モード・ロティ Maud Loty (1894 – 1976) 仏

「フランス [France]」より

Maud Loty Inscribed photo

1910~1930年代に人気のあった舞台系の役者/パフォーマーさん。

黒髪のおかっぱ、やや垂れ目気味、ぺったんこの鼻の童顔に大きなリボン姿…フランスの芸能界であまり見ないタイプの個性派で、当時は同性の支持も多く集めていました。キャラの立ち具合が絵描きたちの心をくすぐった様で多くのイラストが残されています。

芸歴は長く1910年代から「ロティちゃん(la petite Loty)」として親しまれ舞台に立っていました。子役として映画にも出演しており、10年代半ばにコメディ短編連作の主演を務めています。パテ社映像アーカイヴには『リガダン君ジプシーになる(1911年)』に端役で出演した動画が残されていました。

『リガダン君ジプシーになる』
Maud Loty in Rigadin Tzigane (1911) Ⓒ GP Archive

見ていれば分かると思うんだけど、舞台が好きなのはどの一瞬も戦いだから。毎晩毎晩、神経をすり減らして、いつも違うお客さん相手に、しかも最初は全然好意的でない連中まで次第に盛り上げて手に入れる勝利感が好きなの。

最初に響き渡る「ブラボー!」は雪解けの季節、音を立てて最初にパチンと割れる氷みたい。あの瞬間に舞台を我が物にした感があって、さらにもっと、もっと…演技に没入していく。

まぁそういうお仕事なのです。

でも映画だと自分がスクリーン上で行ったり来たり、セリフを言って、それが上手く回ってないのにやり直しできないなんて…いやいや無理、考えただけでゾッとする。自分の出ている映画を見にいく勇気はないかな、がっかりするのが怖いもの。(「モード・ロティ孃トーキーに挑む」シネモンド誌 1931年1月15日号)


Voyez-vous, ce que j’aime dans le théâtre, c’est cette lutte de tous les instants, cette victoire qu’il faut remporter chaque soir, avec ses nerfs, devant un public nouveau, parfois hostile au début, et qui peu à peu s’anime…

Le bruit des premiers bravos, c’est comme la glace qui craque à l’époque du dégel. A ce moment on sent que la salle est prise et l’on en met pour qu’elle le soit encore plus.

Ca, c’est du travail.

Tandis qu’au cinéma, quand je pense que je vais me voir aller, venir et parler sur l’écran et que si ça ne colle pas il me sera impossible de retoucher, non! voyez-vous, rien que d’y penser, j’en ai la tremblote, et je crois bien que jamais je n’aurai le courage d’aller voir mon film; j’aurai trop peur d’être déçue. (« De la scène à l’écran : Maud Loty va faire du cinéma parlant » , Cinémonde. 15/01/1931)

1930年代トーキーの時代に再度映画主演(『即興息子 Le fils improvisé』)のオファーが回ってきます。最終的にはヒロイン役を降りてしまったものの、映画についての考え方を聞けただけでも興味深いインタビューとなりました。

[IMDb]
Maud Loti

[Movie Walker]


[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月19日

ゴンバセージ・フリーダ (Gombaszöghy/Gombaszögi Frida, 1890 – 1961) と『私は死にたい』(1918年、アンタルッフィ・シャーンドル監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(02)

1890年生まれ。1909年演劇学校卒業後に舞台女優の活動を始め、1910年代中盤にかけ知名度を上げていきます。1916年にコメディ劇場(Vígszínház)付き女優となり、翌年から主役が付き始め以後1933年まで同劇場花形として活躍します。

コメディ劇場(Vígszínház)と契約後 初めて「演劇生活」誌表紙を飾った1916年第8号(2月)

同劇場で花形となり
「演劇生活」誌1917年第1号の表紙を飾る

1918年末、アンタルッフィ・シャーンドル監督・主演作
『ボディガード(A testõr)』でヒロインを務める

1919年に一青年による襲撃を受け、顔面部を撃たれるという事件の被害者となりました。著名な整形外科医エルネー・ラースローによる施術で傷はほとんど見えない状態まで回復しましたが、しばらくの間休業を余儀なくされます。事件当時、『演劇生活』誌では「病気による数ヵ月の療養」と説明されており襲撃の事実は伏せられていました。

1922年にハンガリー新聞業界の大物ミクローシュ・アンドール氏と二度目の結婚。同氏が1933年に亡くなった後に事業を引き継ぎ女優業から一旦は引退。戦後になって演劇活動を再開し1961年に亡くなっています。

1917〜20年にかけ数作の映画に出演。確認できる限り最も古い出演作はマイケル・カーティスの初期作『Farkas』(1917年)。その後レックス映画社(Rex Filmgyár)で無名時代のポール・ルーカス(Lukács Pál)と共演。1918年に公開された『私は死にたい(Vorrei morir)』が現存しハンガリー国立映画協会がVimeoで公開しています。舞台色の強いメロドラマながらバストショット〜クローズアップでの感情表現は質が高く見るべきものがあります。

[IMDb]
Vorrei morir

[Hangosfilm]
Vorrei morir

ベルト・ボヴィ Berthe Bovy (1887 – 1977) ベルギー 大正10年のサイン絵葉書と明治43年の主演作『ダビデとゴリアテ』

「フランス [France]」より

Berthe Bovy 大正10年直筆サイン入り絵葉書

1900年代中盤にシャルル・ル・バルジの元で演劇を学び、コメディ・フランセーズ入りして舞台デビュー。美人女優として話題を呼び、雑誌の表紙を幾度となく飾りました。20年代にはコクトーやコレットなど当時の文壇の最先端と交流を重ね、存在感を増していきます。

1960年代までの長いキャリアを持つ舞台女優さんですが、第一次大戦前(1908-14)には映画にも多く出演していました。有名な『ギーズ公の暗殺』(1908年)ではまだ端役だったもののすぐに主演がつくようになり、旧約聖書を元にした『ダビデとゴリアテ』(1910年)は後に9.5mmフィルムでも市販されています。

明治期の作品でもあり、野外の寸劇を収めたような粗い仕上り。本来は男であるダビデ王を女優が演じているためか不思議な倒錯感があります。

[IMDB]
nm0100664

[誕生日]
1月6日

[出身]
ベルギー(リエージュ)

[サイズ]
8.6 × 13.7cm

[コンディション]
B+