浦辺 粂子(1902 – 1989)

「日本 [Japan]」より


本名濱田粂子、明治三十四年十月伊豆下田に生る。嘗て歌劇俳優として金龍館や樂天地に出演、後小松商會を経て大正十二年日活に入社し一躍性格俳優としてフアンに認められスターとなる。處女出演は『乙女の心』主演は『清作の妻』『お澄と母』『金色夜叉』があり、最近の『シベリアお龍』で物凄いところを見せめきめき人氣を高めてゐる。現住所京都市上京區北野白梅町衣笠園三四三。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


「技藝部長、山本嘉一さん」ある撮影監督から恁う言つて紹介された人を、「おゝ、この方が」と私はその落附きと澁さとに、何處か英吉利好みの上品なモーニングの紳士を、熟々と見上げました。酒井米子さんは、私たちの手を執つて、「ほんとうに京都へ來て、すつかり落附ましたわ。どうか、これからは御一緒にねえ」と、沁々として言ふのでございました。私は此の気品高い落人の胸を察して、ほろりとして了ひました。恁うして、向島から四人の監督と、五十餘名の技藝員と、技師、舞臺装置の就業員一百餘名を新しく迎へた私たちのスタヂオは、恰度春の太陽に恵まれた大地のやうに、若さと元氣に賑ひ始めたのでございました。

『映画女優の半生』(浦辺粂子著、1925年、東京演藝通信社)


もう六七年も前、「淸作の妻」等に出演して當時の人気スターであつた浦邊粂子は今は上野製作所主人との結婚に破れて、撮影所に歸り、某カメラマンと新しい生活に入つてゐるが、彼女上野家へ玉のコシに乗った時、當時たゞれた愛慾の世界にタンデキしてゐた彼女だったので、生れ變るのだと、大きな感激のもとに、その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女びいきのフアンを歎かわしく思はせた。

「映畫界エロ双紙」(小倉浩一郎、『デカメロン』1931年9月号所収、風俗資料刊行會)


[JMDb]
浦辺粂子

[IMDb]
Kumeko Urabe

[出身地]
日本(静岡)

[誕生日]
10月5日

大正13~14年(1924~25年) 私家版・キネマ旬報合本(167~185号)を読む


1920年代中盤、大正末期に発行された167号から185号まで全19冊の『キネマ旬報』を合本にしたもの。

グラビアを重視しゴシップ記事も織りこんだ『活動倶楽部』や『活動画報』と異なり、『キネマ旬報』は網羅的な映画評を主とした構成となっていました。華やかさに欠け可読性は低いものの、データベースとしての使い勝手は他を寄せつけないレベルです。

第167号(1924年8月1日)  表紙:ポーラ・ネグリ
第168号(1924年8月11日) 表紙:メーベル・ノーマンド
第169号(1924年8月21日) 表紙:エステル・テイラー
第170号(1924年9月1日)  表紙:ベティ・コンプソン
第171号(1924年9月11日) 表紙:アリス・テリー
第172号(1924年9月21日) 表紙:ローラ・ラ・プラント
第173号(1924年10月1日) 表紙:ルドルフ・ヴァレンチノ
第174号(1924年10月11日) 表紙:ベビー・ペギー
第175号(1924年10月21日) 表紙:ローレット・テイラー
第176号(1924年11月1日) 表紙:グロリア・スワンソン
第177号(1924年11月11日) 表紙:ジャクリーヌ・ローガン
第178号(1924年11月21日) 表紙:ドロシー・マッケイル
第179号(1924年12月1日) 表紙:ロイス・ウィルソン
第180号(1924年12月11日)表紙:トム・ミックス
第181号(1925年1月1日)  表紙:ビーブ・ダニエルズ
第182号(1925年1月11日) 表紙:リリアン・ギッシュ
第183号(1925年1月11日) 表紙:メアリー・ピックフォード
第184号(1925年2月1日) 表紙:オッシ・オスヴァルダ
第185号(1925年2月11日) 表紙:アイリーン・プリングル

表紙を飾っているのはハリウッド女優を中心とした当時のスター俳優たち。1925年の新年号のみ多色刷りになっています。


内容を見ていくと、欧米作品としては1)ハリウッド新作(『バグダッドの盗賊』『椿姫』『幌馬車』『十戒』『ホワイト・シスター』『ボーケール』『ノートルダムの傴僂男』)に比重を置きつつ、2)数は少ないながらドイツ映画の大作路線(『阿修羅王国(ヘレナ)』『ジークフリート』)に心を奪われている様子が伝わってきます。3)フランス映画はほとんど紹介されていないのですが当時亡命ロシア映画人がパリで立ち上げたアルバトロス社が注目されていました。4)喜劇界ではチャップリンの制作ペースが落ちていた時期で、ロイド(『巨人制服』)やキートン(『荒武者』)が人気を博しています。


国内作品に目を転じると、日活・松竹・東亞・帝キネの4社がしのぎを削っている様子が伝わってきます。監督(溝口健二、伊藤大輔、清水宏、村田實…)の動静が丁寧に追われているのがキネマ旬報らしいと思いました。厳密には国内作品ではないものの、早川雪洲氏が渡仏して撮った『ラ・バタイユ』公開もこの時期に当たっています。


論考では「デヴィッド・ワーク・グリフィス(森岩男)」「アベル・ガンスの肖像(飯島正)」「滞米二年の私の生活(エルンスト・ルビッチ、田村幸彦訳)」など作家主義指向の力作が目立っていた感じです。


帝キネ撮影所は其後益々健全で、略一月足らず大阪芦邊劇場に於て舞臺實演に出演中であった蘆屋映画部の連中も再び撮影に着手し、活氣を呈して來た。(1924年8月167号「日本映畫欄」)


