キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

1911年 – 「活動写真監督術考」 イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ著


活動写真監督術考
イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ
(1911年 シネ・ジュルナル誌 165、166、167、168、170号連載 [未完])

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911)
Hippolyte-Victorin Jasset

※本稿は『ジゴマ』(1911年)『プロテア』(1913年)等の活劇を監督したイポリット・ヴィクトラン・ジャッセが生前に唯一残した映画論の私訳です。1911年のシネ・ジュルナル誌に掲載されたもので、その後1946年『初期映画批評集』に抜粋が、2013年公刊の地方誌『ルデンヌ⁼ワロン別巻 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』に全編が転載されています。また1993年に公刊された『フランス映画批評集・第一巻』(プリンストン大学出版局)に英語の抄訳が掲載されていました。

フランスでの著作権はEU基準に基づき著者の死後70年まで保護されることになっており、1913年に亡くなったジャッセに関してはすでにパブリック・ドメインに入っています。やや古風なフランス語で日本語に直訳しにくい部分が多く、だいぶ訳し崩したもののまだ生硬な個所が目立ちます。時間を見ながら修正をかけていく予定です。邦訳に関してはクリエイティヴ・コモンズの扱いとします。

Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911) Hippolyte-Victorin Jasset
『活動写真監督術考』シネ・ジュルナル誌初出

[1]

活動写真が始まったばかりの頃、この若き産業が後々驚くべき飛躍を見せるだろうとか、発展とともに倦むことのない進化を遂げていくだろうと予想できた人は誰もいませんでした。

動きを[スクリーン上に]再現するやり方が見つかりました。人々が最初に考えたのはどう作品や商品に応用するかでした。考えられるかぎり最も単純な映画作品が生み出されていきました。駅に到着する機関車、工場から退出する人々、壊された壁が埃を舞いあげ倒れこむ様子、滝の水、岩礁に打ちつけて砕けていく波…動きがあって見栄えしているならありとあらゆるものが映画を作る口実になったのです。

『壁の取り壊し』(1896年、リュミエール兄弟)

1898〜99年の映画の長さはまだ20メートルでした。短編喜劇も作られてはいたものの尺的にはそれほどではありませんでした。

この時期、モンマルトル界隈で活動していた画家・イラストレーター達の考え方を十年に渡って束ねあげていた日刊紙シャ・ノワールがジル・ブラス紙増刊号と並んで映画の力を借りていました。スタインライン[1]やヴィエット[2]、ドエス[3]、ギヨーム[4]、カランダッシュ[5]らのセリフ無しイラスト作品は当時の短編喜劇映画から生み出されてきたものです。

次いで自然の只中での屋外撮影、時事ドキュメンタリー、風光明媚なる景色、機関車で世界中を旅する作品が作られていきました。映画は単に目新しい流行り物でしかなく、舞台芸術と真面目に比較する者など一人もいませんでした。

次いで人々によく知られた物語、歴史物(服屋で廃棄処分予定だった服を使い、撮影場所は古めかしければどこでも構わないという適当さ)、戦争物、闘牛などが映画化されるようになっていきます。撮影機材の移動コストを抑えるためならパリのどんな場所、どんな一角で撮影しても良いというのが当時の一般的なやり方でした。ビュット・ショーモン公園には当時の撮影で、勝ち誇ったボーア人を前に敗走するイギリス軍が馬に乗って駆けていった跡が残っていたりします。

当時はこんな調子でも問題なく、観衆は英軍対ボーア人の戦闘実録を目の当たりにしていると思いこんでしまうのでした。

この頃の映画製作の裏舞台はどのような感じだったのでしょうか。この点をまとめておくのは大事なことです。というのも映画芸術のゆったりとした変容に少なからぬ影響を与えているからです。

冒頭で触れたように、映画ビジネスに関わり始めた人々は将来的な展望を持っていませんでした。頭にあったのは作品を超特急で作り上げることばかり、完成度を高めようとは露ほども考えてはいませんでした。まだ映画専用の劇場もありません。成り行き任せで役者を集め、演技させる口実を探し出すのに一生懸命でした。

当時[俳優やカメラマンなど]技芸を持った人たちは大した創造力を発揮する必要もなく、制作側からそういった人々への配慮は為されていませんでした。劇場で配役の割当てを行っていた人物、キャスティング部門の長が映画製作の起源の役割を担うことになりました。

大雑把に大人数を捌くスキル、劇場の手配者との仕事つながりを活用したのです。とはいえそれが彼らのもたらした全てでした。

にもかかわらずこれらの人々は映画業界に棲みついてしまい我が物顔で振る舞うようになっていきます。芸術の観点からするとこの連中がもたらしたものはちぐはぐでまとまりのないものでした。独力で、かつ経験で身につけた映画製作の仕事を自分本位に展開させていき、自分たちを困らせたり、状況に文句をつけたりしない連中だけを輪の中に入れていったのです。

その結果として1893年から1903年にかけて映画は足踏みし何の発展もないままでした。「ピークで高止まり中」とされたこの産業などいつ見捨てても良いくらいの気に誰もがなっていたのです。

業界で先行していた英国は映画向きとは言えない霧の多い空模様があだとなりつつ、フランスとは違った喜劇一派を成していきました。この一派からは「追跡物」のジャンルが生み出され大衆的な成功を収めていきます[6]

『戸外の大胆な強盗』(1903年、フランク・モッターショウ)

手掛け始めたばかりのビジネスが面白いものを生み出していきそうだ、と気がついたのがパテ社でした。同社は映画作りにルールを敷き、各部門の質を高めようと試みます。この努力は華々しい商業的成功によって報われることとなります。

パテ社初期の監督たちは知識も技術もありませんでした。それで彼らのおかげで映画はそのカバーする範囲をここまで広げていくことができたのです。直感的に、パッと目につく質にこだわったことで売上が上り、映画の真の側面が見えるようになりました。英国派は独創的ではありましたがまだ完成度に難があり、フランスの監督たちによって良い所取りされてしまったため方針転換と調整を図られます。パテ社監督たちは喜劇のジャンルで現在でもモデルとされつづけている秀作を生み出していきました。ここにフランス派が生れたのです。(シネ・ジュルナル紙 1911年165号51頁)

[2]

特撮あるいはトリック映画が登場してきます。最初は動きを逆に見せるものでした。映写技師はコメディ映画を上映している際に時々フィルムを逆回転させました。するとどうでしょう。壊れてしまった物が集まって元通りになり、液体が瓶に戻り、人間が高い場所に飛び乗ってしまうのでした。

メリエスは映像のおとぎ話を作り出しました。写真の分野で知られていたトリックを出発点としておとぎ話じみた一連のエフェクト全てを発明していったのです。それ以降(合衆国のアニメを例外とすれば)新たに付け加わった技法は何一つないほどでした。

おまけに才能と機知を兼ね備えていて、トリックを物語にまとめあげて独創的で面白みのある奇譚を生み出していったのです。

メリエス作品は長期に渡って流行を見せていましたがこの成功は作品価値に見あったものでした。メリエス一派が衰退したのは進化しようとしなかったためです。メリエスの作品では被写体を見せるためにいつも特殊な飾りつけをした舞台が必要とされていました。こういった装飾を必ずしも必要とせず、できる限り戸外で撮影する方向に映画は進んでいきました。メリエスは自分のやり方を変えようとはしなかったため流行から取り残されてしまったのです。

メリエス流の作品はパテ社でも作られていくことになりますが、意図に反して手直しが加えられていきます。ある器用な現場技術者[7]がトリックを応用した作品作りに熱心に取り組んでいました。彼の欠点はメリエスがしていたように場面を面白く見せようとする工夫を充分にせず、細工さえあれば事足りると甘んじてしまったことにありました。1908年から10年にかけこの種のおとぎ話は下火になっていきました。

1904~05年には英国起源の「追跡物」が大流行。喜劇だけではなくドラマ作品の肝としても使われるようになっていました。典型的な例で言うと、浮浪者が不注意から藁の山に火をつけてしまいます。放火だ!消防士の到着に消火、犯人を追跡して森を抜け、野原を駆け抜け、障害物を乗り越え鉄道に飛び乗り、峡谷をまたぎ、川を越え…ようやく犯人逮捕で罪を償いめでたしめでたし。追っかけだけで作り上げた物語ですが、しっかりした脚力さえあれば撮れてしまう作品でもありました。この時期には軽業師が映画の王様だったのです。

追跡喜劇は相当数制作され、その多くが現在でも語り継がれています。

この時期(1906年)に本格化したのが遠隔地での屋外ロケでした。それまではヨーロッパ各地、アジア、アフリカからアメリカを舞台にした場面でも近場のヴァンセンヌの森、ビュット・ショーモン公園、マルヌ川の河畔のノジャンやジョアンヴィル=ル=ポン(日露戦役の場面もそこで撮影されました)を使って撮影されていました。キリスト伝の映画化に際し、ゴーモン社が最初の屋外ロケを行ったのはフォンテーヌブローの森だったのです。

それに続いて映画製作会社各社がこの森に入りこんで撮影を始めました。フォンテーヌブローの森は長きに渡って「どことでも解釈できる場所」と見なされるようになっていたのです。

一旦屋外ロケが軌道に乗ると目的地が広がるようになってきました。撮影スタッフはまずはフランス国内全土、次いでスイス、イタリア、コルシカ島、アルジェリアにチュニジアを次々と訪れていきます。

にもかかわらず、観衆の方は無邪気にも全ての場面がフォンテーヌブローの森で(或いはジャーナリストの言葉を鵜呑みにしてパリ周辺の旧城郭跡で)撮影されたと信じこんでいる始末でした。

1906~07年。及び腰ながらも映画は一歩一歩進化していました。映画業界についてはこの頃まで見世物小屋の支配人を相手にしか商売してはいけない決まりになっていました。まだそんな世界が隠されていなかった時代のパリで奇異を生業にしていた人々です。

