ダマール・ゴドウスキー、1930年代後半の直筆書簡 Dagmar Godowsky (1897 – 1975) 露/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より


本当にとても傷ついております。カクテルパーティーにご招待したのはキプリン氏に引きあわせようと思ってのことで、「後で連絡するよ」と仰ったにも関わらずその後は梨のつぶて。何があったのですか。来週は船旅の予定となっているため、確実に連絡のつきそうな日曜の早い時間帯に電話くださいね。貴方の怠慢にもめげぬ温かい心持ちをこめてダマール・ゴドウスキー


I am really very hurt. I invited you for cocktails to meet Kiplins and you said you would let me know, but never a word ! What happened ? I am sailing next week so do call me sunday early that will be the best time to reach me. In spite of your neglect warm feelings Dagmar Godowsky


1920年代にニタ・ナルディやヴァレスカ・スラット等と並ぶエキゾチックな女優として評価を得ていたのがダマール・ゴドウスキーでした。名ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーの娘として生まれ、第一次大戦開戦後に父と共に合衆国に移り住みました。

映画デビューは1919年で、アルベール・カペラーニ監督がナジモヴァを主演にして撮ったハリウッド無声版『紅楼夢』(邦題『赤き灯』)でした。翌年からユニヴァーサル社作品に出演するようになり、同社の花形男優のフランク・マイヨと結婚。1922年にはロン・チェイニー主演作『狼の心』ヒロインを務めました。

フォトプレイ・マガジン 1922年6月号

その後ヴァレンチノ主演作の『情熱の悪鬼』(1924年)などに妖婦・ヴァンプ女優として登場、1920年代末には映画業界から離れ、社交界でその存在感やユーモアに長けたコミュニケーション能力を発揮していくことになります。

今回入手した書簡は(以前に紹介したサンドラ・ミロワノフ宛と同じく)仏ジャーナリストのルネ・ブレステ氏に送った一通。パーティーの招待をスルーされたダマールさんが恨み節を交えて再度連絡するよう迫った内容。シャンゼリゼ通りのカールトン・ホテルの専用便箋が使われています。


[IMDb]
Dagmar Godowsky

[Movie Walker]
ダマール・ゴドウスキー

<[出身地]
ロシア(ヴィルナ、現リトアニア)

[誕生日]
11月24日

1930 – 9.5mm『麗しき悪女』(Une belle garce、マルコ・ド・ガスティーヌ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』に次いで製作されたガスティーヌ監督初のトーキー作品。英9.5ミリ版は無声で英語字幕入り。

舞台は波止場で営業を続けている小さなサーカス一座。猛獣使いのラバス(ガブリエル・ガブリオ)は妻子ある立場にも関わらず新入りの娘ロゼッタ(ジーナ・マネス)に惚れ上げてしまいます。ところが女はラバスの息子レオに色目を使い、ラバスの心は乱れるばかり。ある日のショーで、ロゼッタに良い所を見せようとライオン二頭を相手に無理な芸を披露したところ…と続いていきます。

Une-belle-garce-sample02

曲芸団を舞台にした不貞と愛憎のドラマとしては1925年のドイツ作品『ヴァリエテ』が有名です。『ヴァリエテ』が生々しい欲望を劇的に描き上げていたのと比べると『麗しき悪女』はウエットなメロドラマ感が強く出ています。また幾つかのサイドストーリーが展開されていて、そちらに監督の趣味性が色濃く反映されています。

1)野生動物への愛着:

ガスティーヌは1932年にはパテ社を離れ短編ドキュメンタリーを撮り始めます。この時に多く主題とされていたのがアフリカの野生動物でした。『麗しき悪女』に登場するサーカス一座の猿やライオンはこういった監督の個人的な好みを反映したものです。

2)映像デザインとしての照明

画家として名を上げ、デザイナーとして映画業界に関わりはじめたガスティーヌにとってセットやコスチュームのデザインは大きな意味を持っています。『麗しき悪女』は照明を上手く使った構図が幾つか見られました。

サーカス一座の踊り子がダンスを披露する場面や、猛獣使いがライオンと対峙する場面では照明が画面上でキラキラする効果を強調しています。

3)女優の選択

中年男の心を狂わせる「美麗な悪女」を演じたのは演技派ジーナ・マネス。ガスティーヌ旧作で主役を張ってきた女優は古風なタイプが多いのですが、本作には自由奔放で気の強い新時代の女優を抜擢、フェミニズム的な流れを多分に意識した配役でもあります。