1924年夏〜25年初頭のキネマ旬報をまとめ読みしていて面白かったのは帝キネ分裂をめぐる経過報告です。小唄映画『籠の鳥』のヒットによって経営状況が上向き、大手から俳優やスタッフを大量に引き抜くも待遇の違いから古参組が反旗を翻し、最終的には三分裂(アシヤ/東邦)していく展開をとったものです。一連の経緯については別な資料(『欧米及日本の映画史』、石巻良夫、1925年)で読んだ覚えがありますが、『欧米及日本の映画史』はすでに完了した出来事を俯瞰的に追っているのに対し、キネマ旬報の情報は断片的ながら「今まさに内部抗争が起こりつつある」臨場感が伝わってきます。

立石駒吉氏入社と共に小阪撮影所の一大改革は行なはれ、近く各社より數名のスター監督が新たに入社する筈にて既に決定し足る者も少くはないが次號にてその詳細を確報すべし。(1924年10月173号)

[…] 帝キネに入社確定したる重なる俳優左の如し。
宮島健一氏。關操氏。横山運平氏。阪東妻三郎氏。瀨川路三郎氏。中村吉松氏。森静子孃。鈴木澄子孃。中村琴之助氏。(以上東亞キネマより。)中村太郎氏(松竹加茂より。)
尚監督としては松竹加茂に在りし、枝正義郎氏が入社した。
五月信子孃、梅村蓉子孃の入社説も專らなるがこれは未だ未定で確報は出來ない。(1924年10月175号)

[…] その後松竹日活より引抜いた監督及び俳優技師作者の確定した人達は左の如し。
細山喜代松氏。葛木香一氏、水島亮太郎氏、鈴木歌子孃、靑島順一郎氏(以上日活より。)
五月信子嬢、正邦宏氏、小澤得二氏、藤間林太郎氏(以上松竹蒲田より。)
髙木泰作氏、山下秀一氏、石川白鳥氏、原コマ子孃(松竹加茂より)
惡麗之助氏(東亞等持院より)。
右の如く素晴らしき陣容を整へた帝キネの今後の活躍こそ注目すべきであろう。(1924年11月177号)

[…] 松本泰輔氏一派及び松本英一氏市川百々乃助氏等は石井専務と行動を共にして斷然帝キネを退社する事を決議し連袂辭職を會社へ提出したがその眞相及び俳優名其他詳細は次號にて確報す。(1925年1月183号)

帝キネ撮影所對舊芦屋映畫一派の紛擾は遂に撮影所側の勝利となり、松本泰輔氏以下十數名の犠牲者を出だして解決するに至つた。退社した人々は左の通りである。
松本泰輔氏里見明氏濱田格氏以下數名。柳まさ子孃久世小夜子孃鈴木信子孃以下數名。市川百々乃助氏市川好之助氏市川瓢藏氏以下數名。(以上俳優)松本英一氏。(監督)佐藤靑秋氏。(作者)大森勝氏。(技師)等。
尚去就いづれかを注目されて居た歌川八重子孃澤蘭子孃は撮影所側に同意し居殘る事に決定。(1925年2月184号)


手元の合本で追われているのはここまで。『欧米及日本の映画史』では「十四年一月、一同は連袂退社の辭表を提出し、『芦屋映畫』といふ一派を起す計畫を進めたのであるが、會社はこれを以て背任行為と認め、松本泰輔以下十數名を進んで馘首した」(351頁)の一行で済まされている部分です。キネマ旬報のように具体的に個人名が挙げられているとずいぶん印象が変わってきます。例えば市川百々乃助、里見明&久世小夜子はそれぞれ時代劇、現代劇で初期帝キネを支えてきた功労者でした。そういった役者たちが問答無用で「馘首」された衝撃が生々しく伝わってくるのです。



それとは別に興味深かったのはこの前後のマキノ省三の動きです。1925年3月に直木三十五に手を貸す形で「聯合映畫藝術家協會」の立ち上げに関わった話は良く知られています。第一弾は澤田正二郎主演の『月形半平太』でしたが、実際には同年1月に公開された『國定忠次』がその布石の一つとなっていました。

舞台劇や文芸を通じて映画を「アート」に昇華する運動は様々な国の映画史で現れてくるもので、珍しい話ではありません。今回、キネ旬を読んでいて驚かされたのが『國定忠次』の前にもう一つ布石があったことです。

別項廣告の如く市川八百藏氏と守田勘彌氏も映畫を製作する。之は日米映畫社が配給するもので、八百藏氏は十二月九日から牧野省三氏の監督で第一回作品『お艶殺し』を撮影する筈。劇界の人々が續々と映畫の製作を始めたのは面白い現象と云はねば成らない。(1924年12月1日179号)


『お艶殺し』は何らかの理由で製作(又は配給)が中止になっています。キネ旬同号に掲載された「別項廣告」を見ると、製作は「日本聯盟映畫藝術協會」。翌年の「聯合」発足までに繰り広げられた紆余曲折の痕跡なのでしょうね。

1930年代中盤 中村パテー商会 パテースコープ5型 9.5/16ミリ両用映写機

Mid 1930s Nakamura Pathe co., N.M. Pathe Scope 9.5-16mm Silent Projector Model 5

1930年代に日本の中村パテー商会が製造・販売していた9.5ミリ/16ミリ両用のサイレント映写機。シリアル番号は7004。

レンズは五藤光学研究所のF=50mmを使用。ランプは75V500W。

土台部分に3つのスイッチがあって左から順にM(モーター)、L(ライト)、P(パイロットランプ)。メインホイール側の側面にある二つのつまみがモーターの回転数と光量調整用。背面の下にノブがあって左右に回すと映写機の仰角を調整できます。


9.5ミリと16ミリの切り替えはゲージ等関連パーツを取り換えることで可能。金具の形状などボレックスDA〜G916映写機に似ています。一方で金属製ベルトをねじって掛ける形はパテックス社200B映写機に影響を受けています。

「モーターが動いたり動かなかったりする」という状態で入手。コードを繋いでスイッチを入れると確かに反応したりしなかったり。動いている時も回転数が不安定で火花が飛んでいます。

