1922 – 9.5mm 『カマルグの王』(アンドレ・ユゴン監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

魔法をつかふ一人のボヘミアの女がルノ婚約女であるリヴエットに或る運命を告げました。所がその勇氣と武功とから人々の賞讃を得た傲慢なルノーはカマルグ王の綽名を受けたのであります。而してリヴエットを怖れさせた魔法つかひを罸しやうと思ひました。併しそのボヘミアの女に出會つた彼はその女から發する不思議なチヤームに捕へられたのであります。でその眼の權威とその輝やくほゝ笑みから彼女はルノーに泥地の眞中の一軒家であひゞきを約束しました。とその婚約者の裏切りを知らされたリヴエットは不實ものに出會ふべく同じ場所へと赴いたのであります。けれどルノーは人々が踏込むたゞ一つの淺瀬を示したその標示杭を變へたのであります。それでリヴエツトは彼女を葬むつた泥水よりも尚一層ルノーの裏切りから死んだのであります。この立派なドラマのその感動させる演出の所作にプロヴアンスの美しき空がまた詩的なありさまを加へます。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

1890年に公刊された地方色の色濃い運命劇をアンドレ・ユゴン監督が自身の脚本を元に映像化した一作。ゴーモン=パテ社アーカイヴに35ミリを元にした一時間版が現存。

冒頭から西部劇風の世界が展開し驚かされますが、南仏カマルグに伝わる独自の土着文化を元にしたものです。二枚目俳優として人気のあったシャルル・ド・ロシュフォールが「カマルグ王」を演じ、若手女優として台頭していたエルミール・ヴォーティエがヒロイン役、呪術的な力を持つ流浪の女にクロード・メレルを配しています。

アンドレ・ユゴンは大手制作会社と一線を画した独立系/仏インディ系映画監督の祖に位置づけられる人物です。ユゴン映画社製作による本作は宿命劇、土着風味やメロドラマの要素を上手く絡めて要を得た作品に仕上がっています。

本作の特徴としてはあまり強調したくないのですが、『カマルグの王』はフランスで初めて長編劇映画に女性の全裸を登場させた作品になるのではないかと思われます(9.5ミリ版ではカット)。1920年代のフランスの規制はアメリカや日本に比べて緩く、濡れ場とは違う、文脈に沿った裸体は許容される傾向にありました。倫理規制の強い時代ですし、原作に基くとは言え当時も賛否両論あったと思われます。それでも商業的リスクの大きいチャレンジに取り組む辺りが大手の監督とはやはり異なった姿勢となっています。

9.5ミリ版は1924年発売。早い時期に絶版になったタイトルで今回入手したフィルムもほぼ一世紀前のものとなります。1/4程に切り詰められていてもオリジナルの良さをある程度伝えているのかな、と。脚本の完成度、演技・演出の質も高く1920年の『労働』(アンリ・プクタル監督)、1919年の『恋するスルタン』と並び1920年前後の仏映画を代表する隠れた名作の一つです。

[公開年]
1922年

[IMDB]
Le Roi de Camargue

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
692

[9.5ミリ版発売年]
1924年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×6巻

瀧 蓮子 (生没年不詳)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Taki Renko c1930 Autographed Postcard

蓮子さんは『サロメ』を演りたいと何日も云ひます。みどり孃とは正反對に理智的な女性で、岩田祐吉氏に藝才滿點と賞められたことがありました。將來有望な若手で、矢張り研究所出です。

「藝才滿點と云はれた瀧蓮子孃」
『映画女優スタアになるまで』、小池善彦著、章華社、1926年

本名笠原らく。

蒲田研究所で演技を学び、その後は舞台(解散直前の築地小劇場)を中心に活躍。1928年10月の『国姓爺合戦』には杉村春子、及川道子さんと並び女官役で出演、同年末の『晩春騒夜』で山本安英らと共演。1930年代初頭に数本のトーキー映画に出演の記録あり。1934年に関西新派が結成された才にはその中心メンバーとして道頓堀・角座の舞台に立つ。1937年に東愛子の提言で国防婦人会の松竹分会が結成された折に副会長に就任した記録が残っています。

小山内薫系の舞台女優さんで映画との接点こそ少ないものの、杉村春子関連の文章ではしばしば名前があがってきます。また1934年にラジオで漫才が初めて公開放送された(『家庭天気図』、秋田実作)際に山口俊雄氏と共に主演を務め、ラジオ漫才の普及にも一役買っています。

[JMDb]
滝蓮子

[IMDb]


[生年月日]
不詳

戦前期(1910~20年代)直筆サイン物の真贋鑑定について(3)

サイン物の真贋判定の第3段階では人の手によって残されたサインを幾つかのグループに分け「真筆」を特定していきます。筆跡の癖などの話はこの段階で初めて重要になってくるものです。

[03a] 代筆(会社)

本人ではなく代理の人物によって残されたサインを代筆と定義します。英語では「secretary autograph」と表現されるもので政治家などの要人が「秘書(secretary)」に署名を代筆させていたイメージとつながっています。今回鑑定対象としている無声映画期の俳優の場合、所属会社の指示によって、あるいはその許可を得る形で広報担当者などがプロモ写真にサインしたものがこれにあたります。

ハリウッドではこの慣習は比較的早くからあったようです。仏モーリス・トゥールヌールが渡米後に監督した初期作の一つ『ガールズ・フォリー』(1917年)には、西部劇映画のリハーサル撮影中、主演男優の付き人が楽屋でプロモ写真に代筆している場面が描かれています。

「他人に自分の署名をさせるなんて不思議な国だ」、トゥールヌールの面白がっている様子が伝わってくる場面です。

この時期の代筆の特徴として、代筆者は俳優の筆跡を模倣せず自身の手癖でサインしていきます。クレア・ウィンザーの例を見ていきましょう。

上の2点が若い頃のサイン、一番下が晩年のボールペンサインです。彼女の署名の特徴を4つ挙げることができます。

1)大文字「C」の書き出しが内側にクルンと回っている
2)大文字「W」はギザギザにならず、底面が丸みを帯びる
3)「To -」「1927 -」のように、単語間にハイフン「-」を入れる手癖がある
4)小文字「d」に関して、若い頃は縦棒を「ℓ」のような縦長の輪で書いているが、後年になると「C」を左右反転させた字体に変化している

そしてこちらが代筆サイン。1)から4)のどの特徴も備えていない別人の筆跡です。

もう一例、1920年前後にヴァイタグラフ社の花形として活躍したコリンヌ・ゴリフィスを見ていきます。

コリンヌ・ゴリフィスは癖の強いサインの持ち主で、真筆の特徴として:

1)大文字「C」を縦に細長く書く(コリーン・ムーアも似た特徴があります)
2)大文字「G」は左上の丸と斜めの線を組みあわせた独特のデザインで小文字「y」の筆記体に似ている
3)小文字「i」の点が輪になる、を挙げることができます。

こちらが代筆によるサインでやはり1)~3)の特徴は見られません。

後年になると代筆者がオリジナルに「寄せる」例も見られるようになりますが、1910~20年代の俳優サインに関してそこまで紛らわしいケースは見た覚えがありません。真筆の特徴をきちんと把握していれば問題なく対応できるレベルかな、と思います。

ちなみに仏オートグラフ専門店「テスタール(Testart)」のサイトに代筆/真筆を比較したページがあります。マーロン・ブランドやクラーク・ゲーブル、あるいはウォルト・ディズニーなどのサイン画像がありますので参考にどうぞ。

[03b] 代筆(家族)

数としては少ないものの、代筆サインには会社由来とは質を違えたものが含まれています。何らかの理由で本人の家族がサインを代行したパターンです。有名な例がジーン・ハーロウとロミー・シュナイダー。いずれも女優の母親が代筆者となっており、とりわけジーン・ハーロウの場合は本人直筆はほとんど存在しないとされる位代筆の割合が高くなっています。