Une-belle-garce-sample01

一方で踊り子としてシモーヌ・ジュヌヴォワも出演。彼女自身がこの時期の書簡で「モダンな女性を演じたい」と語っていて、ガスティーヌが願いを叶えてあげた形になっています。上の写真で二人並んで踊っている右側がジュヌヴォワです。

Une-belle-garce-sample08

以前に『恋山彦』の投稿で触れたように無声映画からトーキーへの移行期はカメラの移動が重くなり今見るとぎこちない印象を与える作品が多かったりします。『麗しき悪女』にもその欠点は見られ、トーキー肯定派と否定派が激論を交わしていた1930年のフランスで賛否両論を引き起こしていました。正直どちらの言い分も分かるのですがそれでもガスティーヌ監督の個性やセンスは随所に見て取れると思います。

[タイトル]
Jealousy in the Circus

[原題]
Une belle garce

[公開年]
1930年

[IMDB]
Une belle garce

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB846

[9.5ミリ版発売年]
1937年5月発売

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

1939-sandra-milowanoff-handwritten-lettr-01
1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その三) 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ/新興、寿々喜多呂九平)

1931-awa-jurobei-011931-awa-jurobei-02

こちらは浪花、十郎兵衛と約束した鱶七は、或る夜小幡の室へ忍び込んで、まんまと名刀國次を盗み出し、之を十郎兵衛の宅へ持來して「サー旦那、お約束の刀は持つて參りました……五百兩の方はいかゞでございます」十郎兵衛「未だ江戸から參らぬ故もう二三日猶予してはくれまいか」鱶七「私の方には他の買手も出ましたから……ではその方へ譲るとしませう」十郎兵衛「では明日の晩まで待つてくれ……きつと五百兩、耳を揃へてお渡し申さう」

足利将軍の末裔阿波家では権力争いが苛烈を極め、家老の一人鐵川は同僚松永の保管する名刀を盗ませ松永の失脚を狙おうとした。阿波家伝来の宝刀盗難に気付いた松永は大阪に赴き、かつて仕えていた阿波十郎兵衛(雲井龍之介)に事件の解決を依頼する。十郎兵衛は刀のありかを突きとめたものの買い戻すには500両の大金が必要だった…

マキノや東亞で脚本(1924年『逆流』、1925年『雄呂血』)を手掛けた寿々喜多呂九平が30年代に帝キネ〜新興で監督業に進出した時期に残した作品。主演に雲井龍之介、その妻に鈴木澄子を配しています。

1931-awa-jurobei-03

阿波十郎兵衛は様々な逸話で知られた江戸期の凶賊でした。金品狙いで巡礼の娘を殺した一件が発覚し逮捕されます。陰惨な殺人事件を近松門左衛門が美談化したのが『傾城阿波鳴門』第八段で、帝キネ版はこの浄瑠璃バージョンを展開した内容となっています。

JMDbを確認したところこの作品に対応する1931年のエントリーが二つありました。一つが帝キネ製作、もうひとつは新興キネマ版です。

帝キネは1931年8月に消滅し新興キネマに改組しています。そもそも活動文庫版の出版された9月には会社自体が存在していなかったのです。1931年7月に試写が行われキネマ旬報など映画誌の8月号に記事が掲載されるも実際には上映されずに元の製作会社が消滅。立て直しが終わった11月に改めて新興キネマ版『阿波の十郎兵衛』として公開された流れでしょうかね。

[JMDb]
阿波十郎兵衛(帝キネ)
阿波の十郎兵衛(新興キネマ)

[IMDb]
Awa jûbei

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その二)『海江田譲二の高田の馬場』(日活、辻吉朗監督)

1931-takada-no-baba-01

或る一日街頭の易者に己の身上を占はせました。
『世辭追従の嫌ひな貴殿の氣質を當世向きにしなければ士官はなかなか困難です……それに今の世の中は何といつても腕前なぞより金ですからね』
と淡泊と片付けられ、氣早な安兵衛憤つたの怒らないの易者の机を引ッ繰り返し道具をメチヤメチヤにして歸つたこともありました。

昭和6年(1931年)に『新釈高田の馬場』として公開された作品。前年春に日活に入社した海江田譲二の初期作で、説明本も同氏の名前を前に出しています。海江田譲二はこの後同社の股旅物(『沓掛時次郎』)で知名度を上げ、日活を離れ大都に流れ着いてからも剣戟物で活躍していきます。