モーター部のカバーを外してみました。ブラシ式のモーターでルーターを挟みこむようにカーボン製のブラシがセットされています。このブラシの劣化・摩耗が火花、接触不良の原因かもしれません。交換して結果を見てみたいと思います。

折角の機会ですので他の部分もメンテナンスしておきます。モーターの軸は逆側で冷却ファンを回転させています。こちらもかなり埃がたまっていました。

今の状態であまり長く動かしたくはないのですが、フィルム送りの確認も兼ねて数分回してみました。数十センチ前の壁に映写したため小さくしか映っていませんがレンズ自体は良い感じ。F=50ですので3メートルの距離で映写すると綺麗に映せそうでした。

1930年頃 米パテックス社・モトカメラ 9.5mm動画カメラ(テッサー f:2.7 F=20mm)ターレット型フィルター付

US Pathex 9.5mm Motocamera with Filter Turret (c1930)

1920年代中盤の手回し式パテベビーカメラ〜「モトリクス」の後継機として27年頃から市販開始され、30年代を通じて9.5ミリ撮影のスタンダードとなっていった機種。高級機仕様「ド・リュクス」や廉価版「モンディアルB」など様々なヴァリエーションが展開されていました。

当初ドイツ製レンズ(ツァイスのテッサーf:2.7)を採用。その後仏エルマジ社製に変更されています。今回入手したのは初期型のテッサー付。シリアル番号からすると1930年に製造されたレンズです。

普及機で中古市場(日本含む)にも多く出回っており、カメラ自体を見つけるのは難しくないと思います。この機体が面白いのはターレット型のフィルターアタッチメントが付いている所。メーカー名の記載はなく、1930年頃のパテ社カタログに該当商品がないことから日本で独自開発されたオプション製品と思われます。

[メーカー]
米パテックス社(英語仕様)

[シリアル番号]
V50274

[レンズ]
カール・ツァイス社 テッサー f1:2.7 F=20mm
シリアル:1040858

昭和11年(1936年)-『パテーベビー月報 第73号』

Pathé Baby Monthly No.73 (1936 March Issue)

大阪(南区安堂寺橋通り)に拠点を置いていたパテーベビー月報社が発行していた9.5ミリ小型映画専門冊子。16頁で年間購読料は24銭となっています。

以前に紹介した同年5月第75号は『メトロポリス』や『ハンガリー狂想曲』を中心とした構成でドイツ映画色が強い内容でした。紙面で触れられているように本号は3月10日の陸軍記念日を意識した軍事色の濃いものとなっています。

メイン企画は寶塚キネマ製作の『孝子五郎正宗』(S-403、特大鑵4巻)。紹介1頁に次いで3頁を費やして全字幕を掲載しています。

第二特集は「三月十日の陸軍記念日には」。
・『日露戰争回顧錄』(S-420、特大鑵3巻)
・『草に祈る』(G-256、特大鑵3巻)
・『戰友』(S-389、特大鑵1巻)
・『吉岡大佐』 (S-444、特大鑵1巻)
・『橘中佐』(S-446、特大鑵1巻)

それ以外の紙面は広告となっています。アルマ映写機、エクラA型映写機、コロネット撮影機など1936年のトレンドが伝わってくるラインナップでした。

1952~57年 – 9.5mm個人撮影動画『寒中行事』大阪 桜宮橋 大川

「9.5ミリ 個人撮影動画」より

戦前から行われてきた淀川での「寒中水泳大会」(至心会主催)を記録したもの。確認できた限り少なくとも3年分(1952、1956、1957年)の動画を編集してまとめています。

「淀川」となっていますが開催場所は造幣局にほど近い桜宮橋の当たりで、現在では大川と呼ばれている旧淀川。桜宮公会堂の真正面になります。

1956年度の方では冒頭に「大阪寒中水泳大会」ののぼりが映し出され、吹奏楽団が開会の音楽を奏で、桜宮橋からの高飛びこみが披露されます。その後関係者諸氏からのスピーチがあって、至心会の有段者が「水弓」や「甲冑御前法」を披露していきます。

川岸のみならずボートにも報道陣の姿があります。またメーカー(ライオンやビスコ。翌年はセメダイン)がブース代わりのワゴン車を出している場面も記録されていました。

翌1957年(昭和32年)の大会もほぼ同じ流れとなっています。挨拶や祝辞に次いで地元高校生(北野高校、今宮高校、南高校、八尾高校、今宮工校、鳳高校)による「淀川横断」が行われ、京都踏水会「空砲発火」や至心会による「浮身絵」の披露。模型飛行機と模型ボートでの「淀川横断」も前年に引き続き開催されていました。

大阪市の真ん中で川泳ぎができた古き良き時代の映像記録。昭和30年代の話ですので記憶に残っている人もいるかもしれません。個人的に扇町から天六はよく動いていた覚えがあって桜宮界隈も全く知らない場所ではなく興味深かったです。

1926~1935年 剣戟俳優映画 豆ブロミニコレクション

1926-35 various « kengeki » trading cards

10年近く前、国産無声映画の紙物で初めて手に入れたのがこの辺の豆ブロマイドでした。大正末期~昭和初期に九州で活動していた「活キチ」さんの旧蔵品がネットオークションに出品されていたのを発見、いずれも結構な勢いで落札されていました。1セット確保できましたが正直当時は自分でも何を手に入れたのかよく分かっていなかったです。

今回『孔雀の光(前編)』の説明本の紹介にふと思い出して引っ張り出してきました。1926〜35年にまたがる内容でアイドル感キラキラ時代の河部五郎、紙物にあまり恵まれていない佐々木清野嬢辺りの珍しい物が含まれています。


1)『孔雀の光』(1926年、マキノプロダクション・御室、沼田紅緑監督、市川右太衛門主演)

[JMDb]
孔雀の光 前編

[IMDb]
Kujaku no kikari – zenpen [sic]


2)『修羅八荒』(1926年、松竹・蒲田、大久保忠素監督、森野五郎主演)

