] 映画の郷 [ 電子工作部:映写機用レンズの性能検査システムを作る

古い映写機を集めていると様々なレンズに触れることになります。映写機用レンズといってもとりあえず映ればよいレベルの安価なものからトップメーカーの手による高級品までピンキリ。以前から実写時の性能比較をしたいとは考えていたのですが、調べても他に挑戦されている方はいないようでした。原因は幾つか考えられます。

1)規格が統一されていない。

カメラ用レンズには「マウント」の考え方があって同一マウントであれば互換性があります。マウントを変換するアダプターも充実してますので様々なレンズを一台のカメラで使って映り具合を比べることができます。映写機用レンズにはこの発想が希薄で、同一メーカーでも映写機のモデルが変わるとレンズ外径や形状が変わることが多く比較を難しくしています。

2)比較データを同一条件で取得するのが難しい

複数のカメラ用レンズを同一のカメラで比較するには同じ対象を撮影してデータを比べれば済む話です。映写機の実写性能はそうはいきません。例えば9.5ミリフィルムで言うと焦点距離25ミリのレンズであれば3メートルほど先にスクリーンを置くと横幅1メートルまで拡大されるのですが、焦点距離75ミリだと10メートルの映写距離が必要となります。しかもこの時の映像はただ「映っている」状態で、それを比較可能なデータとして取得するのはまた別な話。スクリーンに映っている画像をカメラで「撮影」するとその時のカメラのレンズの歪みなどが介入してしまうので比較用データとしては有効ではありません。

3)9.5mm用のテストフィルムがない

カメラ用レンズの解像度分析にテストチャートが使われることがあります。有名なのがISO12233(下)。

映写機用レンズにも似たようなものがあります。「テストフィルム」と呼ばれているもので、特に35ミリでは米SMPTE(映画&TV技術者協会)によるRP40(下)が使われていました。9.5ミリ用のテストフィルムを探したこともあったのですが見つけることはできませんでした。

こういった複数の問題をクリアしなおかつ使い勝手の良いシステムを組むのは大変そうです。

単純にレンズ自体の特性や性能を知りたいのであれば別なアプローチもあります。映写機レンズをマウントアダプター経由で(必要ならヘリコイドを追加し)カメラに装着して撮影する手法です。オールドレンズ収集家には以前から知られている方法で、検索すれば様々な映写機用レンズをM42マウントやEOSマウント、あるいはライカマウントに変換して撮影した作例を見つける事ができます。

上の検索画像は独メイヤー社の映写機用レンズ「キノン・スーペリアー」をミラーレスで使用した作例。同社の他レンズ(トリオプランなど)でお馴染みのバブルボケや同心円状のグルグルした球面収差を見て取ることができ、一般的に「クセ玉」と呼ばれるレンズだと分かります。とはいえ暗い空間でスクリーン平面にピントをあわせて映した際の実力はまた別な話、撮影用レンズとしての特性=実写時の特性にはなりません。

マクロ撮影用ベローズとエクステンションチューブを組みあわせて何かできないか。以前から温めていた腹案があって先日パーツのプロトタイプを試作してみました。まだ試行錯誤中で十分な形になっていませんが進展があれば続報として投稿していきますね。

独イハゲー社 マクロ撮影用ベローズ & 金属製エクステンションチューブ

DIY用に独イハゲー(Ihagee)社のマクロ撮影用ベローズと金属製エクステンションチューブを入手しました。どちらもレンズとカメラ本体の間に噛ませて使用するものです。

元々アナログ、デジタルカメラ共にExaktaマウントでの運用をしているため普段使いにも転用できます。試しにExa初期型に装着して見ました。

下はパナソニックのGF-2(M3/4マウント)をExaktaマウントに変換、ベローズ+テッサーレンズで試写した一枚。絞りは2.8開放で5センチくらいまで寄って撮影。被写体はピンク色のカスミソウ。ボケの出方は大人しくかっちりした静謐な絵面にまとまっています。

Panasonic GF-2 + Ihagee Macro Bellows + Tessar 2.8/50mm

1913-1914『天馬』への道(ドイツ探偵活劇興亡史)

1914年に日本で公開された『天馬』についての調査の続報です。山本知佳氏の論文『日本におけるドイツ映画の公開 -1910年代を対象として-』末に公開作品のリストが時系列でまとめられているのですが、ドイツ語の原題が付されておらず元の作品がわかりにくくなっていました。2003年に公刊された独語の研究書『カメラの目と直感:初期ドイツ映画における探偵たち』巻末のリストを重ねあわせる形で輸入状況を整理していきます。まずは当時紹介されていた様々な活劇連作から。

・ヨセフ・デルモント(Joseph Delmont)作品

アイコ映画社を拠点に活躍していたドイツ映画のパイオニアの一人。代表作の一つである『生きる権利(Das Recht aufs Dasein)』の修復版をオランダのEYEが公開しています。

『夢か眞か』(原題不詳) 1913年8月5日・みやこ座
『秘密』(原題不詳、Das Recht aufs Daseinかも) 1913年10月25日・みやこ座
『ゲルダーン』(Der geheimnisvolle Klub) 1913年12月14日・みやこ座
『パナマの暴漢』 (Der Desperado von Panama)1914年10月01日・横濱オデオン座


・ケリー・ブラウン探偵物(Detektiv Kelly Brown)作品

ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演によるドイツ初の探偵活劇連作。1913年の『夜の影(ブラウン大探偵)』に始まり1914年の『盗まれたる百万金』まで続きます。日本で『天馬』として知られる « Die Millionemine » はシリーズ4作目として製作されたものです。この後も俳優や監督を変えた「ブラウン物」作品が単発で幾つか発表されています。

ブラウン物第1作『夜の影』(Schatten der Nacht) ドイツ初公開時の広告
キネマトグラフ誌1913年1月315号

ブラウン物第3作『人と仮面 第2部』(Menschen und Masken II)
リヒトビルト・ビューネ誌1913年9月36号

『ブラウン大探偵』(Schatten der Nacht/Nachtschatten)1913年9月5日・みやこ座
『ブラウン探偵(前編)』(Menschen und Masken 1)1913年12月25日・みやこ座
『ブラウン探偵(後編)』(Menschen und Masken 2)1914年1月上旬・みやこ座
『天馬』(Die Millionemine)1914年1月11日・みやこ座
『猛火(褐色の獣)』(Die braune Bestie)1914年2月19日・みやこ座
『名馬(空中のブラウン・夜の影の秘密)』(Der Geheimnisvolle Nachtschatten)1914年4月・みやこ座
『盗まれたる百万金(探偵王)』(Ein Millionnraub)1914年7月・遊楽館


・スチュワート・ウエッブス探偵物(Detektiv Stuart Webbs)

エルンスト・ライヒャー主演。ドイツ無声期で最も長く続いた探偵活劇シリーズ。当初はヨーエ・マイが監督していたものの途中で主演との対立が起こり降板。ブラウン物がアクション重視だったのに対し、ウエッブス物は科学知識を駆使した謎解きの要素が強いとされます。日本では第3弾の『人か幽霊か』まで紹介されましたが大戦勃発の影響を受けその後紹介が途切れています。

『地下室(不思議の別荘)』
リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月11号

『續地下室(二人ドーソン大佐)』
リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月13号

『地下室(不思議の別荘)』(Die Geheimnisvolle Villa) 1914年5月14日・帝國館
『續地下室(二人ドーソン大佐)』(Der Mann im Keller)1914年6月22日・帝國館
『人か幽霊か』(Der Geisterspuk)1914年6月22日・帝國館


・バスカヴィルの犬シリーズ(Der Hund von Baskerville)

アルヴィン・ノイス主演のホームズ物連作。この後デクラ社に移りシリーズ名をシャーロック・ホームズに変えて継続。

ホームズを演じたアルヴィン・ノイス
リヒトビルト・ビューネ誌1913年9月36号

『伏魔殿(淋しき家)』
キネマトグラフ誌1914年11月412号より

『伏魔殿(淋しき家)』(Das einsame Haus)1915年1月15日・電気館


・ルパン物(Lepain)

