ロート・イラ Lóth Ila (1900 – 1975)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(06)

Lóth Ila Late 1910s Hungarian Postcard

1900年(一説には1899年)ブダペスト生まれ。演劇学校を卒業後、16歳で映画女優としてデビュー後、その才を高く評価されスター映画社に入社。1916年から1921年秋にかけ、同社の花形女優として活躍しました。1921年末にミュンヘン軽喜劇芸術映画社に移籍、2年程ドイツ映画界での活動を続けますが1923年、結婚と共に一旦女優業を離れます。戦後、1940年代末に老け役として映画界に復帰、亡くなる直前の1970年代中盤まで女優人生を全うしました。

A magyar « Weixler Dorrit »
「演劇生活(Színházi Élet)」誌
1918年7月28日-8月4日付第30号

「演劇生活」誌では1918年の初め頃から誌面に登場するようになってきています。前年末に軽喜劇『リリ』を映画化した作品に出演しており劇界でも認知されるようになってきた流れです。この時期はドイツの娘役女優ドリット・ワイクスラーを引き合いに「ハンガリーのドリット・ワイクスラー(A magyar « Weixler Dorrit »)」と形容されていました。

『山麓にて(Hegyek alján)』

『壱弗(Egy Dollár)』

ロート・イラに関してはハンガリー国立映画協会アーカイヴ(NFI Filmarchívum)が丁寧な発掘作業を試みています。戦前ハンガリーを代表する監督バログ・ベーラ(Balogh Béla)の手による1920年作品『山麓にて(Hegyek alján)』、さらにハンガリー無声期の最終作となる1923年作品『壱弗(Egy Dollár)』(ウエ・ユンス・クラフト監督)の2作を修復、その一部はオンラインでも公開されています。

『過去との邂逅』(Találkozás a múlttal – Lóth Ila, 1967年, ハンガリー国立映画協会アーカイヴ)

またハンガリー国立映画協会アーカイヴには1967年の記録映像も残されています。女優さん本人に自身の古い作品を見てもらいながらコメントを貰う内容で初期作の断片も収録されていました。

デビュー当初はアイドル女優の扱いを受けていた彼女ですが20年頃になると『ジェーン・エア』や『デイヴィッド・コパフィールド』など文芸作品でもヒロインを演じるようになっています。ハンガリー初期映画が成長・成熟を遂げていく軌跡と、映画女優としての立ち位置の変化が軌を一にしています。

[IMDb]
Ila Lóth

[Hangosfilm]
Lóth Ila

[出身地]
ハンガリー(ブダペスト)

[データ]
City III 102, Színházi Élet kiadása, Angelo Fotografia

モンタグ・イロナ Montagh Ilona (c1899 – ?)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(07)

Montagh Ilona Late 1910s Hungarian Postcard

ハンガリーでは今までそれほど多くのコメディ映画は作られてこなかった。だが見ることのできた数少ない幾つかの作品から判断する限り、我々はドイツ人よりこのジャンルに向いていると思われる。名匠オイゲン・イッレーシュが脚本と監督を手掛けた新作喜劇は『伯爵夫人泥棒』のタイトルで近日公開予定。同作の目玉となっているソムレイ・アルトゥール氏に加え、若手女優モンタグ・イロンカ [原文ママ] が感情の起伏の激しい演技を見せる。

「ハンガリー喜劇新作」
『演劇生活』1916年第7号

1899年頃に生まれる。早くから演技の道を志し10代半ばで国立劇場に立ち『ポーランドの血』で高い評価を得る。1916年、エイゲン・イーレッシュ監督作の喜劇短編2作に出演。1917年から拠点をベルリンに移し、レッシング劇場で上演された軽喜劇『空の女王(Königin der Luft)』がヒット作となり同劇場付き女優となり、後にコーミッシェ・オーパー (Komische Oper Berlin)に転籍。

1920年代には米国に進出。21年初頭にニューヨークの39番街劇場で上演された『結婚同然(Almost Married)』で成功を収めます。この時の相手役が後のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ(ルゴシ・ベーラ/Lugosi Béla)。共同作業が続く中でロマンスが生まれ1921年9月に結婚、しかし妻に女優業を引退してほしかったルゴシと女優キャリアを続けたいイロナが対立、翌年には離婚しています。離婚後の消息は不明。熱心なベラ・ルゴシ愛好家の調査によると1935年に万引きで逮捕された記録が残っており不況期に生活の困窮していた様子が伺えます。

ルゴシの伝記で名を見かける機会があるものの若い頃の写真がほとんど残っていないそうで1918年のポートレート入絵葉書は貴重な一枚です。

[IMDb]
Ilona Montag

[Hangosfilm]


[データ]
1066 Bildnis von Angelo Budapest 1918

大正14年(1925年) – 『日活映画』 9月号(映畫世界社)

Nikkatsu Eiga 1925 September Issue (Eiga Sekai-Sha)

「映画往来」「劇と映畫」「キネマ旬報」誌への寄稿で知られる淡路浪郎氏らを中心に編集された日活専門のファン雑誌。表紙は岡田嘉子さんで巻頭に西條香代子、澤村春子、岡田嘉子らのグラビアを収録。画質は並ながらも雰囲気の捉え方が上手ですね。

グラビアと新作紹介がメインで論考は少な目。書き手がお気に入りの俳優を推す内容が目立ち、対談もリラックスした調子が目立ちます。内輪ノリが強く好き嫌いの割れる内容ですが、小泉嘉輔の礼賛記事のように面白い視点を含んだ記事も含まれています。

新作紹介欄では松之助版『鞍馬天狗』(脚本は水島あやめと並ぶ女流脚本家先駆者の一人林義子)、浅岡信夫のデビュー作『母校の為めに』、砂田駒子・渡辺邦男・斎藤達雄を配した『妖怪の棲む家』。伯爵令嬢(西條香代子)の婚約者が殺された事件を探偵(南光明)が追っていく探偵活劇『闇の中の顔』などが紹介されています。

