1925 – 『國定忠治』 (東亜キネマ、マキノ省三監督) 絵葉書3点 澤田正二郎主演

Kunisada Chûji (1925, Tôa Kinema, dir/Makino Shôzô) 1925 Promotional Postcards

澤田正二郎氏が等持院にて映畫製作の風評あれど、次號にて詳報す。

「撮影所通信:東亞等持院通信」
(キネマ旬報第178号 大正14年11月21日付)

澤田正二郎氏一派の映畫製作は愈々實現される事となり、第壹回作品は「國定忠治」と決し十一月廿七日より等持院撮影所に於て牧野省三氏總指揮の下に撮影を開始した。監督は金森万象氏二川文太郎氏仁科熊彦氏の三氏が擔當し、撮影は宮崎安吉氏持田米彦氏が擔當した。尚第弐回作品には菊池寛氏の「恩讐の彼方」と内定し本年度中に完成する豫定である。さらに來年度には中里介山氏の「大菩薩峠」を映畫化する計畫もある由である。

「撮影所通信:東亞等持院通信」
(キネマ旬報第179号 1924年12月1日付)

大正14年(1925年)1月に公開された『國定忠治』の宣材絵葉書3点。

1枚目は旅姿の忠治(澤田正二郎)を斜め前から捉えた立ち姿。8ミリ版フィルム外箱の写真と似た構図ながらスチル写真のため表情や姿勢に異同が見られます。

2枚目は8ミリ版に対応する場面のなかった一枚。右の女優さんは「夙に澤田正二郎の教を受け、現在新国劇中唯一の女優。小柄なれども持味のゆたかな人」(『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』1931年1月 冨士新年號附録)と評された久松喜代子さんではないか、と。映画では忠治の子分・長五郎の妻役を演じています。

最後の一枚は忠治(左)が山形屋に乗りこんでいってだまされた百姓の金を奪い返す場面からの一コマでした。

今回キネマ旬報を読み直していて気がついたのですが、同誌の記事や広告だと牧野省三氏はあくまでも「製作総指揮」の位置づけで、監督としては金森万象、二川文太郎、仁科熊彦の三名の名が挙がっていました(JMDbではいずれも助監督扱い)。

1930 – 『映画百面鑑』(権田保之助編訳註、独和対訳小品文庫 第4冊、友朋堂)

Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute (German-Japanese Bilingual Edition, Translated by Gonda Yasunosuke, Yuho-sha, 1930)

大正期のドイツ語学者で辞典・文法書の編纂で知られる権田保之助(1887-1951)氏が「独和対訳小品文庫」というコレクションで公刊していた翻訳書。権田氏には社会学者、大衆娯楽研究家の側面もあって活動写真論(『活動写真の原理及応用』『映画説明の進化と説明芸術の誕生』)も残しています。

先例となったのは有朋堂が第一次大戦前に展開していた対訳形式の「独逸文学叢書」で、当時まだ新進言語学者だった権田氏も訳者に名を連ねていました。大戦後に権田氏自身が中心となって新たな対訳コレクションを立ち上げ『童話』、『独逸新聞研究』、『アルセーヌ・ルパンの冒険』に次ぐ第4番として出版されたのが『映画百面鑑』。偶数ページに日本語訳と慣用句・文法・語源の説明、奇数ページにドイツ語の原文が置かれています。

ページを開くとヨーエ・マイによる「映画監督」、エミール・ヤニングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」…日本でも知られた名前が続きます。

私が-僭越(arrogant)ではないが- 決して独逸映畫を作つてゐるのでも、又決して米國映畫を作つてゐるのでもなくして、ルビッチ映畫を作つてゐるからであり、私が常住(jedesmal)、人間的なモティーヴを(ein menschliches Motiv)、有效な修飾の中に装はせて(eingekeidet)、人間的に扮せしめやうと(zu gestalten)試みて來たからであり、又、私が、私の心の中の(in meinem Sinn)愛と憎しみ、惱みと怒を、言語の境界や政治的區分とは超越して(unabhängig von…)、遍く人々が了解するやうに、明瞭にする(zu verdeutlichen)技能があつた俳優に、信頼し得たからである。

「映画国際性」
エルンスト・ルビッチ

[…] weil ich -ohne arrogant zu sein- keine deutschen oder amerikanischen Filme mache, sondern Lubitsch-Bilder, weil ich jedesmal versucht habe, ein menschliches Motiv, eingekleidet in wirksame Dekorationen, menschlich zu gestalten, weil ich mich auf Darsteller stützen konnte, die befäfigt waren, Lieben und Hassen, Leidenschaft und Zorn in meinem Sinn so zu verdeutlichen, daß man es überall versteht, unabhängig von Sprachgrenzen und politscher Einteilung.

Film-Internationalität
Ernst Lubitsch

[これらの作品が成功を収めた]理由は(偉そうな御託を垂れる気はないのですが)まず私がドイツ映画を作っている訳でもアメリカ映画を作っている訳でもなくルビッチ映画を作っているからで、また主題として人を選び、主題を上手く生かす飾りつけを与えて人のぬくもりを感じられる話にしようと各作品で試みてきたからであり、さらにまた信頼できる俳優たちに恵まれたからでもあって、彼等/彼女等は私の考えている意味での喜怒哀楽を分かりやすく表現する力量があり、言葉や政治の壁を越えて誰もが理解できる風になっているのです。

私訳

ルビッチのこの論考は良く知られており、英語訳[1]もあってルビッチ論や初期ドイツ映画論で目にする機会の多いものです。

引用したのはアメリカとドイツどちらでも成功を収めた理由について私見を述べている部分。英語の「なぜなら(because/for)」に相当する接続詞「weil」を3度用いて3つの理由を挙げているのですが、ローカルな発想や方法に拘泥せず普遍的な表現を目指していく考え方が強調されています。海外市場を狙って、という話ではなく「良い映画作品であれば国内外の評価は自ずからついてくる(Jeder gute Film ist von Haus aus international)」の信念があればこその議論です。

