たちは次第に顔を覚え、名を覚え、もう一度見たいと思うようになっていきました。同じ役者が定期的にスクリーンに戻ってきてほしいと願い、要求するようになっていたのです。ヴァイタグラフ社作品だけあれば良い、最後はそんな風になっていきます。この後フランスの映画会社はヴァイタグラフの真似事を始めました。

ヴァイタグラフ映画の理論は果たしてどのようなものなのでしょうか。

物事を単純に考える客たちの見解をまとめると次のような感じでしょうか。アメリカ映画は才能ある役者が演じている、彼らはカメラの前でどっしり構えた演技を見せる。だからフランス俳優を使っても同じことが簡単にできる、難しくない、と。

この見方には深刻な間違いが含まれています。

アメリカ流の監督術が示しているのは忍耐力、演技法、柔軟さを持った役者と、長期に渡る規律意識を有した監督による作業でした。勢いで一発撮りした作品ではなくなっていたのです。諸々の規則を徹底的に守った結果であり、ルールを破ってしまうと昔のやりかたに戻らざるをえなくなってしまうのです。

スクリーンで映画を見ていると、静かで抑制された、調和のある役者の演技で実体験さながらの錯覚を覚えたりします。ところが細部まで見る監督の目には単純さと言われているもの自体がトリック、操作によって生み出されたと映りますし、演技と演出の全てが完全に偽物・フェイクだと分かるのです。しかしそれは観客にリアリティを錯覚させるために必要なものでもありました。もう少し詳しく説明していきましょう。

(シネ・ジュルナル紙 1911年170号 25-27頁、未完)


【訳註】

[1] テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Théophile Alexandre Steinlen, 1859-1923) スイス生まれのアールヌーヴォー画家
[2] ヴィレット (Villette)不詳
[3] ドエス(Louis-Christian Does、1859-1944) スイス生まれのイラストレーター
[4] アルベール・ギヨーム(Albert Guillaume、1873 – 1942) フランス生まれの風刺画家
[5] カランダッシュ(Caran d’Ache、1858 – 1909) ロシア出身の風刺画家
[6] 『戸外の大胆な強盗』フランク・モッターショウ(A Daring Daylight Burglary, 1903)
[7] フェルディナン・ゼッカ?セグンド・デ・チョーモン?
[8] 『赦しの掟』アルベール・カペラーニ(La Loi du pardon, 1906)
[9] 『鐘突きの娘』アルベール・カペラーニ(La Fille du sonneur, 1906)
[10] 『密売犬』ジョルジュ・アト(Les Chiens contrebandiers, 1906)
[11] 『ポンペイ最後の日』アルトゥーロ・アンブロージオ(Gli ultimi giorni di Pompei、1908)
[12] クレマン・モーリス(Clément Maurice、 1853–1933)フランス生まれの写真家・映画監督・映画プロデューサー
[13] 『管理人室でのお茶会』ルイ・フイヤード(Le Thé chez la concierge, 1907)
[14] 『磁石になった男』ルイ・フイヤード(L’homme aimanté, 1907)
[15] 『包まれた配達人』(Le Facteur emballé)未詳
[16] 『提督の物語』ルイ・フイヤード(Le Récit du colonel, 1907)
[17] 『デモをしない男のある一日』ルイ・フイヤード(La Journée d’un non-gréviste、1908)
[18] シャルル・ル・バルジ(Charles Le Bargy、1858-1936)フランスの舞台俳優
[19] 『ギーズ公の暗殺』アンドレ・カルメット&ル・バルジ(L’Assassinat du duc de Guise、1908)
[20] 『ミミ・パンソン』ジョルジュ・モンカ?(Mimi Pinson、1910?)
[21] アンドレ・ディード(André Deed、1879–1940)ボワロー君シリーズで人気のあった喜劇俳優
[22] マックス・ランデ(Max Linder、 1883–1925)チャップリンとも親交のあった喜劇俳優
[23] シャルル・ルプランス(Charles Prince、1872–1933)リガダン連作で人気のあった喜劇俳優
[24] アベラール少年(le petit Abellard)不詳
[25] 『幽霊ホテル』ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(The Haunted Hotel, 1907)


