1948年1月 -「ヴィクトラン・ジャッセと仏無声映画」(「歴史調査委員会」主催座談会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

戦中1943年に映画産業界組織委員(COIC)の提言を受け、映画史家アンリ・ラングロワ主導で「歴史調査委員会」が活動を始めました。1)初期映画に関わる情報収集、2)監督や出演者、公開年などが分からなくなっていた無声映画の同定、3)シネマテーク・フランセーズへの資料集約を目的とした組織です。

この活動の一環として、1940年代後半~60年代中盤に俳優や監督・技術スタッフのインタビューが行われ、約110点の資料が残されることになりました。このうち1948年1月に行われた対談を文字に起こした資料番号5番(CRH5-B1)と、同年3月に行われたインタビューをタイプ打ちした資料番号52番(CRH52-B2)がヴィクトラン・ジャッセに関わった内容となっています。

Victorin Jasset : réunion du 24 janvier 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH5-B1) pdf

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表紙には「歴史調査委員会」を表す「RH」と対談の日付「1948年1月24日」、対談の主な内容が手書きで記されています。この文字を書いたのは初期連続活劇で活躍し、当時は「秘書」として歴史調査委員会に同行していた元女優のミュジドラでした。

30頁の原稿の内、前半の12頁がジャッセ監督とエクレール社を扱った内容となっています。当時の同社の雰囲気について、対談参加者の一人J・J・ルノー氏が次のように語っています。


J・J・ルノー:[…] 特にパテ社等では製作スタッフが金銭的にむしりとられていたのに対して、エクレール社では皆が家族の様な一体感がありました。

またエクレール社の経営に関わっていたマルセル・ヴァンダル氏はジャッセについて次のように語っています。

アンリ・ラングロワ:ジャッセ監督と個人的なやりとりはあったのですか?

マルセル・ヴァンダル:5〜6年程仕事で御一緒させていただきました。彼が監督として名を上げたのは弊社にいた頃の話です。『プロテア』を含めた彼の作品は全て彼と私との契約から生み出されてきたものです。

ジャッセ監督の経歴についてヴァンダル氏は次のように述べています。

マルセル・ヴァンダル:ジャッセはゴーモン社の映画館に建て替えられる前にあった「イポドローム劇場」で監督をしていました。映画に初めて携わったのはゴーモン社で、イポドローム劇場では舞台監督をしていました。エクレール社が当時雇った監督が二人いて、一人がジャッセ、もう一人がアトでした。ジャッセは一流の人物で、亡くなるまで弊社で働いてくれました。

『ジゴマ』についてヴァンダル氏は次のように述べています。

アンリ・ラングロワ:『ジゴマ』について話していただけますか。

マルセル・ヴァンダル:題を『ジゴマ』に決めたのは私とジョルジョンでした。変装の名人の設定だったからです。『プロテア』の題も私たちが決めたものです。フランスで初の連続劇となったニック・カーター物と違い、下敷きにした原作はありませんでした。

ジャッセ監督の遺作となった『プロテア』(1914年)について、ヴァンダル氏は「『プロテア』は主演女優のジョゼット・アンドリオの件もあっていつもと違う特別な動きをした」の微妙に含みのある言い回しを用いています。同作製作に関わったJ・J・ルノー氏は「(エクレール社トップの)ジョルジョン氏に『プロテア』を作るよう頼まれたのだけれど正直気乗りはしなかった」とのこと。

前後の文脈を総合すると、エクレール社の内部でジャッセ監督の愛人だったアンドリオが特権的な位置を占めてしまい、彼女のため『プロテア』を作らざるを得なかった構図が浮かび上がってきます。必ずしも快く思っていなかったスタッフもいた訳で、ルノー氏自身の発言にあったエクレール社の「家族の様な一体感」も若干割引いて考えた方が良い気がします。

この対談は「歴史調査委員会」の調査の最初期に行われたひとつでそこまで深入りした内容にはなっていません。ただ、本対談でエクレール社に在席していたもう一人の映画監督ジョルジュ・アト(Georges Hatot)の名が挙がったのが収穫でした。この後ラングロワはアトに連絡を入れ、2か月後の3月15日に単独インタビューを行っています。アトの口から語られたジャッセ監督の人物像は本対談で語られている姿とずいぶん異なったものとなります。

