1917-22 忘れじの独り花(2)マンヤ・ツァッツェーワ Manja Tzatschewa (1900 – 1975) ブルガリア

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Manja Tzatschewa c1920 Autographed Postcard
Manja Tzatschewa c1920 Autographed Postcard

ムルナウという監督は弱い者への温かい眼差しと幻視者の目を備えた数少ない映画人でした。ドイツ時代の『吸血鬼ノスフェラトゥ』『ファウスト』『最後の人』、渡米後の『サンライズ』『都会の女』等、幸いなことに代表作のほとんどが現存しているものの初期作の幾つかを見ることが出来なくなっています。

1921年製作の『マリッツァ』については10分程の断片(イタリア版プリントの第一リール)のみ現存。冒頭で一瞬猫がクローズアップされ、猫を抱きかかえて眠るヒロインが登場。名カメラマン、カール・フロイントによる美しい映像が観る者を引きこんでいきます。

Marizza (1922)

Manja Tzatschewa in Marizza (1922)
From « Marizza, genannt die Schmuggler-Madonna » (Murnau, 1922)

ヒロインのマリッツァ役を演じていたのはマンヤ・ツァッツェーワ。ブルガリア出身とされています。エキゾチックな血と顔立ちを生かしアジア女性や踊り子などの役柄を多く演じました。キャリアの盛期は1918~22年でその後表舞台から姿を消していきました。

[IMDB]
nm0879266

[Movie Walker]
マンヤ・ツァッツェーワ

[誕生日]
12月27日

[出身]
ブルガリア

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
Verlag « Ross » Berlin S.W. 68. 296M Becker & Maass Phot.

1917-22 忘れじの独り花(1) ステラ・ハルフ Stella Harf (1890 – 1979) 独

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Stella Harf Autographed Postcard
c1920 Stella Harf Autographed Postcard

嗚呼、挙げるべき名の何たる多き事か。生ける繊細さとも云ふべきエルナ・モレナ嬢、聖母の自愛に満ち、澄ました様子のマリア・カルミ嬢、朗らかなハンニ・ヴァイス嬢、叙情派ヘッダ・ヴェルノン嬢、若々しき毒気に溢れたステラ・ハルフ嬢、芸術家肌なるヴァンダ・トロイマン嬢、北欧の輝ける太陽エゲデ・ニッセン嬢、その明るさに心躍るカローラ・テーレ嬢、優美なるギルダ・ランガー嬢、誰からも等しく愛される優しげなロッテ・ノイマン嬢、うら若く、ピリツとしたブルガリア生まれのマンヤ・ツァッツェーワ嬢は心沸くような蛇の舞を披露したものであつた。

『映画(キノ)』マックス・プレルス著 (1919年)

Ah, wie viele wären noch zu nennen! Erna Morena, die feinnervige, Maria Carmi, die Madonnenfühle, etwas Gegierte, die lustige Hanni Weiss, die lyrische Hedda Vernon, die von jugendlich ungezierter Unmut beseelte Stella Harf, die artistische Wanda Treumann, der nordisch blonde Sonnenschein Egede-Nissen, Carola Toëlle, die muntere, lichte, dann die empfindsame, viel umschwärmte Lotte Neumann, die zierliche Gilda Langer, die junge, pikante Bulgarin Mania Tzatschewa, die aufregende Schlangentänze zeigte und gewagten Situationen mit lochender, zugreifend harmloser Natürlichkeit alles Peinliche nimmt.

1918年、第一次大戦の終戦によって従軍兵が帰国、製作会社も国威高揚を考える必要がなくなったため、ドイツ映画産業は新展開を見せるようになりました。「フィルム・クリエ」「映画芸術」「映画世界」など映画雑誌が次々と創刊されていきます。

『映画(キノ)』に名の挙がった女優たちは、この時期に活躍し、映画誌の表紙を飾り注目を浴びたものです。当時のドイツはデクラ社やユニオン映画社、ステルヌ社等を筆頭に多くの映画社がひしめきあっている状況でした。名の知れた俳優(ヘラ・モヤ、ヘンニ・ポルテン、フェルン・アンドラ、リュ・シンド)が自身の制作会社を立ち上げ、競争は熾烈になっていました。ある研究書に興味深い記述が残されています。

スターの立場に辿りつくには全力のマーケティングが必要で、映画会社は必ずしも乗り気ではなかったし実力的に無理なケースも多く、個々の俳優に委ねられているのが実情であった。[…] それほど知名度のない某男優など、雑誌の宣伝欄とベルリンの地下鉄駅構内の壁に数週にわたって写真を提供していたそうである。女優リー・パリーはシャウブルク映画館で自作プレミア上映があった際、客に数百枚の写真をばらまいていた。

『デンマーク現代性の偶像:
ゲーオア・ブランデスとアスタ・ニールセン』
ジュリー・K・アラン著 (2013年)

Achieving star status required extensive marketing, which studios were not always willing or able to provide, leaving it up to the individual actors to accomplish. […] one relatively unknown actor […] plastered his own picture on every advertising column and subway station wall in Berlin for weeks, and […] Lee Parry throwing hundreds of photographs of herself into the audience at the premiere of one of her films at the Schauburg cinema palace.

