1935年(昭和10年)-【ファクトチェック】 女優・筑波雪子のリベンジ・ポルノ事件

2020年末時点での日本語版ウィキペディア(以下ウィキ)「筑波雪子」の項目に以下の記述が含まれています。

この翌年の1935年(昭和10年)5月3日、牛島某という男が筑波のヌード写真をネタに松屋から5000円を恐喝するという事件が起き、逮捕された牛島の供述から同日、共犯を疑われて、筑波も警視庁に連行された。牛島は筑波の昔の同棲相手で、1930年(昭和5年)から1934年夏まで同棲していたという。

元同棲相手の逮捕で「ヌード写真」の存在が公にされてしまったため、「リベンジポルノの元祖か?」と指摘しているツイッターユーザーさんもいます。意図したものではなく結果的に、の条件でも良いならそう見る事もできるかなと思います。

ウィキの記述にはソースリンクが付されています。元ソースは戦前の新聞記事を紹介している個人サイト「昭和ラプソディ」。Yahoo!ジオシティーズは2019年3月末に閉鎖されており、このサイトも現在は閲覧不能。インターネット・アーカイヴなどウェブ魚拓も残されていないため典拠がない形で放置されています。

今回、この一件についてファクトチェックを行ってみました。1935年5月の新聞記事を確認していきましょう。[1]

[…] 松竹キネマ女優筑波雪子の裸體寫眞を種に松屋から五千圓を恐喝したかどで檢擧された世田谷区北澤一、一一三牛島幸太郎について取り調べた結果、本人の筑波雪子事佐藤ゆき子(二九)が此事件の共犯らしい疑ひが濃厚になつて來たので雪子は三日午後零時半黑つぽい花模様の絹紗、洋髪で大森區入新井六ノ五五の自宅から一森警部の部下の刑事に連行されて警視廰に出頭一森警部の取調べを受けてゐる、筑波雪子は取調べに對し牛島の松屋恐喝事件は全然知らぬといつてゐるが更に地下新館調室に同人を移して取調べを續行して居る。

雪子は牛島と昭和五年から麹町の某所に同棲し、昨年夏別れて大森區入新井六ノ五五實弟佐藤光次郎方に同居してゐたものである。

「筑波雪子登場 共犯の疑いで警視廰へ出頭」
東京朝日新聞 昭和10年5月4日付夕刊2面


裸體寫眞を種に松屋から五千圓を恐喝したかどで検擧された牛島幸太郎との共犯嫌疑で三日警視廰に召喚された女優筑波雪子は捜査二課一森警部に取調べられたがその結果雪子は一作年四月牛島の松屋恐喝の直後松屋から贈つた千圓を貰ひ受けた事實はあるが恐喝に直接關係のないことが判つたので同日午後四時半まづ釋放となつた。


「筑波雪子は釋放」
東京朝日新聞 昭和10年5月4日付朝刊11面


[…] 世田谷区北澤一、一一三牛島幸太郎(四〇)は先に暴力團狩で檢擧され警視廰捜査二課一森警部が留置の上取調べてゐたが、右の恐喝の外に次のやうな余罪が現れた。

◇…昭和四年十二月末神奈川縣大磯町九三六奥弘一が銀座六ノ四にカフェー・サロン春を開店した際、奥が友人某を通じて牛島によろしく賴むといつたことから筑波雪子を自分の妻と稱して昭和五年二月から四月まで店に出してサービスさせ、その代償として借用金名義で三千二百圓を捲き上げた[…]

「筑波雪子のサービス代三千圓 「サロン春」も牛島に強請らる」
東京朝日新聞 昭和10年5月29日付夕刊2面

東京朝日新聞の報道は時間軸が逆転しており、5月4日付朝刊で女優釈放の記事が出た後、夕刊で連行に至るまでの経緯が伝えられています。また3週間程経った5月末には余罪についての続報が掲載されていました。

ウィキの記述は5月4日付夕刊での情報をまとめた形になります。余計な情報が付け加えられた形跡もなく概ね正確なまとめだとは思いますが一ヶ所紛らわしい表現がありました。

引用したウィキの文章は「5月3日」に「恐喝するという事件が起き、逮捕された」とつながっています。そのため容疑者による恐喝が5月3日に行われた印象を与えます。4日付朝刊11面の記述を読むとその解釈は間違いで、恐喝事件そのものは「一作年」=昭和8年(1933年)に発生していたと分かります。1935年に警視庁による暴力団の摘発が強化されており、一連の逮捕劇の流れで2年前の犯罪が発覚したものです。