二人のサインは大文字「H」が大きく違っていて、直筆(左)では二画目で右の縦棒を下した後そのまま斜めに撥ねる形で続けて横棒に。母親の代筆(右)は「H」を三画に分けて書いています。

ロミー・シュナイダーの母親は戦前に活躍した女優マグダ・シュナイダーです。

左が本人直筆。小文字「a」「i」「e」が縦長に書かれ左右に詰まったサインになります。右は母親による代筆で、文字全体が右に傾いてなおかつ横一列にスッと伸びた筆跡です。

オートグラフ専門店で代筆が誤って売られるケースは見られませんが、イーベイやヤフオクにはこういったサインも「直筆」として紛れこんでくることがあります。色々と知っておくに越したことはない、という感じです。

[03c] 偽作(悪意なし)

古いサイン物の鑑定において意外と見落とされやすく、なおかつ紛らわしいタイプとして「悪意のない偽作」を挙げることができます。

例えば絵葉書やブロマイドの元々の所有者が、被写体が誰か分かるようにペンで名前をちょこっと書いておいた「備忘録」パターン、あるいは所有者本人やその知人・友人、時によってはお子さんがいたずら半分に名前を書いたパターンなど、特に深い他意はなく俳優名を書いてしまうケースだってあるわけです。時間が経って元の持ち主の手から離れてしまい、しかもそれが鑑定能力のないセラーの手に渡ってしまったとき間違って「直筆物」として売られてしまう…

例えばグロリア・スワンソンの真筆は大文字の「G」「S」ともにデザイン化された流麗な筆跡で上の写真とは似ても似つかないものです。桑野通子さんの例では名前の漢字(通/道)が間違っています。フェイクと言ってしまえばそれまでですが2例ともに贋作にしては稚拙すぎ、売り物にするために残されたサインとは異なると考えられます。

このパターンの派生形は厄介です。

以前に直筆物を紹介したアニー・オンドラと縁の深いチェコ出身の俳優兼監督、カレル・ラマーチの絵葉書です。写真面に1926年6月18日付のペン書きサインがあります。

拡大し、名前の末尾から伸びた弓型の線を見てみます。右の拡大図を見ると細い線(上)と太い線(下)の二重線になっているのが分かるでしょうか。元々の絵葉書に黒文字の印刷サイン(細)があって、後年、誰かがそれをペンで上書きした(太)形になっているのです。

レオポルディーネ・コンスタンチン(上)、山根寿子(下)さんのケースでは絵葉書に印刷された白字のサインを上書きする形で万年筆の黒いサインが残されています。

上書き系サインは1) 一部で線が二重になっており(黄緑色の丸)、2) 普段そのサインを書きなれていない人が書いているため筆跡が汚く初見でも違和感を覚えさせるものです。それでも元々の手癖が残っていますし、普通は印刷物に別人が上書きするという発想は思いつかないため紛らわしいことこの上ありません。悪意のない/悪意ある偽作の境界例、グレーゾーンに位置付けることができるでしょう。

[03d] 偽作(悪意あり)

オートグラフ市場ではロック・ポップ系のミュージシャン、野球やサッカーなどのスポーツ選手、米露大統領を筆頭とする政治家等、知名度と比例するように贋造サイン(fake autograph)も出回りやすくなっています。業界の努力(供給側でのコントロール、証明書制度の整備)にも関わらず撲滅できていないのが現状です。

とはいえサイレント映画関連のサイン市場は規模の小さなものです。万年筆サインは贋作には向いているとは言えず、誰の相場が高いのか、内容を含めどういう書き方をすれば価値が上がるのかなど学ばなくてはいけないことも多い…チャップリンなど僅かな例外を除くと贋作者のターゲットにされにくいジャンルだと言えます。

また手書きの模倣を高額で売り抜く手法は目につきやすいものでもあります。極端な話、チャップリンやキートン、ロイド、ガルボ、ルイーズ・ブルックスの「新作サイン物」を毎週のように発表していたらすぐにおかしいと思われるでしょう。こういったリスクの高い古典的手法を採る人はさすがに見られなくなってはいますが、一方で目立ちにくい巧妙な手法を選ぶ人もいます。

例えば出品画像に別サイトから拾ってきた真筆のスキャン画像を使い、実際はA4用紙にプリントアウトしたコピーを大量に販売している方がいました。上はそのセラーの出品リストに「無声(silent)」でフィルターをかけたもの。チャップリン、ファルコネッティやパール・ホワイト、ニタ・ナルディにヴィルマ・バンキー、メアリー・マイルズ・ミンターまであります。

本物であれば専門店で20万円位になるでしょうか。

商品タイトルの末尾に「印刷(preprint)」と明記されているものの、写真だけを見て文章を読まない不注意な人物、英語を苦手としている人、新規のコレクターが勘違いしてしまう可能性はあります。慌てて即決を押してしまった時、実際に届くのはペラペラな紙に印刷され「センターがずれている」カラーコピー1枚だそうです。

価格は1000円程に設定されています。言い方を換えると200人が勘違いしてくれれば実物を売ったのと同じ売上が手に入る計算(しかも元手はほぼかからない)になります。この金額なら訴えられないだろうの計算も見て取れますし、文句を言われたとしても「勘違いした方が悪い」で逃げ切ることができます。

ゼロリスク・ローリターン、薄利多売で罠に落ちる人を気長に待ち構える「優良誤認型」の手法は日本のネットオークションでも散見。複数の実物画像を用意しておらず、「イメージ写真」のみ掲載しているタイプの売り方にはジャンルに関わらず注意が必要です。

[04] 真筆

様々な不純物を取り除いていくと最後に「真筆」が残ります。

実際には真筆をより分けていくと同時に個別の価値も見ていきます。保存状態の良し悪し、筆跡の丁寧さ、キャリアの盛期に書かれたものか業界を離れてからのものか、日付や場所が特定されているかどうか、特別なメッセージが添えられているか名前だけ書かれたものか…多くのパラメーターを総合して「希少性が高い」云々の話が出てくることになります。

また1910~20年代にリアルタイムで活動していたサイン収集家の動きをできるかぎり記録にとどめておきたいと考えています。イタリアのブレシア拠点で活動していたエドヴィーゲ・トニ、英国で劇場勤めの傍らサインを集めていたチャールズ・トープ、10年代末に膨大なコレクションを所有していた独ケルン在住フィア・エーマンス、ポートレート撮影の折に記念のサインを書いてもらっていた米写真家ドナルド・キース、関西の熱烈な活動写真の愛好家(髙島栄一、宇治雅一)…

チャールズ・トープ氏サイン帳より自筆署名、ハンス・ルートヴィヒ・ヘーニッヒ氏(ウィーン)及び宇治雅一氏(大阪)の所蔵印

フィア・エーマンス嬢(ケルン)、ローザ・パスツール嬢(南米)、髙島栄一氏(兵庫)宛の宛名書き

一世紀前に自分が直接に(in person)書いてもらった物ではないからこそ、サインが当初どう発生したか見える状態にしておくのは大事だと思うのです。購入した牛肉の産地を追跡できる仕組みでブランド肉を保証しているのと同じ考え方(トレーサビリティ)でしょうか。

そういった意味でサインにまつわる小ネタ、エピソードも重要な役割を果たします。先日入手した伊藤大輔氏の署名入りの栞はその好例だったりします。

サイン物の鑑定というとテクニカルな話に終始しがちですが、直筆物の「真正さ(authenticity)」はかならずしも「モノ」の側面だけで語られるものではなかったりします。物理的な意味で真正であるのは当然として、さらに個々のサイン物にまつわる出来事、つまり「コト」の真正さがあって、両者が合致し補完しあうことでその直筆の「真」が完成する、そんな風に考えることができる訳です。

戦前期(1910~20年代)直筆サイン物の真贋鑑定について(1)

