スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 トーキー時代・スター誕生』

8ミリ 劇映画より

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 2 : Talkie… Stars Are Born »
1970s Super8 Anthology


1) 戸田家の兄妹(1941年、小津安二郎) 桑野通子、高峰三枝子、三宅邦子、坪内美子ほか [JMDb]


2)信子 (1940年、清水宏) 高峰三枝子、三浦光子、飯田蝶子ほか[JMDb]


3)木石 (1940年、五所平之助) 木暮実千代、赤木蘭子ほか [JMDb]


4)隣りの八重ちゃん (1934年、島津保次郎) 逢初夢子、高杉早苗、岡田嘉子ほか [JMDb]


5)暖流 (1939年、吉村公三郎) 水戸光子、高峰三枝子 [JMDb]

松竹映画史を女優視点で振り返っていくスーパー8版アンソロジーの第二篇。

冒頭を飾るのは小津作品『戸田家の兄妹』。妖婦や悪女役など翳りの多い役柄が多かった桑野通子さん新境地が評価されたものです。続いて高峰三枝子さんが女学校の女性教師を演じた『信子』。しばしば女性版『坊ちゃん』と呼ばれますが、多感な女生徒たちと教師・信子の関係には数年前に日本で公開された『制服の処女』の影響を見て取ることもできます。

ベテラン看護婦(赤木蘭子)とその娘襟子(木暮実千代)の物語を描いた『木石』。母娘二人のコントラスを効かせながら、襟子の出生の謎が次第に解き明かされていきます。8ミリ版ナレーションでは時局を踏まえ、戦前期松竹の最後を飾るメロドラマの位置付けをされていました。

一旦1930年代前半に戻って『隣りの八重ちゃん』に移ります。撮影や脚本、配役に無声期の雰囲気が強く残っている感じ。八重の友人役で瑞々しい存在感を見せた高杉早苗さんが高く評価されていました。

トーキー篇のトリを務めるのは『日本映画史・前編』でも紹介されていた『暖流』。喫茶店での抜粋も含まれています。男一人、女二人の三角関係を軸に進んで行く物語で当時は映画フアンがぎん派(水戸光子)と啓子派(高峰三枝子)に分かれていたエピソードも紹介されていました。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート(24コマ/秒) 光学録音・テープ付き

アスタ・ニールセン(1881 – 1972)、1949年の書簡

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Asta Nielsen 1949 Singed Letter

1949年10月11日
親愛なるフィッシャー樣

お問いあわせ心より感謝しております。
(そうそう、ドイツ語で書かないといけないですよね)
「スイス画報」誌のためとの話で心より感謝申し上げます。 御誌への好奇心がムクムク湧いてきています。
最近撮った写真は手元に御座いませんのでご了承くださいませ。
貴殿と御誌のご発展を心よりお祈り申し上げます。
かしこ

アスタ・ニールセン

11.10.49

Käre Her Redaktör Fischer.

Hjertelig Tak for Deres Henvendelse For mi (det er sandt, jeg maa jo skrive Tysk)
Also, herzlichem Dank für Ihre Bemühung mit der Schweizer Illustrierten, nun bin ich neugierig, ob ich etwas davon höre.
Wie ich Ihnen schon hier sagte, bin ich nicht im Besitz von Bildern aus der letzte Zeit.
Ich hoffe, dass es Ihnen beide nach Wunsch geht und sende dir herzlichste Grüsse.
Ihre sehr ergebene,

Asta Nielsen

アスタ・ニールセンが戦後の1949年、スイスの雑誌の編集者に送った書簡。記事用に近影の写真を所望した編集者にやんわりと断りを入れた内容です。折りたたんで封をすると三辺にミシン目ができるタイプの封筒を使用。印刷された15オーレの切手の脇に5オーレの切手が追加で貼ってあります。

最初はデンマーク語で書き出しながらすぐドイツ語に変わるのですが、狙ってやったわけではなく間違えに途中で気づいてそのまま修正し書き続けたように見えます。ミスタイプを打ち直した個所も多く、秘書に打ってもらったのではなく本人がタイプしているのではないのかな、と。

オスロ(ノルウェー)のホテルに滞在しているスイスの雑誌の編集者に宛て、デンマークからドイツ語の手紙を書く…欧州を股にかけて活躍した名女優さんらしいスケールの大きな話です。