海江田氏の初期作は「近代味のある時代劇」とも評されていました。本作でも腕は立つが協調性に難があって士官先を見つけられない安兵衛の設定に世界恐慌後の就職難、拝金主義が重ねあわされているようです。

[JMDb]
新釈高田の馬場

[IMDb]
Shinshaku Takadanobaba

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1933年 – アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1933年 - アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡
Alexandre Arquillière 1933 Letter to Emile Drain

10月5日の12時半、バリュ通りのレストラン「デ・ヴォージュ」に世界演劇協会(SUDT)の同志数名が集まる予定になっています。興味あるのではないかな、と。良ければご参加を。

Quelques camarades de la S.U.D.T. se réunissent le 5 Octobre à midi et demi au restaurant « des Vosges » rue Ballu. Je pense que cela peut vous interesser et vous demande d’en être.

zigoma-contre-nick-carter-cine_journal-1912
1912年『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』宣材スティル。左手前にジゴマ役のアルキリエール

1911-zigomar
スーパー8『松竹 日本映画史 前編』より『ジゴマ』抜粋

1911年の映画版『ジゴマ』で主役ジゴマを演じたのは舞台出身のアレクサンドル・アルキリエールでした。

アンドレ・アントワーヌが1887年に設立した「自由劇場」の古参メンバー。大手と一線を画した自然派志向で知られた演劇一派で、今で言うなら演劇界のオルタナティヴな流れに位置しています。

La_Rampe_1916-05-11-arquilliere-s
1916年の演芸誌ランプ表紙を飾ったアルキリエール

同劇場時代に知りあったフィルマン・ジェミエとはその後長く交友が続いていきます。ジェミエは1922年にオデオン座支配人となり、次いで1925年に国内活動に留まらないグローバル演劇を指向する「世界演劇協会(SUDT)」を設立しています(現在のユネスコ国際演劇協会のルーツの一つ)。

アルキリエールも多かれ少なかれこの活動に絡んでいたようで、俳優仲間のエミール・ドレン宛に会合の日時を知らせたのがこちらの手紙です。封筒も残っていて消印は1933年10月2日付。

いわゆる美形俳優の枠に括られる俳優さんではないものの、存在感と豊かな表情が舞台映えします。映画との関連も深く、1908年からアルベール・カペラーニ短編に登場、10年代にジャッセ作品の主要俳優となって「ジゴマ」が当たり役となりました。その後もジェルメーヌ・デュラックの不条理家庭劇『微笑むブーデ夫人』(1923年)やジャン・ルノワールのエキゾチックな南部劇『荒地(ブレッド)』(1929年)で重要な役割を演じていました。

[IMDb]
Alexandre Arquillière

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(ロワール県)

[誕生日]
4月18日

[データ]
住所入りの個人用便箋に手書き、13,5 x 21 cm。封筒はパリ市ガール・サン・ラザール局の1933年10月2日付消印有。

9.5mm 個人撮影動画 1930年代初頭 – 台灣/台湾の伝統的な結婚式 (大阪在住・川口光羊氏撮影)

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

c1930-film-damateur-possibly-in-taiwan-00

先日スキャンしていた戦前個人撮影動画で興味深いフィルムを見つけました。手振れが多く解像度も高くありませんが、珍しい画像が含まれているためこちらで紹介させていただきます。撮影者は大阪在住の川口光羊氏。伴野製の20メートルケースに収められていますが実際の長さは10メートル。総コマ数が約1100で13コマ毎秒で再生すると1分半になりました。

sample00sample02

フィルムは冒頭で大通りの人々を捉えていきます。やや袖口の開いた七分丈の上着や靴のデザインが日本とは違っています。

sample03asample03b

大通りでのパレード。看板には「連興商店」「大福商店」の文字。提灯や幟のようなものを担いだ人々。傘をかぶった男性が腰の高さで御輿を運んでいます。

sample04

目の前を横切っていく幟。動きが早く文字までは判読できませんでした。平仮名を使わず漢字だけが並んでいるように見えます。

sample05asample06a

幟の先端に何かの飾り。獣の面をかぶった人々がその後を練り歩いていきます。

sample09asample08

見物人たち。奥と手前に車が停まっています。

sample11sample09

通りに出ている看板には「味の素」「アスター」「森永の菓子」など日本語が見て取れます。

sample-comparing01sample-comparing02

YouTubeには「百年前の台湾人の結婚式を撮影した貴重な映像記録片(百年前台灣人結婚珍貴紀錄片)」という動画があり、子供が幟をもって歩く後に二輪の貴賓車が続き、その後新婦を乗せた御輿が進んでいく様子が記録されています。