[JMDb]
修羅八荒 第一篇

[IMDb]


3)市川百々之助(1926年頃、作品名不詳)


4)『月形半平太』(1926年、日活・大将軍、高橋寿康監督、河部五郎主演)

[JMDb]
月形半平太

[IMDb]
Tsukigata hanpeita


5)『素浪人』(1926年、阪妻プロ、志波西果監督、阪東妻三郎・森静子・佐々木清野他出演)

[JMDb]
素浪人

[IMDb]
Suronin


6)『八剣飛竜』(1929年、日活・太秦、池田富保監督、澤田清主演)

[JMDb]
八剣飛竜

[IMDb]


7)『京洛浅春譜』(1935年、千恵プロ、西原孝監督、片岡千恵蔵・歌川絹枝他出演)

[JMDb]
京洛浅春譜 同志闘争篇

[IMDb]


1926年 – 市川右太衛門主演『孔雀の光 前編』(マキノ、沼田紅緑監督)説明本・出版者不明


何は兎もあれ、生命に代えて守護して居る大切なる御宸筆が怪賊の手に奪られたあつては、朝廷に對し奉りて御申譯がない。何うあつても之れを尋ね出さなければならぬ、と一大決心を起したのが少將の令嬢八重姫である。

『譬え女でも武士の娘である、御宸筆取り戻して父の仇を討たなければ申譯がない』 健気な決心に侍女のお節も之れに勵まされて姫にお供を願ひ出た。

二人は甲斐甲斐しく身支度して門出の折から之も姫に同情して怪賊の在所を探しに出たのが藤島求馬である。


時は幕末。朝廷から水戸光圀に討幕の命が下された。その旨を記した宸筆が松島通忠左少将の手にあると知った佐幕派は通忠暗殺を決行、宸筆の強奪に成功する。父の仇を討つべく、通忠の娘・八重姫(マキノ輝子)は侍女のお節(泉春子)と共に宸筆探しの旅に出た。八幡山の奥に賊が隠れ潜んでいるのを見つけ出したが、誘拐され返り討ちの危機に陥る。窮地の八重姫を救ったのは、親友中岡慎太郎(中根龍太郎)の情報を受け馳せ参じた忠臣・藤島求馬(市川右太衛門)であった…

幕末を舞台にした勧善懲悪の冒険譚で、独立前の歌右衛門がマキノ時代に出演(『快傑夜叉王』『鳴門秘帖』)していた大作の一つとなります。説明本は3部作の第1部を扱っておりこの後鈴木澄子さんや武井龍三氏が登場、歌右衛門が二役をこなすなど物語が広がっていきます。


[JMDb]
孔雀の光 前編

[IMDb]
Kujaku no kikari – zenpen

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

1917 – スーパー 8 『チャップリンの勇敢』(大沢商会/東宝/東和版、1970年代中頃)

« Easy Street » (1970s Super8 Ôsawa Shokai version, based on Towa B Negative)

チャップリン短編の8ミリ版は幾種類かあり、中でも大沢商会から発売されていたこのシリーズは比較的よく知られています。

元々は東和株式会社(現・東宝東和)の創業45周年を記念した「ビバ!チャップリン」という企画の一環で発売されたものです。東和商事合資会社としての創業は1928年にさかのぼりますのでフィルムの発売は1973年頃となるようです。「ビバ!チャップリン」は第一弾に『冒険』『拳闘』『移民』『勇敢』『消防夫』の5作を発売、その後ジャケットを変えて第二弾の『誘拐船』『大番頭』『活動屋』の3作が発表されています。

今回はその中から『勇敢(Easy Street)』の紹介です。ミューチャル社から公開された1917年作品で、チャップリンとヒロイン役のエドナ・パービアンス、悪漢役のエリック・キャンベルの絶妙なバランス感覚を楽しめる一作。

プリントは輸出用ネガ(Bネガ)ベース。戦後の比較的新しいプリントのため傷なども少なく、劣化も見られない良いコンディションでした。サンプル画像はHQカメラに差し替えた綺乃九五式でスキャンしたものです。

現在フリッカーアレイから発売されているブルーレイ盤ストリーミング版の最新修復バージョンは基本Aネガを元にしています。AネガとBネガのアングルの違いを幾つか確認しておきます。

「オルガンを弾くエドナ」の場面で見てみるとAネガは右側のカメラから撮られており、座ってうたた寝している男性がエドナに隠れるアングルになっています。一方のBネガは左側のカメラから撮られていて、男性の姿がエドナの背後に見える角度になっています。

また同じBネガ由来でも東和版とパテ版を比べると、前者は左端をやや大きくトリミングしてエドナを中央に配している(結果として左端の女性が半分で見切れている)のに対して、パテ版は左端の女性が切れないよう右端を広めにトリミングしていて、その代りエドナが中央を外れて右に寄った構図になっています。

「チャップリンのバストショット」「エリック・キャンベルとの乱闘場面」も同様でAネガは右側のカメラで、Bネガは左側に置かれたカメラで撮影されています。キャンベルの背中にチャップリンが飛び乗る後者の場面は良く知られていますが、被写体と背景の位置関係がAネガとBネガで微かに違っており別カメラだと分かるのです。

唯一の例外は「エリック・キャンベルのクローズアップ」。トリミング幅は異なっているも両者は同じネガを元にしています。東和が持ちこんだネガにAネガ由来のプリントが紛れこんでいたのか、ブルーレイ用に修復した際にあえてBネガを選択したか(現存フィルムのコンディションに応じてブルーレイ版も一部Bネガを使用しているそうです)は不明。

先日紹介した仏コダック16ミリ版ともつながってくる話で、物語あるいは世界観で言うとAネガもBネガも同じ『勇敢』なのです。でもフィルム視点で見ると別作品なんですよね。近年のデジタル修復作業が画質重視でAネガとBネガを混ぜてしまっている状況は少し怖いな、とは思います。