1926年12月、ケルンで残されたと思われる
サイン入り絵葉書

Asta Nieslen Signed Card

雑誌切抜きを貼りつけた手製カードに
(戦後、1940年台後半から50年台始め)

アスタ・ニールゼン、彼女の名は今や我愛活家の腦裡より忘れられようとして居るけれどもニールゼンはその藝能に於て又技巧に於て、他の追從を許さぬ獨得の領域を持つた名女優であつた。幻惑的な嫋弱[たおやか]なすつきりした姿、人の胸に迫る沈痛な面持。ニールゼンには斯うした北歐の女性の備ふる典型を持つて居る。さうしてその五體より湧き出る彼女の表現、夫[それ]はあの物寂たビオスコツプ藝術映畫に缺くべからざる權威でもあつた。『ハンナ嬢』の如き、『愛の叫び』の如き、『女優の末路』の如き、『浮縁の血統』の如き、實に彼女の藝術の一旦を伺ふにて遺憾なきものであつた。

ニールゼンの生國は平和に満ちた丁抹である。北歐劇壇にニールゼンの名が漸く表れ始めた頃、彼女は故国を後にして独逸伯林の都に來て、劇作家ウルバン、ガツトウ氏と知り、兩者は戀にも生き、結婚して共々ビオスコツプ社の招聘により、ガツトウ氏劇作指導の下にニールゼン映畫を作る事となり、數十の映畫を撮影したのであつたが、折から戰亂となり、嬢は夫君と共に避けて故國丁抹に歸つた。

「歐州活動女優物語:アスタ・ニールゼン嬢」
『活動画報』 1919年8月号

身振りの多様さと表情の豊かさは、アスタ・ニールセンの場合驚嘆に値する。

「アスタ・ニールセン:その愛の演技と老け役の演技」
ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫版所収
(佐々木基一、高村宏訳)

1921年『女ハムレット』より


[Movie Walker]
アスタ・ニールセン

[IMDb]
Asta Nielsen

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
9月11日

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [01] フィルム装填篇

21世紀になっても8ミリ撮影機はまだまだ現役。愛好家がリアルやヴァーチャルで繋がっています。9.5ミリの伝統は途切れてしまっているので正直羨ましいな、と思います。

手元に未使用・未開封のフィルムが幾種類かあるので今回ひとつ封を切ってみました。ドイツのパテックス社が大戦中に市販していた一本で使用期限は1943年8月。

外箱の外観です。フィルム価格に現像料が含まれており、外箱をそのままパテックスに送ると現像されて戻ってくる仕組みになっていました。箱の裏面にはデュッセルドルフのパテックス社住所が印刷されています。

フィルムの種類は「Pathex Moto Kassette « H »」で、1930年代に発売されたパテ社モトカメラH型に対応したパンクロマチック・フィルムです。

まず外箱を開けていきます。「こちら側から開封してください(Hier öffnen)」の指示に従うと郵送時の注意書きが見えます。緩衝材として段ボール素材が使われていて、フィルムカートリッジが銀紙でくるまれていました。銀紙の内側は黄緑色でした。

ここから実際の装填作業に入っていきます。メーカーや機種によって手順は若干異なるものの、9.5ミリカメラでそこまで難しい作業が要求されることはありません。モトカメラH型ではフィルムを押さえつけるゲージ部分が可動式になっている(写真黄色の円)ので、そこをスライドさせて隙間を作りフィルムを押しこみます。その後スライドさせて元の位置に戻すだけで装填が完了します。

装填完了後、カメラの蓋を閉め撮影ボタンを押してフィルムを数センチ進めて張りを調整しておきます。いざ、撮影!です。

1948年1月 -「ヴィクトラン・ジャッセと仏無声映画」(「歴史調査委員会」主催座談会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

戦中1943年に映画産業界組織委員(COIC)の提言を受け、映画史家アンリ・ラングロワ主導で「歴史調査委員会」が活動を始めました。1)初期映画に関わる情報収集、2)監督や出演者、公開年などが分からなくなっていた無声映画の同定、3)シネマテーク・フランセーズへの資料集約を目的とした組織です。

