1926年『キネマ花形』 (『活動花形』改題 11月号 花形社)

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1926 Kinema-Hanagata Magazine (November Issue)

 「映畫世界」之は少々高級すぎて一般にや解らないぜ。グラヴィアなどはどうも虫が好きまへんな。毎號どうも寫眞版がちと淋しうおすぜ。映畫春秋なんか相手にしないでしっかりおやりやす。
 「活動世界」倶樂部を水洗いした様な雑誌、だが、讀む所はうんとこあるから何番姫や、番頭さんにはもつてこい。[…]
 「映畫研究」原畫がとてもいいのがあるらしいのぢや一番だ。たゞし表紙は活動世界の兄分位まだ三號かそこら故、可愛いい所。
 「映畫春秋」之は題名丈見ておけばいいもの島淸の百分の一ぐらいの偉さの人間が遠吠ゑてゐる雑誌だ。それで大雑誌にケンカを賣る蚊みたいな奴だ。
 「キネマ世界」活氣のない、ウドの芽みたいな雑誌。内容は、あら姉さん、リリアンはいゝわねゑてな事が書き連ねてある。口繪の説明は隅こに小さくポツンポツンと書いてある。
 「蒲田」これは松竹せんもん。やうやく此處に三霜年。雑誌らしい雑誌、ただし蒲田の事ばかりだよ。お客さんは專賣局の女工さんが上得意、
 「松竹畫報」蒲田の子分で分家した奴。
 「活動之花形」ちらほら夜店の本の内にうごめいてゐる。
 「キネマ」少女などの共鳴と人氣を得んと、夢二を招き少女小説を連載す。あれまあ。
 「日活」これは紙くづにも勿體ない。

「映畫雑誌首實見」大瀧泰
キネマ旬報大正13年10月1日付 第173号

1920年代初めに雨後の筍のように現れたファン雑誌についてこんな投稿が残されています。このうち、後半の「活動之花形」は「活動花形」でしょうか(少し前にあった「活動之世界」と混ざっているようです)。同誌は京都を拠点に活動していた花形社の雑誌のひとつで、こちらは1926年末に「キネマ花形」と改題後出版された新生第一号となります。

表紙を飾っているのはコリーン・ムーア。本文は全て一色刷り、数点のグラビアを除くと大半が公開された新作のスチルと粗筋紹介となっています。内容は:

日活:「シベリアお瀧」「月形半平太」「水戸黄門
松竹:「カラーボタン」「美しき禱」「若き日の罪」「いとしの我が子」「妖刀」「いかりの刄」「海人
帝キネ:「關東綱五郎」「澁川伴五郎」「海の妖婦」「自由の天地
マキノ:「どんぐり長屋」「どんどろ堀」「大江戸の丑満頃」「大尉の娘
東亜:「富士に立つ影」「逆風」「劒闘」「森の石松
阪妻:「情炎流轉」「狂へる人形師

誤植(「お瀧」→「お龍」、「丑満頃」→「丑満時」)もそのまま転記。その他海外作品として「グリード」や「バツト」「雀」「女郎蜘蛛」「滅び行く民族」なども紹介あり。

後半の下の方には小さくゴシップ欄があり、マキノ輝子の醜聞と共に日活でのリストラの話が掲載されていました。

尾上松之助氏の死とともに所内に蔓る積弊一掃の機會を早めるものと觀測されてゐたが果然拾八日午後京都市木屋町中村屋にて横田副社長根岸支配人池永所長杜重支店長等が會合協議の結果新劇部男優小村新一郎齋藤達雄宇田川寒待弓削宗貞外三拾六名女優部では宮部静子、本田歌子、衣笠みどり、松島英子、高島京子、香川満子、巽久子、橘道子外数名を解雇した。
それと同時に東坊城恭長、若葉馨、木藤茂に俳優を廃めさせ東坊城若葉の兩名は一時名目だけの脚本部附となし木藤は監督助手に祭り上げるなど大整理を行ふ[…]。

「新劇部男女俳優大整理」

1926年4月17日 – 9.5mm 個人撮影動画『ニースにて/アントワーヌ・ジャロン一家』 Nice. Famille Antoine JALON 17-04-26

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

9.5mm Film d’amateur. « Nice. Famille Antoine JALON 17-04-26 »

昭和元年(1926年)に南仏ニースで撮影されたホームムービー。以前にデジタル化した『イラン・ゴレスタンの小さな家』と同一のカメラで撮影されたもの。ラベルの日付に従うならイラン編(1926年4月18日)の前日の動画。登場してくる人物も一部重なっています。

撮影場所は南仏の都市ニースの市街地。建物から出てきた家族連れが乗用車に乗りこむ前の様子を捉えています。カメラを意識している少年と蝶ネクタイの初老の男性はイラン編にも出ていました。少女が手にしている小さな傘は和傘でしょうか。彼の地でアジア趣味が好まれていた様子も伝わってきます。

デジタル化に際して幾つか問題がありました。撮影の途中フィルムが上手く回らず噛んでしまい、その部分が何度も露出され多重露出で白くなっていたのです。

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フィルムを送る穴(パーフォレーション)のダメージもこの前後に見られます。フィルム送りが上手くいかなかった部分は動画化するとコマ落としした感じになってしまいました。個人による撮影なのでこの手のトラブルは時折あったと思われます。

