1916 – 「活動繪もの語:呪の列車」(『飛行少年』大正5年12月号所収、日本飛行研究會)

大正五年に日本で公開された『呪の列車』はキネマ文庫(榎本法令館)など当時の説明本文庫で取り扱われることはありませんでした。唯一、子供向けの読み物雑誌として人気のあった「飛行少年」誌の大正五年十二月号に「繪もの語」版6頁が掲載されています。

« The Juggernaut : Moving Picture Illustrated Story »
(1916 Illustrated adaptation for children, published in
« Hikou-Shounen [Flying Kids] » 1916 December Issue)

十章構成で紙数の都合上一部の設定(ルイズの母親をめぐる三角関係など)が削除されています。12点含まれている挿画は大正期に『科学畫報』『飛行少年』『幼年畫報』で活躍したイラストレーター・川目逹の手によるものです。

結末部の数枚は左右反転になっています。先日の投稿で触れた米Those Awful Reviewsでは『呪の列車』のロビーカード画像の左右反転例が紹介されていました。イラストレーターに渡った資料画像が元々反転していた、の仮説が成り立ちそうです。

1916 -『活動之世界』 大正5年(1916年)12月号より『呪の列車』関連記事

『呪の列車』は元々ヴァイタグラフ社が新たに立ち上げたブルーリボンレーベルの第一弾として製作・公開されたものです。ブルーリボンは4巻物以上の(当時の基準としては)尺の長い「特作長編」に特化した制作会社の位置付けをされていました。

本国では1915年3月7日にプレミア上映、翌4月に一般公開開始。日本では一年半遅れの大正5年(1916年)10月11日に淺草電氣館で封切られています。

まだ『活動画報』や『キネマ旬報』はありませんでした。雑誌では老舗『キネマ・レコード』があって、それに対抗すべく『活動之世界』が創刊されたのが大正5年。同年10月号で『呪の列車』が紹介されたと思われるのですがこちらは未見で、2ヶ月後の12月号に関連記事を二つ見つけました。

「アニタ・ステアート嬢の消息」

電氣館に上場された『呪の列車』にラスキン嬢、ルイズ嬢の二役を演じたアニタステアート嬢は、ヴアイタグラフ社撮影所の近くに、嬢のお母さんと弟と三人で住んで居る。

[…] 嬢の人氣をよんだヒルムは『女神』と『森の中のすみれ』とで今春以來風邪がもとで、嬢の氣分はあまり勝れなかつた。そして一月前までは、病氣の爲に、暫く休んで居たが、やつと快復して再びヒルムを撮ることになつた。

嬢の相手役は、アール、ウヰリアム氏で、氏は本年三十六歳、米國キネマ界の人氣俳優である。嬢の二十一歳の花盛りと相俟つて、その撮つたヒルムは人氣をよんで居る。

最近報ずるところによれば嬢は一週間一五〇〇弗(三千圓)の給料を得て、メトロ社へ移つるといふ。

「アニタ・ステアート嬢の消息」まこと
『活動之世界』1916年12月号

「映畫新舊譚」

外國の活劇や人情劇の中に、本物の列車が衝突したり、鉄橋から墜落したりする場面がある。現に、十月十一日から淺草電氣館に上場された米國ヴアイタグラフ社の『呪の列車』の最後の場面に、三臺の客車から成つてゐる列車が、腐れ鐵橋の上から河中に墜落する所がある。

[…] 列車の衝突、墜落等にも、活動寫眞が始まる以前から、米國には老朽の汽車を買ひ受けて之を衝突させたり、墜落させたりする商賣をしてゐる人がある。それが、現今では活動寫眞業者間に流行して來て、前期の樣な場面を撮影しなければならない時は、古い汽車を買ひ受けて、何月何日午前幾時から何處に假設の鐵道、鐵橋を設けて、衝突或いは墜落をせしめる、と云ふ辻ビラを街の隅々迄も貼り附ける。一人の觀覧料は五十銭から一圓位迄であるが、物見高い米國人の事であるから、忽ち數千の人々が集つて來る。それで莫大な觀覧料が得られるさうである […]。

「映畫新舊譚」四影生
『活動之世界』1916年12月号

アニタ・スチュワートは大正4~5年頃(1915〜16年)から日本の活動愛好家に知られるようになっています。大正7年(1918年)にヴァイタグラフを退社、メイヤーの援助を受け自身の映画会社を立ち上げるものの思った成功を収めることはできませんでした。それでも大正8年(1919年)の『活動之世界』誌人気投票では全体で36位、海外女優で21位に入っています。日本でも一定数のフアンを抱えていた訳で、そういった人々は少なくとも『呪の列車』の名を知っていたと思われます。

