大正8年(1919年)公開 『ぶどう月』 (ルイ・フイヤード監督) 撮影風景写真3枚

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

1919 - Vendémiaire (Louis Feuillade)
1919 – Vendémiaire (Louis Feuillade) 3 photos de tournage

第一次大戦終戦の大正7年(1918年)に撮影され、翌8年(1919年)に公開された劇作品『ぶどう月』撮影中の写真三点。販促用スチルではなく、撮影関係者が内々のやりとりで保管していたもので、ここにある以外現存していない貴重な資料と思われます。

フイヤード監督の作品は1)初期習作(1913年まで)、2)前期活劇(1914~17年)、3)後期活劇と逝去(1922年まで)の大きく三つに分けることができます。

『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『後のジュデックス』など大戦中の作品で仏活劇に旋風を巻き起こした後、戦後からやや作風に変化が見られるようになってきます。『ティーミン』や『バラバス』といった後期作品は、アクションの要素を抑えドラマの流れや一貫性を重視し、さらに幻想色を加えたものに変わっていくのです。

前期から後期への橋渡しとなった作品が『ぶどう月(Vendémiaire)』でした。

この監督は「フイヤード組」と呼ばれた固定メンバーを軸に作品作りを進めるのが常だったのですが、終戦の前後に大きな入れ替えがありました。『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』で存在感を見せたミュジドラ、喜劇の要素を加えていたマルセル・ルヴェスクの二人が一座を離れるのです。その代わりにアジア風の繊細さを持つ女優マリ・アラルドが加入、ルヴェスクの代わりに若い喜劇俳優ビスコが参加します。また『ジュデックス』主役を演じたルネ・クレステもこの後しばらくして『ティーミン』製作後に離脱しています。

『ぶどう月』はマリ・アラルドやビスコが初めて登場したフイヤード作品となります。

『ぶどう月』の物語は、軍隊を離れ、新たな生活を始めようと南仏にやってきた退役軍人(ルネ・クレステ)を軸に進んでいきます。盲目の貴族(エドゥアール・マテ)が所有するワイン園で雇われるのですが、ジプシーと間違われ追い払われそうになっていた貧しい未亡人(マリ・アラルド)を助け、次第にロマンスが生まれてきます。一方では敗走したドイツ兵(ルイ・ルーバ)が身分を偽ってワイン園に潜りこみ、盗みを重ねながらその罪を貧しい未亡人に押しつけようとしていく。未亡人の濡れ衣を晴らすため主人公は…という展開を持つ映画です。

冒頭、主人公はブドウ園の管理人に身分証明書を見せ、雇ってもらうことに成功します。この時ジプシーと勘違いされ雇用を断られた女性に話を聞くと、大戦で夫を亡くしたばかりとのこと、クレステはブドウ園の管理人に話をし、「ジプシーではなく英雄の妻だ」と誤解を解いてあげました。

ゴーモン社所有のプリントでは以下のような映像が続いていきます。

主人公を演じたクレステを中心に、未亡人を演じたマリ・アラルド、管理人を演じたエミール・アンドレを左右に配して撮影されたのが一枚目の写真。作中でマリ・アラルドは頭に布を巻いていましたが、こちらでは首の後ろに下ろしています。

この後悪役ドイツ人が登場、国籍を偽って農園に入りこみ、窃盗を繰り返していきます。途中にベルギー人の同僚が内緒話をしているのを見つけ、小耳を立てる場面がありました。

悪漢を演じたルイ・ルーバを撮影したのが二枚目の写真です。映画では正面と真横からのアングルでしたが、写真は斜め前からのアングルになっています。

03

最後の一枚はカメラマン。『ぶどう月(Vendémiaire)』撮影時に実使用された内の一台と思われます。

いずれの写真も裏側に手書きの説明が付されています。

別投稿で紹介したルネ・クレステ直筆の年賀メッセージ葉書と同じ出所で、1919年頃にクレステと親交のあった関係者が保管していた資料の一つです。

『ぶどう月』は長きに渡る対立を背景とした反独感情や、ロマ民族への差別意識を含みこんでおり、またフイヤード監督が王党派の国粋主義者だった痕跡も見て取れる作品でした。その是非はともかくとして、フイヤード作品史上で重要な位置を占めている作品ですので再評価の機運が高まってほしいと願わずにいられまん。