婚礼の際に新婦を運ぶ御輿は「大花轎(大花轿)」と呼ばれていたそうです。中国伝統文化紹介のオンライン記事(「中国传统代表文化——大花轿」)によると、

抬花轿者一般为4人,也有8人的,轿前轿后各半,并配有对彩旗、对唢呐、对铜锣、对高灯等随轿而行。

「彩旗」「唢呐(チャルメラ)」「铜锣(銅鑼)」「高灯」を掲げた人が行列の先を切って進み、4人で「花轎」を運んでいくのが一般的だったとされています。

元々のフィルムには撮影場所の情報がありません。1930年前後、漢字文化圏かつ中華文化圏、なおかつ日本語の看板が通りに並んでいるため日帝時代の台湾で撮影された可能性が高いと思われます。

1937 – VHS 『恋山彦』(マキノ正博監督、阪東妻三郎主演)

「阪東妻三郎関連」より

時は元禄。信州伊那の谷に平家の末裔が住み着いていた。山腹にかかった霧の奥から御輿を担いだ男たちの姿が浮かび上がる。御輿には涙を浮かべた若い女(花柳小菊)が一人。女は村人によって人身御供とされ、山の神に差し出される運命であった。

山の神と呼ばれていたのは平家の末裔・小源太(阪東妻三郎)であった。神事を終えた小源太は掟を破り女を連れて村に戻ってきた。話を聞くと名をお品と言い、三味線の名手源四郎の一人娘だそうである。時の権力者・柳沢吉保(河部五郎)とその愛妾おさめ(原駒子)の求めに応じて名絃「山彦」の演奏を披露したのがあだとなり、三味線を奪おうとした吉保の配下の者に源四郎は殺され、お品は楽器を手にこの谷へと流れてきたのであった…

平家落人伝説を背景とし末裔の主人公が権力者の腐敗を懲らしめていく筋立てで、そこに三味線「山彦」の争奪戦や主人公のそっくりさんとの身代わり(妻三郎二役)のサイドストーリーが絡みあっていきます。

『恋山彦』の第一回目の映画化となる本作は、映画が無声からトーキーへと移り変わっていった時期に見られる幾つかの特徴を有しています。

1)マイクの感度が低く、俳優の声がエコーをかけたようにこもっていて聞き取りにくい。また、セリフの度に「サー」というノイズが入る
2)併設された録音機器のせいでカメラの動きが制限され、カメラワークの自由度が低く遅い

ハリウッドでは1928~31年位にこういった「移行期の作品」が見られたのですが、日本では30年代半ばから同傾向の作品が見られるようになってきます。マキノ監督は日本の同世代監督でも最もフレキシブルに、流動的にカメラを動かしていた一人で、本作では上記の弱点があまり目立たないような工夫が凝らしてあります。意識しなければ(特に2は)気にならない感じでした。

この作品ではモブシーンの演出が光っています。中盤で小源太が城で大暴れし、闘いの場が一階から天守閣に移っていきます。

1937-koi-yamahiko-vhs
戦闘場面にあわせてカメラが上昇していく。1ショットでの撮影

複数階のセットを組み、俳優たちが上階に上っていくとセット脇の吹き抜けに置かれたクレーンに設置されたカメラが上昇していきます。1ショットでの長回しでカメラと俳優の動きを同期させるため緊密な連携が要求される場面です。

7th-heaven
『第七天国』で、主人公のカップルがアパートの階段を上っていく場面

ボーセージ監督が『第七天国』(1927年)で同種のクレーンショットを使っていました。マキノ監督なりのオマージュでしょうか。後年、戦中の『ハナコさん』(1943年)でもバスビー・バークレーを念頭に置いた演出を組みこむなど常にハリウッドへの敬意を忘れなかった監督でもあります。

阪妻の演技は台詞回しがまだ生硬な欠点がありますがラストの能舞台の立ち回りを含めて見どころはしっかり作っています。時代劇初出演となった花柳小菊さんの可憐な演技と三味線の腕前のみならず、河部五郎、原駒子、市川百々之助などベテラン勢も登場しサイレント映画好きには楽しい一作でした。

] 映画の郷 [ 電子工作部:Python + Kivyによるスキャン画像修復システムを構築する(2)

restoration-sample-m

昨年末から作り始めているスキャン画像修復システムの進捗報告です。

フィルムによって、時によっては同じフィルムでも場面によってノイズの出方が様々で、一つのパターンだけ作ってはい完成!とはいかないな、と試行錯誤している感じではあります。それでも修復の精度は間違いなく上がっている実感があります。

