サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

1939-sandra-milowanoff-handwritten-lettr-01
1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

昭和14年(1939年)『リボンを結ぶ夫人』 撮影風景(入江たか子、丸山定男、山本薩夫氏)

プロの写真家さんが撮影した写真をまとめたアルバムで、北海道を舞台にした1939年の映画『リボンを結ぶ夫人』の撮影風景、スタッフのバックヤードショットが一部に含まれています。

映画の途中でヒロインは離縁され実家に戻ります。父親が温かく迎え入れ、家の白樺林を売却して娘のために使おうとするのですが、この場面の白樺林を撮影したのが右の写真。

横長の写真に監督の山本薩夫氏。もう一枚は撮影カメラが回っているところ。左に見えるのはドイツ人建築家マックス・ヒンデル氏が設計した鉄板葺の家屋(現存せず)で、戦前の札幌がモダン化している様子も伝わってきます。

和服姿の入江たか子さん。

父親役を演じた丸山定夫氏。戦中は移動演劇桜隊の中心メンバーとして活動、1945年8月に劇団の拠点がある広島で被爆、終戦の翌日に亡くなられています。

『リボンを結ぶ夫人』に関係する写真は以上の7点。他に別のロケで撮影された山田五十鈴さんの写真も含まれていました。

アルバムそのものを北海道から送ってもらったのですが、撮影者さん自身が道在住の方で、スチル写真の撮影で現場に呼ばれた感じではないかと思われます。漁村風景のような日常のスナップにも魅力があります。

1939 – 『山彦呪文』 内務省検閲済台本

表紙には朱で「内務省検閲済台本」と「取扱注意」のハンコあり。表紙を開くと「注意」の題の下、「此台本ハ内務省ノ公文書ニ付キ内部ヲ訂正又ハ汚損セザル様願ヒマス」などの注意書あり。

次ページに「内務省検閲済」のハンコ。

次ページには「注意」として「検閲済ノ »フイルム »又ハ台本ノ内容ヲ加除変更シタルトキハ其ノ検閲ノ効力ヲ失ヒ該当 »フイルム »ノ上映ヲ禁止セラルル虞アルヲ以テ注意セラレ度シ」

作品の要約、配役一覧、台本部と続きますが、全ページに「内務省」の割印があります。

「鳥の傍での発言を堅く禁じてあるのも九官鳥が呪文以外の言葉を覚え込まぬ要心からぢゃ」
「では九官鳥山彦に聞けば百萬両埋蔵の場所がすぐに判ると云ふ譯でござりまするな」

『山彦呪文』は日米開戦の直前に公開された日活の時代劇です。琉球から奪われた百萬両の在りかを知る九官鳥「山彦」をめぐって繰り広げられいきます。