マリア・オルスカ Maria Orska (1893 – 1930)

Maria Orska Late 1910s Autographed Postcard

ウィーンで昨夜、女優のマリア・オルスカさんが亡くなっているのが発見された。享年35才、死因は睡眠剤(バルビタール)中毒。ひとつの人生がここで悲劇的な終わりを告げた。良き意図を備えた仲間たちが幾度となく救い出そうとしてきたのだが、手遅れなまでに病んだオルスカを苦しみから救い出すことは叶わなかった。

大戦が始まってすぐの頃オルスカは名声の頂点にあり、舞台女優としてだけでなく映画女優としても名を成していた。同嬢を発見し銀幕デビューさせたのはマックス・マック氏で、同監督の元で多大なる成功を収めたのである。とはいえ著名女優としての活動は長く続かなかった。ありとあらゆる薬物にのめりこんで演技力を大きく損ない、瞬く間に転げ落ちていった。

ピリピリと苛立ったこの時代の芸術家たちにとって、薬物中毒は大きな危険をはらむものとなってきている。ウォーレス・リードやハリー・ヴァルデン、アニータ・ベルバー、今またマリア・オルスカと言った犠牲者はこの危機が増しつつあることを示している。

「マリア・オルスカ」
キネマトグラフ誌1930年5月2日付第101号

In Wien ist gestern nacht die Schauspielerin Maria Orska aiebenunddreißigjährig an den Folgen einer Veronalvergiftung gestorben. Hiermit endet die Tragödie eines Lebens, die von wohlmeinenden Mitmenschen immer wieder hinausgezogert wurde, ohne der schwerkranken Orska Heilung von dem Leiden bringen zu können. Als die Orska in den ersten Kriegsjahren auf der Höhe ihres Ruhmes stand, war sie nicht nur ein großer Bühnen-, sondern auch ein Filmstar von Bedeutung. Für die Leinwand wurde sie von Max Mack entdeckt, unter dessen Regieführung sie ihre nachhaltigsten Erfolge erzielte. Aber ihre Karriere währte nicht lange, weil sie sich bald zur Steigerung ihrer schwachen Leistungskraft mit Rauschmitteln aller Art aufpeitschte, die ihr in kurzer Zeit den vollkommenen Zusammenbruch brachten.

Die Gefahr, sich an Rauschgifte zu verlieren, ist für die Künstler in unserer nervösen Zeit besonders groß geworden, und Opfer wie Wallace Reid, Harry Walden. Anita Berber und nun auch Maria Orska bezeichnen die Gefahr dieser Entwicklung.

Maria Orska
Der Kinematograph, No. 101 (1930 May 2)

1900年代末ロシアのサンクトペテルスブルグで見いだされ、ウィーンで演技の修業を積み舞台デビューを果たしています。その後拠点をドイツに移し「デイジー・オルスカ」の名で知名度を上げていきます。

1915年8月、映画女優デビュー直後に
リヒトビルト・ビューネ誌に掲載された広告より。

第一次大戦開始頃がキャリアの転換点でドイツ映画界の先駆者であるグリーンバウム社と契約を結び1915~17年にかけてマックス・マック監督作の主演を務めました。身寄りのないロマ族の少女を演じた1917年作『黒い踊り子(Die schwarze Loo)』はフィルムが現存しドイツ映画博物館が修復版をオンライン公開しています。

1917年7月「リヒトビルト・ビューネ」誌より『黒い踊り子』広告

その後は舞台活動が中心となり、20年代には欧州全体で知られるほどの知名度を獲得しましたが薬物中毒で失速。1930年に睡眠薬の過剰摂取でその短い人生を閉じています。映画女優としては1922年に公開された歴史大作『フリードリヒ大王(Fridericus Rex)』が最後の出演となっています。

[IMDb]
Maria Orska

[Movie Walker]


[出身地]
ムィコラーイウ(ロシア/現ウクライナ)

[誕生日]
3月16日

[データ]
Verl. Herm. Leiser Berlin Wilm.

[サイズ]
8.7 × 13.6 cm

フローレンス・ターナー Florence Turner (1873–1959) 米

Florence Turner 1923 Leafcut Autograph & Related Newspaper Clipping

俳優に對する待遇も次第に改まつた。ゼームス・クルーズが、一九一一年に始めてパテエの俳優となり、程なくタンハウザーに轉じて、『百萬弗の秘密』に出演した時は、一日僅かに五弗の給料を貰つたに過ぎぬ。かうした慘じ目な生活が、間もなく人に羨まれるほど花やかなものとなつたのである。殊にスター・システムの發生は、俳優の地位を著しく向上せしめ、靑年男女はこの職業に憧憬して俳優たらんことを欲する。スター・システムは如何にして發生したかといふに、バイオグラフのフローレンス・ローレンス孃が、カール・レーンムルの『インプ映畫』に迎へられて、スターとなつたのが其の起りで、それまではバイオグラフ・ガールとか、ヴアイタグラフ・ガールとかの稱呼が使はれてゐた。かくして映畫の價値は、出演俳優の顔ぶれ如何で定まるやうになり、製作者はスターの人氣を喚起するために宣傳これ努むるところがあつた。

「新職業としての映畫俳優」
『欧米及日本の映画史』石巻良夫、プラトン社、1925年、94-95頁

ハリウッド映画史のスター俳優システムを紐解いていくと、1910年頃に登場した「バイオグラフ・ガール」フローレンス・ローレンスと「ヴアイタグラフ・ガール」フローレンス・ターナーの二人に辿りつきます。

『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night’s Dream、1909年)

『ワシントン・パークに面した窓』(A Window on Washington Park、1913年)

『東は東』(East is East、1916年)

フローレンス・ターナーは1907年にヴァイタグラフ社でデビュー、花形の人気を博すようになりました。1909年に同社で初めてシェークスピア作品が本格的に映画化された(『真夏の夜の夢』『十二夜』)際はジュリー・スワイン、エディス・ストーリー、クララ・キンボール・ヤングらと並んで主要キャストの一画を務めています。

1912年頃から後続の若手に押されるようになってきたものの、1913年の米映画誌での投票では全体で23位、女優部門では13位(ちなみに14位がパール・ホワイト)と健闘を見せます。英国拠点で自身の名を冠したプロダクションを立ち上げたのがこの時期で、それまでのお姫様役から脱却した作風に挑戦。物質的な幸せと精神的な幸福について問うた社会派劇『東は東』は現在でも高い評価を得ています。

1920年代以降は脇役に回ることが多くなります。10年代のような華やかなスポットライトを浴びることはありませんでしたが『キートンの大学生(カレッジ・ライフ)』の母親役など日本で公開された作品にも幾つか出演していました。

今回紹介するのは1923年にイギリスで残されたサインです。同年末、イギリスでは不振に陥っていた自国映画産業を保護するため、国内上映作品の1/4を国産にする法制度が整えられます。この際に組合のミーティングに参加しスピーチを行った記事がサインに糊付けされていました。英国で映画製作を行った実績があったからこそで、彼女の存在感や影響力が1920年代まで続いていた様子が伝わってきます。

[IMDb]
Florence Turner

[Movie Walker]
フローレンス・ターナー

[出身地]
合衆国(ニューヨークシティー)

