コンスタンス・タルマッジ Constance Talmadge (1898 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Constance Talmadge c1917 Autographed Photo
Constance Talmadge c1917 Autographed Photo

 コンスタンス・タルマッジ嬢は、一千九百年四月十九日、米國紐育州のブルックリン市に生れた。一説には一千八百九十九年の四月十九日生れであるとも云ふ。ノーマ・タルマッジ嬢の實妹である。初頭教育はブルックリン市で受けたが、後に紐育市に出て、エラスマス學院に學び目出度く同學院を卒業した。嬢が卒業した頃に姉のノーマ嬢はヴァイタグラフ會社の花形として盛んに世間の人気を煽り、殊に「戰争?滅亡?」の主役を勤めて嘖々たる名聲を博してゐた。その姉の境遇を見て、コンスタンス嬢は少なからず心を動かした。そして自分も如何かして映畫界に身を投じたいと考へて、姉に相談をして見ると、姉も直に賛成したので、何等の舞臺經験も持つてはゐなかつたけれども、早速、姉の周旋に依つてヴァイタグラフ會社へ入社する事になつた。それは一千九百十五年の事で、嬢が恰度十五歳の時であつた。その第一回作品として撮影されたのは「ビル叔父さん」である。

 間もなく、姉のノーマ嬢が同社を退いてインターナショナル會社に移ると、嬢も共に去つてトライアングル會社に轉じ、ファイン・アーツ撮影所に行ってダヴィッド・グリフィス氏の配下に屬する事となつた。嬢が今日の名聲を得るに至つたのは、全く、この時にギリフィス氏の下に行つたからであると云つても可い。なぜなれば嬢の技倆を認めて、その技倆を充分に發揮せしめたのは、グリフィス氏であつたからである。グリフィス氏が豫て人に語った中に、「映畫を有名ならしめるものは俳優ではなくて監督者である。監督者は俳優を有名ならしめる事が出来る。」といふ言葉があるが、コンスタンス嬢は蓋しこの言葉を證明した人であるといつて可い。話は「イントレランス」の製作當時の事であるが、この映畫を製作するに當つて、氏は誰彼の差別なく藝の達者と役柄の相應するのとを標準にして俳優を選んだ。その時、嬢は數多の中から選ばれてバビロン時代の山の娘を勤める事になつたのである。この映畫が先頃帝國劇場に上場された時、嬢の藝風は一部の人々の問題となつた。三友館に上場された「疑問の釦」は姉のノーマ嬢がトライアングル會社に移つて來てから共演したものである。

 その後、セルツニック會社に轉じて十數本の映畫を製作したが、最近、またセレクト會社に移つたといふ。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

『活動名優寫眞帖』の後半にあるようにコンスタンス・タルマッジは1917年にファイン・アーツ社を離れ、セルズニック社に所属を移しています。

丁度この時期に姉のノーマはアメリカでも五本指に入る程の人気女優になっていたこともあり、セルズニックは好機到来と妹の売り出しにかかるのです。この1917年に撮影されたのがややうつむきがちな横顔のポートレート写真でした。

1917年12月6日付 『スキャンダル』宣伝記事
1917年12月6日付
『スキャンダル』宣伝記事

写真は万年筆のサイン入り。裏面に「セルズニック映畫社の新進花形 コンスタンス・タルマッジ」のスタンプが押されています。

”Constance Talmadge New Star om Selznick Pictures
”Constance Talmadge New Star in Selznick Pictures » stamped on the back
Constance Talmadge in Her Sister from Paris (1925)
ロナルド・コールマンと共演した喜劇『亭主教育』(1925年)より

[IMDB]
nm0848226

[Movie Walker]
コンスタンス・タルマッジ

[誕生日]
4月19日

[出身]
合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
19.5 × 24.3cm

[撮影]
Bangs-Selznick Photo

ローズマリー・セビー Rosemary Theby (1892 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Rosemary Theby 1910s Autographed Photo
Rosemary Theby 1910s Autographed Photo