1914年前半に2作のみ製作されたルイス・ラルフ監督・主演の悪漢物。モーリス・ルブランの怪盗リュパンを念頭に置いていると思われますが綴りが違います。大戦勃発後製作が停止、戦後の1920~21年にかけて第3~6話の続編が制作されました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年2月8号

『血路(リイペエン)』(原題不詳)1914年9月22日・大正館
『馬賊の巨魁(無知の王ルパン)』(Der König der Unschuldigen)1915年2月27日・横濱オデオン座


・「女ブラウン」シリーズ(Miss Clever)

エレン・エンゼン・エック(Ellen Jensen-Eck)演じる女探偵ミス・クレヴァーを主演とした活劇。第一作『女ブラウン』(原題は「秘密城」)はフィルムが現存しオランダのEYEがオンライン公開しています。

『女ブラウン(黒三人組)』(Der Geheimschloß)1915年2月18日・横濱オデオン座
『續女ブラウン』(原題不詳)1915年3月31日・横濱オデオン座


・その他

『金剛』(Das Teufelsauge)1913年7月・キリン座
『心の閃(宝玉)』(Blau-Weisse Steine)1913年12月31日・キリン座
『天魔(ツエルノウスカ)』(Die Czernowska)1914年1月15日・電気館
『鬼探偵(黒十三結社)』(原題不詳)1914年2月11日・電気館
『スパイダー組(旋風/大探偵ブラウン)』(原題不詳)1914年2月28日・朝日館
『怪物(死したる客)』(Der Tote Gast) 1914年3月11日・みやこ座
『火中のブラウン探偵』(原題不詳) 1914年3月11日・みやこ座
『第二天馬(天馬續編)』(原題不詳)1914年7月14日・帝國館
『海底のダイヤ(下方の金剛石)』(原題不詳)1914年8月1日・横濱オデオン座
『白墨(爆弾の戒公)』(原題不詳)1914年9月20日・帝國館
『奪還(悪魔の爪に)』(Im Teufelskrallen)1915年1月1日・横濱オデオン座
『海と超人(海底鉄道)』(Der schienenweg unterm Ozean)1915年5月15日・横濱オデオン座
『治療室(間一髪/黒石竹花)』(Der Schwarze Nelke)1915年7月3日・横濱オデオン座
『バスカヴィルの熊/青自動車』(Der Bar von Baskaville)1915年7月10日・横濱オデオン座
『黒箱又はコブラ(社交界の賊)』 (Salonpiraten)1915年7月20日・横濱オデオン座
『三日間の死』(原題不詳) 1915年9月18日・横濱オデオン座
『コルソ城(晩かつた)』(原題不詳)1915年11月28日・帝國館
『隠証(暗室)』(Der Unsichtbare Zeuge)1916年下旬・みくに座
『疑問』(Der Trick. Welcher von Beiden?)1916年下12月・絹輝館


原作が特定できていない作品も多く、同一作品が二度、名前を変えて公開されているようなケースも見受けられます。完璧なリストではないのですが一定の傾向は見えてきます。

ブームの火付け役となったのが日活系の上野みやこ座で、ジャンルの先駆者であるヨセフ・デルモント作品やブラウン探偵物を紹介。次いで1914年に松竹系の帝國館でウエッブス探偵物が公開されるようになります。ブームに同調する形で横濱オデオン座やキリン座でも他シリーズの作品や単発ドラマが公開。同年夏に大戦が勃発し輸入が途切れるものの、1915~16年にかけても一部作品は細々と紹介されていたようです。

結構な数になりますが、本国ではこれでも序の口に過ぎなかったようです。戦中1916~17年にかけジョン・ディード探偵物、ハリー・ヒッグス探偵物、ウィリアム・カーン探偵物、ファントマス連作、ネモ博士連作、ジョー・ジェンキンス探偵物、トム・シャーク連作…20以上ものシリーズが制作され「探偵活劇のインフレ(die Inflation des Detektivfilms)」と形容される状況になっていきました。

日本ではドイツ犯罪活劇でも初期の作品、特にケリー・ブラウン物の人気が高く「天」「馬」「ブラウン」といったパワーワードを散りばめる形のプロモーションが中心となっていきました。一方のドイツでは戦中期に継続して公開されていたウェッブス物やジョン・ディーブス物の知名度、評価が高く日本との温度差が目立つ形になっています。


[参考文献]

・『カメラの目と直感:初期ドイツ映画における探偵たち』セバスティアン・ヘッセ著(独語)
« Kamera-Auge und Spürnase : der Detektiv im frühen deutschen Kino » Sebastian Hesse, Stroemfeld Verlag, Frankfurt – Basel 2003

・「エルンスト・ライヒャー、又の名をウェッブス探偵:ドイツ犯罪活劇映画の王」セバスティアン・ヘッセ(英語)
« Ernst Reicher alias Stuart Webbs: King of the German Film Detectives » Sebastian Hesse,
 in « A Second Life: German Cinema’s First Decades », Amsterdam University Press, 1996


・「日本におけるドイツ映画の公開 -1910年代を対象として-」 山本知佳
 日本大学文理学部人文科学研究所第97号、2019年研究紀要

・1914年上半期公開映画リスト「活劇、探偵劇」
 キネマ・レコード1914年7月 通巻第13号、キネマ・レコード社

・その他「キネマトグラフ」、「リヒトビルト・ビューネ」等当時物のドイツ語映画誌


1975 – 『ジャッセ』(ジャック・デランド著、アンソロジー・デュ・シネマ第85巻)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

« Jasset » (Jacques Deslandes,
Editions de l’Avant Scène, Supplément Anthologie n° 85, 1975)

監督としての活動時期が6年に留まったジャッセの映画芸術を現在の我々の手持ちデータから見極め定義しようというのは、D・W・グリフィスが『ベッスリアの女王』までしか撮らなかったという縛りで映画史を書いてみようというのに等しい。

Essayer toutefois de définir l’art de Jasset à partir de ce que nous connaissons aujourd’hui de ses films, et il n’a tourné que pendant six ans, ce serait un peu comme si l’on voulait écrire une histoire du cinéma en arrêtant l’oeuvre de D. W. Griffith à JUDITH DE BETHULIE.

活動写真期の映画愛好家には名の知られた『ジゴマ』ですが、その監督であるヴィクトラン・ジャッセを扱った書籍は没後一世紀以上が経った現時点でも2冊しかなく、いずれも既存の雑誌の別冊または別巻として発売されたものです。

ジャッセの研究や作品分析が進んでいない要因は資料の少なさです。第一次大戦が始まる以前に亡くなっていてめぼしい一次資料が残っておらず、書簡類や日記もないため叩き台となるデータがありません。アンリ・ラングロワが調査を開始した1940年代には作品リストすらなく、どの映画会社で何の作品を撮ったかすら見えていない状態になっていた位です。ある程度リストが固まり、一部作品のデジタル化版を見ることができるようになった現状は大幅に改善されたものですが、それでも紛れが多く(共同監督ジョルジュ・アトとの作業分担がどの程度だったか分からない、現存プリントに異同が目立ち「オリジナル」の形が分からない等)研究対象としてはややハードルが高い、と言えます。

アンソロジー・デュ・シネマ別冊版『ジャッセ』(1975年)はそういった状況に一つの道筋をつけたという意味で画期的だったと言えます。

この時点でジャッセ作品と確定できた作品を時系列に並べつつ、当時の映画雑誌の記事を元に作品の特徴や作風の変遷を追っていくアプローチをとっています。1908~09年の『ニック・カーター』連作の成功を受けて翌年に『ファントム博士』シリーズを監督。1911~12年に『ジゴマ』三部作を完成させ、1913年に『プロテア』の第一部を残した所で病没。犯罪連続劇とは別に社会派作品(『闇の國で』)、幻想奇譚(『猿人バラウー』)も残している。そんな流れが浮かび上がってきます。後年のもう一冊のジャッセ本にせよ現在の仏ウィキなどでの紹介にせよ大枠は似たような感じなのですが、それが初めて可視化されたのがこのアンソロジー・デュ・シネマ版だったことになります。

