マリア・ヤコビニ Maria Jacobini (1892 – 1944) 伊

イタリア [Italy]より

Maria Jacobini Autographed Postcard

藝風。打ち沈んだ面影、何とない寂しみを含むその頬笑み、胸の悩みに悶える女の性格、其を表す事に於て卓越した技巧を有するマリア・ヤコビニ。彼女は過去に於てはサヴオイア社作『ジヤンダーク』『生ける屍』で我々に好評を得たが、近く輸入された杜翁[トルストイ]の『復活』(チベル社作)が封切の暁には、更に卓絶した彼女の藝を味ひ得る事と信ずる。

経歴。マリア・ヤコビニ嬢が斯界に入つての第一歩はトリノ市のサヴオイア會社に於てであつた。永くの間舞臺上の經驗を積んだ嬢は、斯界に於ても忽ち好評を得た。さうして同社の、南歐映畫界にも誇るに足る傑作『ジヤンダーク』及び『全勝』(勝利の徽章)に主演を演ずるに至つた。尚數多の映畫に名優ヂロ・ロンバルヂー氏と共演し好評を得たが、一九一三年暮パスクワリ社に轉じ、翌一九一四年更にチエリオ社に入り、『悲しき集』『死なない爲』『死の恐ろしき翼』『アナンケ』等に主役を演じて世評に昇り、嬢の斯界に於る人気は一躍してエスペリア夫人、リダ・ボレリ嬢を凌がうといふ勢になつた。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


『生ける屍』(1913年) 広告

1914年、パスクワリ社広告

第一次大戦前、イタリア映画の勃興期に女優としての活動を開始し、サヴオイア社、チベリ社、イタラ社など多くの映画会社で花形女優として活躍したのがマリア・ヤコビニでした。当時のディーヴァ女優の多くが女王様然としたオーラを漂わせていた中で、マリア・ヤコビニは一味違った柔らかで親しみやすい雰囲気を備えており、町娘役を演じた『さらば靑春』でもそういった個性は発揮されています。

第一次大戦後は他のイタリア女優同様国外へと拠点を求めていくことになります。20年代に苦戦したベルティーニやマコウスカ等と対照的に、マリア・ヤコビニは監督(デュヴィヴィエ、オツェップ)にも恵まれ無声映画末期にも観るべき作品を幾つか残しています。なかでも1929年の『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』は彼女のエモーショナルな表現力を再確認できる優れた作品です。

『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』
(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)より

[IMDb]
Maria Jacobini

[Movie Walker]
マリア・ヤコビニ

[出身地]
イタリア(ローマ)

[誕生日]
2月17日

エレナ・マコウスカ Elena/Helena Makowska (1893–1964) ポーランド/ロシア/イタリア

イタリア [Italy]より

Helena Makowska 1920s Autographed Postcard

藝風。マコウスカ嬢の名は他の伊太利俳優よりも、比較的遅く我愛活家に知られた。然し嬢の妖艶にして人を魅するその容姿と、深刻味に富む藝風は、我々の賞讃の的となり、今は伊國に於ても、悲劇女優として一流の地位を占め、性格役に於て殊に獨特の技能を發揮して居る。

経歴。嬢の生地は北風西比利亞の野を通して寒い露國莫斯科である。さうして其地に生育した嬢は天分の美聲を以て歌劇女優としてペトログラードに人々の憧憬の的となつて居たが、六七年前佛國巴里に來て、諸所の劇場に出演好評を得たが、後伊太利に赴き、一九一五年秋アンブロジオ會社の招聘を受け『魔の真珠』『ロマンチシズモ』(國よ若き國よ)『エヴァ・ネミカ』等にツリオ・カルミナチ氏と共演し、又ウムベルト・モザツト氏とダヌンツイオ原作『炬火』『ジオコンダ』及び『聖者』を完成し、後『乗合馬車十三號』にも主役を演じて名聲を擧げたが、一九一七年フエボ・マリ氏の入社と共に同氏監督の下に『苦惱』『ファウノ』に出演し、次いでロドルフイ氏監督の下に名優ルヂエロ・ルゲリ氏及びメルチエデス・ブリノネ嬢と『ハムレツト』を完成したが、同年秋コロナ社に轉じ『カイノ』を撮影し、一時メヅサ會社の映畫にも出演し、遂に昨年テスピ映映畫社に入つて『變説者ジユリアノ』を撮影し、引續き同社の映畫に出演して居る。さうして彼女の人氣は一躍して高くなつて來た。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


ベルティーニ、メニケリ、ボレリ等に次ぐ第二世代ディーヴァ女優として登場した一人で『活動画報』でも日本ではやや遅れて紹介された旨が記されています。

現在ウクライナに位置するクルィヴィーイ・リーフにポーランド人技術者の娘として生まれ、歌の勉強をするためイタリアへと渡り映画デビューのチャンスを摑みました。『乗合馬車十三號』『ファウノ』『カイノ』『さらば靑春』など1910年代中盤~後半に活躍。第一次大戦後にイタリア映画界が斜陽化する中でドイツに拠点を広げていきます。今回入手したサイン入り絵葉書もこの時期の一枚。

1930年代に映画界を離れポーランドに戻ります。ナチスによるポーランド侵攻時には英国人男性と結婚していたため逮捕、強制収容所に移送され4年間を過ごしています。戦後、老け役として幾つかの映画に出演後1964年にイタリアで亡くなっています。

[IMDb]
Helena Makowska

[Movie Walker]
エレナ・マコウスカ

[出身地]
クルィヴィーイ・リーフ(現ウクライナ)

[誕生日]
3月2日

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcards

Alma Rubens03
Alma Rubens 1926 Autographed Postcards

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。 ヘッダ・ヴェルノン

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür. Mit herzlichem Gruß. Hedda Vernon

消印は1916年(大正5年)の10月23日。宛先はヘンケ・ステグリック(Henke Steglik)嬢でしょうか。メッセージ面には5行の手書き文章と署名。「どこかにやってしまいました」は方便で、この時点で一番プロモーションに適した絵葉書に「差し替えた」が正しいのだろうなとは思います。

