ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

マリア・テナジと『ザレ』(”Զարե”、1927年・アルメニア映画公社)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [05]

Maria Tenazi 1927 Russian Postcard


本名マリア・アレクサンドロヴナ・タデヴォシアン(Мариам/Мариа Александровна Тадевосян)。国籍はアルメニアでロシア帝国~ソ連市民。

1903年にバクー(現アゼルバイジャン首都)で生れる。フィルムのロケ地で探してアラヴェルジの町を訪れたバルスキー監督の目に留まり、1924年グルジア国営活動会社作品の端役で女優デビュー。

1926年、アルメニア映画公社第一回作品となる『ザレ』で主演のクルド娘役を務める。しかし次作『雲の隠れ家』(1928年)のロケ撮影中に風邪をこじらせ女優業を休止、療養に入るも1930年に27歳で逝去。

「彼女がクルドの女性服に身を包み、大きな銅の水瓶を肩に担いで泉へ向かう場面では、生まれてこの方ずっとクルドの牧草地で過ごしてきた人のように見えた」(『ある俳優兼監督の回想録』、アモ・ベク=ナザリアン、1968年)

アモ・ベク=ナザリアン(Amo Bek-Nazaryan/Համո Բեկնազարյան)監督はイワン・ペレスチアーニと並んで1920年代初めのグルジア国営活動会社隆盛に功のあった人物です。元々アルメニア出身で、1920年代中盤にアルメニア映画公社が結成されるとその中心となり同国初の長編映画『ナムス』(Намус、1925年)を完成させました。

『ナムス』のスタッフや俳優を母体に制作した長編第2弾が『ザレ』で、主演に抜擢されたのがアルメニア人女優マリア・テナジでした。羊や牛を飼って暮らしているクルドの小さな集落を舞台とし、相思相愛の男女が族長息子の横やりで引き裂かれていくメロドラマを描いた一作です。

『ザレ』でのマリア・テナジ


出演しているのはクルド人俳優ではありませんでしたが生活風習や衣装、価値観を丁寧に反映させており、現在のクルド人監督(Mizgîn Müjde Arslan, Kazim Oz)からも「映画史上初のクルド映画」と評価されています。

ソ連映画の一部として製作された経緯もあって中東のクルドの人々が『ザレ』を鑑賞できる機会はありませんでした。状況が変わったのがこの10年程で、2011年3月にイスタンブール映画祭で上映、また2016年には公開90年を記念した高画質リストア版がアルメニアで上映されるなど再評価の機運が高まっています。

マリアさんは若くして亡くなり、出演作が少なく(計8作)メディアの露出が少なかったこともあって伝記データや逸話がほとんど残っておりません。数少ない例外としてベク=ナザリアンが戦後に発表した『ある俳優兼監督の回想録』(«Հուշեր դերասանի և կինոռեժիսորի»、1968年)に『ザレ』撮影時のエピソードが紹介されています。


[IMDb]
Maria Tenazi

[出身地]
ソ連(アゼルバイジャン/バクー)

[生年月日]
5月1日

[リンク]
2011年、イスタンブールでの上映会のリポート(アルメニア語)
2016年、映画公開90周年にアルメニアでリバイバル上映された際のリポート(アルメニア語)

1915 – 帝政期ロシア俳優揃え(ピョートル・チャルディニンの誕生日会)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [01]


帝政ロシア末期に俳優としてデビュー、後に監督に転身し成功を収めたピョートル・チャルディニンの誕生日に集まった男女優の集合写真。1915年の撮影とされており別な構図で撮られた写真も存在しています。

前列左にオシップ・ルニッチ(Ossip Runitsch/Осип Ильич Рунич)
前列右にピョートル・チャルディニン(Pyotr Chardynin/Пётр Иванович Чардынин)

後列左より
ウラジミール・マクシモフ(Vladimir Maksimov/Владимир Васильевич Максимов)
ヴェーラ・ハロードナヤ(Vera Kholodnaya/Вера Васильевна Холодная)
ヴィトールド・ポロンスキー(Vitold Polonsky/Витольд Альфонсович Полонский)
イワン・フドレエフ(Ivan Khudoleyev/Иван Николаевич Худолеев)
イワン・モジューヒン(Ivan Mozzhukhin/Иван Ильич Мозжухин)

チャルディニン監督の代表作で帝政期のメロドラマの典型として知られる『静まれ、悲しみよ…静まれ』(Молчи, грусть…молчи、1918年)にはモジューヒン以外の6人が出演、それぞれの俳優の持ち味を見ることができます。

オデッサ撮影所の公式チャンネルより

モジューヒンは人脈的に別系統でヴォルコフやトゥールジャンスキー監督作品に多く出演。1918年にチャルディニン監督の下、ポロンスキー、ハロードナヤ、モジューヒンの共演企画が持ち上がっていたのですが国内の混乱の余波で製作中止となっています。

革命後にモジューヒンは亡命、チャルディニンとルニッチも国外に拠点を移します。1919年1月にポロンスキーが中毒死、翌2月にハロードナヤが病死。マクシモフとフドレエフは国内で細々と俳優業を続けていきます。同じメンバーが揃って写真を残す機会は二度とありませんでした。無邪気な笑顔が素敵だからこそ、その後の命運に切なさを覚えます。

1919 – ヴェーラ・ハロードナヤ葬儀実況

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [02]

Funeral of Vera Kholodnaya (1919 Russian Postcard)