[誕生日]
1月6日

2022年1月5日 – 京都・吟松寺 雪の柳さく子地蔵

Yanagi Sakuko Jizo at the Ginsho-ji/Kyoto

正月休みに吟松寺を訪れました。

1月5日朝8時半、晴れ間が見えたかと思うとすぐに小雨のぱらつきはじめるあいにくの天候でした。

前回は金閣寺脇を抜けて紙屋川沿いを北上するルートを取りました。今年は逆に鷹峯までバスで向かい、そこから南下がてら寄る道順です。源光庵から小学校前を抜け、坂道を下っていくともみじ街道に出ます。道なりに歩いていくと紅葉の落ち葉が散りばめられた石塀の先にお寺の本堂が見えてきます。

小さな墓地の南東隅に近い一角に柳さく子地蔵が置かれています。この辺りは市街地と比べて1、2度気温が低く、カメラを準備していると雪がちらつき始めました。

初めて訪れたのが2015年のGW、次が2017年でしたので4年半ぶりになります。前回はカメラやレンズに興味を持ち始めたばかりの時期で思ったような写真は取れませんでした。山の端で音もなくざわめいている枝葉、静寂の中で立ち尽くす地蔵の質感。この独特な空気感を捉えるのはそもそも難しいのかなと思います。

手土産に古い雑誌の切り抜きを持参。かつて愛好家が保管していたもので手彩色が施されています。次にいつ来れるか分かりませんがそれまでお元気で。手を合わせて吟松寺を後にしました。

2022年1月6日 – 京都・葵公園 尾上松之助胸像

Statue of Onoe Matsunosuke at the Aoi Park/kyoto

6日午前中は繁華街で写真撮影や買い物を楽しんできました。町には正月気分が漂っているものの、錦市場などは平日だったこともあって人出は少なかったです。

午後に地下鉄で烏丸今出川まで向かい、そこから徒歩で東に移動。途上、鴨川を横切って三角州を抜けていきました。

三角州の尖った部分は「デルタ」と呼ばれていて、夏の休日は親子連れが水遊びに訪れ、夜は学生たちが酒宴を展開、時々謎のパフォーマンスや流しの演奏などもあったりで街の只中に一種独特な空間を形成。京都に幾つかある特異点のひとつです。

通りを一本挟んだ北に葵公園があって、そのまま北上すると糺の森から下鴨神社に抜けることができます。松之助像は風景に馴染みすぎていてもはや一般市民には気づかれない存在になっています。

よく見ると凛々しい胸像です。折角ですのでご挨拶まで。

2022年1月6日 – 京都・今出川通り 古書店めぐりと『メトロポリス(他一篇)』(昭和3年)

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Metropolis (Thea von Harbou, Translated by Hata Toyokichi, Kaizo-sha, 1928)

松之助像に挨拶を済ませて古本屋巡りをスタート。ゴールデンウィークであれば春の古本市に足を運ぶのですが時期がずれたので一軒一軒足で潰していきます。

まずは百万遍の吉岡書店~井上書店へ。大正期の映画誌や説明本が埋もれていないかな、と床の木箱まで漁りましたが収穫はなし。それでも人文系や洋書の充実はさすがでタイトルを見ているだけで刺激になります。

その後白河通りへと向かい善行堂~竹岡書店へ。

善行堂はセレクトショップ指向の古本屋さんで店内にジャズが流れています。横積みになっていた書籍のひとつで手が止まりました。

「…メトロポリス?」

奥付を見ると昭和3年(1928年)の初版。正式書名は『メトロポリス(他一篇)』。訳者は秦豊吉。映画のスチル写真も10枚ほど収められています。

邦訳があること自体初耳でした。ドイツ語版、英訳、仏訳いずれも1920年代の版は入手困難で灯台下暗しとはまさにこのこと。喫茶店で足を休めながら400ページを一気読み。巡礼の最後に素敵な発見がありました。

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(フリッツ・ラング監督)1930年代初頭 英パテスコープ版

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Siegfried (« Die Nibelungen: Siegfried », 1924, UFA/Decla-Bioscop, dir/Fritz Lang) Early 1930s UK Pathescope 9.5mm Print

ラング監督によるニーベルンゲン第1部『ジークフリート』の9.5ミリ版。ノッチ有の4巻構成で映写時間は1時間10分ほど、オリジナルの半分ほどに縮約されています。

戦前9.5ミリフィルム特有の粒子感は見られるものの良いプリントです。

『クリームヒルトの復讐』紹介で触れたように9.5ミリ版はウーファ社の輸出用ネガを元にしたプリントで、国内向けネガを元にした現行のデジタル版の別アングル、別テイクから構成されています。第1リール(鍛冶屋での修行、火龍との闘い、小人族が守るニーベルンゲンの秘宝)をスキャンし、デジタル版および戦後フランス製の8ミリ版と比較してみました。

左から順にデジタル修復版、仏フィルム・オフィス8ミリ版、英パテスコープ9.5ミリ版。

鍛冶屋の場面から出立まで

火龍との戦い

小人族とニーベルンゲンの秘宝

一部トリミングされているため完全一致とはなりませんが、仏8ミリ版はデジタル修復版と同じドイツ国内用ネガをベースにしていると分かります。一方で英9.5ミリ版は別カメラによるショットで構成されているためアングル、構図が変わってきます。また単にカメラが別なだけでなく、使用されているテイクが異なっているケースが多く表情や体の動き、人や物の位置関係も微妙に異なっていました。

1925年2月末、帝劇で『ジークフリート』がプレミア上映された時、映写機にかかっていたのは輸出用フィルムだったはずです。弁士を徳川夢聲氏が務める中、観客の凝視するスクリーンに映し出されていたのは右側、9.5ミリ版と同じイメージでした。

[公開年]
1924年

[IMDB]
Die Nibelungen: Siegfried

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB729

[9.5ミリ版発売年]
1931年8月

[フォーマット]
9.5mm 100m×4巻 白黒無声 ノッチ有

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(フリッツ・ラング監督)イリス商会1925年製 二折りリーフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Die Nibelungen: Siegfried (2-Folded Leaflet Made by C. Illies & Co. for 1925 Japanese Première)

ジークフリート物語

いつの頃と確とは知らず。ただゲルマン人々の血に潜み、骨に徹して傳へ来りし物語よ。

ネーザーランド王ジークムントは公子ジークフリートに稀代の劍鍛つ業収めしめんとてその頃鍛冶の誉高かりしニーベルング族の老傴僂ミーメの洞に遣はしぬ。日毎夜毎劍鍛つ業公子に勵む内三年五年は束の間よ。公子は眉秀で眼圓らに肉緊りて、心智く、業も一極優れて逞しき若者とはなりぬ。今はミーメに別れを告げグラニと呼ぶ雪白の名馬に跨りてアルベリツヒの崫に「ニーベルンゲンの寶」を得んと勇み行きぬ。やがてウオルムスの深き谿へと來れば地を轟かし森を震して、大な火龍熖を吹きて丘の如く道を阻みぬ。ジークフリートは名劍バルムンクを揮ひて火龍を殺しぬ。血奔りて掌を燒けるに思はず唇を當つれば不思議や、彼は梢なる小鳥の歌を解し得ぬ。

