1913年 書籍版初刊 『ジゴマ 第3巻』(レオン・サジイ著)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1913年 『ジゴマ 第3巻』レオン・サジイ著 表紙
1913 Zigomar (fascicule no.3, Léon Sazie, Ed. Ferenczi)

レオン・サジイによる『ジゴマ』は大衆文学の一ジャンルである新聞連載小説として生み出されてきたものです。ル・マタン紙で1909年12月に連載が始まり(最初期と途中の一部は新聞付録の形で別刷り)、1912年9月の終了まで2年9カ月に渡って連載されていました。

1909年12月7日 – 1910年5月22日 :『ジゴマ(Zigomar)』164回掲載
   第一の書「目に見えぬあるじ(Le Maître invisible)」12月-1月(計37節)
   第二の書「獅子と虎(Les Lion et Les tigres)」2月-3月(計34節)
   第三の書「正義の時(L’Heure du justice)」3月-5月(計32節)
1910年7月12日 – 1910年11月15日:『ジゴマ/赤毛女(La Femme rousse)』
   第一の書「焼き印のある腕(Le Bras marqué)」7月-9月
   第二の書「あの世にて(Dans l’au-delà)」9月-10月(計34節)
   第三の書「マイ・ダーリン(My darling)」10月-11月(計26節)
1912年5月10日 – 9月14日:『ジゴマ/探偵の勝利(Le Peau-d’anguille)』
   第一の書「想定外の男(Un Homme inattendu)」5月- 6月(計63節)
   第二の書「最大限で!(Au plus fort!)」6月-9月(計72節)

sazie_zigomar-1913-28-fascicules
『ジゴマ(Zigomar)』フェレンツィ社版全28冊

書籍版は1913年にフェレンツィ社から出されています。同社は『ジゴマ』を28冊に分け(一冊一冊は薄いものです)、毎週水曜日に一冊出版していく方法をとりました。定価は20サンチーム。表紙イラストはジョルジュ・ヴァレ。同社は1922年に『ジゴマ』『ジゴマ/赤毛女』『ジゴマ/探偵の勝利』それぞれのソフトカバー版単行本を発売、こちらは一部内容が削られているそうです。

ジゴマ連作はこれで完結した訳ではなく、1916年の続編『独逸に与したジゴマ(Zigomar au service de l’Allemagne)』、1922年最終編『ジゴマ対ジゴマ(Zigomar contre Zigomar)』へと続いていきます。

今回入手したのは1913年に発売されたフェレンツィ版で、28分冊の第3冊目。第一の書「目に見えぬあるじ」の第23節から29節までを収録。ページ数は128頁。物語が始まったばかりで主人公の探偵たちも兇党ジゴマが実在するのかどうか分からず謎の敵を相手に手探りの捜査をすすめています。

久生十蘭氏による邦訳は小説版の『ジゴマ(Zigomar)』(「正義の時」まで)を元にしたもので、1922年のソフトカバー版を底本にしたと思われます。一部原文と照らし合わせてみたのですが、日本語に寄せつつも原作の雰囲気が結構残っていました。

大正11年(1920年) – フェアバンクスとの新婚旅行道中の蒸気船から送られたメアリー・ピックフィードの電報

1920年 メアリー・ピックフォードの電報
1920 Telegraph Sent by Mary Pickford on Her Honeymoon Voyage to Europe

複写式のカーボン紙に記録された電報を台紙に貼ったもの。サイズは縦12.5×横19cm。

送信者名と住所は「メアリー・ピックフォード/ラップランド号」。文面は:

「数百万の英国フアンの皆様に、デイリー・グラフィック紙経由でよろしくとお伝え願えますか」

Will you send greetings to millions of admirers in England through medium Daily Graphic

640px-Douglas_Fairbanks_and_Mary_Pickford_02
ラップランド号で新婚旅行中のピックフォード&フェバンクス(Wikiwandより)

1920年6月12日、ハリウッド女優メアリー・ピックフォードは蒸気船ラップランド号に乗船しフェアバンクスとの新婚旅行に出発しました。同月19日にロンドンに到着し波止場に待ち構えた多くのフアンから熱狂的な歓迎を受けます。イギリスから旧大陸へと移動、パリやモスクワでも数十万の人々が新郎新婦を一目見ようと集まってきました。

ニューヨークからロンドンへの船旅の途中、英国メディアに向けて発信した電報の実物が残っていました。

文章は「皆様によろしく」程度の内容です。ただ「medium Daily Graphic」の言い回しが曲者で、「medium」(「メディア」の単数形)は現在の「情報メディア」と、(たとえば恐山のイタコのような)「霊媒師」を重ねあわせたダブル・ミーニングになっています。「情報メディアのデイリー・グラフィック紙さんからよろしく」という通常の意味の他に「霊媒師となって私の気持ちを伝えて」のニュアンスが含まれてくる感じです。短いながらちょっと気の利いた言い回しが光ります。

二人にとって新婚旅行は単なるプライベートな旅行ではなく国外マーケットを開拓するチャンスでもありました。自身の影響力を当然自覚していたはずで道中でもプロモーションは怠らなかった訳です。

ちょうど百年前の映画界を彩った記録がこんな形で残っているなんて感慨深いです。

9.5mm 個人撮影動画 1930年代初頭 – 台灣/台湾の伝統的な結婚式 (大阪在住・川口光羊氏撮影)

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

c1930-film-damateur-possibly-in-taiwan-00

先日スキャンしていた戦前個人撮影動画で興味深いフィルムを見つけました。手振れが多く解像度も高くありませんが、珍しい画像が含まれているためこちらで紹介させていただきます。撮影者は大阪在住の川口光羊氏。伴野製の20メートルケースに収められていますが実際の長さは10メートル。総コマ数が約1100で13コマ毎秒で再生すると1分半になりました。

sample00sample02

フィルムは冒頭で大通りの人々を捉えていきます。やや袖口の開いた七分丈の上着や靴のデザインが日本とは違っています。

sample03asample03b

大通りでのパレード。看板には「連興商店」「大福商店」の文字。提灯や幟のようなものを担いだ人々。傘をかぶった男性が腰の高さで御輿を運んでいます。

sample04

目の前を横切っていく幟。動きが早く文字までは判読できませんでした。平仮名を使わず漢字だけが並んでいるように見えます。

sample05asample06a

幟の先端に何かの飾り。獣の面をかぶった人々がその後を練り歩いていきます。

sample09asample08

見物人たち。奥と手前に車が停まっています。

sample11sample09

通りに出ている看板には「味の素」「アスター」「森永の菓子」など日本語が見て取れます。

sample-comparing01sample-comparing02

YouTubeには「百年前の台湾人の結婚式を撮影した貴重な映像記録片(百年前台灣人結婚珍貴紀錄片)」という動画があり、子供が幟をもって歩く後に二輪の貴賓車が続き、その後新婦を乗せた御輿が進んでいく様子が記録されています。