見世物小屋にやってくる客は単純で子供じみた映画以外を理解できる教養を備えてはいませんでした。芸術家肌の連中、あるいは芸術の話をしたがる者は胡散臭く思われ映画界から容赦なくつまはじきにあいます。映画を作り出した連中が業界をまだ牛耳っていたのです。メロドラマが初めて現れてきたのが1906年頃。その成功は凄まじいものでした。当時の作品の一つ『赦しの掟』[8]は現在でもよく知られています。内容は単純そのもの。おそらくそれが成功の一因でもあったのでしょう。『鐘突きの娘』[9]公開もほぼ同時期でしたが内容はもっと複雑でした。でも『赦しの掟』の成功には到底及びませんでした。これで道筋が決まりました。メロドラマは映画に活路を見出したのです。

『赦しの掟』(1906年、アルベール・カペラーニ)

追跡劇はまだ作られていて簡単に衰退しそうな気配はありませんでした。人間の追跡劇を一通り済ませると動物を使った追跡物が始まりました。『密売犬』[10]はスキルの高い調教師とスタッフを揃えた映画監督の共同作業となり、犬による追跡場面だけを作品の目玉として大きな成功を収めました。便乗作品が続々と登場しますが一作目の盛り上がりは別格で乗り越えることはできませんでした。

この時期は救出物の時代でもありました。これほど多くの人々の命をありとあらゆる方法で救った時代は今までありませんでした。ありとあらゆる物が人命を救います。映画産業が衰えつつあった英国がこのジャンルを得意としていました。あらゆる種類の犬たちがあらゆるシチュエーションに登場、挙句の果てには人の命を救う馬まで現登場し、観衆は熱狂的に囃したてていたものでした。

撮影術は大きな進歩を見せていました。この時期から逆光などの効果を取り入れるようになっていきます。直射日光の下で撮影していた時代とは雲泥の違いです。見せ方も素朴なものから芸術性を凝らしたものに変わってきました。単に当たり前の事をするだけの時代はとっくに終わっていて、監督がそれぞれのこだわり・趣味性を発揮し場面を調整していくようになっていたのです。

それにも関わらず、役者の演技は改善されないままでした。さらに言うならばこの時期、真剣に演技に取り組んでいる役者はそもそも映画にはやってきませんでした。速度感を要求され、何度も撮影機材の邪魔が入る上にやたら誇張された演技に恐れをなしていたのです。小遣い稼ぎのアルバイトでやってくる連中か、配役部が劇場から調達してくる人々しかいませんでした。

さらに言えば他とは違う質の高さを映画に持ちこもうとする発想そのものが意味を持ってはいませんでした。演技などは必要ではなく、見てとることすらほとんどできませんでした。作品冒頭で状況を手短に、できる限り簡略に説明し、すぐ重要度の高い激しいアクション場面に入っていきます。キャラクターの設定を作るとかニュアンスを与えるといった些細な事に時間をかけている暇はなかったのです。

当時の決め事で大事だったのは主人公の動きの追跡でした。例えば主人公が通りに出ます。建物のドアをノックし、廊下に入っていき、また部屋の扉をノックする…という形で見せないといけませんでした。延々と主人公を追い続けなくてはいけなかったのです。

その結果、細かい部分を気にする演技達者は無用の長物で、仕事のコツをつかんだちょっと頭の回る役者に取って代わられてしまいます。そのため表現力のある役者は映画に関与しないという状況になってしまいました。

パテ社は労力をかけただけの収益を上げることに成功しました。非の打ちどころのない作品を生み出し続け、完成度だけでなく使用機材の面でも他に先駆けて市場のトップを走り続けていました。競合他社があちこちから現れてきます。フランスで映画会社の設立ラッシュが始まります。パテ社は単独でフランスの映画産業を束ねたがっていたにも関わらず、そして自身望んだ訳ではないにも関わらずひとつの流派になっていました。そして望んだ訳ではないにも関わらず雇っていた労働者や技術者、監督たちを他社に流出させてしまいました。

イタリアの動きが始まります。同国の映画産業はマーケットで大きな位置を占めるようになっていきます。

そこまでに至るイタリアの武器は素晴らしいものでした。他国以上に撮影に適した太陽光線があって、天気を気にせずいつでも撮影することができます。顔立ちも映画向けで素晴らしく、映画製作や現場でかかる費用は少なめで、駄目押しに潤沢な資本を備えていました。

自身の作り出した映画産業をほぼ独占してきたフランスにとって、イタリアは真っ向勝負を挑んできた恐るべきライバルとなりました。

これだけ有利な側面を持ちながら、イタリア映画は長きに渡ってフランスの専門家たちの手を借りていました。

イタリア映画が独り立ちしたのはしばらく経ってからの話でした。

その気質もあって、イタリアの役者たちは荘厳で誇張気味の演技を見せるようになります。一方で人件費を比較的抑えることができたため、役者の人数を増やし、豪華な衣装を使った大掛かりな群衆場面に登場させることができるようになりました。

歴史映画はイタリアの独壇場となります。

一つの流派が形成されたのでした。(シネ・ジュルナル紙 1911年166号 33、35-37頁)

[3]

一つの流派が形作られていきました。

この流派で重要視されていたのは映像の細部ではなく全体の効果で、見ている人を驚かせようとしています。装飾に装飾を積み重ねていき、モブシーンを熱気のある形で、しかも多くの場合見映え良く動かしていきます。ただし衣装や時代考証を正確に行っているかといえば必ずしもそうではありませんでした。

イタリア一派はフランス史やフランス文学への好みを強く見せていましたが、その解釈は往々にして軽薄で考証に欠けたものでした。他国でならさほど目立たなかったかもしれませんがフランス国内では相当の衝撃が走ったのです。フランス一派は細かな部分に気を使っていたにも関わらず、イタリアだと細部は取るに足らないと見えているようでありました。

ナポレオン英雄譚も映画の素材とされていきました。しかしイタリアの人々には理解できなかったようで軽めの歌劇として扱われてしまいました。

役者の演技も押しなべて力足らず。ある意味当然です。当初イタリアの俳優は映画界で働くなんて自分たちにふさわしくないと思っていたのです。短期契約の映画俳優業に対しフランスだと役者養成の下積み期間がありましたが、イタリアにはありませんでした。大袈裟に強調されたイタリア流の演技は一目で分かるものでした。無知な映画人によるこの手の演技は舞台喜劇の教えからすると到底許しがたいものでした。着付け一般についても同様の悪印象が見られます。

それでもイタリア映画は勃興期に傑作をひとつ生み出しています。以来映画が目覚ましい進化を見せたにも関わらず、三年後の今でさえ最高峰の監督術を伺わせる作品の一つです。『ポンペイ最後の日』[11]は公開されるやいなや芸術のセンス、丁寧な演出、アイデアの巧みさ、作品を支えるコンセプトとその実現の重厚さ、同時に例外的な映像美によって市場を激変させるに至りました。

『ポンペイ最後の日』(1908年、アルトゥーロ・アンブロージオ)

この例外的作品でアンブロージア社は最良の映画社の一つと見なされるようになりました。

この後の同社作品は、多くが一級の出来映えだったとしてもまだ『ポンペイ最後の日』を超えることはできていません。

喜劇に挑戦したこともありました。納得のいく作品を作るため自国俳優を諦めフランスの役者を招き入れました。フランス俳優はイタリア映画に独特の調子をもたらしたのですが、そこにはアンドレ・ディードが主演したグリブィユ連作が含まれていました。別なフランス男優も他社のスター女優と組んで大きな成功を収めたりしています。

手短にまとめるなら、イタリア一派は映画術の進歩に貢献しなかったということです。フランス派に追随し、もとから決して少なかったとは言えない仏一派の欠点を増幅した形になります。

他方イタリアの映画界は豊かでした。仕事ぶりは目覚ましく意識の高さが伝わってきます。

往々にしてフランス映画よりイタリア映画の方が一般受けが良かったりもしました。真の芸術という点では不完全だったとは言え、イタリアの映画は面白く、大胆さだけではなく、その壮大さや人の動きに目を見張るものがありました。弱点もまた個性に変わります。イタリア人たちはフランス派が怖気をなすようなことも果敢に試みていきます。映画として扱うのが難しそうな主題を前にしてもひるむことがなかったのです。イタリア映画には演技が、独自流とはいえ演技があったという話でもあります。

芸術性を備えた映画作品が生み出されました。丁寧に見ていけば時代錯誤や勘違いが多く含まれてるとしても、それにも関わらず内容として面白く、しかも売れたのです。

新興イタリア映画にとっては売れた者勝ちであり、フランス側からは恨み節も聞こえてきました。でも戦って勝てる相手ではありません、フランスでの製作費を考えると人材や資材をこれほど無駄使いする余裕はなかったからです。

イタリア喜劇には勝れた作品が多く含まれていました。ただ実際の製作はフランスで、演じているのもフランス俳優でした。配給に携わった者たちはフランスでは絶対にありえないレベルの贅沢な舞台や小道具類を配したフランス映画が進化していくのを見続けていたことになります。

イタリアはフランス映画界にとって最強のライバルの一つになったのです。

同時期のフランス映画産業にも目覚ましい発展が見られました。

新たな会社が生まれていました。パテ社で生れた一派は業界で重きをなしたのち、新天地を求め同社を離れていきます。監督と技術畑のスタッフと共に現場で教わってきた、または経験で覚えてきた厳格な規則が同業他社に流出。それまでほぼ門外不出だった映画製作術が他社の手に渡ります。

イギリス資本のアーバン社はフランスの映画社エクリプスに姿を変えました。時事ニュースを止めて劇映画に進出。市場に展開した作品はとても成功し名声を上げていきます。そこから派生してきたのがラディオ社でした。同社トップには映画界で初の職人の一人、最も知名度のある技術者だったクレマン・モーリス氏[12]が就任しています。