「人は知らぬ」火龍の秘密よ、血潮に浴せば不死身になるぞ。人は知らぬ、われ等のみ知る、火龍の秘密よ。ジークフリート喜びて裸身にて血の池に浴びぬ。此時上よりライムの枯葉一つ舞い落ちかゝりて、脊に拳程の肌、血に染みざりしを彼は知らざりしぞ悲しき禍の源なる。アルベリツヒの許には崫々に寶物數多充み滿たれば、之を獲んとて遂にアルベリツヒを倒しぬ。アルベリツヒは最後の際に「ニーベルンゲンの寶」に呪を與へ自ら石と化して死せり。ジークフリートは、隠身の蓑を携へて今は只管にラインを指して急ぎぬ。

旅衣はるかに、ジークフリートはラインの邊に來りぬ。彼方突几と高く聳ゆるグンター城には、ブルガンデイーの美と徳との徴、髪長く眸淨らなる王妹クリームヒルトなる乙女ありぬ。彼は必ず得て永く共に契らんと心決めぬ。され共、グンター王の股肱、心剛く知惠深きハーゲン、トロンエは優れたる若者を憚りて、クリームヒルトを許す爲に一つの難題を與へぬ。「我は十二人の王を統べたり。いかで、グンター王の配下に立たん!」と怒るジークフリートを優しくクリームヒルトは難題を受けよと乞ひぬ。 ジークフリート心を決めて、北極光紫に映ゆる氷島で強勇の女王ブルンヒルダと戰技を競ふ、グンター王を助け勝たしめ女王を得て歸城しぬ。

ブルガンデイーの城内に祝の頌歌高く擧りぬ。王はブルンヒルダと、ジークフリートはクリームヒルトと、婚宴の夜は歡びに溢れれぬれど、胸の中秘かにジークフリートを慕へるブルンヒルダはグンター王に冷やなりければ王の氣を入れ、變身の蓑もてグンター王に化身し、女王の心を試みしが、この秘密を覺りしブルンヒルダは、怨み憤り、さきに、クリームヒルトを欺きて不死身の秘密を知れるハーゲン、トロンエと計りて、鹿猟に事寄せて彼を失んとしぬ。其の日、トロンエは、ジークフリートの渇けるに乗じ、美しき池に到り脊後より鋭き槍を投げてジークフリートを殺しぬ。あはれ、若き王、ジークフリートは、かの呪はれし寶の爲に命を果てぬ。愛惜と悔恨に胸破れてブルンヒルダも亦、彼が亡體の側に自ら死せり。しかも、心深く、永く呪と復讐の誓を刻みし。クリームヒルトは只黙して冷たき涙を流してありぬ。

さもあればあれ、今とは樣變わりて、古の世、人心義に厚く、仇には剛くありしこそ、あはれ掬めども盡きぬ味かな。

◇◇◇

1925年2月、日本で二ーベルンゲン第一部『ジークフリート』が封切りされた際に先行して配布された2色刷りの粗筋・配役紹介。

木版画調の枠に飾られた4枚のスチル写真が大きくあしらわれ、下に粗筋がまとめられています。筋をまとめた人物の名は明記されてはいませんが堂々とした擬古文の調べは素人離れしておりそれなりに名の知れた活動弁士、又はそれに類した経験を積んだ持ち主と思われます。硬質なゲルマン古神話が「もののあはれ」に違和感なく置き換えられているのには驚きました。

1927 – 『大いなる跳躍』 (アーノルド・ファンク監督) 1930年代 英パテスコープ社プリント

Gita the Goat-Girl (Der große Sprung, UFA, dir/Arnold Fanck)
UK Pathescope 9.5mm Print 1st reel

イタリアはチロル地方の小さな村に「羊娘」とあだ名される少女ジータが暮らしていた。快活な性格と麗しい容貌に言い寄る若者も少なくなかつたが本人はピンとこないようである。「三本針」と呼ばれる巨大な奇岩によじ登って男たちを煙に巻くのであつた。

そんな或る日、ジータが水辺で羊と戯れているとどこかから悲鳴が聞こえた。目を上げると湧水を流してくる懸樋の先に男が引つかかつている。観光客が足を滑らせ流されてきたようである。ジータは懸樋に昇ると絡まつていた紐を噛み切つて男を助けたのであつた。

数日後、ジータが「三本針」で涼んでいると見慣れない高級車が見えた。降り立つたのは先日の観光客。都会から来たミカエルという名の若社長で、ジータに一目惚れし求婚に訪れたのであつた。想いを伝えたい一心でミカエルは切り立つ岩をよじ登つていく。地元青年のトニも負けじと追いかけたがミカエルが一歩早かった。「お嬢さん、貴女の御手を頂戴してもよろしいでせうか?」…リタは自分の手のひらを見つめ小首をかしげた。はてさて、高さ十数メートルの決死のプロポーズの行方や如何に。

『聖山』(1926年)や『死の銀嶺』(1929年)で知られる山岳映画の名匠ファンク監督の手による喜劇作品。前半は奇岩「三本針」の周辺で繰り広げられる恋の駆け引きを、後半はヒロインのパートナーを目指して繰り広げられる大掛かりなスキー大会を描いており、2本組で発売された9.5ミリ版の各巻が対応しています。

1924年6月、膝を怪我してしまい長期間舞踏から離れざるをえなくなりました。この時期にアーノルド・ファンク監督の『アルプス征服(Der Berg des Schicksals)』を見て、とても感銘を受けファンク氏に会いにいきました。お会いできたことで『聖山(Der heilige Berg)』の踊り子ディオティマ役を頂戴する結果になつたのです。一年半をかけ同作でご一緒させていただき、その後すぐに2作目の『大いなる跳躍(Der große Sprung)』が続きました。

「レニ・リーフェンシュタール」
『映画芸術家:自分自身を語る』(1928年)

Im Juni 1924 hatte ich mir das Knie verletzt, so daß ich lange Zeit mit dem Tanz aussetzen mußte. In dieser Zeit sah ich den Arnold Fanck-Film „Der Berg des Schicksals », der einen so starken Eindruck auf mich machte, daß ich Arnold Fanck aufsuchte. Die Folge dieser Begegnung war, daß mich Dr. Fanck für die Rolle der Tänzerin Diotima in seinem Film „Der heilige Berg » engagierte. Anderthalb Jahre arbeiteten wir an diesem Film, dem sofort der zweite „Der große Sprung » folgte.

Leni Riefensthal
Filmkünstler; wir über uns selbst (1928, Sibyllen-Verlag, Berlin)

シリアスな人間ドラマで見慣れているはずのリーフェンシュタールやトレンカーがとぼけた顔で荒唐無稽な恋愛ファンタジーを演じている様子は必見。十数メートルの高みでリーフェンシュタールが両腕を広げゆっくりと立ち上がる場面、燕尾服姿で大きな花束を抱えたシュニーベルジェが垂直の岩肌を登る場面など各々の身体能力の高さも存分に発揮されています。

『大いなる跳躍』は2020年にデジタル版(DVD/ブルーレイ/ストリーミング)が発売されており英語字幕付きで見れるようになりました。9.5ミリ版と比較した所、一ヶ所気になる部分が見つかりました。

若社長ミカエルが「三本針」を登るジータに求婚する場面です。頂上に辿りついたミカエルがシルクハットを上げて挨拶する場面が、デジタル版と9.5ミリ版では左右反転しています。

燕尾服の胸ポケットに注目してみます。上の写真で分かるように上着の左胸にポケットがあってハンカチ(又は手袋)らしき白い布が覗いています

帽子をとって挨拶する場面では右胸にポケットがあって白い布が見えています。またデジタル版ではジータが青年に手を貸して自分の体の右隣に引き上げるのですが、三人並んだ場面でミカエルは左隣にいます。コンティニュイティー(連続性)視点からデジタル版が左右反転していると見てよさそうです。

