1931 – 16mm 『殉教血史 日本二十六聖人伝』を見る (池田富保、後半第2リール、仏語サウンド版)

「池田富保 関連コレクション」より

1931年に公開された池田富保監督の歴史物。純商業作品ではなく国内外に向け日本のキリスト教徒のイメージアップを図る目的で製作されたものです。

『殉教血史 日本二十六聖人伝』16mm 仏語サウンド版
The 26 Martyrs of Japan / Les 26 Martyrs du Japon (c1950s Kodak 16mm Print w/French Narration, 2nd and last reel)

現存は以前から知られていましたが、近年海外のサレジオ会修道院で発見されたプリントが修復され、2017年2月にヴァチカン市国で上映されています。また国内でも2017年10月に企画「シネマの冒険 闇と音楽 2017」の一環として国立映画アーカイブ所蔵のプリントが上映されていました。

本作の成立背景については『日本研究 第41巻』に収録された山科淳氏の論文(「映画『殉教血史 日本二十六聖人』と平山政十 : 一九三〇年代前半期日本カトリック教会の文化事業」 PDF)に詳しいためこちらでは割愛させていただきます。

成立過程の特殊さゆえ宗教映画・プロパガンダ映画の側面に光が当たりがちな作品です。しかし純粋に1930年代初頭の無声映画として見ても興味深い点が多いものです。

1)日活でオールスター時代劇を任される機会の多かった池田監督の作品であり、本作も同社の重要俳優が多く出演しています。普段と異なった役柄は力量ある役者(山本嘉一、澤田清)にとって実力を発揮する良いチャンスとなりました。

日本二十六聖人伝 山本嘉一
ペトロパプチスタ神父役の山本嘉一(Yamamoto Kaichi as Pedro Bautista)
日本二十六聖人伝 澤田清
ヨハネ諏訪野正道役の澤田清(Sawada Kiyoshi as Suwano Masamichi)

喜劇の印象が強い高勢実がキリスト教徒弾圧を目論む僧侶として登場、憎々しい演技で気を吐いています。また池田映画でおなじみの怪優・新妻四郎は教会に盗みに入りながら、神父の言動に心動かされ改心していく強盗・北海熊を好演しています。

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トマス小崎彦太郎役の中村政登志(Nakamura Masatoshi as Kozaki Hikotaro)
日本二十六聖人伝 片岡千恵蔵
フランシスコ大工伝吉役の片岡千恵蔵(Kataoka Chiezo as Denkichi)
日本二十六聖人伝 市川小文治
前田玄意役の市川小文治(Ichikawa Kobunji as Maeda genni)
日本二十六聖人伝 金平軍之助
高山右近太夫長房役の金平軍之助(Kanehira Gunnosuke as Takayama Ukon)
日本二十六聖人伝 山本礼三郎
コスマ竹屋吉郎兵衛役の山本礼三郎(Yamamoto Reizaburo as Takeya Kichirobei)

映画の後半は弾圧・殉教篇で、ここでは子役たち(中村英雄、中村政登志、尾上助三郎)の芸達者ぶりが目を引きます。慈悲心を備えた僧侶として市川小文治、大工役の千恵蔵がそれぞれ持ち味を出していました。

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細川ガラシャ夫人役の伏見直江(Fushimi Naoe as Gracia Hosokawa)
右にマダレナ桜木役の山田五十鈴
日本二十六聖人伝 滝沢静子
竹屋女房お仙役の滝沢静子(Takizawa Shizuko as Osen)
右に吉松役の中村寿郎
日本二十六聖人伝 浦辺粂子
お久役の浦辺粂子(Urabe Kumeko as Ohisa)

出演場面は短いながら女優陣も健闘。伏見直江は堂々たる細川ガラシャ夫人姿を披露、その脇に山田五十鈴の姿も見えます。山本礼三郎の妻として登場する滝沢静子の豊かな感情表現。そして物語最後、十字架にかけられた我が子を探し泥だらけの姿で刑場へやってくる母親は演技派・浦辺粂子さんでした。