大正期らしい手描きのデザインフォントが良い味を出しています。雑誌サイズは縦22.1×横14.5cm。後半は紙の劣化・腐食が見られ角が削れたようになっていました。

9月号ということもあって夏に撮りためた写真が多く掲載されており後半は水着特集。水泳帽がファッションの一部になっていた様子も伝わってきます。

ヘルガ・モランデル Helga Molander (1896–1986) 独

Helga Molander 1920s Autographed Postcard

1896年、現在はポーランドに位置しているドイツの町ケーニッヒスヒュッテで生まれる。舞台で演技の経験を積んだ後、1910年代末に映画女優としてデビュー。着実に出演作を増やし1920年にはハノーヴァーに設立されたフェリー映画社の花形女優に迎え入れられます。

キネマトグラフ誌1920年6月号より
フェリー映画社広告

1921年『名花サッフォー』(Sappho)より

1921年には『名花サッフォー』に出演。ポーラ・ネグリ演じる妖婦に婚約者を奪われるマリア役を演じていました。

1925年『待乙女三人』(Die drei Portiermädel)より
左から二番目にヘルガ・モランデル

1923年頃から活動拠点をテラ映画社(テラフィルムクンスト)に移し、同社の大物監督&プロデューサー、マックス・グラス氏の作品で主演を務めるようになります(1923年『鉄仮面の男』『ボブとマリー』)。1920年代中盤がキャリアのピークとなり、トーキー到来と共に銀幕を離れています。

その私生活は波乱に満ちたものでした。

映画界でのデビュー前に舞台俳優と結婚。1916年に長男のハンス・ユルゲンが誕生するも結婚生活が上手くいかず1918年に離婚しています。母方にユダヤの血が流れていたため1930年代にはドイツを離れパリに向かいます。このとき同行したのが先に名前の上がったマックス・グラス氏でした。ドイツを離れることを拒んだ母親は強制収容所で亡くなったそうです。

グラス氏はパリで映画会社を立ち上げたのですが、親独政権が誕生すると身の危険を感じブラジルに脱出。ヘルガさんもまた同地で合流します。戦後、グラス氏が離婚した1957年に正式に再婚しグラス夫人となりました。テラ映画社時代から事実婚の状態だったそうで、カトリックで離婚が認められていなかったためこのタイミングになったとのことです。

母親について?例外的なまでに美しく、とても知的で、そばに寄ってくる男たち皆を魅了してしまう女性でした。天賦の才を備えていたとは思わない。でも美貌と知性が噛みあい、生れもっての才能に欠けていたものを埋めあせていたのです。

『理由ある反抗』
ハンス・ユルゲン・アイゼンク

What can I say about my mother? She was exceptionally beautiful, highly intelligent, and fascinating to every male who came near her. I don’t think she was a natural actress, but her combination of beauty and intelligence made up for her what nature had failed to give her in talent.

Rebel with a Cause, Hans Eysenck
(Transaction Publishers, 1997)

最初の結婚で生まれた息子とは早くから疎遠になっていました。ハンス・ユルゲンはイギリスに留学後心理学を学び、著名な学者となります。現在でも性格診断の分野で言及されることの多い「アイゼンク性格検査」を提唱したハンス・ユルゲン・アイゼンク(1916 – 1997)氏で、同氏は回想録に母親の思い出を書き残しています。

[IMDb]
Helga Molander

[Movie Walker]
ヘルガ・モランデル (Helga Molander)

[出身地]
ドイツ (ケーニッヒスヒュッテ、現ポーランド・ホジュフ)

[誕生日]
3月19日

[データ]
Karl Schenker phot.

[サイズ]
8.6 × 13.2 cm

1980年代 – 復刻版・中国初期映画女優絵はがき(協興隆老廣告) その二

協興隆老廣告明信片
(Old Advertisement of Xiexing Long)

以前に紹介した上海製の絵葉書「協興隆老廣告」の別セット。8枚組で紙ケース入り。「良友」「新華画報」「婦人畫報」といった一般誌・女性誌と「上海影壇」の表紙をポストカードサイズに復刻したものです。

陳波兒 1930年『良友』
(陈波儿, 1907 – 1951)Chén Bōer [IMDb]

阮玲玉 1934年12月『良友』
(1910 – 1935)Ruǎn Língyù [IMDb]

李霞卿 1936年9月『婦人畫報』
(1912 – 1998)Lǐ Xiáqīng [IMDb]

陳雲裳 1939年4月『新華画報』
(陈云裳, 1919 – 2016)Chén Yúnshang [IMDb]

談瑛 1946年 雑誌名未詳
(谈瑛, 1915 – 2001)Tán Yīng [IMDb]

王丹鳳 1943年10月 『上海影壇』
(王丹凤、1924 – 2018)Wáng Dānfèng [IMDb]

周璇 1943年11月 『上海影壇』
(1920 – 1957)Chow Hsuan/Zhōu Xuán [IMDb]

胡楓 1944年3月 『上海影壇』
(胡枫)Hú fēng

陳雲裳や周璇、談瑛は複数枚に登場。上海出身あるいは同地を拠点に活動していた女優・歌手を中心にピックアップされています。また後に監督業にも進出、中国アニメ界の先駆者として活躍した陳波兒、中国初の民間女性パイロットでもある李霞卿など中国の文化・社会に影響を与えた女性にも配慮が払われています。

今回調べていてたまたま発見。3週間ほど前(2021年10月11日)にインターネット・アーカイヴに「上海影壇」誌全巻のデジタル版がアップロードされていました。現物を手に入れるのは難しい雑誌だけにこういった形でデータが公開されるのは助かります。

1918 – 『現代俳優鑑』 (木下隆一・編発行 演芸画報社)

Gendai Haiyū Kagami
(« Directory of Contemporary Actors & Actresses »,
1918, Tōkyō Engei-Sha)

1918年(大正7年)3月に演芸画報社から公刊された名鑑。以前、上方歌舞伎俳優の書画帖を紹介した際に俳号や経歴確認に使用したもので、その時は国立国会図書館のデジタル版で参照したのを実物で入手することができました。

今回、1925年に『芝居とキネマ』の巻末付録として作成された『現代俳優かがみ』を併せて紹介しています。両者を読み比べていくと7年しか違っていない同名本にも関わらず「俳優」の概念や性質が大きく変貌していることが分かります。