本書には同時期の映画誌の記事が多く引用されています。主な情報源は3つ。1)1909~10年の『キネマトグラフ&ランタン週報』2)1911~12年の『シネ・ジュルナル』紙、3)1920年代の『モンシネ』誌。

『キネマトグラフ&ランタン週報』は『キネ・ウィークリー』の前身となったイギリスの映画雑誌ですが、パリに置いた特派員が何度か撮影現場を訪れ紹介記事を残しています。

かつてイポドローム劇場で監督を務めていたジャッセ氏は細部と完成度にこだわり抜いた役者指導を行っている。リハーサルを繰り返し行い、実際にカメラでの撮影が始まる迄に役者の演技の完成度を納得いくレベルに高めていく。1度、2度、3度…ガルニエ劇場の女優 [原註によるとスターシャ・ナピエルコフスカ] が妹を毒殺してから別な部屋へ戻ってくる場面だ。6度目のリハーサル、部屋に入ってきた女優の表情には残酷さと恐怖の雰囲気があって、演技の完成度にその場にいた者たちが皆身震いするほどであった。そこで初めて撮影が開始される。30メートルほどのフィルムを使い、慎重を期して2台の撮影機が同時に回っていた。

撮影スタッフたちの辛抱強さと有能さには驚くべきものがあった。絨毯を変え、鏡台の鏡の角度を微調整しなくてはならなかった。当初は女優の左側に置かれていた白粉の小壜の位置を移動させ、女優の右側に置き直すほどであった。犯罪者を演じた女優は鏡の自分を見つめ、後悔の涙の筋が残っていた頬に静かに白粉を当てながら次第に冷血さを取り戻していく。

「スリル満点の映画を作る」
『キネマトグラフ&ランタン週報』1909年8月5日第117号

Monsieur Jasset, l’ancien directeur de l’Hippodrome, dirigeait les acteurs avec l’extrème souci du détail et de la perfection qui le caractérise. Il fait répéter chaque scène autant de fois qu’il est nécessaire pour obtenir des actrices la perfection au moment où la caméra va enregistrer la séquence. Une fois, deux fois, trois fois l’actrice (du Théâre Garnier) revient dans la même pièce après avoir, dans une autre, empoisonné sa soeur. Six fois, elle recommença son entrée avec sur le visage le même air de cruauté et d’effroi jusqu’à ce que la perfection de son interprétation fasse frissoner tous ceux qui étaient présent; alors seulement on effectua la prise de vue, impressionant une trentaine de mètres de ellicule, dans deux appareils à la fois pour plus de précaution.

La patience, la compétence de tous les assistants étaient surprenantes. Il avait fallu changer un tapis, modifier l’angle d’inclinaison du miroir de la coiffeuse. On alla même jusqu’à déplacer la boîte de poudre, la mettant à la droite sur la coiffeuse : elle était avant à gauche de l’actrice. Celle-ci qui jouait la criminelle.retrouvant peu à peu son sang-froid, en face de la glace, calmement repoudrait ses joues où les larmes de remord avaient laissé de longues traînées.

« Making a sensational film »
in Kinematograph and Lantern Weekly, vol. V, no 117 du Août 1908

さらに同紙別号の引用では『ジゴマ』が映画化されるまでの経緯も触れられていました。

レオン・サジイの手による悪漢冒険譚の映画企画が形を取ったのは1910年初めであった。当初の仕掛け人はラファエル・アダム氏、俳優から監督へと職業替えした人物で「映画フィルムの独立系プロデューサー」である。しかし2月末時点でも自力で映画を製作するのかそれとも他社に権利を売却して任せるのか決めかねていた。3月初旬、[エクレール社の置かれた] エピネーで商談が進められた。「ジゴマの映画化権を所有するアダム氏がエクレール社にいたので話を聞いた。5作の映画が作られるそうである」、当時の記者がそう記している。実際に制作されたのは『ジゴマ』『ジゴマ対ニック・カーター』『探偵の勝利』の3作のみで監督はジャッセになっていた。

また、本サイトで訳出したジャッセの映画論「活動写真監督術考」(1911年)についても「第一次大戦前の映画産業史のありがちな要約ではなく」「映像美学のマニフェストである」の的確な指摘がなされています。

公刊から半世紀近くが経過しており最新データを反映している書籍ではないため一字一句を鵜呑みにする訳にはいきませんが、1910年前後の仏活劇映画を理解する鍵が幾つも含まれている気はします。

[出版年]
1975年11月

[出版者]
Editions de l’Avant Scène

[ページ数]
56

[サイズ]
13.5 × 18.0cm

1992 – 『1895』誌 第12号 特集:エクレール撮影所 1907-1918(仏映画史研究協会編)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Revue « 1895 », n° 12
Studio Eclair 1907-1918 (Octobre 1992)

1992年、伊ポルデノーネ無声映画祭でエクレール社初期作の回顧上映会が開催されました。この企画にあわせフランスの映画史専門誌『1895』からエクレール社の特集号が公刊されています。内容は大きく1)経営状況の分析、2)主要俳優紹介、3)現存初期作(≒映画祭での上映作品)の粗筋、の三本立て。

1)に関しては1907年の設立時の定款、翌年の増資、収支報告などの一次資料をまとめたもの。資本金15万旧フランという小さな規模で誕生したエクレールがどのような運営を行っていたか見えてくる資料群です。

2)は1913年のフィルム・ルヴュ誌の俳優紹介企画を転載したもので『ジゴマ』『プロテア』で主演を務めたアルキリエール、アンドリオ以外にも『ジゴマ』で探偵役を務めたアンドレ・リアベル、『猿人バラウー』や『プロテア』で存在感を見せたリュシアン・バタイユなどジャッセ映画の常連俳優が紹介されています。

またあまり脚光を浴びてこなかった喜劇連作(「ゴントラン」「ガヴロッシュ」「リトル・ウィリー」)の主演役者にも紙数が割かれていて初期エクレール社の全体像が伝わってきます。

3)もフィルム・ルヴュ誌からの記事転載。モーリス・トゥールヌールの初監督作がエクレール社で、初期作『イヴリーの女羊飼』の粗筋も含まれていました。1913年5月にジャッセが亡くなって数か月後にトゥールヌールがデビューした形。画家を志した過去があり、構図や細部へのこだわりなど共通点のある両監督の接点、因縁を感じます。

全体としては当時物の記事や紙データに特化した内容で、国外(そしてフランスでもパリ以外)では入手の難しい情報が一冊に集約されています。ジャッセ作品の背景理解だけではなく普通に読み物として読んでも楽しめる特集号でした。

[出版年]
1992年10月

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
192

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 サイレント時代・草分けの美女たち』

8ミリ 劇映画より

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 1 : Pioneers from The Silent Era »
1970s Super8 Anthology


1) 伊豆の踊子(1933年、五所平之助監督) 田中絹代、若水絹子ほか [JMDb]


2)松竹スタジオ紹介他


3)不壊の白珠(1929年、清水宏監督) 及川道子、八雲恵美子ほか [JMDb]


4)与太者と海水浴(1933年、野村浩将監督) 井上雪子、光川京子、高峰秀子ほか [JMDb]


5)夜ごとの夢(1933年、成瀬巳喜男監督) 栗島すみ子、飯田蝶子ほか [JMDb]


6)金色夜叉(1937年、清水宏監督) 川崎弘子 [JMDb]

2018年初頭に入手したスーパー8版アンソロジー。トーキー篇の紹介にあわせてこちらもスキャンしました(前回は映写した画面をそのまま撮影)。

田中絹代さん主演の『伊豆の踊子』で始まり、松竹スタジオの外観などを挟みながら井上雪子さん主演の『与太者と海水浴』へ。浅瀬に着衣のまま飛びこんでしまう大胆な展開に。