底本は1924年に出版された「Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute(ドイツ映画本:昨今の映画をめぐる諸問題)」。独キネマトグラフ誌の編集長だったアルフレート・ローゼンタール氏が編集総責任者となり、映画監督、俳優、大学研究者による15本の各論をまとめたものです。

キネマトグラフ誌(1923年12月879/880合併号)に掲載された出版告知

[1] The Promise of Cinema: German Film Theory, 1907–1933, Anton Kaes, Nicholas Baer and Michael Cowan (Ed.) 1996, University of California Press, 978-0-52021-908-3

[出版者]
友朋堂

[出版年] 昭和5年

[原題]
Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute

[編集者]
Heinrich Pfeiffer

[元作品出版者]
Verlag August Scherl G.M.B.H.

1924 – 『浦邊粂子小唄集』(春江堂、キネマ花形叢書)

Urabe Kumeko : Songbook (1924, Shunko-do, Collection « Cinema Stars » )

春江堂が大正13年(1924年)に手掛けていた流行歌集のコレクション。14.2×10.5㎝、全80頁。

大正期~昭和初期の映画に興味のある方であれば、1923年公開の『船頭小唄』、翌年の『籠の鳥』を皮切りに展開された「小唄映画」の名に馴染みがあるのではないでしょうか。大正期のメディアミックスの流れの一つとして興味深いもので、近年になって幾つかの研究書、論文が発表されるなど再注目を集めているジャンルでもあります。

小唄映画の勃興は、日本における花形女優文化の誕生と時期を一にしています。浦邊粂子さんが日活作品の『清作の妻』で注目を浴びたのもこの大正13年(1924年)。春江堂によるキネマ花形叢書はこういった時代の流れに反応したもので、栗島すみ子を筆頭に8名の女優名を冠した小唄集を公刊。

(女) 指をさゝれよと恐れはせぬが 妾や出られぬ籠の鳥
(男) 世間の人よ笑わば笑へ 命がけした仲じやもの
(女) 命がけした二人が仲も 今は逢ふさえまゝならぬ
(男) まゝにならぬは浮世の定め 無理から逢ふのが戀じやもの
(女) 逢うて話して別れる時は 何時も涙が落ちて來る
(男) 落ちる涙は誠かうそか 女心はわからない
(女) うそに涙は流せぬものを ほんに悲しい籠の鳥

新籠の鳥

『浦邊粂子小唄集』と題されているものの、彼女に関係のある作品は『新籠の鳥』と『金色夜叉』だけで、その他の収録作品は「船頭小唄」(栗島すみ子主演作より)「水藻の歌」(同左)「戀慕小唄」(酒井米子主演作より)「闇の五本松」(梅村蓉子主演作より)と一人の女優に特化したものではありませんでした。他の女優編もおそらくは内容は同一で、表紙のみ差し替えていた可能性があるのかな、と。

こういった書物が時代やテクノロジーの変化に揉まれて後年の「映画主題歌集」に形を変えていきます。大正末期にはまだ「主題歌」の概念はなく音楽ソフトを再生できる環境(蓄音機)を備えた家庭も少数派でしたが、この手の冊子で歌詞を覚え、互いに教えあっていた風景というのがどこかにあったのだな、と想像させてくれる紙資料です。

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁

1924 -『ニーベルンゲン』独プレミア上映用パンフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]より

« Die Nibelungen: Ein Deutsches Heldenlied »
(Decla-Bioscop / UFA, Germany, 1924. Original program for the German premiere of the film « Die Nibelungen: Sigfried » on February 14, 1924)

デクラ=ウーファ社作品『ニーベルンゲン』は1924年2月14日、ベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォー館にて封切られた。

Der Decla=Ufa=Film « Die Nibelungen » wurde am 14. Februar 1924 im Ufa=Palast am Zoo in Berlin das erste Mal öffentlich ausgeführt.

1924年2月14日、ニーベルンゲン2部作の第1部『ジークフリート』がプレミア公開された際の公式パンフ。12.5×17.5センチで全24頁。冒頭に見開きでスタッフ名/キャスト名の一覧。

何よりニーベルンゲン映画で20世紀に神話の世界を生き生きと蘇らせたかったのです。生き生きと、見た人が信じてしまうほどの迫真さで。

「ニーベルンゲン映画の着地点」フリッツ・ラング

Vor allem aber hoffte ich, im Nibelungen=Film die Welt des Mythos für das 20. Jahrhundert wieder lebendig werden zu lassen, – lebendig und glaubhaft zugleich.

« Worauf es beim Nibelungen=Film ankam », Fritz Lang

内容は監督ラング、脚本テア・フォン・ハルボウの寄稿文と、二部作のあらすじを収録。ラング、ハルボウに登場人物8名を加え計10枚の写真があしらわれています。

『ニーベルンゲン』最初の公式紙資料であり、監督・脚本のエッセイが掲載されていることから史料価値が高く、先日触れたドキュメンタリー映画『ニーベルンゲンの遺産』でも紹介されていました。

[内容]
「ニーベルンゲン映画とその製作」(Vom Nibelungen=Film und seinem Entstehen)テア・フォン・ハルボウ
「ニーベルンゲン映画の着地点」(Worauf es beim Nibelungen=Film ankam)フリッツ・ラング
「ニーベルンゲン第一部『ジークフリート』あらすじ」(Inhaltsangabe für Nibelungen I. Teil « Sigfried »)
「ニーベルンゲン第二部『クリムヒルトの復讐』あらすじ」(Inhaltsangabe des 2. Teiles der Nibelungen « Kriemhilds Rache »)