婚礼の際に新婦を運ぶ御輿は「大花轎(大花轿)」と呼ばれていたそうです。中国伝統文化紹介のオンライン記事(「中国传统代表文化——大花轿」)によると、

抬花轿者一般为4人,也有8人的,轿前轿后各半,并配有对彩旗、对唢呐、对铜锣、对高灯等随轿而行。

「彩旗」「唢呐(チャルメラ)」「铜锣(銅鑼)」「高灯」を掲げた人が行列の先を切って進み、4人で「花轎」を運んでいくのが一般的だったとされています。

元々のフィルムには撮影場所の情報がありません。1930年前後、漢字文化圏かつ中華文化圏、なおかつ日本語の看板が通りに並んでいるため日帝時代の台湾で撮影された可能性が高いと思われます。

1913 – 16mm グヴェンドリン・ペイツ主演 米パテ社作品『凍てついた道の果てに(The Frozen Trail)』

Gwendoline Pates from 1913 Motion Picture Story Magazine January Issue
グヴェンドリン・ペイツ
『モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン』1913年1月号グラビアより

或る町にうら若き乙女マドレーヌ(グヴェンドリン・ペイツ)が住んでいた。この娘に想いを寄せる男が二人、ジョンとチャーリーの兄弟であつた。チャーリーは性格に難があり、かつとなると何をしでかすか分からない男であつた。マドレーヌが心を決めた相手はジョンであつたが、さうと知つたチャーリーは血相を変えて娘を責め始めた。やつてきたジョンと取っ組みあいの喧嘩が始まる。「二人でこの街を離れよう」、ジョンの言葉に娘はうなずいた。マドレーヌは荷物をまとめジョンとともに町を離れるのであつた。

五年後、アラスカの自然に取り囲まれながら、小さな丸太小屋で娘と暮らしている夫婦の姿があつた。貧しくはあつたが幸せであつた。或る日、二人の住み家から少し離れた酒場に無精ひげの男がふらり姿を現した。五年の間マドレーヌたちを探し続けたチャーリーであつた。酒場で得た情報を元に夫婦の家に向ったが、あいにくに天候に阻まれ遭難、ちょうどそこを通りかかったジョンに助けられた。

ジョンは仇敵の兄を助けたとは露知らず、男を小屋に連れて帰った。マドレーヌの懸命な介護のおかげでチャーリーは一命をとりとめる。しかし悪漢の心に感謝の気持ちはなかつた。夫婦が出かけた隙に犬ぞりを用意し、戻ってきたマドレーヌを拉致しようと試みる。驚いて自室に逃げこんだ女。男はマドレーヌの娘を人質にとり、自らの素性を明かして女に出てくるよう促した。子供の命には代えられず、マドレーヌは部屋の鍵を開けた。チャーリーは女を抱え上げると犬ぞりに放りこんで一路町を離れた。

自宅に戻ってきたジョンの気がついた異変。妻が見知らぬ男と駆け落ちしたと勘違いしてしまう。猟銃を手に追いかけていく。幸いにも愛娘を取り返すことはできたが、後の二人は手の届かない先へと消えてしまっていた。

ところがである。しばらくして丸太小屋の外で物音がした。扉を開けると妻が倒れていた。「何をしに戻ってきた」、ジョンの言葉は冷たかった。「雪に埋もれて死んでいるのはあなたのお兄樣ですのよ」。マドレーヌの蒼白な唇から放たれたのは驚くべき言葉であった。「あの方は私が貴方を愛しているのを逆恨みしてやってきたのでございます。たつた今…撃ち殺して参りました」。女は証拠として一枚の写真を取り出した。それはかつて、幼き頃のマドレーヌがジョン宛に送った自身の写真であつた。真実を知つたジョンは妻と娘をかたく抱きしめるのであつた。

◇◇◇

パテ社監督のレオ・ウォートンはサラナックレイクへのロケを目論んでいる。大規模なスタッフを同行予定で、チャールズ・アーリングとグヴェンドリン・ペイツが含まれている。雪景色を添えた大掛かりな長編映画が出来上がる予定である。(モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン1913年3月号)

Leo Wharton, Pathé director, contemplates a trip to Saranac Lake Region. Wharton will take with him a large company, including Charles Arling and Gwendoline Pates, and will produce some large feature pictures with winter backgrounds. (The Motion Picture Story Magazine, 1913 March Issue)

1913年米パテ社公開の短編映画。この前後のハリウッドは新興映画社(ヴァイタグラフ、ビオグラフ、エッセネイ、クリスタル、タンホイザー、パテ・フレール、カレムなど)による群雄割拠の時代となっていました。各社が発掘してきた俳優たち(アリス・ジョイス、ノーマ・タルマッジ、フローレンス・ラバディ、ブランシュ・スウィート、リリアン・ギッシュ、ルース・ローランド、パール・ホワイト)も粒ぞろいで、1910年代を通じて活躍していく重要な才能がそろい踏みしています。

米パテ社が1911年に契約したグヴェンドリン・ペイツもまたそんな新進女優の一人でした。幼いころからボードヴィルで鍛えられていたため舞台慣れしていてすぐに同社花形に出世していきます。しばらくは自身と同じ「グヴェンドリン」をヒロイン名とした軽喜劇に主演、知名度が上がるにつれて本格的なドラマにも進出。雪景色のアラスカ(撮影は近場のサラナックレイク)を舞台とした2リール物の情念ドラマ『凍てついた道の果てに』主演を果たしています。

movingpicturewor23newy_0402

監督はレオポルド・ウォートン。10代初めから自身ステージに登場しローラースケートの軽業を披露していました。俳優として米パテ社に合流後ほどなくして監督業に携わるようになり、グヴェンドリン・ペイツとチャールズ・アーリングを主演とした軽喜劇でヒットを飛ばすようになります。1914年にパテ社から独立。弟のテオドアと共にウォートン映画社を設立、同社作品をパテ社経由で配給していくようになりました。実力を買われ1914年にはルイ・ガスニエと共にパール・ホワイト主演の『拳骨』監督に抜擢、この作品の成功で連続活劇の道が開け、以後『ミラの秘密』(1916年)、『パトリア』(1917年)、『ベアトリクス・フェアファックス』(1920年)などの名作を製作・監督していきました。

『凍てついた道の果てに』はウォートンが1)俳優、2)短編喜劇監督、3)短編ドラマ監督、4)連続活劇監督とステップアップしていく3)に位置しています。『拳骨』で名を上げる監督がその一年前にどのような作品を撮っていたのか見えるという話であり、ハリウッド活劇発展史の一断片としても興味深いものです。