数日前に手掛けていた日本の個人撮影動画の一部をGIFアニメにしてみました。

anigif
『初秋の頃』(9.5ミリ個人撮影動画、日本、1930年前後)

1932年 仏パテ社 映写機・撮影機および周辺機器カタログ&定価表

pathe-baby-tarif-general-france01pathe-baby-tarif-general-france02左列にカタログナンバー、中央列に商品名と簡易スペック、右列に旧フランでの価格。

1ページ目に映写機とスクリーン、2ページ目に周辺機器、3~4ページ目に自家現像用の商品と続いていきます。当時のパテベビー映写機の価格は約600旧フランでした。これは現在の金額に換算すると5万2千円強(400ユーロ弱)に相当するそうです。

金額だけ見るとそんなものかとも思いますが、労働者の平均時給が3.19旧フラン(280円程度)、朝刊を0.3旧フラン(約26円)で買えた時代の話ですのでやはり高価なものだった様子がうかがえます。

1930年代初頭 日本 パテベビー映写機 チラシ

二つ折り見開き4ページ、出版社名明記なし。パテベビー映写機、キッド、リュクスの3台を中心としたラインナップで1932年前後と思われます。ベビー映写機75円、キッド映写機が29円、リュクス映写機が165円、手回し式カメラ(レンズF=3.5)45円、モトカメラ115円の価格設定となっています。

1930年代 墺オイミッヒ社 9.5mm専用フィルムリワインダー

eumig-9-5mm-film-rewinder1映写や修繕を終えたフィルムを元のリールに巻き取るための道具。オーストリアの光学機器メーカー・オイミッヒ製で、土台部分は木製。1930~40年頃のものでしょうか。

シモーヌ・ジュヌヴォワ Simone Genevois (1912- 1995)

「『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』[La Merveilleuse vie de Jeanne D’Arc, 1929]」より

シモーヌ・ジュヌヴォワ直筆書簡(1930年頃)

シモーヌ・ジュヌヴォワ直筆書簡・全体
c1930 Simone Genevois Lettre Dedicacée

ご質問への回答以下となっております。お気に入りの役はジャンヌ・ダルクです。撮影所の思い出は…多すぎてここでは語れない位なのですが一つ言えるのはどの撮影も心地良かったですし今の人生を満喫しています。

今後の計画としては沢山の映画に出てみたいです。しっかり作りこまれた役柄、モダンな役を演じたいのです。映画業界の未来は…素晴らしい未来が待っていると思います!

シモーヌ・ジュヌヴォワ

Monsieur, Voici les réponses que vous me demandez. Mon rôle préféré est celui de Jeanne D’Arc. Mes souvenirs de studio, mon Dieu, je ne peux pas vous en raconter j’en ai

tellement, mais je puis vous dire qu’ils sont presque tous agréables et que j’adore cette vie-là. Mes projets, faire beaucoup de films mais des rôles de composition, des rôles modernes. L’avenir du cinéma je crois qu’il est merveilleux!

Recevez Monsieur mes sincères salutations, Simone Genevois


1930年頃と思われるシモーヌ・ジュヌヴォワ直筆の書簡。アンリ・デュブリ氏に宛てた物でサイズは19.2×30.2センチ。雑誌アンケートに回答する内容となっています。

ジュヌヴォワは1910年代に子役としてデビュー。アンリ・プークタル監督の『労働』(1920年)などにも出演し、レジーヌ・デュミアンと並ぶ人気子役として活躍しました。

『労働』(1920年)でのジュヌヴォワ
『労働』(1920年)でのジュヌヴォワ
[ゴーモン・パテ・アーカイヴ(Gaumont-Pathé Archive)より]
学業を理由に一旦は映画界を離れるのですが、その後程なくしてカムバック。アベル・ガンスの『ナポレオン』ではシチリア島に住むナポレオンの妹役として登場しています。

その後ガスティーヌ監督の『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオーディションに応募し、見事ヒロインに選ばれました。同作が彼女の代表作となりましたが、その後もガスティーヌ監督と縁が続き1930年代初めまで活躍、結婚と同時に女優業を離れています。

