1917-22 忘れじの独り花(24)リア・ヴィット Ria Witt (1896 – ?) 独

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Ria Witt c1919 Autographed Postcard
Ria Witt c1919 Autographed Postcard

1896年、ドイツ西部のドルトムントにほど近い町ヴァッテンシャイト生れ。本名はマリア・ヴィトリッヒ(Maria Wittlich)。食料品店を営んでいた両親を幼い時から手伝っていましたが、18歳の時首都ベルリンに出て女優として自活を目指します。

1915~16年頃の動向は不明。1917年から本名を縮めた「リア・ヴィット」名義での映画出演記録が残っています。この後アトランティック映画社と契約、1919年に「リア・ヴィット・シリーズ」の形で主演作品が次々と公開されていきました。

Ria Witt in Kinema (Zurich, 1919) No15
スイスの映画雑誌キネマ1919年4月12日付 第15号より、アトランティック映画社広告

彼女の出身地ヴァッテンシャイトにも映画館があり、公開時には町をあげて盛り上がっていたそうです。しかしこの主演シリーズのみで女優業を引退、20年代以降名を忘れられていく形となりました。総出演作品数が10作程度とされており、現存作品は確認されておりません。それでも2014年に地元ヴァッテンシャイトの郷土博物館で小規模の回顧イベントが開かれていた話が独紙で伝えられています

[IMDb]
Ria Witt

[Movie Walker]

[出身]
ドイツ(ヴァッテンシャイト)

[データ]
1522. Bildnis von Anny Eberth, Berlin.

フランス・デリア France Dhélia (1894 – 1964) 仏

「フランス [France]」より

France Dhélia 1924 Inscribed Photo
France Dhélia 1924 Inscribed Photo

この優美な女優はトゥーレーヌの穏やかな空の下で生を受け、若くしてパリに上京し舞台を志した。その雅さ、作為のない演技でミシェル劇場、アンビーク喜劇座、シャトレ座と次々に成功を収め、とりわけ『伍長になった女の子』を絶妙に演じてみせた。しかしながらフランス・デリア嬢はほどなくして舞台を離れて撮影所に移りデノラ氏と共に『姉に売られたジョゼフィーヌ』で女優デビューを果たす。次いでゴーモン社と契約を交わし『愛の難破船』『ジネット』で注目を浴びたが、何より『恋のサルタン』でその才の如何なく発揮し、以後は出演毎に評判を呼ぶようになった。

「『ギターとジャズバンド』出演のフランス・デリア嬢」
シネ・ミロワール誌38号、1923年11月15日付

Cette gracieuse artiste, qui naquit sous le doux ciel de Touraine, vint de bonne heure à Paris, faire du théâtre. Sa grâce et son naturel lui valurent de francs succès sur les scènes du théâtre Michel, de l’Ambique et du Châtelet où elle fut notamment une délicieuse « Petite Caporale ». France Dhélia devait, cependant, bientôt quitter les planches pour le studio et débuter dans l’art muet avec Dénola dans Joséphine vendue par ses soeurs. Elle fut engagée ensuite chez Gaumont et se fit remarquer dans les Epaves de l’amour et Ginette, mais c’est la Sultane de l’amour qui consacra définitivement son talent. Depuis, ses créations ont toujours eu un grand retentissement.

France Dhélia, dans LA GUITARE ET LE JAZZ-BAND
Ciné-Miroir, No.38
15 Novembre 1923 (4ème de couverture)

1910年代末~20年代前半を代表する仏女優フランス・デリアのメッセージ入り写真。1923年作品『ギターとジャズバンド』撮影時のポートレイトで、1924年4月2日にスイスを訪れた女優が「ジュネーヴに立ち寄った思い出に(En souvenir de mon passage à Genève)」と書き残しています。

以前(2015年4月末)にジュネーヴの古書店のカタログに埋もれていたのを見つけ注文したものですが、お店側がオンライン決済や銀行送金に対応しておりませんでした。そこで「リスクは承知ですのでスイス・フランを直に送ります」と相談したところ「現金を郵送する費用や両替の手数料もかかりますよ」と一円もとらずに日本まで郵送して下さいました。

France Dhélia in La Sultane de l'amour (1919)
『恋のサルタン』(La Sultane de l’amour、1919年)より

シネ・ミロワールで触れられている『恋のサルタン』(1919年)は彩色で公開された美しい作品で千夜一夜風の異国奇譚にアクションやロマンス、喜劇を織り交ぜています。悪人役のガストン・モド、従者役マルセル・ルヴェスク、お姫様役にフランス・デリアと配役が絶妙で、後に監督として名を馳せる画家マルコ・ド・ガスティーヌがセットのデザインを担当しこの時期の仏映画では珍しいエンタメ性の高い秀作にまとまっています。

また彼女の出演作では1924年公開の『ネーヌ』が9.5ミリ化されています。当方は所有していないものの米プリンストン大学のパテベビー・コレクションがデジタル版を公開。この作品では美貌を鼻にかけ、浮薄な生活に憧れヒロインを虐めるヒール役を熱演していました。