それ以上に問題となるのは「連行された」でウィキの記述が終わってしまっているところです。容疑者の供述、被害者からの送金の動きから嫌疑がかかり連行された事実は間違いありません。ただ、取り調べの結果「恐喝に直接關係のないことが判」り、即日「釋放となつた」話があるとないとでは読み手の印象が大きく変わります。

別れた後に私的な写真を持ち出された状況を考慮するならこの一件で筑波雪子さんは被害者側にいます。ウィキの記述にはそういった視点が欠落、賭け麻雀事件に続いて警察沙汰に巻きこまれた話を並べてスキャンダラスな要素を強調をしている感は否めません。誤情報は無くとも見せ方に問題あり、という感じでしょうか。

結論:〇 (記述は概ね元記事に即しているが、情報の選択がややセンセーショナルに寄っていて公平性に欠ける)

[補遺]ちなみにこの事件に関して、「女優のヌード写真」が実在したのかどうか疑ってみることもできます。

第二のパターンはエロ写真に有名女性の首をすげ替えて、本物として売りつけようとしたものである。大正時代から昭和二、三年にかけて、そのかっこうの素材とされたのが女優の筑波雪子であった。[…]

『日本エロ写真史』
(下川耿史、青弓社、1995年)

それから幾日か經つて、誰のいたづらか未だに分らないのであるが、彼女が風呂場で立膝をしながらあかすりを使つているところの、實に驚くべき大膽不敵な裸體姿の寫眞を、愚生に送つて來たのである。

だが愚生は、永遠に彼女の貧弱な肉體を記念すべき、此の最も貴重な寫眞を、直ちに焼いて灰にしちまツたんである。(十月廿六日夜)

「筑波雪子の裸體姿の話」
(人見直善、『劇と映畫』1925年12月号)

左がオリジナル写真 [2]。右が1920年代中盤〜30年頃に流通していたフェイク・ポルノ写真 [3]。眉や目鼻立ちをペンで修正、背中や腕を黒で縁取りして細身のシルエットに見せる加工が施されています。原始的な手法ながらそれらしい仕上りで、当時は相当数の人々が本物だと信じていました。

もちろん数年来の同棲相手、しかも女性を金づるにする類の人物なら本物を持っている可能性はあります。でも若い頃にフェイクポルノの被害に遭った、しかも名の知れた女優がそんな簡単にリスクのある写真を撮らせるでしょうか。紙ベースでの検証はこの辺りが限界で真相は不明。いずれにせよ恐喝事件について言及する際に写真の真贋に紛れがある点は留意しておくべきかと思われます。


[1]  東京朝日新聞からの引用は朝日新聞社提供による「聞蔵II」のアーカイブを元にしています。
[2] 『日本エロ写真史』(下川耿史、青弓社、1995年)
[3] 『エロ・グロ・表現考』(赤木妖三、時代世相研究会、1931年)

1935 ‐ 『映画におけるリハーサルの技法』レフ・クレショフ著 ロシア語初版

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [06]

« Repeticionnyj metod v kino »
by Lev Kuleshov (1935 1st Edition)


レフ・クレショフは帝政ロシア末期~ソ連の映画界で活躍した映画監督・映画理論家です。1917年から映画批評や理論の発表を始めておりその長い思索の軌跡は1987年の全三巻ロシア語本『映画論全集』でまとめられることになります。英語圏でも1970年代中盤に公刊された『クレショフ選集』(カリフォルニア大学出版)でその思想の一部が知られるようになりました。

クレショフが戦前に出版した書籍は以下の4冊。

1929: 『映畫藝術』(Иск-во кино)
1935: 『映畫におけるリハーサルの技法』(репетиционный метод в кино)
1935: 『映畫監督術の実践』(Практика кинорежиссуры)
1941: 『映畫監督術の基礎』(Основы кинорежиссуры)
このうち主著の一つ『映畫監督術の基礎』はインターネット・アーカイヴでオンライン公開されています。

今回手に入れたのは第二著作『映画におけるリハーサルの技法』の初版本(4000部限定)。全64ページ。サイズは縦19.7×横13.5センチで表紙は布張りになっています。滲んだ収蔵印あり。

