昭和4~5年 (1929-30年) 東亞キネマ サイン帖

東亜キネマは大正の活況から生まれ、当初は日活・松竹の2トップに肉薄する勢いを持っていた会社でした。

しかし内部対立が目立ち、優れた監督や俳優たちの流出が続いて経営が悪化、30年代初頭には活動を停止しています。

今回入手したのは、その東亜キネマの末期にまとめられた一帖のサイン帳です。計31名におよび、同社を代表する男女優(嵐寛寿郎、原駒子、羅門光三郎)から無名の俳優、監督やカメラマンが名を連ねています。現場に自由に出入りできる関係者がサインを所望したのだと思われます。


01-千種百合子

千種百合子

生没年不詳。東亜キネマでデビューした叩き上げで神戸にあった甲陽スタジオの現代劇に出演、20年代後半に同社人気女優の一人となります。

この中で1927年の『黄金の弾丸』という探偵物が現存。神戸をロケ地にしているため地方史的な価値も高く、現在でも時折サイレント映画の企画で上映されています。

また、昭和初期に美容整形術の先駆者として活躍した内田孝蔵氏による『整形のいろいろ』(1930年初版)に登場、「目尻切開と眼下の脂肪除去」を行った患者さんとして「手術前/手術後」の写真が掲載されています。


02-原駒子

原駒子(1910 – 1968)の鏡文字サイン

東亜キネマの初期から同社でトップクラスの人気を誇ったのが原駒子さんでした。この時期の俳優としては唯一人の鏡文字サインの持ち主です。

艶のある表情、動きに露出度の高さ。松竹や日活の女優にないある種の下品さを漂わせ、B級の毒っ気が人気につながっていました。

「東亞の方を見ると、何と云ってもそのミチの大家は原駒子で、彼女の荒行は映画界の名物の一ツ。その愛欲行脚は各雑誌各紙に競争の様に発表されたから今更此処に描かなくともご承知であろう」(『デカメロン』)


03_04-椿三四郎_山田直

椿三四郎 & 山田直

「器用さはないが、地味で控え目な役者と評されている」

国活~東亜~宝塚キネマ~日活を渡り歩き、折に触れ主役級の活躍を見せていた椿三四郎氏と、東亜の後期作品で主役を張った山田直氏の連名サイン。

山田直氏は東亜キネマ消滅と同時期に役者業から離れていますが、戦後になってから同社で縁のあったハヤブサ・ヒデト主演の名作『快傑ハヤブサ』(1949年)脚本としてクレジットされています。


05-石川秀道

石川秀道(1902 – ?)

1920年代半ばに東亜の現代劇で頭角を現してきた男優さん。

東亜が閉鎖された後も日活の時代劇を中心に活動を続け、出演作にはマキノ監督による名オペレッタ『鴛鴦歌合戦』(1939年)が含まれています。

松助:お嬢さん、実はあなたがわが君の目にとまり…
おとみ:まあ、殿様が私を。それで奥方に?
松助:まあ奥方と申すわけにはいきませんが…お側勤めでも申しましょうか。
おとみ:まあ失礼な。お妾なんて。私は日本橋の香川屋の娘ですよ。峯澤丹波守なんて聞いたこともないわ。おおかたインチキ大名なんでしょう。さっさとお帰り!

ディック・ミネ演じるバカ殿が町娘(服部富子)に一目惚れ、殿の命令伝言を届け、あえなく撃退される家臣・松田松助を演じていたのが石川秀道さんでした。この後も『鞍馬天狗 黄金地獄』(1942年、伊藤大輔)など脇役として時代劇を支えていきました。


06_07-久世小夜子_倉島八千代

久世小夜子 & 倉島八千代

『楽園に泣く女』でカフェのマダム、『カポネ再現』でルンペン女、『跳躍天国』で下宿のおばさんを演じるなど、一癖ある役を得意とするユニークな女優だった。

久世小夜子さんは劇団座長である松尾二郎の子として生まれ、子役経験を積んだのち、19才で映画界に転身。帝キネの『一躍大家』でヒロイン役を務めるなど順調にキャリアを積んでいき、松竹~東亜~東活へと映画会社を転々としていきます。

東亜キネマには1930年半ばから参加しており、このサインは同社に合流して間もない時期のものと推察されます。

並んでサインのある倉島八千代さんについて詳しい経歴は分かりませんでしたが、1931年に公開された東亜作品『家庭難船誌』で小間使い役としてクレジットされています(「捨子する女」の役で久世小夜子さんも出演)。