この活動の一環として、1940年代後半~60年代中盤に俳優や監督・技術スタッフのインタビューが行われ、約110点の資料が残されることになりました。このうち1948年1月に行われた対談を文字に起こした資料番号5番(CRH5-B1)と、同年3月に行われたインタビューをタイプ打ちした資料番号52番(CRH52-B2)がヴィクトラン・ジャッセに関わった内容となっています。

Victorin Jasset : réunion du 24 janvier 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH5-B1) pdf

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表紙には「歴史調査委員会」を表す「RH」と対談の日付「1948年1月24日」、対談の主な内容が手書きで記されています。この文字を書いたのは初期連続活劇で活躍し、当時は「秘書」として歴史調査委員会に同行していた元女優のミュジドラでした。

30頁の原稿の内、前半の12頁がジャッセ監督とエクレール社を扱った内容となっています。当時の同社の雰囲気について、対談参加者の一人J・J・ルノー氏が次のように語っています。


J・J・ルノー:[…] 特にパテ社等では製作スタッフが金銭的にむしりとられていたのに対して、エクレール社では皆が家族の様な一体感がありました。

またエクレール社の経営に関わっていたマルセル・ヴァンダル氏はジャッセについて次のように語っています。

アンリ・ラングロワ:ジャッセ監督と個人的なやりとりはあったのですか?

マルセル・ヴァンダル:5〜6年程仕事で御一緒させていただきました。彼が監督として名を上げたのは弊社にいた頃の話です。『プロテア』を含めた彼の作品は全て彼と私との契約から生み出されてきたものです。

ジャッセ監督の経歴についてヴァンダル氏は次のように述べています。

マルセル・ヴァンダル:ジャッセはゴーモン社の映画館に建て替えられる前にあった「イポドローム劇場」で監督をしていました。映画に初めて携わったのはゴーモン社で、イポドローム劇場では舞台監督をしていました。エクレール社が当時雇った監督が二人いて、一人がジャッセ、もう一人がアトでした。ジャッセは一流の人物で、亡くなるまで弊社で働いてくれました。

『ジゴマ』についてヴァンダル氏は次のように述べています。

アンリ・ラングロワ:『ジゴマ』について話していただけますか。

マルセル・ヴァンダル:題を『ジゴマ』に決めたのは私とジョルジョンでした。変装の名人の設定だったからです。『プロテア』の題も私たちが決めたものです。フランスで初の連続劇となったニック・カーター物と違い、下敷きにした原作はありませんでした。

ジャッセ監督の遺作となった『プロテア』(1914年)について、ヴァンダル氏は「『プロテア』は主演女優のジョゼット・アンドリオの件もあっていつもと違う特別な動きをした」の微妙に含みのある言い回しを用いています。同作製作に関わったJ・J・ルノー氏は「(エクレール社トップの)ジョルジョン氏に『プロテア』を作るよう頼まれたのだけれど正直気乗りはしなかった」とのこと。

前後の文脈を総合すると、エクレール社の内部でジャッセ監督の愛人だったアンドリオが特権的な位置を占めてしまい、彼女のため『プロテア』を作らざるを得なかった構図が浮かび上がってきます。必ずしも快く思っていなかったスタッフもいた訳で、ルノー氏自身の発言にあったエクレール社の「家族の様な一体感」も若干割引いて考えた方が良い気がします。

この対談は「歴史調査委員会」の調査の最初期に行われたひとつでそこまで深入りした内容にはなっていません。ただ、本対談でエクレール社に在席していたもう一人の映画監督ジョルジュ・アト(Georges Hatot)の名が挙がったのが収穫でした。この後ラングロワはアトに連絡を入れ、2か月後の3月15日に単独インタビューを行っています。アトの口から語られたジャッセ監督の人物像は本対談で語られている姿とずいぶん異なったものとなります。

1948年3月 -「初期映画の思い出」ジョルジュ・アト(「歴史調査委員会」インタビュー)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Georges Hatot : réunion du 15 mars 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH52-B2) pdf

1910年代初頭にエクレール社で活動していた「もう一人の映画監督」、ジョルジュ・アトのインタビュー。1948年3月にアンリ・ラングロワとミュジドラが同氏宅を訪れ実現したもので、録音を起こしたタイプ原稿にアト氏本人とミュジドラが目を通し手を加えた修正稿が保存されています。