女優ヴェーラ・ハロードナヤがウクライナのオデッサに引っ越したのは1918年の春のことでした。翌年2月、同地を襲ったスペイン風邪に罹患、人事不省となり見舞いにきた友人の見分けもつかなくなります。一旦意識を回復するものの4日後の午後7時半に永眠。20日に葬儀が行われ、亡骸はオデッサの墓地に埋葬されました。

葬儀の模様はニュース映画でも扱われ、実際に映画館でも上映されました。1992年にマイルストーン社から発売された全10巻VHS『初期ロシア映画』の第7巻に英語字幕付き版が収録されていました。

動画は2分程の短いものです。前半に出演作の抜粋とプライベート姿をとらえた映像、後半は棺を教会墓地に運んで行く様子。左下のスクリーンショットではヴェラの隣に立つチャルディニン監督の姿が見えます。

ハロードナヤの葬儀については映画プロデューサーのハンジョンコフ氏が回想録で触れています。また最近公刊された伝記によると、1917年のチャルディニン監督作『暖炉の傍で(У камина)』で皇女リディアを演じた際の衣装と同じだそうです。

亡くなった女優は一番きれいな服を着せられ丁寧な死化粧をほどこされていた。(『ロシア映画の始まりの日々』、ハンジョンコフ著、1937年)

Мёртвая актриса была наряжена в один из лучших своих туалетов и тщательно загримирована

Ханжонков А. А. Первые годы русской кинематографии.
— М.: Искусство, 1937. — 172 с.

棺に納められたヴェーラがまとっていたドレスは2年前に映画『暖炉の傍で』で着ていたのと同じものだった。(『ヴェーラ・ハロードナヤ:無声映画の女王』、イレーナ・プロコフィエヴァ著、2013年)

Ее положили в гроб в том самом платье, в котором она два года назад играла княгиню Лидию Ланину в фильме «У камина» – в одном из самых популярных своих фильмов.

Вера Холодная. Королева немого кино
— Елена Прокофьева, 2013.


内戦状態、慢性化した食糧不足、スペイン風邪流行の三重苦に襲われ人々が否応なく「死」を身近に感じていた時期、ヴェーラの訃報はロシア全土に大きな衝撃をもたらしたのです。

同時にこれらの映像記録は女優ヴェーラを神格化していく過程の一つになりました。美しい姿のままの夭折が強調されているのは遺族や業界・報道側の思惑が絡んでいますし、受け取る側の期待にあわせた形にもなっています。俳優稼業が決して夢の世界ではないと知っていたハンジョンコフ氏の指摘はその意味で興味深く、著名女優の死がスペクタクル化されている状況を見抜いていたと読むことができます。

レンケッフィ・イツァ Lenkeffy Ica(1896–1955)と『シュラムの乙女(Szulamit)』(1916年、イレシュ・イェネー監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(05)

1896年、役者夫婦の娘としてミシュコルツに生れる。正式に演劇の勉強を学ぶことなく10代半ばにしてコメディ劇場で初舞台を踏む。後にハンガリー劇場や王立劇場とも契約するなど舞台女優との活動記録も残されています。キャリア初期の無名時代から映画に出演、1~2リール物の喜劇やメロドラマでヒロインを務めたハンガリー映画女優のパイオニアでした。

1912年の初期喜劇『戀は口に苦し』より

キャリア最初期の短編喜劇『恋は口に苦し(Keserű szerelem)』は一言で要約してしまうと意に沿わない高齢求婚者を下剤で追い払う話です。

1916年にはイレーシュ・イェネー監督『シュラムの乙女(Szulamit)』に主演。山中で迷い井戸に落ちた少女と、彼女を助けた騎士の間に生まれるロマンスを描いたものです。ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル地区でロケ撮影され全編に旧約聖書風の異郷感が漂っています。『演劇生活』誌1916年13号では3頁に渡る映画評とイェネー監督による同じく3頁分の寄稿で小特集が組まれていました。

『シュラムの乙女(Szulamit)』特集記事より

この一作だけでも十分にハンガリー映画史に残る貢献ですが、彼女はもう一つ重要作に主演しています。ベレギ・オスカーと共演した1919年作『黄金の男(Aranyember)』です。

『黄金の男(Aranyember)』公開時に「演劇生活」1919年6号の表紙を飾る

『黄金の男(Aranyember)』でのレンケッフィとベレギ

この後1920年頃からイカ・フォン・レンケフィー名義でドイツ映画に進出。1922年にはエミール・ヤニングスが主演したシェークスピア映画『オセロ』でヒロインのデスデモナ役を務めました。翌1923年に銀行家と再婚し女優業を離れています。


[IMDb]
Ica von Lenkeffy

[IMDb]
Szulamit

[Hangosfilm]
Szulamit

光川 京子(1918 – ?)

「日本 [Japan]」より


若き日の榮えよ、めでたさよ!この一句を光川京子の讃とする。當年わづかに十七歳の京子の、現在の人氣はどうだろう!『お駒ちやん』といふ名で、蒲田撮影所員んみんなから可愛がられてゐるが、この名こそ第一囘作品『初戀と与太者』の京子の役名だつたのである。輝かしいスター生活は、實にこの處女作から始まつたのである。ちよつとユーモアが感じられるのは、清楚な京子が、甚だ肉類を好むことである。牛込に生れて赤坂に育ち、氷川小學校に通ひながら長唄と三味線に精進した。これが爲め京子は純日本風の娘に仕あげられたので、蒲田に入つてまだ三年(昭和六年十一月二十一日入社)だが、早くもあの人氣を克ち得たのである。若き日の榮え!