表紙デザインからも伺えるように演芸画報社版はあくまで歌舞伎役者を主とした構成。
 東京歌舞伎俳優之部:139名(49.6%)
 大阪歌舞伎俳優之部:36名(12.9%)
 新派俳優及び新劇団之部:64名(22.9%)
 喜劇俳優之部:15名(5.4%)
 各派女優の部:26名(9.3%)
 計280名

東京の歌舞伎役者がほぼ半数、新派と新劇系の男優が2割強を占めています。「女優」は寄せ集めのような形で最後に付されていて、全ジャンル併せても1割に届いていませんでした。現場で活動していた実数や割合とは異なっているのでしょうが、1918年時点で紹介に足る俳優を集めていくとこういった数値が出てくるという興味深いデータかな、とは思います。

1918年3月にはまだ映画女優は存在しておらず「女優」の枠組みで紹介されているのは帝劇(森律子、初瀬浪子)、新派(川上定奴)、文藝協会(松井須磨子)関連の役者たちです。そしてこういった大物にまぎれ、数年後に映画界で話題を呼ぶ面々(川田芳子、林千歳)が登場。当時、リアルタイムでこの書籍を手にした人々は数年後に日本に映画女優の流行が起こるとは想像できなかったと思います。それでも歴史の連続性はあるわけで、振り返ってみるなら予兆や兆候と呼べそうなものは見え隠れしています。

他にも嵐璃徳のように後年映画に軸足を移した歌舞伎役者や新派劇映画でなじみの深い面々(井上正夫、藤野秀夫、栗島狭衣)、五味國雄・國枝の父・國太郎や山田五十鈴の父・山田九州男らが含まれていて、初期映画視点から読んでも得るものが多い一冊です。

1920 – 「丹稲女史の過激派宣傳」 凩亭山人 、活動画報・大正9年12月号掲載

斯くて今度現はれた所は、大阪は西の方西宮と云ふ神戸との間の小さな町の夷屋と云ふ劇場であつた。彼女は最早その誇りとしてゐる聲樂のみでは舞臺に立つてゐられなくなつた。[曾我廼家] 五九郎のところに出て淺草公園の下等な見物から冷かされるのを避ける爲めには、その前借を返さなければならなかつた。前借を返す爲めには、斯うして西宮下りの田舎芝居に身を賣らなければならなかつた。斯くて、とうとう彼女は立派なさすらいの女となつて了つたのだ―

所がこの六月松竹キネマ部を新設して多數の俳優を雇入れると、其所へ突如として彼女は顔を出した。然も高給で抱へられた立派はスターなのだ。彼女は西宮の田舎から、何うして抜けたかと云ふと、彼女は巧みにも松竹の事務員をだまくらかして、澤山の前借金を借入れて西宮の田舎芝居とは手を切り、そして、新設の松竹キネマに入り込んで來たのだ。

扨てこの混沌とした松竹キネマで如何なる役を演じ、如何なる事をしでかしたかは、名物女だけに、ちょっと聞きかじつた丈でも中々に面白い。

彼女はまだ活動には素人だと云ふので、最初は仕出し役を仰せつかつた。曰く女中、曰く看護婦、曰く通行人下女と云ふやうな役のみである。高い給料を拂つてこんな樂な事計してゐるなら、こんな甘い事はないと御当人大納まりでゐた。

「丹稲女史の過激派宣傳」
凩亭山人 、活動画報・大正9年12月号、72-73p

丹いね子(1894 – 1973)は大正期初期から活動を続けた声楽家、文筆家です。エキセントリックな言動(「本職以外に荒らしまはる方が遙かに物凄い」)で知られており、初期フェミニズム運動の括りで語られる機会の多い女性でもあります。

その波乱万丈な人生については『社会文学』に掲載された論考(「もうひとつの『婦人文芸』ー丹いね子の生涯とその雑誌」大和田茂、1998年2月号)に詳しく、またオンラインで略歴をまとめている方もおられます。ただし経歴に欠落や謎も多く、特に1920年に何をしていたのか明らかではありませんでした。実はこの年、彼女はキネマ女優として活動していたそうです。

然し、この丹女史が、巧まざる自然の表情の表現家として、頗る有望な女優である事をこの時發見した人がある。それは、誰あらう松竹が年棒四萬圓で、米國からはるばる雇入れたヘンリー小谷某である。これは、丹を女主人公にして使つたら、定めし面白いアメリカ式の寫眞が出來るだらうと考案して、早速それに向く脚本の撰定にと掛つた。で、漸く女労働者がストライキの大將になると云ふ頗る丹稲向きの物が見附かつた。丹女史をその女主人公として、その撮影に取掛かつた。[…]

其処で、女史はヘンリ―監督に向つて云つた。
「じや、何んな事を喋つてもよござんすか?妾が迷惑になるやうなことはありませんか?」と念を押した。彼女の胸中には、既に何事か云はんと欲する案が出來たのだ。
「ウン、よし!何を喋つても大丈夫だ。一切小生小谷ヘンリーが責任を負ふから、最も過激な事を喋つてくれ」と斯うヘンリーは斷言した。
一番小高い所に昇った女労働者の丹女史は、やおら口を開いて述べた。
「諸君!諸君は現在のキネマ役者を以て滿足するのですか?この薄給で労働の過激なる仕事を諸君は甘んじてやつて行くのですか?この松竹キネマは實に我々を遇する事牛馬の如きものがあります。諸君は早く覚醒して、日活に走るなり、國活に走るなりしたが可いのです。呪ふべきは松竹キネマであり、大谷竹次郎である!」
「ヒヤヒヤその通り」
「大賛成!」
一同は手を打つて、雀躍して、この大演説を聴取した。その間にフヰルムはクルクルと廻轉して、この過激氣分を立派に映し撮たのである。

上掲誌、74-75p

撮影中のどさくさにまぎれ会社批判の扇動を行った様子を面白おかしく伝えた内容です。「松竹キネマで作った寫眞の内では、最も見事に成功したものであるさうだ。一日も早く、その寫眞を見たいものだね」と期待を見せつつ、「最近に丹稲女史は、キネマを暫し去つて、芝居の方に廻されたさうだ」の後日談も添えられていました。