フィルムの表裏は一般に思われている以上に見分けにくく編集や修復(ダメージのある個所を置き換える)時のヒューマンエラーはありえるものです。最新のデジタル版にまでエラーが継承されている可能性がゼロではないため、できるだけオリジナルに近いプリントを参照する必要性を実感します。

[公開年]
1927年

[IMDB]
Der große Sprung – Eine unwahrscheinliche, aber bewegte Geschichte

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB748

[9.5ミリ版発売年]
1932年8月

[フォーマット]
9.5mm 100m×2巻 白黒無声 ノッチ有

大正14年(1923年)頃 35ミリ齣フィルム 30枚

c1923 35mm nitrate film fragments

大正末期に個人コレクターが集めた35ミリ齣フィルムのセット。革製の表紙に金文字で商品名をあしらった蛇腹型フィルムブックに収納されています。写真や絵葉書を貼るアルバムと違い、4か所のスリットに囲まれた中心部に四角い切り抜きがあり、光に翳すとコンテンツが見える仕組みになっていました。

齣フィルムは全部で30枚。邦画(8枚)、洋画(15枚)、相撲(7枚)の三種に大別できます。

邦画では尾上松之助と阪東妻三郎のフィルムが収められていました。その他のフィルムもすべて時代劇/旧劇のみで新派劇や現代劇は含まれていません。

一番充実していたのは米国映画でした。左はパール・ホワイトの中期活劇『電光石火の侵入者』(1919年)の広告をあしらったもの。名脇役ワーナー・オーランド演じるアジア系の悪漢に銃を突きつけている場面です。左はフェアバンクス短編からの一コマ。

アクション多めのヒーロー活劇が好きだった様子は他のフィルムからも伝わってきます。左はエディー・ポーロ。右は西部活劇からの一枚。

最も登場回数の多かったのがチャールズ・ハッチソン。以前に『ハリケーン・ハッチ』(1921年)の説明本『スピードハッチ』(1923年)の齣フィルムを紹介済。上の4枚はその両作の間に制作・公開された『豪傑ハッチ』(Go Get ‘Em Hutch、1922年)用のスチル写真をベースにしています。右上の一枚にはヒロイン役のマーガレット・クレイトンが登場、右下で驚いた顔をしているのは悪役のリチャード・ニール。

他に一枚ハリー・ケイリー(Harry Carey Sr.)も含まれていました。長いキャリアを持つ西部劇俳優で自国では根強い人気を誇っています。残り6枚は現時点で未特定。

角界関連の齣フィルムは初めて目にしました。

最上段のベテラン力士、第19代横綱・常陸山を除くと若手が並んでいます。中段左から伊吹山末吉、常陸島朝吉、阿蘇ヶ嶽寅吉と続き下段左から若葉山鐘、東雲衑藏、福栁伊三郎。

「故常陸山」とあるように常陸山は1922年の夏に亡くなっています。また阿蘇ヶ嶽は1924年春に廃業。阪妻が1923年初頭にマキノ等寺院に入社し知名度を上げ始めた点も考慮すると齣フィルム全体が1923年に流通したと見て間違いないと思われます。

モンタグ・イロナ Montagh Ilona (c1899 – ?)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(07)

Montagh Ilona Late 1910s Hungarian Postcard

ハンガリーでは今までそれほど多くのコメディ映画は作られてこなかった。だが見ることのできた数少ない幾つかの作品から判断する限り、我々はドイツ人よりこのジャンルに向いていると思われる。名匠オイゲン・イッレーシュが脚本と監督を手掛けた新作喜劇は『伯爵夫人泥棒』のタイトルで近日公開予定。同作の目玉となっているソムレイ・アルトゥール氏に加え、若手女優モンタグ・イロンカ [原文ママ] が感情の起伏の激しい演技を見せる。

「ハンガリー喜劇新作」
『演劇生活』1916年第7号

1899年頃に生まれる。早くから演技の道を志し10代半ばで国立劇場に立ち『ポーランドの血』で高い評価を得る。1916年、エイゲン・イーレッシュ監督作の喜劇短編2作に出演。1917年から拠点をベルリンに移し、レッシング劇場で上演された軽喜劇『空の女王(Königin der Luft)』がヒット作となり同劇場付き女優となり、後にコーミッシェ・オーパー (Komische Oper Berlin)に転籍。

1920年代には米国に進出。21年初頭にニューヨークの39番街劇場で上演された『結婚同然(Almost Married)』で成功を収めます。この時の相手役が後のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ(ルゴシ・ベーラ/Lugosi Béla)。共同作業が続く中でロマンスが生まれ1921年9月に結婚、しかし妻に女優業を引退してほしかったルゴシと女優キャリアを続けたいイロナが対立、翌年には離婚しています。離婚後の消息は不明。熱心なベラ・ルゴシ愛好家の調査によると1935年に万引きで逮捕された記録が残っており不況期に生活の困窮していた様子が伺えます。

ルゴシの伝記で名を見かける機会があるものの若い頃の写真がほとんど残っていないそうで1918年のポートレート入絵葉書は貴重な一枚です。

[IMDb]
Ilona Montag

[Hangosfilm]


[データ]
1066 Bildnis von Angelo Budapest 1918

1928 – Super8 『放浪三昧』 (千恵プロ、稲垣浩監督) 東映/サングラフ版

「8ミリ 劇映画」より

Hôrô Zanmai (« The Wandering Gambler », 1928, Kataoka Chiezo Productions, dir/Inagaki Hiroshi)
Toei/Sungraph Super8 Print

片岡千恵蔵がマキノから独立して立ち上げた千恵プロ初期作のスーパー8版。VHSやDVDでも市販された記録がありますがVHSは松田春翠氏の語り付きで60分版、DVDは無声の40分版と内容に異同があります。サングラフ版スーパー8は上映時間12分ほどで光学録音に竹本嘯虎氏、カセットに花村えいじ氏の語りが収録されていました。

江戸詰めの職務を終え、山道を越えて故郷へと戻らんとする武士たちの列に伊達主水の姿があつた。妻のつゆと一人息子の小太郎との再会を目前に主水の心は躍るのであつた。

その頃、自宅にて留守を守っていたつゆの元に怪しげな来訪者があつた。以前からつゆに横恋慕していた関口荘六である。荘六は江戸で主水が勤王派の志士と知己になつたのを知り、「この一件が明るみになればお前の夫の将来はないぞ」と脅しにかかる。主水が勤王派とやりとりした手紙と引き換えに自分のものになれと云ふのであつた。

自宅に帰り着いた主水であるが、家は奇妙なほどに静まりかえっていた。仏間に入った主水は驚きのあまり凍りつく。仏壇の前には自害してこと切れた哀れなつゆの姿があつた。残された書置きから全ての経緯を知つた主水は関口荘六の家に乗りこみ、妻の仇を容赦なく切つて捨てるのであつた。

脱藩し一子小太郎との流浪の旅に出た主水。やがて二人は京都へとたどり着く。折しも京の町は佐幕派と勤王派の抗争に血なまぐさい空気を漂はせていた。

主水が勤王派と繋がつていると信じた新選組が主水をつけ狙う。近藤勇は配下の者に小太郎を誘拐させ、主水を屯所におびき寄せる。

主水の危急を知った勤王派の志士たちが駆け参じ、佐幕勤王入り乱れた死闘が繰り広げられる。果たしてこの死地を逃れることが出来るのか、小太郎を胸に抱きかかえた主水の運命や如何に。

