こちらのサインを収集したチャールズ・トープ氏 (Charles Thorp)について詳しい情報は知られておりません。1910年代末から20年代にかけて英国で舞台照明をされていたようです。当時の大衆芸術の花舞台だったドルーリー・レーン王立劇場やコベント・ガーデン王立歌劇場で勤務を続け、合間に出演アーティストのサインを集めていました。
イギリスには早くからサイン帳文化があり、日記やイラスト帳の機能を併せ持った独自の発展を遂げていきました。
サイン帳は縦10.5㎝×横13.0㎝、80ページに渡っています。表紙に損傷が目立ち、本体も色あせや染みが多くあります。ページ剥落などはなく、百年近い時間の経過を考えるとまずまずの保存状態と言えます。
表紙をめくると見返しにオーナー名の記載があります。青みがかった万年筆で「チャールズ・トープ 照明技師」「TRDL (ドルーリー・レーン王立劇場 Theatre Royal Drury Lane)」「1920」と書かれ、その後ペンを変え年号と「CGOH (コベントガーデン歌劇場 Covent Garden Opera House)」が追加されています。
Anna Pavlova (1881 – 1931)
1920年4月、アンナ・パヴロワはドゥルリー・レーン王立劇場の舞台に立ちます。パヴロワ団にとって初の長期ロンドン公演で、英語圏での知名度を決定づける内容となりました。
アンナ・パヴロワ 1920年6月5日
Anna Pavlova 5/VI 1920
数字の後にスラッシュ(/)を入れ、ローマ数字で月を表記するのはロシア語圏の慣習でした。サインは鉛筆書きで途中で芯が割れて線が二重になっています。
パヴロワ自身は映画女優の活動は行っておりませんが、チャップリン、メアリー・ピックフォードなどと対面を果たしています。
Vera Karalli (1889 – 1972)
ロシア帝政期~ソヴィエト時代に活躍した舞踏家・映画女優で、1910年代半ばのエフゲニー・バウエル作品(『瀕死の白鳥』1917年など)で重用されていました。
私生活ではニコライ二世の従弟ドミトリー大公の愛人。1916年、同大公を中心にラスプーチン暗殺が決行されます。猜疑心の塊となっていたラスプーチンをおびき出すために女性が使われたという噂もありました。関与を疑われ、警察の調査対象となった女性が二人いて、その一人がヴェラだったそうです(『真説ラスプーチン』、エドワード・ラジンスキー著)。真相は現在でも不明。
サインは鉛筆書きで名前のみ。仏文化の影響を強く受けた帝政ロシア期の女性らしくヴェラの「e」にアクセント記号を付しています。
ヒューバート・ストーウィッツ
Hubert Stowitts (1892 – 1953)
サイン帖でひと際目立つのがこちら。後に画家として名をあげるストーウィッツがパフォーマーとしてパヴロワ団に同行していた時期のサイン。未来派の発想を組みこんでいます。
映画出演歴もあり、レックス・イングラム監督作品『魔術師』(1926年)でヒロインの夢に登場する淫魔を演じていました。
ミューリエル・スチュアート
Muriel Stuart (1903 – 1991)
1910年代初め、8才時のオーディションでセンスを認められ13才でパヴロワ・バレエ団に正式加入。その後10年間パヴロワと行動を共にし、多くの優れたパフォーマンスに貢献していきました。1926年、結婚を機に同バレエ団を離れ合衆国へ移住、サンフランシスコでダンススクールを開き以後は教育者として後進の育成に当たりました。
アンドレ・オリヴェロフによると「ミューリエルは観衆がパヴロワだと何度も勘違いしてしまった唯一のバレリーナ」で、「本来はパブロワに与えられるはずの拍手を受けてしまう」こともあったそうです。パブロワを模倣していたせいでもあったのですが、「腕や手の独特の美しい使い方」に独自のセンスを持ちあわせていて、「頭一つ抜けていた」のは事実なようです。
オリヴェロフは両者の確執にも触れていましたが、ミュリエルの才を誰より評価していていたのがパヴロワ自身でした。
台紙に直書きされたサインと、絵葉書に書かれたサインの二種類あります。
ヒルダ・バツォヴァ
Hilda Butsova
イギリス生まれ、本名はヒルダ・ブーツ(Hilda Boots)。
ディアギレフ・バレエ団の一員として踊っていたのをパヴロワに見初められ、1912年にパヴロワ・バレエ団に加入。1925年まで活動を共にし、その後マネージャー(ハリー・ミルズ氏)との結婚を機に脱退。27年に短期間戻っていますがその後はモルドキン一座へ移籍し、1932年に引退しています。
台紙に直書きされたサインと、絵葉書に書かれたサインの二種類あります。