2)また本作からは日本無声映画の技法が成熟期に入っている様子も伝わってきます。『殉教血史 日本二十六聖人』の制作・公開された1930~31年は、欧米でカメラ移動の可能性が追及されていた時期でもあります。米キング・ヴィダー監督が映画史に残るクレーン撮影の長回しを披露した(『群衆』『街の風景』)のがこの時期でしたし、ドイツでは長尺で凝ったトラベリング撮影が好んで使用されていました(『令嬢エルゼ』『会議は踊る』)。

『日本二十六聖人』後半は聖職者と信者たちが長崎まで長距離護送されていく展開でトラベリングが多用されています。大掛かりではないものの緊張感と豊かな空間性をもたらす効果を出しており、製作陣が当時の最先端の感覚を取りこんでいる様子が伝わってくるのです。

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A martyr and his cross

また、信者たちが牢獄に閉じこめられている場面では祈りを捧げる際に格子の影が十字に浮かびあがります。『裁かるゝジャンヌ』(1928年)や『サンライズ』(1927年)にも見られた発想です。後者はキネマ旬報洋画部門の一位を取った作品でもあり、当時の邦画界もノウハウとして共有していたと思われます。

手元にあるプリントはフランスから輸入したもので後半第二リールのみ。リード部分にはフランス語でタイトルが付されています。字幕はなく音声付きの形でした。ナレーションの語り口や音楽から1940年代後半~50年代のプリントと思われます。

『殉教血史 日本二十六聖人伝』は製作者・平山政十の奮闘にもかかわらず欧州で一般公開されぬままで山科論文でもフィルムの動きは掴めていないままでした。この16ミリ版は平山氏が現地に残したプリントが何らかの形で編集され、仏語圏のキリスト教徒の集いで上映されていた痕跡と考えることができます。第一リールに含まれている内容(秀吉の変心や慶長伏見地震)は欧米人に馴染みにくいため第二リールの受難篇だけを単独で上映していたのではないでしょうか。現在Youtubeに完全版がアップロードされておりますので、興味のある方は是非一度ご覧ください。

『殉教血史 日本二十六聖人伝』

[タイトル]
殉教血史 日本二十六聖人伝

[公開年]
1931年

[JMDb]
bg004370

[IMDB]
tt0422548

[フォーマット]
16mm シングルパーフォレーション サウンド版 仏語ナレーション入り 500メートル(約45分)

及川 道子 (1911 – 1938)

「日本 [Japan]」より

Oikawa Michiko Autographed Postcard
1930s Oikawa Michiko Autographed Postcard

本名及川道子。明治四十五年東京市に生る。東京音樂學校一ツ橋分教場聲樂科三年修學。昭和三年第一外國語學校英語科を卒業その間劇研究を續けること前後六年、昭和四年松竹蒲田に入社す。主な近作は「不壊の白珠」「女よ汝の名を汚す勿れ」等々。身長五尺一寸五分。體重十一貫。趣味は音樂、讀書。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

清麗白蓮の氣高さを持つ及川は蒲田エクランが誇る永遠の處女である。彼女は熱心なキリスト教徒で、その清純無垢の娘らしさがスクリーンにもにじみ出て居り、こゝに彼女の誇りがある。東京澁谷の生れで東京音樂學校分教場で聲樂を學び、芽生座、築地小劇場を経て、昭和四年松竹蒲田に入社した。以来その典雅な風貌と巧みな演技で一作毎に人氣を博し、今や本邦の代表女優と稱されている。身長五尺一寸五分。體重十一貫五百。本名及川道子、二十三歳。

『處女作・出世作・代表作 映画花形大寫眞帖』
(1934年1月、冨士新年號附録)

1911年、東京に生まれる。東京音楽学校の一ツ橋分教場声楽科在学中に、小山内薫の紹介で築地小劇場に加入。初舞台は1924年。1928年には「そら豆の煮えるまで」で主役に抜擢され、次いで「青い鳥」ではチルチル役、「三人姉妹」ではハ-プ弾きの少女を好演する。