内容は前半「復讐編」、後半「幕末京都篇」の大きく二つに分かれています。流浪の武士と子供による二人旅の設定は前年の『忠次旅日記 第2部』(伊藤大輔)と重なってきますし、新選組が暗躍する京都を舞台にした作品としては同年の『坂本龍馬』(枝正義郎)があるため、比較していくと色々発見がでてきます。

9.5ミリ版紹介で触れたように『坂本龍馬』では三点照明法を採用することで薄暗い室内でも人物の髪の輪郭がくっきり見えるようになっていました。『放浪三昧』にそういった発想はなく、室内撮影ではスポットの当たった中央一点が極端に明るく周囲が減光、なおかつ頭の輪郭の黒が背景に埋没してしまっているショットが目立ちます。枝正義郎氏との技術力・経験値の差が出てしまっている部分なのかなとは思います。

酔いで視界がぶれて像が4重に見える場面

Rhythm 21 (Hans Richter, 1921) from MoMA Collection

一方で『放浪三昧』は自然描写や静物(屋台の鍋や囲碁盤)を合間に挟み流れにリズム感を生み出すセンスが光っています。また屋台で酔っ払った主人公が店を出た時、視界がブレて通りの光が4重になって見える場面がありました。ハンス・リヒターの前衛アニメーション作品『リズム21』(1921年)と強くリンクした動的・抽象的表現です。稲垣浩氏にとって二回目の監督作品ながらも新人離れした才能、そして野心は見え隠れしている訳です。

しばしば指摘されているように初期千恵蔵の殺陣は軽快で明るさを湛えています。傅次郎の豪胆や妻三郎の壮絶は欠けているものの、テンポの良いスポーティーな立ち回りは見ていて心地良いものでした。

脇を固める俳優陣にも注目。小太郎を演じた中村寿郎は本作が子役デビュー作。以前に16ミリを紹介した1931年日活作品『殉教血史 日本二十六聖人』にも山本礼三郎と滝沢静子の子供役で出演していました。主人公の妻・つゆを演じたのは衣笠貞之助の実妹・淳子さん。戦後までコンスタントに活動されておりますが現存作品が少なく今回初めて動いている姿を見ました。写真では物静かで地味な印象を受けましたが和服姿で髪を上げると品の良い香りが立ちます。

[JMDb]
放浪三昧

[IMDb]
Hôrô zanmai

[公開]
1928年8月1日

[8ミリ版製作]
東映/サングラフ

[カタログ番号]
807

[フォーマット]
60m×1、18コマ毎秒、白黒、光学録音、語り:竹本嘯虎&花村えいじ

大正14年(1925年) – 『日活映画』 9月号(映畫世界社)

Nikkatsu Eiga 1925 September Issue (Eiga Sekai-Sha)

「映画往来」「劇と映畫」「キネマ旬報」誌への寄稿で知られる淡路浪郎氏らを中心に編集された日活専門のファン雑誌。表紙は岡田嘉子さんで巻頭に西條香代子、澤村春子、岡田嘉子らのグラビアを収録。画質は並ながらも雰囲気の捉え方が上手ですね。

グラビアと新作紹介がメインで論考は少な目。書き手がお気に入りの俳優を推す内容が目立ち、対談もリラックスした調子が目立ちます。内輪ノリが強く好き嫌いの割れる内容ですが、小泉嘉輔の礼賛記事のように面白い視点を含んだ記事も含まれています。

新作紹介欄では松之助版『鞍馬天狗』(脚本は水島あやめと並ぶ女流脚本家先駆者の一人林義子)、浅岡信夫のデビュー作『母校の為めに』、砂田駒子・渡辺邦男・斎藤達雄を配した『妖怪の棲む家』。伯爵令嬢(西條香代子)の婚約者が殺された事件を探偵(南光明)が追っていく探偵活劇『闇の中の顔』などが紹介されています。

大正期らしい手描きのデザインフォントが良い味を出しています。雑誌サイズは縦22.1×横14.5cm。後半は紙の劣化・腐食が見られ角が削れたようになっていました。

9月号ということもあって夏に撮りためた写真が多く掲載されており後半は水着特集。水泳帽がファッションの一部になっていた様子も伝わってきます。

大正14年(1925年) – 『フアンの友』(太陽社)

« Fan no Tomo » (1925, Taiyo-Sha) 8-page booklet featuring still shots from « Rakka no Mai », « Nanimono? » « Aru Tonosama no Hanashi » and « Kunisada Chuji »

牧野氏の獨立はやがて多數の契約館を喪失するに至かも知れぬ。そこで東亜は躍起となつて牧野氏と交渉を始め、その結果愈よ圓滿に解決を告げて、五月三十一日を以て完成せる『落花の舞』(全二編、沼田紅綠氏監督)は東亜に引渡して、牧野氏單獨にて身を引くことゝとなつた。かくして完全に撮影所の引渡を終り、八千代生命の宣傳部長たりし小笹正八氏が等持院撮影所長に任命された。[…]

「東亞對マキノ紛爭」
『欧米及日本の映画史』石巻良夫、プラトン社、1925年、360-361頁

太陽社から公刊された縦13.3×横9.7センチの小冊子。内容は1925年前半の東亞マキノ等持院作品スチルや撮影風景写真をまとめたもの。時期的にはマキノ省三氏が東亞を離れた直後に当たると思われます。

ヘルガ・モランデル Helga Molander (1896–1986) 独

Helga Molander 1920s Autographed Postcard

1896年、現在はポーランドに位置しているドイツの町ケーニッヒスヒュッテで生まれる。舞台で演技の経験を積んだ後、1910年代末に映画女優としてデビュー。着実に出演作を増やし1920年にはハノーヴァーに設立されたフェリー映画社の花形女優に迎え入れられます。

キネマトグラフ誌1920年6月号より
フェリー映画社広告

1921年『名花サッフォー』(Sappho)より

1921年には『名花サッフォー』に出演。ポーラ・ネグリ演じる妖婦に婚約者を奪われるマリア役を演じていました。

1925年『待乙女三人』(Die drei Portiermädel)より
左から二番目にヘルガ・モランデル

1923年頃から活動拠点をテラ映画社(テラフィルムクンスト)に移し、同社の大物監督&プロデューサー、マックス・グラス氏の作品で主演を務めるようになります(1923年『鉄仮面の男』『ボブとマリー』)。1920年代中盤がキャリアのピークとなり、トーキー到来と共に銀幕を離れています。

その私生活は波乱に満ちたものでした。

映画界でのデビュー前に舞台俳優と結婚。1916年に長男のハンス・ユルゲンが誕生するも結婚生活が上手くいかず1918年に離婚しています。母方にユダヤの血が流れていたため1930年代にはドイツを離れパリに向かいます。このとき同行したのが先に名前の上がったマックス・グラス氏でした。ドイツを離れることを拒んだ母親は強制収容所で亡くなったそうです。

グラス氏はパリで映画会社を立ち上げたのですが、親独政権が誕生すると身の危険を感じブラジルに脱出。ヘルガさんもまた同地で合流します。戦後、グラス氏が離婚した1957年に正式に再婚しグラス夫人となりました。テラ映画社時代から事実婚の状態だったそうで、カトリックで離婚が認められていなかったためこのタイミングになったとのことです。

母親について?例外的なまでに美しく、とても知的で、そばに寄ってくる男たち皆を魅了してしまう女性でした。天賦の才を備えていたとは思わない。でも美貌と知性が噛みあい、生れもっての才能に欠けていたものを埋めあせていたのです。

『理由ある反抗』
ハンス・ユルゲン・アイゼンク

What can I say about my mother? She was exceptionally beautiful, highly intelligent, and fascinating to every male who came near her. I don’t think she was a natural actress, but her combination of beauty and intelligence made up for her what nature had failed to give her in talent.

