1917-22 忘れじの独り花(4)マリア・レイコ Marija Leiko (Мария Лейко 1887–1938) ラトビア

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

マリア・レイコ 1920年 サイン絵葉書
Marija Leiko 1920 Autographed Postcard

2017年8月から9月にかけて、リガ映画博物館で無声映画期の女優、マリア・レイコの回顧展が開催されていました。自国ラトビアでもほぼ忘れ去られていた女優だったため、この企画で初めて名前を知った人も多かったようです。

Marjia Leiko in Die Spelunke (mid 1910s)
1910年代中頃の舞台関連絵葉書
フリッツ・メンデル氏旧蔵スクラップ帖より)

1900年代末にドイツへと移り、演劇の下積みを重ねながら知名度を上げていきます。古典劇を得意とし『ハムレット』や『ファウスト』でヒロイン役を務める機会もあったそうです。1917年からラインハルト劇団に所属、同時期に映画にも出演し始めるようになります。当時ケンタウロス映画社を拠点としていたハンス・コーベ監督やヨハネス・グウター監督作品に多く出演していました。

『グリーンアレイ』(1928年)でのマリア・レイコ
『グリーンアレイ』(Die Rothausgass、1928年)でのマリア・レイコ
20年代末となり無声映画の終わりが近づくと映画界を離れ舞台の世界に戻っていきます。ナチスが政権に就くと母国ラトビアに帰国、そのまま自国で活動を続けていきました。

1935年、産褥で亡くなった娘の葬儀のためソビエトへと向かい、帰路、友人の勧めでソビエトで劇団に所属することになります。折しもスターリンによる敵対勢力の粛清が吹き荒れており、マリアさんは同僚らと共にスパイ容疑で逮捕され、1938年2月、型通りの裁判で有罪宣告され銃殺されました。享年51。大国の思惑に翻弄されたラトビアの20世紀史そのものの人生でした。

リガ映画博物館での回顧展は生誕130年を記念して開催されたものです。ラトビア出身女優は他にリア・マラ(Lya Mara)もいましたし、ドイツ無声映画が多国籍な環境で発展していった様子が伺えます。

[IMDB]
nm0500408

[Movie Walker]

[誕生日]
8月14日

[出身]
ラトヴィア(リガ)

[サイズ]
8.6 × 13.4cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 1102. Atelier Nippold, Frankfurt a/M
1920年2月19日の日付入り

エルンスト・マトレイ Ernst Matráy (1891 – 1978) ハンガリー

「国別サインリスト ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

ernst-matray_1920-autographed-postcard-01
Ernst Matray 1920 Autographed Postcard

ハンガリー出身の舞踏家、俳優、監督兼振付師。

1910年代初頭にマックス・ラインハルトに才能を見いだされ舞台デビュー。ラインハルト劇団で話題を呼んだ『奇跡』(マリア・カルミ主演、1911年)に出演し、ダンスパートの振付も担当しました。

Ernst Matray in Hilde Warren und der Tod (1917)
1917年作品『ヒルデ・ワーレンと死神』(ヨーエ・マイ作品、脚本フリッツ・ラング)

映画では牧神、道化師、悪魔など異形の役どころが多く回ってきていたようです。フリッツ・ラングが脚本を書いた『ヒルデ・ワーレンと死神』では放蕩の生活を続け、最後母親に銃で撃ち殺されるろくでなしの息子を演じていました。

俳優時代のルビッチとも共演歴があり、短期間ながらも共同で映画会社を設立、両者の名前からMalu映画社と名付け経営を行っています。同時期に監督業にも進出し1916年に『オペラ座の怪人』を残しました。フィルム自体は現存していないものの、この小説の最初の映像化で初期ホラー愛好家が見たがっている作品の一つです。

トーキーの時代となり、1930年代にハリウッドに渡ってから新たなキャリアが開けてきます。当時の妻だった女優マリア・ソルヴェクと振付師のチームを組み、MGMなど大手作品のダンス場面を担当したのです。