当サイトでは1910~20年代のサイン物(サイン入り絵葉書、写真、書簡)を多く紹介しています。直筆物を扱っていく際に鑑定作業は避けて通れないものです。オンラインの質問サイトでもこの手の質問は繰り返し上がってくるものですし、一般論としても興味のある方はいるのではないかな、と。

本サイトで行っている真贋判定の基本のフローは以下の形です。

3段階の判定を経て「真筆」に辿りつくことになります。

[01] 印刷物のサインをより分けていく

真贋判定の第一ステップとして、印刷サインをそれ以外から選り分けていきます。

無声映画の時代にはボールペンやマジック、シャープペンシルは存在していませんでした。直筆サインの多くは万年筆によるもので、鉛筆やクレヨンなど若干の例外が混ざってくる形になります。

鋭い金属の先端を押しつけて書く構造上、万年筆は紙に窪んだ跡を残しやすい特徴を持っています。筆圧によっては紙の繊維そのものが切断されているのが見えたりするほどです。万年筆サインと印刷サインの違いを見抜くにはこの「跡」が見えるようになるのが大切です。

こちらは以前に紹介したナジモヴァの直筆サインで拡大すると小文字の「a」の縦線中央にやや濃い色の線が入っている(写真右)のが分かるかと思います。万年筆の先端が触れた個所が浅い窪みとなりインクの溜まったものです。

こちらは『アジアの嵐』に主演していたインキジノフの直筆サイン。拡大してみるとやはり万年筆の先端で紙の繊維が切れ、インクが溜まって濃い色の線ができているのが分かります(写真右上)。万年筆の先は二股になっているため、角度によっては先端が割れて筆跡の両端を縁取るように濃い線が残る場合もあります(写真右下)。

スキャンでは濃淡の違いしか分かりませんが、紙を光にかざすとこの部分が「段差」として見えるようになります。

エニッド・ベネットの直筆サインでは、大文字「E」の書き始め、小文字の「n」、名前の下の下線の書き出し部分の筆圧が高いため万年筆の跡が残っています。斜めに光にかざすとその部分が窪んでいるのが分かります。

浦邉粂子さんのサイン絵葉書を見ていきましょう。「粂」の字に着目します。光の当て方は右のように光源が直接サインを照らす形にすると分かりやすいです。段差になった部分は光の反射角が変わるため白く照り返して見えます。

比較対象として印刷サインを見ていきます。下の写真は1910年代後半に人気のあったキャスリン・マクドナルドの絵葉書をスキャンしたものです。

拡大してみるとペン先による凹凸がなく非常にフラットなのが分かります(写真右上)。光の当て方を変えると浅い折皺が浮かび上がるだけで筆圧による窪みはありません(写真右下)。こういう見え方をするのが印刷物だ、となるわけです。

確認していくのは「窪み」とは限りません。逆に「盛り上がり」をみることもあります。

1910~20年ごろの映画界では写真のネガにサインを書きこむケースが多くみられました。複製したポジでは反転されて白文字のサインになるパターンです。下はチャールズ・レイの印刷サインで非常にフラット(平ら)な出方をしています。

一方で当時、暗い地色にあえて白インクでサインすることもありました。濃い修正液に似た質感で、紙に乗った感じの盛り上がった筆跡になります。(自分の所有物ではありませんが)下のジョゼフィーン・ヒルの例が分かりやすいでしょうか。

書く速度がゆっくりな個所、筆跡が重なった部分などにインクが溜まって盛り上がる形になっています。

ブライアント・ウォッシュバーンの白文字サインでもインクの濃淡が均一ではなく、文字を縁取るように濃い部分ができて盛り上がる形になっています。

「印刷か否かを確かめるために光に翳す」行為は言い換えると「光の反射角に注目し、物理的な厚み・高さの変化を見ている」ことになります。写真や絵葉書、ブロマイド、無地の紙にインクという異物が置かれることで起きた「物理的」な状態変化を何らかの形で見つけ出していくのです。

このアプローチの応用として次のような例を挙げることができます。

リートリス・ジョイの直筆物。保存状態は良くありませんが真贋鑑定の視点では興味深いサンプルになっています。緑色の矢印は万年筆の先端で削られた個所で、場所によってインクの劣化で白く褪せた出方になっています。また、水色の丸の部分では薄い傷がサインを横切っています。この部分を拡大してみると:

インクの部分で高さが変わるため薄い傷が完全にはつながっておらず途切れています。直筆サインでは手書きで書かれたインク部と背景の紙で「ダメージの出方に変化がある」例となっています。

先ほどのキャスリン・マクドナルドの印刷サインで「Sincerely」の後半の拡大です。経年の劣化で発生した黄土色のシミが文字と地の部分にまたがっています。手書きで置かれたインクではないため、印刷された文字であろうと背景であろうと関係なく「一様にダメージが発生している」訳です。

◇◇◇

経年変化などもあり、サイン物は手書きであれ印刷であれ一枚一枚異なっています。それでも基本的な考え方は同一で、文字を書くという行為で発生した状態変化を見つけることができるかできないかという作業を行っていきます。この辺は慣れと経験値も重要で、真筆と印刷物を比べながらある程度の枚数を見ていくことで目視でも100パーセントに近い鑑定精度までもっていくことができます。

目視に頼らず、ツールを使ってスマートに一発で判断できないかという疑問も当然出てくるでしょう。

サインそのものに触れて良いのであれば色々な手段が考えられます。薬品(極端な話、水一滴)を垂らす、ピックゲージを使用して段差の変化をミクロン単位で測るなどすれば状態変化を可視化できます。しかしサイン鑑定は「元のサインにダメージを与えない」が大前提となっているため、この視点からどちらの方法も不可とされます。直接触れないで…となると光の反射率測定装置を使う(=光沢の違いを測定する)手法があります。

とはいえ印刷物か否かの判断は鑑定の第一段階に過ぎないものです。印刷物を弾いても「印刷ではないから真筆である」という結論にはなりません。鑑定精度を上げる補助ツールはありえるにしても「スマートに一発で」真贋を判定できる手段は現状ない、の回答になるのだと思われます。

1925 – 『國定忠治』 (東亜キネマ、マキノ省三監督) 絵葉書3点 澤田正二郎主演

Kunisada Chûji (1925, Tôa Kinema, dir/Makino Shôzô) 1925 Promotional Postcards

澤田正二郎氏が等持院にて映畫製作の風評あれど、次號にて詳報す。

「撮影所通信:東亞等持院通信」
(キネマ旬報第178号 大正14年11月21日付)

澤田正二郎氏一派の映畫製作は愈々實現される事となり、第壹回作品は「國定忠治」と決し十一月廿七日より等持院撮影所に於て牧野省三氏總指揮の下に撮影を開始した。監督は金森万象氏二川文太郎氏仁科熊彦氏の三氏が擔當し、撮影は宮崎安吉氏持田米彦氏が擔當した。尚第弐回作品には菊池寛氏の「恩讐の彼方」と内定し本年度中に完成する豫定である。さらに來年度には中里介山氏の「大菩薩峠」を映畫化する計畫もある由である。

「撮影所通信:東亞等持院通信」
(キネマ旬報第179号 1924年12月1日付)

大正14年(1925年)1月に公開された『國定忠治』の宣材絵葉書3点。

1枚目は旅姿の忠治(澤田正二郎)を斜め前から捉えた立ち姿。8ミリ版フィルム外箱の写真と似た構図ながらスチル写真のため表情や姿勢に異同が見られます。

2枚目は8ミリ版に対応する場面のなかった一枚。右の女優さんは「夙に澤田正二郎の教を受け、現在新国劇中唯一の女優。小柄なれども持味のゆたかな人」(『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』1931年1月 冨士新年號附録)と評された久松喜代子さんではないか、と。映画では忠治の子分・長五郎の妻役を演じています。