『最新映画大鑑』
(1934年8月、冨士9月號附録)


[JMDb]
光川 京子

[IMDb]
Kyôko Mitsukawa

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.5 × 8.5 cm

浅間 昇子(1910 – 1973)

「日本 [Japan]」より


本名瀧澤昇子。明治四十五年東京市赤坂區に生る。靑山女學校修業。大正八年帝國劇場にて初舞臺後引継ぎ舞臺にあり映畫界入りは大正十四年マキノ入社は昭和五年二月。娘役が得意、主な近作は「鴨川小唄」「光を求めて」「僞婚眞婚」等。身長五尺二寸。體重十一貫三百目。趣味は繪畫、三味線、讀書。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


[JMDb]
浅間 昇子

[IMDb]
Shôko Asama

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.0 × 8.5 cm

ホッライ・カミッラ(Hollay Kamilla / Camilla von Hollay, 1899 -1967) と『アフロディーテ』(1918年、デエーシ・アルフレード監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(04)

Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard
Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard

ハンガリー映画の黎明期に勢いのあったスター映画社と契約を結び、イレーシュ・イェネ監督作品『János vitéz』(1916年)の脇役として映画デビュー。同作で主演を務めたデエーシ・アルフレードが監督転向後、その作品のヒロインとして重用されるようになりました。

デエーシ・アルフレード監督作品
『Siófoki történet』でヒロインを務める
「演劇生活」誌1917年44号より

水着姿での一枚
「演劇生活」誌1918年35号

スター映画社の宣伝ページ
「演劇生活」誌1918年46号より

スター映画社の作品はほとんど残っていないのですが、近年の調査から少なくとも3本の現存が確認されハンガリー国立映画アーカイヴに返還されました。その一本『アフロディーテ』(1918年)にホッライ・カミッラ名義時代の演技を見ることができます。

Hollay Camilla in Afrodite (1918)

『アフロディーテ』(1918年)より

「演劇生活」誌1918年37号スター映画社
特集記事より『アフロディーテ』スチル

1922年からはカミーラ・フォン・ホレイ名義でドイツに活動拠点を移します。日本でも公開された表現主義調の戦争ドラマ『世の果』では準ヒロインの妊婦役を演じていました。

Hollay Camilla in Am Rande der Welt (1927)

『世の果』(Am Rande der Welt、1927年)より

[Movie Walker]
カミーラ・フォン・ホレイ

[IMDb]
Camilla von Hollay

[Hangosfilm]
Aphrodite

浦辺 粂子(1902 – 1989)

「日本 [Japan]」より


本名濱田粂子、明治三十四年十月伊豆下田に生る。嘗て歌劇俳優として金龍館や樂天地に出演、後小松商會を経て大正十二年日活に入社し一躍性格俳優としてフアンに認められスターとなる。處女出演は『乙女の心』主演は『清作の妻』『お澄と母』『金色夜叉』があり、最近の『シベリアお龍』で物凄いところを見せめきめき人氣を高めてゐる。現住所京都市上京區北野白梅町衣笠園三四三。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


「技藝部長、山本嘉一さん」ある撮影監督から恁う言つて紹介された人を、「おゝ、この方が」と私はその落附きと澁さとに、何處か英吉利好みの上品なモーニングの紳士を、熟々と見上げました。酒井米子さんは、私たちの手を執つて、「ほんとうに京都へ來て、すつかり落附ましたわ。どうか、これからは御一緒にねえ」と、沁々として言ふのでございました。私は此の気品高い落人の胸を察して、ほろりとして了ひました。恁うして、向島から四人の監督と、五十餘名の技藝員と、技師、舞臺装置の就業員一百餘名を新しく迎へた私たちのスタヂオは、恰度春の太陽に恵まれた大地のやうに、若さと元氣に賑ひ始めたのでございました。

『映画女優の半生』(浦辺粂子著、1925年、東京演藝通信社)


もう六七年も前、「淸作の妻」等に出演して當時の人気スターであつた浦邊粂子は今は上野製作所主人との結婚に破れて、撮影所に歸り、某カメラマンと新しい生活に入つてゐるが、彼女上野家へ玉のコシに乗った時、當時たゞれた愛慾の世界にタンデキしてゐた彼女だったので、生れ變るのだと、大きな感激のもとに、その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女びいきのフアンを歎かわしく思はせた。

「映畫界エロ双紙」(小倉浩一郎、『デカメロン』1931年9月号所収、風俗資料刊行會)


[JMDb]
浦辺粂子

[IMDb]
Kumeko Urabe

[出身地]
日本(静岡)

[誕生日]
10月5日

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

大正11年(1920年) – フェアバンクスとの新婚旅行道中の蒸気船から送られたメアリー・ピックフィードの電報

1920年 メアリー・ピックフォードの電報
1920 Telegraph Sent by Mary Pickford on Her Honeymoon Voyage to Europe

複写式のカーボン紙に記録された電報を台紙に貼ったもの。サイズは縦12.5×横19cm。

送信者名と住所は「メアリー・ピックフォード/ラップランド号」。文面は:

「数百万の英国フアンの皆様に、デイリー・グラフィック紙経由でよろしくとお伝え願えますか」

Will you send greetings to millions of admirers in England through medium Daily Graphic