[原題]
Easy Street

[公開年]
1917年

[IMDb]
Easy Street

[メーカー]
大沢商会/東宝/東和

[フォーマット]
Super8、600フィート、30分(24fps)、白黒、光学録音(サウンドテープ付)、定価12,800円

] 映画の郷 [ 電子工作部:ラズパイHQカメラで戦後9.5ミリカラーフィルムをスキャンしてみた

『ガラパゴス諸島~アフリカ旅行記』
(1960年、仏9.5ミリ個人撮影動画より)
ラズパイHQカメラ+タムロンH21レンズ

先日、綺乃九五式スキャナーにラズパイHQカメラを移植しました。このスキャナーにとっては大きな一歩となります。V2カメラを前提に設計された綺乃九五式は白黒フィルムしか処理できなかったのですが、このアップデートでカラーフィルムを扱うことができるようになったからです。

今回、1960年に撮影されたガラパゴス諸島~アフリカ旅行動画をスキャンしてみました。上がその際の無加工スキャン画像。

悪くない、と思います。後に触れるように幾つか問題はあるものの、設定次第では16ミリ並の再現度までいける手応えがありました。

ちなみに一回目に行ったスキャンは失敗でした。何も考えずに白黒設定(彩度/saturation)のみを変更しスキャンしたところ、連続撮影の結果が次の形に。

数回に一度自動の補正フィルターがかかっています。

パイカメラ・ライブラリーのオートホワイトバランス(awb_mode)初期設定で「’auto’」となっているため悪さをしているのだろうと考え「’off’」に変更したものの結果は変わらず。露出モード「exposure_mode」が未設定(=デフォルト「’auto’」)になっていたのが問題で、こちらを「’off’」に変えると安定しました。

ところが別なショットで新たな問題が発生しました。

ウミイグアナの群れを捉えた一枚。解像度は良いのですが…色合いが奇妙です。このフィルムは2017年に一度映写機で実写しており、その時のスクリーンショットが残っています。

絵としての解像度はHQカメラに劣りますが、色合い/カラーバランスはこちらの方が自然な感じがします。HQカメラは青の発色がやや人工的で、画面全体に強く出ています。ヒストグラムで確認してみると:

映写機版のヒストグラム(写真上)から分かるように、光の三原色の中で青がやや強く出ています。こういった被写体を撮ろうとした時、処理が上手くいかず青味が極端に強調される形で残ってしまうようです。冒頭の鳥のように青があまり含まれていない画像では綺麗な結果が出てきます。下のスキャンも似たような感じです。

空が澄んだ青になるのは良いとして、引きずられるように背後の島が真っ青になり、人の肌や植物も青みがかっています。カラーバランスを修正したところ下の感じになりました。

修正前(左)と修正後(右)

肉眼で見えていたのは右の感じだったのでしょうね。HQカメラを使用した際にカラーバランスが青に寄る話は海外ユーザーからも報告 (« The whitebalance is also very “blue” ») されています。使用するレンズやセッティングに依存している可能性もありますが、今後HQカメラを使って実用的な作品を作ってみたいという方は留意しておいて良い話かと思われます。

1953 – Super 8 入江たか子主演『怪談佐賀屋敷』(荒井良平監督)


「8ミリ 劇映画」より

Super8 « Ghost of Saga Mansion » (dir. Ryohei Arai)

大映による化け猫映画第一弾として知られ、その後の化け猫ホラーブームの牽引役となった一作。後続の『怪猫岡崎騒動』『怪猫有馬御殿』などと共に何度かデジタルソフト化されており比較的知られた作品ではないかなと思います。

スーパー8は約30分(240メートル)のダイジェスト版。フィルムの劣化(ビネガーシンドローム)が始まっている状態でしたが傷や汚れは少なくスキャンには耐える状態でした

華族の娘として生まれ戦前に美人女優として鳴らし、一時期は自身のプロダクションまで有していた入江たか子さんが戦後、相当の覚悟をもって本作に挑んだ話は良く知られています。古くからのフアンの中には複雑な思いで見た方も多かったのではないかと思います。

一時期(1960年代〜70年代初め)の海外でも古典映画期の女優をホラー映画に出演させるのがブームになったことがありました。ベット・デイヴィスの『何がジェーンに起こったか』(1962年)に始まりバーバラ・スタンウィック(最後の映画出演となった1964年『夜歩く者 The Night Walker』)やヴェロニカ・レイク(1970年の遺作『肉体の宴 Flesh Feast』)、エリザベス・テイラーの『夜をみつめて』 1974年)と錚々たるメンツが並んでいます。

制作視点からすればホラー映画の固定フアン層以外の注目を集め、比較的低ギャラで経験値の高い女優を使えたことにもなります。『怪談佐賀屋敷』と完全に重なる訳ではないものの、発想はリンクしている気がします


[原題]
怪談佐賀屋敷

[公開年]
1953年

[JMDb]
怪談佐賀屋敷

[IMDb]
Kaidan Saga Yashiki

[メーカー]
ライリー/大映

[メーカー記号]
日本名作劇場 T-343

[フォーマット]
Super8、240メートル、31分(24fps)、白黒、光学録音

1926年 – 阪東妻三郎主演『幕末』(阪妻プロ 、宇澤芳幽貴監督)説明本・出版者不明


「阪東妻三郎関連」より


彼の武士は、いよいよ圖に乗つて亂暴を働いて居る、此有様を見た兵之助は忽ちムツと怒り出し「ヤア無禮な奴である。場所もあろうに斯る遊里の巷で亂暴を爲すとは男らしくもない奴じゃヨシ俺が取つ締めてやるぞ」と猛然として進み寄つたる兵之助は彼に近寄ると見る間に、ドツと背ひ投げを喰はしてしまつた。其勢に恐れて始めの勇氣は何處へやら鼠の如く小さくなつて人込みの中へ逃げ込んでしまつた、兵之助はカラカラと打ち笑ひながら其場を立ち去つて行った。そして神前組の所へ歸つて來た。隊長の近藤勇は彼を読んで何事か密儀を始めた。兵之助の妻の綾は後妻であつたそして先夫との間に出來た一人娘を連れて兵之助の許へ來たのであるが其の連れ子の娘が何者かに誘かいされて行方不明となつたのでお綾は毎日夫れを氣に病んで悲しい日を送つて居る[…]。