「どうやって映画(界)に入ってきたのか?」

徒歩で、でしょうか。今でも覚えているのですがとても遠かったです。やっとたどり着いたと思ったら監督さんに「遅刻だぞ」と怒られてしまって。指示で何か演技をすればさらに罵られる始末。映画が上映された時にお客さんから大きな拍手が挙がって、監督さん曰く「君には才能がある!」。日記に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」って書いてやりました。

ヘッダ・ヴェルノン・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)

„Wie ich zum Film kam?“

Per Beine; und ich erinnere mich noch, daß es sehr weit war. Und als ich schließlich da war, schimpfte der Regisseur, weilich zu spät kam; und als ich ihm was vorspielte, schimpfte er noch mehr; und als der Film heraus kam, klatschte das Publi­kum, und der Regisseur sagte: » Hedda, Sie sind ein Talent!« – Und ich schrieb in mein Tagebuch: »Veni, vidi, vici.«

Hedda Vernon Interview
in « Die Frau im Film » (Altheer & Co., Zürich, 1919)

リヒトビルト・ビューネ誌1913年8月第34号広告

1913年にドイツで国産犯罪活劇が流行し始めた時、ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演のケリー・ブラウン連作のヒロインに抜擢され、このジャンルで最初にアイドル的人気を博したのがヘッダ・ヴェルノンでした。『天馬』の邦題で知られる « Die Millionenmine » でヒロイン役を務めたこともあって1914年頃の日本の映画愛好家にも名を知られていました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月第12号より『天馬』広告

キネマトグラフ誌1915年7月号広告

1914年に自身の名を冠した映画製作会社を立ち上げて独立。その後はアイコ映画社を中心に、夫でもあるフーベルト・メスト監督作品に多く出演。恋愛物、喜劇、歴史劇など様々なジャンルの作品に出演しています。1910年代中頃からは若手の突き上げを受けて人気面で伸び悩むものの、ドイツ活劇ジャンルの先駆けとして「別枠」の扱いを受けており10年代末頃まで自身の名前を前に出して一線での活躍を続けました。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)

1919年、アイコ映画社の 自社俳優紹介広告欄より (ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日)

1920年代になると脇役に回る機会も増えてきます。それでも1921年にはメスト監督の『レディ・ゴディバ』に主演、英テニスンの詩を元にした同作は合衆国でも公開されました。

1922年、『レディ・ゴディバ』米公開時の広告

1925年に亡くなった後は再評価の機会がないまま忘れられていくのですが、2018年にボローニャ復原映画祭の「一世紀前の映画」企画で主演作『Puppchen』(1918年)復原版の上映記録が残っています。

[IMDb]
Hedda Vernon

[Movie Walker]
ヘッダ・ヴェルノン

[出身地]
ドイツ

[サイズ]
13.6 × 8.7cm

西條香代子 (1906 – ?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Saijô Kayoko Late 1920s Autographed Postcard

本名は中村香代子、明治卅九年正月の元日に神奈川縣鶴見に生れる、女學校卒業後、大正十四年五月一日日活へ入社、「闇の中の顔」へ出演好評を博す。「ダンスとピアノと琴が好きでイバニエズの戯曲物の愛讀を好み、バナゝと洋食と甘いお菓子が好きで、メリーピツクフオード愛好者です」住所京都市下京區西ノ京御輿ヶ岡町十五ノ五。

『日活俳優名鑑 1926+10』
(『大日活』二周年記念附録、1926年10月)


私は此の人の、あく事なき理智に輝いた眸の色に視入る時、恋の霊魂と化したあの静御前の姿が忍ばれてならない。

「佳人佳語」
(美町淑夫『うづまさ』1927年9月号)


明治三十九年一月一日極めてお芽出度い元旦の初日の出と共に神奈川縣の鶴見で孤々の聲を揚げた。中村香代子が本名で、當年二十三才。高等女學校卒業後大正十四年五月に日活に入社する。玉麗花のかんばせ、眞紅の唇、瀟洒たるスタイルは常に幾百萬のフアンをチャームしてゐる。主演『闇の中の顔』『日輪』『死の寶庫』『大陸の彼方』で好評を得。現に同社の花形女優。

『玉麗佳集』(1928年)


昭和元年〜2年にかけて人気を博した女優さんで、1926年8月『キネマ』誌の人気投票中間報告で25位(女優では11位)になっていました。

昭和3年(1928年)に髙島栄一氏とやりとりをしていた葉書が2枚手元にあります。一枚目は年賀状で「旅行中の爲失礼を致しました」の一文あり。もう一通は同年8月の暑中見舞いで「早速お尋ねを頂きまして恐縮し存じ上げました。私恙なく過して居ります」とのこと。

Saijô Kayoko 1928 New Year Greeting Card

Saijo Kayoko 1928 Summer Greeting Card

Saijô Kayoko 1928 Summer Greeting Card

この二通の間に阪妻『坂本龍馬』(1928年5月公開)に出演、同作を最後に映画界から引退。実質3年の短い女優活動でした。引退までの経緯とその後の消息が気になっていたところ1928年1月の新聞にこんな記事を見つけました。

阪妻プロダクシヨンの女優西條香代子こと中村かよ子は今度洋行することになり、先日京都府廰へ旅券下附願ひを出した。映畫俳優の洋行といへば大ていハリウッドと相場が決まつてゐるがこの人のはアメリカではなくフランスを中心にドイツ、イタ[リ]ーへ、しかも三年間滞在しようといふのである。

日布時事日曜版 1928年1月29日付 9面
(フーバー・インスティテューション
邦字新聞デジタル・コレクションより)

自身のキャリアアップのために邦画界を離れたい旨が語られています。実際に渡欧できたかは分かりませんが、映畫界からフェイドアウトしていった背景が理解できる内容で「そういう事情であれば」と納得できました。

[IMDb]
Kayoko Saijô

[JMDB] (二項目に分かれて記載されています)
西条加代子
西条喜代子

[出身地]
日本(神奈川県横浜市)