1929年、映画批評家・内田岐三雄の推薦で松竹に入社し、『不壊の白珠』で映画デビュー。『恋愛第一課』や『抱擁』では、岡田時彦の相手役として出演し、知的でスマ-トな演技をみせた。その他に鈴木傳明の妹を演じた『野に叫ぶもの』や、トーキー初期の『頬を寄すれば』『愛の防風林』『港の日本娘』などで、島津保次郎や清水宏といった有名監督の作品に出演し、活躍。田中絹代、川崎弘子と並ぶ人気を獲得したが、病身のため、せっかく出演が決まったのに、代役を立てなければならないことがあったという。

『家族会議』のヒロイン・仁礼泰子役が映画出演の最後となり、1938年に夭折した。昭和ひとケタ時代の女優の中で、インテリ層に特に人気が高かったという。松竹蒲田の映画作品に新鮮な息吹を与えたばかりでなく、稀にみる清楚なイメージのキャラクターであった。

『日本無声映画大全』
(2000年、マツダ映画社監修)

[IMDB]
nm1508894

[JMDB]
p0080800

[出身]
日本(東京)

[生年月日]
10月20日

1930年代 – 9.5mm 『時代祭 (京都平安神宮)』(伴野商店)

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Jidai Festival (1930s Kyoto, Japan. Banno Co.)

1930年代の時代祭を収めた1リール物のドキュメンタリー。

明治維新の維新勤王隊から始まり神幸列までを丁寧に捉えています。沿道に多くの客が並び、通りに面した家の二階にも行列を楽しんでいる姿が見えます。

自転車や乗用車、路面電車なども映りこんでいて、1930年代の街の風景として見ても興味深いと思います。「水月食堂 サクラビール」「藤井大丸呉服店」「ユニオンビール」など看板の文字も解読できました。

jidai-matsuri-09
「水月食堂 サクラビール」
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「藤井大丸呉服店」
jidai-matsuri-23.pg
「ユニオンビール」

以前、個人が撮影した時代祭の9.5mm動画をデジタル化しました。その際のアングルとほぼ同じと思われる映像も含まれています。

左が伴野商会版、右の個人撮影動画はやや低めのアングルから撮影されています。

東郷久義、昭和5年(1930年)の暑中見舞い

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

東郷久義、暑中見舞い
Togo Hisayoshi 1930 Summer Greeting Card

Togo Hisayoshi 1931 Portrait

東郷久義(1898年3月26日 – 没年不詳)

本名品川久義。明治卅三年島根縣に生る。上京して海城中學を了へ、尚ほ関西大學法科を卒業後三年間歐州を漫遊す。大正十五年四月、招かれてマキノキネマへ入社、スポーツ劇を以て立つ。主なる近作は「常陸丸」「侠骨日記」等。身長五尺六寸、體重二十二貫。柔道四段。趣味は各種スポーツ。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDB]
p0304430

[IMDB]
nm1798357

[誕生日]
3月26日

[出身]
日本(島根県)

[サイズ]
8.9 × 14.2cm

[データ]
髙島栄一氏宛、昭和5年(1931年)8月3日西陣の消印有。

飯塚 敏子 (1914 – 1991)

飯塚敏子 サイン入り写真01

飯塚敏子 サイン入り写真2
Iizuka Tosiko Autographed Photo

この大作 [『唐人お吉』]に、特別主役を振られたので、いまゝでゐた撮影所内の女優さんが今度は納まらない、「女學生上りのお茶つぴいの癖に、一本や二本の映畫が良よかつたからと云つて、唐人お吉に出るなんて生意氣だワ」と大変な横槍だ。飯塚さんが撮影所の門に入ると、もう目引き鼻引き、妬み猜みの陰口が、四方から投げられる。

その口惜しさ、腹立たしさ、勝氣な敏子さん丈けに、身を悶えて悲しく思つたが、今が私の運命の岐れ目だ、こゝをぢつと辛抱し闘ひ抜けよう、と覺悟して、寄宿の家から一里ばかり北にある一条寺の有名な葉山観世音へ、四十九日の願掛け、どうぞ心をしつかりと、この大役の仕遂げますようにーそれは映畫の中の主人公そのまゝの悲壮な決心だつた。

『スターになる道 : 附・映画俳優志願者の心得』(京都映画人協会, 1936)