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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1912年 『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』(イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ、エクレール社)EYE映画博物館収蔵プリントと日本語版あらすじ

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

オランダのEYE映画博物館が保存しているJean Desmetコレクションのひとつで2019年8月に同博物館YouTubeチャンネルで公開されたもの。字幕はオランダ語で最後に幾つかフランス語が混じっていました。フランス公開時の原題は Zigomar contre Nick Carter (ジゴマ対ニック・カーター)。日本公開時の邦題は『ジゴマ後編』

ヴィクトラン・ジャッセによるジゴマ連作としては1911年の『ジゴマ』に次ぐ作品ですが、サジイ小説版には探偵ニック・カーターが登場するエピソードはなく脚本は映画版の完全オリジナル。EYE映画博物館だけではなくフランスのパテ/ジェローム・セイドゥ基金にも35ミリプリントが保存されており、2018年に特集企画の一環として上映された記録が残っています。

Zigomar contre Nick Carter (Ciné-Journal n.185, mars 1912)
シネ・ジュルナル誌1912年3月9日号の広告

シネ・ジュルナル誌では1912年3月9日号(第185号)と16日号(第186号)の2回に分け講評と第1部〜第4部あらすじが掲載されていました。オランダ語字幕では人間関係や展開が追いにくいためシネ・ジュルナル版のあらすじをさらに要約してみました:

物語は前作にも登場していた探偵ポーリンが自宅で爆破テロに遭う場面から始まります。辛くも一命を取り留めたものの重傷を負ったポーリン探偵。その知らせを受けた探偵ニック・カーターはポーリンを見舞いジゴマの捕縛に乗り出していきます。ニックが捜査を始めるとすぐにジゴマの手下たちが階段の踊り場で事故に見せかけた暗殺を謀ります。危難を逃れたカーターは手下たちの一人である女性オルガを味方に付けることに成功しました。(第一部)

ジゴマは部下の一人を自分そっくりに変装させ身代わりにします。ニック・カーターは一旦はジゴマ逮捕に成功するのですが捕まえたのは影武者でした。ジゴマは金庫破り、旅行者の誘拐など悪行の限りを尽くしていきます。探偵はマルセイユでの秘密会議に潜りこむことに成功、しかし変装を見破られ危うく処刑されそうになります。巨石で圧死しかけていたニックを救ったのはオルガでした。(第二部)

トゥーロンの酒場の地下に阿片窟があり、ニック・カーターはジゴマ捕縛のため変装して潜入捜査を行っています。しかしオルガと共に逆に追われる立場となり、自動車の追跡劇の末、再び悪党の手に落ちるのでした。(第三部)

ニック・カーターとオルガは紐で縛られ農家に監禁されていました。火に包まれた農家から脱出するも、退路を阻まれ別行動を余儀なくされます。ニックは無事逃れたものの海に飛びこんだオルガは力尽きジゴマの下に引き渡されるのでした。ジゴマは裏切者に報復すべく女を馬に括りつけ引き回しの刑にします。瀕死のオルガは農夫たちのおかげで一命を取り留めます。ニック・カーターは敵を油断させるため自分が死んだという偽りの死亡広告を出します。ジゴマ一団が祝杯を上げている最中にニックと警官一団が踏みこみ、遂に悪党を逮捕したのでした。(第四部)

この作品には監督ジャッセの映画史観が色濃く反映されています。同氏が1911年に発表した映画論「活動写真監督術考」日本語版の全訳を来週投稿の予定です。

[IMDb]
Zigomar contre Nick Carter

[Movie Walker]

[公開年]
1912年

[制作会社]
L’Eclair

[註]
EYE映画博物館「Jean Desmetコレクション」