一方のグヴェンドリン・ペイツは1914年にはパテ社を離れ夫と共に自身の会社(グリュー・ペイツ・プレイヤーズ)を設立、舞台に専念していきます。元々運動能力が高かったようで、1914年秋にはパテ社の許可を得た『ポーリーンの危難』舞台版の主演も勤めていました。この後映画史から忘れられてしまうのですが、短期間ではありながらもウォートン作品のメイン女優として活躍した功績は強調されても良さそうです。

1913-the-frozen-trail-featuring-gwendoline-pates-01

1921年頃 – 帝劇女優 第一期生(森律子・初瀬浪子・藤間房子) 扇面直筆画3点

c-1921-fan-leaf-paintings-by-teigeki-actresses (1)
c1921 – Japanese Fan Leaf Paintings, by Imperial Theatre’s In-house Actresses [Mori Ritsuko, Hatsuse Namiko and Fujima Fusako]

理髮店の二階にあった教室はやがて飯倉一丁目に移転したが、明治四十一年九月の開所式に勢ぞろいした十三人のうち、四人が中途退学、すこし遅れて入学した村田嘉久子、藤間房子を加えた十一人が、二年のちの九月に、第一期生として卒業証書を受け[た]。

『物語近代日本女優史』 戶板康二 (中央公論社、 1980)

明治期の末、川上貞奴の設立した帝国女優養成所が帝劇に買収され「帝国劇場付属技芸学校」となりました。演技や音楽を2年学んだ11名が明治43年(1910年)に卒業。この第一期生たちは翌年に開場された帝劇を拠点に活動を続けていきました。

この帝劇女優一期生の3名(森律子、初瀬浪子、藤間房子)が扇面に残した直筆画を手に入れることができました。それぞれ幅が55センチ弱の大きな扇面で、裏面には糊で留めてあった跡が残されています。

森律子 (1890 – 1961) 俳号:小影

1913-kagami-no-tomo-mori-ritusko-1
森律子 1913年『鏡の友』口絵写真

女優劇の台本の多くは帝劇重役の益田太郎が太郎冠者の筆名で書き下ろした喜劇で、パリ仕込みの歌入り軽喜劇をもとにしていた。森の持つお茶目な愛らしさ、達者な台詞まわしなどが活かされ、数多く主演している。益田の庇護もあって、古典物でも花形女形だけが演じた役が与えられ、名実ともに「ミス帝劇」となっていった。

時代を拓いた女たち: かながわの131人(江刺昭子、神奈川新聞社、2005年)

初瀬浪子 (1888? – 没年不詳)
[JMDb]

1917-giou-gijo-hatsuse-namiko-1
初瀬浪子 1917年山崎紫紅『祇王祇女』口絵写真(祇女役)
hatsuse-namiko-in-a-womans-sorrows
『女人哀愁』(成瀬巳喜男、1937年)で入江たか子の母親役

二十一年生まれの初瀬浪子(本名岩尾日出子)は、大倉組の支店長の娘で、山脇女学校を出ている。帝劇開場後は、妖髄なタイプの女優として、人気があり、恋文が多く来るので、ふみ子と緯名された。

『婦人公論』 第 63 巻、第 7~8 号(中央公論社、1978年)

藤間房子 (1882 – 1954)
[JMDb][IMDb]

1917-giou-gijo-fujita-fusako-1
藤間房子 1917年山崎紫紅『祇王祇女』口絵写真(祇女の母役)
fujima-fusako-in-magokoro
『まごころ』(成瀬巳喜男、1939年)で入江たか子の母親役

久松小學校出身。後、上野の音樂學校へ入つた。初めはひさごとなのつて市川宗家の門下であつた。舞台も歌舞伎座で勤めた。明治四十二年の春である。一度廃業して、劇界を去つたが帝劇の女優學校開かれるや、直ちに入學、四十四年の同舞台開きには第一期卒業生として出勤、大切の「羽衣」で迎ひの天女に扮した。藤間房子と改名したのも同時であつた。

『現代俳優名鑑』 揚幕社編(八宏社、 1923)

森律子さんは映画の出演記録はないようです。初瀬浪子さんは30年代の成瀬作品『女人哀愁』に出演、入江たか子さんの母親役を演じています。藤間房子さんは1930年代以降老け役として東宝映画に多く出演、やはり成瀬作品の『まごころ』で入江たか子さんの母親を演じていました。

ハリウッドでは20~30年代の母親役・老け役がかつての花形女優だった例(ローズマリー・セビーエセル・クレイトンナオミ・チルダースなど)が見られます。初期映画への功労を念頭に置いて、ルイス・B・メイヤーがナオミ・チルダースを脇役で使い続けた話を聞いたこともあります。日本でもこういったパターンがあるのだなと勉強になりました。

1920 – 春江堂書店・大活劇文庫『曲馬団の秘密』(The Iron Test、ヴァイタグラフ社)篠田緑水訳

大活劇文庫『曲馬団の秘密』篠田緑水訳
The Iron Test [1918 Vitagraph]
1920 Japanese Novelization by Shunko-Do

1918年に公開された15章物の連続活劇『曲馬団の秘密』をベースにした日本語小説版。モノクロのデジタル版を国立国会図書館のアーカイヴで読むことができます。

パール・ホワイトの中期作品『呪の家(The House of Hate)』で活劇スターの地位を確立したアントニオ・モレノを主演とした作品で、西海岸で活躍するサーカス団の花形エディス(キャロル・ホロウェイ)が危機に巻きこまれモレノ演じる若手芸人が助けていく展開となっています。

1910年代中盤の連続活劇ではウィリアム・ダンカンやエディー・ポロらの男優が日本でも人気を博していました。10年代後半あたりから甘いルックスの若手俳優(ラルフ・ケラード他)が目立つようになってきます。モレノはそういった時流に乗って活劇界のマチネー・アイドル的なポジションに付けていきます。

モレノはこの後『見えざる手』(1919年)と『隠された謎』(1920年)でポーリン・カーリーと共演。サイレント連続活劇の最盛期を飾っていきました。

『呪の家』(1918年)でアントニオ・モレノはパール・ホワイトの相手役となった。ホワイトは『ポーリーンの危難』と『拳骨で世界的な成功を収めたばかりであった。新作は20章仕立てとなっていて、モレノは軍需産業の王と呼ばれる男の愛娘と恋に落ちる若手科学者を演じている。「恐怖頭巾団」の魔の手を逃れるこのカップルの行く末が毎週のエピソードで追われていた。

続いてモレノは『曲馬団の秘密』に出演、獰猛な「赤いマスク」団に追われる軽業師役であった。

1920年、ヴァイタグラフ社社長のアルバート・スミスはさらに危険度の高い15章物活劇の主演にモレノを配した。『見えざる手』である。同じく15章仕立ての『隠された謎』がすぐに続いた。

フォトプレイ誌の編集者ジェームズ・R・クヮーク氏は1920年の映画評でモレノの「観衆を惹きつける驚くべき力」に触れ、彼こそが「連続活劇の王である」と断言した。ロマンチックなアイドルと剛勇ぶりを両立させた点で他の男優に優っている、というのであった。

『花形男優事始め』(D・W・メネフィー、2007年)

The House of Hate (1918) paired Antonio [Moreno] with Pearl White, fresh from her tremendous, worldwide success in the serilas The Perils of Pauline, The Exploits of Elaine, and The Romance of Elaine. This new, twenty-chapter serial cast Antonio as a young scientist in love with the daughter of a munitions king. Each weekly episode followed the young lovers as they escaped the perils of « The Hooded Terror ».