[生年月日]
1月1日

イタ・リナ Ita Rina/Jta Rina (1907 – 1979) セルビア/スロヴァニア/チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States]より

Ita Rina c1931 Autographed Postcard
(Estonian Edition)

Ita Rina Autographed Postcard

Ita Rina 1930 Inscribed Postcard

母は自分の美しい娘二人をどの映画スターに譬えたらよいか決めかねていた。華奢な姉は愛らしい花形子役シャーリー・テンプル、童顔な女優のオードリー・ヘップバーンに似ているという話になった。姉よりぽっちゃり系の私は古風なディーヴァ女優、ネオレアリスム映画に出てくる情の濃いイタリア女優になぞらえられた。

「『キリマンジャロの雪』のエヴァ・ガードナーに似てない?」、私が12才かそこらで母は叔母にそんな質問をしていたのだ。

「どちらかといえば『モガンボ』かな」が叔母の回答だった。その理由は本人以外に窺い知れぬものではあったが。

「イタ・リナはどう?」、お遊びに混ざってきた姉が口にしたのはセルビア出身の無声映画女優の名。しばらくの沈黙があった。イタ・リナの容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった。でも皆その名前だけは知っているのであった。記憶をさかのぼる限り、クロスワードでは必ずと言ってよいほど「著名なセルビア人女優(7文字)」で登場してくる名前だった。

『チェルノブイリ・ストロベリーズ』
(ヴェスナ・ゴールズワージー、2005年)

Mother could never decide which film star to compare her beautiful daughters to. While my slim sister was likened to the sweet child stars like Shirley Temple or gamine actresses like Audrey Hepburn, the plumper me seemed destined for similes with old-time divas and sultry neo-realist Italian beauties. « Isn’t she just like Ava Gardner in The Snows of Kilimanjaro? » Mother asked an aunt of mine when I was barely twelve. « I’d say Mogambo, » suggested the aunt for reasons known only to her. « How about Ita Rina? » my sister threw the name of one of Serbia’s silent-movie stars into the game. They paused for a moment. No one was certain about Ita Rina’s precise looks, but everyone knew the name, which has featured in every cross-word puzzle as « famous Serbian actress (7) » for as long as anyone can remember.

« Chernobyl strawberries : a memoir »
(Vesna Goldsworthy, 2005, Atlantic Books, London)

セルビアの現代作家ヴェスナ・ゴールズワージーの回想録『チェルノブイリ・ストロベリーズ』(2005年)にこんな情景が描かれていました。「12才かそこら」と書かれているので1970年代の話で、イタ・リナという女優が自国でどう捉えられていたかよく伝わってくるエピソードです。

Ita Rina in Erotikon (1929)

Ita Rina in Erotikon (1929)

イタ・リナを欧州レベルの花形女優に押し上げたのは『エロティコン』(1929年)の成功でした。チェコ出身の名監督グスタフ・マハティの出世作で、後年のヘディー・ラマール主演作『春の調べ』(1933年)につながってくるものです。両作に裸体描写が含まれていましたが『春の調べ』には自然主義/印象派風の光の戯れがあり、『エロティコン』にはドイツ表現主義と東欧由来の幻視・奇想が含まれていていずれも単なる初期ポルノで片付けることのできない作品です。

『エロティコン』は監督の個性や実験性が前面に出ていて個々の俳優の印象が残りにくい作品でもあります。「容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった」の位置付けも作品のそんな性質からきているものです。

Ita Rina in Tonka Sibenice (1930)

イタ・リナは『エロティコン』の成功後、チェコとドイツを往復する形で映画出演を続けています。1931年の結婚と共に女優業から離れますが33年に復帰しトーキーにも出演。1930年『娼婦トンカ』、1935年『人生は続く』などで情感の深さや存在感を見せた女優でもあって『エロティコン』の濡れ場「だけ」で映画史に名前が残ってしまったのは残念な気がします。

サイン入り絵葉書2枚のうち片方は独ロス出版社の絵葉書にメッセージと日付(1930年5月)をしたためたもの。もう一枚はエストニア製絵葉書で1931年製。後者については1930年にエストニアの街ロクサを舞台にした『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)に主演しており、同作公開後に何らかの形でエストニアの映画愛好家が入手した一枚だと考えられます。

Tallinnは『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)のロケ地ロクサから十数キロの場所に位置する街です

[Movie Walker]


[IMDb]
Ita Rina

[出身地]
スロヴェニア(ディヴァーチャ)

[誕生日]
7月7日

シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

フランス [France]より

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayant pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日

昭和11年(1936年)1月: 『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』冨士新年號附録

« Cinema & Revues Famous Stars Photo Album »
supplement to the « FUJI » magazine Vol.9, No.1 (Jan 1936)
published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

以前から何度か投稿で扱ってきた雑誌『冨士』の付録、今回は1936年度版で表紙は山路ふみ子さん。タイトルの通り映画と歌劇の二本立てで構成されています。歌劇編(松竹・宝塚)も充実して面白かったのですが今回は映画編のみの紹介となります。

冒頭は彩色のグラビアが並び、高杉早苗・飯塚敏子・水の江瀧子・小夜福子の4名が登場。続いて映画界から92名、歌劇界から82名の紹介が行われ、最後に特集記事が幾つか収められていました。

松竹の充実ぶりは圧倒的。三羽烏(高田稔、上原謙、 佐分利信)に加えて林長二郎、高田浩吉、阪東好太郎ら若手が成長を見せ、女優陣も田中絹代、桑野通子、川崎弘子と盤石の面々が並びます。バイプレーヤーにも味のある個性派(坂本武、小林十九二、近衛敏明)が集結。

日活は主要メンバーが大分入れ替わった印象があります。20年代に比べると小粒な印象は否めないものの実力派を揃えていてまだまだ健在。

華美な感じではないものの雰囲気のある俳優さんが揃っていたのが新興。

PCLの存在は短期間に留まりましたが現在でも根強い評価・人気を得ています。若手を中心に勢いのあった様子は伝わってきます。

大都、第一映畫、東京発聲辺りにも見るべき才能が埋もれています。

以前の『冨士』付録と比べて落ち着いた絵面が多数。不景気が体感できるほど広まっていた時期でもあって20年代〜30年代初頭の非現実な華やかさを前に押し出す人は少なくなっています。世相的に暗い方向に向かいつつも、照明や脚本術などの向上と相まって良作を生み出していたこの時期の邦画界に層の厚さ、底力を感じます。