文中の記述を信ずるなら端役(「曰く女中、曰く看護婦、曰く通行人下女」)として映画業界に食いこんだもののせっかくの初主演作で自社批判、社長批判を行って飛ばされた流れ。ヘンリー小谷氏の公開作品データにも言及がなく作品そのものがお蔵入りとなっています。

ヘンリー小谷

小谷氏が『島の女』(1920年11月1日公開)と『虞美人草』(1921年4月29日公開)で川田芳子・栗島すみ子をデビューさせ日本の女優史を軌道に乗せた話は知られています。今回の記事は活動画報の1920年12月号に掲載されていて『島の女』とほぼ同時期、わずかに後くらいの出来事と思われます。

何かの手違いでこの作品が上映されていたら…「大正9年末に我が国初の女政治活劇が公開された」の一文が加わって邦画史のイメージがずいぶんと変わります。丹いね子のアイドル人気は想像もつきませんがそれだって売り方次第。官憲に追われた黒装束の女国賊が利根川を泳いで渡り、清水の舞台から跳躍する連続寫眞ならば需要はありそうです。

でもそうはならなかった。当時の松竹、当時の邦画界に小谷氏のやや尖った発想、丹いね子のアウトロー的存在感の居場所はなかった。むしろそういった傾向の芽を早くから摘んだ所に生まれてきたのが日本映画女優史の「正統」だと分かる興味深い記事です。

1925 – 『現代俳優かがみ』 (『芝居とキネマ』 第二年第一号 大正14年新年号付録)

Gendai Haiyū Kagami
(« Directory of Contemporary Actors & Actresses », supplement to the « Theater & Kinema » magazine Vol.2, No.1 (Jan 1925), Osaka Mainichi Shinbun-sha)

1925年(大正14年)初頭、『芝居とキネマ』新年号の巻末付録として作成された12ページの俳優名鑑。

 劇界・東京歌舞伎俳優51名(25.0%)
 劇界・大阪歌舞伎俳優26名(12.7%)
 劇界・東西新派俳優29名(14.2%)
 劇界・喜劇俳優6名(2.9%)
 劇界・女優11名(5.4%)

 映画界・松竹キネマ24名(11.8%)
 映画界・日活19名(9.3%)
 映画界・帝國キネマ25名(12.3%)
 映画界・東亞キネマ12名(5.9%)
 映画界・國活1名(0.01%)

以上の計204名について顔写真付きの略歴がまとめられています。

劇界と映画界の比は123:81となっており、ほぼ前者6割後者4割の割合。1918年版『現代俳優鑑』には存在していなった映画俳優が加わったことで舞台系の比率が低下しているものの上方歌舞伎だけ実数・割合共に7年前と同程度をキープしています。

男女比で見ていくと劇界の11名(岡田嘉子、水谷八重子含む)に映画界からの41名を加えて計52名の女優が紹介されていました。全体の2割5分を女性が占めたという結果で、映画界だけで見ると51パーセントと過半数を超えています。

『芝居とキネマ』 の新年号が出てから4か月後の1925年5月には報知新聞社から『世界のキネマスター』が公刊されています。各俳優に一頁が割かれ写真の画質が良く、掲載人数も多く名鑑としての完成度が高いです。ただ『キネマスター』は経歴紹介が簡素すぎて欲しい情報がなかったりするんですよね。生まれ~育ち~デビュー~現所属~代表作でまとめた『現代俳優かがみ』はその意味で使い勝手の良いものでした。

ミスタンゲット Mistinguett (1873 – 1956) 仏

フランス [France]より

Mistinguett Autographed Postcard

Mistinguett Autographed Postcard

2018年12月、東京大学で『ミスタンゲットを発見せよ――フランス・サイレント映画の夕べ』が開催されていました。1910年代の短編3本に弁士の語りを加えた内容で日本でも無声映画女優としての彼女にスポットが当たったのは喜ばしい出来事でした。

公私ともに付きあいのあったモーリス・シュヴァリエと並び、ミスタンゲットは1920~50年代のフランス下町文化を代表する位置付けです。日本で言うと昭和レトロに近い懐かしさを覚える世界がフランスにもあって、そこにミスタンゲットの姿と歌声が含まれている訳です。下町っ子らしい、気さくで、愛嬌と温かみを感じる「粋」が彼女の持ち味です。

[IMDb]
Mistinguett

[Movie Walker]


[出身地]
フランス (アンジャン=レ=バン)

[誕生日]
4月3日

[データ]
Edition artistique de WALERY, photographe. 9 bis, rue de Londres, Paris

« A Gabrielle Marrodin
souvenir,
Mistinguett »
ルーマニアのヴァスルイ在住のガブリエル・マロディン嬢宛

[サイズ]
8.9 × 13.8 cm

瀧 蓮子 (生没年不詳)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Taki Renko c1930 Autographed Postcard

蓮子さんは『サロメ』を演りたいと何日も云ひます。みどり孃とは正反對に理智的な女性で、岩田祐吉氏に藝才滿點と賞められたことがありました。將來有望な若手で、矢張り研究所出です。

「藝才滿點と云はれた瀧蓮子孃」
『映画女優スタアになるまで』、小池善彦著、章華社、1926年

本名笠原らく。

蒲田研究所で演技を学び、その後は舞台(解散直前の築地小劇場)を中心に活躍。1928年10月の『国姓爺合戦』には杉村春子、及川道子さんと並び女官役で出演、同年末の『晩春騒夜』で山本安英らと共演。1930年代初頭に数本のトーキー映画に出演の記録あり。1934年に関西新派が結成された才にはその中心メンバーとして道頓堀・角座の舞台に立つ。1937年に東愛子の提言で国防婦人会の松竹分会が結成された折に副会長に就任した記録が残っています。

小山内薫系の舞台女優さんで映画との接点こそ少ないものの、杉村春子関連の文章ではしばしば名前があがってきます。また1934年にラジオで漫才が初めて公開放送された(『家庭天気図』、秋田実作)際に山口俊雄氏と共に主演を務め、ラジオ漫才の普及にも一役買っています。

[JMDb]
滝蓮子

[IMDb]