1948年3月 -「初期映画の思い出」ジョルジュ・アト(「歴史調査委員会」インタビュー)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Georges Hatot : réunion du 15 mars 1948.
(La Commission de recherches historiques, CRH52-B2) pdf

1910年代初頭にエクレール社で活動していた「もう一人の映画監督」、ジョルジュ・アトのインタビュー。1948年3月にアンリ・ラングロワとミュジドラが同氏宅を訪れ実現したもので、録音を起こしたタイプ原稿にアト氏本人とミュジドラが目を通し手を加えた修正稿が保存されています。

ジョルジュ・アト(Georges Hatot, 1876 – 1959)の名は現在ほとんど忘れ去られています。1890年代の半ばからリュミエール社で修業を積み1905年にパテ社と契約、追跡劇や歴史劇、喜劇作品を監督しています。ジャッセをパテ社に紹介したのがアト氏だったそうですが、程なくして両者ともパテ社を離れエクレール社に雇われる形となりました。アトはエクレール社運営の「上質な映画作り」になじめず1910年頃には業界を離脱。一方のジャッセは『ジゴマ』を発表し同社の花形監督となっていきます。

『ジゴマ』や『プロテア』で初期映画史に名を残した「光」のジャッセに対し、アトはエクレール社の「影」と呼べそうな監督でした。

アト氏はインタビューで自身とジャッセの比較をしています。


ジャッセと私とはお互い見事に補いあうような存在でね。私はどう筋を組み立てて行けばよいか分かっていて、あいつは衣装や舞台装飾で尋常ではないアイデアを出してくるんだ。

Nous nous complétions admirablement. Moi, j’avais la compréhension du jeu, et lui il avait une conception extraordinaire, quand il fallait habiller quelqu’un ou décorer quelque chose.

ジャッセが1900年頃に舞台劇(『ウェルキンゲトリクス』)用にデザインしたポスターが特集雑誌に掲載されていましたが、アト氏はこの作品にも言及しています。

ジャッセは謂わば別階級に属している人物で[フェルディナン・]ゼッカのような性格とは確かに相性は良くなさそうだった。元々は衣装デザイナーで才能の塊だった。『ウェルキンゲトリクス』も彼の手によるもので、後にゴーモン社映画館に改装されるイポドローム劇場が出来た時に監督をしていた。

Jasset était un homme d’un autre classe, qui certainement ne pouvait pas s’accorder avec la mentalité d’un Zecca, c’était un homme de talent, un dessinateur de costume. Il était l’auteur de « Vercingétorix » et directeur à l’ouverture de l’Hippodrome qui est devenu depuis le Gaumont Palace.

こういった一連の発言から、ジャッセの衣装デザインや舞台装飾の才を高く評価しているのが伝わってきます。

またアト氏はジャッセ監督の作業時のパターン、癖を指摘しています。

映画作りが始まると熱に浮かされたように作業を始めた。でも終わりがけに手を抜き始める。ムラのある感じだった。最初から全力で取りかかってしまうんだよね。その後足が止まってしまう。頭の中は次の映画のアイデアで一杯だった。

Quand il commençait un film, il était tout feu, tout flamme. Quand il était pour le finir, il sabotait. C’était inconscient. Il commeçait en faisant le maximum. Après, ça traînait: il pensait déjà à l’autre film.

スタートダッシュを頑張りすぎて後半息切れするイメージでしょうか。ジャッセ監督が途中で放置した作品をアト氏が完成させたこともあったそうです。

更にアト氏はジャッセの人格的な難点にも触れています。一つは「他人に厳しく自分に甘い」ところ。もう一つは女癖の悪さです。現場にやってくる女優に手を出し、未成年女性のヌード写真を撮影し会社側(短期間在席していたパテ社やエクリプス社)と揉める原因になったそうで、アト氏は「病気」と言い切っています。『ジゴマ』や『プロテア』にもペドフィリア要素は見られますし、元々エキストラだった無名女優ジョゼット・アンドリオの寵愛を考えあわせるとあながちでたらめではないと思われます。

ジャッセ監督の生涯については同時代の証言や記録が少なく、表面的なデータを並べて良しとしてしまうケースがほとんどでした。アト氏の発言は好意的な内容ばかりではありませんが、長所も短所も兼ね備えた人間味のあるジャッセ像を垣間見せる貴重なものです。