[IMDb]
Vendémiaire (1918)

コンスタンス・タルマッジ Constance Talmadge (1898 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Constance Talmadge c1917 Autographed Photo
Constance Talmadge c1917 Autographed Photo

 コンスタンス・タルマッジ嬢は、一千九百年四月十九日、米國紐育州のブルックリン市に生れた。一説には一千八百九十九年の四月十九日生れであるとも云ふ。ノーマ・タルマッジ嬢の實妹である。初頭教育はブルックリン市で受けたが、後に紐育市に出て、エラスマス學院に學び目出度く同學院を卒業した。嬢が卒業した頃に姉のノーマ嬢はヴァイタグラフ會社の花形として盛んに世間の人気を煽り、殊に「戰争?滅亡?」の主役を勤めて嘖々たる名聲を博してゐた。その姉の境遇を見て、コンスタンス嬢は少なからず心を動かした。そして自分も如何かして映畫界に身を投じたいと考へて、姉に相談をして見ると、姉も直に賛成したので、何等の舞臺經験も持つてはゐなかつたけれども、早速、姉の周旋に依つてヴァイタグラフ會社へ入社する事になつた。それは一千九百十五年の事で、嬢が恰度十五歳の時であつた。その第一回作品として撮影されたのは「ビル叔父さん」である。

 間もなく、姉のノーマ嬢が同社を退いてインターナショナル會社に移ると、嬢も共に去つてトライアングル會社に轉じ、ファイン・アーツ撮影所に行ってダヴィッド・グリフィス氏の配下に屬する事となつた。嬢が今日の名聲を得るに至つたのは、全く、この時にギリフィス氏の下に行つたからであると云つても可い。なぜなれば嬢の技倆を認めて、その技倆を充分に發揮せしめたのは、グリフィス氏であつたからである。グリフィス氏が豫て人に語った中に、「映畫を有名ならしめるものは俳優ではなくて監督者である。監督者は俳優を有名ならしめる事が出来る。」といふ言葉があるが、コンスタンス嬢は蓋しこの言葉を證明した人であるといつて可い。話は「イントレランス」の製作當時の事であるが、この映畫を製作するに當つて、氏は誰彼の差別なく藝の達者と役柄の相應するのとを標準にして俳優を選んだ。その時、嬢は數多の中から選ばれてバビロン時代の山の娘を勤める事になつたのである。この映畫が先頃帝國劇場に上場された時、嬢の藝風は一部の人々の問題となつた。三友館に上場された「疑問の釦」は姉のノーマ嬢がトライアングル會社に移つて來てから共演したものである。

 その後、セルツニック會社に轉じて十數本の映畫を製作したが、最近、またセレクト會社に移つたといふ。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

『活動名優寫眞帖』の後半にあるようにコンスタンス・タルマッジは1917年にファイン・アーツ社を離れ、セルズニック社に所属を移しています。

丁度この時期に姉のノーマはアメリカでも五本指に入る程の人気女優になっていたこともあり、セルズニックは好機到来と妹の売り出しにかかるのです。この1917年に撮影されたのがややうつむきがちな横顔のポートレート写真でした。

1917年12月6日付 『スキャンダル』宣伝記事
1917年12月6日付
『スキャンダル』宣伝記事

写真は万年筆のサイン入り。裏面に「セルズニック映畫社の新進花形 コンスタンス・タルマッジ」のスタンプが押されています。

”Constance Talmadge New Star om Selznick Pictures
”Constance Talmadge New Star in Selznick Pictures » stamped on the back
Constance Talmadge in Her Sister from Paris (1925)
ロナルド・コールマンと共演した喜劇『亭主教育』(1925年)より