640px-Douglas_Fairbanks_and_Mary_Pickford_02
ラップランド号で新婚旅行中のピックフォード&フェバンクス(Wikiwandより)

1920年6月12日、ハリウッド女優メアリー・ピックフォードは蒸気船ラップランド号に乗船しフェアバンクスとの新婚旅行に出発しました。同月19日にロンドンに到着し波止場に待ち構えた多くのフアンから熱狂的な歓迎を受けます。イギリスから旧大陸へと移動、パリやモスクワでも数十万の人々が新郎新婦を一目見ようと集まってきました。

ニューヨークからロンドンへの船旅の途中、英国メディアに向けて発信した電報の実物が残っていました。

文章は「皆様によろしく」程度の内容です。ただ「medium Daily Graphic」の言い回しが曲者で、「medium」(「メディア」の単数形)は現在の「情報メディア」と、(たとえば恐山のイタコのような)「霊媒師」を重ねあわせたダブル・ミーニングになっています。「情報メディアのデイリー・グラフィック紙さんからよろしく」という通常の意味の他に「霊媒師となって私の気持ちを伝えて」のニュアンスが含まれてくる感じです。短いながらちょっと気の利いた言い回しが光ります。

二人にとって新婚旅行は単なるプライベートな旅行ではなく国外マーケットを開拓するチャンスでもありました。自身の影響力を当然自覚していたはずで道中でもプロモーションは怠らなかった訳です。

ちょうど百年前の映画界を彩った記録がこんな形で残っているなんて感慨深いです。

1921年頃 – 帝劇女優 第一期生(森律子・初瀬浪子・藤間房子) 扇面直筆画3点

c-1921-fan-leaf-paintings-by-teigeki-actresses (1)
c1921 – Japanese Fan Leaf Paintings, by Imperial Theatre’s In-house Actresses [Mori Ritsuko, Hatsuse Namiko and Fujima Fusako]

理髮店の二階にあった教室はやがて飯倉一丁目に移転したが、明治四十一年九月の開所式に勢ぞろいした十三人のうち、四人が中途退学、すこし遅れて入学した村田嘉久子、藤間房子を加えた十一人が、二年のちの九月に、第一期生として卒業証書を受け[た]。

『物語近代日本女優史』 戶板康二 (中央公論社、 1980)

明治期の末、川上貞奴の設立した帝国女優養成所が帝劇に買収され「帝国劇場付属技芸学校」となりました。演技や音楽を2年学んだ11名が明治43年(1910年)に卒業。この第一期生たちは翌年に開場された帝劇を拠点に活動を続けていきました。

この帝劇女優一期生の3名(森律子、初瀬浪子、藤間房子)が扇面に残した直筆画を手に入れることができました。それぞれ幅が55センチ弱の大きな扇面で、裏面には糊で留めてあった跡が残されています。

森律子 (1890 – 1961) 俳号:小影

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森律子 1913年『鏡の友』口絵写真

女優劇の台本の多くは帝劇重役の益田太郎が太郎冠者の筆名で書き下ろした喜劇で、パリ仕込みの歌入り軽喜劇をもとにしていた。森の持つお茶目な愛らしさ、達者な台詞まわしなどが活かされ、数多く主演している。益田の庇護もあって、古典物でも花形女形だけが演じた役が与えられ、名実ともに「ミス帝劇」となっていった。

時代を拓いた女たち: かながわの131人(江刺昭子、神奈川新聞社、2005年)

初瀬浪子 (1888? – 没年不詳)
[JMDb]

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初瀬浪子 1917年山崎紫紅『祇王祇女』口絵写真(祇女役)

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『女人哀愁』(成瀬巳喜男、1937年)で入江たか子の母親役

二十一年生まれの初瀬浪子(本名岩尾日出子)は、大倉組の支店長の娘で、山脇女学校を出ている。帝劇開場後は、妖髄なタイプの女優として、人気があり、恋文が多く来るので、ふみ子と緯名された。

『婦人公論』 第 63 巻、第 7~8 号(中央公論社、1978年)

藤間房子 (1882 – 1954)
[JMDb][IMDb]

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藤間房子 1917年山崎紫紅『祇王祇女』口絵写真(祇女の母役)

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『まごころ』(成瀬巳喜男、1939年)で入江たか子の母親役

久松小學校出身。後、上野の音樂學校へ入つた。初めはひさごとなのつて市川宗家の門下であつた。舞台も歌舞伎座で勤めた。明治四十二年の春である。一度廃業して、劇界を去つたが帝劇の女優學校開かれるや、直ちに入學、四十四年の同舞台開きには第一期卒業生として出勤、大切の「羽衣」で迎ひの天女に扮した。藤間房子と改名したのも同時であつた。

『現代俳優名鑑』 揚幕社編(八宏社、 1923)

森律子さんは映画の出演記録はないようです。初瀬浪子さんは30年代の成瀬作品『女人哀愁』に出演、入江たか子さんの母親役を演じています。藤間房子さんは1930年代以降老け役として東宝映画に多く出演、やはり成瀬作品の『まごころ』で入江たか子さんの母親を演じていました。

ハリウッドでは20~30年代の母親役・老け役がかつての花形女優だった例(ローズマリー・セビーエセル・クレイトンナオミ・チルダースなど)が見られます。初期映画への功労を念頭に置いて、ルイス・B・メイヤーがナオミ・チルダースを脇役で使い続けた話を聞いたこともあります。日本でもこういったパターンがあるのだなと勉強になりました。