最後の一枚は忠治(左)が山形屋に乗りこんでいってだまされた百姓の金を奪い返す場面からの一コマでした。

今回キネマ旬報を読み直していて気がついたのですが、同誌の記事や広告だと牧野省三氏はあくまでも「製作総指揮」の位置づけで、監督としては金森万象、二川文太郎、仁科熊彦の三名の名が挙がっていました(JMDbではいずれも助監督扱い)。

1928 – スーパー8『坂本龍馬・前編』(枝正義郎監督、阪妻プロ)マツダ映画社版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Matsuda Film Productions Super8 Print

マツダ映画社が戦後、無声映画鑑賞会の会員向けに限定で販売していた『坂本龍馬』8ミリ版。前後編100メートルずつの構成で上映時間はトータル34分。今回入手したのは前編のみで後編用ケースに収められていました。ビネガーシンドロームが進み始めた状態だったため実写はせず一部のスキャンのみ行いました。

『坂本龍馬』に関しては以前に戦前1930年代の伴野9.5ミリ版を紹介しております。比較のため対応場面を並べていきます。

顔の細やかな陰影、衣類のひだなど8ミリ版は細部が潰れてしまっています。それでも決して悪いプリントではありませんよね。一方の9.5ミリ版は上と右のトリミング幅が大きく人物の頭が見切れてしまっています。パーフォレーション(フィルム送り用の穴)が人物の頭にかかってしまっているため映写時に構図が崩れてしまうのです。構図に関してはマツダ映画社版がオリジナルに忠実という結果になりました。

2年前にフラットベッドスキャナーで取り込んだ画像データ。上部中央の穴(パーフォレーション)が頭にかかってしまっています

画質以上の大きな違いは編集方針です。

8ミリ版は「つなぎ」の場面を多く含んでいます。薩長土の連合に向けた打ちあわせのため、龍馬が寺田屋から駕籠で薩摩藩邸に向かうところで見回り中の新選組がその姿を認め情報収集を行います。この場面は8ミリ版のみ収録。

また寺田屋襲撃の場面でも龍馬が一旦はお龍(森静子)を逃してから新選組との死闘に向かいます。その後寺田屋2階の窓から脱出し、なんとか川辺に辿りついたところをお龍らの乗った小舟によって救われる…という展開です。9.5ミリ版では最初のお龍を逃す場面が欠けています。そのためお龍たちが唐突にどこからともなく助けにやってくるやや不自然な流れになっていました。

9.5ミリ版は細かなつなぎの場面を省略する代わりに、藩邸での龍馬の弁舌や寺田屋での立ち回りを長く収録。

どちらが良いという単純な問題ではないのですが、すでにスクリーンで作品を見ていて流れを知っている視聴者にとっては名場面を長く収めた9.5ミリ版の方が見ごたえがあるのかなと思います。一方の8ミリ版は全体の流れが分かりやすく初見に優しい構成となっていました。

気になったのは龍馬が後藤象二郎に大政奉還の建白書提出を持ちかける場面。

流れ的に同じ場面なのですが8ミリ版では龍馬を単体で捉えているのに対し、9.5ミリ版では後藤象二郎の肩越しに龍馬を捉える構図になっています。どちらも元の35ミリネガに含まれていてマツダ版と伴野版では選んだ場面が異なっていたのかもしれません。そうでないとすると別テイクに差し替えられていた可能性が出てきます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
スーパー8 白黒 100メートル 光学録音

1928 – 9.5mm『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)戦前伴野版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Banno Co., Early 1930s 9.5mm Print

枝正義郎氏を監督に迎えた最初期の龍馬映画9.5ミリ縮約版。100メートルリール2巻物。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。

前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

伴野版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5ミリ版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

もう一点重要な指摘として、1928年版『坂本龍馬』は撮影アングルや照明を重要視した映画作りとなっています。

寺田屋立ち回りでのミドルショットでは左側からメインの照明を当てつつ、陰が出すぎないよう右側から補助の光を照射(襟元の影で分かります)。さらに黒い髪が背景と一体化しないよう背後上から光を当て後光のような輪郭を形成しています。これは「ハリウッド式の3点ライティング」を採用した典型的作例です。

殺陣の速度感や迫力は『雄呂血』に軍配があがるものの、あの立ち回りは屋外ロケの自然光下で撮影されたもので光や陰に対する配慮は感じられませんでした。カメラマンとして業界で名を成した枝正義郎氏はコントラストや構図を重視。ハリウッドでは1920年代以降スタジオ撮影の比重が上がるにつれて照明の重要性が増し「ライティングで狙った絵を作る」発想が顕著になってきます。枝正氏はそういった傾向を自作に取り込もうとしているのです。『坂本龍馬』を評価する際もそういった要素を考慮する必要があるだろうと考えられます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5ミリ 白黒無声 100メートル×2巻 ノッチ無

1930 – 『映画百面鑑』(権田保之助編訳註、独和対訳小品文庫 第4冊、友朋堂)

Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute (German-Japanese Bilingual Edition, Translated by Gonda Yasunosuke, Yuho-sha, 1930)

大正期のドイツ語学者で辞典・文法書の編纂で知られる権田保之助(1887-1951)氏が「独和対訳小品文庫」というコレクションで公刊していた翻訳書。権田氏には社会学者、大衆娯楽研究家の側面もあって活動写真論(『活動写真の原理及応用』『映画説明の進化と説明芸術の誕生』)も残しています。

先例となったのは有朋堂が第一次大戦前に展開していた対訳形式の「独逸文学叢書」で、当時まだ新進言語学者だった権田氏も訳者に名を連ねていました。大戦後に権田氏自身が中心となって新たな対訳コレクションを立ち上げ『童話』、『独逸新聞研究』、『アルセーヌ・ルパンの冒険』に次ぐ第4番として出版されたのが『映画百面鑑』。偶数ページに日本語訳と慣用句・文法・語源の説明、奇数ページにドイツ語の原文が置かれています。

ページを開くとヨーエ・マイによる「映画監督」、エミール・ヤニングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」…日本でも知られた名前が続きます。

私が-僭越(arrogant)ではないが- 決して独逸映畫を作つてゐるのでも、又決して米國映畫を作つてゐるのでもなくして、ルビッチ映畫を作つてゐるからであり、私が常住(jedesmal)、人間的なモティーヴを(ein menschliches Motiv)、有效な修飾の中に装はせて(eingekeidet)、人間的に扮せしめやうと(zu gestalten)試みて來たからであり、又、私が、私の心の中の(in meinem Sinn)愛と憎しみ、惱みと怒を、言語の境界や政治的區分とは超越して(unabhängig von…)、遍く人々が了解するやうに、明瞭にする(zu verdeutlichen)技能があつた俳優に、信頼し得たからである。

「映画国際性」
エルンスト・ルビッチ

[…] weil ich -ohne arrogant zu sein- keine deutschen oder amerikanischen Filme mache, sondern Lubitsch-Bilder, weil ich jedesmal versucht habe, ein menschliches Motiv, eingekleidet in wirksame Dekorationen, menschlich zu gestalten, weil ich mich auf Darsteller stützen konnte, die befäfigt waren, Lieben und Hassen, Leidenschaft und Zorn in meinem Sinn so zu verdeutlichen, daß man es überall versteht, unabhängig von Sprachgrenzen und politscher Einteilung.