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン第2部:クリームヒルトの復讐』(フリッツ・ラング監督)1930年代初頭 独パテックス版

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] &
9.5ミリ 劇映画 より

« Kriemhilds Rache » (1924, UFA/Decla-Bioscop, dir/Fritz Lang)
Early 1930s German Pathex 9.5mm Print

1930年代初頭に独パテックス社から発売された4巻物のプリント。以前にも何度か紹介(『メトロポリス』『ファウスト』『スピオーネ』)したドイツの無声映画・9.5ミリ映画愛好家、ヴォルフ=ヘルマン・オッテ氏の旧蔵プリントです。

上映時間はオリジナルの約半分の65分程。100メートル×4巻を上映用に200メートルの大型リール×2巻に巻き直しています。傷や汚れ、歪みは少なく大事に扱われていた様子が伝わってきました。

『ニーベルンゲン』には高画質のデジタル修復版(ムルナウ財団2010年版)がありますので通常の観賞はそちらで差し支えないと思います。とはいえオリジナル公開から10年も経たずに発売された9.5ミリ版には修復版と「違う」点も多いため目を通してみる価値は十分にあります。2010年デジタル修復版を収めたDVD・ブルーレイの特典動画『ニーベルンゲンの遺産』(Das Erbe der Nibelungen, 2011)の要点を挙げていくと:

1)撮影現場では2台のカメラが回っていて、同一場面でもアングルや構図の異なるカメラネガが存在している

カメラ2台使いでは左右に並べることが多く同一場面でも角度や構図がわずかに変わります。


2)複数のテイクが残されている

映画撮影ですので一つの場面にOKが出るまで複数回の取り直しが発生します。テイクが変わると役者さんの位置関係、表情、動きも多少変わります。


複数のカメラネガを元にa)ドイツ国内向けネガ、b)海外輸出用ネガ、c)合衆国向けネガの3つの異なった35ミリ上映用ネガが制作された。そしてこの3種類をベースに様々なコピープリントが派生していった

『ニーベルンゲン』上映用ネガは最終的に3種類製作されたそうです。さらにそれぞれのネガを元にトーキー版や小型映画版など無数のヴァリエーションが生み出されていきます。

ムルナウ財団のリストア版はドイツ国内向け上映用ネガをできるかぎり再現したもので、しかも上映用ポジを作るためのネガではなくカメラネガをスキャンすることで高い画質を実現。このアプローチとしては今後これ以上を望めない完成度になっています。

で、手持ちの独パテックス9.5ミリ版。確認して見たところそもそも「ドイツ国内向け上映用ネガ」を基にしていませんでした。

『ニーベルンゲン』9.5ミリ版は英パスコープ社が1931年に市販したプリントが基になっていています。独版は英パスコープ社版の字幕部をドイツ語に翻訳したもので、ネガのルーツを探っていくとUK版=b)の海外用輸出ネガになると思われます。

別に紹介した合衆国のメディアライブラリー旧蔵版16ミリは上のどちらとも違っておりc)合衆国向けネガベースのプリントだと断定して良いと思います。

結末部、ヒロインの死の場面には3つのネガの違いがはっきり出ています。

ドイツ国内向けネガ(左)と国外輸出用ネガ(中央)はトリミング幅が異なるも被写体の位置関係や角度などは同一。ただし手の重なり方を見てみるとドイツ国内向けネガでは右手を上に両手を重ねているのに対し、輸出用ネガでは左手が上になっています。同一カメラの別テイクが使用されているのだと分かります。それに対し米国向けネガ(右)はもう一台のカメラで撮られたネガを使っています

最初から3つのネガを同じように作ろうという計画があったという可能性はとても高い。つまりひとつはドイツ市場のため、もうひとつはウーファの輸出部のため、そしてもうひとつはこのフィルムをアメリカで公開することになっていたパラマウントのためのネガ。当時、いくつかのネガの平行した制作は一般的な慣例だった。[…]

ただ一方で、複数のネガがあるということは、演技、カメラの位置、時間的な長さ、コンティニュイティの点で異同を持つ複数のヴァージョンがあるということを意味している。それはマテリアルを組み合わせようとするときに大きな問題を生み出すことになる。さらに復元者は倫理的な葛藤にも向かい合わなければならない。つまり、いくつものネガを寄せ集めることによって、自分はこれまで存在しなかった形の映画を編集しているのではないか、というジレンマを持つことになるのだ。

ドイツ人研究者M・ケルバー氏の論文「増幅する『メトロポリス』に関するノート」邦訳(訳・矢田聡)からの一節。引用した部分については『ニーベルンゲン』2部作にもそのまま当てはまります。高画質の修復版が完成したと手放しで喜んでいる訳ではなく、特に最後の一文は色々考えさせられるものです。

1924 – 16mm 『ニーベルンゲン第2部:クリームヒルトの復讐』(フリッツ・ラング監督) 英語字幕US版

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]より

今年の正月休みに『クリームヒルトの復讐』16ミリ版を鑑賞しました。

2013年4月に入手したもので実写は今回が初めてです。1100フィート2本組で英語字幕、ダブルパーフォレーション無声。上映時間は約63分でオリジナルの半分に編集されています。製作会社のクレジットは無くプリントも無銘ですが、傷が少なく個人で視聴する分には十分でした。