Waterloo Bridge (1940)
『哀愁』(1940年)のバレエ場面

日本でもよく知られた『哀愁』(1940年)や『心の旅路』(1942年)の舞踏場面はマトレイ夫婦が振付したものでした。メロドラマ作品に一瞬現れるダンスやバレエを意識する機会はあまりないため、こんな形で無声映画の血流が続いていくのかと驚かされました。

絵葉書の写真は『吸血鬼ノスフェラトゥ』と重なります。サインの年号(1920年)を見ると同作公開より前になっています。

[IMDB]
nm0559305

[Movie Walker]
Ernst Matray

[誕生日]
5月27日

[出身]
ハンガリー(ブダペスト)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
Photochemie, Berlin. K.2289. Phot. Nicola Perscheid, ,Berlin

エルンスト・ルビッチ(Ernst Lubtsch)、大正9年のサイン入り絵葉書

「国別サインリスト ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Ernst_Lubitsch01-m

エルンスト・ルビッチ監督が1920年に残したと思われるサイン入りの絵葉書。時期的には『カルメン』(1918年)、『パッション』(1919年)、『寵姫ズムルン』(1920年)などコスチュームやモブシーンに贅を凝らした大作を発表、名実ともにドイツを代表する監督になっていった頃です。

Ernst Lubitsch 1920s Autographed Postcard 02

メッセージ欄を見ると様々な書きこみと消しこみがあります。1920年7月16日付の消印、アルフレート・ノエ氏宛の宛名書きが鉛筆で消されています。また「アルヒーフ・フォト(写真アーカイヴス)」というスタンプが押され、こちらはマジックで消されています。長旅を経て手元に辿りついたようです。

[IMDB]
nm0523932

[誕生日]
1月29日

[出身]
ドイツ

[コンディション]
B+

[サイズ]
13.5 × 8.5 cm

『シユーケツトと空の勇者』(1920年、シャルル・プランス監督)

「9.5ミリ動画 05a 劇映画」より

才智のひしめくこの一篇はまことに面白い間違ひの連續であります。一人の空の勇士がフオルカルキエド シストロンでクララトロンペツト孃と許可を得て出會つたのであります。それで二人はその輝くスターのシユーケツト孃とはからず同じホテルへ泊り合はせたのであります。で、空の勇士は身分を隠さうと思つてゐました。所が町の人のル ミノアがシユーケツト孃の心を得るがため勇士の制服をつけて彼女を誘惑し而してその勝利をほしいまゝにして居つたのであります。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

第一次大戦を背景とした恋愛コメディ物。

仏空軍のエースパイロットが休暇中に客車内で出会った女性と恋に落ち密会を始め、人目につかないよう軍服をホテルに預けます。その服をひょんなことから手に入れたのが冴えない主人公(シャルル・プランス)。まんまと空軍エースに成りすまし、片思いしていた舞台の歌姫(ジャンヌ・マルケン)にアプローチをかけていきます。

大戦中に「リガダン」の芸名で人気のあった喜劇役者シャルル・プランスの手によるもので、テンポの良い展開で見せてくれます。歌姫を演じているジャンヌ・マルケンは後年ルノワール監督の『ピクニック』で母親役を演じるなど興味深いキャリアを積み上げていきます。

[タイトル]
Chouquette et son as

[原題]
Chouquette et son as

[製作年]
1920年

[IMDB]
tt0193815

[メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
681

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 10m *8リール

ポーリーン・カーリー Pauline Curley (1903 – 2000) 米

Pauline Curley 1920 Autographed Photo
Pauline Curley 1920 Autographed Photo

ポーリーン・カーリー嬢はマサチューセッツ州ホルヨークで生を受けた。舞台女優としてのキャリアは劇団に入った5才で始まっている。寄席演芸で一幕劇の寸劇『ダディ・バイ・エクスプレス』を披露しながら全米を回り、1914~15年にかけては「ポリガミー」で評判を呼んだ。映画女優のキャリアはハーバート・ブレノンが製作した『ロマノフ朝の最期』(1917年)が皮切りとなった。その後『ドグラスの跳ね廻り』でダグラス・フェアバンクスと共演。その他の出演作としては『故郷への道』『男の血』『孤独な罪』『愛の林檎』などがある。最新出演となった連続活劇『見えざる手』ではトニー・モレノ氏との共演となった。身長は五尺三寸、體重は十四貫、金色の髪にヘイゼルブラウンの瞳を有する。