Film-Internationalität
Ernst Lubitsch

[これらの作品が成功を収めた]理由は(偉そうな御託を垂れる気はないのですが)まず私がドイツ映画を作っている訳でもアメリカ映画を作っている訳でもなくルビッチ映画を作っているからで、また主題として人を選び、主題を上手く生かす飾りつけを与えて人のぬくもりを感じられる話にしようと各作品で試みてきたからであり、さらにまた信頼できる俳優たちに恵まれたからでもあって、彼等/彼女等は私の考えている意味での喜怒哀楽を分かりやすく表現する力量があり、言葉や政治の壁を越えて誰もが理解できる風になっているのです。

私訳

ルビッチのこの論考は良く知られており、英語訳[1]もあってルビッチ論や初期ドイツ映画論で目にする機会の多いものです。

引用したのはアメリカとドイツどちらでも成功を収めた理由について私見を述べている部分。英語の「なぜなら(because/for)」に相当する接続詞「weil」を3度用いて3つの理由を挙げているのですが、ローカルな発想や方法に拘泥せず普遍的な表現を目指していく考え方が強調されています。海外市場を狙って、という話ではなく「良い映画作品であれば国内外の評価は自ずからついてくる(Jeder gute Film ist von Haus aus international)」の信念があればこその議論です。

底本は1924年に出版された「Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute(ドイツ映画本:昨今の映画をめぐる諸問題)」。独キネマトグラフ誌の編集長だったアルフレート・ローゼンタール氏が編集総責任者となり、映画監督、俳優、大学研究者による15本の各論をまとめたものです。

キネマトグラフ誌(1923年12月879/880合併号)に掲載された出版告知

[1] The Promise of Cinema: German Film Theory, 1907–1933, Anton Kaes, Nicholas Baer and Michael Cowan (Ed.) 1996, University of California Press, 978-0-52021-908-3

[出版者]
友朋堂

[出版年] 昭和5年

[原題]
Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute

[編集者]
Heinrich Pfeiffer

[元作品出版者]
Verlag August Scherl G.M.B.H.

1924 – 『浦邊粂子小唄集』(春江堂、キネマ花形叢書)

Urabe Kumeko : Songbook (1924, Shunko-do, Collection « Cinema Stars » )

春江堂が大正13年(1924年)に手掛けていた流行歌集のコレクション。14.2×10.5㎝、全80頁。

大正期~昭和初期の映画に興味のある方であれば、1923年公開の『船頭小唄』、翌年の『籠の鳥』を皮切りに展開された「小唄映画」の名に馴染みがあるのではないでしょうか。大正期のメディアミックスの流れの一つとして興味深いもので、近年になって幾つかの研究書、論文が発表されるなど再注目を集めているジャンルでもあります。

小唄映画の勃興は、日本における花形女優文化の誕生と時期を一にしています。浦邊粂子さんが日活作品の『清作の妻』で注目を浴びたのもこの大正13年(1924年)。春江堂によるキネマ花形叢書はこういった時代の流れに反応したもので、栗島すみ子を筆頭に8名の女優名を冠した小唄集を公刊。

(女) 指をさゝれよと恐れはせぬが 妾や出られぬ籠の鳥
(男) 世間の人よ笑わば笑へ 命がけした仲じやもの
(女) 命がけした二人が仲も 今は逢ふさえまゝならぬ
(男) まゝにならぬは浮世の定め 無理から逢ふのが戀じやもの
(女) 逢うて話して別れる時は 何時も涙が落ちて來る
(男) 落ちる涙は誠かうそか 女心はわからない
(女) うそに涙は流せぬものを ほんに悲しい籠の鳥

新籠の鳥

『浦邊粂子小唄集』と題されているものの、彼女に関係のある作品は『新籠の鳥』と『金色夜叉』だけで、その他の収録作品は「船頭小唄」(栗島すみ子主演作より)「水藻の歌」(同左)「戀慕小唄」(酒井米子主演作より)「闇の五本松」(梅村蓉子主演作より)と一人の女優に特化したものではありませんでした。他の女優編もおそらくは内容は同一で、表紙のみ差し替えていた可能性があるのかな、と。

こういった書物が時代やテクノロジーの変化に揉まれて後年の「映画主題歌集」に形を変えていきます。大正末期にはまだ「主題歌」の概念はなく音楽ソフトを再生できる環境(蓄音機)を備えた家庭も少数派でしたが、この手の冊子で歌詞を覚え、互いに教えあっていた風景というのがどこかにあったのだな、と想像させてくれる紙資料です。

エストニアより(映画)愛をこめて ヤーク・ヨエカッラス氏旧蔵サイン絵葉書

先日エストニアからの航空便が届きました。オンライン経由で取引したサイン物の絵葉書が計6点収められていました。

珍しい名前が多かったため蒐集家の古いコレクションがばらされたと思ったのですが、話を伺ったところセラーのヤーク・ヨエカッラス(Jaak Jõekallas)氏が個人で集めてきたサイン物の一部だそうです。「日本に発送するのは初めてだよ」と英語のメッセージが届き、返信がてら幾つか質問させてもらったところ素敵な話を色々聞かせていただきました。

前に書いたように、ソ連の時代には地元の骨董屋に独ロス社の絵葉書が沢山置いてあったんですよ。そういった店の多くは今は廃業してしまいましたけど、それでもまだ営業を続けているお店で面白い掘り出し物を見つけることがあります。

And as I already told, at the Soviet time there was a lot of old Verlag Ross postcards for sell in our antique shops. Nowadays most of these shops are closed but … sometimes is possible to find something interesting from these shops which are still working.

ソ連による併合以前に輸入されていたドイツやイギリス、合衆国製の絵葉書が1990年代にまだ町中のアンティークショップで売られていたそうで、ヤークさんは幼い頃からそういった紙物を集め始めていたそうです。

本サイトでも以前に紹介したイタ・リナ(Ita Rina)の話も少し出ました。1930年に公開された主演映画『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)がエストニアで撮影されていてこちらから話を振ってみたのですが、ヤークさんも当然その話は知っていて、しかも同作を監督したロシア出身の映画俳優・監督ウラディミール・ガイダロフの伝記を最近読んだ、とのこと。英語とロシア語の両刀使いは古いサイン物を集める際には強力な武器になります。正直羨ましい限りでした。

ちなみにヤークさんの名前はエストニアのウィキにも登録されています。1969年生まれで本職はオペラ歌手。古い映画関連紙物のコレクターとして知られており書籍も出版されているそうです。

ヤーク氏は映画俳優の絵葉書(ロス社、ピクチャーゴーア、また旧ソ連で出版されたものなど)、映画雑誌や書籍の収集でも知られている。

エストニア版ウィキペディアより

Kogub ka filminäitlejate postkaarte (Verlag Ross, Picturegoer jt, sealhulgas ka endise Nõukogude Liidu väljaanded) ning filmiajakirju ja -raamatuid.

『キノスタルジア』 (Kinostalgia. Filmistaaride lummuses, Jaak Jõekallas, 2018, Hea Lugu)

2019年にエストニア公共放送(ERR)で自著を紹介した番組がオンエアされました(ERR公式HPより)

2018年に出版された『キノスタルジア』は同氏の所蔵写真、絵葉書から600点を収めた一冊。表紙を飾っているのはキャロル・ロンバート。現在のエストニアはIT国家として知られていますが音楽や文芸思想でも優れた才能を輩出しており、こういった書籍からも質の高い文化の薫りが伝わってきます。

バルトシュ・オルガ Bartos Olga(生没年不詳) ハンガリー

ハンガリー [Hungary]より

Bartos Olga 1921 Inscribed Postcard

第一次大戦の末期、1917年にハンガリーのロイヤル・オルフェウム劇場(Royál-Orfeum)で軽歌劇の主役として注目を浴びた女優さん。翌1918年にウィーンのロナッヒャー劇場と契約を結んだニュースがハンガリーの演劇誌でも大きく取り上げられていました。

「演劇生活」誌(Színházi Élet) 1918年9月1日 第35号表紙

この後もウィーンのアポロ藝術劇場で幾つかの出演記録(1920年『Die Apachen』、1921年『タンゴの女王 Die Tangokönigin』)が残されていますが、同劇場の支配人であるヘルベルト・トラウ氏と入籍したようで雑誌での名字表記が「Bartos-Trau」に変わります。今回入手したサインはこの時期のもの。

面識こそ御座いませんが貴方様からの讃辞に親愛なる感謝をこめて

1921年2月8日 オルガ・バルトシュ=トラウ

Unbekannterweise freundliche Grüße und Dank für ihre schmeichelhaften Zeilen.