[IMDB]
nm0848226

[Movie Walker]
コンスタンス・タルマッジ

[誕生日]
4月19日

[出身]
合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
19.5 × 24.3cm

[撮影]
Bangs-Selznick Photo

ローズマリー・セビー Rosemary Theby (1892 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Rosemary Theby 1910s Autographed Photo
Rosemary Theby 1910s Autographed Photo

ローズマリー・セビー嬢はセントルイスで生れサージェント演劇学校にて教育を受けた。映畫女優歴の皮切りはユニヴァーサル社であり、同社にて「女が多すぎる」「ボストン・ブラッキーのお友達」「予期せぬ場所」など数多の作品に出演した。アートクラフト社やメトロ映畫社作品にも出演し、現在はメイフラワー印の映画社に所属。趣味は屋外スポーツ全般で、とりわけ水泳に堪能である。嬢は身長五尺五寸、體重十五貫、焦茶色の髪に榛色(はしばみいろ)の瞳を有し、つとに愛書家である。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)
Who’s Who on the Screen (Ross Publishing Co., Inc. New York, 1920)

Rosemary Theby in Who's Who on the Screen (1920)
Rosemary Theby in Who’s Who on the Screen (1920)

「銀幕名鑑」でユニヴァーサルで女優業を始めたとありますが、同社との契約(1915年)以前からヴァイタグラフ社の短編に多く主演・助演を重ねてきた長いキャリアの女優さんです。

Rosemary Theby in The Bachelor's Baby, or How It All Happened (1913)
『The Bachelor’s Baby, or How It All Happened』
(1913年、ヴァイタグラフ社)より

早くから性格俳優の実績を積み上げていき、喜劇から社会派ドラマまで芸域を広げていきます。1918年のグリフィス作品『偉大なる愛』と1920年のハウディニ主演冒険譚『恐怖島』での助演、1919年のエキゾチックな名作『キスメット』でのヒロイン役など時代に流されぬ活動を見せ、トーキー以後も1940年にまで渡る貢献を果たしました。

[IMDB]
nm0857302

[Movie Walker]
ローズマリー・セビー

[誕生日]
4月8日

[出身]
合衆国(セントルイス)

[サイズ]
12.6 × 17.7cm

[撮影]
Hall’s Studio/1456 Broadway/New York

1917-22 忘れじの独り花(18)プリシラ・ディーン Priscilla Dean (1896 – 1987) 米

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Priscilla Dean c1920 Autographed Postcard
Priscilla Dean c1920 Autographed Postcard
フィア・エーマンスさん旧蔵品では数少ないハリウッド女優のサイン物。

第一次大戦中のドイツは経済制裁により(少なくとも表向きは)アメリカ製の映画の輸入が禁じられていました。終戦後、この時期のハリウッド作品が順次公開されていきます。

ハリウッドではビクトリア朝的な女優像からモダンな女性への転換が進められており、1910年代デビュー女優の多くが忘れられていきます。そんな中、コリーン・ムーアやプリシラ・ディーンは少年的な雰囲気もあって上手く時代に適応していきました。

『法の外』(1920年)より
『法の外』(1920年)より

プリシラ・ディーンはトッド・ブラウニング作品の常連として『法の外』(Outside the Law, 1920)など個性を生かした作品に次々と出演していきます。

[IMDB]
nm0212912

[Movie Walker]
プリシラ・ディーン

[誕生日]
11月25日

[出身]
合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
Verlag Ross, Berlin SW 68. 519/3.