[生年月日]
不詳

リリー・ヤコブソン (Lilly Jacobsson/Jacobson 1893–1979) スウェーデン

Lilly Jacobsson c1920 Autographed Postcard

スウェーデン出身、1911年にスヴェンスカ・ビオグラフテアーテン社短編映画の端役で女優デビュー。その後デンマークのノルディクス社に籍を移し、1910年代後半の北欧映画を代表する花形となりました。目鼻立ちのくっきりした北欧美人で当時の人気も納得ながらお人形さんの扱いに辟易し1910年代末に結婚と共に女優業引退を表明。

それを惜しいと思ったのが共演の経験もあるアスタ・ニールセンでした。自身が制作の中心となった大作『女ハムレット』(1921年)のオーフィリア役をオファーします。ハムレットへの淡い恋心が混乱に、狂気に変わり、自死で果てていく難しい役柄を見事にこなしました。

『マハラジャ最愛の妻』(Maharadjahens yndlingshustru 、1917年)より

『國民の友』(Folkets ven、1918年)より(右)

Lilly Jacobson & Gunnar Tolnaes in Himmelskibet (1918)

『エクセルシオール号/火星への旅』(Himmelskibet、1918年)でのヤコブソンとトルナエス

Lilly Jacobson in Hamlet (1921)

『女ハムレット』(Hamlet、1921年)より

今回入手したのは『マハラジャ最愛の妻』(1917年)のスチルをあしらった絵葉書。「リリー・ヤコブソン・エドワーズ (Lilly Jacobsson Edwards)」とサインしているため1919年にコーベット・エドワーズ氏と結婚した後のサインになると思われます。

[IMDb]
Lilly Jacobson

[Movie Walker]
リリー・ヤコブソン

[出身地]
スウェーデン(ヨーテボリ)

[生年月日]
6月8日

バルトシュ・オルガ Bartos Olga(生没年不詳) ハンガリー

ハンガリー [Hungary]より

Bartos Olga 1921 Inscribed Postcard

第一次大戦の末期、1917年にハンガリーのロイヤル・オルフェウム劇場(Royál-Orfeum)で軽歌劇の主役として注目を浴びた女優さん。翌1918年にウィーンのロナッヒャー劇場と契約を結んだニュースがハンガリーの演劇誌でも大きく取り上げられていました。

「演劇生活」誌(Színházi Élet) 1918年9月1日 第35号表紙

この後もウィーンのアポロ藝術劇場で幾つかの出演記録(1920年『Die Apachen』、1921年『タンゴの女王 Die Tangokönigin』)が残されていますが、同劇場の支配人であるヘルベルト・トラウ氏と入籍したようで雑誌での名字表記が「Bartos-Trau」に変わります。今回入手したサインはこの時期のもの。

面識こそ御座いませんが貴方様からの讃辞に親愛なる感謝をこめて

1921年2月8日 オルガ・バルトシュ=トラウ

Unbekannterweise freundliche Grüße und Dank für ihre schmeichelhaften Zeilen.

8 II 1921. Olga Bartos-Trau

20年代中盤以降はメディアでの露出が減っていくものの、1927年の雑誌の紹介記事からは活躍の場をチューリッヒまで広げていた様子が伺えます。

独「ライフ」誌(Das Leben)
1927年7月号

映画界との接点は多くありませんが一作主演の記録あり。1919年公開の墺作品『Die lichtscheue Dame』で、ジョルジュ・オーネの小説『灰色の淑女(La Dame en gris)』を下敷きにした作品のようです。

[IMDb]
Olga Bartos

[Movie Walker]


[出身地]
ハンガリー

[データ]
1301 Bildnis von Angelo Budapest 1918

エニッド・ベネット Enid Bennett (1893 – 1969) 豪/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Enid Bennett c1920 Autographed Chromo

一千九百十六年の十月、米國に渡つて紐育市に興行中、恰度その時紐育に来て居たトライアングル會社のトーマス・エッチ・インス氏に認められて、映畫劇の俳優たる可く勸誘された。斯うして、嬢はインス氏と共にローサンゼルス市に行き、トライアングル會社のケービー映畫に出演する事となつたのである。その第一回作品は「闇の王女」といふ現代劇で、嬢はフェイ・ヘロンといふ役を勤めた。嘗てキネマ倶樂部に上場された「オパルの輝き」は第二回目の作品である。

一千九百十七年、インス氏が全所属俳優を率いてパラマウント映畫部の爲めにインス特作品を製作するやうになると、嬢も亦これに従つてパラマウント映畫部に轉じた。そしてインス映畫に出演した。

嬢は未だ若いだけに映畫女優として經驗に乏しいが、舞臺經驗を踏んで來た腕前は映畫の上にも充分に現はれて居る。極めて自然な藝風が、觀る者の心を魅する。

嬢は昨年の二月二十三日にフレッド・ニブロ氏と華燭の典を擧げて、今ではローサンゼルス市に樂しい家庭を作つて居る。

愛くるしい眼と、豊かな頬と、そして小兒氣の失せぬ口元と、それは「オパルの輝き」のヂュリーのやうな役には最も相應はしいものである。少し寂しい感じはあるが、それが却つて魅力を増す。嬢は目下ラスキー社パラマウント映畫に出演してゐる。

『活動名優写真帖』(野村久太郎編、 玄文社、大正8年)


生地ヨークより数里の町、オーストラリア・ヨーク市で嬢が仕事勤めをしていた折、一座と共に同地を回っていたフレッド・ニブロが端役募集の広告を出した。応募したベネット嬢がその役を手に入れる。演技の才と相まった美貌により忽ちに成功を収めた。『ホィップ』『フォーチュン・ハンター』『七つの鍵』を含む成功した舞台劇での大役を務めてきている。映画界からの要望に応えフェイマス・ラスキー社作品『義人の鍵』でスクリーンデビューを飾り、その後も同社の『曲馬団の名花』『家庭の罪』『家を出でて』でヒロインを演じた。身長は五尺三寸、體重十二貫三百匁。金褐色の髪と榛色の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

While working in an office in Perth, Australia, a few miles from her birthplace, York, Fred Niblo, who was touring the country with his company, advertised for somebody to take a minor part. Miss Bennett applied and was accepted. Her beauty, combined with her dramatic talent, soon won auccess for her. She has played important part in « The Whip, » « The Fortune Hunter. » « Seven Keys to Baldpate » and other notable stage successes. Hearing the call of the screen, she made her first picture for Famous Players-Lasky Corporation, « Keys of Righteousness, » followed by « The Biggest Show on Earth, » « A Desert Wooing » and « Stepping Out. »