8 II 1921. Olga Bartos-Trau

20年代中盤以降はメディアでの露出が減っていくものの、1927年の雑誌の紹介記事からは活躍の場をチューリッヒまで広げていた様子が伺えます。

独「ライフ」誌(Das Leben)
1927年7月号

映画界との接点は多くありませんが一作主演の記録あり。1919年公開の墺作品『Die lichtscheue Dame』で、ジョルジュ・オーネの小説『灰色の淑女(La Dame en gris)』を下敷きにした作品のようです。

[IMDb]
Olga Bartos

[Movie Walker]


[出身地]
ハンガリー

[データ]
1301 Bildnis von Angelo Budapest 1918

1922 – Super8 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督) 西独DEFA版

1922-『吸血鬼ノスフェラトゥ』

Nosferatu: Ende des Vampirs
(From « Nosferatu », dir/F.W. Murnau, 1922) DEFA Super8 Print

先月末にスキャンと併せて映写機での実写を行いました。

名の知れた一作でもあって英語版の16ミリや8ミリを市場で見かけることがあります。フィルムの現存状況や修復版の元となった35ミリプリントの詳細な情報はブレントン・フィルム [英語]でまとめられています。

ドイツでは西ドイツのDEFA社から2巻(前編『吸血鬼の棲まう城』245番、後編『吸血鬼の最期』247番)に分けられたスーパー8のダイジェスト版が発売されていました。こちらはその後編。

このフィルムに関しては2017年に一度実写でのスクリーン画像をそのまま撮影しています(使用映写機はベル&ハウエルのフィルモソニック498型)。

実写では中央部で白飛びが目立ち顔の肌の細かな陰影が消えてしまっています。ただし光量の落ちる周辺部は比較的しっかりと描写できていました。ランプを使うと光源となる中心がどうしても明るくなるためこういった質感になります。一方デジタルスキャンは四隅まで満遍なく安定しているものの暗い部分で潰れてしまい細部を拾えていない所があります。

またDEFA版8ミリではフィルムを送る穴(パーフォレーション)の上下まで映像が広がっています。実写時にこの部分は映写されないため、左側がトリミングされる形になり被写体が左に寄っていました。

本作を下敷きにしたヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)では吸血鬼と同時にやってくるペストの要素が強調されていました。古来から吸血鬼伝説と疫病への恐怖は連動してきたもので、本作にも公開の2年程前まで猛威を振るったスペイン熱の記憶が見え隠れしています。

[原題]
Nosferatu: Ende des Vampirs

[製作年]
1922

[IMDB]
Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens

[Movie Walker]


[メーカー]
DEFA

[カタログナンバー]
247

[フォーマット]
Super8 白黒無声

映写機用レンズの肖像 [02]: パテクソール・クラウス F=25mm

Pathéxor Krauss F=25mm (E. Krauss, Mid-Late 1920s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
パテクソール・クラウスE・クラウスフランス25mm不明パテベビー映写機1930年代前半1920年代前半から30年頃3群3枚20.014.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
10.01.92.010.52.552.3510.62.1

仏パテ社の初期カタログでは「極短焦点レンズ(Objectif court foyer extra F=25mm)」と記載されている一本で単品でのカタログ番号はF23k、定価は55旧フラン。今回比較テストにあわせて分解清掃、構成を確認したところスタンダードレンズとは異なり3枚3群のトリプレット型でした。

淡く柔らかい感じの発色・描写ですが、標準レンズと比べると一段シャープでケラれもやや目立たなくなっています。ただし標準レンズでは見られなかったフレア気味の部分や、流れるような放射状のボケが一部に発生しています。

以前に別項(「レンズの分解とパテクソール・クラウス f=25mmの話」)でも触れたように、2015年頃、映写機を集めてから割とすぐの時期にスタンダードレンズとの実写比較を行ったことがあります。

この時、パテクソール・クラウスの方は白く霞がかったソフトな感じで描写されていました。

ミラーレスにマウントして接写。クリーニングしたうえで実写に挑んだのですが、ソフトで甘い描写に変化はありませんでした。物足りない感じがしたため別構図で撮ってみました。

被写体深度は浅め、背景側に二線ボケ、手前が流れる感じになっています。ただし浮ついた感じは消えますよね。6年前のテスト結果も考慮に入れるとフレアの出やすい白基調のフィルムを苦手にしているのかな、と。

大正期~昭和初期 35ミリ齣フィルム私見

Bessie Love & Irene Hunt in Forget Me Not (1923) 35mm Nitrate Fragment
1923年公開作品『若き日の夢』よりベッシー・ラヴとイレーヌ・ハント

先日大正末期の齣フィルム70枚を一括で入手しました。幻灯機で映写するため紙フレームに糊付けされた形で保存されていました。台紙に劣化と歪みが目立ちスキャンしようにも手が出せない状態で、一旦崩してスキャン後に新たな台紙に整理し直しました。

内訳としては洋画が45枚強、邦画が25枚弱。文字情報が残されておらず現時点では特定できていない作品がほとんどです。場面の特定できたハリウッド製連続活劇『赤環』(1915-16年)を別投稿で紹介してあります。

映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売したりして、大正期を中心に一大ブームとなった。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018 年 99 巻 p. 46-68)
pdf版はこちら

以前にも一度引用した福島可奈子氏による齣フィルム論の一節です。大正中期から昭和初期に大きな流行を見せた「齣フィルム」文化について全体像と細部の双方に配慮をしつつまとめられたもので、本サイトでも何度か紹介した「愛」印(愛和商会)製のフィルムについても紙数が割かれています。この分野に興味のある方は眼を通しておいて損はない優れた論考だと思います。

松栄堂や愛和商会などに代表される玩具会社量産による齣フィルムについて一点補足があります。

原版となる映画館上映後のオリジナルフィルム(既製品のポジフィルム)から一旦ネガフィルム(再生フィルム)を作り(このとき、玩具会社名やジャンケンマーク等も焼き込んだと考えられる)、そのネガから別なポジフィルム(再生フィルム)へ焼きつけて製品化することで齣フィルムを量産していたのだろう。

福島論文は「だろう」という結びを使い、以上の形で齣フィルムの製造過程を推定しています。当時の現場で作業していた人々の証言やマニュアル類が残っている訳ではないため推測以上の話はできませんし仮説が正しい可能性は十分にあります。

ただ、以前に『尊王攘夷』の齣フィルムを照らし合わせて見えてきたのは「原版は上映用のポジフィルムではなさそうだ」という話です。

左がDVD版のスクリーンショット、右が愛和商会製の齣フィルムです。一見すると同じ場面に見えますがふすまの位置関係から異なったカメラで撮られたことが分かりますし、ライティングの発想が大きく異なっています。DVD版は背後上部からの照明があるため頭部から肩、腕にかけて光の輪郭が浮き出ています。齣フィルム版にはこの照明がありません。

もう一つの重要な違いとしてフィルムベースのデジタル版には「映写痕」が残っています。左の山本嘉一を拡大して見てみると:

映写機由来の細い縦傷が幾筋にも入っているのが分かります。『尊王攘夷』DVD版は個人コレクター所有の16ミリベースではないかと言われているもので、フィルムの形式(8/9.5/16/35ミリ)に関わらず樹脂製のフィルムを金属製の映写機にかけている間にこういった傷が入るのは避けられません。

愛和商会の齣フィルムには経年による細かな汚れや傷が見られるものの、映写機を通ってきた証拠となる縦の傷が見られません。

2つの可能性を考えてみることができます。

1)映画制作会社が所有していたアウトテイクを元に齣フィルムを製作していた
2)撮影時に同時に撮られていたスチル写真のポジ(又はネガ)を元に齣フィルムを製作していた

1)のアウトテイク説でアングルや映写痕の違いを説明できますが、ライティングの差異を説明することはできません。そう考えていくと玩具会社による齣フィルムは2)スチル写真ベースの製品だったと見るのが妥当な解釈になるのでしょう。