Antonio went into immediately to work in fifteen episodes of yet another serial, The Iron Test (1918) , as a circus acrobat hounded by menacing « Red Mask. »

[…] In 1920, Albert Smith put Antonio through fifteen weekly episodes of more danger in the serial, The Invisible Hand. This was immediately followed by another fifteen-episode serial, The Veiled Mystery.

James R. Quirk, editor of Photoplay magazine, in his 1920 review, noted Antonio’s tremendous drawing power, declaring him « the king of serial actors, » superior to others because of his onscreen prowess as a romantic idol.

(The First Male Stars: Men of the Silent Era,
David W. Menefee, BearManor Media, 2007)

The Iron Test in 1918 Exhibitors Herald Sep-Dec Issue
『曲馬団の秘密』
エキシビターズ・ヘラルド紙1918年9-12月号

[タイトル]
曲馬団の秘密

[出版年]
1920年

[発行者]
高橋友太郎

[発行所]
春江堂書店

[叢書]
大活劇文庫

[ページ数]
260頁

[サイズ]
四六判 18.6×12.5 cm

[原題]
The Iron Test (1919)

[製作]
米ヴァイタグラフ社

[Movie Walker]

[IMDb]
The Iron Test

[公開年]
1918年

マートル・ステッドマン Myrtle Stedman (1885 – 1938) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo
Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo

マートル・ステッドマン夫人は1888年にイリノイ州シカゴに生まれ、スターレツト夫人経営による同地の学校で教育を受けた。舞臺での長い活動歴を有した実力派の女優である。1912年に銀幕デビューする以前、劇場で音楽喜劇や軽いオペラ作品に出演して大きな成功を収めている。映画女優の始まりはかつてのゼリグ映画社で、以来一流プロデューサーによる製作会社のほぼ全てで何がしかの出演を果たしてきた。尊厳や忍耐力、温かみあるユーモアの感覚や芸術力が必要とされる大人の女性役でその力が発揮されており、あちこちのプロデューサーから引っぱりだこになつている。息子のリンカーン・ステッドマンは将来を嘱望されている若手男優である。趣味はハリウッドに構えた大邸宅のお手入れ。身長5尺6寸、体重は16貫900匁、金髪に淡い褐色の瞳を持つ。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

Myrtle Stedman from Famous Film Folk (1925)

MYRTLE STEDMAN was born in Chicago, Ill., in 1888, and received her education in Mrs. Starret’s School of that city. She has had a wide theatrical career, and is an accomplished actress. She has had a successful stage career, having appeared in musical comedy and light opera, prior to her screen debut which was made in 1912. Her screen debut was made with the old Selig Company, and she has since appeared in the productions of almost every first class producer, her ability to portray roles of matured womanhood, wherein proper dignity, bearing, humor and art are so necessary, making her services by all producers always in demand. Mrs. Stedman is the mother of Lincoln Stedman, himself a promising young actor. Her hobby is naturally the care of her pretty Hollywood bungalow. She is 5 feet 7 inches in height, weighs 140 lbs., and has blond hair and hazel eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

1910年代初頭、ゼリグ社のウィリアム・ダンカン主演西部劇でヒロイン役に重用されその後ボスワース映画社の人情劇や活劇へ活動範囲を広げていきます。彼女の名前を映画史に刻むことになったのは、ハリウッド女性監督のパイオニアであるロイス・ウェバーの『偽善者』(1915年、ボスワース社)のヒロイン役でした。社会派の傾向を持つウェバーの作風は当時のハリウッドで異彩を放っており、挑発的で鋭利な美的感覚は今見ても新鮮さを失ってはいません。

myrtle-stedman-in-hypocrites-1915 (1)

myrtle-stedman-in-hypocrites-1915 (2)
1915年『偽善者(Hypocrites)』より

ステッドマンは20年代になってもフレッド・ニブロ監督の『性』(1920年)、早川雪洲主演の『黒薔薇』(1921年)などで存在感を発揮。20年代中盤から助演が増えますが、母親役から老け役までこなしトーキーにも対応、30年代末に心臓発作で亡くなるまで四半世紀に渡る女優人生を全うしています。20年代初頭の出演作『断腸の笛』をYouTubeで見ることができます。

Myrtle Stedman in The Whistle (1921)
1921年ウィリアム・S・ハート主演作
『断腸の笛(The Wilstle)』より

[IMDb]
Myrtle Stedman

[Movie Walker]
マートル・ステッドマン

[出身地]
合衆国(イリノイ州シカゴ)

[誕生日]
3月3日

[データ]
22.7 × 17.8 cm. 写真面に「エリザベス(Elizabeth)」の宛名書きあり。裏面に旧所有者の書きこみが多数見られ、1925年7月にニュージャージー州在住のエリザベス・ライド・ウォーカーさん(Elizabeth Reid Walker)が受け取った旨が印されています。

バンキー・ユディット (Bánky Judit、1896 – 1918) ハンガリー

Bánky Judit mid 1910s Postcard [Színházi Élet] 01Bánky Judit mid 1910s Postcard [Színházi Élet] 02

今回のコロナ禍をめぐる報道では1918~1920年に発生していたスペイン風邪が繰り返し話題に上っています。医療体制も整っていない時代の世界的感染は凄まじいもので、その影響は映画や演劇界にも及んでいました。当時のスペイン風邪で失われた才能のひとつがハンガリーの舞台女優バンキー・ユディット (Bánky Judit)でした。

10代の頃から演劇学校に所属、1913年から端役として舞台に立ち始めます。1914年、卒業後にセゲド国民劇場と契約、その後コメディー劇場に転籍し知名度を上げていきます。

SzinhaziElet_1917_40__pages42-42-judit-banky-0004
1917年、コメディー劇場『嫉妬(Féltékenység)』でのクラウディア役(『演劇生活』誌1917年第40号)

1917年、映画監督アレクサンダー・コルダが自身の映画会社の第2弾として制作した『カリフの鶴(Gólyakalifa)』でヒロインに抜擢されました。共演は当時の男優で最も人気のあったオスカー・ベレギ。『カリフの鶴』はイスラム世界を舞台にした寓話的な物語で、ロッテ・ライニガーによるアニメ作品が良く知られています。コルダ版は舞台を現代に移した形のようです。

SzinhaziElet_1917_26__pages9-9-judit-banky-0004
1917年『カリフの鶴』撮影時の集合写真(『演劇生活』誌1917年第26号)

1918年に第一次大戦が終戦。ハンガリー演劇に活気が戻り始めたこれからというタイミングで不幸が訪れます。折しも欧州全土を襲っていたスペイン熱に罹患、重度の肺炎を患い1918年10月に亡くなっています。

スペイン熱の大流行で病院を4度移る羽目となりそこから戻ることはなかった。肺炎の併発に華奢な体はとても耐えきれず、日曜の午後、若く美しい、才能に満ちた気立ての良い若手女優は22才の若さでこの世を去った。

マジャールオルザーク紙 1918年10月29日付

Betegségéhez tüdőgyulladás járull, amelylyel gyenge fizikuma nem birt megbirkózni s a viruló Szépségű, tehetséges és nagyon rokonszenves fiatal színésznő szombaton délután, huszonkétéves korában meghalt.

