松井 千枝子 (1899 – 1929)

「日本 [Japan]」より

Matsui Chieko Autographed Postcard
Matsui Chieko 1920s Autographed Postcard

明治三十九年十二月四日東京淺草區駒形で生る。府立第一高女を卒へ舞臺協會に一寸加はり後東京シネマに走り『村の勇者』が處女映畫である。轉じて國活に移り松波美子と名乗り島田嘉七と共に人氣を博してゐた。大正十四年二月突如として妹潤子と松竹に入社し羽振りが好い。國活では『延命院のせむし男』でお仙。松竹では『コスモス咲く頃』『受難華』『地下室』『海人』『俄か馭者』『濡衣』『海の勇者』の主演があり、最近では自分の原作脚色『哀愁の湖』で妹潤子と共に出演し、芸妓千春に扮してフワンを騒がしてゐる。

純日本趣味の藝術的なシンミリしたものを好む。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

お風呂から上つて、涼んでゐると、高松榮子さんが這入つて來た。
「千枝子さん、どうしたんでせう、この頃ちつとも潤ちやん出て來ないけれど…病氣ぢやないかしら…」
「さあ、どうしたんでせうね」
「あたし、明日鎌倉行つてみるわ、もし病氣でもしてるといけないから」
「大丈夫よ、病氣なんかするもんですか、撮影は今無いしするから、海岸で遊んでるんでせうよ」
私は平氣でかうは云つたものゝ、この頃妹が怠けて居るのが心配でならないし、又腹立たしくもなる。
「暑いからねえ、でも…困るわね、ちつとも出て來ないんだから…」
何の氣なしに云つた高松さんの言葉が私の胸に針さゝれた樣に感じた。同じ地位にある女優さん達は一生懸命にせつせと通つてゐるのに、妹ばかりは呑氣な顔して遊んでゐる…苦闘をつゞけてこそはじめて最後の勝利は得られるものを、人は苦しまなければ駄目だと、常日頃考へてゐる私にも、たゞたゞ妹の心持がはがゆくて仕方がない。
早く秋になればいゝ、爽やかな涼風に身を浸して、しんみりとした撮影の出來る日が待ち遠しい。

「撮影所日記」(『女性』1927年10月号)

[JMDb]
松井千枝子

[IMDb]
Chieko Matsui

[出身地]
日本(東京)

[誕生日]
12月4日

[データ]
13.5 × 8.5cm

ラーバシュ・ユーツィ Lábass Juci / Lucie Labass (1896 – 1932) ハンガリー

Lábass Juci / Lucie Labass 1926 Inscribed Postcard
Lábass Juci / Lucie Labass 1926 Inscribed Postcard

ハンガリー出身の女優さんで近々、スペインの煙草売り娘から胡散臭いキャバレーの踊り子へ身を堕としていくアルゼンチニータの役でお目にかかるはずである。映画のタイトルは『麗しのマヌエラ』でクララ・ラツカの小説を基にしている。舞台は南米。

エクラン・イリュストレ誌 1924年9月11日付 第2号

Labass Jucie in La Belle Manuela
Labass Jucie in La Belle Manuela
(L’Ecran illustré 1924 issue 2)

Une artiste hongroise que l’on verra dans le rôle d’Argentinita, cigarière espagnole, devenue danseuse de cabaret borgne. Le film porte le title de La Belle Manuela, d’après le roman de Clara Ratzka. L’action se déroule en Amérique du Sud. (Cliché National Film, Berne.)

L’écran illustré 1924 Issue 2

1910年代後半~20年代前半にハンガリーで活躍していた女優さん。若くして亡くなったこともあり現在では自国でも知られていないのではないかと思います。主戦場は劇場でしたが1915年頃から映画に出演し始め『大地の囚われ人』(A föld rabjai、1917年)、『麗しのマヌエラ』(Die grüne Manuela、1923年)で主演を務めています。

手元の一枚は筆跡にスレが目立つものの1926年のメッセージ&サインが含まれています。

[IMDB]
Lucie Labass

[Movie Walker]

[誕生日]
7月22日

[メーカー]
Élet kiadásairen

[出身]
ハンガリー

[サイズ]
9.0 × 14.0 cm

1928 – 9.5mm 阪東妻三郎主演 『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)

『雄呂血』『影法師』と並ぶ阪妻初期代表作の9.5ミリ縮約版。200mリール二巻仕立て。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。
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前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

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第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

9.5mm版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

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端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5mm版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