ジョルジュ・アト(Georges Hatot, 1876 – 1959)の名は現在ほとんど忘れ去られています。1890年代の半ばからリュミエール社で修業を積み1905年にパテ社と契約、追跡劇や歴史劇、喜劇作品を監督しています。ジャッセをパテ社に紹介したのがアト氏だったそうですが、程なくして両者ともパテ社を離れエクレール社に雇われる形となりました。アトはエクレール社運営の「上質な映画作り」になじめず1910年頃には業界を離脱。一方のジャッセは『ジゴマ』を発表し同社の花形監督となっていきます。

『ジゴマ』や『プロテア』で初期映画史に名を残した「光」のジャッセに対し、アトはエクレール社の「影」と呼べそうな監督でした。

アト氏はインタビューで自身とジャッセの比較をしています。


ジャッセと私とはお互い見事に補いあうような存在でね。私はどう筋を組み立てて行けばよいか分かっていて、あいつは衣装や舞台装飾で尋常ではないアイデアを出してくるんだ。

Nous nous complétions admirablement. Moi, j’avais la compréhension du jeu, et lui il avait une conception extraordinaire, quand il fallait habiller quelqu’un ou décorer quelque chose.

ジャッセが1900年頃に舞台劇(『ウェルキンゲトリクス』)用にデザインしたポスターが特集雑誌に掲載されていましたが、アト氏はこの作品にも言及しています。

ジャッセは謂わば別階級に属している人物で[フェルディナン・]ゼッカのような性格とは確かに相性は良くなさそうだった。元々は衣装デザイナーで才能の塊だった。『ウェルキンゲトリクス』も彼の手によるもので、後にゴーモン社映画館に改装されるイポドローム劇場が出来た時に監督をしていた。

Jasset était un homme d’un autre classe, qui certainement ne pouvait pas s’accorder avec la mentalité d’un Zecca, c’était un homme de talent, un dessinateur de costume. Il était l’auteur de « Vercingétorix » et directeur à l’ouverture de l’Hippodrome qui est devenu depuis le Gaumont Palace.

こういった一連の発言から、ジャッセの衣装デザインや舞台装飾の才を高く評価しているのが伝わってきます。

またアト氏はジャッセ監督の作業時のパターン、癖を指摘しています。

映画作りが始まると熱に浮かされたように作業を始めた。でも終わりがけに手を抜き始める。ムラのある感じだった。最初から全力で取りかかってしまうんだよね。その後足が止まってしまう。頭の中は次の映画のアイデアで一杯だった。

Quand il commençait un film, il était tout feu, tout flamme. Quand il était pour le finir, il sabotait. C’était inconscient. Il commeçait en faisant le maximum. Après, ça traînait: il pensait déjà à l’autre film.

スタートダッシュを頑張りすぎて後半息切れするイメージでしょうか。ジャッセ監督が途中で放置した作品をアト氏が完成させたこともあったそうです。

更にアト氏はジャッセの人格的な難点にも触れています。一つは「他人に厳しく自分に甘い」ところ。もう一つは女癖の悪さです。現場にやってくる女優に手を出し、未成年女性のヌード写真を撮影し会社側(短期間在席していたパテ社やエクリプス社)と揉める原因になったそうで、アト氏は「病気」と言い切っています。『ジゴマ』や『プロテア』にもペドフィリア要素は見られますし、元々エキストラだった無名女優ジョゼット・アンドリオの寵愛を考えあわせるとあながちでたらめではないと思われます。

ジャッセ監督の生涯については同時代の証言や記録が少なく、表面的なデータを並べて良しとしてしまうケースがほとんどでした。アト氏の発言は好意的な内容ばかりではありませんが、長所も短所も兼ね備えた人間味のあるジャッセ像を垣間見せる貴重なものです。

1976 – スーパー8 『阪妻 – 阪東妻三郎の名場面集』(大沢商会/テレキャスジャパン編)

「阪東妻三郎関連」より

1976 - super8 Bantsuma1976 super8 Bantsuma Back

1970年代半ばに発売されたスーパー8版のアンソロジー。中心となっているのは以下の6作で、それぞれ比較的長めの動画が引用されています。

『雄呂血』(1925年、阪妻プロ)


『影法師』(1950年、松竹)


『魔像』(1952年、松竹)


『破れ太鼓』(1949年、松竹)