デジタルリストア版の基になったドイツ国内用ネガ、9.5ミリ版の基になった輸出用ネガのどちらとも異なったアングル・テイクを含むもので、UFAが合衆国向けに準備したネガから派生したコピーだと思われます。アッティラ王による求婚をめぐる王家の紛糾、ハーゲンがその在り処を知るニーベルンゲンの財宝をめぐる駆け引きといった前半のエピソードが多く省略され、その代わりにできる限り後半の戦闘場面を残そうとしていました。

この16ミリ版には1)クリームヒルトによる「回想場面」が多く含まれています。前篇『ジークフリート』の名場面が幾つか映し出される趣向はデジタルリストア版には無いものです。2)また結末部、クリームヒルトは本来刺されて亡くなる設定ですが16ミリ版では復讐を遂げたことで精魂尽き果てて息絶える展開に改変されています。

このフィルムはメディア・ライブラリーが旧蔵していた「Ex-Library Film」と呼ばれる類のプリントです。到着した時に図書館名が黒塗りで消されていたので不安になり、消された文字を解読して見ました。アラスカ州の「アンカリッジ市立図書館(Anchorage Municipal Library)」と判明しホームページ経由で確認。「以前に売却処分したフィルムの一つですので持っていて構わないですよ」の回答でホッとしたのを今でもよく覚えています。

1924 – 9.5mm 『二少年によるフランス周遊記』(ルイ・ド・カルボナ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より


或る夜、ジユリアンとアンドレ兄弟は闇に乗じてファルスブールの孤児院を抜け出した。亡き父の遺言を果たすため叔父が住む南仏マルセイユへ向かつたのである。父の旧友の助けもあり、二人は無事国境を越えフランスに辿りつくことができた。手持ちの路銀は乏しく、兄弟は徒歩で南下を始めた。

道中では多くの人々に助けてもらう。エピナルの町では宿屋の亭主夫婦に可愛がられ、ジユリアンは錠前屋の修業をし、アンドレは学校で勉強させてもらう。しかし長居は出来なかった。一ヶ月の休息の後に二人は再度旅に出た。ブドウ作りの盛期を迎えたブルゴーニユ、工業の町クレルモン・フェラン、宗教建築の立ち並ぶアヴイニヨンを経由してプロヴァンスに入つていく。

マルセイユまで六十里となつた所で南仏の強風に煽られアンドレが足に怪我を負った。ジユリアンはルートを汽車に切替え、弟を背負つて客車に乗りこんだ。マルセイユに辿りつくも、折あしく叔父はボルドーに長期滞在中とのこと。肩を落とした兄弟を見てマルセイユっ子たちが一肌脱ぐ。港町で船主に話をつけ、運河を使いボルドーまで送つてもらう話になった。

ボルドーで叔父と再会。事情を知つた叔父は二人を養子にしようと決める。手続きの爲に孤児院へ戻らなくてはならない。ダンケルクまで船で移動して汽車でファルスブールへ。父の墓参りを済ませ役所へ向かう。交付されたのはフランス国籍を証明する書類であつた。晴れてフランス市民となつた兄弟は叔父の親友ギヨーム氏一家の元に身を寄せ、幸せに暮らしたのであつた。


『二少年によるフランス周遊記』は19世紀後半に出版された児童向けの物語です。第二次大戦前のフランスでは国語の読本として使われており当時の人に馴染み深い内容でした。1924年公開の映画版は3時間を越える大部なもので、パテベビー9.5ミリ版は前後半の二部構成とし40分程度まで切り詰めています。

主人公を演じているのはいずれも映画出演経験のない素人の子供さん。お兄さんのジュリアン役に素朴と端整さを兼ね備えたリュシアン・ルゲイ君。弟アンドレ役は天然パーマに笑顔が可愛らしいグレゴワール・ウィリ君でした。

父の遺言を果たすため貧しい兄弟が叔父のもとへ徒歩で向かう設定を口実に、様々な町の産業や文化が紹介されていきます。地理の勉強に役立つだけではなく北極星を見つけて方角を割り出したり、当時最新技術だった写真の話が出てくるなど教養ネタも多く含まれています。

同時期に公開された『狼の奇跡』(レイモン・ベルナール監督)の大衆受けを狙ったスペクタクル性はなく、エプスタイン(『蒙古の獅子』)らのインテリ受けする表現とも違っていて、話題となることのないまま埋もれてしまった一作ではありました。それでも各地の風景や産物を現地ロケで記録した功績は大きく、ナチュラルな演技も相まって好感度の高い作品に仕上がっています。


[IMDb]
Le tour de France par deux enfants

[公開年]
1924年

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
2010(前編6巻)& 2012(後編6巻)

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×12巻 ノッチ有

1924 – 『映画大観』 (大阪毎日新聞社, 活動写真研究会 編)


1923年冬、大阪毎日新聞社の内部に活動写真研究会が結成され、上映会や研究発表を含む月例会が開かれるようになりました。自社ビルの会議室で開催されていた愛好家の集いではありましたが、協賛会員に池永浩之(日活撮影所長)や牧野省三(監督)、小山内薫(演劇人)、嵐璃徳(俳優)らが名を連ね、例会には男女優が挨拶に訪れる本格的な内容だったようです。

研究活動の延長で翌24年に刊行されたのが『映画大観』。大きく「寫眞」「記事」「名鑑」の3パートに分かれています。

「寫眞」パートは全体(約350頁)の1/3を占めています。国内篇が充実しており、勝見庸太郎や正邦宏、鈴木伝明といった若手有望株、山本嘉一や井上正夫、藤野秀夫らの中堅組、その一世代前の澤村四郎五郎まで登場。女優陣では定番メンバー(川田芳子、五月信子、柳さく子、環歌子、マキノ輝子)を中心としつつ、現在では知られていない珍しい名前(桂照子、堀富貴子、穴橋章子、水田たつ子)も散見されます。