ボストン・ポスト紙1921年4月2日付の紹介記事より

Pauline Curley was born in Holyoke, and her stage career began at the age of five, when she entered stock. She made a coast-to-coast tour in vaudeville in an one-act playlet, « A Daddy by Express. » She scored a hit in « Polygamy » during 1914 and 1915. Her screen carrer started with Herbert Brenon’s production, « The Fall of the Romanoffs. » Later she played with Douglas Fairbanks in « Bound in Morocco. » She has also appeared in « The Turn in the Road, » « The Man Beneath, » « The Solitary Sin » and the « Love Apple. » Miss Curley plays opposite Tony Moreno in the latest and last serial « The Invisible Hand. » She is five feet four inches tall, weighs 115 pounds and has blond hair and hazel eyes.

« Pauline Curley » Boston Post, April 2, 1921.

芸人一家の子として生まれ早くから舞台を踏み1913年から映画業界にも進出。滑り出しは上々で、フェイマス・プレイヤー・ラスキー社を拠点とし、ダグラス・フェアバンクスや早川雪洲作品でヒロイン~準ヒロインを務めていきます。また1919年、キング・ヴィダー監督が『故郷への道』で長編デビューを飾った際、知人の勧めでポーリーン・カーリーをヒロイン役に招いています。

pc02b
『男の道』(1919年、上)と『国境の掟』(1923年、下)

やや特殊な家庭環境で育ち、母親の監視、拘束が強い中で1922年にカメラマンと結婚。この前後を境に大手会社の庇護を離れ、レオ・マロニーやキット・カーソン主役のB級西部劇への出演にシフトしていきました。夫のキャリアが安定したこともあり、1930年には映画界を離れ家庭に専念しています。

Pauline Curley on Who's Who on the Screen (1920)
『銀幕名鑑』での紹介ページ

興味深いことに、彼女の出演した1920年代の低予算ウェスタンは型通りの演技をしていた10年代以上に生き生きとしたものでした。大手西部劇では当たり前だった「かよわい女性」を離れた役柄に挑戦した女優として再評価されて良いと思われます。

[IMDB]
nm0192763

[誕生日]
12月19日

[出身地]
米(マサチューセッツ州ホルヨーク)

マリア・カルミ Maria Carmi (1880 – 1957)

Maria Carmi Autographed Postcard

1911年、ヨーロッパに古くから伝わる修道女の奇跡劇が舞台化されて人気を博していました。舞台版、そして1912年の映画版で聖母マリアを演じたのがマリア・カルミでした。

『奇跡』は映画女優としての第一歩となり、その後もドイツとイタリアで活躍を続けていきます。

途中、グルジアの皇位継承権を持っていたジョージ・マキャベリ5世に見初められ結婚。現世でのプリンセスとなります。映画界を離れた後、夫と合衆国へと移住、化粧品ブランド「プリンス・マキャベリ」の共同創設者となりました。同ブランドは幾度か経営者を変えながら引き継がれていくことになります。

こちらの絵葉書は両面にサインが残されています。宛名書き面には持ち主の手による「1920年12月」の日付け有り。

Maria Carmi (1880 – 1957)

[IMDB]
nm0138409

[誕生日]
3月3日

[出身]
イタリア

[コンディション]
B+

アルマン・ベルナール Armand Bernard (1893 – 1968)

パリ音楽院(コンセルヴァトワール)を卒業した音楽畑の人物で、コミカルなキャラを活かして映画でも三枚目を引き受けるようになります。レイモン・ベルナール監督作品の常連として『狼の奇蹟』や『チェスプレイヤー』に出演、一方で作曲やオケの指揮者(ブニュエルの『黄金時代』やクレールの『自由を我らに』)として映画音楽にも功績を残しました。を築いていきます。

今回手に入れた絵葉書は1921年の『三銃士』に出演し、ダルタニャンの従者プランシェットを演じた際の写真です。