19270618-Le Journal
1927年6月18日付「ジュルナル」紙より。主演がジュヌヴォワに決まったニュース

上の新聞記事は1927年6月に主演オーディションの結果が発表された時の物です。最終選考に残った22人の中からジュヌヴォワが満場一致で選ばれた、との内容。ただし一説では元々主演の条件を満たしていなかった彼女を俳優フィリップ・エリアが監督に強く推して選ばれたとされています。また1927年7月31日のレコー・ダルジェ紙には当時まだ未成年だったジュヌヴォワの契約を巡り周囲の大人の間でトラブルのあった話が触れられています。この手のドロドロした話題は映画雑誌では触れられないのが常でしたが、見えない所で色々あるのは今も昔も変わらない訳です。

Simone Genevois c1930 Autographed Photo

こちらは1929年前後と思われるロレル撮影所の直筆サイン入り生写真。サイズは15.8×21.2センチ。

[IMDB]
nm0312810

[出身]

[誕生日]
2月13日

c1930 – 9.5mm 『雪掻車の活躍』(伴野商店/鉄道省)

「9.5ミリ 伴野商店」より

映画と列車は浅からぬ縁があります。リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)を皮切りとし、ハリウッドでも『大列車強盗』(1903)や »鉄道活劇 »『 ヘレンの冒険』(1915-17)、キートンの『大列車追跡』(1926)など枚挙に暇がありません。

日本でも戦後8ミリの時代には多くの蒸気機関車がフィルムに収められて市販されていました。そういった傾向のルーツの一つとして、戦前の鉄道省が監修・製作した本作品を含めても良いのではないかと思います。

雪国の厳しい自然を背景にロータリー車やラッセル車、広巾雪掻車の実動している様子そして働く人々が映し出されていきます。


[原題]
雪掻車の活躍

[メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]

[仏パテ社版カタログ番号]

[フォーマット]
9.5mm、無声、ノッチ有、20メートル

1930年代前半 – 9.5mm『海豹島の膃肭獸』 (伴野商店、樺太/オットセイ)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

海豹島(露名、チェレニ島、ロッペン島)は樺太の東海岸、オホーツク海にうかぶ絶海の孤島で、敷香から海上八十浬、長さ二百五十間、幅三十間、全島第三紀の岩層からなる、テーブル状の小さな岩山の四周を、寂然たる砂浜がとり巻いている。

米領ブリビロッツ群島、露領コマンドルスキー群島とともに、世界に三つしかない膃肭獣(おっとせい)の蕃殖場で、この無人の砂浜は、毎年、五月の中旬から九月の末ごろまで、膃肭獣どもの産褥となり、逞しい情欲の寝床となる。[…]

明治三十八年、この特異な島が日本のものになると、猟獲を禁じ、樺太庁では、年々、この島に監視員を送って膃肭獣を保護していたが、四十四年に日米露間で条約(一九一一年の「膃肭獣保護条約」のこと)を締結する見通しがあったので、条約締結と同時に猟獲を開始することにし、同年夏、大工と土工を送り、膃肭獣計算櫓、看視所、剥皮場、獣皮塩蔵所、乾燥室などの急造にとりかかった[…]。

『海豹島』 久生十蘭
(初出: 『大陸』1939(昭和14)年2月号)
[青空文庫]

樺太東部に位置する海豹島は、時期になると数万頭のオットセイがやってくる繁殖地として知られていました。海岸を埋め尽くすオットセイの群れは壮観で多くの観光客が船でやってきていたそうです。

『海豹島の膃肭獸』はその戦前の様子を今に伝える映像です。前半は島の全景と、オットセイたちが映し出されていきます。後半は岩場に集うロッペン鳥が登場、最後は樺太庁による保護と捕獲の話題に転じ、海岸の社屋と海風にたなびく日本国旗の映像で幕を閉じています。

1011

また同地は戦前作家(北原白秋、林芙美子)も多く足を踏み入れていたようです。『ジゴマ』邦訳などで知られる久生十蘭は北海道出身で、「海豹島」と題されたミステリ仕立ての奇譚を残しています。

[メーカー]
伴野商店

[メーカー番号]
042

[フォーマット]
20m(約2分半)、無声、ノッチ有

1931年頃 9.5mm 仏個人撮影動画『踊る子等』( »Enfants dansant » c1931)

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

お祭りか何かの催しで、仮装した人々が躍る様子を記録した個人撮影動画。タイトルには子供たちとありますが年配の方も含まれています。前半は古代~中世をイメージした感じで子供たちが花飾りをかぶって踊っています。

途中には二人の子供のクローズアップ、撮影者自身のお子様ではないかと思われます。フィルムケースには『踊る子等』の後に「オデット(ODETTE)」の名が手書きされており、二番目に出てくる少女が対応しているのでしょう。

後半は衣装を変え、料理人姿に着替えての舞踏が捉えられています。

天候の良い日に撮影されており、真っ白な服やシャツの部分がハレーション気味に表現されています。

1930年代初頭 9.5mm 個人撮影動画 『かごめかごめ』(自作スキャナー「綺乃九五式」サンプル動画)

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

Early 1930s 9.5mm Home Movie « Kagome Kagome »
(Kino Type 95 Film Scanner Sampler)

かごめかごめ、かごのなかの鳥は
いついつ出やる 夜明けの晩に
鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?