1920年代になると映画界の勢力図は大きく変わり愛好家も入れ替わっていきます。大正10年(1921年)7月に発行された『活動花形改題 活動之世界』のヴァイタグラフ社沿革紹介で、アニタ・スチュワートは「かつての花形」の位置付けになっています。5、6年間で過去の扱いとされ作品を見たことのない人々が多数派となっていくのです。流行の慌ただしい変遷に紛れ『呪の列車』の記憶は日本でも失われていきました。

大正5年 (1916年) マックス・マック編著『ザッペルンデ・ラインヴァント(活動寫眞)』

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「ザッペルンデ・ラインヴァント(Die Zappelnde Leinwand)」は「躍動するスクリーン」の意味合いで、1910年代のドイツ語圏でムービング・ピクチャー(活動寫眞)の訳語に使われていたようです。しかし早くから映画(Kino)の言葉が定着していたこともあり、実際には普及することなく消えていきました。

本書は1916年に発表された映画界の紹介本。映画監督・俳優として人気のあったマックス・マック(以前に1912年の 『コレッティを探せ(Wo ist Coletti?)』8ミリ版を紹介済)が編纂したものです。後に『ヴァリエテ』監督として世界的な名声を得るE・A・デュポンが執筆者一覧に名を連ねています。

この書籍が出版された頃は第一次大戦が激化しており、それまで人気のあったアメリカやフランス製の映画輸入が途切れています。ドイツ映画界は自給自足で回していかざるをえなくなりました。次第に花形俳優たちが現れていき、後の1920年代全盛期の基礎を築いていった時期に当たります。

グラスハウス・スタジオの様子や、撮影時にスタッフが守るべきマナーなど製作者目線の記事が見られる一方、新たにドイツ映画界を輝かせている俳優たち(ミーア・マイ、ハンニ・ヴァイセ、エルナ・モレナマリア・カルミヘラ・モヤ、リタ・サチェット、レッセル・オルラマリア・オルスカ)の紹介が行われています。

映画産業がようやく形を取り始めたこの時期、「映画論」の発想はまだありませんでした。それでも監督や脚本畑の人たちを中心に状況を改善しようとする動きがあって、一つの大きな転換点が1919年の『映画製作論(Wie ein Film geschrieben wird und wie man ihn verwertet)』だとされています。同書の著者は『ザッペルンデ・ラインヴァント』にも参加していたE・A・デュポン。その意味で本書は「映画の理論化」を生み出していく大きな流れの一部だったと見る事もできます。

[原題]
Die Zappelnde Leinwand

[出版者]
アイスラー&Co.(ベルリン)

[出版年]
1916年

[フォーマット]
ハードカバー(紙カバー欠)、144頁

大正5年 (1916年) パール・ホワイト主演『陸軍のパール』&エラ・ホール主演『マスター・キイ』仏語小説版

「パール・ホワイト関連 [Pearl White Related Items]」より

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1916年末に公開された連続活劇『陸軍のパール』の仏語小説版。1914年公開『マスター・キイ』と2in1の形で出版されたものです。10冊発売された冊子を合本にしたハードカバー特装版。

パール・ホワイトの連続活劇の流れは1914年『ポーリンの危難』に始まり、同年末から15年の『拳骨』、16年『鉄の爪』、17年『運命の指輪』、18年『家の呪い』へと続いていきます。本作品『陸軍のパール』は『鉄の爪』と『運命の指輪』の間に位置、公開時はかなり話題を呼んだようで、フランスだけではなく日本でも法令館キネマ文庫から小説版(1921年)が出ていました。

肝心のフィルムの大半は遺失したとされており全体像を知ることはできなくなっています。ヒロインが潜水服をまとっているスチル写真が有名であるにも関わらずどのような文脈で登場してくるのか分からない謎多き作品。


連休中に『拳骨』を読んでいる最中でこちらまで目を通している時間はなさそうなのですが、写真やキャプションを追っていったところ:

・前半は『拳骨』と同様に謎の悪党一味(静かなる脅威団 ”Silent Menace”)が登場してヒロインを危地に陥れる
・中盤以降は軍隊との連携が強調されていく
・各章での派手な立ち回りで盛り上げるのではなく大団円に向けた息の長いストーリー感がある
・潜水服姿のパールは最後の決戦の場面で登場
・全体的に愛国主義色が強い