アントワーヌ・ジャロン(Antoine Jalon)という人物が戦前フランスにいた記録は残っており末裔もご健在です。同姓同名の可能性もありますがひとまず連絡を取って確認を試みていきます。

1926年4月18日 – 9.5mm『イラン・ゴレスタンの小さな家』

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

A Golestan. La petite Villa. 18-4-26. (A Rare 1920s Iranian Family Portrait)

9.5mm Home Movie  - A Golestan (Iran) 1926

1926年に中東イランで撮影されたホームムービー。

A Golestan (Iran 1926) 9.5mm home Movie 01

一軒家の2〜3階テラスと思われる場所に家族が集合した様子を記録しています。冒頭では男性二人が話していて中央の椅子に少年が座っています。続いて家の主と思しき男性が飼い犬を抱えていて一歩体をずらすと背後に立つ女性(娘さんでしょうか)の姿が現れました。

A Golestan (Iran 1926) 9.5mm home Movie 02

登場する人物は次第に増えていき、いつの間にやら大所帯に。

A Golestan (Iran 1926) 9.5mm home Movie 03

ここでカメラの位置が変わります。男性たちが家を出たようで、残った女性陣が飼い犬とじゃれている場面。奥では奥さんがハンカチを振って遠くの男性たちに挨拶を送っています。フィルムはここで終了。

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ゴレスタンはイラン北東部、カスピ海に面した州名です。モロッコやアルジェリアで撮影された9.5mmホームムービーは時折市場で目にしますが、中近東での撮影記録は非常に珍しいものです。

カメラの移動が少なく周囲の様子が分からないのが少々残念。それでも建物や服装が西欧化され洗練されている様子が伝わってきます。言われないとイスラム圏だと気付かないくらい。カメラを意識して動きがぎこちなくなっている様子も微笑ましく、興味深い内容です。

1926 – 9.5mm セダ・バラ主演『マダム・ミステリー』

「9.5ミリ動画 05a 劇映画」より

1937年、20世紀フォックス社のフィルム所蔵施設で火災が発生し、収められたフィルムの全てが焼失しました。セダ・バラ出演作品の大半もこの大火で失われています。

『クレオパトラ』断片を含め、現在まで残された出演作品は6作のみとされています。その一つが引退作となった『マダム・ミステリー』で、こちらは9.5ミリの縮約版となります。

デビュー当初の妖婦・毒婦の設定が時代遅れとなっていく中で、セダ・バラは幾度かイメージチェンジを行いながら時代に適応しようとしていました。本作はローレル&ハーディーによる喜劇物で、セダ・バラは「街一つ吹き飛ばすほどの威力がある」超小型爆弾を運ぶ女スパイに扮しています。

後半、客船での移動は初期のセダ・バラ映画によく見られた展開(船に乗っている謎の美女)をパロディにしたものです。髪を下ろした就寝場面での妖しい存在感がさすがです。

[タイトル]
Madame Mystery

[公開]
1926年

[IMDB]
tt0017098

[メーカー]
米パテックス社

[カタログ番号]
C-110

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m *2リール

時代劇 『魔保露詩』 (大正15年、明文館 映画文庫)

阪東妻三郎、1925年の出世作『雄呂血』(おろち)の人気を受け同年末に公開されたのが『魔保露詩』(まぼろし)。フィルムが現存しておらず当時のパンフレットなど断片情報が残るのみ…と思っていたところ偶然に1926年の小説版を発見しました。

市中で見つけた父の仇の命を助けた主人公が、その果てに辿りついた凄惨な運命を描いた一作。阪妻初期作にしばしば指摘される虚無感、反権力の要素を小説にも見て取ることができます。

紙の一部がインク印刷の部分だけくり貫いたように消え失せているなど、紙質による特殊な劣化が見られます。

[出版者]
明文館書店

[出版年]
1926年

[定価]
25銭

[フォーマット]
10.6×14.5センチ、136ページ。口絵4ページ。

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』で神話化された20年代ハリウッド女優の一人。繊細で憂いのある当時のハリウッドには珍しいタイプでした。主演作としては1924年の『The Rejected Woman』と25年の『East Lynne』などが現存しています。

それぞれ別ルートで入手したサイン絵葉書2点。一枚は画用紙の台紙に添付された1926年5月3日の日付入り。もう一枚はサインのみです。

大正15年、タルラー・バンクヘッドTallulah Bankhead (1902 – 1968) 他2名のサイン寄書き

tallulah-tankhead

豪快な性格、奔放な私生活、ハスキーボイスで30年代合衆国の人気者となった女優がタルラー・バンクヘッドでした。

バンクヘッドは1920年代の一時期イギリスへと渡っています。舞台女優としての下積みの時期で中でもブレイクのきっかけとなったのが1926年の『彼らは欲しいものを知っていた (They Knew What They Wanted)』でした。

この作品で競演した役者3名(バンクヘッド/サム・リヴシー/グレン・アンダース)の寄せ書きがこちら。雑誌の写真を円く切り取り、黒い台紙に貼ったものをさらに画用紙にマウントしてあります。

Tallulah Bankhead
1931年のプレコード映画作品『私の罪 (My Sin)』(上)とヒッチコックの『救命艇』(下)

[IMDB]
タルラー・バンクヘッド Tallulah Bankhead (1902 – 1968) 米
グレン・アンダース Glenn Anders (1889 – 1981) 米
サム・リヴシー Sam Livesey (1873 – 1936) 英