ローズマリー・セビー嬢はセントルイスで生れサージェント演劇学校にて教育を受けた。映畫女優歴の皮切りはユニヴァーサル社であり、同社にて「女が多すぎる」「ボストン・ブラッキーのお友達」「予期せぬ場所」など数多の作品に出演した。アートクラフト社やメトロ映畫社作品にも出演し、現在はメイフラワー印の映画社に所属。趣味は屋外スポーツ全般で、とりわけ水泳に堪能である。嬢は身長五尺五寸、體重十五貫、焦茶色の髪に榛色(はしばみいろ)の瞳を有し、つとに愛書家である。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)
Who’s Who on the Screen (Ross Publishing Co., Inc. New York, 1920)

Rosemary Theby in Who's Who on the Screen (1920)
Rosemary Theby in Who’s Who on the Screen (1920)

「銀幕名鑑」でユニヴァーサルで女優業を始めたとありますが、同社との契約(1915年)以前からヴァイタグラフ社の短編に多く主演・助演を重ねてきた長いキャリアの女優さんです。

Rosemary Theby in The Bachelor's Baby, or How It All Happened (1913)
『The Bachelor’s Baby, or How It All Happened』
(1913年、ヴァイタグラフ社)より

早くから性格俳優の実績を積み上げていき、喜劇から社会派ドラマまで芸域を広げていきます。1918年のグリフィス作品『偉大なる愛』と1920年のハウディニ主演冒険譚『恐怖島』での助演、1919年のエキゾチックな名作『キスメット』でのヒロイン役など時代に流されぬ活動を見せ、トーキー以後も1940年にまで渡る貢献を果たしました。

[IMDB]
nm0857302

[Movie Walker]
ローズマリー・セビー

[誕生日]
4月8日

[出身]
合衆国(セントルイス)

[サイズ]
12.6 × 17.7cm

[撮影]
Hall’s Studio/1456 Broadway/New York

1913 – 16mm 『エルダーブッシュ峡谷の争い』(The Battle at Elderbush Gulch)

グリフィス監督の初期短編。白人とアメリカン・ネイティヴとの争いを描いた一作で、枠組みとしては西部劇。しかし戦いの描写や物語の運びは西部劇が確立された後代と大分異なっています。

興味深いことに男中心の価値観の中で女たちの動きが丁寧に追われています。生まれたばかりの赤子を奪われ動揺する若い母親(リリアン・ギッシュ)、火の手をくぐり赤ん坊を助け出すお下げ髪の少女(メエ・マーシュ)。1912~14年はグリフィスの創造力が最も豊かだった時期で、生まれようとしている西部劇映画にみずみずしい息吹を注ぎこんでいました。

Lillian Gish & Mae Marsh in The Battle at Elderbush Gulch (16mm B&W Blackhawk Print)

[タイトル]
The Battle at Elderbush Gulch

[製作年]
1913年

[IMDB]
tt0003662

[メーカー]
米ブラックホーク社

[フォーマット]
16mm (ダブルパーフォレーション、無声)

リリアン・ギッシュ Lillian Gish (1893 – 1993)

Lillian Gish Autographed Card

初期グリフィス短編から遺作『八月の鯨』(1987年)まで、息の長いキャリアを築いたリリアン・ギッシュ。現存しているサイン物も多く、通常のサイン入りポートレート、献辞入りの自著、タイプ打ちの書簡、名前のみのカードまで形も様々です。

こちらのカードはレイ・ルフェーヴル氏に宛てた一枚で、「メリー・クリスマス レイ・ルフェーヴル様 そして明けましておめでとう 今までで一番のお休みになりますように リリアン・ギッシュ」の文言が残されています。日付がありませんが晩年の70~80年代でしょうか。

[IMDb]
nm0001273

[Movie Walker]
Lillian Gish

[誕生日]
10月14日

[サイズ]
7.4 × 10.1cm