1930年代中盤 – 9.5mm 個人撮影動画『淡路島のだんじり祭り』

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

Mid 1930s Awaji Island Danjiri Festival

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1930年代中頃に淡路島で撮影されただんじり祭りの様子を撮影した9.5mm個人撮影動画。カメラを固定せず持ち歩きながらの撮影となり手ブレが非常に多いものの、青年たちが布団だんじりを担いで練り歩く勇壮な姿を見ることができます。
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冒頭は通りを練り歩く山車で始まります。そこまで広くはない道幅に結構な数の人々が集まっています。静止画で確認すると「山際写真館」「クラヤ洋品店」など幾つかの看板を読むことができました。その後、カメラが真下を向いた一瞬にバス停が映りこみます(一コマのみなので動画では見えません)。
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180度反転すると「全淡バスのりば」の文字。全淡バスは戦前に淡路島を走っていたバスの名称で、この情報から撮影場所を特定することができました。
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次の場面から撮影者は路上に下りて通りの撮影を始めます。「最上醤油」や「遊技場」などの看板が見え、はっぴ姿の青年衆たちが何やら準備中。途中に「新興キネマ」と書かれた映画館を発見できました。

sample00後半に登場してくるのは淡路島のだんじり祭りで使用される「布団だんじり」です。明治中頃からこの形が定着したそうで、祭りが若者たちで賑わってきた時期の貴重な動画となりました。

1934年2月11日 – 9.5mm 個人撮影動画『柳幼稚園 仮装奉祝行列』

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

1934 Yanagi Kindergarten Costume Prade
(in celebration of the birth of Prince Akihito)

昭和9年(1934年)2月11日の紀元節(現在の建国記念日)に開催された仮装行列を記録した動画。前年末、昭和天皇に待望の皇太子(現在の上皇)が誕生したのを受け、地元の幼稚園を中心にお祝いのパレードを行ったものです。

まずは神社の境内に集合、早速記念撮影で盛り上がっています。昔話や説話(浦島太郎、桃太郎、大江山四天王)、歴史上の偉人(加藤清正)、火消しや宮司、軍人、猿回しの姿、歌舞伎の登場人物(鏡山お初)などを確認できました。

後半は路地を練り歩いていく様子です。旗を手にした制服姿の学生が園児をエスコートしていきます。

途中に一度列車の車両を模した山車が映し出されています。旗日仕様の列車(あるいはお召し列車)を元にしたデザインと思われ、以前に紹介した『昭和御大禮の盛儀』で実物を確認できました。

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(上)仮装行列用に制作された山車
(下)『昭和御大禮の盛儀』より

1934年頃になると映像からも景気の悪化を感じ取ることができます。明るい話題ばかりではない時代を連帯感で乗り切ろうとしていく共同体の姿でしょうか。

南 光明(1895 – 1960)

「日本 [Japan]」より

Minami Koumei Autographed Postcard
Minami Koumei Autographed Postcard

本名鈴木光、明治三十年、東京市に生る。築地文海學校、立教中學。大原簿記商業科等に學び、大正九年松竹キネマ研究所に入り、蒲田スタヂオへ入社。マキノ入社は昭和三年五月。主な近作は「情恨」「次郎長旅日記」嵌り役は浪人者。身長五尺七寸體重十八貫五百目。趣味は旅行、野球、讀書等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

以前に昭和15年(1940年)の残暑見舞いをご紹介済。

[JMDb]
南光明

[IMDb]
Kômei Minami

[出身地]
日本(東京市京橋区築地)

[誕生日]
6月30日

[データ]
8.5 × 13.5cm

石山 龍児 (1893 – 1973)

「日本 [Japan]」より

Ishiyama Ryuji Autographed Postcard
Ishiyama Ryuji Autographed Postcard

映畫俳優で知つてゐるのは蒲田の石山龍嗣だけである。それも役者として知つてゐるのではない。もう十何年も前、學生のときに偶然のことから知りあひになつて、いつしよに義太夫をききに行つたり文學論をたたかはしたりして、たいへん仲が良かつたのである。

そのころ石山龍嗣はまだ蒲田に入社してゐなかつたしどこにも勤めてゐなかつたので、下宿で暇さへあれば表情の研究をしてゐた。

[…] こないだ私は四谷の映畫館で日本もののトーキーを見て、石山君が醫者に扮し怪我をした少女を診察するところを見た。おちついてゐて厭や味がなく、人がらなところは実際の石山君の性格を見る思ひであつた。地味ではあるが蒲田では相当な俳優なのであらう。(十年七月)