ルーシー・コートニー
Lucy Courtney
1920年頃のパヴロワ・バレエ団の演目にあった『枯葉』(Autumn Leaves)や『ギゼル』(Giselle)に端役として登場。1920年代半ばのプログラムには名前が見当たりませんので短期で離脱したメンバーと思われます。
リンダ・リンドフスカ
Linda Lindowska
本名ウィフレッド・リンダー(Winifred Linder)。15才でパヴロワ・バレエ団に参加、同僚のズワルジンスキー氏と結婚しています。
パヴロワ団ではミュリエル・スチュワートらと並び「パヴロワ・ガールズ」の中心メンバーとして活躍。ニューヨーク・パブリック・ライブラリーが公開している1918年頃のパフォーマンス写真にも姿を見ることができます。またパヴロワ・ガールズとチャップリンの集合写真で右端に立っているのが分かります。
20年代半ばで足首を痛めバレリーナのキャリアを諦め、指導者の立場に回ります。この時期にリンドフスカの師事を受け、後にプロの舞踏家となった一人にジョイ・カムデンがいますが、彼女が後に回想記でその思い出について触れていました(『Survival in the Dance World』 ジョイ・カムデン著)。
リタ・レッジエロワ
Rita Leggierowa
「パヴロワ・ガールズ」の一人。この2年後の日本公演には不参加、早い段階でパブロワ団を離れていたようです。
ところで1900年代の終わりにリタ・レッジエロ(Rita Leggiero)という子役が舞台に登場していました。現存している写真を確かめたところ、年齢も辻褄があっていて面影もあるようです。子役から出発し後にバレリーナの修業を積んだのでは、という気もしています。
エニッド・ブリュノワ
Enid Brunova
1918年の写真に姿を見せている古参メンバー。
パヴロワ没後に発表されたアンドレ・オリヴェロフ(初期主席ダンサー)回想録で「どこか控えめながらとても愛らしい英国少女(a lovely, if somewhat restrained English girl)」と紹介されていました。
ロナ・バートレット
Lona Bartlett
1924年のプログラムでミューリエル・スチュアート、ヒルダ・バツォヴァと並んで名前が掲載されています。しかし翌年のプログラムでは名前が消えていますので、この前後にパヴロワ団を離脱したのかな、と。以後の消息は不明。
アレクサンドル・ヴォリーニン
Alexandre Volinine (1882 – 1955)
ロシア生まれの舞踏家。1901年ボルショイ・バレエに入団。才能を発揮し主席ダンサーとなりました。1912年には人気バレリーナのリディア・キャシュトと共演、1914~1922年にパヴロワ団で活躍しました。1926年に引退、以後は後進育成に当たっていきます。
セオドア・スタイアー
Theodore Stier
アンナ・パヴロワと一緒に日本公演を行っていた音楽監督のセオドア・スタイアー氏は地元のお店に立ち寄ってスリッパを購入しようとした。そのお店には在庫がなく、店長がスリッパを買えそうな場所を教えてあげようとした。言葉の問題でやりとりはうまくいかなかった。そこで店長は自分の店を離れ、スタイアー氏と共に2.5キロを歩いてスリッパの大安売りされているお店に案内してあげたという。
イワン・クリュスティン
Ivan Clustine
ロシア生まれの舞踏家、振付師。1880年代にボリショイ劇場でキャリアを積み、20世紀になってパリ・オペラ座バレエの舞踊監督に着任。同職を退いた後にパヴロワ団に合流しました。
アンナ・パヴロワの評伝『白鳥の湖』(グラディス・マルヴェルン)では「とげとげしい灰色のひげを口回りに生やした偉そうな小太りの男(a fat, pompous man with a bristling mustache)」と形容されています。アンナとは方向性の違いで衝突することも多く「辞めてやる!」が口癖でしたが、毎回同じことを言っているので誰も信じなくなっていたそうです。「イワンお父さん」の愛称からも父親の役割を担っていた様子が伝わってきます。
1920年5月26日の日付あり。
ミェチスワフ・ピアノワスキー
Mieczysław Pianowski (1891 – 1967)
ポーランド出身の舞踏家。パブロワ・バレエ団の第二バレエ・マスターに任命され、20年代を通じてアンナと活動を共にし、1922年の来日公演でも姿を見せていました。サイン日付は6月4日でしょうか。
1937年のポーランド映画『Dyplomatyczna zona』で振付師としてもクレジットされています。