名作『不壊の白珠』を挟んで『夜ごとの夢』。栗島すみ子さんキャリア後期の作品で子供に頬をつけて泣いている時の表情が圧倒的。最後に『金色夜叉』での寛一お宮のやりとりが紹介されています。どの女優さんも雰囲気ありますね。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート 磁器録音(24コマ/秒)

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [03] 現像篇 その3 現像結果とその反省

戦前の9.5ミリ動画カメラとフィルムを使った実写を試みたのが10月後半。現像まで2カ月かかりました。

今回使用するロモタンクは本来9.5ミリに対応した機器ではないため調整用に「厚さ2ミリ程度のワッシャー」を挟むと良いとされています。穴径12ミリのワッシャーがなかったので同サイズのスペーサーを3Dプリンタで出力し噛ませることにしました。

午後一で煮沸した水道水(水温20℃)を準備、薬品の調合開始。折角の正月休みにゴーグル+マスク+ゴム手袋+エプロン姿で何をしているのか…鏡に映った自分の姿が笑えます。

必要な薬剤の調合が完了。実際の現像に入っていきます(作業中の写真を撮っている余裕はありませんでした)。現像した結果がこちら。

ぼんやりと何か映っていると面白かったのですが…第二現像に入る前、感光材の層が黄色に残るはずがすでに完全に流れ落ちてしまっている状態でした(下側の縁に黒い線が残っているのはリールの溝にはまって薬品が触れなかった個所)。ベース部は生きても感光乳剤の寿命がきていたのだと思われます。85年前のフィルムなのでしょうがないか…その他の反省事項として:

1)ダークバッグはもっと大きな方が良い(今回使用した中型のバッグだと手狭)

2)ロモタンクは容量が約1.5リットルなので薬品もその量を目安に作る。また薬品保存用ボトルも1リットル用ではなく2リットル用を使う

3)作業の流れをスムーズにするため使用済道具の置き場所も決めておいた方が良い

4) パソコンでタイマーを使おうとしたところ濡れた指先に画面が反応しなかった。濡れたゴム手袋で触る必要があるので防水仕様のアナログタイマーの方が良さそうでした

5)リールに巻きつけた状態だと第二露出での光を満遍なく当てにくい

あとは薬品の温度調整(20±0.5℃)かな。工夫とアイデア次第でもう少し楽になりそう。

今回は初めての経験だったこともあって流れを実体験できればOK程度の緩い感じで進めていきました。実はもう一本、こちらは戦後(といっても1950年代製造)の未開封フィルムが手元にあるのでやり方を見直して年明けに再チャレンジしてみます。

1935年(昭和10年)-【ファクトチェック】 女優・筑波雪子のリベンジ・ポルノ事件

2020年末時点での日本語版ウィキペディア(以下ウィキ)「筑波雪子」の項目に以下の記述が含まれています。

この翌年の1935年(昭和10年)5月3日、牛島某という男が筑波のヌード写真をネタに松屋から5000円を恐喝するという事件が起き、逮捕された牛島の供述から同日、共犯を疑われて、筑波も警視庁に連行された。牛島は筑波の昔の同棲相手で、1930年(昭和5年)から1934年夏まで同棲していたという。

元同棲相手の逮捕で「ヌード写真」の存在が公にされてしまったため、「リベンジポルノの元祖か?」と指摘しているツイッターユーザーさんもいます。意図したものではなく結果的に、の条件でも良いならそう見る事もできるかなと思います。

ウィキの記述にはソースリンクが付されています。元ソースは戦前の新聞記事を紹介している個人サイト「昭和ラプソディ」。Yahoo!ジオシティーズは2019年3月末に閉鎖されており、このサイトも現在は閲覧不能。インターネット・アーカイヴなどウェブ魚拓も残されていないため典拠がない形で放置されています。

今回、この一件についてファクトチェックを行ってみました。1935年5月の新聞記事を確認していきましょう。[1]

[…] 松竹キネマ女優筑波雪子の裸體寫眞を種に松屋から五千圓を恐喝したかどで檢擧された世田谷区北澤一、一一三牛島幸太郎について取り調べた結果、本人の筑波雪子事佐藤ゆき子(二九)が此事件の共犯らしい疑ひが濃厚になつて來たので雪子は三日午後零時半黑つぽい花模様の絹紗、洋髪で大森區入新井六ノ五五の自宅から一森警部の部下の刑事に連行されて警視廰に出頭一森警部の取調べを受けてゐる、筑波雪子は取調べに對し牛島の松屋恐喝事件は全然知らぬといつてゐるが更に地下新館調室に同人を移して取調べを續行して居る。

雪子は牛島と昭和五年から麹町の某所に同棲し、昨年夏別れて大森區入新井六ノ五五實弟佐藤光次郎方に同居してゐたものである。

「筑波雪子登場 共犯の疑いで警視廰へ出頭」
東京朝日新聞 昭和10年5月4日付夕刊2面


裸體寫眞を種に松屋から五千圓を恐喝したかどで検擧された牛島幸太郎との共犯嫌疑で三日警視廰に召喚された女優筑波雪子は捜査二課一森警部に取調べられたがその結果雪子は一作年四月牛島の松屋恐喝の直後松屋から贈つた千圓を貰ひ受けた事實はあるが恐喝に直接關係のないことが判つたので同日午後四時半まづ釋放となつた。


「筑波雪子は釋放」
東京朝日新聞 昭和10年5月4日付朝刊11面


[…] 世田谷区北澤一、一一三牛島幸太郎(四〇)は先に暴力團狩で檢擧され警視廰捜査二課一森警部が留置の上取調べてゐたが、右の恐喝の外に次のやうな余罪が現れた。

◇…昭和四年十二月末神奈川縣大磯町九三六奥弘一が銀座六ノ四にカフェー・サロン春を開店した際、奥が友人某を通じて牛島によろしく賴むといつたことから筑波雪子を自分の妻と稱して昭和五年二月から四月まで店に出してサービスさせ、その代償として借用金名義で三千二百圓を捲き上げた[…]

「筑波雪子のサービス代三千圓 「サロン春」も牛島に強請らる」
東京朝日新聞 昭和10年5月29日付夕刊2面

東京朝日新聞の報道は時間軸が逆転しており、5月4日付朝刊で女優釈放の記事が出た後、夕刊で連行に至るまでの経緯が伝えられています。また3週間程経った5月末には余罪についての続報が掲載されていました。

ウィキの記述は5月4日付夕刊での情報をまとめた形になります。余計な情報が付け加えられた形跡もなく概ね正確なまとめだとは思いますが一ヶ所紛らわしい表現がありました。

引用したウィキの文章は「5月3日」に「恐喝するという事件が起き、逮捕された」とつながっています。そのため容疑者による恐喝が5月3日に行われた印象を与えます。4日付朝刊11面の記述を読むとその解釈は間違いで、恐喝事件そのものは「一作年」=昭和8年(1933年)に発生していたと分かります。1935年に警視庁による暴力団の摘発が強化されており、一連の逮捕劇の流れで2年前の犯罪が発覚したものです。

それ以上に問題となるのは「連行された」でウィキの記述が終わってしまっているところです。容疑者の供述、被害者からの送金の動きから嫌疑がかかり連行された事実は間違いありません。ただ、取り調べの結果「恐喝に直接關係のないことが判」り、即日「釋放となつた」話があるとないとでは読み手の印象が大きく変わります。

別れた後に私的な写真を持ち出された状況を考慮するならこの一件で筑波雪子さんは被害者側にいます。ウィキの記述にはそういった視点が欠落、賭け麻雀事件に続いて警察沙汰に巻きこまれた話を並べてスキャンダラスな要素を強調をしている感は否めません。誤情報は無くとも見せ方に問題あり、という感じでしょうか。

結論:〇 (記述は概ね元記事に即しているが、情報の選択がややセンセーショナルに寄っていて公平性に欠ける)