何度も映写機をくぐり傷だらけになった上映用ポジを二次利用したもの。もう一方はスチル写真をベースに大量生産されていたもの。大正末期から昭和初期にかけて2種類の異なった「齣フィルム」があったのではないでしょうか。後者は35ミリフィルムを模してはいるものの、実体は販促用絵葉書に近いと言えそうです。

1921年 – クロアチア・ザグレブ公演中のモスクワ芸術座カチャーロフ・グループ 直筆サイン入り絵葉書8点

Moskovskii Khudozhestvennii Teatr at Zagreb (1921).
8 Autographed Postcards

ロストフ・ナ・ドヌー、エカテリノダールと回った一行は、1920年3月にはノヴォロシイスクから海路グルジアに渡る。ここに至ってようやくモスクワと連絡がついたものの、劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつれない返事がかえってきただけ。そこで再び海路コンスタンチノーブルへ渡った一行は公演を重ねながらバルカン半島を北上して行くことにした。この巡演は「ソフィア、ベオグラード、リュブリアナ、ノヴィ・サド、ザグレブなど、どこでも熱い歓迎を受け」(Inov 2003:14)、バルカン諸国に多くの芸術座シンパを生んだのだという。

「1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について」
大平陽一

1919年夏に海外巡業へ向かったモスクワ芸術座のメンバーがロシア革命の余波で帰国できなくなり、その後チェコスロバキア政府の援助を受けてプラハを拠点に活動し始めた…という「プラハ・グループ」を論じた一節です。大きくはロシア/ソヴィエト演劇史の一エピソードの括りながら、中欧~東欧への文化的影響や「文化の越境」といった視点から見ても興味深いものです。

革命前、舞台俳優たちはしばしば映画にも出演していた。

「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲルマノワ」
諫早勇一

プラハ・グループを扱ったもう一本の論文で触れられていたように帝政期ロシアの舞台俳優の多くが映画と接点をもっていました。1923年には『カリガリ博士』で知られるロベルト・ヴィーネ監督による独映画『罪と罰』が公開されましたが、同作のキャストはプラハ・グループ所属の俳優で固められたものです。

ラスコーリニコフ(クマラ)

ラスコーリニコフの母と妹(スクルスカヤ&タラソワ)

死の床のマルメラードフ(右、タルカーノフ)とその妻(左、ゲルマノワ)

ラスコーリニコフとソーニャ(右、クルィジャノフスカヤ)

スヴィドリガイロフ(シャーロフ)

今回紹介するのはこの一団が正式にプラハを拠点とする直前の時期(1921年初頭)にクロアチアのザグレブで公演を行った際に残したサイン物のセットです。2016年と2021年の2度に分けて購入したもので元々は15枚ほどの塊でした。予算の都合ですべてを揃えることはできませんでしたが看板女優のオリガ・クニッペル・チェーホワ(戯曲家チェーホフの妻)、花形女優のクルィジャノフスカヤやオルロワ、実力派のマッサリチノフなどが含まれています。

・オリガ・クニッペル・チェーホワ [Olga Knipper-Chekhova] 日本語wiki
・ウェラ・オルロワ [Vera Orlova] IMDb/Movie Walker
・ピョートル・シャーロフ [Petr Sharov] IMDb/Movie Walker
・ヴァシーリー・ヴァシレフ [Vasilij Vasilev] IMDb
・ピョートル・バクシェイエフ [Pyotr Baksheyev] IMDb
・マリア・クルィジャノフスカヤ [Maria Kryshanovskaya] IMDb/Movie Walker
・エリザベータ・スクルスカヤ [Elisabeta Skulskaja] IMDb/Movie Walker
・ニコライ・マッサリチノフ [Nikolaj Osipovic Masalitinov] IMDb

ロシア革命の余波が西欧映画に与えた例としては仏アルバトロス映画社や映画プロデューサー・エルモーリエフの活動が知られています。後者が渡仏前に製作していた作品には芸術座俳優(オルロワ、バクシェイエフ、ゲルマノワ)が多く出演していました。コンスタンチノープル経由でパリに亡命したエルモーリエフが仏無声映画史の発展に深くかかわり、一方で芸術座俳優たちがプラハ経由でドイツ表現主義に絡んでいく…別ルートで同時進行していた2つの風景が同じ根を持っていたと確認できる映画史資料でもあります。

[IMDb]
Raskolnikow

[Movie Walker]
罪と罰

2007 – 『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

« Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives » (l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

ルイ・フイヤード(1873-1925)監督については自国フランスを中心に研究が進んでいて、確認できている限り十数冊の書籍(雑誌特集号や増刊号含む)が公刊されています。『ルイ・フイヤード、その源泉へ』は「1895誌」を出版している仏映画史研究協会編がまとめた一冊で、同監督がゴーモン社や知人、友人とやりとりした書簡、契約書の草稿等223点の資料を時系列に並べています。時期によって6つの章に分かれています。

1) 監督デビュー前(1902-1905)
2) ゴーモン社初期作品期(1906-1914)
3) 戦中期(1914-1916)
4) 『ジュデックス』周辺期(1916-1918)
5) 拠点をニースに移してから(1918-1925)
6) 晩年(1922-1925)

青年時代のフイヤードは闘牛好きで専門誌に寄稿していたこともありました。その時期に残された数点の書簡以外は基本映画監督として書かれた文章。相手としてはゴーモン社レオン・ゴーモンと、俳優マルセル・ルベスクの比重が多くなっています。また後半は自身の映画作品のマルチメディア展開(小説版プロジェクト)に触れた内容が増えてきます。

ゴーモン氏への書簡は完全なビジネス仕様で、撮影に掛かった経費の報告が多くなっています。ルベスクとは旧友同士のやりとりといった感じで自身や共通の友人の近況報告が中心となっていました。

『ルイ・フイヤード、その源泉へ』にまとめられた書簡類では映画論や技法論は一切触れられていません。「映画はかくあってほしい」の理想論にはほとんど興味がなかったのだろうという印象を受けました。限られた予算枠の中でその都度最善の結果を出して会社に貢献しそれに相応しい収入を得ていく、そういったスタンスを貫いた職人肌の監督像が近いのかな、と。

一方で場面ごとの経費の報告が多数残されていて、1910年代の仏連続活劇撮影時にどのような個所でコストがかかっていたのかが見えやすくなっています。初期映画撮影を経済/マネジメント視点で分析していくアプローチもできそうです。

ルベスクとのやりとりは気の知れた友人相手のリラックスした雰囲気が特徴的。ルベスク自身がゴーモン社との契約で揉めて同社を離れた経緯、フイヤードがクレステと疎遠になっていた様子など細かな人間模様が浮き彫りになってきます。自身の映画の常連俳優たちを「一座の連中」と呼んでいたり、『ティーミン』に出演していた女優リュガヌと結婚して「うちの女神さん」と溺愛振りを示すなど「身内」を大事にしていく姿勢も伝わってきます。

1914~16年に関してはパリを拠点としていたためゴーモン社との書類のやりとりが少なく、フイヤード活劇愛好家の多くが期待している情報が残っていないのが残念ですが1910年代映画制作の裏舞台が垣間見える貴重な一次資料です。

[原題]
Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives

[出版年]
2007

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
316

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-77-3

1926 – 『日活俳優名鑑 1926+10』(『大日活』二周年記念附録)

« Nikkatsu Famous Players 1926 »
(« Dai Nikkatsu » 1926 October Issue Supplement)

大正15年10月、雑誌『大日活』創刊2周年を記念し同誌の付録として製作された日活所属俳優の名鑑。サイズは11.2×15.0センチ。16頁3段組に男優59名、女優35名の略歴をまとめています。表紙は梅村蓉子。