マートル・ステッドマン Myrtle Stedman (1885 – 1938) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo
Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo

マートル・ステッドマン夫人は1888年にイリノイ州シカゴに生まれ、スターレツト夫人経営による同地の学校で教育を受けた。舞臺での長い活動歴を有した実力派の女優である。1912年に銀幕デビューする以前、劇場で音楽喜劇や軽いオペラ作品に出演して大きな成功を収めている。映画女優の始まりはかつてのゼリグ映画社で、以来一流プロデューサーによる製作会社のほぼ全てで何がしかの出演を果たしてきた。尊厳や忍耐力、温かみあるユーモアの感覚や芸術力が必要とされる大人の女性役でその力が発揮されており、あちこちのプロデューサーから引っぱりだこになつている。息子のリンカーン・ステッドマンは将来を嘱望されている若手男優である。趣味はハリウッドに構えた大邸宅のお手入れ。身長5尺6寸、体重は16貫900匁、金髪に淡い褐色の瞳を持つ。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

Myrtle Stedman from Famous Film Folk (1925)

MYRTLE STEDMAN was born in Chicago, Ill., in 1888, and received her education in Mrs. Starret’s School of that city. She has had a wide theatrical career, and is an accomplished actress. She has had a successful stage career, having appeared in musical comedy and light opera, prior to her screen debut which was made in 1912. Her screen debut was made with the old Selig Company, and she has since appeared in the productions of almost every first class producer, her ability to portray roles of matured womanhood, wherein proper dignity, bearing, humor and art are so necessary, making her services by all producers always in demand. Mrs. Stedman is the mother of Lincoln Stedman, himself a promising young actor. Her hobby is naturally the care of her pretty Hollywood bungalow. She is 5 feet 7 inches in height, weighs 140 lbs., and has blond hair and hazel eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

1910年代初頭、ゼリグ社のウィリアム・ダンカン主演西部劇でヒロイン役に重用されその後ボスワース映画社の人情劇や活劇へ活動範囲を広げていきます。彼女の名前を映画史に刻むことになったのは、ハリウッド女性監督のパイオニアであるロイス・ウェバーの『偽善者』(1915年、ボスワース社)のヒロイン役でした。社会派の傾向を持つウェバーの作風は当時のハリウッドで異彩を放っており、挑発的で鋭利な美的感覚は今見ても新鮮さを失ってはいません。

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1915年『偽善者(Hypocrites)』より

ステッドマンは20年代になってもフレッド・ニブロ監督の『性』(1920年)、早川雪洲主演の『黒薔薇』(1921年)などで存在感を発揮。20年代中盤から助演が増えますが、母親役から老け役までこなしトーキーにも対応、30年代末に心臓発作で亡くなるまで四半世紀に渡る女優人生を全うしています。20年代初頭の出演作『断腸の笛』をYouTubeで見ることができます。

Myrtle Stedman in The Whistle (1921)
1921年ウィリアム・S・ハート主演作
『断腸の笛(The Wilstle)』より

[IMDb]
Myrtle Stedman

[Movie Walker]
マートル・ステッドマン

[出身地]
合衆国(イリノイ州シカゴ)

[誕生日]
3月3日

[データ]
22.7 × 17.8 cm. 写真面に「エリザベス(Elizabeth)」の宛名書きあり。裏面に旧所有者の書きこみが多数見られ、1925年7月にニュージャージー州在住のエリザベス・ライド・ウォーカーさん(Elizabeth Reid Walker)が受け取った旨が印されています。

バンキー・ユディット (Bánky Judit、1896 – 1918) ハンガリー

Bánky Judit mid 1910s Postcard [Színházi Élet] 01Bánky Judit mid 1910s Postcard [Színházi Élet] 02

今回のコロナ禍をめぐる報道では1918~1920年に発生していたスペイン風邪が繰り返し話題に上っています。医療体制も整っていない時代の世界的感染は凄まじいもので、その影響は映画や演劇界にも及んでいました。当時のスペイン風邪で失われた才能のひとつがハンガリーの舞台女優バンキー・ユディット (Bánky Judit)でした。

10代の頃から演劇学校に所属、1913年から端役として舞台に立ち始めます。1914年、卒業後にセゲド国民劇場と契約、その後コメディー劇場に転籍し知名度を上げていきます。

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1917年、コメディー劇場『嫉妬(Féltékenység)』でのクラウディア役(『演劇生活』誌1917年第40号)

1917年、映画監督アレクサンダー・コルダが自身の映画会社の第2弾として制作した『カリフの鶴(Gólyakalifa)』でヒロインに抜擢されました。共演は当時の男優で最も人気のあったオスカー・ベレギ。『カリフの鶴』はイスラム世界を舞台にした寓話的な物語で、ロッテ・ライニガーによるアニメ作品が良く知られています。コルダ版は舞台を現代に移した形のようです。

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1917年『カリフの鶴』撮影時の集合写真(『演劇生活』誌1917年第26号)

1918年に第一次大戦が終戦。ハンガリー演劇に活気が戻り始めたこれからというタイミングで不幸が訪れます。折しも欧州全土を襲っていたスペイン熱に罹患、重度の肺炎を患い1918年10月に亡くなっています。

スペイン熱の大流行で病院を4度移る羽目となりそこから戻ることはなかった。肺炎の併発に華奢な体はとても耐えきれず、日曜の午後、若く美しい、才能に満ちた気立ての良い若手女優は22才の若さでこの世を去った。

マジャールオルザーク紙 1918年10月29日付

Betegségéhez tüdőgyulladás járull, amelylyel gyenge fizikuma nem birt megbirkózni s a viruló Szépségű, tehetséges és nagyon rokonszenves fiatal színésznő szombaton délután, huszonkétéves korában meghalt.