この傾向は1923、4年頃まで続きます。20年代も半ばになり始めるとファッションや考え方の現代的な女性が評価され、1910年代デビュー組は次第に取り残されていき、余程の実力者でない限りかつてのようにメディアで取り上げられる機会が少なくなっていくのです。

UFA社の躍進も要因となりました。巨大資本を元に大掛かりな作品を全国展開していくUFAを前に、俳優が自身で立ち上げた小さな映画社は太刀打ちできなくなっていました。

UFAは長く存続したこともあって古い作品も多く残されています。ドイツ映画の戦前期を語る際に同社のイメージが中心になるのも致し方ないところです。映画史そのものが上書きされてしまい、結果としてそれ以前、1917~22年頃に賑わった一部のドイツ映画が見失われることになりました。

Vergessene Filmgesichter (UFA magazine 1927-01-06)

「他の多くの者も、映画年鑑に当たらないと思い出せないくらい完全に記憶から消し去られていて[…]」

「映画界の忘れられた顔」(UFAマガジン 1927年1月6日号)

Viele andere, die man so gründlich aus dem Gedächtnis verloren hat, daß man in Almanachen forschen muß […]

1927年に公刊された「UFAマガジン」では多くの映画人が「あの人はどこに」の扱いを受けています。ヘラ・モヤヘッダ・ヴェルノンレッセル・オルラヴァンダ・トロイマンマリア・カルミ…まさに『キノ』で賛美されていた女優が並びます。

一世紀経った現時点から見ると、忘れ去られてしまった1910年代デビュー組と映画史に名の残った20年代組(例えばカミルラ・ホルンやブルギッテ・ヘルム)の差は実力差より「時の運」だったかなという感じです。

ステラ・ハルフは1910年代後半にデビュー、当時人気だったウェッブス探偵物の常連として活躍、探偵役を演じたエルンスト・ライヒャーと結婚しています。ウェッブス物の成功の勢いをかって一般のドラマにも出演、『カリガリ博士』(1920年)で知られるロベルト・ヴィーネ監督の作品でヒロインを演じたりもしていました。

『キノ』(1919年)掲載のポートレート

しかし20年代は伸び悩み29年『セント・ヘレナのナポレオン』の端役を最後に映画界を離れています。初期ウェッブス探偵物は海外にも輸出されていて、当時日本のスクリーンでも彼女の姿を見れたようです。

現在、各国の映画協会やアーカイヴを中心にこういったマイナーな俳優の出演作も発掘されるようになっています。「リタ・クレルモントやステラ・ハルフ、レオンティーヌ・キューンベルグらほぼ忘れ去られてしまった者たち」(ジュリー・K・アラン、前掲書)に再度光が当たる可能性も零とは言えない気がしています。

[IMDB]
nm0362880

[Movie Walker]
Stella Harf

[誕生日]
8月12日

[出身]
ドイツ(ドレスデン)

[サイズ]
8.8 × 13.6cm

[データ]
K-2328 Photochemie, Berlin. Alba-Film Berlin.

大正6年 (1917年) パール・ホワイト主演『拳骨』仏語小説版

パール・ホワイト主演による連続活劇『エレーヌの勲功(The Exploits of Elaine)』は、日本では『拳骨』の邦題で紹介され人気を博しました。

先行する『ジゴマ』ほどではありませんが、日本語小説版も幾種類か発行されていて当時の盛り上がりが伝わってきます。

大正5年:『拳骨 : 探偵活劇. 第1編/第2編』 俊碩剣士著 (春江堂書店)
大正5年:『拳骨 : 探偵小説』青木緑園著 (中村日吉堂)
大正5年:『拳骨. 上/』活動の世界社編輯局 [編]

今回入手したのは同時期にフランスで発売されていた仏語小説版です。かの国には新聞連載小説の長い歴史があって、本書も元々はル・マタン紙の附録として20冊の続き物として流布していました。こちらはそれを一巻にまとめたハードカバー仕様。570頁を越える大部な一冊です。

飯塚 敏子 (1914 – 1991)

飯塚敏子 サイン入り写真01

飯塚敏子 サイン入り写真2
Iizuka Tosiko Autographed Photo

この大作 [『唐人お吉』]に、特別主役を振られたので、いまゝでゐた撮影所内の女優さんが今度は納まらない、「女學生上りのお茶つぴいの癖に、一本や二本の映畫が良よかつたからと云つて、唐人お吉に出るなんて生意氣だワ」と大変な横槍だ。飯塚さんが撮影所の門に入ると、もう目引き鼻引き、妬み猜みの陰口が、四方から投げられる。

その口惜しさ、腹立たしさ、勝氣な敏子さん丈けに、身を悶えて悲しく思つたが、今が私の運命の岐れ目だ、こゝをぢつと辛抱し闘ひ抜けよう、と覺悟して、寄宿の家から一里ばかり北にある一条寺の有名な葉山観世音へ、四十九日の願掛け、どうぞ心をしつかりと、この大役の仕遂げますようにーそれは映畫の中の主人公そのまゝの悲壮な決心だつた。