Rebel with a Cause, Hans Eysenck
(Transaction Publishers, 1997)

最初の結婚で生まれた息子とは早くから疎遠になっていました。ハンス・ユルゲンはイギリスに留学後心理学を学び、著名な学者となります。現在でも性格診断の分野で言及されることの多い「アイゼンク性格検査」を提唱したハンス・ユルゲン・アイゼンク(1916 – 1997)氏で、同氏は回想録に母親の思い出を書き残しています。

[IMDb]
Helga Molander

[Movie Walker]
ヘルガ・モランデル (Helga Molander)

[出身地]
ドイツ (ケーニッヒスヒュッテ、現ポーランド・ホジュフ)

[誕生日]
3月19日

[データ]
Karl Schenker phot.

[サイズ]
8.6 × 13.2 cm

ヘルマ・ヴァン・デルデン Herma van Delden (生没年不詳) 蘭

Herma van Delden 1922 November Autographed Postcard (with message on the back)

1920年代初頭に主にドイツ映画で活動していた女優さん。ツェルニーク=マラ映画社でリア・マラ主演作に脇役として登場しつつ、フレート・ザウアー監督作などで幾度かヒロイン役を任されています。

名前からオランダ系ではないかと思われ、キャリア後期には同国の無声映画にも出演。現存作品は確認できていませんが、オランダのEYE映画博物館のホームページに1922年作品「黒幕(De man op den achtergrond)」出演時の集合写真が紹介されていました。

2列目右端の椅子に座っている女性がヘルマさんだと思われます。

もう一枚、オランダ初期映画のデータをまとめた『喜びと悲しみと』(Of Joy And Sorrow、ジェフリー・ドナルドソン、1997年、オランダ映画博物館)には「黒幕(De man op den achtergrond)」のスチール写真がありました。

入手した絵葉書は1922年11月23日付チェコスロバキアの消印がある一枚で、女優さん自身の手書きのメッセージが含まれています。宛先はウィーン在住のハンス・ルドルフ・ヘーニッヒ氏(Hans Rudolph Hönig)。フレンドリーな口調で書かれた文章で、最後には「1923年にウィーンにお邪魔する機會があるかも(Vielleicht komme ich 1923 noch nach Wien)」の追伸が残されていました。

1924 – 『靑春の歌』(日活京都、村田實監督) 鈴木傳明&高島愛子 絵葉書

Suzuki Denmei & Takashima Aiko in « Seishun no Uta »
(A Song of Youth, 1924, Nikkatsu Kyoto, dir/Murata Minoru) Postcard

村田實氏の「運轉手榮吉」に次ぐ作品は新加入の高島愛子孃と鈴木傳明氏共演になる學生ローマンス劇と決し、目下脚本選定中である。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月1日付第176号

村田實氏は既報の如く高島愛子孃第一回作品として田中總一郎氏原作脚色になる戀愛詩劇の「靑春の譜」と決し愈々監督を開始した。俳優は高島愛子孃鈴木傳明氏南光明氏東城坊恭長氏等にて、技師は横田達之氏擔當である。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月11日付第177号

村田實氏の監督中なる高島愛子孃鈴木傳明氏共演の第壹回作品は「靑春の歌」と改題されて近日完成される筈である。尚既報出演俳優の外近藤伊與吉氏がリューコデー張りの敵役で出演して居る。ロケーションは阪神沿線の芦屋へ出張した。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月21日付第178号

畧筋 – スポーツマンとして其名を知られた工科大學生瀨戸は歴史学を専攻して居る津田とは親友で、津田の師たる原文學博士の令孃美代子とは淡い初戀の仲であつた。四年の後、米國へモーターの研究に留學して居た瀨戸は歸朝して來て、彼の發明したモーターをもつてオートバイ競爭に現はれ、優勝の月桂冠を戴いた。彼は絶ゑて久しく美代子と再會したが、美代子は今や父博士の助手たる津田に戀されて居る身であつた。瀨戸は親友たる津田が美代子を戀して居ると知つて、戀を諦めやうとしたが、美代子としては初戀の儚忘れ難く瀨戸を愛して居たのである。

近作映畫紹介
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月21日付第178号

比較的に短いので倦怠を來さないといふ事が唯一の取柄である所の情ない映畫である。あの原作とあの俳優では少し位監督が氣を効かした所で全然無駄である。表はす可き事を少しも摑まずに、本筋とは無關係な御説教や饒舌やで好い氣になつてゐる脚色は特に笑止である。[…]

俳優は皆駄目。元來活劇專門たる可き人達をかういふ所に使ふのが間違ひである。近藤氏はも少し重味があつたらと思はれる。

どうせあの顔觸れである以上、も少し活劇味をふんだんに盛らなければ成功しないことは初めから判り切つた事である。映畫全躰としての弱點は茲にある。

主要映畫批評 岩崎秋良
『キネマ旬報』 大正14年(1925年)1月1日付第181号


高島愛子日活入社第一回作品として新人鈴木傳明其他素晴らしい配役で自働車、馬を飛ばしての大活劇。

『映画と劇』 大正14年(1925年)新年号

さて「靑春の歌」は良いのかと云はれると誠に困るのである。名監督の評ある村田實だつて、如何に大家の作でも内容の貧弱さと空虚なのは救はれやうがない。それでも此の監督だから、あれだけ興味のあるものとして觀られたのだ、部分ゝゝに良い味が出てゐた、小手先の利いていることが特に目立つていた。[…]

批評家は口を揃へて傳明も愛子も演技が下手だと誹してゐる、が傳明も愛子もあのタイプだけで今の人氣は湧いて來たのである、二人の演技はこれからの問題なのである。それ程に今の映畫俳優の演技は役者じみた極りきつたものになつてしまつていて、どれも、これも、時代離れのした性格の表現しか出來ないのである。この物足りなさの中へ、フアンの生きてゐる時代のある一面を代表した、清新なタイプの人間がスクリーンに現れて來た。そこに彼等の人氣の根據がある。

「高島愛子と鈴木傳明 – 『靑春の歌』を觀て」東四郎
『映画と劇』大正14年(1925年)2月号

日活に転じた高島愛子さんの第一回主演作品『靑春の歌』スチール写真をあしらった絵葉書一点。

『靑春の唄』は前々から気になっていた作品でもあって今回上映前後の情報をまとめてみました。1924年11月のキネマ旬報で企画から製作の流れが丁寧に追われており、日活による広告も二度挟まれています。ただし公開後の同誌批評欄は酷評と呼べる内容でした。キネ旬のみならず批評家筋の評価はのきなみ低かったようで、それに対し東四郎氏が『映画と劇』に擁護の一文を寄稿した…という流れになっています。