「映畫と石山龍嗣」、井伏鱒二
『肩車』(昭和11年)収録

Ishiyama Ryuji in Arigatosan (1936)
『有りがたうさん』(1936年、清水宏)より
左から石山龍児、上原謙、桑野通子

[JMDb]
石山竜嗣

[IMDb]
Ryuji Ishiyama

[出身地]
青森県

[誕生日]
9月2日

[データ]
8.5 × 13.5cm

1936 – 『パテベビー月報 第75号』(『メトロポリス』『ハンガリー狂想曲』『撃滅』)

Pathé Baby Monthly No.75 (1936 May Issue)
Pathé Baby Monthly No.75 (1936 May Issue)

[内容]
1)表紙:『メトロポリス』より
2)9.5mm版 『撃滅』(小笠原明峰監督、山本嘉一主演。120メートル2巻、定価48円)
4)9.5mm版 『メトロポリス』(フリッツ・ラング監督。120メートル5巻、定価60円)
5)9.5mm版 『ハンガリー狂想曲』(ハンス・シュヴァルツ監督。120メートル4巻、定価48円)
6)新型電燈點滅機 広告
7)ゲバルト社 広告
8)裏表紙:パテ社モトーカメラ広告

[発行者]
パテベビー月報社(大阪市南區安堂寺橋通)

[サイズ]
13.1 × 18.2cm

[定価]
非売品

1931年 トーキー文庫 『無憂華』 (東亞キネマ作品)

Madame Takeko Kujo, Sorrowless tree (Muyuu-ge
« Madame Takeko Kujo, Sorrowless tree (Muyuu-ge) », a novelization based on the 1930 eponyme film.

1930年秋に公開された東亞のオールスター作品『無憂華』をノベライズした説明本。

内容は和風聖女伝。名門寺社の娘として生れ、貴族の元に嫁ぎ、歌人として、さらに社会活動家(関東大震災後の慈善活動、京都女子大創設)として名を上げながら若くして病に倒れた大正女性の生き様を描いた内容です。

聖女のイメージとは裏腹に実際の武子夫人は気さくな性格で、人間臭い悩みやトラブルを抱えていたことも知られていますが、小説版は暗黒面に踏みこむことはせず都合の悪い個所は曖昧にぼかされていました。

興味深いのは、本作が東亞キネマ後期の特作品として製作され時代劇および現代劇の俳優が数多く出演している点です。

独身時代と結婚後のヒロインをオーディションで選ばれた新人女優(鈴村京子と三原那智子)が別々に担当。若き武子の良き相談役だった籌子の方を個性派・久世小夜子が演じ、その他端役で里見明、歌川絹枝、石川秀道、千種百合子、大井正夫、冨士幸子、椿三四郎などが続々登場。

また映画中に劇中劇『洛北の秋』が挿入されていて原駒子と木下双葉、尾上紋弥が共演する仕掛けとなっています。嵐寛寿郎と羅門光三郎以外の俳優が揃っているのではないかという豪華布陣はオールスターの名に恥じないものです。

後期東亞キネマのサイン帳について調べていた時に完全版が現存しているのを知りました。機会があれば是非見てみたいと思っています。

[発行年]
昭和6年2月

[発行所]
映畫研究會

[フォーマット]
150頁 17.0cm×11.7cm

[定価]
二十銭

1930年 『東亞週報 第二八六號』

Toa Weekly No. 286
Toa Weekly No. 286 (October 17th, 1930)

昭和五年(1930年)10月半ばの東亞週報でオールスター大作『無憂華』公開時の一冊。表紙は同作からのスチル写真。モデルとなった故・九条武子夫人を称える菊池寛・久米正雄・直木三十五の歌が添えられています。

『無憂華』の粗筋、配役紹介に加えて主演・三原那智子さんの紹介とそのメッセージ「高鳴るわが胸」が掲載されています。本作以外に映画出演記録が見当たらず経歴が不明だったため略歴が助かりました。海外作品ではフリッツ・ラングの『スピオーネ』が紹介されており、裏表紙は歴史冒険譚『八荒流騎隊』の予告。

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『スピオーネ』の物語紹介の途中にリバイバル上映会の告知が挟まれています。

『明治二十八年・本場所 東京大相撲』。昨年国立映画アーカイブで上映されていた『明治二十八年の両國大相撲』(1900年)と同一作品。現在のスポーツ化した大相撲とは別物で、見世物と神事の両面が絡みあった独特な圧の作品でした。1930年頃すでに歴史的重要作として認知されていた様子が伺えます。