[補遺]ちなみにこの事件に関して、「女優のヌード写真」が実在したのかどうか疑ってみることもできます。

第二のパターンはエロ写真に有名女性の首をすげ替えて、本物として売りつけようとしたものである。大正時代から昭和二、三年にかけて、そのかっこうの素材とされたのが女優の筑波雪子であった。[…]

『日本エロ写真史』
(下川耿史、青弓社、1995年)

それから幾日か經つて、誰のいたづらか未だに分らないのであるが、彼女が風呂場で立膝をしながらあかすりを使つているところの、實に驚くべき大膽不敵な裸體姿の寫眞を、愚生に送つて來たのである。

だが愚生は、永遠に彼女の貧弱な肉體を記念すべき、此の最も貴重な寫眞を、直ちに焼いて灰にしちまツたんである。(十月廿六日夜)

「筑波雪子の裸體姿の話」
(人見直善、『劇と映畫』1925年12月号)

左がオリジナル写真 [2]。右が1920年代中盤〜30年頃に流通していたフェイク・ポルノ写真 [3]。眉や目鼻立ちをペンで修正、背中や腕を黒で縁取りして細身のシルエットに見せる加工が施されています。原始的な手法ながらそれらしい仕上りで、当時は相当数の人々が本物だと信じていました。

もちろん数年来の同棲相手、しかも女性を金づるにする類の人物なら本物を持っている可能性はあります。でも若い頃にフェイクポルノの被害に遭った、しかも名の知れた女優がそんな簡単にリスクのある写真を撮らせるでしょうか。紙ベースでの検証はこの辺りが限界で真相は不明。いずれにせよ恐喝事件について言及する際に写真の真贋に紛れがある点は留意しておくべきかと思われます。


[1]  東京朝日新聞からの引用は朝日新聞社提供による「聞蔵II」のアーカイブを元にしています。
[2] 『日本エロ写真史』(下川耿史、青弓社、1995年)
[3] 『エロ・グロ・表現考』(赤木妖三、時代世相研究会、1931年)

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [03] 現像篇 その2 ロモタンクの巻取り練習/薬品を揃える

先日入手した現像用ロモタンクで9.5ミリフィルムを巻き取る練習をしてみました。使用したのは5~6メートル程の何も映っていない透明フィルム。

リールの上部を外してから本体中央部の「く」の字型窪みにフィルムを押しこみ、フィルムの端を折りこんで固定します。

リールの上部を戻してつまみ付きの軸で固定していきます。きつく締めすぎるとフィルムが挟まった状態となり巻けなくなってしまうので若干遊ばせる位が良いようです。ワッシャーを噛ませようとしたところ穴が大きすぎて断念。厚みの微調整もあるため3Dプリンタで補助部品を自作した方が早そう。

軽く斜めに倒したフィルムの張りを確認しながら独楽のようにつまみをクルクル回していきます。

9.5ミリフィルムが溝に収まり、等間隔の螺旋を描いているのが分かります。

本番ではこの一連の作業を完全な暗室(またはダークバック内)で行わなければいけません。一発で成功させる自信はないので慣れるまで練習を繰り返してみます。


一方で薬品類一式が揃いました。

今回現像に挑戦する9.5ミリ動画フィルムは「ネガ」が存在せず、フィルムそのものが現像後にポジとして仕上がってくる「白黒リバーサルフィルム」です。9.5ミリ形式だからと言って、あるいはパテ社製だからといって特別な配合や処理が必要な訳ではなく、現在でも行われている標準の白黒リバーサルフィルム現像法で対応することができます。

とはいえ標準の白黒リバーサルフィルム現像そのものに特殊な薬剤や流れが含まれています。『シネ・ハンドブック』『パテーの自家現像』(いずれも1930年刊)を元にしつつ、オンライン情報を参考にしながら次の手順で処理していくことに決めました。

1)第一現像 [7〜10分] 20±0.5℃
2)停止浴 [3分]

3)漂白 [3〜4分] 20±0.5℃
4)水洗 [2分]
5)洗浄 [3分]
6)水洗 [2分]
7)第二露光 [100wの白色灯で1分]
8)第二現像 [5分] 20±0.5℃
9)水洗[2分]

10)定着 [3分]
11)水洗 [10〜15分]
12)水切りと乾燥


使用する薬品は以下のとおり:

1)第一現像液(first developer)

ハイドロキノン、亜硫酸ソーダ、炭酸ソーダ、ブロムカリをベースとした自家配合

  • A液
    • ハイドロキノン 25g
    • 亜硫酸ソーダ 100g
    • 炭酸ソーダ 25g
    • 水 1000cc
  • B液
    • ブロムカリ 25g
    • 水 1000cc

※ A液150g + b液150gを使用

2)停止浴用(stop bath)

醋酸をベースとした自家配合

  • 酢酸 5ml
  • 水 1000ml

3)漂白液(bleach)

  • 二クロム酸カリウム 5.0g
  • 硫酸 10ml
  • 水 1000ml

5)洗浄液(clearing bath)

  • ピロ亜硫酸カリウム 50g
  • 水 1000ml

8)第二現像液(second developer)

第一現像液と共通

10)定着液(fixer)

  • チオ硫酸ナトリウム五水和物 250g
  • ピロ亜硫酸カリウム 25g
  • 水 1000ml

12)水切り材

ドライウェル希釈


ヨドバシカメラで購入できる薬品で対応できるだろうと考えていたところ3)漂白液と5)洗浄液でつまづきました。結局チェコFoma社のR100現像キットを手配。ところが輸送途中に行方不明になり到着まで一ヶ月要しました。

ツールは揃ったので巻取りの練習を何回か行ってから先日撮影したフィルム現像を行ってみます。

1957 – Super8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』(Japanese Cinema History Part I, super8)

8ミリ 劇映画より

c1970 Super8 日本映画史 前編

« Japanese Cinema History : Part I 1887-1949 » (1957, Shochiku Ofuna, dir/Iwaki Kimio)
c1970 Sungraph Super8 Print

1957年に公開された松竹制作による短編ドキュメンタリー。同社が制作した戦前作品を中心とし、活動寫眞の到来から戦後までの映画史の展開を貴重な映像でまとめ上げた一作。

8ミリ版は1960年代末~70年代初頭に発売されたと思われ、前後編の2巻構成。前編は19世紀末の映画前史から終戦後の1949年までを扱っています。2年前の購入時に一度紹介しているのですが画質が悪く、今回綺乃九五式で再度スキャンし直しました。


1887年 『疾走中の馬の連続写真』 エドワード・マイブリッジ

Sallie Gardner at a Gallop [imdb]

まずは明治時代まで遡り「動く写真」の発明としてエジソンの功績と並びマイブリッジ作品が紹介されていきます。


1899年 『紅葉狩』 柴田常吉監督

Momijigari [imdb] [jmdb]

現存する最古の日本映画として知られた『紅葉狩』。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎出演。現在は国立映画アーカイヴの「映像で見る明治の日本」の動画紹介ページで閲覧が可能です。


1900年 『鳩の浮巣』土屋常二撮影

Nio No Ukisu imdbjmdb

『明治二十八年の両國大相撲』(別名『回向院夏場所大相撲』)でも知られる土屋常二(ジョージ)氏が残したもう一本の映像作品。初代中村鴈治郎出演。


1911-12年 『白瀬中尉の南極探検』 記録映画 田泉保直撮影

Japanese Expedition to Antarctica imdbjmdb

明治末期に行われた白瀬矗注意による南極探検の実録もの。JMDbでは『南極実景』として登録されている一篇で、こちらも「映像で見る明治の日本」で高画質なバージョンを閲覧できます。


1911年 『ジゴマ』ヴィクトラン・ジャッセ監督

Zigomar imdb

日本で大規模な社会現象を引き起こした仏エクレール社の悪漢活劇。ジゴマの百面相を描いた紹介場面と物語途中の抜粋が収録されています。


製作年不明 『自雷也』尾上松之介主演

Jiraiya (Unidentified Version)