「記事」パートには7つの論考が収められています。活動写真がビジネスとして軌道に乗り始めた1910年頃に渡米し、ヴァイタグラフ社らの盛り上がりをリアルタイムで経験した日々を綴った「活動寫眞の渡來」(荒木和一)、大正元年から10年までに日本で公開された映画作品を緻密にランク付けした「映畫十年」(石上敏雄)など読み応えがある力作でした。

最後の「名鑑」は日本篇・欧州篇・米国篇に分かれています。書き手の好き嫌いが反映されすぎていて辟易する個所もありますが、初期イタリア映画のディーヴァ女優や北欧まで視野に入れており、当時の映画愛好家の好奇心旺盛な様子が生き生きと伝わってきます。

大正13~14年(1924~25年) 私家版・キネマ旬報合本(167~185号)を読む


1920年代中盤、大正末期に発行された167号から185号まで全19冊の『キネマ旬報』を合本にしたもの。

グラビアを重視しゴシップ記事も織りこんだ『活動倶楽部』や『活動画報』と異なり、『キネマ旬報』は網羅的な映画評を主とした構成となっていました。華やかさに欠け可読性は低いものの、データベースとしての使い勝手は他を寄せつけないレベルです。

第167号(1924年8月1日)  表紙:ポーラ・ネグリ
第168号(1924年8月11日) 表紙:メーベル・ノーマンド
第169号(1924年8月21日) 表紙:エステル・テイラー
第170号(1924年9月1日)  表紙:ベティ・コンプソン
第171号(1924年9月11日) 表紙:アリス・テリー
第172号(1924年9月21日) 表紙:ローラ・ラ・プラント
第173号(1924年10月1日) 表紙:ルドルフ・ヴァレンチノ
第174号(1924年10月11日) 表紙:ベビー・ペギー
第175号(1924年10月21日) 表紙:ローレット・テイラー
第176号(1924年11月1日) 表紙:グロリア・スワンソン
第177号(1924年11月11日) 表紙:ジャクリーヌ・ローガン
第178号(1924年11月21日) 表紙:ドロシー・マッケイル
第179号(1924年12月1日) 表紙:ロイス・ウィルソン
第180号(1924年12月11日)表紙:トム・ミックス
第181号(1925年1月1日)  表紙:ビーブ・ダニエルズ
第182号(1925年1月11日) 表紙:リリアン・ギッシュ
第183号(1925年1月11日) 表紙:メアリー・ピックフォード
第184号(1925年2月1日) 表紙:オッシ・オスヴァルダ
第185号(1925年2月11日) 表紙:アイリーン・プリングル

表紙を飾っているのはハリウッド女優を中心とした当時のスター俳優たち。1925年の新年号のみ多色刷りになっています。


内容を見ていくと、欧米作品としては1)ハリウッド新作(『バグダッドの盗賊』『椿姫』『幌馬車』『十戒』『ホワイト・シスター』『ボーケール』『ノートルダムの傴僂男』)に比重を置きつつ、2)数は少ないながらドイツ映画の大作路線(『阿修羅王国(ヘレナ)』『ジークフリート』)に心を奪われている様子が伝わってきます。3)フランス映画はほとんど紹介されていないのですが当時亡命ロシア映画人がパリで立ち上げたアルバトロス社が注目されていました。4)喜劇界ではチャップリンの制作ペースが落ちていた時期で、ロイド(『巨人制服』)やキートン(『荒武者』)が人気を博しています。


国内作品に目を転じると、日活・松竹・東亞・帝キネの4社がしのぎを削っている様子が伝わってきます。監督(溝口健二、伊藤大輔、清水宏、村田實…)の動静が丁寧に追われているのがキネマ旬報らしいと思いました。厳密には国内作品ではないものの、早川雪洲氏が渡仏して撮った『ラ・バタイユ』公開もこの時期に当たっています。


論考では「デヴィッド・ワーク・グリフィス(森岩男)」「アベル・ガンスの肖像(飯島正)」「滞米二年の私の生活(エルンスト・ルビッチ、田村幸彦訳)」など作家主義指向の力作が目立っていた感じです。


帝キネ撮影所は其後益々健全で、略一月足らず大阪芦邊劇場に於て舞臺實演に出演中であった蘆屋映画部の連中も再び撮影に着手し、活氣を呈して來た。(1924年8月167号「日本映畫欄」)


1924年夏〜25年初頭のキネマ旬報をまとめ読みしていて面白かったのは帝キネ分裂をめぐる経過報告です。小唄映画『籠の鳥』のヒットによって経営状況が上向き、大手から俳優やスタッフを大量に引き抜くも待遇の違いから古参組が反旗を翻し、最終的には三分裂(アシヤ/東邦)していく展開をとったものです。一連の経緯については別な資料(『欧米及日本の映画史』、石巻良夫、1925年)で読んだ覚えがありますが、『欧米及日本の映画史』はすでに完了した出来事を俯瞰的に追っているのに対し、キネマ旬報の情報は断片的ながら「今まさに内部抗争が起こりつつある」臨場感が伝わってきます。

立石駒吉氏入社と共に小阪撮影所の一大改革は行なはれ、近く各社より數名のスター監督が新たに入社する筈にて既に決定し足る者も少くはないが次號にてその詳細を確報すべし。(1924年10月173号)

[…] 帝キネに入社確定したる重なる俳優左の如し。
宮島健一氏。關操氏。横山運平氏。阪東妻三郎氏。瀨川路三郎氏。中村吉松氏。森静子孃。鈴木澄子孃。中村琴之助氏。(以上東亞キネマより。)中村太郎氏(松竹加茂より。)
尚監督としては松竹加茂に在りし、枝正義郎氏が入社した。
五月信子孃、梅村蓉子孃の入社説も專らなるがこれは未だ未定で確報は出來ない。(1924年10月175号)