阪妻プロの初期作の一つ(第8作目)で『蛇眼』の次作として公開された作品。先日紹介した東亞の『傷魂』と同じ発行者と思われる小型サイズの解説本です。

『雄呂血』で助監督を務めた宇澤芳幽貴が初めて監督に挑戦。また松竹の特作映画(『修羅八荒』『孔雀の光』)で注目を集めていた新進女優・五味国枝が初めて阪妻と共演した一作でもあります。


[JMDb]
幕末

[IMDb]
Bakumatsu

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

1926 – 高木新平・生野初子主演『傷魂』(東亜キネマ、長尾史録監督)説明本・出版者不明



京傳は、遂に此の玄右衛門を暗殺して仕舞つた、其後に残されたのが伜の銀之助である、『あゝ我が父を殺したのは京傳である、『彼れを討ち取つて父の仇を返さなければならぬ』とさまざまに苦心して居たが却つて京傳に覺られて已に危くなつて來たのを、京傳の娘なる彌生のために計らずも、助けられたのが妙な縁となつて、二人は仇同士の子と子でありながら、戀と戀との不思議な運命の仲となつてしまつた。


1926年に出版された豆本サイズの解説本で出版者の記載はなし。表紙を開くと写真が一枚あって、次ページに配役一覧、その後文章が7頁続いていきます。同時に公刊されたと思われるものを他に2冊所有しており、他に東亜の『南蛮寺の怪人』『強狸羅』が出ていたのも確認しています。

天草四郎の乱を背景とし、島原藩での権力争いに巻きこまれる形で仇の子供同士である相馬銀之助(高木新平)と久利部彌生(生野初子)が戀に落ちていく…の展開となっていきます。

物語のさわりの部分だけを紹介したものでこの後銀之助と彌生にどのような運命が待ち受けているのかは分からないままです。体裁、内容的にみて市販されたものではなく、客の興味を引くため映画館が宣材として配っていた非売品かなの印象があります。


[JMDb]
傷魂

[IMDb]
Shokon

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

ダマール・ゴドウスキー、1930年代後半の直筆書簡 Dagmar Godowsky (1897 – 1975) 露/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より


本当にとても傷ついております。カクテルパーティーにご招待したのはキプリン氏に引きあわせようと思ってのことで、「後で連絡するよ」と仰ったにも関わらずその後は梨のつぶて。何があったのですか。来週は船旅の予定となっているため、確実に連絡のつきそうな日曜の早い時間帯に電話くださいね。貴方の怠慢にもめげぬ温かい心持ちをこめてダマール・ゴドウスキー


I am really very hurt. I invited you for cocktails to meet Kiplins and you said you would let me know, but never a word ! What happened ? I am sailing next week so do call me sunday early that will be the best time to reach me. In spite of your neglect warm feelings Dagmar Godowsky


1920年代にニタ・ナルディやヴァレスカ・スラット等と並ぶエキゾチックな女優として評価を得ていたのがダマール・ゴドウスキーでした。名ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーの娘として生まれ、第一次大戦開戦後に父と共に合衆国に移り住みました。

映画デビューは1919年で、アルベール・カペラーニ監督がナジモヴァを主演にして撮ったハリウッド無声版『紅楼夢』(邦題『赤き灯』)でした。翌年からユニヴァーサル社作品に出演するようになり、同社の花形男優のフランク・マイヨと結婚。1922年にはロン・チェイニー主演作『狼の心』ヒロインを務めました。

フォトプレイ・マガジン 1922年6月号

その後ヴァレンチノ主演作の『情熱の悪鬼』(1924年)などに妖婦・ヴァンプ女優として登場、1920年代末には映画業界から離れ、社交界でその存在感やユーモアに長けたコミュニケーション能力を発揮していくことになります。

今回入手した書簡は(以前に紹介したサンドラ・ミロワノフ宛と同じく)仏ジャーナリストのルネ・ブレステ氏に送った一通。パーティーの招待をスルーされたダマールさんが恨み節を交えて再度連絡するよう迫った内容。シャンゼリゼ通りのカールトン・ホテルの専用便箋が使われています。


[IMDb]
Dagmar Godowsky

[Movie Walker]
ダマール・ゴドウスキー

<[出身地]
ロシア(ヴィルナ、現リトアニア)

[誕生日]
11月24日

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

1924 – 榎本書店の活動文庫

1921〜22年にキネマ文庫(A6:14.8×10.5㎝)を扱った後、榎本書店は「活動文庫」という豆本サイズ(A7:10.5×7.4㎝)の薄い説明本を公刊していました。今回4冊をまとめて入手。いずれも大正13年(1924年)8月15日に出版された初版です。ページ数は32で文章は吉田絶景氏。

『キッド』The Kid、1921年、チャールズ・チャップリン監督)

『血と砂』Blood and Sand、1922年、フレッド・ニブロ監督、ルドルフ・ヴァレンチノ主演)

『十八日間世界一周』Around the World in Eighteen Days、1923年、ウィリアム・デズモンド主演)

『ハリケンハッチ』Hurricane Hutch、1921年、ジョージ・B・サイツ監督)

日本で公開された洋画のシナリオを翻訳したキネマ文庫は、いささか毛色の変わった文庫本である。定かではないが、外国映画関係の文庫本としてはこれが濫觴となるのではないだろうか。