エクリプス社は存在感を増していきます。

ゴーモン社の扱うジャンルは飛躍的に広がっていました。初めて純パリっ子と呼べる独創的な喜劇ジャンルを生み出しています。このジャンルは現在でも同社の十八番となっています。追跡物でもこれまでの通常の喜劇短編でもありませんでした。機転を利かせ、アクションが多く、新たなアイデアと手法に満ちています。今でも覚えている人が多いのでここで作品名を上げるのは気が引けるのですが、たとえば『管理人室でのお茶会』[13]『磁石になった男』[14]『包まれた配達人』[15]『提督の物語』[16]『デモをしない男のある一日』[17]。もっと味気ない作も他に何十何百と作られていました。

『磁石になった男』(1907年、ルイ・フイヤード)

他ジャンルでゴーモン社は何も生み出してはいません。大掛かりな歴史物で時折イタリア一派に肉薄してみせた程度でした。

エクレール社が市場に登場してきました。

この新興会社はすぐに注目を集めました。ニック・カーター探偵物を映画化して名を上げます。また本作によって初めての「連続物」が開始されました。同じ役者が話をまたいで再登場するもので、観衆は自分が見た作品の続きを見たくなる仕掛けです。此の発想は以後独自の道を歩んでいくことになります。エクレール社はドラマとアクション物を得意とするようになり、これが同社の評価につながっていきます。

同時期、撮影レベルが低く、演技も上手いとは言えず、人の姿が太ももまでしか映っていない、支離滅裂か愚劣としか形容できない脚本を元にしたまとまりない作品が市場に現れてきました。欧州では驚き、あるいは皮肉交じりに受け止められたものです。

アメリカ一派が誕生していたのです。

この時期に脚本術の研究や、演出に費やされるこだわりが強まっていたとはいえ、フランス派は何一つ進歩を見せていませんでした。

俳優たちはかつてのように映画を忌避することは少なくなっていて、映画出演の機会が増えていきました。でもすぐに既存の流派に染まってしまいます。決まった型に必要とされる厳密な決めごとだけを守るようになり個性は消え失せていきます。慌ただしく演技させてしまうことで、役者の個性がもたらしうる面白い部分を殺してしまうのです。

衣装や小道具、舞台などの点から見ると映画の監督術は丁寧で細やかなものになりつつありました。でも演技については相変わらずでした。あわただしく、ぶつ切れで、あってよさそうなニュアンスが欠けていました。

しかしこういった状況に逆らう動きが幾つかの映画会社で見られるようになります。この傾向は映画を扱う業者たちからすぐに押さえつけられてしまう結果になりました。彼らが欲していたのは上質な演技ではなく、アクションであり短編だったからです。

映画の進化を決定していく出来事が起ころうとしていました。

悲観的な者たちに「映画業界は死にかけている」と毎日のように言われながらも映画は拡大を続け、劇場へと進出し舞台人たちを震え上がらせました。今や映画を力のあるライバルと認めざるを得なかったのです。

パリや欧州主要都市に映画館が続々と作られていきます。

この新興産業はありとあらゆるものに手を出し、全てを呑みこんでいきました。旅行記、時事ニュース、歴史物、人間ドラマ、喜劇…さらに音声をつかった映画の試みも幾つか行われています。

拡がりつづける動きに演劇界、そしてコメディ・フランセーズ座の花形が追随したのがこのタイミングでした。

映画との全面対決が無理だと分かったため、むしろ映画を利用していく方向に舵を切ったのです。

芸術映画派(フィルム・ダール)の誕生でした。(シネ・ジュルナル紙 1911年167号 31、33、35頁)

[4]

芸術映画は革命であり、古くからのやり方をゆっくりと、絶え間なく進化させていくことになりました。

[シャルル・] ル・バルジ氏[18]がコメディ・フランセーズ座の役者を監督し映画を作る話が広まった際、人々は映画界の流儀を知らない舞台人がどんな映画を作るのか議論を交わしながら成り行きを見守っていました。超大作になりそうだ、製作費が怖ろしいほど膨れ上がるのでは。そんな話が出ていました。

製作には時間がかかりました。どう演技するか、どう尺を使い物語を紡いでいくか、様々な問題にぶつかったのです。ようやくフィルム公開にこぎつけます。確かに驚きでした。一般客の多くは理解できず、心を動かされることはありませんでした。しかし業界人たちに今まで守ってきたルールが無駄であったと理解させるには十分だったのです。実力派の役者たちが出演し劇場と同じ成功を収めます。彼らは劇場と変わらぬかのように演技していました。演技は生硬で、走り回ったりはせず身じろぎ一つしません。演技のもたらす強度が高まる効果が得られたのです。驚き以外のなにものでもありません。出来映えは見事でした。業界視点から見て許容できる程度のミスはあり、しょうがないと思える点も多かったのは事実です。それは初挑戦の役者が様々な困難を乗り越えようと試行錯誤した痕跡でもありました。諸々を含めて『ギーズ公の暗殺』[19]は傑作だったと言えます。

『ギーズ公の暗殺』(1908年、アンドレ・カルメット&ル・バルジ)

ル・バルジ氏は自身の役柄を細心かつ緻密に、豊かな細部を織り交ぜながら演じています。注意深く見ている者にとっては青天の霹靂でした。百戦錬磨の監督が慣習を破りたくないと怖がってできなかったことを新米監督が成し遂げてしまったのです。

氏によって新たな原則がもたらされました。先人たちによる経験は考慮には入れられていませんでした。それでも彼のやりかたはこれ以上正しいものはないものでした。技術面に関わる規則を幾つか除いてしまうと、旧派がのんびりと発展させてきたものは何も残りません。旧習は音を立てて崩れ落ちていきました。

芸術映画派が映画の流れに及ぼした影響は如何ほどだったと言えるでしょうか。当初ほぼゼロでありながら、途轍もない結果をもたらしています。アメリカ映画を覚醒させ、変容をうながし、今そうである一つの流派に形作っていったのですから。

芸術映画の企画そのものは商売での結果につながりませんでした。期待していたほどではなかったのです。観客は急激な変化を理解できず冷たい反応を見せました。映画のテーマはしばしば退屈。成功しているごくわずかな場面を生み出すためにどれほど失敗が多かったことか。制作費も法外に高騰していました。つまるところ、関係者たちの戦意喪失という話です。芸術映画が形骸化し、良く知られたブランドマークを冠したありふれた映画会社となり果てた時点でル・バルジ氏は離脱していきます。

それでも確立された規範は残り続けていきます。フランス派は一歩一歩賢くなっていきます。映画に何が出来るか見てとったあらゆる分野の芸術家が力を貸すようになってきました。

映画が変わりつつあった当初の時期が賢明ではなかったという点は疑いようがありません。長く続いてきた伝統をすぐに打ち切る訳にもいかないのです。それでも動き出してしまったものを止めることはできず、配給側も芸術に関心を示す客もいるのだと理解し、認め始めるようになりました。題名に「芸術」「ゴールド」「ダイヤモンド」「原理」「美」を冠した連作物が各社より発表される展開となったのです。イタリア絵映画では二百名の俳優を追加して芸術映画と銘打ったことがあります。

軌を一にして異なった流派が形成されていきました。集まってきたのはフランスの作家、文芸畑の人々(作家・文人映画協会)。彼ら脚本レベルを改良しようとしていました。

質の高い俳優の演技とこだわり派の監督による演出も相まって、この流派がしばしば優れた脚本を生み出した点に疑いはありません。しかしながら芸術映画派が一歩先んじており、文藝一派では結局到達できなかった独創まで突き進んでいました。文芸派のもうひとつの誤ちは、旧派がこれまで幾度となく繰り返してきた物語を繰り返してしまったことです。質が落ちた訳ではなかったのですが良くなったとは言い難いものでした。そのため同派はフランス一派の進歩に影響を与えませんでした。それでも売り物としては立派なもので、他社のレベルを超えはせずとも一定の質を維持していました。同派の脚本には掘り出し物が幾つか見つかります。しかしジャンルを生み出すまでには至らず、業界に新しい要素を持ちこむことはできませんでした。

芸術映画派によって悲劇作品の道が開かれました。猫も杓子も追随していったものの特筆すべきジャンルは開拓されませんでした。しかし1909年の終わりがけに作家文人映画協会が公開したミミ・パンソン嬢[20]の連作が各地で話題を呼びました。叙情的な恋愛物がしばらくの間流行。同時期、俳優たちはピンで主役を張れるよう奮闘していました。アンドレ・ディード氏[21]は先にデビューしていたマックス・ランデ氏[22]と時期を一にして自身を主役にした作品での成功を収めました。俳優たちは誰も彼も連作で当てしようとし始めました。シャルル・ルプランス氏[23]は作家文人映画協会でプリンス君シリーズを始めます。観衆の興味を引き、お気に入りの役者「ディード&プリンス」をドラマや喜劇で見たい!の声が上がるようになりました。画面に繰り返し出てくる役者には目が止まり、知名度があがって客も良し悪しを見極めるようになっていきました。ゴーモン社はアベラール少年[24]が好感度の高いスターになりそうだと考えました。

同じ役者が何度も出てくると見ている側は飽きてしまうと言われています。真逆だったのです。業界ではこういった俳優を契約で囲いこむ動きが見られました。(シネ・ジュルナル紙 1911年168号 38、39、41頁)

[5]

映画産業は繁栄し、強力な産業になっていました。専属の技師と技術者を抱えるようになっていました。部門毎の専門性も高いものになっています。始まったばかりの頃の棚ぼたで成功した映画界とは別物でした。働いている人の数は相当数に上ります。これらの諸部門で最も重要性が高かったのが演劇部門でした。世界各国で毎日のように新会社が設立されていました。かつて世界市場を牛耳っていたフランスに今度は国外の映画会社が食いこんでくるようになり、しばしば国産映画以上の成績を収めるようになっていました。合衆国からは恐ろしい一撃がもたらされました。