[…] その後松竹日活より引抜いた監督及び俳優技師作者の確定した人達は左の如し。
細山喜代松氏。葛木香一氏、水島亮太郎氏、鈴木歌子孃、靑島順一郎氏(以上日活より。)
五月信子嬢、正邦宏氏、小澤得二氏、藤間林太郎氏(以上松竹蒲田より。)
髙木泰作氏、山下秀一氏、石川白鳥氏、原コマ子孃(松竹加茂より)
惡麗之助氏(東亞等持院より)。
右の如く素晴らしき陣容を整へた帝キネの今後の活躍こそ注目すべきであろう。(1924年11月177号)

[…] 松本泰輔氏一派及び松本英一氏市川百々乃助氏等は石井専務と行動を共にして斷然帝キネを退社する事を決議し連袂辭職を會社へ提出したがその眞相及び俳優名其他詳細は次號にて確報す。(1925年1月183号)

帝キネ撮影所對舊芦屋映畫一派の紛擾は遂に撮影所側の勝利となり、松本泰輔氏以下十數名の犠牲者を出だして解決するに至つた。退社した人々は左の通りである。
松本泰輔氏里見明氏濱田格氏以下數名。柳まさ子孃久世小夜子孃鈴木信子孃以下數名。市川百々乃助氏市川好之助氏市川瓢藏氏以下數名。(以上俳優)松本英一氏。(監督)佐藤靑秋氏。(作者)大森勝氏。(技師)等。
尚去就いづれかを注目されて居た歌川八重子孃澤蘭子孃は撮影所側に同意し居殘る事に決定。(1925年2月184号)


手元の合本で追われているのはここまで。『欧米及日本の映画史』では「十四年一月、一同は連袂退社の辭表を提出し、『芦屋映畫』といふ一派を起す計畫を進めたのであるが、會社はこれを以て背任行為と認め、松本泰輔以下十數名を進んで馘首した」(351頁)の一行で済まされている部分です。キネマ旬報のように具体的に個人名が挙げられているとずいぶん印象が変わってきます。例えば市川百々乃助、里見明&久世小夜子はそれぞれ時代劇、現代劇で初期帝キネを支えてきた功労者でした。そういった役者たちが問答無用で「馘首」された衝撃が生々しく伝わってくるのです。



それとは別に興味深かったのはこの前後のマキノ省三の動きです。1925年3月に直木三十五に手を貸す形で「聯合映畫藝術家協會」の立ち上げに関わった話は良く知られています。第一弾は澤田正二郎主演の『月形半平太』でしたが、実際には同年1月に公開された『國定忠次』がその布石の一つとなっていました。

舞台劇や文芸を通じて映画を「アート」に昇華する運動は様々な国の映画史で現れてくるもので、珍しい話ではありません。今回、キネ旬を読んでいて驚かされたのが『國定忠次』の前にもう一つ布石があったことです。

別項廣告の如く市川八百藏氏と守田勘彌氏も映畫を製作する。之は日米映畫社が配給するもので、八百藏氏は十二月九日から牧野省三氏の監督で第一回作品『お艶殺し』を撮影する筈。劇界の人々が續々と映畫の製作を始めたのは面白い現象と云はねば成らない。(1924年12月1日179号)


『お艶殺し』は何らかの理由で製作(又は配給)が中止になっています。キネ旬同号に掲載された「別項廣告」を見ると、製作は「日本聯盟映畫藝術協會」。翌年の「聯合」発足までに繰り広げられた紆余曲折の痕跡なのでしょうね。

1924 – 榎本書店の活動文庫

1921〜22年にキネマ文庫(A6:14.8×10.5㎝)を扱った後、榎本書店は「活動文庫」という豆本サイズ(A7:10.5×7.4㎝)の薄い説明本を公刊していました。今回4冊をまとめて入手。いずれも大正13年(1924年)8月15日に出版された初版です。ページ数は32で文章は吉田絶景氏。

『キッド』The Kid、1921年、チャールズ・チャップリン監督)

『血と砂』Blood and Sand、1922年、フレッド・ニブロ監督、ルドルフ・ヴァレンチノ主演)

『十八日間世界一周』Around the World in Eighteen Days、1923年、ウィリアム・デズモンド主演)

『ハリケンハッチ』Hurricane Hutch、1921年、ジョージ・B・サイツ監督)

日本で公開された洋画のシナリオを翻訳したキネマ文庫は、いささか毛色の変わった文庫本である。定かではないが、外国映画関係の文庫本としてはこれが濫觴となるのではないだろうか。

一九二〇年(大正九年)に三つの新しい映画会社が誕生したのだが、そのなかの一社である大正活映ではアメリカ映画を輸入配給していた。この時代に日本で輸入・公開されたアメリカ映画のシナリオを翻訳したものが、キネマ文庫である。手元にあるのは一九二四年(大正十三年)一月十日発行の『ブライド13』第七版(初版一九二一年十月二十日発行)と、一九二三年四月十日発行の『白馬の騎手』(初版一九二二年二月十日発行)の二冊。意外に版を重ねているのだが、装丁は紙装で、表紙も本文もほとんど藁半紙に近い粗末な紙質である。扉の次に二枚の口絵があり、次に映画の便概、主要人物及び俳優名、目次、本文と続く。

『文庫博覧会』(奥村敏明、青弓社、1999年)

キネマ文庫以前にも映画関連の「文庫」や「叢書」はありましたし、「シナリオを翻訳」というのは少し違う気がします。それでも1990年代に榎本書店に言及していた点で重要な一文かな、と思います。