ミュジドラ Musidora (1889 – 1957)、昭和13年の従妹宛タイプ打ち書簡

「国別サインリスト フランス [France]」より

1938年、ミュジドラがブエノスアイレス在住の従妹ジョルジェット宛てに送ったタイプ打ちの書簡。フレンドリーな口調ながら女流作家らしく凝った表現も随所に混ぜられています。

文中に登場する「ジャコル」君はおそらくジョルジェットの子供さんの愛称で、その手術と家族の心労をいたわる気遣いが伝わってきます。

一方でブエノスアイレスの大手書店の所在地を訪ね、自身の著作の販路を広げようとしている辺りにしたたかさを感じます。

文面は裏まで続いていて、最後に本人のサインで〆てあります。表面の余白には手書きで息子のクレマン君が愛らしいメッセージを残しています。


7月20日 シャティオン=シュル=マルヌにて

ジョルジェットへ

このブエノスアイレスってのは超危険、磁石並に引き寄せられている私。なぜか知らないけれど息子の来年のバカンスはブエノスアイレスに行ってほしいと思ってしまうのよ。

残念ながら夢物語かしら。でもそんなことばかり考えてしまって。

日々の記録のお手紙と、私&息子の写真2枚を同封させてもらいました。

私が一秒たりとも無駄にしていない様子が伝わるかなと思います。「おちおち死んでもいられない」みたいな?ジャコルの手術があって大変だったのも分かっているしちょっとでも笑ってもらえると幸いです。

こちらでは家がようやく完成しました。庭に15×8メートルのプール付き。ザズーの素潜りが凄いったらありゃしない。

良かったらブエノスアイレスの大きな書店の連絡先を教えてください。自分の本をどこかに置いてもらいたいと思っていて、向こうも興味持つのではないかと。この辺のお金絡みの分野が苦手なので、ヒントになりそうなものを幾つか教えてもらえると嬉しいです。

良き報せを待ちながら、みんなに、一人ひとり順番にキスを送ります。あなたからの温かい言葉は皆に伝えておきました。百倍返しするそうですよ。

(クレマン君のメッセージ)
こんにちはジョルジェットおばさんとジャコルかぞくみんなにキスおくるね

Chatillon-sur-Marne le 20 Juillet 1938

Ma chère Georgette,

Ce Buenos-aires est périlleux pour moi, il m’attire comme un aiment, et j’aimerais, je ne sais pourquoi que Clément l’année prochaine prenne des vacances pour faire un voyage jusqu’à Buenos-aires.

Tout ceci malheuresement n’est qu’une idée, mais cette idée revient souvent dans ma tête.

Je t’envoie par ce même courrier des nouvelles journalistiques de ta cousine ainsi que deux photos de Zazou et de moi.

Tu vois que je ne perds pas un instant et comme on dit « je ne prendrai même pas le temps de mourir ». Je veux te faire rire un peu car tu as de mauvais quart d’heure avec l’opération du Jakol.

Ici, la maison s’achève doucement, le jardin à une piscine de 15 mètres sur 8 mètres, et le Zazou y fait des plongeons magnifiques.

Veux tu être gentille de m’envoyer l’adresse d’un grand libraire de Buenos-aires, je voudrais bien faire un dépot de mes livres et cela peut l’interesser. Mais ne connaisant pas cette partie uniquement commerciale je te serais gré de bien vouloir me donner quelques indications.

Dans l’attente de vos bonnes nouvelles à tous, nous vous embrassons tous ensemble, séparèment. J’ai transmis toutes tes amitiés à toute la famille qui te les renvoie centuplées.

Ta cousine,
musidora

[message écrit par Zazou] : bonjour je t’embrasse ainsi que Jakol et ta famillle zazou

 

1931年 – 『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』 冨士新年號附録

1931年-名流花形大寫眞帖
« Stars Photo Album » supplement to the « FUJI » magazine Vol.4, No.1 (Jan 1931) published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

[発行年]
昭和6年1月

[発行者]
大日本雄弁会講談社

[フォーマット]
356頁 18.4cm×12.8cm

[定価]
本誌と共に七十銭