長きに渡りアメリカ人は手探りの模索を続け、独自の路線を見つけ出そうとしていました。彼らが最初に撮った作品の出来は酷いものでした。失敗にもめげることはありませんでした。というのも手持ちの資金は潤沢で、やり遂げようとする意志があったからです。ありとあらゆる挑戦をしてみました。歴史劇やシェークスピア劇はあまり上手くいきませんでした。続いて製作した作品は鉄道や、アメリカ風追跡劇、ネイティヴアメリカン、カウボーイなど手近な素材を題材にしたものではるかに良い出来映えでした。客たちは大いに沸いたものですがフランス映画との差異は大きくはなく、せいぜい演出時の大胆さと巧みさの違い程度でしかありませんでした。その後にヴァイタグラフ社が公開した『幽霊ホテル』[24]が大きな話題を呼んだのは妥当だったと言えます。業界の古いやり方を完全に捨て去り、誰も予期していなかった真新しい手法[ストップモーション]を組みあわせたのです。静物が動き始め、魂を与えらえるのを目の当たりにするのは初めてでした。どういう手法を使ったのかあらかじめ知らなければ注意深く見ても何が起こっているか分からない位でした。ヨーロッパの監督たちは秘密が漏れてきたのを聞いてようやくトリックを理解しました。応用範囲は広くなく、順当と言ってよい大成功を収めた後でこのアメリカ流のやりかたは使われなくなりました。ネタが限られていたからです。それでもこの手法はアメリカ一派に栄えある成功をもたらし、人々が同派を意識し怖れるようになるきっかけとなりました。

『幽霊ホテル』(1907年、ジェームズ・スチュアート・ブラックトン)

1909~10年にかけてヴァイタグラフ社初の喜劇が公開されています。それまでは出来も酷く、その後に並レベルの作品が続いていました。一挙に傑作群が公開され始めました。新たな流派が形成され、市場全体で存在感を示すようになります。勢いを感じていたのは業界関係者ばかりではなく一般の観客たちも同様で、アメリカ作品を熱狂的に受け入れるようになっていきます。

アメリカ一派は以下の3点においてフランスと異なっています。

1)カメラによる画面の切り取り方
2)役者の演技
3)脚本の組み立て方

画面前景に位置する役者の表情の変化・動きに客の関心が向けられている点にアメリカ人は気が付いていました。それを上手く利用し、必要であれば舞台装飾や全体の構図は犠牲にしてでも俳優の姿(決して大きな身動きはしていません)を見せようと試みています。

慌ただしい動きを避けたとても静かな、誇張されていると思えるほど静かな演技です。また[ヨーロッパ映画の]最近の脚本は劇的な状況、舞台劇由来の悲壮さを含んでいます。アメリカ人はできる限り単純かつ素朴に映画を作ろうとしていて、複雑に絡んだ筋立てや舞台がかった大袈裟な展開を避けようとしています。実人生に出来るかぎり近づけようとし、紙一重のアクションで陽気なハッピーエンドに結びつけていきます。そう見ていくとアメリカ流の映画製作術は人々が今まで行ってきたどの手法よりずっと優れています。客の熱狂がその証拠です。アメリカ映画に関わるスタッフは大勢いても役者数は実際そこまで多くはなく、客たちは次第に顔を覚え、名を覚え、もう一度見たいと思うようになっていきました。同じ役者が定期的にスクリーンに戻ってきてほしいと願い、要求するようになっていたのです。ヴァイタグラフ社作品だけあれば良い、最後はそんな風になっていきます。この後フランスの映画会社はヴァイタグラフの真似事を始めました。

ヴァイタグラフ映画の理論は果たしてどのようなものなのでしょうか。

物事を単純に考える客たちの見解をまとめると次のような感じでしょうか。アメリカ映画は才能ある役者が演じている、彼らはカメラの前でどっしり構えた演技を見せる。だからフランス俳優を使っても同じことが簡単にできる、難しくない、と。

この見方には深刻な間違いが含まれています。

アメリカ流の監督術が示しているのは忍耐力、演技法、柔軟さを持った役者と、長期に渡る規律意識を有した監督による作業でした。勢いで一発撮りした作品ではなくなっていたのです。諸々の規則を徹底的に守った結果であり、ルールを破ってしまうと昔のやりかたに戻らざるをえなくなってしまうのです。

スクリーンで映画を見ていると、静かで抑制された、調和のある役者の演技で実体験さながらの錯覚を覚えたりします。ところが細部まで見る監督の目には単純さと言われているもの自体がトリック、操作によって生み出されたと映りますし、演技と演出の全てが完全に偽物・フェイクだと分かるのです。しかしそれは観客にリアリティを錯覚させるために必要なものでもありました。もう少し詳しく説明していきましょう。

(シネ・ジュルナル紙 1911年170号 25-27頁、未完)


【訳註】

[1] テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Théophile Alexandre Steinlen, 1859-1923) スイス生まれのアールヌーヴォー画家
[2] ヴィレット (Villette)不詳
[3] ドエス(Louis-Christian Does、1859-1944) スイス生まれのイラストレーター
[4] アルベール・ギヨーム(Albert Guillaume、1873 – 1942) フランス生まれの風刺画家
[5] カランダッシュ(Caran d’Ache、1858 – 1909) ロシア出身の風刺画家
[6] 『戸外の大胆な強盗』フランク・モッターショウ(A Daring Daylight Burglary, 1903)
[7] フェルディナン・ゼッカ?セグンド・デ・チョーモン?
[8] 『赦しの掟』アルベール・カペラーニ(La Loi du pardon, 1906)
[9] 『鐘突きの娘』アルベール・カペラーニ(La Fille du sonneur, 1906)
[10] 『密売犬』ジョルジュ・アト(Les Chiens contrebandiers, 1906)
[11] 『ポンペイ最後の日』アルトゥーロ・アンブロージオ(Gli ultimi giorni di Pompei、1908)
[12] クレマン・モーリス(Clément Maurice、 1853–1933)フランス生まれの写真家・映画監督・映画プロデューサー
[13] 『管理人室でのお茶会』ルイ・フイヤード(Le Thé chez la concierge, 1907)
[14] 『磁石になった男』ルイ・フイヤード(L’homme aimanté, 1907)
[15] 『包まれた配達人』(Le Facteur emballé)未詳
[16] 『提督の物語』ルイ・フイヤード(Le Récit du colonel, 1907)
[17] 『デモをしない男のある一日』ルイ・フイヤード(La Journée d’un non-gréviste、1908)
[18] シャルル・ル・バルジ(Charles Le Bargy、1858-1936)フランスの舞台俳優
[19] 『ギーズ公の暗殺』アンドレ・カルメット&ル・バルジ(L’Assassinat du duc de Guise、1908)
[20] 『ミミ・パンソン』ジョルジュ・モンカ?(Mimi Pinson、1910?)
[21] アンドレ・ディード(André Deed、1879–1940)ボワロー君シリーズで人気のあった喜劇俳優
[22] マックス・ランデ(Max Linder、 1883–1925)チャップリンとも親交のあった喜劇俳優
[23] シャルル・ルプランス(Charles Prince、1872–1933)リガダン連作で人気のあった喜劇俳優
[24] アベラール少年(le petit Abellard)不詳
[25] 『幽霊ホテル』ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(The Haunted Hotel, 1907)


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2002 – 『サイレント・プレイヤーズ』(アンソニー・スライド著)

Silent Players 01 cover
2002 Silent Players (Anthony Slide, University Press of Kentucky)

著者アンソニー・スライド氏はイギリス生まれの映画史家。幼い頃から地元で開催されていた無声映画上映会に参加し、1968年に「サイレント・ピクチャー」誌を創刊、1970年代に渡米して往時のスター俳優と接触を取り、忘れ去られたハリウッド映画史の断片を丁寧に救い上げる作業を続けてきました。

2002年に公刊された『サイレント・プレイヤーズ』はその集大成となる大著で男女優百名が3~8ページ程度で扱われています。スティル写真+紹介の形で俳優名鑑を踏襲しているものの経歴を時系列で追うことはせず著者が個人的に見聞きしたエピソードが中心。

ゴシップ、暴露話、裏話が多数収録されていて『ハリウッド・バビロン』と被る感触があります。ただケネス・アンガーが当時の愛好家たちの憧憬、熱気、神格化をそのまま引き継いでいたのに対し、スライド氏は一歩引いた場所から淡々と叙述しているのが大きな違いでしょうか。

メアリー・アスターが女優の本領を発揮したのは30年代であるとかメイ・マーシュは土臭い美しさがあるなど的確な指摘が多く刺激があります。また、『東への道』で母親役を演じたベテラン女優ケイト・ブルース、ぽっちゃり型女優ベイブ・ロンドン、早世した個性派喜劇俳優ジョン・バニーなどリアルタイムであまり大きく扱われてこなかった人々にスポットライトを当てているのも好感の持てるところです。