[原題]
坂本龍馬

[製作年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ無) 200m *2リール

南部 章三/彰三 (1898 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

Nanbu Shozo 1928 Autographed Postcard
Nanbu Shozo 1928 Autographed Postcard

本名は鴛海正次。日大文學部の出身。流石に文章にかけてはお手のものだけに時々映画雜誌等に稿を寄せて文藝好きなフアンを騒がせている。彼は俳優らしくないそして、最も話せるひととして有名である。己の天分や技藝等を度外視して殊更らに俳優らしさを誇張したがる者の多い現代に、君の如き優しくそして偉大な存在は實に喜ぶべきである。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

本名鴛海正次。明治卅二年、大分縣に生る。日本大學豫科修了後美學部に入り轉じて日本俳優學校に入學し、大正十五年一月、日活現代劇部に入社す。その間シベリヤ出兵の際從軍して勲八等をうく。二枚目を得意とする。主な近作は「見果てぬ夢」「五人の愉快な相棒」身長五尺五寸、體重十五貫三百目。趣味は映畫。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDb]
南部彰三

[IMDb]
Shôzô Nanbu

[出身地]
大分県

[誕生日]
6月26日

[データ]
8.5 × 13.5cm

1926 – 9.5mm『切紙細工 西遊記 孫悟空物語』(大藤信郎)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より


日本アニメーションの創始期、切紙細工アニメによる独自活動を展開した大藤信郎氏代表作の一つ。日本アニメーション映画クラシックス(JAFC)によるデジタル版がすでに公開されています。

JAFC版『切紙細工 西遊記 孫悟空物語』

JAFC版は現存するものとして最もオリジナルに近い16mm短縮版(約8分)を元にしています。伴野9.5mm版はその半分弱程の長さ。

JAFC版は大きく1)三蔵法師の出発、2)孫悟空の弟子入り、3)猪八戒登場と弟子入り、4)沙悟浄登場と弟子入り、5)怪物との闘いと霊山登場、6)経典の受け取りの6つの場面から成り立っています。伴野版は5)が完全にカットされ、天竺に辿りついた時にすでに雄宝殿がそびえている流れになっていました。

しかし伴野版にはJAFC版にはない場面や間字幕も含まれています。三蔵法師と悟空が出会う場面での説明字幕「石の下に五百年 大罰に苦しむ 孫悟空」はJAFC版には含まれていません。また沙悟浄登場の段では、伴野版だとピンホールショット風に沙悟浄が登場し、八戒に近づいて闘いの場面となっており、JAFC版ではこの流れが省略されています。

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ピンホールショット風沙悟浄の登場場面(伴野版のみ収録)

また伴野版で孫悟空、沙悟浄、猪八戒が登場する際の字幕に飾りでシルエットが描かれています。

もう一点大きな違いとして、雄宝殿で経典を受け取る描写がJAFC版と伴野版では左右反転した形となっています。JAFC版では当初は一行が左から右へ進んでいたのに4分ごろから右から左への移動に変わります。コンティニュイティーの視点からすると確かに不自然な気もします(日本人の感覚からすると天竺は西=左にあるイメージなので、16ミリ版の布置も理解できるところではありますが)。

jafc
JAFC版より。三蔵法師一行が左を向いていて、経典を運ぶ竜が右向きに飛翔しています。

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伴野版。向きが左右真逆になっています。
切紙細工のストップモーションアニメは原理上手前から奥へ、あるいは奥から手前への遠近感表現を苦手としていて、左右の水平移動が中心となっていきます。大藤作品では回転や明滅など様々なアイデアを組みこむことで単調さを回避する工夫が施されています。またつぶらな目のキャラクターの愛らしさも印象的。妙に人間臭いのが特徴で、大藤作品独自の「体温」が伝わってきます。
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悟空にあしらわれクルクルと回転する猪八戒

[タイトル]
西遊記 孫悟空物語

[メーカー]
伴野商店

[公開]
1926年

[カタログ番号]
115

[フォーマット]
20m(ノッチ有)×2 白黒 無声 16fps 3分40秒

マリー・オズボーン Baby Marie Osborne (1911 – 2010) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Marie Osborne 1923 Inscribed Photo
Baby Marie Osborne 1923 Inscribed Photo

映畫界に這入つたのは數年前で、最初はパセ會社のバルボア映畫に現はれた。大正六年の春電氣館に上場されたルス・ローランド嬢出演の連續映畫「赤輪」に、オスボーン嬢も姿を見せてゐた。その映畫はバルボア撮影所の製作に係つたもので、恐らく我國に於ける最初のお目見得であつたらうと思ふ。