[発行年]
昭和11年1月

[発行者]
大日本雄弁会講談社

[フォーマット]
164頁 26.2cm×18.9cm

[定価]
本誌と共に七十銭

マリー・ヨンソン Mary Johnson (1890 – 1975) スウェーデン

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Mary Johnson 1920s Autograhed Postcard

1910年代後半、スウェーデンのハッセルブラッド映画社でイェオイ・アフ・クレルケル監督によるメロドラマに多く出演し人気を博していたのがマリー・ヨンソンでした。

Mary Johnson in Förstadsprästen (1917)

1917年『Förstadsprästen』より

1918年『灯台守の娘(Fyrvaktarens dotter)』より

ハッセルブラッド社作品は国外輸出された形跡がなく、その人気はスウェーデン国内に留まっていました。1919年にスウェディッシュ・バイオグラフ社とスカンディア社の大手二社が合併、本格的に海外市場の展開を始めた時スティルレル監督が『吹雪の夜』のヒロイン役に彼女を抜擢します

Mary Johnson in Herr Arnes pengar (1919)

1919年『吹雪の夜』より

1920年の米フォトプレイ誌より

同作は公開当初から欧米で話題を呼びました。ヨン・W・ブリューニウス監督による歴史ドラマ『福騎士』(En lyckoriddare、1921年)でユスタ・エークマンと共演、『グンナール・ヘデ物語』(1923年)ではスティルレルと再度タッグを組み「スウェーデンのメアリー・ピックフォード」と称されるまでになりました。

Filmnyheter誌 1923年第1号
『グンナール・ヘデ物語』公開時の特集記事より

20年代中盤〜後半にスティルレルがガルボらと共に渡米、北欧映画の弱体化がはっきりしていく中でマリー・ヨンソンは旧大陸(ドイツ、フランス)に進出し舞台/映画での女優活動を続けていきます。

1932年にラング作品で知られるルドルフ・クライン・ロッゲと再婚、一児を設け一旦は落ち着いた生活を取り戻すも2年後にその子供が亡くなり精神的なバランスを崩していきます。ナチス台頭と共に夫婦はドイツ映画界での居場所を失いオーストリアに移住。第二次大戦後ロッゲが亡くなると故国スウェーデンに戻り、1970年代にひっそりと亡くなっています。

10〜20年代の華やかな活躍とそれ以後の凋落の対比があまりにも極端なのですが、清純な娘役のイメージが固定してしまい成熟した女優に脱皮できなかったのが大きな要因だったとは思います(『グンナール・ヘデ物語』の演技にもその予兆を見て取れます)。それでも『吹雪の夜』はエイゼンシュテインにまで影響を与えた無声映画屈指の作品の一つですし、スウェーデン映画勃興期に残した功績も無視できないものです。

[Movie Walker]
マリー・ヨンソン

[IMDb]
Mary Johnson

[誕生日]
5月11日

[出身]
スウェーデン

[データ]
Ross Verlag, 8.7 × 13.9cm

ブランシュ・スウィート Blanche Sweet (1896–1986)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

ブランシュ・スウィート嬢はシカゴで生れ加州バークレーカリッジにて教育を受けた。幼い頃から舞臺に立ち始めチェインシー・オルコット氏や他の著名役者と共演している。舞臺を離れ銀幕に移るやいなや初の出演作「ベッスリアの女王」で忽ちにその名を上げた。爾来、多くの寫眞に姿を見せ益々人気を高めている。他に比べるもののない魅力的な性格のスウィート嬢は映畫界随一の慕われ振りで、舊作の素晴らしい演技から更なる将来の飛躍が期待せらる。スウィート嬢はグリフィス監督が発掘してきた最初の花形で、現在はパテ社連作のヒロインを任されている。金髪碧眼。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Blanche Sweet was born in Chicago and received her education at Berkeley College in California. She began her stage career at an early age, appearing with Chauncey Olcott and other stars. Deserting the stage for the screen she found fame at once, her first appearance being in « Judith of Bethula. » [sic] Since then Miss Sweet has added to her popularity in the great number of productions in which she has appeared. The singularly appealing personality of Blanche Sweet has endeared her to lovers of the best in motion pictures and her delightful impersonations in the past give promise of greater things for the future. Miss Sweet was D. W. Griffith’s first star. She is now starred by Pathe in a series of productions. She has golden hair and blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

以前に1920年頃のパラマウント社でスチル撮影を行っていたカメラマン、ドナルド・キース(Donald Biddle Keyes)氏旧蔵のサイン入りポートレート群を紹介しました。こちらは同氏によるブランシュ・スウィート(日本語版ウィキは「ブランチ」表記ですが古い表記に従います)の写真。1924〜25年にMGM社の『スポーツの女神』に出演した頃の一枚だと思われます。

キース氏は綺麗さ、可憐さといったスター女優の「型」に被写体を落としこもうとはせず、素に近い表情や雰囲気を切り取るのを得意とした写真家でした。素を演じていただけだよと言われると身も蓋もありませんが、晩年にメディアに登場していた頃の姿は白髪で皺が増えた以外ほとんど変わっていなかったりします。

メアリー・ピックフォードの代わりとなり最後は逆にリリアン・ギッシュに取ってかわられるまでの5年の間、ブランシュ・スウィートはグリフィスと米バイオグラフ社の下に留まった。この三女優は演技スタイル、外見上の相違が大きく比較は出来ない。ブランシュ・スウィートは天上的な儚さを備えたギッシュと違ってふくよかな十代の少女だったし、ピックフォードの明快な個性も備えてはいなかった。その二人どちらと比べても自然な演技の出来る役者ではあった。

『サイレント・プレイヤーズ』
(アンソニー・スライド著。2002年、ケンタッキー大学出版)

Blanche Sweet was to remain with Griffith and American Biograph for five years, replacing Mary Pickford and, in turn, being replaced by Lilian Gish. The style and appearance of the three actresses is so diverse that it is impossible to compare one to the the other. Blanche is still a teenager with « puppy fat », unlike the ethereal Gish, and lacks the obvious personality of Mary Pickford. She is a more natural actress than either of the two.