Miss Bennett is five feet three inches tall, weighs one hundred and two pounds, and has golden brown hair and hazel eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)


1922年『ロビン・フッド』より

1924年『シー・ホーク』(フランク・ロイド監督)

1910年代末から20年代前半に活躍したエニッド・ベネットのサイン物2点。無声時代のハリウッドで、オーストラリア出身俳優としては最も成功を収めた一人です。

フェアバンクスの相手役を務めた『ロビン・フッド』(1922年)、夫君フレッド・ニブロ監督による『紅百合』(1924年)の二作が知られているのですが、個人的には24年『シー・ホーク』でのこなれた演技が気に入っています。ロイド監督らしい歯切れのよい演出が光る佳作で、エニッド・ベネットも自身の役割を完璧に理解しつつ細やかなニュアンスを散りばめる余裕を見せています。

契約キャンセル申し立ての旨を伝える
1917年9月8日付『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌記事

インスとの出会いとそこからのサクセス・ストーリーは美談として語られがちです。実際のところ1917年中盤にエニッド・ベネット側がインスを訴えた出来事もありました。インスの直接プロデュース以外の作品にも出演しなくてはならない契約内容に不満があり、最終的には元鞘に収まって一件落着。

日本でも早くから知られていて、『曲馬団の名花』『家庭の罪』など初期パラマウント社作品が公開されていました(いずれも1918年)。今回それ以前のトライアングル社期のフィルム(『淑女騎手』)を見つけたので併せて紹介しておきます。

[IMDb]
Enid Bennett

[Movie Walker]
エニッド・ベネット

[出身地]
オーストラリア(ヨーク)

[データ]
一枚目の写真は裏に手書きで「1917年4月」の日付入り

マリア・ヤコビニ Maria Jacobini (1892 – 1944) 伊

イタリア [Italy]より

Maria Jacobini Autographed Postcard

藝風。打ち沈んだ面影、何とない寂しみを含むその頬笑み、胸の悩みに悶える女の性格、其を表す事に於て卓越した技巧を有するマリア・ヤコビニ。彼女は過去に於てはサヴオイア社作『ジヤンダーク』『生ける屍』で我々に好評を得たが、近く輸入された杜翁[トルストイ]の『復活』(チベル社作)が封切の暁には、更に卓絶した彼女の藝を味ひ得る事と信ずる。

経歴。マリア・ヤコビニ嬢が斯界に入つての第一歩はトリノ市のサヴオイア會社に於てであつた。永くの間舞臺上の經驗を積んだ嬢は、斯界に於ても忽ち好評を得た。さうして同社の、南歐映畫界にも誇るに足る傑作『ジヤンダーク』及び『全勝』(勝利の徽章)に主演を演ずるに至つた。尚數多の映畫に名優ヂロ・ロンバルヂー氏と共演し好評を得たが、一九一三年暮パスクワリ社に轉じ、翌一九一四年更にチエリオ社に入り、『悲しき集』『死なない爲』『死の恐ろしき翼』『アナンケ』等に主役を演じて世評に昇り、嬢の斯界に於る人気は一躍してエスペリア夫人、リダ・ボレリ嬢を凌がうといふ勢になつた。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


『生ける屍』(1913年) 広告

1914年、パスクワリ社広告

第一次大戦前、イタリア映画の勃興期に女優としての活動を開始し、サヴオイア社、チベリ社、イタラ社など多くの映画会社で花形女優として活躍したのがマリア・ヤコビニでした。当時のディーヴァ女優の多くが女王様然としたオーラを漂わせていた中で、マリア・ヤコビニは一味違った柔らかで親しみやすい雰囲気を備えており、町娘役を演じた『さらば靑春』でもそういった個性は発揮されています。

第一次大戦後は他のイタリア女優同様国外へと拠点を求めていくことになります。20年代に苦戦したベルティーニやマコウスカ等と対照的に、マリア・ヤコビニは監督(デュヴィヴィエ、オツェップ)にも恵まれ無声映画末期にも観るべき作品を幾つか残しています。なかでも1929年の『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』は彼女のエモーショナルな表現力を再確認できる優れた作品です。

『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』
(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)より

[IMDb]
Maria Jacobini

[Movie Walker]
マリア・ヤコビニ

[出身地]
イタリア(ローマ)

[誕生日]
2月17日

エレナ・マコウスカ Elena/Helena Makowska (1893–1964) ポーランド/ロシア/イタリア

イタリア [Italy]より

Helena Makowska 1920s Autographed Postcard

藝風。マコウスカ嬢の名は他の伊太利俳優よりも、比較的遅く我愛活家に知られた。然し嬢の妖艶にして人を魅するその容姿と、深刻味に富む藝風は、我々の賞讃の的となり、今は伊國に於ても、悲劇女優として一流の地位を占め、性格役に於て殊に獨特の技能を發揮して居る。

経歴。嬢の生地は北風西比利亞の野を通して寒い露國莫斯科である。さうして其地に生育した嬢は天分の美聲を以て歌劇女優としてペトログラードに人々の憧憬の的となつて居たが、六七年前佛國巴里に來て、諸所の劇場に出演好評を得たが、後伊太利に赴き、一九一五年秋アンブロジオ會社の招聘を受け『魔の真珠』『ロマンチシズモ』(國よ若き國よ)『エヴァ・ネミカ』等にツリオ・カルミナチ氏と共演し、又ウムベルト・モザツト氏とダヌンツイオ原作『炬火』『ジオコンダ』及び『聖者』を完成し、後『乗合馬車十三號』にも主役を演じて名聲を擧げたが、一九一七年フエボ・マリ氏の入社と共に同氏監督の下に『苦惱』『ファウノ』に出演し、次いでロドルフイ氏監督の下に名優ルヂエロ・ルゲリ氏及びメルチエデス・ブリノネ嬢と『ハムレツト』を完成したが、同年秋コロナ社に轉じ『カイノ』を撮影し、一時メヅサ會社の映畫にも出演し、遂に昨年テスピ映映畫社に入つて『變説者ジユリアノ』を撮影し、引續き同社の映畫に出演して居る。さうして彼女の人氣は一躍して高くなつて來た。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