東氏にしても作品が「貧弱」で「空虚」な点や、両主演の演技力に問題のあることを否定している訳ではありません。それでも現在という「時代」につながった「清新」な人物像(タイプ)が登場してきている、という点を強調したがっているのです。こういう議論って往々にして古い形式や価値観と新しいそれが入れ替わる端境期に見られるものですよね。旧来の表現や形式が停滞を見せる中、若い感性が(ヌーヴェルヴァーグ的な)一瞬の切り込みを見せたとも解釈できる流れで、その切れ味の怜悧さは絵葉書の写真からも伝わってきます。

[JMDb]
青春の歌

[IMDb]
Seishun no uta

1925 – 9.5mm 『江戸怪賊伝 影法師』 (東亜マキノ等持院、二川文太郎監督) 伴野商店プリント

Edo Kaizokuden Kagebôshi (1925, Tôa Makino Tôjiin, dir/Futagawa Buntarô)
Episode 1 – 3, Late 1920s Banno 9.5mm Print

1925年に公開された阪東妻三郎主演作の9.5ミリ版。同作は国立フィルムアーカイヴ、マツダ映画社、プラネット映画資料図書館が16ミリまたは35ミリ断片を所蔵、VHSとDVDで発売されたこともあり阪妻初期作としては名の知れた一作となっています。

以前に紹介した『坂本龍馬』(1928年)伴野版9.5ミリは1930年代のプリントで120m×2本、ノッチ無しで市販されたものでした。『影法師』は1920年代末のプリントで、長編から5つのエピソードを抜粋した5作(ノッチ有)を独立して市販する形をとっていました。伴野社のナンバリングに従うと171、173、175、177、257番の5本で、それぞれ20m×2本の構成です。

今回入手したのは当時のコレクターが全巻をつなぎ合せて120mリールに再マウントしたものです。第1~第3エピソードまでを一巻にまとめ前編とし、第4~第5エピソードを後編にまとめたようで、入手できたのはその前編。伴野カタログの171、173、175番に相当します。

9.5ミリ化に当たり伴野商店はそれぞれのエピソードに独自の副題をつけています。171番は「活躍篇」、173番は「任侠篇」、175番は「出沒篇」となっていました。エピソード毎に画質の差があって、最初の「活躍篇」が一番綺麗なプリントで、「出沒篇」がそれに続き、「任侠篇」は粒子感の強い粗めの画面になっています。

「影法師 第一篇活躍篇」(伴野商店、171番)20m×2本

 影法師…阪東妻三郎
 流星十太…高木新平
 お美江…生野初子

「活躍篇」は現行DVD版の12:38~17:53の流れをまとめたもので、旗本の娘お美江(生野初子)がスリに簪(かんざし)を盗られたのを影法師が取り上げて返したところ、巡回していた岡っ引きが影法師の姿を認め詰問~チャンバラに展開していきます。

幾つかのフレームをDVD版と比較してみました。

DVD版は情報密度は高いもののかすれた感じが強く全体的に低コントラスト。9.5ミリ版は逆にコントラストが高めで暗い部分が黒飛びしています。また9.5ミリ版の縦のアスペクト比が若干狂っていてDVD盤と比べ2.5%ほど縦に圧縮されています。同一フレームでも印象が変わりますね。

「影法師 第二篇任侠篇」(伴野商店、173番)20m×2本

 影法師…阪東妻三郎
 流星十太…高木新平
 盲権次…中根龍太郎
 似非影法師…美浪光

「任侠篇」はDVD版24:21~26:59に対応している部分で、民家に強盗に入った「似非(えせ)影法師」を本物が退治するエピソードです。ただしDVD版はエピソードの冒頭部が欠落しており、いきなり少女が影法師一党に助けを求める場面から始まっていました。

上のキャプチャ―画面のように似非影法師が夫婦を脅し、それに気づいた子供が逃げ去る一連の流れが冒頭にありました。この点に関しては2012年に神戸映画資料館で「江戸怪賊伝 影法師」が上映された際、「欠落部を京都のコレクター田渕宇一郎が入手した9.5ミリプリントから補完した」の記録が残されています。

9.5ミリ版「任侠篇」にはもう一つ重要情報が含まれています。似非影法師を演じた俳優名です。「美浪光(みなみひかる)」は以前に東亞キネマのサイン帳で紹介した尾上紋弥の初期芸名だそうです。右門捕物帳で「あばたの敬四郎」を演じた名脇役です。

JMDb(およびそれを下敷きにした「影法師」のウィキページ)には似非(えせ)影法師を演じた俳優名は記載されていません。国立映画アーカイブマツダ映画社の作品紹介ページに美浪光の名前が見つかりましたが「鴉の仙太」役として登録されています。「鴉の仙太」は第一エピソード「活躍篇」に登場したスリの名前です。

本当だ、どちらも尾上紋弥です。

「かんざし泥棒のエピソード」で懲らしめられた悪役・鴉の仙太が後に「似非影法師」として再登場、今度も本物に見つかって斬られて果てる…という流れになっていることが分かります。『江戸怪賊伝 影法師』の理解・解釈で見過ごされてきた要素です。

「影法師 第三篇出没篇」(伴野商店、175番)20m×2本

 影法師…阪東妻三郎
 盲権次…中根龍太郎
 赤鬼喜蔵…中村吉松

「出沒篇」はDVD版の23:21~24:21に対応するエピソードです。DVD版では短い断片しか残っておらず、影法師(阪東妻三郎)と権次(中根龍太郎)が囲碁をしている所に誰かがやってきた場面でフェードアウト。

この場面は岡っ引きの喜蔵を中心としたエピソードで、影法師の所在地を突き止めようと「編み笠」を頼りに捜査を進めていきます。聞き込みで浮かんできたのは「碁會所・金鷹」。配下の者とともに捕縛に向かうも影法師が動きを察知、如何にして喜蔵たちから逃れるか…が描かれていきます。

DVD版では脈略を欠いた場面に見えていたのは独立したエピソードが隠されていたことになります。

お茶目さを備えた権次(中根龍太郎)、くせ者の気配を漂わせた十太(高木新平)、端正な正義漢の喜蔵(中村吉松)、憎々しい仙太(尾上紋弥)…3つのエピソードには脇役のキャラを立てる発想が強く出ています。『影法師』第一作時点で既にシリーズ化が念頭に置かれていたと思われ、次作以降も使いまわしの効く世界観、人間関係を第一作で組み立てておこうとしたと考えられます。

1929年8月19日 – 9.5ミリ個人撮影動画 『ツエ伯号着の三井より望む』

c1929 Japanese 9.5mm Home Movies including
« The Graf Zeppelin, watched from the Mitsui Building »

この前の伴野版『君戀し』(1929年)の所有者が撮影、保管していた7本の個人撮影動画。全て手書きのタイトルが付されています。

『ツエ伯号着の三井より望む』
『格納庫内のツエ号及利根渡り』
『ツエ号の雄姿 1929.8.19-20』
『国立公園大觀峰』
『嵐山(1)』
『嵐山(2)』
『宮島と岩国』

4本は観光地(富山、京都、広島&山口)での映像ですが、それに加えて昭和4年、世界一周航行の折に日本に寄港したドイツの飛行船グラーフ・ツェッペリン号(通称「ツエ伯号」)を記録した動画が3本含まれていました。

1本目の動画『ツエ伯号着の三井より望む』は昭和4年8月19日に飛来したツェッペリン号と、それを見守る観衆を日本橋の三井のビル屋上から捉えたものです。

屋上に「エムプレス食堂」の看板が設置された向かいのビル(三越?)に人が集まっている様子。カメラがそのまま視点を左に移動させていくと、通りを挟んで撮影者のいるビル屋上が写り込んできます。

その後空を写した映像がしばらく続きます。フィルムにダメージ(湿度による細かな割れ)が多いのですが、飛行船を先導している複葉機の機影が捉えられていました。

市街地の俯瞰からカメラは三井ビル屋上へと戻り、ツエ伯号飛来を一緒に見ている友人たちの映像がさしはさまれます。カメラがそのまま再び空を捉えると、今度は三角形のフォーメーションを組んだ3機の複葉機が飛んでいます。

そしていよいよツエッペリン号の登場です。

万国旗で飾られた尖塔の先、画面の中央部上側に飛行船が写っています!