1917-22 忘れじの独り花(17)ガード・エゲーデ=ニッセン Gerd Egede-Nissen (1895 – 1988) ノルウェー

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Gerd Egede-Nissen Autographed Postcard
Gerd Egede-Nissen c1920 Autographed Postcard
今までにも数度名前が出てきている北欧の人気女優アウド・エゲーデ・ニッセンの妹に当たるガードさん。エゲーデ・ニッセン家は元々俳優一家で、アウドと妹弟含めて6名が劇の道に進んでいます。

1918年9月7日付ノイエ・キノ・ルントシャウ紙より 主演作『復讐の女神』の広告
1918年9月7日付ノイエ・キノ・ルントシャウ紙より 主演作『復讐の女神』の広告

姉アウドとは異なりガードさんはノルウェーの舞台を中心とした活動を続け、戦後までの長いキャリアを築いていきます。それでも折に触れて映画に出演、当初はデンマークでスィランダと共演を重ね、次いで1918年からは(姉アウドを中心とした)ドイツ拠点のエゲデ・ニッセン映画社作品に出演し始めました。地元ノルウェーに戻って制作された『パン』(1922年)は商業的な成功も収めています。

『パン』(1922年)より
『パン』(1922年)より

[IMDB]
nm0250791

[Movie Walker]

[誕生日]
4月21日

[出身]
ノルウェー(ベルゲン)

[サイズ]
8.5 × 13.4cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser, Berlin Wilm. 7477.
メッセージ面に1916年11月21日に独ケルンでタイプ打ちされた文章有。

1917-22 忘れじの独り花(16)エディット・メラー Edith Meller (1897 – 1953)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Edith Meller c1920 Autographed Postcard
Edith Meller c1920 Autographed Postcard
第一次大戦中の1916年にデビューし1922年頃まで旺盛な活動を見せていたハンガリー出身の女優。

初期はナチオナール映画社やPAGU社作品に多く出演。このうち助演した1917年の « Der feldgraue Groschen »が現存しており、オンラインで動画が公開されています。

« Der feldgraue Groschen »でのエディット・メラー(右端)

1920年にPAGU社で製作された恋愛アドベンチャー『熱国の呪』(Indische Rache)は日本でも公開されています。

Edith Meller in Die wilde Ursula (1918)
キノベジッツァー誌 1918年5月13日付
初期主演作 « Die wilde Ursula » の紹介記事

[IMDB]
nm0577914

[Movie Walker]
エディット・メラー

[誕生日]
9月16日

[出身]
ハンガリー(ブダペスト)

[サイズ]
8.6 × 13.6cm

[データ]
Film-Sterne 133/4. J.Brass

1917-22 忘れじの独り花(15)ヒルデ・ヴェルネル Hilde Wörner (1895 – 1963)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Hilde Wörner c1920 Autographed Postcard
Hilde Wörner c1920 Autographed Postcard

多年の舞臺經歴を有するドイツ知名の名女優で、映画に出演することは頗る稀で僅に數種あるのみです。我國には「王城鬼ボルサモ」が紹介されたのみだが、容姿の端麗、演技の確實なことは優に群少女優を抜いてゐる。

『世界のキネマスター』(1925年)

Hilda-Worner02

カリオストロ侯爵を主役に据えた奇譚『王城鬼ボルサモ』(1920年)で初めて出演作が紹介され、その後『快傑ダントン』(1921年)で日本のスクリーンに再登場しました。

元々はリザ・ワイゼ(Lisa Weise)が抜けた穴埋めでベルリン劇場に雇われたのがきっかけで、すぐに映画社の目に留まり映画女優デビューにこぎつけます。

Hilde Wörner in Danton (1921)
『快傑ダントン』(1921年)より

『快傑ダントン』では仏革命期に権力を持った政治家エロー・ド・セシェルに拾われ、豪華な貴族生活にまぎれこんでいく少女バベットを演じていました。また、日本未公開ながらルビッチのドイツ期最終作として知られる『炎』(Die Flamme、断片のみ現存)でも準ヒロインの扱いで登場しています。

[IMDB]
nm0937339

[Movie Walker]
ヒルデ・ヴェルネル

[誕生日]
11月17日

[出身]
ドイツ(カッセル)

[サイズ]
8.7 × 13.5cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser,Berlin-Wilm. Phot. Zander & Labisch 1219