「Виблиотена Львовского Кинотехникума」…

リヴィウ(Львов)はウクライナの都市名。リヴィウ映画技術図書館の旧蔵書でしょうか。同名施設は現在リヴィウに存在しておらず、随分と前に閉鎖されたか別組織に吸収または改称されたと思われます。

内容的にはプレテネフ氏による序文(предисловие)の後に
「最初の実験」(первые опыты)
「利点(メリット)」(преимущества)
「実践」(практика)
「諸相」(перспективы)
4章構成となっていて、自作の『紅の戦線にて』(1924年)、『死の光線』(1925年)、『掟によって』(1926年)、『ベネチア製のストッキング』(詳細不明)等を引きあいに自説を展開していきます。


[出版者]
Kinofotoizdat (モスクワ)

[フォーマット]
1935

[生年月日]
64頁。19.7×13.5cm。4000部限定

1926~1935年 剣戟俳優映画 豆ブロミニコレクション

1926-35 various « kengeki » trading cards

10年近く前、国産無声映画の紙物で初めて手に入れたのがこの辺の豆ブロマイドでした。大正末期~昭和初期に九州で活動していた「活キチ」さんの旧蔵品がネットオークションに出品されていたのを発見、いずれも結構な勢いで落札されていました。1セット確保できましたが正直当時は自分でも何を手に入れたのかよく分かっていなかったです。

今回『孔雀の光(前編)』の説明本の紹介にふと思い出して引っ張り出してきました。1926〜35年にまたがる内容でアイドル感キラキラ時代の河部五郎、紙物にあまり恵まれていない佐々木清野嬢辺りの珍しい物が含まれています。


1)『孔雀の光』(1926年、マキノプロダクション・御室、沼田紅緑監督、市川右太衛門主演)

[JMDb]
孔雀の光 前編

[IMDb]
Kujaku no kikari – zenpen [sic]


2)『修羅八荒』(1926年、松竹・蒲田、大久保忠素監督、森野五郎主演)

[JMDb]
修羅八荒 第一篇

[IMDb]


3)市川百々之助(1926年頃、作品名不詳)


4)『月形半平太』(1926年、日活・大将軍、高橋寿康監督、河部五郎主演)

[JMDb]
月形半平太

[IMDb]
Tsukigata hanpeita


5)『素浪人』(1926年、阪妻プロ、志波西果監督、阪東妻三郎・森静子・佐々木清野他出演)

[JMDb]
素浪人

[IMDb]
Suronin


6)『八剣飛竜』(1929年、日活・太秦、池田富保監督、澤田清主演)

[JMDb]
八剣飛竜

[IMDb]


7)『京洛浅春譜』(1935年、千恵プロ、西原孝監督、片岡千恵蔵・歌川絹枝他出演)

[JMDb]
京洛浅春譜 同志闘争篇

[IMDb]


ジャンヌ・エルブラン Jeanne Helbling (1903 – 1985) 仏

「フランス [France]」より

Jeanne Helbling 1935 Inscribed Photo
Jeanne Helbling 1935 Inscribed Photo
1903年フランスのアルザス地方生まれ。1920年頃から端役で映画に出演、次第に女優業を本格化させていきました。初期作品ではパテ社で撮影された『小さな悪魔』が9.5ミリフィルムで市販されていて、娘役を演じていた頃の様子を知ることができます。

1920年代中盤がキャリアの最初のピークですが、彼女が特殊だったのはいわゆる大手映画会社(パテ社、ゴーモン社)から距離を置き、独立系映画会社や監督(アンドレ・ユゴン、アルベルト・カヴァルカンテ、ジャン・ルノワールなど)の作品に絡む機会が多かったことです。

中でもジャン・エプスタインと相性が良く、シュールレアリズム短編の秀作として知られる『三面鏡』で中心の役を演じていたのが彼女でした。

Jeanne Helbling in La Glace à trois faces (1927)
『三面鏡』(La glace à trois faces, 1927年)より

1930年代初頭、ハリウッド映画仏リメイク版への出演を経た後に渡米。ハリウッドの流儀があわずに程なくして帰国、舞台やミュージックホールに活動を広げていきました。カジノ・ド・パリで歌や踊りを披露しアルハンブラにも出演、今回入手した直筆メッセージ入りの写真は1935年アルハンブラ出演時に残されたものです。

心優しき同僚のポーレットさまへ
仲良き時間を過ごした思い出に
ジャンヌ・エルブラン
アルハンブラ、1935年

Souvenir amicale, pour ma
gentille camarade Paulette
Jeanne Helbling
Alhambra 1935