(Silent Players: A Biographical and Autobiographical Study of 100 Silent Film Actors and Actresses, Anthony Slide, University Press of Kentucky, 2002.)

また『サイレント・プレイヤーズ』の著者が最初にコンタクトをとったのが彼女で、その後もイベントでのエスコート役など縁が続いたそうです。「気分の波が激しい典型的なサイレント花形女優」の形容からは振り回された様子も伝わってきますがそれでも文章に静かな愛情が漂っています。

[IMDb]
Blanche Sweet

[Movie Walker]
ブランシュ・スウィート

[出身地]
合衆国(シカゴ)

[生年月日]
6月18日

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 トーキー時代・スター誕生』

8ミリ 劇映画より

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 2 : Talkie… Stars Are Born »
1970s Super8 Anthology


1) 戸田家の兄妹(1941年、小津安二郎) 桑野通子、高峰三枝子、三宅邦子、坪内美子ほか [JMDb]


2)信子 (1940年、清水宏) 高峰三枝子、三浦光子、飯田蝶子ほか[JMDb]


3)木石 (1940年、五所平之助) 木暮実千代、赤木蘭子ほか [JMDb]


4)隣りの八重ちゃん (1934年、島津保次郎) 逢初夢子、高杉早苗、岡田嘉子ほか [JMDb]


5)暖流 (1939年、吉村公三郎) 水戸光子、高峰三枝子 [JMDb]

松竹映画史を女優視点で振り返っていくスーパー8版アンソロジーの第二篇。

冒頭を飾るのは小津作品『戸田家の兄妹』。妖婦や悪女役など翳りの多い役柄が多かった桑野通子さん新境地が評価されたものです。続いて高峰三枝子さんが女学校の女性教師を演じた『信子』。しばしば女性版『坊ちゃん』と呼ばれますが、多感な女生徒たちと教師・信子の関係には数年前に日本で公開された『制服の処女』の影響を見て取ることもできます。

ベテラン看護婦(赤木蘭子)とその娘襟子(木暮実千代)の物語を描いた『木石』。母娘二人のコントラスを効かせながら、襟子の出生の謎が次第に解き明かされていきます。8ミリ版ナレーションでは時局を踏まえ、戦前期松竹の最後を飾るメロドラマの位置付けをされていました。

一旦1930年代前半に戻って『隣りの八重ちゃん』に移ります。撮影や脚本、配役に無声期の雰囲気が強く残っている感じ。八重の友人役で瑞々しい存在感を見せた高杉早苗さんが高く評価されていました。

トーキー篇のトリを務めるのは『日本映画史・前編』でも紹介されていた『暖流』。喫茶店での抜粋も含まれています。男一人、女二人の三角関係を軸に進んで行く物語で当時は映画フアンがぎん派(水戸光子)と啓子派(高峰三枝子)に分かれていたエピソードも紹介されていました。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート(24コマ/秒) 光学録音・テープ付き

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 サイレント時代・草分けの美女たち』

8ミリ 劇映画より

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 1 : Pioneers from The Silent Era »
1970s Super8 Anthology


1) 伊豆の踊子(1933年、五所平之助監督) 田中絹代、若水絹子ほか [JMDb]


2)松竹スタジオ紹介他


3)不壊の白珠(1929年、清水宏監督) 及川道子、八雲恵美子ほか [JMDb]


4)与太者と海水浴(1933年、野村浩将監督) 井上雪子、光川京子、高峰秀子ほか [JMDb]


5)夜ごとの夢(1933年、成瀬巳喜男監督) 栗島すみ子、飯田蝶子ほか [JMDb]


6)金色夜叉(1937年、清水宏監督) 川崎弘子 [JMDb]

2018年初頭に入手したスーパー8版アンソロジー。トーキー篇の紹介にあわせてこちらもスキャンしました(前回は映写した画面をそのまま撮影)。

田中絹代さん主演の『伊豆の踊子』で始まり、松竹スタジオの外観などを挟みながら井上雪子さん主演の『与太者と海水浴』へ。浅瀬に着衣のまま飛びこんでしまう大胆な展開に。

名作『不壊の白珠』を挟んで『夜ごとの夢』。栗島すみ子さんキャリア後期の作品で子供に頬をつけて泣いている時の表情が圧倒的。最後に『金色夜叉』での寛一お宮のやりとりが紹介されています。どの女優さんも雰囲気ありますね。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート 磁器録音(24コマ/秒)

1935年(昭和10年)-【ファクトチェック】 女優・筑波雪子のリベンジ・ポルノ事件

2020年末時点での日本語版ウィキペディア(以下ウィキ)「筑波雪子」の項目に以下の記述が含まれています。

この翌年の1935年(昭和10年)5月3日、牛島某という男が筑波のヌード写真をネタに松屋から5000円を恐喝するという事件が起き、逮捕された牛島の供述から同日、共犯を疑われて、筑波も警視庁に連行された。牛島は筑波の昔の同棲相手で、1930年(昭和5年)から1934年夏まで同棲していたという。

元同棲相手の逮捕で「ヌード写真」の存在が公にされてしまったため、「リベンジポルノの元祖か?」と指摘しているツイッターユーザーさんもいます。意図したものではなく結果的に、の条件でも良いならそう見る事もできるかなと思います。

ウィキの記述にはソースリンクが付されています。元ソースは戦前の新聞記事を紹介している個人サイト「昭和ラプソディ」。Yahoo!ジオシティーズは2019年3月末に閉鎖されており、このサイトも現在は閲覧不能。インターネット・アーカイヴなどウェブ魚拓も残されていないため典拠がない形で放置されています。