松之助十八番。自雷也が妖術を使う場面ながら松之助版自雷也のどれに当たるのか未特定。明治42年ではなくもう少し後年の作品と思われます。


1913年 『アントニィとクレオパトラ』 エンリコ・ガッツォーニ監督

Marcantonio e Cleopatra imdb

絢爛たる古代ローマ世界を描き出し日本でも大きな話題を呼んだ一作。8ミリ版では弁士・玉井旭洋の語りが付されていました。


1913年 『天馬』ハリー・ピール監督

Die Millionenmine imdb

第一次大戦開戦直前に輸入され、国内でのドイツ冒険活劇流行のきっかけとなった一作。ブラウン探偵(ルートヴィヒ・トラウトマン)が囚われの美女(ヘッダ・ヴェルノン)を救い出す場面で弁士・泉天嶺の語りが付されています。


1915年 『後のカチューシャ』細山喜代松監督

Nochi no Katyusha imdbjmdb

向島に新設されたばかりの初期ガラススタジオで撮影された初期日活現代劇。出演は立花貞二郎と関根達発ほか。国立映画アーカイヴやマツダ映画社にも所蔵記録のない作品で、断片を見れたのは感動でした。


1921年 『路上の霊魂』村田実監督

Souls on the Road (Rojô no reikion) imdbjmdb

日本の映画制作が新しい段階に入った様子を告げるモダンな現代劇。国外からの評価が高いことでも知られる一作です。


1921年 『虞美人草』小谷ヘンリー監督

Gubijinsô imdbjmdb

歸山教正氏と並び国産映画の近代化に功あった小谷ヘンリー監督の代表作。グリフィスの影響が濃く、戦闘場面での流動的な表現など日本映画になかった新しい試みを持ちこんでいます。


1923年 『船頭小唄』池田義信監督

Sendô kouta imdbjmdb

帝キネの『籠の鳥』と並ぶ小唄映画ブームの先駆け作品。栗島すみ子の健気で可憐なイメージ戦略をさらに一歩推し進めたものでもあります。


1923年 『関東大震災』記録映画

The Great Kantō earthquake

被災直後、瓦礫の山と化した街並みや、炊き出しに並ぶ被災者たちの姿などを生々しく記録した巨大災害の記録。首都圏を襲った未曽有の災害は初期日本映画の展開にも少なからぬ影響を与えました。


1931年 『マダムと女房』五所平之助監督

Madame and Wife imdbjmdb

斉藤達雄と田中絹代のかけあいが楽しい初期トーキー。


1938年 『愛染かつら』野村浩将監督

The Tree of Love imdbjmdb

看護婦として働くシングルマザーと医学者との悲恋を描いた戦前を代表する和製メロドラマ秀作。


1939年 『暖流』吉村公三郎監督

Warm Current imdbjmdb

高峰三枝子、水戸光子、佐分利信の入り組んだ人間模様を背景に描かれる、硬質な叙情性を帯びた恋愛ドラマ。


1943年 『花咲く港』 木下恵介監督

Port of Flowers imdbjmdb

九州の離島を訪れたペテン師二人組の行く末を軽妙に描いた木下恵介監督デビュー作。


1945年 『そよかぜ』 佐々木康監督

Soyokaze imdbjmdb

「リンゴの唄」の朗らかな響きと共に終戦直後の人々に希望を与える一作となりました。


1949年 『悲しき口笛』家城巳代治監督

Sad Whistling imdbjmdb

笠木シズ子をアップデートする形で日本歌謡を刷新した不世出の歌姫の映画デビュー作。10代前半でこの貫禄はさすが。


1949年 『晩春』 小津安二郎

Late Spring imdbjmdb

20世紀前半の(松竹版)日本映画史は小津の形式美と情緒によって完成された…とまとめたくなる編集です。


白黒110メートル(約18分)
光学録音
サングラフ/松竹

1915 – 『呪の列車』(ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 米ハーポディオン社 2012年旧デジタル版 & 2017年新デジタル版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
2012 US Harpodeon Reconstruction DVD

アナログフィルム文化の衰退と共に『呪の列車』は再び忘却に埋もれていく運命となりました。世紀が変わり、デジタル文化の時代に同作を再度世に送り出したのが米ハーポディオン社でした。同社を運営しているW・ダスティン・アリグッド(W. Dustin Alligood)氏は2012年、ブラックホーク社が使用したのと同じ最終リールを元にDVDを発売しています。

2017年には新デジタル版を公開、オンラインストリーミング/DVD/ブルーレイの3つの形式に対応。今回は物理メディアは購入せずオンラインでデジタルデータのみ購入しました。

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
2017 US Harpodeon Reconstruction Version

第5リールのみを扱っていた英ペリーズ版、米ブラックホーク版、ハーポディオン旧版と異なり、新デジタル版はジョン・グリッグス(John Griggs)氏の制作した「第4世代」の16ミリポジをベースにしていました。ダスティン氏によるブログの説明をまとめると以下になります。

第1世代)撮影時に発生したオリジナルの35ミリネガティヴ

第2世代)上映・レンタル用の35ミリポジティヴ

第3世代)ジョン・グリッグス氏個人製作による16ミリネガティヴ
レンタル用35ミリから16ミリネガを「自炊」した私家版。現存せず

第4世代)16ミリポジティヴ
数点現存。1点はイェール大学所蔵のジョン・グリッグス・コレクションに保管。
もう1点はフィルム収集家カール・マルケイムス(Karl Malkames)氏の死後に
ハーポディオン社ダスティン・アリグッド氏の手に渡る

第5世代)ハーポディオン社2017年デジタル版

ジョン・グリッグス氏は戦前から活動していた映画フィルム収集家。1930年代にレンタルで流通していた35ミリポジを入手、16ミリネガを作ってそこから複製した16ミリポジを発売、小銭を稼いでいたものです。数少ないこの私家版16ミリポジをハーポディオン社が入手しています。

染色プリントの美しさ、解像度の高さは一目瞭然ですがそれ以上に物語前半をデジタル化した功績が大きいのかな、と。初公開から百年以上が経過した2017年に初めて作品の全体像が見えたという話であって、このレベルにまとめあげたダスティン氏の情熱に敬意を表したいと思います。

【参考リンク】
Those Awful Reviews :ダスティン・アリグッド氏の個人サイト。『呪の列車』ジョン・グリッグス私家版ネガについて言及。それ以外にも面白い記事が沢山あって当サイトでも何度か引用しています。

Nitrate Ville:2016年に(当時まだ存命中だった)ブラックホーク社のデヴィッド・シェパード氏とダスティン・アリグッド氏が揉めた経緯を記録したスレッド。誤解に基づいた個人攻撃が含まれており、現在はスレッドが閉鎖され投稿できないようになっています。

1930 – 『パテーの自家現像』(吉川新形式寫眞叢書・第一篇、吉川速男著、アルス社)

今回9.5ミリ動画カメラを実使用するに当たってまず参考にしたのは歸山教正氏の『シネ・ハンドブック』(1930年)でした。もう一冊9.5ミリ専用の書籍が欲しいな…と見つけ出したのがこちらの『パテーの自家現像』。某古書店ブログで触れられているように直線をベースにした素敵なデザイン(フォントやその配列を含む)にはバウハウス等の影響を見ることができます。

第五章と第七章だけを御覧下さるだけでも、獨りで容易に好結果を擧げる事が出來ます。

冒頭にある通り現像の具体的な流れを詳述したのが第5章(薬品の配合)と第7章(現像の手順)。吉川氏本人の自筆イラストが多くあしらわれ9.5ミリフィルム現像の実際を視覚的に追うことができます。

現像用薬品(現像液/反転液)の配合については『シネ・ハンドブック』とほぼ同じ。ただし『パテーの自家現像』には9.5ミリ用の作業時間配分の一覧が掲載されていて参考になりました。

1930年頃に撮影された9.5ミリの個人撮影動画では時々画面に液体が流れたような跡を見ることができます。長期保管による褪色や変色だと思っていたのですが、現像液や反転液の洗浄不足による現像ムラなのだと気づきました。撮影者・現像者視点からフィルムを見てみるとまた違った発見があるものですね。