08-歌川絹枝

歌川絹枝 (1913 – ?) & 冨士幸子(生没年不詳)

1920年代末に松竹蒲田から東亜に転籍し、芸名を「歌川絹枝」に変えて現代劇・時代劇どちらもこなす柔軟性を見せ、原駒子・木下双葉に次ぐ東亜女優の3番手につけます。トーキーにも対応し、寛プロ、尾上菊太郎プロや右太プロで活躍を見せました。

並んでサインのある冨士幸子さんはほとんど無名と言ってよく、東亜キネマの一作(『道行 恋のお多福』)出演が確認されるのみ。

連名サインで向きが違うのは食堂で席についている二人にサインをもらった際の名残ではないか、と。


10-不明

不明

こちらは筆跡に癖がありすぎて判読できていない一つ。どちらが上なのか、どこからどこまでが名前なのかも分からない状態。2文字目は「島」の草書体に見えますが…


11-12_山中真男-田垣輝太郎

山中真男 & 田垣輝太郎

こちらは1920年代末~30年頃に東亜キネマで撮影監督を務めていた山中真男氏と、同時期に時代劇で脇役として名を連ねていた田垣輝太郎さんの連名になります。二人が同一の作品に携わったのは1931年1月公開の『南国太平記 双竜篇』(羅門光三郎主演)一作のようです。


13_嵐橘右衛門

嵐橘右ヱ門(橘右衛門)

名字を外して「橘右ヱ門」とだけ書いたのではと推定されるサインです。

1920年頃から帝キネ製作の時代劇に出演を始め、町人・武家どちらもこなせる年配の俳優として重宝されていきます。1928年、嵐寛寿郎が『鞍馬天狗』シリーズを開始した際は天狗を助ける「黒姫の吉兵衛」役を務め、以後も『右門捕物帖』などの嵐寛作品を中心に脇役として活躍していきました。


14-15_嵐寛寿郎_正邦乙彦

嵐寛寿郎(1903 – 1980) & 正邦乙彦(1910 – 不明)

嵐寛寿郎にとっては自身のプロダクションを畳んで(1929年初頭)大手プロダクションに所属し直し態勢を立て直していた時期に当たり、この東亜キネマ時代の『右門捕物帖』(29年末)が鞍馬天狗に続く第2の当たり役となってアラカンブームを確実なものとしていきます。

連名でサインのあるのは正邦乙彦氏。沢村四紀松~小明肇~久松三郎の名で子役として活動、1930年頃から主演がつくようになります。東亜キネマ消滅の後はエノケン一座を経て大都映画に登場。戦後は浅草で日本初のストリップショー興行を行い、ジプシー・ローズを発見するなど「ストリップの父」と呼ばれた人物だそうです。


16_青木繁

青木繁

東亜キネマの現代劇、特に恋愛物に多く出演していた俳優・青木繁さんの手によるサイン。現存作品が確認できていませんが、『恋風襲来』『恋愛戦線異常なし』『近代奥様哲学』『家庭難船誌』など作品タイトルからでも軽めの喜劇を得意としていた様子は伝わってきます。


17_米澤正夫

米澤正夫(米沢正夫)

東亜キネマで監督としてデビューし主に現代劇を中心に活動。東亜閉鎖後は宝塚キネマに移り、淡谷のり子/長谷川一郎の主題歌で有名になった『アリランの唄』(1932年)監督を務めます。

その後極東映画に籍を移してB級時代劇を多く監督、この中にはSF仕立ての設定(時代劇になぜかロボットが登場)でカルト化した『無敵三剣士』(1938年)も含まれています。


18_羅門光三郎

羅門光三郎(1901 – 1976)

東亜キネマを代表する時代劇俳優。すでにサイン入り絵葉書を一枚登録済み。


19_大井正夫

大井正夫 (1903 – )

今回のサイン帖では数少ない日付入り(1930年11月28日)の一枚。

1920年代半ばに東亜キネマで俳優デビュー、端正でモダンな青年役を得意とし、東亜消滅後も新興キネマに移って1940年代半ばまで男優業を続けていました。キャリア後期の作品は幾つか現存しており(『かくて神風は吹く』『土俵祭』)VHSで見ることができるようです。


20_青柳竜太郎

青柳竜太郎/阪東勝太郎 (1905 – ?)