最近では2015年には東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)で「シネマブックの秘かな愉しみ」が開催され、本地陽彦氏の旧蔵本である貴重なジゴマ本や、榎本書店が1910年代に出版していた連続活劇物『名金』『拳骨』が展示されていました。

また2013年に早稲田大の『リテラシー史研究』第6号で発表された論文(「映画と小説の異種混交メディア:大正期映画物語本」)を確認するも学術論文は他になさそうでした。SP盤による音声劇を含めた大正期ミックスメディアの全貌は未だ深い闇に包まれています。

1924 – 9.5mm 『氷島の漁夫』(ジャック・ド・バロンセリ、仏パテ版)

「9.5ミリ 劇映画」より

Pêcheur d'Islande (1924,  Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathéé
Pêcheur d’Islande (1924, Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathé Version
Pêcheur d'Islande (1924,  Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathéé 01

フランス西部、ブルターニュ地方で遠洋漁業を営む漁師たちの物語で、19世紀末に出版された同名小説の二度目の映画化となるものです。

タイトルにある「氷島」はアイスランドを指しています。2月から8月にかけ港町パンポルからタラ漁の船がでるのですが、当時は危険と背中合わせで命を落とした漁師も多くいたそうです。パンポル港を見下ろす丘には「未亡人の十字架」が建ち、映画版はこの十字架を含むブルターニュの風景が多く使用されています。

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物語は首都パリから生まれ故郷に戻ってきたヒロイン(サンドラ・ミロワノフ)と、彼女をめぐる二人の男性(シャルル・ヴァネル、ロジェ・サンジュアン)のぎこちない恋愛模様を軸に進んでいきます。

地方色溢れる衣装や景色、建物、地元民の表情など興味深いショットが多く含まれています。絵としては綺麗。ただ監督バロンセリにはメリハリをつけたストーリーを語る力が不足していて、本作も曖昧な鬱展開の物語が淡々と進んでいくだけで終ってしまいます。個性派女優ミロワノフ、演技派ヴァネルを配しているだけに残念。

何にせよエキストラとして登場してくる地元民の皆さんが良い味を出しています。Vimeoに35ミリデジタル版の抜粋がありますがフィルムの再生速度を誤っていて(24コマ毎秒?)動きが早くなってしまっています。

[タイトル]
Pêcheur d’Islande

[公開年]
1924年

[IMDB]
Pêcheur d’Islande

[Movie Walker]
氷島の漁夫

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
952

[9.5ミリ版発売年]
1926年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×12巻

フランス・デリア France Dhélia (1894 – 1964) 仏

「フランス [France]」より

France Dhélia 1924 Inscribed Photo
France Dhélia 1924 Inscribed Photo

この優美な女優はトゥーレーヌの穏やかな空の下で生を受け、若くしてパリに上京し舞台を志した。その雅さ、作為のない演技でミシェル劇場、アンビーク喜劇座、シャトレ座と次々に成功を収め、とりわけ『伍長になった女の子』を絶妙に演じてみせた。しかしながらフランス・デリア嬢はほどなくして舞台を離れて撮影所に移りデノラ氏と共に『姉に売られたジョゼフィーヌ』で女優デビューを果たす。次いでゴーモン社と契約を交わし『愛の難破船』『ジネット』で注目を浴びたが、何より『恋のサルタン』でその才の如何なく発揮し、以後は出演毎に評判を呼ぶようになった。

「『ギターとジャズバンド』出演のフランス・デリア嬢」
シネ・ミロワール誌38号、1923年11月15日付

Cette gracieuse artiste, qui naquit sous le doux ciel de Touraine, vint de bonne heure à Paris, faire du théâtre. Sa grâce et son naturel lui valurent de francs succès sur les scènes du théâtre Michel, de l’Ambique et du Châtelet où elle fut notamment une délicieuse « Petite Caporale ». France Dhélia devait, cependant, bientôt quitter les planches pour le studio et débuter dans l’art muet avec Dénola dans Joséphine vendue par ses soeurs. Elle fut engagée ensuite chez Gaumont et se fit remarquer dans les Epaves de l’amour et Ginette, mais c’est la Sultane de l’amour qui consacra définitivement son talent. Depuis, ses créations ont toujours eu un grand retentissement.

France Dhélia, dans LA GUITARE ET LE JAZZ-BAND
Ciné-Miroir, No.38
15 Novembre 1923 (4ème de couverture)

1910年代末~20年代前半を代表する仏女優フランス・デリアのメッセージ入り写真。1923年作品『ギターとジャズバンド』撮影時のポートレイトで、1924年4月2日にスイスを訪れた女優が「ジュネーヴに立ち寄った思い出に(En souvenir de mon passage à Genève)」と書き残しています。

以前(2015年4月末)にジュネーヴの古書店のカタログに埋もれていたのを見つけ注文したものですが、お店側がオンライン決済や銀行送金に対応しておりませんでした。そこで「リスクは承知ですのでスイス・フランを直に送ります」と相談したところ「現金を郵送する費用や両替の手数料もかかりますよ」と一円もとらずに日本まで郵送して下さいました。

France Dhélia in La Sultane de l'amour (1919)
『恋のサルタン』(La Sultane de l’amour、1919年)より

シネ・ミロワールで触れられている『恋のサルタン』(1919年)は彩色で公開された美しい作品で千夜一夜風の異国奇譚にアクションやロマンス、喜劇を織り交ぜています。悪人役のガストン・モド、従者役マルセル・ルヴェスク、お姫様役にフランス・デリアと配役が絶妙で、後に監督として名を馳せる画家マルコ・ド・ガスティーヌがセットのデザインを担当しこの時期の仏映画では珍しいエンタメ性の高い秀作にまとまっています。