Magyarorszag (1918-10-29, p.193)

SzinhaziElet_1918_44__pages13-15-0024
『演劇生活』誌1918年第44号の追悼記事より

ハンガリーではこの一か月前にセントジョールジイ・マールタ(Szentgyörgyi Márta, 1888 – 1918)が似たような亡くなり方をしています。立て続けの訃報はハンガリーの演劇界に大きな衝撃をもたらしました。

[IMDb]
Judit Bánky

[Movie Walker]

[出身地]
ブダペスト(ハンガリー)

1923 – 9.5mm ノーマ・タルマッジ主演作 『愛の唄』(The Song of Love)

1923 9.5mm Fleur des sables (The Song of Love) starring Norma Talmadge

サハラ砂漠では進駐フランス軍とイスラム系遊牧民の間に対立が起こっていた。「族長が息子と共に反乱を企てている」の情報をキャッチした軍部は若き士官レイモン(ジョセフ・シルドクラウト)をスパイとして送りこむ。そこで出会ったのが踊り子のヤスミナ(ノーマ・タルマッジ)とだった。当初は情報源に利用するつもりだったが演技は次第に本物の愛情へと変わっていく。ヤスミナをだまし続けている訳にはいかない、レイモンは自分がイスラム教徒ではないと告げ、傷ついた女を残して関係を絶つのであった。

族長たちによる謀叛は深夜に決行と相成った。「例のフランスのスパイは手酷く拷問してやれ。殺してくださいと自分から嘆願するほどにな」、殺気立った人々の会話を聞いたヤスミナはいてもたってもいられなくなりレイモンの元に向かった。残された時間は少ない、武装反乱軍たちはフランス軍の基地を今まさに陥落せんとしているところであった…

1910年代にヴァイタグラフ社を代表する女優となったノーマは映画プロデューサーと結婚後、自身の映画製作会社「ノーマ・タルマッジ映画社」を設立して拠点を移しました。

制約の多い大手を離れ自身のプロダクションで活動する例は大半が短命に終わったなかで、ノーマ・タルマッジ映画社は『復讐の灰』(1923年、フランク・ロイド監督)や『キキ』(1926年、クラレンス・ブラウン監督)などヒット作をコンスタントに発表し続け無声映画末期まで最前線での活動を続けていきます。

『愛の唄』も同社制作、合衆国ではファースト・ナショナル社、フランスではパテ社からの配給となりました。『シーク』(1921年)でヴァレンチノ人気が爆発していた時期に当たり北アフリカのエキゾチックな設定を組みこんでいます。

セットや衣装、ライティングに贅を凝らした出来で反乱軍と仏軍の抗争場面も大掛かりに描写されています。とはいえ制作費と完成度が比例しているかというとそうでもなく、型通りの戦争メロドラマを一通りなぞっただけで終わってしまっています。士官役ジョセフ・シルドクラウトは悪くないのですがノーマ自身の演技が大袈裟で、ヒステリックな空気が出過ぎていて興を削がれました。

1920年代となり若手が次々台頭する中でベテラン女優が様々な試行錯誤をしながら生き残りを図っていた様子は伝わってきます。1910年代と20年代の「壁」は相当に厚く、この壁を乗り越えた役者は僅かだったと思いあわせるなら健闘とも言えます。『老いらくの戀』と比べるなら、20年代特作より初期のヴァイタグラフ作品をお勧めしたいです。

[タイトル]
Fleur des sables

[原題]
The Song of Love

[公開年]
1923年

[IMDB]
The Song of Love

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
804

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×6巻 白黒・ノッチ有

1913 – スタンダード8 『老いらくの戀(An Old Man’s Love Story)』(米ヴァイタグラフ社、ノーマ・タルマッジ主演)

standard8-2-vitagraph-shotrs-2

1913 - An Old Man's Love (Vitagraph) starring Norma Talmadge

マーシャム夫婦には見栄っ張りなところがあり、身の丈にあわない生活を続けているうちにいつしか家計は火の車となっていた。夫婦にとつての一縷の望みは美しく成長した一人娘エスター(ノーマ・タルマッジ)で、金持ちの男と結婚してさえくれれば…と食事中にも口にする始末であつた。

旧友である富裕な老人グレイソーン氏を招いたのはエスターとの結婚話を今度こそ決めてしまうためであつた。エスターには以前から心を決めた若者フランクがいたのであるが、両親を悲しませる訳にもいかず、心に悲しみを秘めながら老人の求婚を受け入れたのであつた。

フランクと会う事は普段から諫められていたため、若き二人の通信手段は木の幹をポスト代わりに使った手紙が全てであつた。エスターが婚約の件を手紙で伝えると、「君を失うのであれば僕はもう町を出る」の返信。絶望に打ちひしがれたエスターが木の幹にもたれかかって泣いているのを偶然見つけたのがグレイソーン氏であつた。若者たちの置かれた状況を理解したグレイソーンは一世一代の芝居を売ってみせるのであった…

タルマッジ姉妹の長女ノーマの初期主演作8ミリ版。家族の軋轢から生み出されてくるメロドラマになっています。途中でオチが読める単純な物語ながら役者が持ち役をカッチリ演じきっているため思った以上に心地よい作品となっていました。ノーマのお姫様ぶりも堂に入ったもので、ヴァイタグラフ社でアニタ・スチュワートと並ぶ花形だったのもうなずけます。

確認できた限り、以下の3つの形でデジタル版が市販されています。
『ノーマ・タルマッジ ヴァイタグラフ短編集』(グレープヴァイン社) Norma Talmadge Vitagraph Shorts
『俳優:ノーマ・タルマッジ希少作品集 第一巻』 The Actors: Rare Films Of Norma Talmadge Vol. 1
・米ハーポデオン社は自社サイトおよびアマゾン・プライム・ビデオでデジタル版を市販・公開中

harpodeon-oldman_screen1
ハーポデオン社で公開されている市販動画のスキャン。

ハーポデオン社も8ミリベースでスキャンしているようです。

[公開年]
1913年

[IMDB]
An Old Man’s Love Story

[メーカー]
米ブラックホーク社

[メーカー記号]
810-34-819

[フォーマット]
Standard 8mm 200フィート (60m)