『大江戸五人男』(1949年、松竹)


『あばれ獅子』(1953年、松竹)


この合間には1)初期作の短い断片、2)プライベートショット集、3)没後の葬儀の模様とお墓の映像が挿入されています。

フィルムの両端にやや劣化が見られますがビネガー臭や傷などの少ない綺麗なプリントです。フィルムの端を留めていたテープに「Yokohama Cinema」の文字が残されていました。

[タイトル]
阪妻 – 阪東妻三郎の名場面集

[メーカー]
企画・制作:テレキャスジャパン 提供:松竹 発売:大沢商会

[フォーマット]
スーパー8 白黒300フィート 磁器録音

米リヴェア社「エイト88型」 ダブル8 動画カメラ + Elgeet-Revere 1/2 f:2.5 & Kent Telephoto 1 1/2 f:3.5

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「ダブル8」と呼ばれる16ミリフィルムを使用した形式の8ミリ動画カメラ。16ミリ用スプールを使うためやや幅広ながら手のひらにしっくり収まるサイズ感。使われている部品の質も良く当時のシカゴ産業界の好調振りが伝わってきます。


この機種をめぐる経緯については「メイド・イン・シカゴ博物館」で詳しく説明されています

この記事では、戦中に頭角を現していた新興メーカー・リヴェア社が1940年、業界トップのベル&ハウエル社の定番カメラ「フィルモ・コンパニオン」に勝負をしかけた一台とされています。スペックや精度の点でコンパニオンに劣っていたのですが、リヴェア社は値段を32.5ドルに設定(コンパニオンは50ドルほど)することで価格競争に打って出たのです。

スペックやブランド名重視の層が一定数いるのを承知の上で、そこまでこだわらないコスパ重視の層を切り崩していく戦略となります。一定の成果を上げたようで同機はリヴェア社のロングセラー商品の一つとなりました。

レンズについてはウォーレンサック社の12.5mm f=3.5(高級機はf=2.5や1.9)が標準仕様だったようです。戦後となりニューヨーク拠点エルジート社のレンズも採用し、今回入手した一台も同社のレンズを備えています。
revere-eight-model-88-08
革鞄のポケットにもう一本レンズが入っていました。「Japan」の刻印が入った「Kent Telephoto 1 1/2」でした。このレンズはほとんど情報がなく、オンラインでも二人の方が言及されている(一人はデジカメによる作例あり)のみでした。古い日本製のターレット型8ミリカメラでたまに見かける「Sun Telephoto 1 1/2 f:1.9」と同様、廉価な国産Dマウントシネレンズの一つではないかと推察されます。

revere-kent-telephoto

南光明、昭和15年(1940年)の残暑見舞い

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

Minami Koumei 1940 Late Summer Greeting Card
Minami Koumei 1940 Late Summer Greeting Card

本名鈴木光。明治37年生れ、築地立教中學出身、大正九年松竹の俳優學校に入り又小山内氏の研究所にも學ぶ、初演は『路上の靈魂』後蒲田スタヂオに入り『母いづこ』『山谷堀』等に出演し十一年日活に入り『現代の女王』『故郷』『旅の女藝人』『八一三』『神州男兒の意氣』『シベリアお龍』最近の主演は『赤城の夕映』『砂繪呪縛』(第二編)等。浅岡信夫と相伍してスポーツ俳優として日活幹部俳優の一人。

『玉麗佳集』(1928年)

大林梅子は名古屋の大きな牛肉屋の愛娘、下加茂に入り、時代劇の妖婦役として鳴らした。南光明と結婚し毎年子供を産んで、今や五人の母となつてゐる。五人目をお腹に宿したとき、『所長はん、あて、また、赤ン坊を産みますねん。かう毎年では撮影にさしつかへますさかい、やめさして貰ひまつさ』と申出たので、井上所長も心よく許した。
『その代り、うちの人(南光明)を使うて下さい』
『南くんなら、赤ン坊を産まんやろ』
てンで、マキノ以来失業してゐた、夫の南をスクリーンに復活さした。

「噂のスター今何處へ?」『最新映画大鑑』
(冨士9月號附録 1934年8月)

Minami Koumei in Ronin Gai Chap.2
『浪人街 第二話楽屋風呂』(1928年)で傳五左を演じる南光明

[IMDB]
nm0590911

[JMDB]
p0315760

[Movei Walker]
南光明(ミナミコウメイ)