また彼女の出演作では1924年公開の『ネーヌ』が9.5ミリ化されています。当方は所有していないものの米プリンストン大学のパテベビー・コレクションがデジタル版を公開。この作品では美貌を鼻にかけ、浮薄な生活に憧れヒロインを虐めるヒール役を熱演していました。

France Dhélia in Nène (1924)
『ネーヌ』(Nène、1924年)より

[IMDb]
France Dhélia

[Movie Walker]
フランス・デリア

[サイズ]
16.7×22.5cm

[データ]
11924年4月2日、フルニエ・マルギ氏宛。

1924 – Super8 『ニーベルンゲン 第一部 ジークフリート』 (フリッツ・ラング監督)

「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」 & 「8ミリ 劇映画」より

『メトロポリス』(1927年)と並ぶラング監督のサイレント期の代表作。『第一部:ジークフリート』は竜退治、不死の力の獲得、ギュンター王の娘クリームヒルトへの求婚を経て、裏切りにあった主人公が殺害されるまでの物語を描いていきます。

8ミリとしては米ブラックホーク社の400フィート5巻物、独ピッコロ社によるダイジェスト版などが発売されていました。こちらは戦後にフランスでリリースされた400フィート4巻物。今回はそのうち2本目を試写しています。

[タイトル]
La Mort de Siegfried

[原題]
Die Nibelungen: Siegfried

[製作年]
1924年

[IMDB]
tt0015175

[メーカー]
仏フィルム・オフィス社

[カタログ番号]
不明

[フォーマット]
Super 400ft*4(無声)

『大正名優鑑』 (劇と映画 第一周年記念臨時増刊、大正13年)

歌舞伎と映画を扱っていた月刊誌『劇と映画』の創刊一周年を記念し大正13年に作成された俳優特集号。表紙は木版を貼りこんだもの。本体と同じ大型サイズに多数のグラビアを収録しています。

前半は歌舞伎俳優をまとめており、後半が映画編。映画編では各映画会社の首脳陣(城戸四郎、白井信太朗氏ほか)が登場、その後5つの会社(松竹蒲田、松竹下加茂、日活、東亞、帝國)の専属俳優が紹介されていきます。

蝶ネクタイにモガ帽、鼻眼鏡…手彩色の写真に写しだされたファッションに時代の雰囲気が良く出ています。

[出版者]
東京国際情報社

[出版年]
大正13年 (1924年)

[サイズ]
32.4 × 24.5 cm

[定価]
2円

1924 – 9.5mm リン・ティン・ティン主演 『義勇の猛犬』

1929年に米アカデミー賞が初めて開催された時、審査員投票で最初に男優賞に選ばれたのはリン・ティン・ティンという名のシェパード犬でした。

栄えあるイベントの初代男優賞が果たして犬でいいのか…審査結果は一旦キャンセルされ、再度の投票で『嘆きの天使』主演のエミール・ヤニングスに付与されることが決まりました。

『義勇の猛犬 (Find Your Man)』はそんなリン・ティン・ティンの初期作。カナダを舞台とし、婚約者と会うために山村にやってきた青年が材木の密売事件に巻きこまれていく物語です。

閉じこめられていたリン・ティン・ティンが助走をつけて檻に突進、しがみついて乗り越えてしまう場面、蒸気機関車との並走場面など見どころ満載。当時の子供たち、そして大人たちまで魅了されたのがよく分かります。

[タイトル]
Rintintin, redoutable témoin

[原題]
Find Your Man

[製作年]
1924

[Movie Walker]
mv2543

[IMDB]
tt0014901

[メーカー]
仏パテ社

[カタログナンバー]
918

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m *6リール

イリーナ・レオニドフ Ileana Leonidoff (1893 – 1968) 露/伊

Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo
Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo

露國に生れ、露國劇壇に薫陶された南歐映畫女優は數多ある。エレナ・マコウスカ孃、ダイアナ・カレンヌ夫人、最近に至つてはタチアナ・パプロワ孃の如き、其れである。イレーナ・レオニドツフ孃も又露國生れの女優として一九一七年以来南歐に表れた女優である。我々は『アチラ』に於てイルヂゴに扮した孃を始めて見た。さうして孃もまた妖婦女優として、確に相當の技能を有する事を認め得た。その後『不滅の血路』に於ても近く孃の技藝に接し得て、その妖婦女優としての腕を認める事が出來た。尚孃のパスクワリ會社時代の映畫(アルマンドヴエイ發賣)『酒の罪』が日活に輸入されて居る。一九一七年以來アンブロジオ會社に結び、主腦女優として『アチラ』『不滅の血路』等數種の映畫に出演し、その後パスクワリ會社に一時契約し、昨年ベルチニ會社の主腦女優となり、數種の映畫に出演して名聲を得て居る。

「南歐映畫俳優月旦 イレーナ・レオニドツフ孃」
『活動画報』1919年4月号

イタリア未来派の代表作『Thais』 (1917年)でヒロインに抜擢され注目を浴びたのがイリーナ・レオニドフでした。

Ileana Leonidoff 03
『アッチラ』(1918年)より

ロシア生まれで若くしてイタリアに移り住み当初はオペラ歌手の修業を積みます。まず映画女優として名を上げて歴史映画(『アッティラ』)や恋愛ドラマに出演、1922年を境にバレエに活動を移していきました。ローマを拠点とし自身のバレエ団を結成海外公演を行っていた記録があり、1924年にロンドン公演を行っています。このサイン入り写真はその際の一枚と思われます。

綺麗な写真ですが数か所の汚れ、右下に目立つ破れがあります。

Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo

[サイズ]
15.0 × 20.0 cm

[IMDB]
nm0503064

[出身]
ロシア/ウクライナ

[誕生日]
3月3日

[コンディション]
C+