[原題]
Silent Players

[著者]
アンソニー・スライド

[初版出版年]
2002年

[出版者]
ケンタッキー大学出版

[ISBN-13]
978-0813122496

[フォーマット]
ハードカバー、464頁

[収録俳優]
ミニョン・アンダーソン Mignon Anderson [imdb]
メアリー・アスター Mary Astor [imdbmovie walker]
ウィリアム・ベイクウェル William Bakewell [imdbmovie walker]
リナ・バスケット Lina Basquette [imdbmovie walker]
マッジ・ベラミー Madge Bellamy [imdbmovie walker]
コンスタンス・ビニー Constance Binney [imdbmovie walker]
プリシラ・ボナー Priscilla Bonner [imdbmovie walker]
ホバート・ボスウォース Hobart Bosworth [imdbmovie walker]
イヴリン・ブレント Evelyn Brent [imdbmovie walker]
メアリー・ブライアン Mary Brian [imdbmovie walker]
グラディス・ブロックウェル Gladys Brockwell [imdbmovie walker]
ケイト・ブルース Kate Bruce [imdbmovie walker]
ジョン・バニー John Bunny [imdb]
ルース・クリフォード Ruth Clifford [imdbmovie walker]
エルマー・クリフトン Elmer Clifton [imdbmovie walker]
ミリアム・クーパー Miriam Cooper [imdbmovie walker]
ヴァイオラ・ダナ Viola Dana [imdbmovie walker]
ビービー・ダニエルス Bebe Daniels [imdbmovie walker]
ベン・ライオン Ben Lyon [imdbmovie walker]
フィリップ・デラシー Philippe De Lacy [imdbmovie walker]
キャロル・デンプスター Carol Dempster [imdbmovie walker]
ドロシー・デヴォーア Dorothy Devore [imdbmovie walker]
リチャード・ディックス Richard Dix [imdbmovie walker]
ビリー・ダヴ Billie Dove [imdbmovie walker]
クレア・デュブレイ Claire DuBrey [imdbmovie walker]
ヴァージニア・ブラウン・フェアー Virginia Brown Faire [imdbmovie walker]
ベス・フラワース Bess Flowers [imdbmovie walker]
ハワード・ゲイ Howard Gaye [imdbmovie walker]
リリアン・ギッシュ Lillian Gish [imdbmovie walker]
ダマール・ゴドウスキー Dagmar Godowsky [imdbmovie walker]
ジェッタ・グーダル Jetta Goudal [imdbmovie walker]
エセル・グランディン Ethel Grandin [imdbmovie walker]
ラルフ・グレイヴス Ralph Graves [imdbmovie walker]
ギルタ・グレイ Gilda Gray [imdbmovie walker]
コリーヌ・グリフィス Corinne Griffith [imdbmovie walker]
ロバート・ハーロン Robert Harron [imdbmovie walker]
ウィリアム・S・ハート William S. Hart [imdbmovie walker]
アリス・ホウエル Alice Howell [imdbmovie walker]
アリス・ジョイス Alice Joyce [imdbmovie walker]
マッジ・ケネディー Madge Kennedy [imdbmovie walker]
ドリス・ケニヨン Doris Kenyon [imdbmovie walker]
ジャック・ウォーレン・ケリガン J. Warren Kerrigan [imdbmovie walker]
ローラ・ラ・プラント Laura La Plante [imdbmovie walker]
ロン・チャニー Lon Chaney [imdbmovie walker]
チャールズ・チャップリン Charlie Chaplin [imdbmovie walker]
グレタ・ガルボ Greta Garbo [imdbmovie walker]
バスター・キートン Buster Keaton [imdbmovie walker]
ルドルフ・ヴァレンティノ Rudolph Valentino [imdbmovie walker]
ハロルド・ロイド Harold Lloyd [imdbmovie walker]
ベーブ・ロンドン Babe London [imdbmovie walker]
ベッシー・ラブ Bessie Love [imdbmovie walker]
ドロシー・マッケール Dorothy Mackaill [imdbmovie walker]
メアリー・マクラレン Mary MacLaren [imdbmovie walker]
パーシー・マーモント Percy Marmont [imdbmovie walker]
メエ・マーシュ Mae Marsh [imdbmovie walker]
ジェームズ・モリソン James Morrison [imdbmovie walker]
ジャック・マルホール Jack Mulhall [imdbmovie walker]
メイ・マレイ Mae Murray [imdbmovie walker]
ニタ・ナルディ Nita Naldi [imdbmovie walker]
メイベル・ノーマンド Mabel Normand [imdbmovie walker]
ジェーン・ノヴァック Jane Novak [imdbmovie walker]
ジョージ・オブライエン George O’Brien [imdbmovie walker]
ガートルード・オルムステッド Gertrude Olmstead [imdbmovie walker]
シーナ・オウエン Seena Owen [imdbmovie walker]
ジーン・ペイジ Jean Paige [imdb]
キャスリン・ペリー Kathryn Perry [imdb]
オルガ・ペトロヴァ Olga Petrova [imdb]
メアリー・フィルビン Mary Philbin [imdbmovie walker]
メアリー・ピックフォード Mary Pickford [imdbmovie walker]
ダグラス・フェアバンクス Douglas Fairbanks [imdbmovie walker]
アーリン・プリティ Arline Pretty [imdbmovie walker]
エスター・ロールストン Esther Ralston [imdbmovie walker]
チャールズ・レイ Charles Ray [imdbmovie walker]
ウォーレス・リード Wallace Reid [imdbmovie walker]
ビリー・ローズ Billie Rhodes [imdbmovie walker]
チャールズ・バディー・ロジャース Charles “Buddy” Rogers [imdbmovie walker]
クラリン・セイモアー Clarine Seymour [imdbmovie walker]
ローウェル・シャーマン Lowell Sherman [imdbmovie walker]
ポーリン・スターク Pauline Starke [imdbmovie walker]
グロリア・スワンソン Gloria Swanson [imdbmovie walker]
ブランシュ・スウィート Blanche Sweet [imdbmovie walker]
コンスタンス・タルマッジ Constance Talmadge [imdbmovie walker]
ノーマ・タルマッジ Norma Talmadge [imdbmovie walker]
アリス・テリー Alice Terry [imdbmovie walker]
フローレンス・ターナー Florence Turner [imdbmovie walker]
セダ・バラ Theda Bara [imdbmovie walker]
ルイズ・グローム Louise Glaum [imdbmovie walker]
キティ・ゴードン Kitty Gordon [imdb]
オルガ・グレイ Olga Grey [imdb]
アリス・ホリスター Alice Hollister [imdbmovie walker]
ヴァレスカ・スラット Valeska Suratt [imdb]
ジョージ・ウォルシュ George Walsh [imdbmovie walker]
ヘンリー・B・ウォルソール Henry B. Walthall [imdbmovie walker]
キャスリン・ウィリアムス Kathlyn Williams [imdbmovie walker]
ロイス・ウィルソン Lois Wilson [imdbmovie walker]
マージェリー・ウィルソン Margery Wilson [imdbmovie walker]
クレア・ウィンザー Claire Windsor [imdbmovie walker]
フェイ・レイ Fay Wray [imdbmovie walker]

1919年4月『活動之世界(最終号)』各国映画俳優人気投票

1919年4月『活動之世界』人気投票
『Katsudou no Sekai (Moving Picture World)』
« Hall of Fame » Poll (April 1919)

01:ウォーレン・ケリガン(761) Warren Kerrigan [IMDb]
02:山本嘉一(725) Yamamoto Kaichi [JMDb]
03:ルース・クリフォード(695) Ruth Clifford [IMDb]
04:ヴァイオレット・マースロウ(662) Violet Mercereau [IMDb]
05:ダグラス・フェアバンクス(657) Douglas Fairbanks [IMDb]
06:マルガリータ・フィッシャー(591) Margarita Fischer [IMDb]
07:メアリー・マクラーレン(580) Mary MacLaren [IMDb]
08:ドロシー・フィリップス(513) Dorothy Phillips [IMDb]
09:メアリー・マイルズ・ミンター(470) Mary Miles Minter [IMDb]
10:ウィリアム・S・ハート(465) William S. Hart [IMDb]
11:フランシス・ブッシュマン(457) Francis X. Bushman [IMDb]
12:ベッシー・バリスケール(435) Bessie Barriscale [IMDb]
13:パール・ホワイト(433) Pearl White [IMDb]
14:モンロー・ソールズベリー(408) Monroe Salisbury [IMDb]
15:メアリー・ピックフォード(397) Mary Pickford [IMDb]
16:グレース・ダーモンド(379) Grace Darmond [IMDb]
16:フランチェスカ・ベルティーニ(379) Francesca Bertini [IMDb]
16:メイ・マレー(379) Mae Murray [IMDb]
19:カーメル・マイヤーズ(361) Carmel Myers [IMDb]
20:ベッシー・ラブ(343) Bessie Love [IMDb]
21:チャールズ・チャップリン(305) Charles Chaplin [IMDb]
22:ルース・ローランド(295) Ruth Roland [IMDb]
23:ウィリアム・ダンカン(293) William Duncan [IMDb]
23:モリー・キング(293) Mollie King [IMDb]
25:ジェラルディン・ファーラー(265) Geraldine Farrar [IMDb]
26:ピナ・メニケリ(233) Pina Menichelli [IMDb]
27:ノーマ・タルマッジ(207) Norma Talmadge [IMDb]
28:片岡長正(201) Kataoka Chosei [JMDb]
29:クレイトン・ヘイル(199) Creighton Hale [IMDb]
30:藤野秀夫(177) Fujino Hideo [JMDb]
31:ウィリアム・ラッセル(151) William Russell [IMDb]
32:尾上松之助(147) Onoe Matsunosuke [JMDb]
33:エラ・ホール(141) Ella Hall [IMDb]
34:エディー・ポロ(125) Eddie Polo [IMDb]
35:衣笠貞之助(113) Kinugasa Teinosuke [JMDb]
36:アニタ・スチュワート(112) Anita Stewart [IMDb]
37:早川雪洲(98) Hayakawa Sessue [IMDb]
37:澤村四郎五郎(98) Sawamura Sirogoro [JMDb]
39:ハリー・ケリー(93) Harry Carry [IMDb]
40:ウィリアム・ファーナム(90) William Farnum [IMDb]
41:ドロシー・ダルトン(79) Dorothy Dalton [IMDb]
42:ビヴァリー・ベイン(72) Beverly Bayne [IMDb]
43:フランク・マヨ(69) Frank Mayo [IMDb]
44:東猛夫(65) Azuma Takeo [JMDb]
45:ネヴァ・ガーバー(65) Neva Gerbar [IMDb]
46:アルフレッド・ホイットマン(57) Gayne Whitman [IMDb]
47:アリス・ブラディー(50) Alice Brady [IMDb]
48:アール・フォックス(42) Earle Foxe [IMDb]
49:ベン・ウィルソン(37) Ben F. Wilson [IMDb]
50:セダ・バラ(22) Theda Bara [IMDb]
51:アラン・ホルバー(21) Allen Holubar [IMDb]
52:ジュエル・カーメン(17) Jewel Carmen [IMDb]
53:クララ・キンボール・ヤング(15) Clara Kimball Young [IMDb]
54:ブロニー・ヴァーノン(12) アグネス・ヴァーノン(Agnes Vernon)誤記 [IMDb]
55:ルイズ・グローム(9) Louise Glaum [IMDb]
56:モリー・マローン(8) Molly Malone [IMDb]
57:レオン・バリー(5) Léon Bary [IMDb]
57:ガブリエル・ロビンヌ(5) Gabrielle Robinne [IMDb]
59:フランセリア・ビリントン(3) Francelia Billington [IMDb]
59:アーヴィング・カミングス(3) Irving Cummings [IMDb]
59:花柳はるみ(3) Hanayagi Harumi [JMDb]