今回、この一件についてファクトチェックを行ってみました。1935年5月の新聞記事を確認していきましょう。[1]

[…] 松竹キネマ女優筑波雪子の裸體寫眞を種に松屋から五千圓を恐喝したかどで檢擧された世田谷区北澤一、一一三牛島幸太郎について取り調べた結果、本人の筑波雪子事佐藤ゆき子(二九)が此事件の共犯らしい疑ひが濃厚になつて來たので雪子は三日午後零時半黑つぽい花模様の絹紗、洋髪で大森區入新井六ノ五五の自宅から一森警部の部下の刑事に連行されて警視廰に出頭一森警部の取調べを受けてゐる、筑波雪子は取調べに對し牛島の松屋恐喝事件は全然知らぬといつてゐるが更に地下新館調室に同人を移して取調べを續行して居る。

雪子は牛島と昭和五年から麹町の某所に同棲し、昨年夏別れて大森區入新井六ノ五五實弟佐藤光次郎方に同居してゐたものである。

「筑波雪子登場 共犯の疑いで警視廰へ出頭」
東京朝日新聞 昭和10年5月4日付夕刊2面


裸體寫眞を種に松屋から五千圓を恐喝したかどで検擧された牛島幸太郎との共犯嫌疑で三日警視廰に召喚された女優筑波雪子は捜査二課一森警部に取調べられたがその結果雪子は一作年四月牛島の松屋恐喝の直後松屋から贈つた千圓を貰ひ受けた事實はあるが恐喝に直接關係のないことが判つたので同日午後四時半まづ釋放となつた。


「筑波雪子は釋放」
東京朝日新聞 昭和10年5月4日付朝刊11面


[…] 世田谷区北澤一、一一三牛島幸太郎(四〇)は先に暴力團狩で檢擧され警視廰捜査二課一森警部が留置の上取調べてゐたが、右の恐喝の外に次のやうな余罪が現れた。

◇…昭和四年十二月末神奈川縣大磯町九三六奥弘一が銀座六ノ四にカフェー・サロン春を開店した際、奥が友人某を通じて牛島によろしく賴むといつたことから筑波雪子を自分の妻と稱して昭和五年二月から四月まで店に出してサービスさせ、その代償として借用金名義で三千二百圓を捲き上げた[…]

「筑波雪子のサービス代三千圓 「サロン春」も牛島に強請らる」
東京朝日新聞 昭和10年5月29日付夕刊2面

東京朝日新聞の報道は時間軸が逆転しており、5月4日付朝刊で女優釈放の記事が出た後、夕刊で連行に至るまでの経緯が伝えられています。また3週間程経った5月末には余罪についての続報が掲載されていました。

ウィキの記述は5月4日付夕刊での情報をまとめた形になります。余計な情報が付け加えられた形跡もなく概ね正確なまとめだとは思いますが一ヶ所紛らわしい表現がありました。

引用したウィキの文章は「5月3日」に「恐喝するという事件が起き、逮捕された」とつながっています。そのため容疑者による恐喝が5月3日に行われた印象を与えます。4日付朝刊11面の記述を読むとその解釈は間違いで、恐喝事件そのものは「一作年」=昭和8年(1933年)に発生していたと分かります。1935年に警視庁による暴力団の摘発が強化されており、一連の逮捕劇の流れで2年前の犯罪が発覚したものです。

それ以上に問題となるのは「連行された」でウィキの記述が終わってしまっているところです。容疑者の供述、被害者からの送金の動きから嫌疑がかかり連行された事実は間違いありません。ただ、取り調べの結果「恐喝に直接關係のないことが判」り、即日「釋放となつた」話があるとないとでは読み手の印象が大きく変わります。

別れた後に私的な写真を持ち出された状況を考慮するならこの一件で筑波雪子さんは被害者側にいます。ウィキの記述にはそういった視点が欠落、賭け麻雀事件に続いて警察沙汰に巻きこまれた話を並べてスキャンダラスな要素を強調をしている感は否めません。誤情報は無くとも見せ方に問題あり、という感じでしょうか。

結論:〇 (記述は概ね元記事に即しているが、情報の選択がややセンセーショナルに寄っていて公平性に欠ける)

[補遺]ちなみにこの事件に関して、「女優のヌード写真」が実在したのかどうか疑ってみることもできます。

第二のパターンはエロ写真に有名女性の首をすげ替えて、本物として売りつけようとしたものである。大正時代から昭和二、三年にかけて、そのかっこうの素材とされたのが女優の筑波雪子であった。[…]

『日本エロ写真史』
(下川耿史、青弓社、1995年)

それから幾日か經つて、誰のいたづらか未だに分らないのであるが、彼女が風呂場で立膝をしながらあかすりを使つているところの、實に驚くべき大膽不敵な裸體姿の寫眞を、愚生に送つて來たのである。

だが愚生は、永遠に彼女の貧弱な肉體を記念すべき、此の最も貴重な寫眞を、直ちに焼いて灰にしちまツたんである。(十月廿六日夜)

「筑波雪子の裸體姿の話」
(人見直善、『劇と映畫』1925年12月号)

左がオリジナル写真 [2]。右が1920年代中盤〜30年頃に流通していたフェイク・ポルノ写真 [3]。眉や目鼻立ちをペンで修正、背中や腕を黒で縁取りして細身のシルエットに見せる加工が施されています。原始的な手法ながらそれらしい仕上りで、当時は相当数の人々が本物だと信じていました。

もちろん数年来の同棲相手、しかも女性を金づるにする類の人物なら本物を持っている可能性はあります。でも若い頃にフェイクポルノの被害に遭った、しかも名の知れた女優がそんな簡単にリスクのある写真を撮らせるでしょうか。紙ベースでの検証はこの辺りが限界で真相は不明。いずれにせよ恐喝事件について言及する際に写真の真贋に紛れがある点は留意しておくべきかと思われます。


[1]  東京朝日新聞からの引用は朝日新聞社提供による「聞蔵II」のアーカイブを元にしています。
[2] 『日本エロ写真史』(下川耿史、青弓社、1995年)
[3] 『エロ・グロ・表現考』(赤木妖三、時代世相研究会、1931年)