…という特徴は伝わってきました。最後の愛国主義色はアイリーン・カッスル主演の『パトリア』(1917年)と繋がってくる感じでもあります。
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以前から何度か紹介している『ゾーズ・オウフル・レビュー』は第10章のネガを見つけたようで英語で長いレビューを書いています。またアーカイブ・フィルムの名手ビル・モリスン監督によるドキュメンタリー映画『ドーソン・シティー:凍結された時間』で描かれていた「アラスカ国境近くで土の中から発見された大量の35ミリフィルム」に『陸軍のパール』の35ミリ版が含まれているそうです。
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[出版年]
1916年

[出版者]
ロマン・シネマ社(パリ)

[翻案]
マルセル・アラン

[ページ数]
240頁(陸軍のパール) + 288頁(マスター・キイ)

[サイズ]
16.5 x 23.5 cm

1916 – 9.5mm ダグラス・フェアバンクス主演 『電話結婚』 (The Matrimaniac)

「9.5ミリ動画 05a 劇映画」より

9.5mm Douglas Fairbanks in The Matrimaniac (1916)
9.5mm Douglas Fairbanks in The Matrimaniac (1916)

御なじみの名高いダグラスフエーヤバンクスは彼の獨得の妙技を振って演じた快味湧くが如く姿又眞に迫つた活劇である。彼は絶世の美人マルヂヨリーに戀したけれども父は頑強に反對したのである。彼は決心のほぞをきめてマルヂヨリーを奪ふやいち早く逃げた追急して來る追手からのがれんとして心膽を寒からしむる彼獨得の冒険を犯しつゝ迹け終り逸早く牧師を説得し目出度く結婚すると云ふ血沸き肉躍る活劇である。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

フェアバンクス初期主演作の9.5ミリ版。

1910年代のフェアバンクス短編は後年の長編(『奇傑ゾロ』『ロビンフッド』)と質を異にしています。十数分の枠にお笑いやアクション、恋愛劇をバランス良く詰めこみ物語は勧善懲悪で綺麗にまとまっています。

また新人女優にとって良い登竜門になっていました。ジュエル・カーメン(『火の森』)、アルマ・ルーベンス(『アメリカ人』)、ポーリーン・カーリー(『ドグラスの跳ね廻り』)、アイリーン・パーシー(『ドーグラスの蛮勇』)、マージョリー・ドウ(『ドーグラスの現代銃士』)などがフェアバンクスとの共演を通じて女優キャリアのステップアップを実現していきました。

『電話結婚』はコンスタンス・タルマッジを相手に据えた一本で、ロミオとジュリエットを念頭に「相手の親の反対にも関わらず猪突猛進するドーグラス」を楽しそうに演じています。

[タイトル]
Mariage au téléphone

[原題]
The Matrimaniac

[公開]
1916年

[IMDB]
The Matrimaniac

[メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
10025

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m *2リール

大正6年 (1917年) パール・ホワイト主演『拳骨』仏語小説版

「パール・ホワイト連続活劇 [Pearl White Serials]」より

パール・ホワイト主演による連続活劇『エレーヌの勲功(The Exploits of Elaine)』は、日本では『拳骨』の邦題で紹介され人気を博しました。

先行する『ジゴマ』ほどではありませんが、日本語小説版も幾種類か発行されていて当時の盛り上がりが伝わってきます。

大正5年:『拳骨 : 探偵活劇. 第1編/第2編』 俊碩剣士著 (春江堂書店)
大正5年:『拳骨 : 探偵小説』青木緑園著 (中村日吉堂)
大正5年:『拳骨. 上/』活動の世界社編輯局 [編]

今回入手したのは同時期にフランスで発売されていた仏語小説版です。かの国には新聞連載小説の長い歴史があって、本書も元々はル・マタン紙の附録として20冊の続き物として流布していました。こちらはそれを一巻にまとめたハードカバー仕様。570頁を越える大部な一冊です。

ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard
Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

ヘッダ・ヴェルノンは1912年、映画作りが始まったばかりの時期にデビューした女優さんで、数年で自身の名を冠した会社まで作ってしまう人気ぶりでした。1910年代ま末には俳優エルンスト・ライヒャーが運営していたスチュワート・ウエッブ映画社に所属し、同社を代表する花形として主演作を発表しています。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)
ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日付
スチュワート・ウエッブ社の広告より

大戦終了後にこういった動きは劣勢に回ります。20年代にはハリー・ピール作品の脇役で時折見かける程度になっていました。

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür mit herzlichem Gruß.

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消印は1916年(大正5年)の10月23日。裏面に直筆メッセージ有。宛先はヘンケ・ステグリック嬢となっています。

[IMDb]
nm0894675

[サイズ]
13.6 × 8.7cm