1919年初頭、雑誌『活動之世界』新年号で人気投票の開催が告知されました。当時合衆国で行われていた形に倣ったもので、年間を通じて票を募集し、各号で途中経過を発表しながら年明けに最終結果を発表するものです。この第3回中間発表を見ていると当時の傾向が幾つか見えてきます。

人名表記は現在のものを使用。3票以上を獲得した61名の男女比は27名(44%)対34名(56%)、国別内訳は以下となっています。
アメリカ:48名(79%) 日本:9名(15%) イタリア:2名(3%) フランス:2(3%)

ハリウッド俳優ではヴァイタグラフ社が安定した人気ぶり(転籍していますがアニタ・スチュワートやノーマ・タルマッジも同社出身)。国内で安定して配給・宣伝されていたため知名度が高かったと思われます。一方でギッシュ姉妹やグロリア・スワンソンらが選外に漏れてしまいました。

アクションを十八番とする男優(ウィリアム・ダンカン、エディー・ポロ、ハリー・ケリー)が健闘、また連続活劇女優の人気が根強かった様子も伺えます。1910年代末はパール・ホワイトやルース・ローランドらの先駆者に続く第二世代(グレース・ダーモンド、モリー・キング、ネヴァ・ガーバー)が台頭していた時期で、ランキングにもその状況が反映されています。

国内組に目を転じると1917年に日活向島に入社した山本嘉一と藤野秀夫、東猛夫、衣笠貞之助に票が集まっています。松之助人気も健在。正式デビュー前で得票数は伸びていないものの(『深山の乙女』は1919年8月公開)日本初の女優花柳はるみさんが早くも食いこんでくる形になっています。

二名ながらもイタリア女優が上位にランクイン(ベルティーニ、メニケリ)。ドイツや北欧、ロシアの俳優名はありません。

この5年後になると日本でも女優ブームにブロマイドが飛ぶように売れ、連続活劇人気は収まり、イタリアの代わりにドイツ映画が存在感を増していく時代となりました。「映画」の言葉からイメージされる世界の広がりが20年代前半にガラリと変わっている訳で、この人気投票はそれ以前、ちょうど一世紀前の映画理解を反映している点で興味深く思われます。

なお、それぞれの国外俳優の写真は国立国会図書館所蔵の『活動花形俳優』(1921年)や『活動名優寫眞帖』(1919年)で見る事ができます。

「スタヂオ日記」(『女性』誌 1927年10月号掲載)一労働者としての「女優」たち

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« My Studio Diaries » (from the magazine Josei [Woman] 1927 October issue)

大正期の邦画をよくご覧になっている方ですと小山内薫(1881-1928)の名に一度ならず触れているのではと思います。舞台での活動が本職ではありましたが、『路上の霊魂』(1921年)の制作や才能ある映画人の発掘・養成など邦画界にもひとかたならぬ功績のあった人物でした。

同氏が編集顧問として関わっていた文芸誌『女性』のある号(1927年10月号)に「スタヂオ日記」という企画が掲載されていました。当時人気のあった女優10名に寄稿を依頼し、女優業の実像を自身の手で伝えてもらおうとする内容でした。

依頼を受けたのは栗島すみ子、夏川静江、八雲恵美子、伏見直江、千早晶子、岡島艶子、柏美枝、徳川良子、酒井米子、松井千枝子の各氏。

『女性』誌 1927年10月号目次
『女性』誌 1927年10月号目次

-午後。
人はますます殖えて行く。暑さはまたぢはぢはと迫つて來る。
汗がぢつとりと流れて、顔もなにも目茶目茶になつてしまふ。
「助けて!」とほんとに云ひたくなる。

「夏の一日」 栗島 すみ子

それでもあのピカピカ光るレフを幾つもあてられると人一ばい暑がりの私は側で焚火をされてゐる程つらかった。一カツト済むと、すぐ扇風機と氷の側へ飛んで行く、飲むから汗が出る、汗が出ると猶ほ飲みたい。

「彦根行き」夏川 静江

仕方なしに、厚い冬の着物をつけ始めた。弟子達が団扇でせつせとあほいで呉れても、じりじりと汗がにぢみ出て來る。[…] あゝ今日のセツトはグラス・ステーヂ、あの百四十度もあるグラス・ステーヂへ…

「撮影所日記」松井 千枝子

暑い暑い事。南京玉の様な汗が額から背中から、ポロリポロリと落ちる氣持はだれでも、よくないと思ふ。

「私のグリンプス」 柏 美枝

職業とは言ひながら、百二十度からもあらうかと思はれるライトの前で仕事をする映畫俳優も、なかなか樂な商賣ではないとしみじみ思ふ。

「一日の仕事」 八雲 恵美子

1927年の夏は暑かったようで、灼熱のスタジオで汗だくになりながら演技を続け、仕事が終わると風呂で汗を流して息をつき、合間合間に気分転換を挟みながら会社の掲示板の予定に目をやって、明日の撮影に備えて早寝する…

何しろ砂地で馬脚が不規律に、砂の中にめり込んで、妾の身體は前後左右、四方八方に振り廻され、今にも墜落しさうなので、此處で落ちてなるものか、と鞍にシツカと 獅噛みついて、無我夢中、暑さも忘れた程。

「鳥取のロケエシヨン」伏見 直江

樂屋風呂に身體を沈めた時は、今迄の疲勞も一時に消えたよう…

「樂屋風呂の快味」酒井 米子

撮影も済んでスタジオに三時頃歸つた。そしてお湯に入つた後のすがすがしい気持に浸って明日の豫定をみて歸る。

「撮影の一日」徳川 良子

歸る路で自動車の競争をやつたら私のが一番に成つたんでうれしかった。會社に歸つたら明日の豫定が出て居る。人見組で朝七時集合。サア早く家に歸りませう。

「腹がぺこぺこ」岡島 艶子

大正期の女優とは、映画とはどうあるべきかといった抽象的な議論は一切なく、日々の経験と雑感を綴っています。雑誌の性質から考えると華やかではあっても消費されやすい「花形女優」の側面ではなく、自立して世を渡っていく「一労働者としての女優」の視点を持ちこもうとした、とも考えられます。また表現者としての思いは前面に出ていなくとも、背後にしっかり流れているのが伝わってきます。

京極はいつも乍らの澤山の人出、自分の映畫は如何かしらと不安にかられ乍ら常設館の入口まで行つて見る。大入りだ。なぜか涙ぐましい感謝の念湧く。

「自由な心」 千早 晶子

『戀は曲者』ロケ帰りの柏美枝さんが、母親への土産に羊羹やわさび漬けを買って帰っていたり、伏見直江さんが昼休憩中におかずを落として凹んでいたり、仕事もせず鎌倉でフラフラしている妹(松井潤子)の行く末を松井千枝子さんが案じていたりの貴重なエピソードも数多く含まれています。

『世界映画全史』 & ラジオ番組 「映画史家ジョルジュ・サドゥールへのオマージュ」 (1968年)

[ラジオ] 「映画史家ジョルジュ・サドゥールへのオマージュ」 (1968年)
[Émission radiophonique] Hommage à : Un historien du cinéma, Georges Sadoul

映画史家ジョルジュ・サドゥールが亡くなった翌年(1968年10月)、ラジオでその功績を振り返る企画が放送されました。フランス・キュルチュール局が音源をオンラインに上げていたので聞いてみました。

ジャン・ルノワールやルネ・クレールといったベテラン監督、ゴダールやルイ・マル、アニエス・ヴァルダらヌーヴェルヴァーグ系の監督がインタビューやコメント寄稿に応じています。

前半1/3は世界各国の映画状況に関心を持ち続け、作品を紹介していった「国際映画史家」の側面が取り上げられ、チェコやポーランドなど東欧作品、ブラジルやメキシコ、キューバなど中南米作品、アジア映画、そしてアラブ圏映画との接点が語られていきます。共産主義圏でのサドゥールの位置付けなどなかなか興味深い話も含まれています。

東側諸国の例で言うとサドゥールはチェコやユーゴ、ロシア映画を面白いか否かに関わらず網羅的に見ていた最初の一人でした。東側の映画で形式の革新が起こると予感し、分かっていたのです。時に彼は優れた批評文を残し、チェコやポーランドの若き映像作家たちを勇気づけることもありました。フランスでは知られていませんがサドゥールの批評はチェコ語やポーランド語、ロシア語に訳されていたのです。寄稿先だった「レットル・フランセーズ誌」が当時東側諸国で訳されていた唯一の仏文芸誌だったからです。そのためサドゥールは重要で、影響力の大きな映画批評家と見なされていました。