30年代中盤以降は脇に回る機会が多くなりますが出演ペースが落ちることはありませんでした。第二次大戦時にレジスタンスに協力、その貢献を認められ戦後英仏の政府それぞれから勲章を受けています。

[IMDb]
Jeanne Helbling

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(タン)

[誕生日]
7月26日

鈴木 傳明/伝明 (1900 – 1985)

日本・男優 [Japanese actors]より

Suzuki Denmei 1935 Autographed Postcard

Suzuki Denmei 1935 Autographed Postcard

スポーツ俳優の第一人者でフアンの人氣を一人で背負つて立つ彼。素人しては驚くべき成功といはねばなるまい。

彼は下谷區上野櫻木町の炭屋に生れたチヤキチヤキの東京ツ子。明治三十三年生れ、往年明大の経濟科に通學の傍ら神田神保町に『すゞき』といふ喫茶店を從妹と經營したという變り者。元来映畫が好きなところから學業の餘暇小山内氏の松竹キネマ研究所で映畫を研究し第一囘試作映畫『路上の靈魂』で主役を振られたを皮切りに大正十一年に模範活動寫眞が創立され『大親鸞』で善鸞に扮して大に天才を發揮して好評を博した。超えて大正十三年明大商科を卒へて商學士の肩書付となつたが算盤の桁を外して遂に京都の日活撮影所に現はれ『塵境』『我等の若き日』『金色夜叉』に主演して好評を博す。後松竹に轉じて『海人』『受難華』『海濱の女王』『海の勇者』『森の若者』に主演し益々人氣を高め、蒲田の最高幹部俳優として一般フアンから騒がれ就中若き男女の共鳴を享けてゐる。最近の人氣投票では見事に最高點を獲ち得てゐる。

趣味は運動、有らゆる競技と讀書。

(『玉麗佳集』、1928年)


彼も今年(昭和八年)三十四歳。まつたくの男盛りになつた。

五尺九寸、十七貫の強靭な偉躯。その容貌は日本人として稀な泰西的現代味を持つ。明大出身で学生氣質の抜けない彼は常に明朗快活だ。その演技は青空高く千貫を巻き上ぐる起電機の溌溂さ、唸る發電機の壮烈さを見せる。

水泳は彼の本技だがその他あらゆる競技に理解と經驗とをもつ。スポーツ俳優として彼は實に空前である。『陸の王者』『若者よなぜ泣くか』『熊の出る開墾地』は傑作中の傑作だ。かうして今、彼は、『金色夜叉』に於る荒尾譲介にまで扮するやうになつた。彼が現在の苦闘は彼を鞭打つて更に幾多の佳作を世に送り、デンチ・フアンを満足せしめるに違いない。(不二映畫)

『東西映畫 人氣花形寫眞大鑑』
(1933年1月、『冨士』昭和8年新年號附録)


[JMDb]
鈴木伝明

[IMDb]
Denmei Suzuki

[出身地]
日本(東京・上野)

[誕生日]
3月1日

アベル・ガンス監督、昭和10年の手紙 Abel Gance (1889 – 1981)

Abel Gance 1935 Typed Letter

拝啓

8月19日付けのご質問に対する回答となりますが、
アルジェに映画スタジオ群が作られればとても便利だろうと思います。
計画が実現すればすぐに多くの顧客が見つかるのではないでしょうか。

心よりの敬意をこめて

アベル・ガンス

1933年に復刊されたアート誌「欧州芸術家(ユーロップ・アルティスト)」の質問に応えた短いタイプ打ちの手紙。1935年(昭和10年)9月11日の日付が打たれたもの。

レターヘッドに朱色で名前が印刷されており、便箋下部には同色で住所も記されています。

墺オイミッヒ P1 9.5mm サイレント映写機

オーストリアのオイミッヒ社が初めて発売した映写機。モーター付きの9.5mm機で、上部と土台部が分離でき、それぞれに別なシリアルが振られています。レンズに銘はありません。

リールを固定するパーツの一つが折れてしまっているのですが実写には影響なかったので一安心。タグが残っており、メーカーによる検品日(5524、おそらく1935年5月24日)を見て取れます。

シリアル:(本体)6594 (モーター基盤部)5208
製造: オーストリア
対応フィルム:9.5m
製造時期:1930年代前半
対応電源:110 & 220V
コンセント:欧州仕様
映写速度:可変式

[履歴]
2015年1月22日購入