昭和6年(1931年)頃に撮影されたと思われる動画。

自宅の中庭で遊んでいる子供4人を父親が撮影した内容です。冒頭はお手伝いさんと思われる女性を交え「かごめかごめ」をしています。その後末っ子のおちびちゃんがカメラを前にポーズを取り始めます。場面は続いて縁側へと移り、兄姉弟が仲良く戯れている様子。大きな飼い犬も登場。最後は再び中庭へと戻って映像が終了。

元々は15本組で入手したフィルムセットのひとつで同じ兄姉弟を中心とした動画が他に数本含まれています。末っ子の坊やが披露していた両手をぐるりと回す動きは学校か何かで習う踊りのようで、別フィルムでお姉さんたちが完全版を披露。他にも仕事絡みの動画があって、内容から撮影者が東京帝国大学の朝比奈教授の下で化学/薬草学を学んでいた研究者さんだったと推測できます。

20メートルフィルム/1175フレーム/再生速度11フレーム毎秒
2400×1800の解像度でスキャンを実施、YouTube版は1080×810まで解像度を下げています

市川 右太衛門 (1907 – 1999)

「日本 [Japan]」より

Ichikawa Utaemon Autographed Photo
Ichikawa Utaemon Autographed Photo

本名淺井善之助。明治卅九年、大阪市に生る。幼少より子役として舞臺に立ち、後市川右團次の門に入り、現在の藝名を名乗つて大正十五年マキノへ入社。昭和二年獨立して右太衛門プロダクシヨンを起し翌年より松竹と提携して現在。主な近作は「一殺多生剣」「雁金文七」「上州無宿陣」等、身長五尺七寸、體重十六貫二百目。趣味讀書、釣り。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDb]
市川右太衛門

[IMDb]
Utaemon Ichikawa

[出身地]
大阪府(大阪市西区)

[誕生日]
2月25日

[データ]
11.3 × 16.3cm

1920~30年代 – 9.5mm 仏ソフトコアポルノ短編集

「9.5ミリ 成人向け動画」より

WARNING :This page may contain explicit content which may offend some.
You must be over eighteen (18) years old or the age of majority in your jurisdiction to view the content.

警告:これより先は成人向け表現が含まれます。18歳未満の方又は成人向け表現が苦手な方はご退出下さい。

Film pornographique des années 1920-30
1920-30s 9.5mm French Softcore Porno Short Movies

1920年代から30年代に闇取引されていた9.5ミリのポルノ短編7本をまとめた一本。それぞれ2分程で全体の長さは15分。1930年代中盤から後半に編集されたと思われます。


1)「運転はお嬢様にお任せ」(Vous me conduirez, Mademoiselle!)

建物の玄関口に立つワンピース姿の女性。お迎えの車が来たようですがどうも様子が変。エンジンの調子がおかしいようです。それなら私が!、とばかりボンネットを開けて修理に挑戦。服を汚してなるものか、エイヤと脱ぎ捨ててしまうのでした。



2)「無題」

受付に現れた帽子姿のエレガントな女性。受付に座っていた男性が何やら言葉で促すと女性が服を脱ぎ始めます。その腰へ伸びていく男の指先…



3)「ピエレット嬢うたた寝危機一髪の巻」(Pierette s’était endormie et …!) エレム映画社

納屋の入口に積み重ねられた藁。ピエレット嬢は疲れた体を横たえうたた寝を始めます。何度も足を組み替えスカートがめくれあがっています。通りすがりのバプティスタン君がこっそり近づいていますよ…



4)「水辺にて」(Au fil de l’eau)エレム映画社

ロジーヌとピエレット嬢の二人は川に洗濯へ。仕事中、洗濯桶が川に落ちてしまいピエレット嬢が引き寄せにいきます。びしょ濡れになり、上着も流されたピエレット嬢は半裸のまま洗濯を続けていきます。3)と同じエレム社作品で素朴な田舎風味。