Magyarorszag (1918-10-29, p.193)

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『演劇生活』誌1918年第44号の追悼記事より

ハンガリーではこの一か月前にセントジョールジイ・マールタ(Szentgyörgyi Márta, 1888 – 1918)が似たような亡くなり方をしています。立て続けの訃報はハンガリーの演劇界に大きな衝撃をもたらしました。

[IMDb]
Judit Bánky

[Movie Walker]

[出身地]
ブダペスト(ハンガリー)

1923 – 9.5mm ノーマ・タルマッジ主演作 『愛の唄』(The Song of Love)

1923 9.5mm Fleur des sables (The Song of Love) starring Norma Talmadge

サハラ砂漠では進駐フランス軍とイスラム系遊牧民の間に対立が起こっていた。「族長が息子と共に反乱を企てている」の情報をキャッチした軍部は若き士官レイモン(ジョセフ・シルドクラウト)をスパイとして送りこむ。そこで出会ったのが踊り子のヤスミナ(ノーマ・タルマッジ)とだった。当初は情報源に利用するつもりだったが演技は次第に本物の愛情へと変わっていく。ヤスミナをだまし続けている訳にはいかない、レイモンは自分がイスラム教徒ではないと告げ、傷ついた女を残して関係を絶つのであった。

族長たちによる謀叛は深夜に決行と相成った。「例のフランスのスパイは手酷く拷問してやれ。殺してくださいと自分から嘆願するほどにな」、殺気立った人々の会話を聞いたヤスミナはいてもたってもいられなくなりレイモンの元に向かった。残された時間は少ない、武装反乱軍たちはフランス軍の基地を今まさに陥落せんとしているところであった…

1910年代にヴァイタグラフ社を代表する女優となったノーマは映画プロデューサーと結婚後、自身の映画製作会社「ノーマ・タルマッジ映画社」を設立して拠点を移しました。

制約の多い大手を離れ自身のプロダクションで活動する例は大半が短命に終わったなかで、ノーマ・タルマッジ映画社は『復讐の灰』(1923年、フランク・ロイド監督)や『キキ』(1926年、クラレンス・ブラウン監督)などヒット作をコンスタントに発表し続け無声映画末期まで最前線での活動を続けていきます。

『愛の唄』も同社制作、合衆国ではファースト・ナショナル社、フランスではパテ社からの配給となりました。『シーク』(1921年)でヴァレンチノ人気が爆発していた時期に当たり北アフリカのエキゾチックな設定を組みこんでいます。

セットや衣装、ライティングに贅を凝らした出来で反乱軍と仏軍の抗争場面も大掛かりに描写されています。とはいえ制作費と完成度が比例しているかというとそうでもなく、型通りの戦争メロドラマを一通りなぞっただけで終わってしまっています。士官役ジョセフ・シルドクラウトは悪くないのですがノーマ自身の演技が大袈裟で、ヒステリックな空気が出過ぎていて興を削がれました。

1920年代となり若手が次々台頭する中でベテラン女優が様々な試行錯誤をしながら生き残りを図っていた様子は伝わってきます。1910年代と20年代の「壁」は相当に厚く、この壁を乗り越えた役者は僅かだったと思いあわせるなら健闘とも言えます。『老いらくの戀』と比べるなら、20年代特作より初期のヴァイタグラフ作品をお勧めしたいです。

[タイトル]
Fleur des sables

[原題]
The Song of Love

[公開年]
1923年

[IMDB]
The Song of Love

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
804

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×6巻 白黒・ノッチ有

ミッツィ・パルラ Mizzi Parla (生没年不詳) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

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フランスの映画製作会社にとって、ドイツ帝国は疑いもなく最も魅力的なマーケットのひとつであった。自国の競争力が充分ではなく、1914年時点でさえメスター社、PAGU社、ヴァイタスコープらの製作会社だけでは自国の映画館での需要を満たすことができなかったのである。

(「フレンチ・コネクション:第一次大戦以前の仏独映画連携」)

For French film producers, the German Reich was undoubtedly a most attractive market. National competition was not up to par (even as late as 1914, firms such as Messter, PAGU and Vitascope were unable to satisfy the demand from German cinemas out of their own production […].

« The French Connection: Franco-German Film Relations before World War I »,
Frank Kessler and Sabine Lenk
in A Second Life: German Cinema’s First Decades (1996)

サイレント映画産業が発達し始めた1910年代、普仏戦争の遺恨を残しつつも仏独ではある程度の交流は行われていました。特にフランスの映画界はドイツ進出に積極的で、多くの大手会社がベルリンを拠点に自作配給を行っています。

1913年頃から反仏感情が掻きたてられ、プロパガンダを交えた喧々諤々の状況となるとフランスの映画製作会社はそれぞれの対応を始めた。パテ社はフランス語の響きが強い「パテ・フレール社」を旗印とした配給を続けていた。レオン・ゴーモンは自社作品をドイツの配給網に委ねることに決め、1913年9月12日には「独ゴーモン社」を設立した。

As from about 1913 onwards anti-French feelings were being stirred up and propaganda polemics came to the fore, French firms reacted in different ways. Pathe continued to advertise with its own French-sounding name ‘Pathe Freres & Co’ and kept its own distribution. Leon Gaumont decided to have his films handled by well-known German distributors […]; he also founded the ‘Deutsche Gaumont Gesellschaft’ on September 12th, 1913.