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

1933 – 『東西映画 人氣花形寫眞大鑑』 冨士新年號附録

« National & International Cinema Stars Photo Album »
 supplement to the « FUJI » magazine Vol.6, No.1 (Jan 1933) 
published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

以前にも何度か紹介した雑誌『冨士』新年特別号の昭和8年度版。同誌が1930年代に残した映画関連特別号は以下の6冊になります。

昭和6年(1931年)1月: 『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
昭和8年(1933年)1月: 『東西映画 人氣花形寫眞大鑑』
昭和9年(1934年)1月: 『處女作・出世作・代表作 映画花形大寫眞帖』
昭和9年(1934年)9月: 『最新映画大鑑』
昭和11年(1936年)1月: 『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』
昭和12年(1937年)1月: 『名扮装名場面 映画・芝居大寫眞帖』

『冨士』の特別号は各号によって編集方針が異なっています。1931年版は収録人数が多くややマイナーな俳優までカバーしており使い勝手が良いものですし、1934年版は作品名と監督、役者の紐づけに便利。1933年版の本号は写真の完成度が非常に高いものでした。

邦画が無声からトーキーに移行しつつある時期で俳優の入れ替わりも目立つのですが、若手ばかりでなくサイレント時代からの古参も今までと違う表情を見せています。澤蘭子の洗練、柳さく子の翳りの濃い妖艶さ、飯田蝶子の枯れ具合、スーツに丸眼鏡姿の伝次郎が放つ殺気など見どころ多し。

中野英治、大日向傳や岡譲二の伊達男っぷり、水久保澄子と桂珠子のエキゾチックな美しさ、岡田静江のクールさ、星玲子と琴糸路のしなやかな透明感…30年代に台頭した若手も負けていません。普段のイメージと違った雰囲気を出している俳優さんも多く、製作陣が時間をかけてそれぞれの個性を引き出していった様子が伝わってきます。他の写真にも興味のある方はこちらをどうぞ。

ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

マリア・テナジと『ザレ』(”Զարե”、1927年・アルメニア映画公社)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [05]

Maria Tenazi 1927 Russian Postcard


本名マリア・アレクサンドロヴナ・タデヴォシアン(Мариам/Мариа Александровна Тадевосян)。国籍はアルメニアでロシア帝国~ソ連市民。

1903年にバクー(現アゼルバイジャン首都)で生れる。フィルムのロケ地で探してアラヴェルジの町を訪れたバルスキー監督の目に留まり、1924年グルジア国営活動会社作品の端役で女優デビュー。

1926年、アルメニア映画公社第一回作品となる『ザレ』で主演のクルド娘役を務める。しかし次作『雲の隠れ家』(1928年)のロケ撮影中に風邪をこじらせ女優業を休止、療養に入るも1930年に27歳で逝去。

「彼女がクルドの女性服に身を包み、大きな銅の水瓶を肩に担いで泉へ向かう場面では、生まれてこの方ずっとクルドの牧草地で過ごしてきた人のように見えた」(『ある俳優兼監督の回想録』、アモ・ベク=ナザリアン、1968年)

アモ・ベク=ナザリアン(Amo Bek-Nazaryan/Համո Բեկնազարյան)監督はイワン・ペレスチアーニと並んで1920年代初めのグルジア国営活動会社隆盛に功のあった人物です。元々アルメニア出身で、1920年代中盤にアルメニア映画公社が結成されるとその中心となり同国初の長編映画『ナムス』(Намус、1925年)を完成させました。

『ナムス』のスタッフや俳優を母体に制作した長編第2弾が『ザレ』で、主演に抜擢されたのがアルメニア人女優マリア・テナジでした。羊や牛を飼って暮らしているクルドの小さな集落を舞台とし、相思相愛の男女が族長息子の横やりで引き裂かれていくメロドラマを描いた一作です。

『ザレ』でのマリア・テナジ


出演しているのはクルド人俳優ではありませんでしたが生活風習や衣装、価値観を丁寧に反映させており、現在のクルド人監督(Mizgîn Müjde Arslan, Kazim Oz)からも「映画史上初のクルド映画」と評価されています。

ソ連映画の一部として製作された経緯もあって中東のクルドの人々が『ザレ』を鑑賞できる機会はありませんでした。状況が変わったのがこの10年程で、2011年3月にイスタンブール映画祭で上映、また2016年には公開90年を記念した高画質リストア版がアルメニアで上映されるなど再評価の機運が高まっています。

マリアさんは若くして亡くなり、出演作が少なく(計8作)メディアの露出が少なかったこともあって伝記データや逸話がほとんど残っておりません。数少ない例外としてベク=ナザリアンが戦後に発表した『ある俳優兼監督の回想録』(«Հուշեր դերասանի և կինոռեժիսորի»、1968年)に『ザレ』撮影時のエピソードが紹介されています。


[IMDb]
Maria Tenazi

[出身地]
ソ連(アゼルバイジャン/バクー)

[生年月日]
5月1日

[リンク]
2011年、イスタンブールでの上映会のリポート(アルメニア語)
2016年、映画公開90周年にアルメニアでリバイバル上映された際のリポート(アルメニア語)

1915 – 帝政期ロシア俳優揃え(ピョートル・チャルディニンの誕生日会)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [01]


帝政ロシア末期に俳優としてデビュー、後に監督に転身し成功を収めたピョートル・チャルディニンの誕生日に集まった男女優の集合写真。1915年の撮影とされており別な構図で撮られた写真も存在しています。

前列左にオシップ・ルニッチ(Ossip Runitsch/Осип Ильич Рунич)
前列右にピョートル・チャルディニン(Pyotr Chardynin/Пётр Иванович Чардынин)

後列左より
ウラジミール・マクシモフ(Vladimir Maksimov/Владимир Васильевич Максимов)
ヴェーラ・ハロードナヤ(Vera Kholodnaya/Вера Васильевна Холодная)
ヴィトールド・ポロンスキー(Vitold Polonsky/Витольд Альфонсович Полонский)
イワン・フドレエフ(Ivan Khudoleyev/Иван Николаевич Худолеев)
イワン・モジューヒン(Ivan Mozzhukhin/Иван Ильич Мозжухин)