5)「無題」(レズ絡み)

壁に絵が掛けられた小綺麗な一室、二人の女性が半裸姿でじゃれあう様子を収めた一作。



6)「無題」(ヌーディスム)エレム映画社

ベランダで男性が本を読んでいると外から音楽が聞こえてきました。何だろうと顔を出すとリュートを弾いている女性が一人。すぐ次の場面でなぜか半裸となり、下着姿で音楽を奏でています。降りていった男が声をかけてあげるのでした。



7)「無題」(レズ寄りのライトなSM、盗撮風)

日傘を手に散歩しているサングラス姿の女家庭教師。ベンチで女子生徒?が読書中。背後から近づいていき、指揮棒のようなもので文字を追っていきます。生徒の手から本を取り上げると服を脱ぐよう指示。指揮棒で叩くと女の子は恍惚の表情を浮かべるのでした…


確認できた限り欧米圏でこれまで発売されたVHSやDVDに収められている作品は一つもありませんでした。ただ3)と4)については、2006年にカルト・エピックス社から発売されたDVD『1920年代ヴィンテージ・エロティカ』(Vintage Erotica Anno 1920)に「ピエレット嬢、川に洗濯の巻」という同系作品が収録されています。

vlcsnap-2019-06-30-12h07m24s074vlcsnap-2019-06-30-12h09m04s620vlcsnap-2019-06-30-12h10m27s966

戦前に違法流通していたポルノは製作会社の表記がないものが大半です。1920年代に活動していたトリブレ映画社を幾つか保有しているのですが、今回エレム社作品が3つ追加されたことで比較対象が出来た形です。

sample29

浜口 富士子 (1909 – 1935)

「日本 [Japan]」より

Hamaguchi Fuijiko Autographed Postcard
Hamaguchi Fuijiko Autographed Postcard

美人投票に當選したのがキツカケで日活に入社、幸運と云ふべく、余りに幸運にも「蒼白きバラ」に一躍主演級に据ゑられて大カツ躍。古くは澤正一座に加はるて居り、多少の舞台度胸もあつた事とて、第一回主演に失敗もせず、續いて「一番目の女」や「摩天樓」にも現はれて、日活映畫に一脈の若さとモダーン味を加へてゐる。年も廿二歳なら、之からはしつかりした藝を見せ樣し、とまれ若手新進中では、皆から目を付けられてゐる人。

『日本映画年鑑 昭和四年昭和五年 第五年版』
(朝日出版社、1930年4月)

私が書くよりその記事の主要な部分を抜き書きしますから読んでいただきましょう。

— 富士子は九月に入って全く重態に陥った。富士子の実母がかけつけた時には、手のつけられないほどだった。もう注射と酸素吸入だけでようやく命をつないでいるだけだった。それなのに俊二はもちろん、可愛いい誠之助もいない。富士子危篤の報にようやく二十九日の朝、俊二は生母杉山ふきと誠之助を連れて病院にきた。百日目に見舞う妻は全く明日をもしれない容体なのだ。

「ホウこれならまだ大丈夫だ。それぢァまたくるよ」

と慰めの言葉一つかけるでもなくさっさと帰るのだった。無情、冷酷、富士子の母はその翌日警視庁人事相談課に出頭して泣いて訴えた。しかしそれも富士子の死は時間の問題だった。華やかなスタート、きらびやかな映画スター、彼女は夫を心から憎み、愛児の名を呼びつつ二日後哀れにも悲惨な人生の終末を告げたのでああった。

『髪と女優』 伊奈もと著(1954年)

『髪と女優』からは筆者伊奈もとさんの穏やかで人懐っこい性格が伝わってきます。それでも例外的に調子の異なった章がひとつあってそれが浜口富士子さんを扱ったものでした。「仕事の上で二、三年ばかりのおつき合い」で「二人の恋愛ざた以外これという印象はありません」と前置きしつつ、無責任な夫から見捨てられた死の様子に「深い義憤を感ぜずにはおられません」と添えてありました。

一方ではあまりにもあっけなく辿りついてしまったスターダムに安住し、肝心の芸事の修練を怠っていた慢心を批判する文章もちらほら差し挟まれています。単純な夫婦問題のもつれではなく、安易にシンデレラを量産し消費するようになっていた当時の邦画界への自戒が含まれているようにも思えます。

[JMDb]
浜口富士子

[IMDb]
Fujiko Hamaguchi

[出身地]
日本(東京市神田)

[誕生日]
9月

[データ]
8.2 × 13.3cm