自家現像時の現像ムラの一例
(『池掃除』、1929年頃、個人コレクションより)

[出版年]
1930年

[発行所]
アルス

[定価]
壹円

[ページ数]
150

[フォーマット]
13.0 × 19.5 cm、函入

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [03] 現像篇 その1 道具を探す

1920年代にパテベビー映写機・撮影機が市販された折に、仏パテ社から現像用具の一式も発売されていました。現存数が極端に少なく、一般公開されているものとしてはパリのフォンダシオン・ジェローム・セドゥ=パテが唯一と思われます。

フォンダシオン・ジェローム・セドゥ=パテ所有の9.5ミリ現像機
(同組織所属のPaolo Bernardiniさん撮影)
https://www.instagram.com/p/BAYFaSQI-Of/

上下に歯のついた平枠に9.5ミリフィルムを巻きつけて左の箱に収め、台になっている四角い箱にセットし現像液を注入する仕掛けになっています。

『シネ・ハンドブック』(歸山教正著、1930年)より

歸山教正氏の著書『シネ・ハンドブック』(1930年)でも同種の現像用ツールが紹介されていました。同氏は平枠を木材で自作する手法も公開。複雑な構造ではないため今回は3Dプリンタで自作しようと考えていました。

ところが別な手法で9.5ミリフィルムを現像している人を発見!

『ロモ・タンクで9.5ミリフィルムを現像してみた』
https://www.filmkorn.org/develop-9-5mm-film-in-a-lomo-tank/?lang=en

ドイツの方で、9.5ミリのカラーリバーサルフィルム現像に成功しています。

数日前にサンクトペテルブルクから届いた実物。

ロモ社の8ミリ映写機やロモグラフィーは知っていますがロモ・タンクは初耳。8ミリ愛好家の一部では割とよく知られた方法なんですね。内側にらせん状の溝が刻まれたリールがあってフィルムを立てていく形をとります。リールを円形タンクに収めてホースから薬剤を注入。上部のつまみを回すとリールが回転し撹拌される仕組みとなっています。元々8ミリ用なので9.5ミリではリールの厚みが変わりますが、2ミリほどのワッシャーを噛ませると上手くいくそうです。

1931 ‐ 『活動寫眞撮影術』(歸山教正&原田三夫共著、日本教材映画 [小型映画講座1])

Katsudou Shashin Satsueijutsu [Filming Moving Pictures] – Kaeriyama Norimasa (1931)

初期日本映画の発展に大きな影響を与えた映画理論家、歸山教正氏の残した概説書シリーズの一冊。「小型映画講座」の枠組みで、9.5ミリと16ミリを中心に動画カメラの原理、フィルムの種類、映画光学の基礎、照明、間字幕の作り方などについてまとめています。

技術面に特化した書籍ながら、巻頭に置かれた48頁の写真群は歸山氏の趣味やこだわり、人脈が反映されたものとなっています。洋画では現在でも無声映画の代表作とされる諸作(『裁かるるジャンヌ』『ニーベルンゲン』『戦艦ポチョムキン』)のスチルを収録。他にも独ウーファ社の作品が目立ちます。

国産映画の珍しい画像(撮影中のショット含む)が多く含まれていました。

「或映畫場面のコンポジション(映畫藝術協會)」と題された一枚。さらっと紛れこんでいますがもしかして『深山の乙女』(歸山教正監督、花柳はるみ主演)ではないですか。

「「撮影と照明(1)松竹蒲田映畫」と題された一枚。八雲恵美子さんの姿が見えます。

「實物の室内撮影と照明(日活映畫)」。写真上、左から峰吟子、夏川静江、一人置いて中央に村田實監督でしょうか。そうだとすると『この太陽』(1930年)の撮影風景になります。

初期の日活向島が有していたグラスハウス型スタジオ。

『活動寫眞撮影術』は「小型映画講座」と題された6冊物の第1巻に当たります。他の巻も歸山氏が絡んでおり共著に村田實、夏川静江、徳川夢聲氏の名が挙がっています。

ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

1935 ‐ 『映画におけるリハーサルの技法』レフ・クレショフ著 ロシア語初版

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [06]

« Repeticionnyj metod v kino »
by Lev Kuleshov (1935 1st Edition)


レフ・クレショフは帝政ロシア末期~ソ連の映画界で活躍した映画監督・映画理論家です。1917年から映画批評や理論の発表を始めておりその長い思索の軌跡は1987年の全三巻ロシア語本『映画論全集』でまとめられることになります。英語圏でも1970年代中盤に公刊された『クレショフ選集』(カリフォルニア大学出版)でその思想の一部が知られるようになりました。

クレショフが戦前に出版した書籍は以下の4冊。

1929: 『映畫藝術』(Иск-во кино)
1935: 『映畫におけるリハーサルの技法』(репетиционный метод в кино)
1935: 『映畫監督術の実践』(Практика кинорежиссуры)
1941: 『映畫監督術の基礎』(Основы кинорежиссуры)
このうち主著の一つ『映畫監督術の基礎』はインターネット・アーカイヴでオンライン公開されています。

今回手に入れたのは第二著作『映画におけるリハーサルの技法』の初版本(4000部限定)。全64ページ。サイズは縦19.7×横13.5センチで表紙は布張りになっています。滲んだ収蔵印あり。

「Виблиотена Львовского Кинотехникума」…

リヴィウ(Львов)はウクライナの都市名。リヴィウ映画技術図書館の旧蔵書でしょうか。同名施設は現在リヴィウに存在しておらず、随分と前に閉鎖されたか別組織に吸収または改称されたと思われます。

内容的にはプレテネフ氏による序文(предисловие)の後に
「最初の実験」(первые опыты)
「利点(メリット)」(преимущества)
「実践」(практика)
「諸相」(перспективы)
4章構成となっていて、自作の『紅の戦線にて』(1924年)、『死の光線』(1925年)、『掟によって』(1926年)、『ベネチア製のストッキング』(詳細不明)等を引きあいに自説を展開していきます。


[出版者]
Kinofotoizdat (モスクワ)

[フォーマット]
1935

[生年月日]
64頁。19.7×13.5cm。4000部限定

1915 – 帝政期ロシア俳優揃え(ピョートル・チャルディニンの誕生日会)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [01]


帝政ロシア末期に俳優としてデビュー、後に監督に転身し成功を収めたピョートル・チャルディニンの誕生日に集まった男女優の集合写真。1915年の撮影とされており別な構図で撮られた写真も存在しています。

前列左にオシップ・ルニッチ(Ossip Runitsch/Осип Ильич Рунич)
前列右にピョートル・チャルディニン(Pyotr Chardynin/Пётр Иванович Чардынин)

後列左より
ウラジミール・マクシモフ(Vladimir Maksimov/Владимир Васильевич Максимов)
ヴェーラ・ハロードナヤ(Vera Kholodnaya/Вера Васильевна Холодная)
ヴィトールド・ポロンスキー(Vitold Polonsky/Витольд Альфонсович Полонский)
イワン・フドレエフ(Ivan Khudoleyev/Иван Николаевич Худолеев)
イワン・モジューヒン(Ivan Mozzhukhin/Иван Ильич Мозжухин)

チャルディニン監督の代表作で帝政期のメロドラマの典型として知られる『静まれ、悲しみよ…静まれ』(Молчи, грусть…молчи、1918年)にはモジューヒン以外の6人が出演、それぞれの俳優の持ち味を見ることができます。

オデッサ撮影所の公式チャンネルより

モジューヒンは人脈的に別系統でヴォルコフやトゥールジャンスキー監督作品に多く出演。1918年にチャルディニン監督の下、ポロンスキー、ハロードナヤ、モジューヒンの共演企画が持ち上がっていたのですが国内の混乱の余波で製作中止となっています。

革命後にモジューヒンは亡命、チャルディニンとルニッチも国外に拠点を移します。1919年1月にポロンスキーが中毒死、翌2月にハロードナヤが病死。マクシモフとフドレエフは国内で細々と俳優業を続けていきます。同じメンバーが揃って写真を残す機会は二度とありませんでした。無邪気な笑顔が素敵だからこそ、その後の命運に切なさを覚えます。