Dans le cas des films venant de l’Est, il a été un des premiers à voir tous les films tchécoslovaques, tous les films yougoslaves, tous les films russes, drôles ou pas drôles… Et il pressentait, il savait qu’il y aurait un renouveau formel dans le cinéma de l’Est. Quelque fois il a fait des bonnes critiques, il a encouragé des certains jeunes cinéastes tchécoslovaques ou polonais… et ce qu’on ne sait pas toujours en France, c’est que les critique de Sadoul ont été traduites en Tchéque, en Polonais, en Russe car les Lettres Françaises était pratiqument le seul journal culturel qui est traduit dans les pays de l’Est. Donc Sadoul a été considéré comme un critique important, un critique influent…

アニエス・ヴァルダ/Agnès Varda

中盤はサドゥールの人となりの回想となり、娘さんの証言などを交えながらシュールレアリスト作家(アラゴン、ブルトン、エリュアール、ツァラ)との交流や「自由気ままで常識外れの」暮らしぶりなどが語られています。ルネ・クレールは『悪魔の美しさ』(1951年)のプレミア上映翌日に受け取った手紙の一節を紹介しています。

貴殿が1934年にフランスを離れて以来、この国の映画はルノワール作品を別にして大半が運命に打ちひしがれる人間を描いてきました。[…] まったく、観客を不幸にして大層な芸術だと信じている輩の何と多いことか。『悪魔の美しさ』でようやく運命に抗い、打ち勝っていくのです。

Depuis que vous aviez quitté la France en 1934, notre cinéma avait, presque toujours et Renoir mis à part, montré l’homme accablé par le destin. […] Oui, il y avait trop de gens qui croyaient que le grand art c’est de rendre les spectateurs malheureux. Votre Beauté du Diable rend le destin la gorge et lui tord le cou, enfin.

ルネ・クレール宛書簡より/Lettre à René Clair

番組の最後は歴史家・批評家の評価をめぐったやりとりとなり、『世界映画全史』は誤謬が多いという批判にゴダールやアンリ・ラングロワが反論していきます。個人的に興味深かったのは戦前映画(あるいは無声映画)に対する距離感の問題でした。

サドゥールはとことんまで突き進もうとしたんだ。だからこそ当時顧みられていなかった1940年以前の世界映画史の開拓にとりかかった。同時代人で興味を持つ者はおらず、何も触れないで済ませているか、せいぜい曖昧な思い出話を書き残す程度だった。サドゥールは全く手付かずだった映画の領域を切り開いていったんだよ。

Il a voulu aller à fond, il a donc défriché toute l’histoire du cinéma mondial d’avant 40, qui était absolument inconnue… les contemporains n’y avaient pas prêté attention, ils n’avaient donc pas écrit ou ils avaient écrit quelques vagues souvenirs, il a donc défriché une zone absolument vierge du cinéma.

アンリ・ラングロワ/Henri Langlois

世界映画史に残されたこの穴を…

ce trou de l’histoire générale du cinéma…

イヴォンヌ・バビ/Yvonne Baby

シネマテーク・フランセーズ創設者のラングロワとサドゥールの義理の娘イヴォンヌ・バビが共有しているのは、戦前の映画がほぼ忘れ去られ、理解されぬまま放置され映画史の「空白」、「穴」になっているという歴史認識です。過去を懐かしんでいる訳ではなく、原点あるいは出発点が見えていない限りは現在も理解できないという確信が『世界映画全史』のサドゥールを突き動かしていったと見ているのです。

参加した面々はみなサドゥールに近い人々(近親者、友人、思想の近い業界人)ですので内輪褒めの印象も残りますが、故人の業績、人となりを複数の声でまとめ上げていこうとする企画の趣旨は成功していると思われます。

c1970 – スーパー8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』(Japanese Cinema History Part I, super8)

「8ミリ 劇映画」より

c1970 Super8 日本映画史 前編

日本映画史00 - 松竹ロゴ日本映画史02 - 緒言日本映画史01 - タイトル

1960年代末~70年代初頭に発売されたと思われる2巻物。前編は19世紀末の映画前史から終戦後の1949年までを扱っています。

現在でも古典として愛されている作品(『愛染かつら』『悲しき口笛』『晩春』)、無声映画の愛好家にはなじみ深い歴史的作品(『紅葉狩』『路上の霊魂』)を中心に、松竹作品を軸として初期映画の流れを追っていきます。
日本映画史07 - 活動大写真b日本映画史07 - 活動大写真c

短い抜粋ながら『ジゴマ』が含まれていたり、『後のカチューシャ』や『虞美人草』(戦闘モブシーンにグリフィスの影響あり)を動画で観れたりと貴重な経験でした。

驚いたのは1913年の 『天馬』。ドイツ映画初の活劇スター、ハリー・ピールの初期作。この時期のハリー・ピール作品が残っているという話をドイツ語圏で聞いた覚えがなく、現地の映画愛好家が聞いたら悶絶しそう。

1887年 『疾走中の馬の連続写真』エドワード・マイブリッジ Sallie Gardner at a Gallop [imdb]

日本映画史05 - メイブリッジ01日本映画史06 - メイブリッジ02

1899年 『紅葉狩』 柴田常吉監督 Momijigari [imdb] [jmdb]
日本映画史08 - 紅葉狩01日本映画史09 - - 02

1911年 『ジゴマ』ヴィクトラン・ジャッセ監督 Zigomar [imdb]

日本映画史12 - ジゴマ01日本映画史13 - ジゴマ02

1912年 『日本南極探検(南極実景)』 Japanese Expedition to Antarctica [imdb] [jmdb]

日本映画史15 - 南極探検01日本映画史16 - 南極探検02

1913年 『アントニィとクレオパトラ』エンリコ・ガッツォーニ監督 Marcantonio e Cleopatra [imdb]

日本映画史19 - アントニーとクレオパトラ

1913年 『天馬』 ハリー・ピール監督 Tenma/Pegasus (Unidentified Harry Piel Action Short)

日本映画史20 - 天馬日本映画史21 - 天馬02

1915年 『後のカチューシャ』 細山喜代松監督 Nochi no Katyusha [imdb] [jmdb]

日本映画史17 - 後のカチューシャ01日本映画史18 - 後のカチューシャ

製作年不明 『自雷也』 尾上松之介主演 Jiraiya (Unidentified Version)

日本映画史10 - 自雷也01日本映画史11 - 自雷也02

1921年 『路上の霊魂』 村田実監督 Souls on the Road [imdb] [jmdb]

日本映画史23 - 路上の霊魂01日本映画史24 - 路上の霊魂02

1921年 『虞美人草』 小谷ヘンリー監督 Gubijinsô [imdb] [jmdb]

日本映画史25 - 虞美人草01日本映画史26 - 虞美人草02

1923年 『船頭小唄』 池田義信監督 Sendô kouta [imdb] [jmdb]

日本映画史29 - 船頭小唄

1923年 『関東大震災』

日本映画史30 - 関東大震災日本映画史31 - 関東大震災02

1931年 『マダムと女房』 五所平之助監督 Madame and Wife [imdb] [jmdb]

日本映画史32 - マダムと女房01日本映画史33 - マダムと女房02

1938年 『愛染かつら』 野村浩将監督 The Tree of Love [imdb] [jmdb]

日本映画史34 - 愛染かつら01日本映画史35 - 愛染かつら02

1939年 『暖流』 吉村公三郎監督 Warm Current [imdb] [jmdb]
1943年 『花咲く港』 木下恵介監督 Port of Flowers [imdb] [jmdb]
1945年 『そよかぜ』 佐々木康監督 Soyokaze [imdb] [jmdb]
1949年 『悲しき口笛』家城巳代治監督 Sad Whistling [imdb] [jmdb]
1949年 『晩春』 小津安二郎監督 Late Spring [imdb] [jmdb]

白黒110メートル(約18分)
光学録音
サングラフ/松竹

明文館『映畵文庫』書籍一覧(1927年)

明文館・映画文庫一覧(1927年)

1927年時点で26冊が刊行されていた模様。扱われている作品の大半は1925年11月~1926年1月に公開された作品。

『御詠歌地獄』(松竹 1925年11月)
『雄呂血』(阪妻 1925年11月)
『荒木又右衛門』(日活 1925年11月)
『靑春』(松竹蒲田 1925年11月)
『上野の鐘』(松竹 1925年11月)
『辨天小僧』(帝キネ 1925年11月)
『松風村雨』(帝キネ 1925年11月)
『人間』(日活 1925年12月)
『戀の捕繩』(松竹 1925年12月)
『龍巻く嵐』(帝キネ 1925年12月)
『時勢は移る』(松竹)
『落武者』(松竹 1925年12月)
『命の懸橋』 (東亞1925年)
『お艶殺し』(東亞 1925年10月)
『寂しき道』(松竹 1925年11月)
『お初吉之助』(松竹蒲田 1926年1月)
『剣の舞』(東亞 1925年7月)
『女神の像』(帝キネ芦屋 1926年1月)
『いでゆの秋』(東亞 1925年12月)
『曲者は誰?』(帝キネ 1925年12月)
『征服者』(松竹蒲田 1925年12月)
『血刃の情火』(松竹 1926年2月)
『磯の仇浪』(東亞 1925年11月)
『魔保露詩』(阪妻 1925年12月)
『相模屋政五郎』(帝キネ芦屋 1926年2月)
『白川小天狗』(帝キネ 1925年12月)

ご丁寧に対応して下さった国立映画アーカイブ図書室のスタッフの皆様ありがとうございました。

大正14年の日活俳優揃え


大正末期の絵葉書。

関東大震災で東京を離れた日活現代劇が京都で展開を続け、復興後の東京に新メンバーの紹介イベントを行った時の一枚。同行したヘアデザイナーさんが著書で詳しい説明をされています(『髪と女優』 伊奈もと著、1961年、日本週報社)