一九二〇年(大正九年)に三つの新しい映画会社が誕生したのだが、そのなかの一社である大正活映ではアメリカ映画を輸入配給していた。この時代に日本で輸入・公開されたアメリカ映画のシナリオを翻訳したものが、キネマ文庫である。手元にあるのは一九二四年(大正十三年)一月十日発行の『ブライド13』第七版(初版一九二一年十月二十日発行)と、一九二三年四月十日発行の『白馬の騎手』(初版一九二二年二月十日発行)の二冊。意外に版を重ねているのだが、装丁は紙装で、表紙も本文もほとんど藁半紙に近い粗末な紙質である。扉の次に二枚の口絵があり、次に映画の便概、主要人物及び俳優名、目次、本文と続く。

『文庫博覧会』(奥村敏明、青弓社、1999年)

キネマ文庫以前にも映画関連の「文庫」や「叢書」はありましたし、「シナリオを翻訳」というのは少し違う気がします。それでも1990年代に榎本書店に言及していた点で重要な一文かな、と思います。

最近では2015年には東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)で「シネマブックの秘かな愉しみ」が開催され、本地陽彦氏の旧蔵本である貴重なジゴマ本や、榎本書店が1910年代に出版していた連続活劇物『名金』『拳骨』が展示されていました。

また2013年に早稲田大の『リテラシー史研究』第6号で発表された論文(「映画と小説の異種混交メディア:大正期映画物語本」)を確認するも学術論文は他になさそうでした。SP盤による音声劇を含めた大正期ミックスメディアの全貌は未だ深い闇に包まれています。

マルコ・ド・ガスティーヌ、昭和2年(1927年)の直筆書簡 Marco de Gastyne (1889 – 1982) 仏

「『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』[La Merveilleuse vie de Jeanne D’Arc, 1929]」より

貴殿の手紙を此の地にて受け取ました。仕事の都合でまだ2、3週間程足止めの予定です。巴里に戻り次第電話にてご連絡させていただきますので、待ち合わせの日取りを決めつつ面白そうな話でも出来たらと思っています。ご不在やむなきようであれば次に巴里に来られる予定日を教えていただければ調整させていただきます。

親愛なる
マルコ・ド・ガスティーヌ

Cher ami,
Votre lettre m’atteint ici, où mon travail me retiendra encore une ou deux semaines. Aussitôt que je serai à Paris, je vous appellerai au téléphone, pour que nous prenions rendez-vous et que nous parlions de ce qui vous intéresse. Si vous devriez alors être absent, avertissez-moi de votre prochain passage à Paris, et espérons que nous pourrons nous atteindre.
Croyez-moi, cher ami, bien sincèrement votre,

Marco de Gastyne

マルコ・ド・ガスティーヌ監督が作家ポール・ブラック(Paul Brach、1893-1939)に送った手紙。1927年8月18日付、仏メッツ市のレジーナ・ホテル専用便箋を使用しています。

◇◇◇

映画監督として知名度を上げる以前、1910年代のガスティーヌは画家として成功を収めていました。

昨日午後、芸術アカデミーは芸術学校に於いて会合を開き画家を対象としたローマ賞選考を行った。栄誉に浴したのは以下の者である。
ローマ賞グランプリ:コルモン氏に師事したド・ガスティーヌ。[…]
マルコ・ド・ガスティーヌ氏は1889年生まれ。前回の仏芸術サロンで第3位となり、1909年度の芸術学校のデッサン部門で優勝、今年度は人物画の部門で準優勝を果たしている。

『十九世紀』紙1911年7月24日付

L’Académie des beaux-arts s’est réunie hier après-midi, à l’Ecole des beaux-arts pour le jugement du concours du prix de Rome (peinture). Elle a décerné les récompenses suivantes:
Grand prix de Rome, M. de Gastyne, élève de M. Cormon […].
M. Marco de Gastyne est né en 1889; il a obtenu une troisième médaille au dernier Salon des Artistes français; et à l’Ecole des beaux-arts, la grande médiaille d’esquisse en 1909, et cette année, une 2e médaille de figure (expression).

Le_XIXe_siecle-gastyne
『十九世紀』紙1911年7月24日付

人物画、風景画どちらも得意としており特に北アフリカの景色を好んで描いています。大戦中には雑誌の表紙や書籍挿画を手掛けるようになり、終戦後に絵筆を置いて映画界に参入。当時力をつけていた映画プロデューサー、ルイ・ナルパの制作した千夜一夜風奇譚『戀のスルタン』(1919年)のデザイン担当でした。

sultane-de-l_amour
『戀のスルタン』(1919年)より

何よりアルジェリア。南アルジェリアとサハラアトラス山脈。人生で一番贅沢な時間を過ごした場所で沢山の思い出があります。大地や地元民の荒々しさ、豊かな蜃気楼、ありとあらゆるものが前代未聞のレベルなんです。

(ラ・ラペル紙1927年6月3日付「マルコ・ド・ガスティーヌ」インタビュー)

Mais surtout l’Algérie. L’Algérie du Sud, l’Atlas saharien. C’est là que j’ai passé les heures les plus copieuses de ma vie, celles qui ont fécondé mes souvenirs. Cette région-là est inouïe, par la rudesse de son sol et de ses habitants, par sa richesse en mirages, par toutes sortes de choses.

(La Rappel, 3 juin 1927, Intimité: Marco de Gastyne)

このインタビューを読むと『戀のスルタン』に絡んだのは必然だったのかな、の気がします。自身が監督を手掛けた初期作品(1922年『インシャラー』、1923年『南の地平』、1926年『レバノンの女城主』)も同様で、何らかの形でアラブ世界と接点を持っていました。

la-chatelaine-du-liban
『レバノンの女城主』(1926年)。GPアーカイヴ(旧ゴーモン・パテ・アーカイヴ)所蔵プリント

『レバノンの女城主』からは大手パテ・ナタン社に拠点を移します。映像美、海外ロケの経験値、監督としての人望と将来性などを買われ『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』監督に抜擢。オルレアンの戦闘ではロシア流の速いモンタージュ術を組みこんだ圧倒的な表現を展開していました。

La Merveilleuse Vie de Jeanne D'Arc 08
『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』(1929年)より