『血煙高田の馬場』でお勘婆さんを演じていた市川春衛、『一心太助』で老金貸しを演じた尾上卯多五郎、松之助映画の常連だった嵐玨松郎や尾上蝶次郎、悪役で活躍した千松實や中村仙之助…通常の名鑑は紙数の都合もあって主演から準主演クラスの俳優さんに偏ってしまうのに対し、この冊子では子役、脇役や老け役専門の男女優まで丁寧に拾い上げています。

表紙デザインを含めて出来の良い一冊で、俳優たちの親しみやすさ、会社の好調ぶりと一体感を強調しています。

ただ、この名鑑が出た時期の日活は設立以来最大の危機を迎えていました。大正15年9月11日、日活の大黒柱であった尾上松之助が亡くなっているのです。裏書を見ると印刷所の納本は9月8日。修正は間にあわず、松之助存命の書き方を残したまま購読者の手に届けられてしまう形となりました。

松之助人気に頼ることはもうできない。日活の判断は非情なものでした。

尾上松之助氏の死とともに所内に蔓る積弊一掃の機會を早めるものと觀測されてゐたが果然拾八日午後京都市木屋町中村屋にて横田副社長根岸支配人池永所長杜重支店長等が會合協議の結果新劇部男優小村新一郎齋藤達雄宇田川寒待弓削宗貞外三拾六名女優部では宮部静子、本田歌子、衣笠みどり、松島英子、高島京子、香川満子、巽久子、橘道子外数名を解雇した。

それと同時に東坊城恭長、若葉馨、木藤茂に俳優を廃めさせ東坊城若葉の兩名は一時名目だけの脚本部附となし木藤は監督助手に祭り上げるなど大整理を行ふ[…]。

1926年『キネマ花形』 (『活動花形』改題 11月号 花形社)

「積弊」と見なされた俳優たちが一斉に「整理」されていきます。稼ぎ頭が突然不在になった状況で今まで通りの運営はできない。経営陣視点で見るならこの判断も理解はできます。とはいえ俳優組合も機能していなかった時期ですし、一方的に解雇された役者側はたまったものではなかったでしょう。

ちなみに『日活五十年史』にこの件の記述はありません。また『映画と劇』10月号・11月号や『日本映画年鑑(第三年版)』でも一切言及されていませんでした。大手映画社への「配慮」もあり、多くの俳優たちがほとんど誰にも知られぬまま転籍、転職、廃業していったことになります。

以前に若葉馨氏の「1928年転職報告葉書」を紹介しましたが、これは同氏が2年の窓際生活の後、時代劇俳優としてキャリアを再開した時の一通です。また斎藤達夫氏は古巣の松竹に拾われ、軽妙な芸でトーキー以後に評価をあげていきます。木藤茂氏は役者を廃業、監督としてのキャリアを築いていきました。

しかしそういった例はごく僅か。弓削宗貞など名を挙げられた俳優たちの大半、また名前すら言及されていない一部の役者(大谷良子、東加代子、秩父かほる、嵐秀之助)はこの時期を最後に出演記録が途絶えてしまっています。

この名鑑は1926年10月時点の日活の現状を反映していないのですが、松之助以前/以後という大きな断絶の記録として興味深い資料になっていると思われます。

1926 – 9.5mm 『彌次喜多』(『新作膝栗毛』、日活、中山呑海監督)伴野商店版

「伴野商店」より

”Shinsaku hizakurige” (1926, Nikkatsu, dir/Nakayama Donkai)
Late 1920s Banno Co. 9.5mm Print

長屋の薄い壁の向こうから漏れ聞こえてきたのは夜逃げの相談である。そつと覗きこむと借金取りに追われた弥次と喜多が江戸を離れ伊勢参りに向かうとのことであつた。

今生の別れやもしれぬとあり、お調子者の二人の目にもきらりと光る涙があつた。ご近所仲間も別れを惜しみ、路銀の足しにと小銭を持ち寄るのであつた。

いざ出発。しかし桟橋に着いた時にはすでに舟は出たところであつた。「オーイ待つてくれー」、二人の声は船頭には届かない。舟を追って海に飛びこんだ弥次喜多の頭はやがて波間へと消えていく。前途多難な出立であつた。

20メートルの1リール物として発売された伴野初期の9.5ミリ作品。タイトル「彌次喜多」の後すぐに物語が始まっていて出演者や製作会社のクレジットがありません。手持ちカタログでは小泉嘉輔主演となっており1926年に公開された日活作品『新作膝栗毛』の一部のようです。彌次(小泉嘉輔)と喜多(児島三郎)が伊勢参りに出発する長編喜劇の冒頭を抜粋した形。

スキャン画像が綺麗ではなくスキャナー設定を失敗したと思いました。やや淡めでコントラストが低く、グラデーションの滑らかな画質…これってよく見るとパンクロマチック・フィルムの質感にも見えます。オルソクロマチックからパンクロに切り替わった最初の劇場公開作品はフラハティ監督『モアナ』(1926年1月)。日本でもすぐに大手が追随し、同年中には幾つかのパンクロ白黒フィルム映画が製作されていた可能性があるな、と。

『新作膝栗毛』公開は尾上松之助逝去の翌日の9月12日。この3カ月後には大正天皇が崩御し元号が変わります。この年の8月にはヴァイタホンで効果音を一部同期させた『ドン・ファン』のプレミア上映が行われていて翌年の『ジャズ・シンガー』の布石となっていますし、オルソからパンクロへとフィルムの種類も変わっていく…1926年は様々な意味で「変化」の年でもありました。

中山呑海監督のお孫さんがこんなツイートを残されています。

[Movie Walker]
新作膝栗毛

[IMDb]
Shinsaku hizakurige

[公開]
1926年9月12日

[9.5ミリ版]
伴野商店

[9.5ミリ版タイトル]
彌次喜多

[カタログ番号]
24

[フォーマット]
20m×1、ノッチ有、白黒無声

1922年頃 35ミリ齣フィルム30枚(米パテ社連続活劇とロイド喜劇)

35mm nitrate film fragments (positive, toned) on pierced papers, c1922
Eddie Polo, Charles Hutchison, Harold Lloyd etc.

1922~23年頃と思われる35ミリ齣フィルム30枚のコレクション。切込み(スリット)を入れた自作台紙3枚にまとめたものです。幾つかの齣では縁の部分にメーカー名(丸印に「愛」「平」「モ」)を見て取れます。

エディ・ポーロ 1922年『キャプテン・キッド』

チャールズ・ハッチソン 1922年『スピードハッチ』

ハロルド・ロイド 1922年『豪勇ロイド』

ウォーレス・リード 1922年『ゴーストブレイカー』

1910年代から連続活劇で活躍していたエディー・ポーロが一番多く、次いでチャールズ・ハッチソン、ハロルド・ロイド、ウォーレス・リードの順になっています。いずれも本国では1922年に公開、齣フィルムもこの時期と見て良さそうです。

旧所有者さんが連続活劇好きだったのは疑いの余地のない所。女優を主人公にした作品はなく、またアントニオ・モレノのような華奢な美形男優ではなくエディー・ポーロやハッチソンなど肉体派を好む傾向を見て取れます。

男優の裸身(しかも肉付きや筋肉を強調するポージング)が多いのも偶然ではないのでしょう。1922年頃、大正末期の日本でよほど気心の知れた相手との内緒話でもなければ「男優の裸体に妄想を掻き立てられる、興奮する」と公言するのは不可能でした。家族に見つかった女学生は映画館立入り禁止でしょうし、既婚女性であれば三下り半、男であれば社会的に抹殺されてもおかしくない時代です。それでも業界は一定のニーズがあると分かっていてこういった場面を投入している訳です。

ヘレン・ホームズ~パール・ホワイト~ルース・ローランドなどを中心に流れていく連続活劇史そのものがヘテロ男性の見方なのだろうなと、以前から薄々は感じていました。異なった性的指向の人には全く違った風景が見えている。映画史そのものが違う。当たり前といえばその通りで一世紀前のリアルな物証を目の当たりにして新鮮な驚きはあります。

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