France Dhélia in Nène (1924)
『ネーヌ』(Nène、1924年)より

[IMDb]
France Dhélia

[Movie Walker]
フランス・デリア

[サイズ]
16.7×22.5cm

[データ]
11924年4月2日、フルニエ・マルギ氏宛。

ガブリエル・ロビンヌ Gabrielle Robinne (1886 – 1980) 仏

「フランス [France]」より

Gabrielle Robinne 1914 Autographed Postcard
Gabrielle Robinne 1914 Autographed Postcard

 ガブリエル=ロバンヌは飽くまで華麗な仏蘭西の女性である。彼女の持つ美。それは一時に何者をも直ちに感受せしめねば止まぬ、實感性の強い美である。而も彼女には他に求め得られぬ氣品が保たれて居る。さうしてロバンヌの美しその姿態より生れる彼女の技藝、そこには又情味と熱に富んで居る事も思はなくてはならない。『船火事』の如き『宮殿の怪火』の如き、『優しき復讐』の如き『空中王』の如き『呪の縁』の如き、美しい感じ好いパテー映畫は我々に永久に消えないロバンヌの印象とその藝術の影とを残して呉れたのである。

 ロバンヌは映畫界の名聲もさる事ながら、巴里の劇界の名望は偉大なものである。コメデー・フランセイ座附名女優として彼女の名は佛国の隅々までも喧傳されて居る。佛国パテー社は早くルネ・アルクサンダー氏を相手役として、ロバンヌの出演映畫撮影に從い數多の映畫を完成させて居った。その内戦亂となりその製作能力は衰へたが、一昨年頃より更にロバンヌ夫人と新契約の下に數多の新映畫を撮影して今日に至つて居る。ロバンヌの名聲、夫は今も尚輝いて居るのだ。

「歐州活動女優物語:ガブリエル・ロバンヌ夫人」
『活動画報』 1919年8月号

宛名面に「14年4月9日」のメモ書きあり。

1900年代に美貌を謳われた女優さん。コメディ・フランセーズ座の活動を中心としながらも折に触れ映画に出演していました。

確認できる最も古い作品はセグンド・ド・ショーモン監督による『吟遊詩人(トゥルバドール)』(1906年)、後半に一瞬窓際に立つお姫様として登場。『ギーズ公の暗殺』(1908年)ではギーズ公の愛人である侯爵夫人役で出演。その後もパテ社の初期短編(アルベール・カペラーニ、ルネ・ルプランス)で姿を見ることができます。

一般の人気があったのは1900年代で、この頃はクレオ・ド・メロードと並ぶ美人女優として無数の絵葉書が流通していました。なのですが1913年の『女心』を見直してみて、人気の落ち着いた10年代以降の方が演技力・表現力共に安定していたと思います。9.5mmフィルムでは『ギーズ公の暗殺』以外にもニュースリールで登場していたのを見た覚えがあります。

Gabrielle Robinne in Coeur de Femme (1913)
『女心』(Coeur de femme, 1913)より。
ゴーモン・パテ・アーカイヴ蔵

[IMDB]
Gabrielle Robinne

[誕生日]
7月1日

[出身]
フランス(モンリュソン)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

1917-22 忘れじの独り花(21)ロリ・ロイクス Lori Leux (1896 – 1964)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Lori Leux c1920 Autographed Postcard
Lori Leux c1920 Autographed Postcard

彫刻家の父親、オペラ歌手の母という芸術家一家に生まれ育ち、早くから舞台で活躍。「ロリ」という芸名は本名のエレオノーレの愛称から。映画デビューは1914年でしばらくは舞台と映画を同時進行で進めていきます。1920年に制作された7話構成の大作活劇『無名の快傑』に準ヒロインとして登場。同作は日本でも公開されていました。
Lori Leux from doctor Fritz Mendel's Scrapbook
1910年代中盤、舞台で活躍していた頃の雑誌記事より(Fritz Mendel博士旧蔵のスクラップブックより)
Lori Leux in Die Hand der Nemesis (Der Kinobesitzer, 1918-10-05)
1918年の主演作『復讐の女神の手』(Die Hand der Nemesis)紹介記事。リヒャルト・アイヒベルク監督でカール・オーエンと共演。キノ・ベジッツァー誌1918年10月15日付

その後は映画界と距離を置き始め1925年に出演記録が途切れます。戦後、晩年になった1950年代に端役として復帰し6作に出演しました。

[IMDB]
Lori Leux

[Movie Walker]
Lori Leux

[誕生日]
6月23日

[出身]
ドイツ(ベルリン)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
Photochemie, Berlin. K.128. Bildnis von A. Binder, Berlin

1917-22 忘れじの独り花(20)リア・レイ Lya Ley (1899 – 1992) 墺

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Lya Ley c1920 Autographed Postcard
Lya Ley c1920 Autographed Postcard