30年代となり波止場のサーカスを舞台とした人情劇『麗しき悪女』(Une belle garce、1930年)、アラスカを舞台にした西部劇『彷徨える獣』(La Bête errante、1931年)でトーキーに挑戦。それまでのアフリカ指向とは大きく趣を変えているものの、エキゾチックな異世界への憧憬という点で初期作品の延長と見る事ができます。

1930年代半ば短編ドキュメンタリー監督に転向し1960年代まで撮り続けました。現在の映画史上の扱いは不当なまでに低いものの、『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』『麗しき悪女』『彷徨える獣』の3作品が9.5ミリ形式で市販されていたのは同時代の評価が高かった証です。

[IMDb]
Marco de Gastyne

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月15日

1930 – 9.5mm『麗しき悪女』(Une belle garce、マルコ・ド・ガスティーヌ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』に次いで製作されたガスティーヌ監督初のトーキー作品。英9.5ミリ版は無声で英語字幕入り。

舞台は波止場で営業を続けている小さなサーカス一座。猛獣使いのラバス(ガブリエル・ガブリオ)は妻子ある立場にも関わらず新入りの娘ロゼッタ(ジーナ・マネス)に惚れ上げてしまいます。ところが女はラバスの息子レオに色目を使い、ラバスの心は乱れるばかり。ある日のショーで、ロゼッタに良い所を見せようとライオン二頭を相手に無理な芸を披露したところ…と続いていきます。

Une-belle-garce-sample02

曲芸団を舞台にした不貞と愛憎のドラマとしては1925年のドイツ作品『ヴァリエテ』が有名です。『ヴァリエテ』が生々しい欲望を劇的に描き上げていたのと比べると『麗しき悪女』はウエットなメロドラマ感が強く出ています。また幾つかのサイドストーリーが展開されていて、そちらに監督の趣味性が色濃く反映されています。

1)野生動物への愛着:

ガスティーヌは1932年にはパテ社を離れ短編ドキュメンタリーを撮り始めます。この時に多く主題とされていたのがアフリカの野生動物でした。『麗しき悪女』に登場するサーカス一座の猿やライオンはこういった監督の個人的な好みを反映したものです。

2)映像デザインとしての照明

画家として名を上げ、デザイナーとして映画業界に関わりはじめたガスティーヌにとってセットやコスチュームのデザインは大きな意味を持っています。『麗しき悪女』は照明を上手く使った構図が幾つか見られました。

サーカス一座の踊り子がダンスを披露する場面や、猛獣使いがライオンと対峙する場面では照明が画面上でキラキラする効果を強調しています。

3)女優の選択

中年男の心を狂わせる「美麗な悪女」を演じたのは演技派ジーナ・マネス。ガスティーヌ旧作で主役を張ってきた女優は古風なタイプが多いのですが、本作には自由奔放で気の強い新時代の女優を抜擢、フェミニズム的な流れを多分に意識した配役でもあります。

Une-belle-garce-sample01

一方で踊り子としてシモーヌ・ジュヌヴォワも出演。彼女自身がこの時期の書簡で「モダンな女性を演じたい」と語っていて、ガスティーヌが願いを叶えてあげた形になっています。上の写真で二人並んで踊っている右側がジュヌヴォワです。

Une-belle-garce-sample08

以前に『恋山彦』の投稿で触れたように無声映画からトーキーへの移行期はカメラの移動が重くなり今見るとぎこちない印象を与える作品が多かったりします。『麗しき悪女』にもその欠点は見られ、トーキー肯定派と否定派が激論を交わしていた1930年のフランスで賛否両論を引き起こしていました。正直どちらの言い分も分かるのですがそれでもガスティーヌ監督の個性やセンスは随所に見て取れると思います。

[タイトル]
Jealousy in the Circus

[原題]
Une belle garce

[公開年]
1930年

[IMDB]
Une belle garce

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB846

[9.5ミリ版発売年]
1937年5月発売

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無

1923 – 9.5mm サンドラ・ミロワノフ主演『聖女ベアトリクス伝説』 (ジャック・ド・バロンセリ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix

映画を倫理教育に活用していこうとする発想は古く、欧米では早くから宗教的テーマを扱った作品が製作されていました。1920年代フランスでも例えば『聖テレーズ伝説』(La vie miraculeuse de Thérèse Martin、1929)やルルドの奇跡譚を扱った『聖ベルナデット伝説』(La vie merveilleuse de Bernadette、1929)が公開されています。

今回紹介する『聖女ベアトリクス伝説』も同様の傾向を持つ作品ですが、サンドラ・ミロワノフやエリック・バークレー、シュザンヌ・ビアンケッティら有名な俳優を配することでより広い客層をターゲットに入れています。

時は13世紀、若い修道女が幼馴染の領主と再会、恋愛感情から修道院を脱走。世俗の幸福を手に入れるもやがて現実(夫の不貞、子供の病死、貧困)に打ちのめされ、無一文で修道院に戻った所…と続いていくのがメインストーリーです。シャルル・ノディエの短編を下敷きにしていますがキリスト教社会では古くから知られた伝承です。

1910年代にはドイツのマックス・ラインハルトがマリア・カルミ主演で舞台化し、後に同女優の主演で映画化(『奇蹟』)されてもいます。『奇蹟』と『聖女ベアトリクス伝説』 は対照的な作品で、前者が視覚的な訴えかけを重視しているのに対し、後者は伝説の流れを丁寧に追おうとしています。

以前に『氷島の漁夫』でも触れたようにバロンセリ作品は個々の構図を見ると勝れているのに映画としては冗長に流れる欠点があります。好みの問題と言えなくもなく、一続きのストーリー感のある聖女伝としてはこちらの方が分かりやすいかもしれません。

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix
Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix (1923, Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathé Version

[タイトル]
La Légende de soeur Béatrix

[公開年]
1923年

[IMDB]
La Légende de soeur Béatrix

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
986

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 20m×4巻 ノッチ有

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

1939-sandra-milowanoff-handwritten-lettr-01
1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。