後に阪東勝太郎と改名し日活~東映の時代劇で活躍された男優さん。山中貞雄監督の名作『丹下左膳余話 百万両の壺』にも柳生対馬守役で登場しておられました。


21_里見明

里見明 (1901 – 1972)

ユーモラスなイラストを残しているのは、東亜キネマの現代劇部門で一番人気の青年俳優だった里見明さん。

1923年、若くして澤蘭子と共演した小唄映画『篭の鳥』が爆発的なヒットとなり帝キネのトップ男優となります。1929年に東亜に入社してもシリアスな現代劇と軽喜劇とを演じ分けていきました。その後東活から右太プロへと流れていき、1934年の結婚を機に俳優業から足を洗っています。


22-23_若月照夫-河崎喜久三

若月照夫 & 河崎喜久三

若月照夫(輝夫/ 輝男)氏は東亜の末期に映画デビューした一人で、脇役としての活動が主ながら1930年代後半以降、戦後にかけても東宝に所属し多くの作品に出演を続けました。

河崎喜久三氏は200作近い映画作品で撮影監督を担当された名カメラマンです。マキノ撮影所の出身で、戦後は新東宝を拠点に『歌うエノケン捕物帳』(1948年)や『関八州勢揃い』(1954年)などの作品を担当されております。


24-25_國島昇-岩崎繁

国島荘一 (國島莊一/國島昇) & 岩崎繁

一つ目は1920年代半ばの松竹蒲田で二枚目役を多く演じていた国島荘一氏。旧名義の國島昇名義でサインをしています。

添えられているのは東亜キネマで撮影監督として働いていた岩崎繁氏。主に時代劇(『竜虎八天狗』『建国黒頭巾』『薩南大評定』)を担当し、東亜が傾くと東活~宝塚キネマに転籍していきました。


26-27-28_柾木四平-上村貞夫-頭山陽一

柾木四平 & 上村貞夫 & 頭山桂之介

柾木四平氏は東亜キネマに所属していたカメラマンで、主に現代劇を担当、東亜の後は東活~宝塚~マキノトーキーと籍を移していき、1930年代後半にはマキノ正博監督作品で撮影監督を務めています。

上村貞夫氏も同じく撮影畑のスタッフ。神戸スタジオ時代からカメラマンとして現代劇を担当、東活の後は米澤正夫氏らと共に極東映画に参加しています。同社が制作した戦前SF邦画のカルト作品『無敵三剣士』(1938年)の撮影監督が同氏だそうです。

頭山桂之介氏は嵐寛主演の『右門捕物帖』でアラカンの補佐役となる「おしゃべり伝六」を演じた役者さん。三枚目役ながら物語の説明や展開に重要な役どころを果たしていました。


29_竹内俊一

竹内俊一

米澤正夫氏と並び、東亜キネマ所属の監督さんでサインが残されていたのがこの竹内俊一氏。

東亜の初期から神戸で現代劇を担当、甲陽スタジオが閉鎖されると京都スタジオに映り、当時の人気子役だった小川國松を主役に配した『夜鴉』(1928年)で話題を呼びます。その後は時代劇担当に転じ、雲井竜之助主演の作品を多く撮るようになっていきました。


30_尾上紋弥

尾上紋弥

嵐寛の右門捕物帖で、アラカンたちに嫌がらせを加える悪徳役人(あばたの敬四郎)役を演じていた役者さん。芸歴は長く1923年からの出演歴があり、東亜を離れた後も嵐寛寿郎プロで堅実なキャリアを積み重ねていきました。怪老人の役を多くこなすなど見た目に異形感がありますが、達磨の墨絵、左上に「不倒」の文字。禅の教養を備えていた奥深い趣味人だったようです。


31_木下双葉

木下双葉 (1910 – 1938)

サイン帖の一番最後のページに残されたもので、1931年元旦と思われる日付が残されています。

木下双葉さんは東亜キネマの後期、同社の大型時代劇『美男葛』でデビューを果たした女優さんです。2作目は『右門捕物帖』の第1話と着実にキャリアアップ。凛とした和装が良く似合っており、東亜ですぐに原駒子に次ぐ人気女優となりました。

若手人気男優の阿部九洲男と結婚、大都映画に夫婦で合流し多くの作品で共演を果たしていきますが、1938年に撮影中に倒れそのまま若くして亡くなっています。

戦後まで生きていれば別なキャリアも開け、映画史に名を残したのではないかと思われる女優さんです。