最初は後尾が見えていて、進路をゆっくりと左に変えて進んでいきます。観衆の反応なども記録しつつ、ちょうど飛行船の半身がこちらを向いたところでフィルムが終了しました。

ツエ伯号飛来は当時国内で大きな話題を呼んだ出来事でした(リアルタイムの反応については国立国会図書館HPの「本の万華鏡」が詳しいです)。ニュース動画としての需要もあり伴野商店から複数の9.5ミリ動画が市販されていました。

『ツエ伯號霞ケ浦到着』(178番)
『ツエ伯號霞ケ浦出發』(180番)
『訪日のツエツペリン伯號』(205番)

今回入手した動画は個人撮影で手振れが目立ちます。それでも周囲が盛り上がっている中で撮影された臨場感は十分伝わってくるものです。

また撮影場所が三井ビルの屋上でそこからの眺望が多く含まれていたのも興味深いところです。

本サイトでも9.5ミリ動画で追ったことがあるように東京が関東大震災(大正12/1923年)から復興していく様子は帝都復興祭(昭和5年/1930年)で記録されていました。今回の映像はその半年前に当たっておりアップデートされたばかりの首都が記録されていることになります。三井と向かいの三越の屋上を撮影した戦前動画はそう残っていないはずで都市開発や都市計画、建築の側面からも面白い発見が出てきそうです

1929年8月 – 9.5ミリ個人撮影動画 『格納庫内のツエ号及利根渡り』

ツエ伯号関連フィルムの2本目『格納庫内のツエ号及利根渡り』です。

飛行船の到来を東京で見た後に撮影者さんは家族と共に格納庫の位置する霞ケ浦に向かいました。利根川を渡って茨木県に移動。フィルム前半は小舟を使って乗用車を渡す様子(「利根渡り」)を記録したものです。

利根川の河畔、「取手病院」の看板を出した建物の前に乗用車が並んでいます。車から降りてくる日傘の女性陣は撮影者さんのご家族ではないかと思われます。車のナンバーは黒地に白文字で「2-863」となっていました。

もう一台の車が到着するのを待っていたようです。小舟が到着、上陸した車がカメラの前を通り過ぎていきます。制服姿で一般人ではなさそうな感じ。

この後格納庫に収まったツェッペリン号の姿が映し出されていきます。

格納庫からはみ出さんばかりの後端部、機体に書かれた「GRAF ZEPPELIN」の文字。カメラはゆっくりと船体外観を捉えていきます。

タラップ近辺に集まっている観衆とスタッフたち。そして複雑に入り組んだ格納庫の構造物…

後半、薄暗がりの中に飛行船の機体が大写しにされる流れが非常に素晴らしい一本です。

格納庫の位置する土浦市では現在でも土浦ツェッペリン倶楽部を中心にゆかりのある品の収集・保管・展示が続いています。先週、土浦市商工会議所を通じて同倶楽部にデータの一部をお渡しさせていただきました。以前の『沖縄』もそうでしたがこのレベルの専門性の高いトピックは詳しい人に見てもらうのが一番ですね。

また1920年代後半に首都近郊でも舟で車を渡していたのは初めて知りました。水運史の観点からも貴重な映像ではないでしょうか。

1929 – 9.5mm 小唄映画『君戀し』(伴野プリント、断章) 河合映画版?

「伴野商店」より

Kimi Koishi (1929)
Banno Co., c1930 9.5mm Print, 2nd reel

先日、1920年代末にパテベビー映写機と撮影機を使用されていた方のフィルムコレクション一式を入手しました。そのうちの1本に伴野商会から発売されていた『君戀し』の後半部(2巻構成の第2巻のみ)が含まれていました。

宵闇せまれば 悩みは涯なし
みだるる心に うつるは誰(た)が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く

唄声すぎゆき 足音ひびけど
いずこにたずねん こころの面影
君恋し おもいはみだれて
苦しき幾夜を 誰がため忍ばん

去りゆくあの影 消えゆくあの影
誰がためささえん つかれし心よ
君恋し ともしびうすれて
臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや

二村定一歌唱による「君戀し」は昭和初期の流行歌としてよく知られたもので、楽曲のヒットにあやかり昭和4年の3~7月にかけて複数の映画会社による映画版が公開されていました。

 3月2日公開:松竹蒲田版(島津保次郎監督、島田嘉七&八雲恵美子ほか出演)
 3月6日公開:森本プロ版(光田比登志監督、夢路小夜子ほか出演)
 3月8日公開:マキノ版(川浪良太監督、松浦築枝&沢田敬之助ほか出演)
 3月8日公開:河合版(丘虹二監督、環歌子&松村光夫ほか出演)
 3月8日公開:日活太秦版(三枝源次郎、滝花久子&島耕二ほか出演)
 7月6日公開:東亞版(仁科熊彦監督、雲井竜之助ほか出演)

物語は美也子という名の女性と2人の男性の恋模様を追っています。美也子は地方のカフェバーで女給をしていて、そこで客である学生・柏木に思いを寄せられます。一方お店の常連客である吉之助は許嫁のある身でありながら美也子に惚れてしまい、強引に口説こうとするのでした。

美也子と吉之助が話している様子を見た柏木は二人が仲睦まじいと勘違い、思いを断ち切って東京に帰ろうとします。やけ酒を食らい、店に足を運んだ柏木は「君戀し」のレコードが流れる店内で美也子に別れを告げます。

柏木の想いが真実であると知った美也子は港に向かいます。東京へと向かう最終便の船に乗りこもうとした柏木に追いついき、自分も一緒に東京に帰ると告げるのでした。

今回入手した第2リールの内容は以上です。9.5ミリ版の断章からも脚本やセット、衣装に贅を凝らした作品ではないと伝わってきますが途中に挿入された蓄音機の場面など小唄映画の「見せ方」を知る上で良い資料です。

制作会社や出演者・スタッフ名は明記されておらずフィルムからではどの会社の版なのかは不明。美也子を演じているのは目の輪郭や涙袋の感じからして…環歌子?吉之助を演ずる顎のほっそりした青年は葉山純之輔氏と思われるためおそらく昭和4年の河合映画版ではないか、と。

記憶違いでなければこの時期の環歌子主演の現代劇は残っていないはず。『火の車お萬』(1928年)の女侠客のように時代劇の印象が強く正直現代劇のイメージが沸かないです。この9.5ミリが河合版だとするなら、しっとりしたメロドラマ的な表情を見せる対応力も備えていたことになりますね。

映画版『君戀し』については紙資料があまり残っておらず不明な点が多いためもう少し調べてから続報をお伝えいたします。