1919 – ヴェーラ・ハロードナヤ葬儀実況

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [02]

Funeral of Vera Kholodnaya (1919 Russian Postcard)


女優ヴェーラ・ハロードナヤがウクライナのオデッサに引っ越したのは1918年の春のことでした。翌年2月、同地を襲ったスペイン風邪に罹患、人事不省となり見舞いにきた友人の見分けもつかなくなります。一旦意識を回復するものの4日後の午後7時半に永眠。20日に葬儀が行われ、亡骸はオデッサの墓地に埋葬されました。

葬儀の模様はニュース映画でも扱われ、実際に映画館でも上映されました。1992年にマイルストーン社から発売された全10巻VHS『初期ロシア映画』の第7巻に英語字幕付き版が収録されていました。

動画は2分程の短いものです。前半に出演作の抜粋とプライベート姿をとらえた映像、後半は棺を教会墓地に運んで行く様子。左下のスクリーンショットではヴェラの隣に立つチャルディニン監督の姿が見えます。

ハロードナヤの葬儀については映画プロデューサーのハンジョンコフ氏が回想録で触れています。また最近公刊された伝記によると、1917年のチャルディニン監督作『暖炉の傍で(У камина)』で皇女リディアを演じた際の衣装と同じだそうです。

亡くなった女優は一番きれいな服を着せられ丁寧な死化粧をほどこされていた。(『ロシア映画の始まりの日々』、ハンジョンコフ著、1937年)

Мёртвая актриса была наряжена в один из лучших своих туалетов и тщательно загримирована

Ханжонков А. А. Первые годы русской кинематографии.
— М.: Искусство, 1937. — 172 с.

棺に納められたヴェーラがまとっていたドレスは2年前に映画『暖炉の傍で』で着ていたのと同じものだった。(『ヴェーラ・ハロードナヤ:無声映画の女王』、イレーナ・プロコフィエヴァ著、2013年)

Ее положили в гроб в том самом платье, в котором она два года назад играла княгиню Лидию Ланину в фильме «У камина» – в одном из самых популярных своих фильмов.

Вера Холодная. Королева немого кино
— Елена Прокофьева, 2013.


内戦状態、慢性化した食糧不足、スペイン風邪流行の三重苦に襲われ人々が否応なく「死」を身近に感じていた時期、ヴェーラの訃報はロシア全土に大きな衝撃をもたらしたのです。

同時にこれらの映像記録は女優ヴェーラを神格化していく過程の一つになりました。美しい姿のままの夭折が強調されているのは遺族や業界・報道側の思惑が絡んでいますし、受け取る側の期待にあわせた形にもなっています。俳優稼業が決して夢の世界ではないと知っていたハンジョンコフ氏の指摘はその意味で興味深く、著名女優の死がスペクタクル化されている状況を見抜いていたと読むことができます。

1927 – 『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [03]

L’Art dans La Russie Nouvelle – Le Cinema
René Marchand et Pierre Weinstein (1927)

1927年初めに公刊された書籍で、当時発展しつつあったソ連映画の現状を紹介したもの。『アエリータ』(1924年)や『戦艦ポチョムキン』(1925年)が公開された後に書かれています。

この時期、多くの人々にとって新興国ソ連は実体のよく分からない怖い存在で、同国の映画製作の状況を客観的に整理し国外発信できる人はごく僅かでした。日本ではロシア文学研究者の昇曙夢氏が『プロレタリヤ劇と映画及音楽』(新ロシヤ・パンフレツト 第5編、1925年)を残していましたが、仏語圏ではこの書籍がそれに対応する位置付けです。

北方活動会社(セフザプキノ)の撮影風景(上)と『アエリータ』を製作した芸術コレクチーヴ「ルーシ」のアトリエ(下)

書籍の前半は新都モスクワと旧都ペトログラードの対立を軸に話が進んでいきます。旧都ペトログラードは映画製作のノウハウを持ち、映画館も多くあって革命発生後もしばらくは映画産業の中心となっていました。しかし電力不足で映画館が次々と閉鎖、車を改造した移動式の上映車を使って急場をしのいでいきます。一方の新都モスクワは物資や資本にはこと欠かなかったのものの政府の方針が定まらず満足な作品が作れない状態が続いていました。

首都での映画製作が停滞、政府の指針も明確ではない中、1920年代初頭にウクライナ、アゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンの一部で映画作りが活性化していきます。『新ロシア藝術:映画編』中盤は、 国家映画委員会ゴスキノやペトログラード拠点の北西活動社と並べる形で各社の特色や代表作を紹介していきます。

書籍後半は1923・24年の共産党大会で映画政策の指針が決定された経緯と、その影響について触れています。ソ連における映画の役割を定義し、同国の映画産業の骨組みとなっていった重要な決定で、書籍の巻末に指針の仏訳が付録として掲載されています。

昇曙夢の『プロレタリヤ劇と映画及音楽』と比べてみると『新ロシア藝術:映画編』は1918~22年の動きを丁寧に追っているのが分かります。また数値データを多く掲載しており、年毎の制作数や映画館数の変化が分かりやすく示されています。一方の昇曙夢氏は良い作品とそうでないものの見極めが上手く、作品を見たくさせるプレゼン能力の高さが際立っています。

映画産業の政策策定にも共産党内部の力学が働いていた話はどちらの書物にも書かれておりませんし、この2冊だけで当時のソ連映画界の全貌が理解できる訳ではありません。またグルジア国営活動社や全ウクライナ活動写真部にしても現時点では各国の映画史と結びつけて考えていく必要があります。そういった要素を割り引いても当時のソ連映画の勢いが伝わってくる読み応えのある一冊でした。

[出版者]
リーデル出版社(Les Editions Rieder)

[出版年]
1927

[ページ数]
176

[フォーマット]
21 x 16 cm

] 映画の郷 [ 電子工作部:フィルムスキャナーにおけるディフューザーの使用

昨年まとめていた「綺乃 九五式・開発記録」で、写真を撮っていなかったため記事にできなかったコンテンツが幾つかありました。その一つが「ディフューザー」の設定でした。

フィルムをスキャンしていく際に必ず光源が必要となるのですが、ハロゲン/LED電球どちらを使用するにせよ光のムラができてしまいます。それを避けるため光を「散らす(ディフューズ)」仕組みを組みこまないといけない、という話でした。

室内で被写体をストロボ・フラッシュ撮影撮影する際に用いられるのが一般的な「ディフューザー」です。今回は幅一センチにも満たない小さなフィルムのコマを相手にしているため大掛かりなものは必要ありません。調べてみたところ、乳白色で半透明の樹脂かガラス、最悪薄手の白い紙をかませれば良いと分かりました。

Matthias Melchier氏自作の16ミリ用スキャナー(上)と
サンプル画像(下)

上の画像は2015年頃にMatthias Melcher氏が公開していた16ミリフィルム専用自作スキャナーです。フィルムに近い場所に白い紙を置いてディフューザに使用しているのが分かります。スキャン画像(下)を見ると光はきちんと散らばっています。

当初、綺乃九五式では乳白色の樹脂をLED電球とフィルムの間に置いたのですが上手くいきませんでした。ネットですりガラスを探し始めます。スキャナー自作ユーザーの集まるサイトで紹介されていた中国の「Plexiglas」は日本への発送に対応していなかったため断念。米エドモンド・オプティクス社の日本法人が扱っている25ミリ角のディフューザーを購入しました。

2020年8月に交換用で再購入したもの

スキャナーへの組みこみは3Dプリンタを使って固定用の補助部品を作り、すりガラスをはめこんで接着する方法を取りました。フィルムを固定するちょうつがい式の可動部分があるのでそこに貼りつけた形です。

光の拡散が均質となり画像が安定するようになりました。自作スキャナー作家の間で話題になる機会は少ないのですが画質に直結する部分で手間暇かける価値はあると思います。