1920 – 連続活劇『虎の足跡』 (ルース・ローランド主演、1919年)ロマン・シネマ叢書・仏語版

亡き父の旧友でもある鉱山王ゴルドンを訪ね、ボストンに向かっていたベル・ボイド嬢は汽車で親切な青年ランデルと知り合いになつた。話を聞くとその鉱山王の下で働いている技師とのことであつた。

道中二人が仲良く話しているその時、件の鉱山王は秘かな策略を張りめぐらせていた。ゴルドンとベルの父親、そしてもう一人の友人の3人がかつてインドで交わし、3つに割いてそれぞれに持ち帰った「契約書」を集め直そうとしていたのである。自宅に招待したベル嬢を息子と結婚させて懐柔しようとしたが、嬢は何としても首を縦には降らなかつた。

このやりとりを物陰で聴いていたのは女中ヒルダであつた。女はゴルドン家を離れると鉱山労働者たちの集う一角へ向かつた。外国人労働者が大半を占める中、一人白人の男がいた。彼こそがかつてゴルドン、ベルの父親と共に契約を交わした「虎の面」であった。男はヒルダとその仲間に命じてベル嬢の拉致を試みる。危難に陥った嬢を救おうとするのは青年ランデルただ一人であつた…

1910年代後半~20年代初頭のルース・ローランドは米パテ社連続活劇の稼ぎ頭としてパール・ホワイトに肉薄する勢いを見せていました。『覆面の呪』『幽霊騎手』『虎の足跡』『ルスの冒険』『森林女王』など多くの作品が日本でも公開されています。しかしその出演作はほとんどが断片でしか現存しておらず、映画祭などで上映される機会も少ないため評価されにくくなっているのが現状です。

『虎の足跡』のフランス語小説版はスチル写真を多く採録。蒸気機関車を絡めた追跡場面、谷間に張ったロープでスルスルと移動していく場面など活劇の「お約束」がきちんと守られているのが分かります。作品中盤では悪漢が丸太で扉を破っているシャイニング風の展開もありますね。

1920-le-tigre-sacre-avec-ruth-roland-11

大手パテ社が配給を手掛け大々的に宣伝していただけあってセットや衣装もしっかりしています。猪俣勝人氏『世界映画名作全史 戦前編』では「名金」、「鉄の爪」と「虎の足跡」の3作が活劇枠で紹介されていましたが、日本の愛好家にも良い印象を残した作品だったようです。

Serial Squadronが公開している現存フィルム断片

[タイトル]
Le Tigre sacré

[出版年]
1920年

[出版者]
ルネサンス・ドュ・リーヴル

[叢書]
ロマン・シネマ

[ページ数]
240頁

[サイズ]
16.5 x 24.5 cm

[原題]
The Tiger’s Trail (1919)

[製作]
アストラ映画社

[配給]
パテ社

1922年 – 上方歌舞伎俳優 書画帖

1922-kamigata-kabuki-shogachou-00
1922年に大阪で活躍していた歌舞伎役者(新派よりの俳優含む)、計13名の書画をまとめた書画帖。サイズは縦27.0×横18.0センチ、全て見開きで書かれておりそれぞれの大きさは27×36センチになります。

短期間松竹と帝キネ作品に出演していた二代目市川荒太郎を除くと映画に直接関わってはいないようです。本サイトの方向性からは若干外れますが20年頃は映画と歌舞伎がまだ陸続きだった感触があり、『芝居とキネマ』『劇と映画』『演藝と映画』などの大判雑誌が売れていた時代でもありました。


實川延若(2代目、俳名:正雁、1877 – 1951)

本名天星庄右衛門。俳名正雁。明治十年大阪に生る。明治廿年十月浪花座にて實川延二郎と名乗り『曾我』の河内村庄左衛門、『菊畑』で奴延平を勤めたのが初舞臺。當り役『恨鮫鞘』の八郎兵衛、『近八』の盛綱『乳房榎』の三役等。雁治郎と共に浪花劇団の大立者。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


尾上多見蔵(3代目、前名尾上多見之助、1866 – 1927)「清風一味」

優は慶應二年一月六日京都四條に生る。父は元紀州の家人吉川東藏、母は大西氏なり。初め家人と共に觀劇に行きしが緣となり、五歳の時故人阪東彦三郎に望まれて養子となり、京都南座にて彦三の松王、重太郎の源藏に寺子屋の小太郎を勤めしが初舞臺なり。當時阪東鶴之助と呼ぶ。同年九月彦三郎と共に上京せしも、當時優は非常の悪戯者にて養母の氣受惡しく、かたがた藝道修業の爲とあつて八歳の時再び歸京して子供芝居又は大歌舞伎の子役に出勤し、同時に彦三郎を不緣として改めて尾上多見藏の門に入り多見之助と改名す。廿一歳の時初めて大阪へ來り多く立役を勤めて評判よく、廿三歳にして角座に於て名題昇進し、爾来引續き立者として道頓堀の大歌舞伎に出勤しつゝあり。先年田村成義氏より彦三郎襲名の儀を勸められしも優は現今の劇壇名のみ大にして其實之れに伴はざる者多きを惡み之を謝絶せしと云ふ。才女おみつ(慶應三年生)と呼び、純(三十年生)嘉子(三十一年生)壽子(三十五年生)の三子あり。

『日本俳優鑑』(1910年、演藝畫報社)


喜多村綠郎(初代、1871 – 1961)「鶏頭いろふかく 撓みもや來る」

本名喜多村六郎、俳名綠樹又は小松と云ふ明治四年日本橋の藥種問屋に生る明治廿五年七月有樂館の素人芝居に北村みどりと名乗り『明治才子戀實』の主人公役の妹が初舞臺當り役として不如帰の浪子、侠艶錄の力枝、琵琶歌の里野等は定評のもの。現在新派の名女形として押しも押されもせぬ巨匠藝のうまさは第一人者。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


不明


岩井粂三郎(5代目、俳名:燕子、1882 – 1945)

優は明治十五年六月二十八日の出生にて、四代目粂三郎の實子即ち八代目岩井半四郎の孫に當る。六歳の時歌舞伎座に於いて團十郎の河内山に子役を勤めしが初舞臺にて紀之丸と名乗れり。十三歳にして明治座にて故人左團次の明智三羽烏の安田作兵衛に伜を勤め左團次の口上にて紀之丸改め久次郎となり、其後東京座の芝翫の異風の行列の時、五代目粂三郎を襲ぎ成駒屋の口上にて名題に昇進し同座解散後一時宮戸座へ出勤なせしが先般某有力者の盡力にて歌舞伎座座附俳優となり近頃は市村座に出勤して女形を勤む。股肱と賴みし松之助歿後岩井家の運命を双肩に擔ふべき身の兎角健康勝れざるは誠に遺憾なり。然れども道に熱心なる優は往々病體を忘れて心を技藝に專らにするに至る、優が近來大に其の伎倆を上たるも無理ならずと云ふべし。元西川姓、後淺田と改む。妻てい子大に内助の効あり。