当初、ゴーモン社はフランスで公開していた作品(看板女優シュザンヌ・グランデ主演ドラマ、子役ビュビ君シリーズ、レオンス・ペレ監督の短編コメディ、ドキュメンタリー作など)をそのまま輸出していました。1913年秋から様相が変わってきます。組織改編に伴い、ドイツ人俳優を主演としドイツ国内で制作されたオリジナル作品が封切られていきます。

第一弾は実力派の若手俳優レオ・ポイカートを主演とした『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』でした。1913年10月4日公開。同作品にヒロインとして登場したのがミッツィ・パルラでした。

Mizzi Parla in Durch Leid zum Glück [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』

歌と踊りを得意とし、明るい性格でステージの人気を得ていたようです。レオ・ポイカートとのダブル主演映画は初めてではなく、これ以前にもBB映画社~タルガ映画社で数本製作されています。独ゴーモンがタルガ映画社に制作を委託して時代の流れに対応したのが実際の様です。

またこの時期の仏ゴーモン社は初期トーキーの実験を行っていました。フィルム上で録音をシンクロさせた訳ではなく、映写機に併設された「蓄音機」で音を出すゴーモン社独特のシステムを開発。ルドルフ・クリスティアンとミッチ・パルラ主演の『おいらの女中』がこの方式で製作され、実際にウニオン劇場で公開された記録が残っています。

10月半ばには独ゴーモンオリジナル作品第二弾の『エルゼは踊る(Tanz=Else)』公開。ミッツィ・パルラの単独主演作で映画誌の表紙も飾っています。

Mizzi Parla in Tanz-Else [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『エルゼは踊る(Tanz=Else)』

こういった活動も歴史の流れに逆らうことはできませんでした。1914年8月に独仏が開戦、独ゴーモン社は映画製作・配給機能を停止。ミッツィ・パルラはBB映画社で映画出演を続けますが次第に露出も減り1918年の短編を最後に業界を離れています。

[IMDb]
Mizzi Parla

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[サイズ]
8.6 × 13.5 cm

[データ]
Verlag Photochemie, Berlin N. K.273 Bildnis von A. Binder, Berlin

モード・ファーリー Maude Fealy (1883-1971) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

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モード・ファーリー嬢は1886年の3月4日、テネシー州メンフィスで生れた。母マーガレットは18年の舞台経験を持ち、現在はコロラド州デンバーのテイバー演劇学校を運営している。ファーリー嬢は4才の時、母がヒロインを演じた『ファウストとマーガレット』で初舞台を踏んだ。母親の学校で学びながら、『蛾』ではヴェラを演じ、『ロミオとジュリエット』のジュリエットに扮し、『ピグマリオンとガラテア』のガラテア役、『嵐の孤児』のルイーズ、『愛しいキャスリーン』のキャスリーンを演じた。

『舞台著名人録(Who’s Who on the Stage)』(ウォルター・ブラウニー著、1906年)

1900年代の合衆国でとても人気のあった舞台女優さん。

主たる活動拠点は舞台ながら映画とも接点を持ち、1911年に米タンホイザー社と契約しスクリーンデビュー。1913年公開の『ルネ王の娘(King Rene’s Daughter [YouTube])』を見るとナオミ・チルダースやマルヴィーナ・ロングフェローに近い、どこか野生の土臭さを残した米正統派の美女だと分かります。タンホイザー社との契約は1914年で切れたもののその後も舞台とスクリーンを行き来し、1930年以降はデミル作品を中心に脇役として姿を見せていました。

今回ご紹介するのはキャリア初期に撮影された写真です。額を含めると結構な大きさ(縦41×横37センチ)。裏側には「1904年頃撮影の手彩色生写真」の説明と飾ってあった場所(英マンチェスターのグレシャン通り)が明記されています。額縁はおそらく戦後のもので手彫りのしっかりした作り。

撮影者は不明。モード・ファーリーは早くからイギリスに進出しており、写真もイギリスで撮られたものではないかと考えています。写真裏にヒントがありそうな気がするのですが、裏蓋をテープで留めてあるため触らないことにしました。

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1903年の消印が入った絵葉書

ほぼ同時期の絵葉書。モード・ファーリーの一般的なイメージはこちらなのかな、と。髪を胸元まで下ろしたイメージが強いため、今回の写真のようにアップにすると雰囲気が変わります。

Maude Fealy Leafcut Autograph
リーフカット・オートグラフ

写真とは別ルートで手に入れたリーフカット・オートグラフ。サイズは約5×9センチ。数字の「3」を左右反転させた小文字「e」に特徴あり。

[IMDB]
Maude Fealy

[Movie Walker]

[誕生日]
3月4日

[出身]
合衆国(メンフィス)

[データ]
41 × 37 cm(額縁含む、写真は25×19センチ程度)

ラーバシュ・ユーツィ Lábass Juci / Lucie Labass (1896 – 1932) ハンガリー


「 ハンガリー [Hungary]」より

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1896年7月22日、スボティッツア(現セルビア領)に生れる。父親はエンジニア。幼少時は親の希望で修道会で育てられ、10代で舞台女優を夢見てブタペストに上京、女優ラーコシ・シディの下で学びました。