[出身]
日本(東京)

[生年月日]
6月30日

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
髙島栄一氏宛、昭和15年8月22日京都の消印有。

ルネ・ナヴァール René Navarre (1877 – 1968) 仏

「フランス [France]」より

1913年の活劇『ファントマ』で怪盗ファントマを演じたのがルネ・ナヴァールでした。同作は仏活劇の中心がヴィクトラン・ジャッセ監督(『ジゴマ』『プロテア』)からルイ・フイヤード(『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』)へと移り変わっていく転換点となった一作でもあります。

ナヴァールは1910年代にフイヤード作品で活動した後、20年代に同監督が亡くなった後も『ヴィドック』(1923年)や『ジャン・シューアン』(1926年)など活劇色濃い諸作で存在感を見せました。

ゴードラン夫人さま
R・ナヴァールの雄姿を
記憶に留めていただいていたことに
感謝の気持ちをこめて

A Madame Gaudran,
En remerciement du bon
souvenir qu’elle a gardé
de
R. Navarre

第二次大戦中、パリ解放直前の1944年5月に残された一枚です。

[IMDb]
nm0622772

[出身]
フランス(リモージュ)

[誕生日]
7月8日

[データ]
Studio G.L. Manuel Frères Paris-Etoile

[サイズ]
8.8 × 13.8cm

仏シネジェル社 ライネット9.5mm動画カメラ (1940年代末~50年代)

フランスのル・マンに拠点を置くシネジェル社が1949年に市販を始めた動画用のカメラ。8mm用と9.5mm用の2種類が用意されていました。録画速度は16コマ/秒で、静止画撮影モードもついています。

戦前のフランスの動画カメラは黒基調で、ダイキャスト製のどっしりしたものが主流でした。ライネットはオリーヴ色をしていてより軽やかな印象を与えます。

[メーカー名] 仏シネジェル社

[レンズ] H Russel Kynor 1:2.5 f=20mm

テオフィル・パテ Jr. Théophile Pathé (1901 – 1968) 仏

パテ社(映画、映写機)、パテ・マルコーニ社(音楽、蓄音機)で使われている「パテ」の名は、創業者であるパテ四兄弟から来ています。末っ子のテオフィル氏は早世されていますが、名を継いだ息子のテオフィルJr.さんは第二次大戦後まで映画業界と接点を持っていました。

息子さんが大戦中に出版した『シネマ』という書籍に残した献辞がこちら。

「アマール夫人へ。著者からのとても楽しかった思い出として」

映画史への洞察では物足りなさが残るものの、同氏がパテ社で担当していたニュース映画とアニメーションについて興味深いエピソードが多く含まれています。

[IMDB]
nm0665574

[出身]
フランス

[コンディション]
B-

[出版社]
Paris: Corréa

[出版年]
1942年

仏サダル ハンディー(アンディ) 9.5mm映写機

1947年頃に市販されていた記録が残っており9.5mm用の映写機としては後期のモデルとなります。ベークライト製の土台と本体で軽量化を実現しながらもデザインは戦前に良く見られた背後にアームがなびく形式を採用していました。

「サダル」はおそらくは人名で、同氏が立ち上げた会社の映写機になるのではないかと思われます。8mm型と9.5mm型の二種類が確認されていますが後継機は見当たらず、同社唯一の映写機のようです。

エントリーレベルよりやや上のスペックで本格的な実写には向きませんがフィルム装填が容易で動作も安定しています。

シリアルナンバー: –
対応フィルム: 9.5mm
製造国:フランス
製造時期: 1940年代後半
レンズ:Elumix F=35mm
対応電圧: 250v
ランプ: 220V 60W

2016年5月購入

米 リヴェア社 48型 16mm映写機

元々日本のオークションで8mmのRevere85型として販売されていた一台。届いていると16mmの48型でした。

レンズがなかったため規格が合いそうなSomtar社のレンズを別途購入し装着しています。大きなダメージなどもなく動きも安定している安心の定番機、という感じです。

シリアルナンバー: H25955
対応フィルム: 16mm
製造国:米国
製造時期: 1940年代後半
レンズ: Somtar 2inch f=1.6
対応電圧: 105-120v
ランプ: 1000w