チャルディニン監督の代表作で帝政期のメロドラマの典型として知られる『静まれ、悲しみよ…静まれ』(Молчи, грусть…молчи、1918年)にはモジューヒン以外の6人が出演、それぞれの俳優の持ち味を見ることができます。

オデッサ撮影所の公式チャンネルより

モジューヒンは人脈的に別系統でヴォルコフやトゥールジャンスキー監督作品に多く出演。1918年にチャルディニン監督の下、ポロンスキー、ハロードナヤ、モジューヒンの共演企画が持ち上がっていたのですが国内の混乱の余波で製作中止となっています。

革命後にモジューヒンは亡命、チャルディニンとルニッチも国外に拠点を移します。1919年1月にポロンスキーが中毒死、翌2月にハロードナヤが病死。マクシモフとフドレエフは国内で細々と俳優業を続けていきます。同じメンバーが揃って写真を残す機会は二度とありませんでした。無邪気な笑顔が素敵だからこそ、その後の命運に切なさを覚えます。

1919 – ヴェーラ・ハロードナヤ葬儀実況

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [02]

Funeral of Vera Kholodnaya (1919 Russian Postcard)


女優ヴェーラ・ハロードナヤがウクライナのオデッサに引っ越したのは1918年の春のことでした。翌年2月、同地を襲ったスペイン風邪に罹患、人事不省となり見舞いにきた友人の見分けもつかなくなります。一旦意識を回復するものの4日後の午後7時半に永眠。20日に葬儀が行われ、亡骸はオデッサの墓地に埋葬されました。

葬儀の模様はニュース映画でも扱われ、実際に映画館でも上映されました。1992年にマイルストーン社から発売された全10巻VHS『初期ロシア映画』の第7巻に英語字幕付き版が収録されていました。

動画は2分程の短いものです。前半に出演作の抜粋とプライベート姿をとらえた映像、後半は棺を教会墓地に運んで行く様子。左下のスクリーンショットではヴェラの隣に立つチャルディニン監督の姿が見えます。

ハロードナヤの葬儀については映画プロデューサーのハンジョンコフ氏が回想録で触れています。また最近公刊された伝記によると、1917年のチャルディニン監督作『暖炉の傍で(У камина)』で皇女リディアを演じた際の衣装と同じだそうです。

亡くなった女優は一番きれいな服を着せられ丁寧な死化粧をほどこされていた。(『ロシア映画の始まりの日々』、ハンジョンコフ著、1937年)

Мёртвая актриса была наряжена в один из лучших своих туалетов и тщательно загримирована

Ханжонков А. А. Первые годы русской кинематографии.
— М.: Искусство, 1937. — 172 с.

棺に納められたヴェーラがまとっていたドレスは2年前に映画『暖炉の傍で』で着ていたのと同じものだった。(『ヴェーラ・ハロードナヤ:無声映画の女王』、イレーナ・プロコフィエヴァ著、2013年)

Ее положили в гроб в том самом платье, в котором она два года назад играла княгиню Лидию Ланину в фильме «У камина» – в одном из самых популярных своих фильмов.

Вера Холодная. Королева немого кино
— Елена Прокофьева, 2013.


内戦状態、慢性化した食糧不足、スペイン風邪流行の三重苦に襲われ人々が否応なく「死」を身近に感じていた時期、ヴェーラの訃報はロシア全土に大きな衝撃をもたらしたのです。

同時にこれらの映像記録は女優ヴェーラを神格化していく過程の一つになりました。美しい姿のままの夭折が強調されているのは遺族や業界・報道側の思惑が絡んでいますし、受け取る側の期待にあわせた形にもなっています。俳優稼業が決して夢の世界ではないと知っていたハンジョンコフ氏の指摘はその意味で興味深く、著名女優の死がスペクタクル化されている状況を見抜いていたと読むことができます。

レンケッフィ・イツァ Lenkeffy Ica(1896–1955)と『シュラムの乙女(Szulamit)』(1916年、イレシュ・イェネー監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(05)

1896年、役者夫婦の娘としてミシュコルツに生れる。正式に演劇の勉強を学ぶことなく10代半ばにしてコメディ劇場で初舞台を踏む。後にハンガリー劇場や王立劇場とも契約するなど舞台女優との活動記録も残されています。キャリア初期の無名時代から映画に出演、1~2リール物の喜劇やメロドラマでヒロインを務めたハンガリー映画女優のパイオニアでした。

1912年の初期喜劇『戀は口に苦し』より

キャリア最初期の短編喜劇『恋は口に苦し(Keserű szerelem)』は一言で要約してしまうと意に沿わない高齢求婚者を下剤で追い払う話です。

1916年にはイレーシュ・イェネー監督『シュラムの乙女(Szulamit)』に主演。山中で迷い井戸に落ちた少女と、彼女を助けた騎士の間に生まれるロマンスを描いたものです。ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル地区でロケ撮影され全編に旧約聖書風の異郷感が漂っています。『演劇生活』誌1916年13号では3頁に渡る映画評とイェネー監督による同じく3頁分の寄稿で小特集が組まれていました。

『シュラムの乙女(Szulamit)』特集記事より

この一作だけでも十分にハンガリー映画史に残る貢献ですが、彼女はもう一つ重要作に主演しています。ベレギ・オスカーと共演した1919年作『黄金の男(Aranyember)』です。

『黄金の男(Aranyember)』公開時に「演劇生活」1919年6号の表紙を飾る

『黄金の男(Aranyember)』でのレンケッフィとベレギ

この後1920年頃からイカ・フォン・レンケフィー名義でドイツ映画に進出。1922年にはエミール・ヤニングスが主演したシェークスピア映画『オセロ』でヒロインのデスデモナ役を務めました。翌1923年に銀行家と再婚し女優業を離れています。


[IMDb]
Ica von Lenkeffy

[IMDb]
Szulamit

[Hangosfilm]
Szulamit