1913年に正式にデビュー、早くからその才能を認められキング劇場(Király Színház)と長期契約を結びます。歌と演技の上手さですぐ花形女優となり、1910年代から20年代にかけ多くの作品で聴衆を魅了していきました。

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ブダペスト新聞1912年6月13日付。演劇学校で学んでいた際にオペレッタ端役として出演した際の記事で、メディアに名前が登場したものとしては最初期の一つ
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1916年『演劇生活』第36号誌表紙

1917年に『イスタンブールの薔薇』に出演。コシャーリ・エミ、エルネ・キラーリ、ラートカイ・マールトンらと共演しています。当時の雑誌でも大きく扱われ彼女の代表作としてよく名前の挙がる作品です。

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『イスタンブールの薔薇』主要キャスト集合写真。右から二番目にラーバシュ『舞台生活』誌1917年27号)
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エルネ・キラーリと並んだ一枚(『舞台生活』誌1917年37号)

最初の舞台で共演した俳優ラートカイ・マールトン(Rátkai Márton)と結婚、長くは続かず数年後に離婚しています。

1910年代から映画にも出演。アレキサンダー・コルダ、マイケル・カーティスの初期作に登場、1917年の愛国主義メロドラマ『大地に囚われし者たち』(A föld rabjai)など幾つかの作品が現存しています。1920年代半ばにはE・A・デュポンの『緑のマニュエラ』でもヒロインを務めていました。

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『大地に囚われし者たち』(A föld rabjai)

20年代後半になると舞台、メディアへの登場回数が減るようになってきます。女優自身も歌唱力を生かしたオペラ的な作品に挑戦。1931年にテナー歌手と再婚。1932年8月、舞台を終え帰宅後の就寝中に心臓発作で亡くなっています。心臓を患っていた話は知られておらず、唐突な訃報に当初は自殺説が流れるなど騒ぎとなりました。

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ちなみにラーバシュ・ユーツィの親戚筋(甥・姪の子供)に当たるラーバシュ・エンドレ(Lábass Endre, 1957-)氏は有名な作家さんで、サイン絵葉書など貴重な画像を写真ブログで公開しています。たまたま見つけたサイン絵葉書の情報を求め7、8年前に初めてお邪魔して、以来ハンガリー初期映画の世界に深入りしていくきっかけとなったサイトでもあります。

[IMDB]
Lucie Labass

[誕生日]
7月22日

[出身]
ハンガリー

[サイズ]
9.0 × 14.0 cm

エリノア・フェアー Elinor Fair (1903–1957)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Elinor Fair 1920s Autographed Photo
Elinor Fair 1920s Autographed Photo

エリノア・フェアー嬢は1903年ヴァージニア州リッチモンドに生を享け、幼少時に家族と共に加州ロスアンジェルスへ引っ越し、同地でセントメアリーズ高校に入学した。一時はシアトルのセントラル高校の生徒でもあつた。品のある孃は一度はバイオリン奏者になろうと思い独ライプチヒに留学している。大戦のため母国へと戻り舞台の輝きに魅せられロスのアルカザール劇場で踊り子として初めて衆人の前に登場した。嬢の美しさと才能は忽ちにして映画製作者の目に留まり、ウィリアム・ファーナム氏の「長旅の終わり」で女優デビューを果たし、「ミラクルマン」では体の不自由な富豪妹役を演じた。嬢は優れた踊り子で、ピアノの名手である。丈は五尺五寸、體重は十四貫五十両、褐色の髪と瞳を有す。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

1925 - Elinor Fair in Famous Film Folk
1925 – Elinor Fair in Famous Film Folk

ELINOR FAIR was born in Richmond, Virginia, in 1903, and in childhood moved with her family to Los Angeles, Cal., where she attended St. Mary’s Academy. For a time she was also a student in the Central School at Seattle. At one time dainty Miss Fair thought she would be a violinist, and went to Leipzig, Germany, to study. The World War brought her back to America, and the lure of the stage brought her before an audience for the first time on the stage of the Alcazar Theatre, in Los Angeles, where she appeared as a dancer. Her beauty and talents attracted the attention of motion picture producers, and she was cast with William Farnum in « The End of the Trail. » She was in the cast of « The Miracle Man, » playing the invalid sister. Miss Fair is a splendid dancer and pianist. She is 5 feet 4 inches tall, weighs 120 lbs., and has brown hair and eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

Elinor Fair in Big Stakes (1922)
『ビッグ・ステイク』(1922年)
Elinor Fair in Yankee Clipper (1927)
『メリケン波止場』(1927年)

1910年代後半にフォックス映画社で活躍し始めた女優さん。当初は本名のエリナー・クロウ名義でクレジットされていました。濃い褐色の目と髪を活かしてエキゾチックな役柄も得意としており、ルイ・J・ガスニエの名作『キスメット』(1920年)でアラブのお姫様役、『ビッグ・ステイク』(1922年)ではメキシコ女性を演じるなどしています。20年代になってフォックスを離れ映画会社を転々としていきますが、20年代中盤にデミル作品ヒロインに抜擢され1926年の『ヴォルガの舟唄』と翌年『メリケン波止場』で役者としての成長を見せました。

[IMDb]
Elinor Fair

[Movie Walker]
エリノア・フェアー

[出身地]
合衆国(ヴァージニア州リッチモンド)

[誕生日]
12月3日

[データ]

[サイズ]
24.0 × 18.5 cm