幼いころから女優に憧れ、15歳でベルリンの劇場の舞台に立ちます。俳優パウル・ハイデマンの勧誘で映画に参入、戦中の1916年、フランツ・ホーファーの軽喜劇の娘役として女優業のスタートを切りました。多数のホファー作品に出演を続ける傍ら、1917~18年にかけてエイコ映画社でミステリー作品にも挑戦し芸風と人気を広げていきます。

Lya Ley in H. Moest's Die Goldprinzessin (1918-04)
独エイコ社による『黄金姫』紹介記事。ニック・カーター探偵物をドイツ舞台で翻案したミステリー作品です。1918年4月8日キノベジッツァー誌より

終戦前後の人気は高かったようでKOWO映画社が彼女の名を冠した「リア・レイ軽喜劇シリーズ」を企画、『結婚済の独身者』等を含む8作で主演を果たしています。

1919年を最後に長らくフランツ・ホーファー監督の元を離れ、その後僅か数作を撮ったのみで1922年に映画界を離れています。1919年に出版された『映画の女たち』インタビューでは女優業を楽しんでいる様子が伝わってきていたため唐突なキャリアの終焉ではありました。

[IMDB]
Lya Ley
[Movie Walker]

[誕生日]
10月19日

[出身]
オーストリア・ハンガリー/チェコ (オパヴァ)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
Film-Sterne 179/2. Becker & Maass. Berlin-W.9. phot.

林 千歳 (1892 – 1962)

「日本 [Japan]」より

Hayashi Chitose 1920s Autographed Postcard
Hayashi Chitose 1920s Autographed Postcard

本名河野千歳。明治廿三年八月芝琴平町に生る。女子大學卒業後坪内氏の文藝協會に入り舞臺に立ち、舞臺協會文藝座等に出演せし事あり。映畫としては最初國活に入り寒椿其他に現はる。十一年松竹に轉じ現在に至る。深刻なる女性を出すを以て知らる。

『大正名優鑑 「劇と映画」臨時増刊』
(国際情報社、1924年)

映畫女優としてよりも、文藝協會、舞臺協會、文藝座等、過去の新劇の女優として其名が高い。映畫の處女出演は、舊國での「短夜物語」りで、松竹に入つてからは井上正夫と共演の「海の人」外多數の作あり。近時側役として重きをなす。女子大學出身の能辯家、容貌も藝も立派である。

『映畫と劇』「林千歳嬢」
(國際情報社、1925年3月号)

大阪堂島の高等女學校を卒へてから目白の女子大學の英文科をも卒へた – というだけでも映畫女優中第一の學者である。東儀鐵笛氏の引きゆる文藝協會の「マクベス」を初舞臺に舞臺協會及び文藝座と劇壇の人として相當の人氣を博したものである。大正九年國活創立と共に入社して五味一派と共に「短夜物語」などを撮影して一新天地を開拓したものである。

明治二十五年八月二十一日、東京市芝區琴平町に生る。本名を河野千歳と云ふ、身長が五尺一寸二分、體重が十二貫五十匁ある。現住所は東京市外青山原宿六十三番地。

『裸にした映画女優』
(日本映画研究会、1925年)

[JMDb]
p0373860

[IMDb]
Chitose Hayashi

[出身]
日本(東京・芝)

[誕生日]
8月22日

[サイズ]
8.5 × 13.6cm.

1927年『日本映画年鑑 第三年版』(大正十五年・昭和二年版、朝日出版社)

『日本映画年鑑 第三年版』表紙
1927 – The Japan Movie Annual 1926-1927
(Asahi Shimbun Publishing Co.)

1925年から足掛け6年に渡り公刊されていたのが朝日新聞社の『日本映画年鑑』でした。日本の無声映画期の基礎資料の一つとして2011年に復刻されています。第一号に当たる大正13-14年版は国立国会図書館のオンラインアーカイブにて閲覧可能


この時期を代表する作品として『黄金狂時代』『修羅八荒』『狂った一頁』『滅び行く民族』『最後の人』『噫無情』などが紹介されています。各国の映画界の個性がよく出た選択ではないでしょうか。

特集として興味深いのは、砂田駒子、鈴木伝明、ポーラ・ネグリの小伝です。特に砂田駒子さんは本人筆による回想録を寄稿しており、写真を多くあしらった幼少時の回想を読むことができます。


監督としては村田實、牛原虚等が取りあげられ俳優では梅村蓉子、諸口十九、岡田嘉子、スポーツ俳優の面々に紙数が割かれています。新人紹介欄に目をやると現在忘れられてしまった名前も多く、出入りの激しかった様子を伝えています。訃報欄では尾上松之助、ルドルフ・ヴァレンチノとバーバラ・ラマール三人がその功績を称えられていました。


撮影所毎のデータ集約や、巻末に付された簡潔な俳優名鑑など使い勝手の良い構成で、資料価値は高いのではないかと思われます。