前列右から岡田嘉子梅村蓉子酒井米子原光代高島愛子
後列右から鈴木伝明沢村春子市川春衛宮部静子水木京子浦辺粂子滝沢静子妹尾松子徳川良子山本嘉一(敬称略)

「大震災で東京向島をあとに京都に移った日活現代劇は、日増しに活気も出、作品も立派なものがどんどん出てくる一方、この一、二年のうちに女優陣の充実も一段と活発になって、当時の他社を完全に圧した感がありました。したがって東京本社宣伝部の力の入れようも物すごく、手をかえ品をかえて撮影所への注文も多くなってまいりました。

大正十四年一月、ちょうどそのころ前後して正式入社したのが岡田嘉子、梅村蓉子、原光代さんで本社はこの時とばかり、その威容を天下に誇るためか、いわゆる「オールスター総動員で上京せよ」となり、当時男優陣でのナンバーワン鈴木伝明さんと老優山本嘉一先生をまじえて計十五人のスターが上京したものでした。

帝国ホテルロビーに勢揃いした当時のスターをご覧下さい。なんと壮観なものではありませんか」

『髪と女優』(伊奈もと著、1961年、日本週報社)

昭和14年(1939年)『リボンを結ぶ夫人』 撮影風景(入江たか子、丸山定男、山本薩夫氏)

プロの写真家さんが撮影した写真をまとめたアルバムで、北海道を舞台にした1939年の映画『リボンを結ぶ夫人』の撮影風景、スタッフのバックヤードショットが一部に含まれています。

映画の途中でヒロインは離縁され実家に戻ります。父親が温かく迎え入れ、家の白樺林を売却して娘のために使おうとするのですが、この場面の白樺林を撮影したのが右の写真。

横長の写真に監督の山本薩夫氏。もう一枚は撮影カメラが回っているところ。左に見えるのはドイツ人建築家マックス・ヒンデル氏が設計した鉄板葺の家屋(現存せず)で、戦前の札幌がモダン化している様子も伝わってきます。

和服姿の入江たか子さん。

父親役を演じた丸山定夫氏。戦中は移動演劇桜隊の中心メンバーとして活動、1945年8月に劇団の拠点がある広島で被爆、終戦の翌日に亡くなられています。

『リボンを結ぶ夫人』に関係する写真は以上の7点。他に別のロケで撮影された山田五十鈴さんの写真も含まれていました。

アルバムそのものを北海道から送ってもらったのですが、撮影者さん自身が道在住の方で、スチル写真の撮影で現場に呼ばれた感じではないかと思われます。漁村風景のような日常のスナップにも魅力があります。

『日本無声映画大全』 (DVD-R、2000年、マツダ映画社監修)

国内最大の無声映画アーカイヴ、マツダ映画社が監修したデジタルデータベース。英語にも対応していて国外を含めた研究施設での使用を前提にしたような感じ。

1)活動大写真館
2)作品データ館
3)無声映画資料館

の3部構成となっており、1)では2分ほどの抜粋動画、2)では作品詳細データ、3)では人物詳細データを閲覧できるようになっています。

インストールしようとしたところOSが対応していない(XPまでしか動かない模様)と発覚、古いPCを借りてきて内容を確認しました。

個人所有している方は少ないと思われますので、この機会に収録動画のリストをアップしておきます(タイトルの表記に揺れがありますが修正はせずそのまま転載)。

1) 剣聖荒木又右衛門 [極東 1935 仁科熊彦]
2) 伊豆の踊子 [松竹蒲田 1933 五所平之助]
3) 韋駄天数右衛門 [宝塚キネマ 1933 後藤岱山]
4) 一寸法師 ちび助物語 [旭物産 1935 瀬尾光世]
5) 海の水はなぜからい [横浜シネマ 1935]
6) 右門捕物帖六番手柄 [東亜 1930 仁科熊彦]
7) 御誂次郎吉格子 [日活太秦 1931 伊藤大輔]
8) 新編 己が罪作兵衛 [松竹蒲田 1930 佐々木恒次郎]
9) 折り鶴お千 [第一映画 1935 溝口健二]
10) 雄呂血 [阪妻プロ 1925 二川文太郎]
11) 木村長門守 [帝キネ 1928 石山稔]
12) 虚栄は地獄 [朝日キネマ 1925 内田吐夢]
13) 沓掛時次郎 [日活太秦 1929 辻吉郎]
14) 鞍馬天狗・第一篇 [嵐寛プロ 1928 山口哲平]
15) 国士無双 [千恵プロ 1932 伊丹万作]
16) 子宝騒動 [松竹蒲田 1935 斎藤寅次郎]
17) 坂本龍馬 [阪妻プロ 1927 枝正義郎]
18) 砂絵呪縛・第二篇 [マキノ御室 1927 金森万象]
19) 争闘阿修羅街 [大都 1938 八代毅/ハヤフサヒデト]
20) 続水戸黄門 [日活太秦 1928 池田富保]
21) 大学は出たけれど [松竹蒲田 1929 小津安二郎]
22) 磯の源太 抱寝の長脇差 [嵐寛プロ 1932 山中貞雄]
23) 瀧の白糸 [入江プロ 1933 溝口健二]
24) 段七千断れ雲 [大都 1938 中島宝三]
25) 忠次旅日記 [日活太秦 1927 伊藤大輔]
26) 忠臣蔵 [マキノ 1928 マキノ省三]
27) 月形半平太 [聯合 1925 衣笠貞之助]
28) 出来心 [松竹蒲田 1933 小津安二郎]
29) 東京行進曲 [日活太秦 1929 溝口健二]
30) 東京の合唱 [松竹蒲田 1931 小津安二郎]
31) 中山七里 [マキノ御室 1930 並木鏡太郎]
32) 野狐三次 [松竹下加茂 1930 小石栄一]
33) のらくろ二等兵 [横浜シネマ 1933 村田安司]
34) 旗本退屈男 [右太プロ 1930 古海卓二]
35) 二人静 [日活向島 1922 大洞元吾]
36) 弁天小僧 [衣笠 1928 衣笠貞之助]
37) ほととぎす [松竹蒲田 1932 池田義臣]
38) 刺青判官 [松竹下賀茂 1933 冬島泰三]
39) 番場の忠太郎 瞼の母 [千恵プロ 1931 稲垣浩]
40) 毬の行方 [サワタ 1930 沢田順介]
41) 三日月次郎吉 [東亜 1930 後藤岱山]
42) 森の鍛冶屋 [松竹蒲田 1929 清水宏]
43) 弥次喜多・岡崎の猫退治 [大都 1937 吉村操/大山デブ子]
44) 弥次喜多・尊王の巻 [日活太奏 1927 池田富保]
45) 浪人街・第二話 [マキノ 1929 マキノ正博]

テオフィル・パテ Jr. Théophile Pathé (1901 – 1968) 仏

パテ社(映画、映写機)、パテ・マルコーニ社(音楽、蓄音機)で使われている「パテ」の名は、創業者であるパテ四兄弟から来ています。末っ子のテオフィル氏は早世されていますが、名を継いだ息子のテオフィルJr.さんは第二次大戦後まで映画業界と接点を持っていました。

息子さんが大戦中に出版した『シネマ』という書籍に残した献辞がこちら。

「アマール夫人へ。著者からのとても楽しかった思い出として」

映画史への洞察では物足りなさが残るものの、同氏がパテ社で担当していたニュース映画とアニメーションについて興味深いエピソードが多く含まれています。

[IMDB]
nm0665574

[出身]
フランス

[コンディション]
B-

[出版社]
Paris: Corréa

[出版年]
1942年

2017年4月30日 伊藤大輔・熱眼熱手 [京都・蓮華寺]

仁和寺の東に位置する蓮華寺。木戸を抜けて墓地に入っていくと南側の一角に大正期から活躍した映画監督、伊藤大輔氏(1898 – 1981)のお墓があります。

五輪塔の墓碑は上から「空」「風」「火」「地」「水」の五大元素を表し、それぞれに「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」の梵語が刻まれています。向かって手前右側に「伊藤家墓所」、左には「熱眼熱手」の碑が配されていました。

伊藤監督は1920年代以降、時代劇の新たな見せ方を次々と編み出していった人物です。銘である「熱眼熱手」も良いですね。「眼」はカメラの眼であり、「手」は刀を握る手であったのでしょう。

2017年4月30日 尾上松之助胸像 [京都・下鴨葵公園]

20170430-尾上松之助胸像01

鴨川の有名な三角州(通称デルタ)は同志社圏と京大圏の境でもあり、休みの日になると学生と家族連れでにぎわっています。

通りを挟んだ北側、糺の森に入っていく手前に尾上松之助の胸像が立っています。地元民は見慣れ過ぎて意識しないくらいかも。

クロード・フランス Claude France (1893 – 1928)

Cloude France 1927 Autographed Postcard

先日1月3日は女優クロード・フランス(1893 – 1928)の命日でした。

1928年初頭、クロード・フランスの訃報に国内は驚きと悲しみで満たされました。死因はガスによる窒息。遺書が残されていたそうです。動機は「絶望」とされ、恋愛関係のもつれが大方の意見でした。ところが死から一ヵ月後、奇妙な噂が流れ始めます。

クロード・フランスは第一次大戦中に看護婦として働いていました。この時に知りあった貴族に見初められ結婚。ドゥ・チリィ夫人となりました。この夫が大戦中にスパイ活動に関わっており、クロード・フランスもまたマタハリの告発に重要な役割を果たしたというものです。

噂は次第に大きくなり、当局による自殺説まで広まっていきます。後に関係者より否定されていますが、突拍子もない噂にしては細部がリアルなのが不気味だったりします。

絵葉書は仏フィルマ社製。亡くなる数か月前と思われる1927年の一枚です。

[IMDB]
nm0289799

[出身]
ドイツ

[誕生日]
3月9日

[時期]
1927年

[メーカー]
Editions Filma

[サイズ]
13.4 × 8.2 cm

[入手]
2017年1月