ベルティーニ、メニケリ、ボレリ等に次ぐ第二世代ディーヴァ女優として登場した一人で『活動画報』でも日本ではやや遅れて紹介された旨が記されています。

現在ウクライナに位置するクルィヴィーイ・リーフにポーランド人技術者の娘として生まれ、歌の勉強をするためイタリアへと渡り映画デビューのチャンスを摑みました。『乗合馬車十三號』『ファウノ』『カイノ』『さらば靑春』など1910年代中盤~後半に活躍。第一次大戦後にイタリア映画界が斜陽化する中でドイツに拠点を広げていきます。今回入手したサイン入り絵葉書もこの時期の一枚。

1930年代に映画界を離れポーランドに戻ります。ナチスによるポーランド侵攻時には英国人男性と結婚していたため逮捕、強制収容所に移送され4年間を過ごしています。戦後、老け役として幾つかの映画に出演後1964年にイタリアで亡くなっています。

[IMDb]
Helena Makowska

[Movie Walker]
エレナ・マコウスカ

[出身地]
クルィヴィーイ・リーフ(現ウクライナ)

[誕生日]
3月2日

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcard

Alma Rubens03

Alma Rubens 1926 Autographed Postcard

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。 ヘッダ・ヴェルノン

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür. Mit herzlichem Gruß. Hedda Vernon

消印は1916年(大正5年)の10月23日。宛先はヘンケ・ステグリック(Henke Steglik)嬢でしょうか。メッセージ面には5行の手書き文章と署名。「どこかにやってしまいました」は方便で、この時点で一番プロモーションに適した絵葉書に「差し替えた」が正しいのだろうなとは思います。

「どうやって映画(界)に入ってきたのか?」

徒歩で、でしょうか。今でも覚えているのですがとても遠かったです。やっとたどり着いたと思ったら監督さんに「遅刻だぞ」と怒られてしまって。指示で何か演技をすればさらに罵られる始末。映画が上映された時にお客さんから大きな拍手が挙がって、監督さん曰く「君には才能がある!」。日記に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」って書いてやりました。

ヘッダ・ヴェルノン・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)

„Wie ich zum Film kam?“

Per Beine; und ich erinnere mich noch, daß es sehr weit war. Und als ich schließlich da war, schimpfte der Regisseur, weilich zu spät kam; und als ich ihm was vorspielte, schimpfte er noch mehr; und als der Film heraus kam, klatschte das Publi­kum, und der Regisseur sagte: » Hedda, Sie sind ein Talent!« – Und ich schrieb in mein Tagebuch: »Veni, vidi, vici.«

Hedda Vernon Interview
in « Die Frau im Film » (Altheer & Co., Zürich, 1919)

リヒトビルト・ビューネ誌1913年8月第34号広告

1913年にドイツで国産犯罪活劇が流行し始めた時、ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演のケリー・ブラウン連作のヒロインに抜擢され、このジャンルで最初にアイドル的人気を博したのがヘッダ・ヴェルノンでした。『天馬』の邦題で知られる « Die Millionenmine » でヒロイン役を務めたこともあって1914年頃の日本の映画愛好家にも名を知られていました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月第12号より『天馬』広告

キネマトグラフ誌1915年7月号広告

1914年に自身の名を冠した映画製作会社を立ち上げて独立。その後はアイコ映画社を中心に、夫でもあるフーベルト・メスト監督作品に多く出演。恋愛物、喜劇、歴史劇など様々なジャンルの作品に出演しています。1910年代中頃からは若手の突き上げを受けて人気面で伸び悩むものの、ドイツ活劇ジャンルの先駆けとして「別枠」の扱いを受けており10年代末頃まで自身の名前を前に出して一線での活躍を続けました。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)

1919年、アイコ映画社の 自社俳優紹介広告欄より (ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日)

1920年代になると脇役に回る機会も増えてきます。それでも1921年にはメスト監督の『レディ・ゴディバ』に主演、英テニスンの詩を元にした同作は合衆国でも公開されました。

1922年、『レディ・ゴディバ』米公開時の広告

1925年に亡くなった後は再評価の機会がないまま忘れられていくのですが、2018年にボローニャ復原映画祭の「一世紀前の映画」企画で主演作『Puppchen』(1918年)復原版の上映記録が残っています。

[IMDb]
Hedda Vernon

[Movie Walker]
ヘッダ・ヴェルノン

[出身地]
ドイツ

[サイズ]
13.6 × 8.7cm

西條香代子 (1906 – ?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Saijô Kayoko Late 1920s Autographed Postcard

本名は中村香代子、明治卅九年正月の元日に神奈川縣鶴見に生れる、女學校卒業後、大正十四年五月一日日活へ入社、「闇の中の顔」へ出演好評を博す。「ダンスとピアノと琴が好きでイバニエズの戯曲物の愛讀を好み、バナゝと洋食と甘いお菓子が好きで、メリーピツクフオード愛好者です」住所京都市下京區西ノ京御輿ヶ岡町十五ノ五。

『日活俳優名鑑 1926+10』
(『大日活』二周年記念附録、1926年10月)


私は此の人の、あく事なき理智に輝いた眸の色に視入る時、恋の霊魂と化したあの静御前の姿が忍ばれてならない。

「佳人佳語」
(美町淑夫『うづまさ』1927年9月号)


明治三十九年一月一日極めてお芽出度い元旦の初日の出と共に神奈川縣の鶴見で孤々の聲を揚げた。中村香代子が本名で、當年二十三才。高等女學校卒業後大正十四年五月に日活に入社する。玉麗花のかんばせ、眞紅の唇、瀟洒たるスタイルは常に幾百萬のフアンをチャームしてゐる。主演『闇の中の顔』『日輪』『死の寶庫』『大陸の彼方』で好評を得。現に同社の花形女優。

『玉麗佳集』(1928年)