『日本俳優鑑』(1910年、演藝畫報社)


嵐巌笑 (初代、俳名:菊童、1862 – 1930) 「松壽千秊」

本名北村保次郎。俳名菊童。文久元年京都に生る。初め實川都若と名乗り、明治二年の春九歳の時祇園町四條北の芝居にて初舞臺。後四世嵐璃寛の門に入り明治十年巌笑と改名。當り役板額、實盛、お園、政岡等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


小織桂一郎(俳名:子楊、1870 – 1943) 「壽者福之首」

本名西巻行藏號子楊明治二年新潟縣に生る。セント・ポールス、スクール(立教大學の前身)を卒業。明治二十四年七月東京淺草中村座に初出演。其頃創始せられたる川上音二郎の所謂書生芝居一座に投じ、爾来今日迄劇界に終始し、河合武雄と共に公衆劇團を組織せる事もあり、當り役は「誓」の塙綱造、「月魂」の久松喬等。讀書、旅行を好み酒は洋の東西を問はず。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


市川荒太郎(2代目、俳名:眼童、1892 – 1925)蛸あげ

本名:市川浩三
生年月日:明治廿五年十一月廿三日
出生地:大阪市西區新町南通り三丁目
何代目:二代目
屋號:三河屋
俳名:眼童
明治三十年六月大阪辨天座にて市川保太郎と稱して「鈴木主水」の子市松を勤しが初舞臺なり

『現代俳優鑑』(1918年、演藝畫報社)


中村林左衛門(俳名:雁洲、1868 – 没年不明)

本名:帯谷熊太郎
生年月日:慶應三年三月十一日
出生地:大阪市
何代目:初代
屋號:成駒屋
俳名:雁洲
明治七年九月大阪道頓堀竹田の芝居にて「寺子屋」の岩松を勤めしが初舞臺なり
明治四十四年五月道頓堀浪花座にて「布引」の三段目、雁治郎の實盛にて馬丁左吉を勤め三昇改めて林左衛門と名乗る

『現代俳優鑑』(1918年、演藝畫報社)


嵐橘三郎(5代目、前名:尾上喜久太郎、1891 – 1935)

優は明治十年二月十二日京都四條の町家に生れた。高等小學校を卒業して後初めは醫者になる積りであつたが、嵐芳三郎が親戚に當る所から不圖俳優になつて見る氣になり、十五の歳に芳三郎の弟分として芳太郎と名乗り、京都戎座で初舞臺を踏んだ。其の後は始終京都の各座に子役で出勤している中に、尾上卯三郎に見込まれて其の養子となる事になり、三十七年の五月道頓堀の辨天座で雁治郎、玉七、璃珏、卯三郎と云ふ芝居で尾上喜久太郎と改名した。今は朝日座の延二郎、吉三郎、我童、成太郎一座の若手芝居に加入して、多く若女形を勤めてゐる。

『日本俳優鑑』(1910年、演藝畫報社)


市川右團次(2代目、俳名:家升、1881 – 1936)

本名市川右之助。俳名家升。明治十四年大阪に生る。先代市川左團次の義兄齋入の息。明治十九年角の芝居で伴藤右之助と稱し『先代萩』の三股川の場で太鼓持ちを勤めたのが初舞臺。明治四十二年中座にて四代目右團次を襲名。舞踊を最も得意とし関西第一の踊り手と評さる。當り役鯉摑みの花若丸と志賀之助、吉野山の又五郎狐、お岩と小平等、親譲りのケレン物を得意とす。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


尾上卯三郎(2代目、俳名:濤昇、1860 – 1928)

本名:木下卯三郎
生年月日:萬延元年二月廿二日
出生地:岐阜県岐阜市久屋町
何代目:二代目
屋號:音羽屋
俳名:濤昇
明治六年九月一日大阪道頓堀若太夫座にて尾上卯多市と稱して「伏見戰争」の仕丁と町人を勤めしが初舞臺なり
同九年四月同松島大西芝居にて二代目卯三郎と改名し「薄雪」の半無精の國行、「吃又」の修理之を勤たり
同十七年十月同道頓堀浪花座にて「加賀騒動」の鳥居又助、「二人新兵衛」の若旦那を勤めて名題に昇進す

『現代俳優鑑』(1918年、演藝畫報社)


市川箱登羅(2代目、1867 – 1944)

本名田村榮吉。俳名箱虎。慶應三年東京淺草に生る。明治十二年先代壽美藏の門に入り登美六と名乗り、市村座にて初舞臺。明治二十一年九代目團十郎に認められ二代目箱登羅の名跡を許さる。同二十三年下阪し三十二年十月角座にて名題に昇進端役、三枚目を得意とし、性質極めて實直。當り役、『あかね染』の下市の十兵衛等を得意とす。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


1920 – 春江堂書店・大活劇文庫『蛸の手』(The Trail of the Octopus)麻生重人訳

探偵大活劇『蛸の手』(春江堂書店、大正9年)
1920 – The Trail of the Octopus (Japanese Novelization, Shunkodo) Cover

「はい、少し斗りお願の筋があつてまゐりましたの。此の手紙を御覧下さい。」
 恁う云つてラスは一通の書面をホルムスに差し出した。ホルムスが何が書いてあるかと怪しみながら取り上げて目を通して見ると、「死の商標は旋て我々の手に返つて來るであらう、紫の短劍を有してゐる九人の博士は一人一人に片附けて行く。ケニヨン博士は殺されたから、今度はお前の番だ」
 として、紙の一陽に羊の蹄の印が押捺してある。「ははあ、一體之は什うしたんですか?。」事情を知らぬホルムスは、先ず事情の筋道を聞かねばならなかつた。ラス、スタンホープは遂に、ホルムスの懇望によつて父博士から聞かされた一伍一什の物語をした。

octopusoctopus

エジプトの砂漠で発見された「悪魔の商標(Devil’s Trademark)」を巡り、学者二人が諍いを起こし片方が殺害される。生き残ったスタンホープ博士は帰国するも、以来自分を見張る「二つの赤い目」に悩まされるようになったた。愛娘のルース(ネヴァ・ガーバー)は父を心配し、事件の解明を探偵ホルムス(ベン・ウィルソン)に依頼するも一足遅く、博士は何者かによって殺害された後であった…「悪魔の商標」を解除する9つの短剣は国内の学者たちの手に渡っており、その行方をめぐって探偵ホルムスと悪党たちとの激しい駆け引きが繰り返されていきます。