『スターになる道 : 附・映画俳優志願者の心得』(京都映画人協会, 1936)

ミュジドラ Musidora (1889 – 1957)、昭和13年の従妹宛タイプ打ち書簡

「国別サインリスト フランス [France]」より

1938年、ミュジドラがブエノスアイレス在住の従妹ジョルジェット宛てに送ったタイプ打ちの書簡。フレンドリーな口調ながら女流作家らしく凝った表現も随所に混ぜられています。

文中に登場する「ジャコル」君はおそらくジョルジェットの子供さんの愛称で、その手術と家族の心労をいたわる気遣いが伝わってきます。

一方でブエノスアイレスの大手書店の所在地を訪ね、自身の著作の販路を広げようとしている辺りにしたたかさを感じます。

文面は裏まで続いていて、最後に本人のサインで〆てあります。表面の余白には手書きで息子のクレマン君が愛らしいメッセージを残しています。


7月20日 シャティオン=シュル=マルヌにて

ジョルジェットへ

このブエノスアイレスってのは超危険、磁石並に引き寄せられている私。なぜか知らないけれど息子の来年のバカンスはブエノスアイレスに行ってほしいと思ってしまうのよ。

残念ながら夢物語かしら。でもそんなことばかり考えてしまって。

日々の記録のお手紙と、私&息子の写真2枚を同封させてもらいました。

私が一秒たりとも無駄にしていない様子が伝わるかなと思います。「おちおち死んでもいられない」みたいな?ジャコルの手術があって大変だったのも分かっているしちょっとでも笑ってもらえると幸いです。

こちらでは家がようやく完成しました。庭に15×8メートルのプール付き。ザズーの素潜りが凄いったらありゃしない。

良かったらブエノスアイレスの大きな書店の連絡先を教えてください。自分の本をどこかに置いてもらいたいと思っていて、向こうも興味持つのではないかと。この辺のお金絡みの分野が苦手なので、ヒントになりそうなものを幾つか教えてもらえると嬉しいです。

良き報せを待ちながら、みんなに、一人ひとり順番にキスを送ります。あなたからの温かい言葉は皆に伝えておきました。百倍返しするそうですよ。

(クレマン君のメッセージ)
こんにちはジョルジェットおばさんとジャコルかぞくみんなにキスおくるね

Chatillon-sur-Marne le 20 Juillet 1938

Ma chère Georgette,

Ce Buenos-aires est périlleux pour moi, il m’attire comme un aiment, et j’aimerais, je ne sais pourquoi que Clément l’année prochaine prenne des vacances pour faire un voyage jusqu’à Buenos-aires.

Tout ceci malheuresement n’est qu’une idée, mais cette idée revient souvent dans ma tête.

Je t’envoie par ce même courrier des nouvelles journalistiques de ta cousine ainsi que deux photos de Zazou et de moi.

Tu vois que je ne perds pas un instant et comme on dit « je ne prendrai même pas le temps de mourir ». Je veux te faire rire un peu car tu as de mauvais quart d’heure avec l’opération du Jakol.

Ici, la maison s’achève doucement, le jardin à une piscine de 15 mètres sur 8 mètres, et le Zazou y fait des plongeons magnifiques.

Veux tu être gentille de m’envoyer l’adresse d’un grand libraire de Buenos-aires, je voudrais bien faire un dépot de mes livres et cela peut l’interesser. Mais ne connaisant pas cette partie uniquement commerciale je te serais gré de bien vouloir me donner quelques indications.

Dans l’attente de vos bonnes nouvelles à tous, nous vous embrassons tous ensemble, séparèment. J’ai transmis toutes tes amitiés à toute la famille qui te les renvoie centuplées.

Ta cousine,
musidora

[message écrit par Zazou] : bonjour je t’embrasse ainsi que Jakol et ta famillle zazou

 

1931年 – 『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』 冨士新年號附録

1931年-名流花形大寫眞帖
« Stars Photo Album » supplement to the « FUJI » magazine Vol.4, No.1 (Jan 1931) published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

[発行年]
昭和6年1月

[発行者]
大日本雄弁会講談社

[フォーマット]
356頁 18.4cm×12.8cm

[定価]
本誌と共に七十銭

若月 孔雀 (1911 – 没年不詳)

「国別サインリスト 日本 [Japan]」より

Wakatsuki Kujaku Autographed Postcard
Wakatsuki Kujaku Autographed Postcard

本名宮原八重。明治四十四年、東京市浅草に生る。女學校卒業後昭和二年松竹蒲田に入つたのが映畫の第一歩。後映畫に實演に活躍、松竹京都撮影所入社は昭和三年五月。主な近作は「小金井小次郎」「甘酒屋甚九郎」等。嵌役は娘藝者等。身長五尺四寸。體重十一貫二百目。趣味は舊劇、三味線。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

Wakatsuki Kujaku 1931

[JMDB]
p0161510

[IMDB]
nm5667925

[出身]
日本(東京)

[サイズ]
13.5 × 8.6 cm