昭和元年〜2年にかけて人気を博した女優さんで、1926年8月『キネマ』誌の人気投票中間報告で25位(女優では11位)になっていました。

昭和3年(1928年)に髙島栄一氏とやりとりをしていた葉書が2枚手元にあります。一枚目は年賀状で「旅行中の爲失礼を致しました」の一文あり。もう一通は同年8月の暑中見舞いで「早速お尋ねを頂きまして恐縮し存じ上げました。私恙なく過して居ります」とのこと。

Saijô Kayoko 1928 New Year Greeting Card

Saijo Kayoko 1928 Summer Greeting Card

Saijô Kayoko 1928 Summer Greeting Card

この二通の間に阪妻『坂本龍馬』(1928年5月公開)に出演、同作を最後に映画界から引退。実質3年の短い女優活動でした。引退までの経緯とその後の消息が気になっていたところ1928年1月の新聞にこんな記事を見つけました。

阪妻プロダクシヨンの女優西條香代子こと中村かよ子は今度洋行することになり、先日京都府廰へ旅券下附願ひを出した。映畫俳優の洋行といへば大ていハリウッドと相場が決まつてゐるがこの人のはアメリカではなくフランスを中心にドイツ、イタ[リ]ーへ、しかも三年間滞在しようといふのである。

日布時事日曜版 1928年1月29日付 9面
(フーバー・インスティテューション
邦字新聞デジタル・コレクションより)

自身のキャリアアップのために邦画界を離れたい旨が語られています。実際に渡欧できたかは分かりませんが、映畫界からフェイドアウトしていった背景が理解できる内容で「そういう事情であれば」と納得できました。

[IMDb]
Kayoko Saijô

[JMDB] (二項目に分かれて記載されています)
西条加代子
西条喜代子

[出身地]
日本(神奈川県横浜市)

[生年月日]
1月1日

イタ・リナ Ita Rina/Jta Rina (1907 – 1979) セルビア/スロヴァニア/チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States]より

Ita Rina c1931 Autographed Postcard
(Estonian Edition)

Ita Rina Autographed Postcard

Ita Rina 1930 Inscribed Postcard

母は自分の美しい娘二人をどの映画スターに譬えたらよいか決めかねていた。華奢な姉は愛らしい花形子役シャーリー・テンプル、童顔な女優のオードリー・ヘップバーンに似ているという話になった。姉よりぽっちゃり系の私は古風なディーヴァ女優、ネオレアリスム映画に出てくる情の濃いイタリア女優になぞらえられた。

「『キリマンジャロの雪』のエヴァ・ガードナーに似てない?」、私が12才かそこらで母は叔母にそんな質問をしていたのだ。

「どちらかといえば『モガンボ』かな」が叔母の回答だった。その理由は本人以外に窺い知れぬものではあったが。

「イタ・リナはどう?」、お遊びに混ざってきた姉が口にしたのはセルビア出身の無声映画女優の名。しばらくの沈黙があった。イタ・リナの容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった。でも皆その名前だけは知っているのであった。記憶をさかのぼる限り、クロスワードでは必ずと言ってよいほど「著名なセルビア人女優(7文字)」で登場してくる名前だった。

『チェルノブイリ・ストロベリーズ』
(ヴェスナ・ゴールズワージー、2005年)

Mother could never decide which film star to compare her beautiful daughters to. While my slim sister was likened to the sweet child stars like Shirley Temple or gamine actresses like Audrey Hepburn, the plumper me seemed destined for similes with old-time divas and sultry neo-realist Italian beauties. « Isn’t she just like Ava Gardner in The Snows of Kilimanjaro? » Mother asked an aunt of mine when I was barely twelve. « I’d say Mogambo, » suggested the aunt for reasons known only to her. « How about Ita Rina? » my sister threw the name of one of Serbia’s silent-movie stars into the game. They paused for a moment. No one was certain about Ita Rina’s precise looks, but everyone knew the name, which has featured in every cross-word puzzle as « famous Serbian actress (7) » for as long as anyone can remember.

« Chernobyl strawberries : a memoir »
(Vesna Goldsworthy, 2005, Atlantic Books, London)

セルビアの現代作家ヴェスナ・ゴールズワージーの回想録『チェルノブイリ・ストロベリーズ』(2005年)にこんな情景が描かれていました。「12才かそこら」と書かれているので1970年代の話で、イタ・リナという女優が自国でどう捉えられていたかよく伝わってくるエピソードです。

Ita Rina in Erotikon (1929)

Ita Rina in Erotikon (1929)

イタ・リナを欧州レベルの花形女優に押し上げたのは『エロティコン』(1929年)の成功でした。チェコ出身の名監督グスタフ・マハティの出世作で、後年のヘディー・ラマール主演作『春の調べ』(1933年)につながってくるものです。両作に裸体描写が含まれていましたが『春の調べ』には自然主義/印象派風の光の戯れがあり、『エロティコン』にはドイツ表現主義と東欧由来の幻視・奇想が含まれていていずれも単なる初期ポルノで片付けることのできない作品です。

『エロティコン』は監督の個性や実験性が前面に出ていて個々の俳優の印象が残りにくい作品でもあります。「容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった」の位置付けも作品のそんな性質からきているものです。

Ita Rina in Tonka Sibenice (1930)

イタ・リナは『エロティコン』の成功後、チェコとドイツを往復する形で映画出演を続けています。1931年の結婚と共に女優業から離れますが33年に復帰しトーキーにも出演。1930年『娼婦トンカ』、1935年『人生は続く』などで情感の深さや存在感を見せた女優でもあって『エロティコン』の濡れ場「だけ」で映画史に名前が残ってしまったのは残念な気がします。

サイン入り絵葉書2枚のうち片方は独ロス出版社の絵葉書にメッセージと日付(1930年5月)をしたためたもの。もう一枚はエストニア製絵葉書で1931年製。後者については1930年にエストニアの街ロクサを舞台にした『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)に主演しており、同作公開後に何らかの形でエストニアの映画愛好家が入手した一枚だと考えられます。

Tallinnは『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)のロケ地ロクサから十数キロの場所に位置する街です

[Movie Walker]


[IMDb]
Ita Rina

[出身地]
スロヴェニア(ディヴァーチャ)

[誕生日]
7月7日

シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

フランス [France]より

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayant pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日