房々とした髪、晴れやかな頬、明るい無邪気な瞳、そして子供らしい唇、それ等は映畫劇に於ける子役として、最も適當なものであつた爲めに、嬢の出演映畫はその製作の度に多大の拍手をつて迎へられた。その結果、パセ會社は特に嬢を主人公とする映畫を作つた。「可憐なマリー・サンシャイン」「ジョートと龍」「日蔭と日向」「黄昏の物語」「雙兒のキッディー」などがそれである。その頃から嬢はサンシャインという綽名で呼ばれるようになつた。この綽名が示すやうに、嬢の子供らしい無邪氣さには、少しの厭味もなく、唯春の空のやうな明るさのみが感じられる。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1930年代にシャーリー・テンプル、1920年代にベイビー・ペギーやジャッキー・クーガンが名を馳せる以前、無声映画の最初期に子役として人気を博した一人がマリー・オズボーンでした。ヘンリー・キング監督の作品で見せた天真爛漫な演技から「サンシャイン」のあだ名で親しまれていました。

Marie Osborne Le Film, n°116
1918年仏ル・フィルム誌116号の表紙より

1919年には子役を引退、以後裏方として映画産業に関わっていきます(1965年のジャック・レモン主演作『女房の殺し方教えます』衣装担当他)。『活動名優寫眞帖』で挙げられていた『雙兒のキッディー(Twin Kiddies)』など出演作の幾つかが9.5mmフィルムで発売されていた記録が確認されています。

サインには役者業を引退した後の1923年の年号が付されています。この時期の直筆物を他に見たことがなく、役名で使用していた「Osborne」ではなく本名の「Osborn」を使用するなど現時点で紛れあり。

[IMDb]
Marie Osborne

[Movie Walker]
マリー・オズボーン (Marie Osborn)

[出身地]
合衆国(コロラド州デンバー)

[誕生日]
11月5日

[撮影]
エヴァンス L.A.

ネヴァ・ガーバー Neva Gerber (1894 – 1974) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Neva Gerber Autographed Photo
Neva Gerber Autographed Photo

ネヴァ・ガーバー嬢は、一千八百九十五年、米國のシカゴ市に生れた、同地の小學校を卒業をシカゴ聖心女學院に學んだ。その頃から演劇が好きで、學科の中でもピアノには特に秀でてゐた。

學生生活を終ると、暫く両親の膝下にあつて、家事の見習ひをしてゐたが、生來の芝居好きな心は、間もなく嬢を驅つて映畫界に身を投ぜしめた。最初に嬢が這入つたのはカレム會社であつた。同社では「探偵の妹」や「大秘密」などを撮影した。しかし、その頃は未だ大して評判にはならなかつた。カレム會社を去るとバルボア會社に移つて「分離された家」「運命の悪戯」などに出演し、更らにフェーボリット・プレイアー會社に轉じて「高壓手段」を製作した。この映畫はカーライル・ブラックウェル氏と共演したもので、嬢の役はエドナといふ娘であつた。大正五年の四月に東京倶樂部に上場された「總選擧」は、卽ちこの映畫の改題されたものである。嬢の名聲が次第に昻つて來たのは實にこの時代からの事である。

その後、同社を去つてアメリカン會社に轉じ、「雛菊」「各自の心」「家なき人」「母の忙しい日」「アニタの蝶」など數多の映畫に出演した。その中でも「家なき人」は特に評判の好かつたものである。嬢の評判が傳へられるに及んで、幸運な日が続いた。

一千九百十六年の夏、ユニヴァサル會社は辭を低うして嬢を招いた。嬢はアメリカン會社を去つてユニヴァサル會社に移つた。そして「望みなき城」「アイドル・ワイヴス」などを撮影した。「アイドル・ワイヴス」は大正六年の五月に帝國館に上場された。その映畫では、嬢は活動寫眞を見る娘を演じてゐた。嬢の入社後間もなく、ユ社は莫大な費用を投じて連續寫眞「電話の聲」を撮影したが、その時、嬢は選ばれて女主人公ポリーを演じベン・ウィルソン氏を相手にして活躍した。この映畫が大正六年の六月に帝國館に上場されて以来、嬢の名は我國にも喧傳されるやうになつた。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1910年代中盤にカレム~バルボア社の短編劇で下積みを経た後、ユニヴァーサル社連続活劇で名を上げたのがネヴァ・ガーバーでした。『電話の聲』(1917年)を皮切りとしてベン・F・ウィルソン監督の手による活劇にヒロインとして登場、同時期の初期ジョン・フォード西部劇でハリー・ケリーとも共演を重ねています。

20年代になって大手との契約が切れた後もベン・F・ウィルソン監督作品に安定して出演を続けており、幾つかの作品の現存が確認されています。

キャリア初期に監督のウィリアム・デズモンド・テイラーと婚約していた時期があり、1922年に同監督が怪死を遂げ大スキャンダルとなった時にメディアで二人の関係(死の直前まで頻繁に金銭授受があった理由など)が取り沙汰されていました。

[IMDb]
Neva Gerber

[Movie Walker]
ネヴァ・ガーバー

[出身地]
合衆国(イリノイ州アルジェンタ)

[誕生日]
4月3日

[撮影]