一部(第9章)を除いて現存が確認されており、なおかつDVDで市販されている連続活劇『蛸の手』(The Trail of the Octopus)の日本語版ノベリゼーション。元々は15章仕立てだった内容を春江堂版は11章に再構成。

表紙は蛸の足にからめとられる登場人物を描いたもので、裏表紙にまで絵が回りこんでいます。表紙を開くと見開きで拉致された女性を探偵と警官が追いかけているイラスト入り。その後大活劇文庫の他作品同様、映画からのスチル写真が4枚あしらわれています。

ネヴァ・ガーバーは無声映画の中期活劇を代表する女優の一人でユニヴァーサル社ではベン・F・ウィルソンと共演を重ねながら(『The Mystery Ship(1917)』『The Voice on the Wire(1917)』)、その後ハリー・ケリーの西部劇ヒロインとしても知名度を上げていきました。

[原題]
The Trail of the Octopus

[公開年]
1919年

[IMDB]
The Trail of the Octopus

[出版年]
1920年(大正9年)

[出版者]
春江堂書店

[ページ数]
248頁

[サイズ]
18.2 × 12.5cm

大正6~10年(1917~21年) 春江堂の大活劇文庫

春江堂-大活劇文庫
大正10年の既刊書目録より

大正時代の中期、 1917~21年半ばにかけて40冊ほど出版されたのが「大活劇文庫」です。幸運なことに国立国会図書館がそのほとんどを所蔵しておりデジタル版を読むことができます。

この大活劇文庫はやや複雑な過程を経て成立・展開しています。

taisho-cinema-novelization01
大正中期〜昭和初頭の物語本・説明本文庫リスト

全体像を掴むため大正から昭和初期にかけて発売されていた文庫を出版社別にまとめてみました。以前に紹介した明文館の「映画文庫」瀧本時代堂の「説明本」「トーキー文庫」などもこれらの流れに含めることができます。

1917年に始まった「大活劇文庫」は、1916年の「探偵文庫」を母体にしています。上に掲載した「大正10年の既刊書目録」で言うと、実は左下の複数冊(『名金』から『呪の鍵』まで)は元々「探偵文庫」で発売された作品をカタログに統合したものです。

厄介なことに、「探偵文庫」というのは一つの出版社から出されたものではありませんでした。図表で示したように1)春江堂、2)キネマ書房、3)江東書院の3つの出版社が1916年に「探偵文庫」を公刊していたのです。どうしてこんな形になったのかきちんとした資料は残っていないのですが、現存するデータからおそらく次のような状況だったのだろうと考えられます。

3種類の「探偵文庫」は出版社こそ異なっていたものの、奥付に明記された「發行者」が同一人物になっています。「髙橋友太郎」なる人物で、探偵文庫の創設以前に春江堂から自著を出していた記録が残っています。

キネマ書房
1916年の探偵文庫『黒い箱』(キネマ書房)奥付
江東書院
1916年の探偵文庫『名金』(江東書院)奥付
春江堂
1916年の探偵文庫『青自働車』(春江堂書店)奥付

奥付によると髙橋氏の所在地は「本所區元町六番地」となっており、この住所はキネマ書房と江東書院の所在地と一致します。キネマ書房の「探偵文庫」と江東書院の同文庫は髙橋氏が自宅を拠点に編集していた作品だったと見ることができます。

同年、髙橋氏は接点のあった春江堂でも「探偵文庫」(基本120~150頁)を発刊、翌年には活劇ブームの追い風を受けて250頁程度の作品を扱う「大活劇文庫」に改名して旧文庫を統合していった訳です。

大正から昭和初頭に設立された大半の物語本文庫は短命で1~2年で姿を消していったのですが、「大活劇文庫」は未曽有の活劇流行を背景に4年を超える期間存続していました。フィルムそのものが失われてしまった作品も多いため、往時の賑わい、盛り上がりを追体験する貴重な資料群だと思います。

確認できた作品の一覧をまとめてみました。 IMDbのリンクと併せてリスト化しています。

1917年
『ドラルー(吸血鬼蝙蝠団)』 泉清風 Les Vampires (Louis Feuillade, 1915, ゴーモン社) [IMDb]
『潜航艇の秘密』 櫻木紅涙 The Secret of the Submarine (George L. Sargent, 1915, クオリティー映画社/メトロ社) [IMDb]
『灰色の幽霊』 泉清風 The Gray Ghost (Stuart Paton, 1917, ユニヴァーサル) [IMDb]
『ミラの秘密』 桜木路紅 The Mysteries of Myra (Leopold and Theodore Wharton, 1916, ワートン社) [IMDb]

1918年
『海底の美人塔:女探偵パノプタ』 泉清風 Panopta (Kay Van der Aa Kühle, 1918, デンマーク映画社) [IMDb]
『七ツ真珠』 泉清風 The Seventh Pearl (Louis J. Gasnier & Donald MacKenzie, 1917, アストラ映画社) [IMDb]
『復讐の鬼 : ジュデックス』 阿野二夢 Judex (Louis Feuillade, 1916) [IMDb]
『大秘密』 泉清風 The Great Secret (Christy Cabanne, 1917, クオリティー映画社/メトロ社) [IMDb]
『秘密の王国』 泉清風 The Secret Kingdom (Charles Brabin & Theodore Marston, 1917, ヴァイタグラフ社) [IMDb]
『ダイヤの1』 泉清風 The Red Ace (Jacques Jaccard, 1917, ユニヴァーサル) [IMDb]
『赤い目と太い手』 泉清風 The Crimson Stain Mystery (T. Hayes Hunter, 1916, エルボグラフ社) [IMDb]
『ニコニコお笑ひ会』 (チャップリン初期短編の翻案)

1919年
『赤手袋』 根岸秋人 The Red Glove (J.P. McGowan, 1919, ユニヴァーサル) [IMDb]
『曲馬団の囮』 根岸秋人 The Lure of the Circus (J.P. McGowan, 1918, ユニヴァーサル) [IMDb]
『真鍮の砲弾』 浦峰雪 The Brass Ballet (Ben F. Wilson, 1918, ユニヴァーサル) [IMDb]
『伯林の狼』 浦峰雪 Wolves of Kultur (Joseph A. Golden, 1918, ウェスタン・フォトプレイ社) [IMDb]
『戦闘の跡』 阿野二夢 The Fighting Trail (William Duncan, 1917, ヴァイタグラフ社) [IMDb]
『的の黒星』 松浦雨山 The Bull’s Eye (James W. Horne, 1917, ユニヴァーサル) [IMDb]
『強力エルモ』 恩田雪雄 Elmo, the Mighty (Henry MacRae & J.P. McGowan, 1919, グレートウェスタン製作社) [IMDb]
『人間タンク』 浦峰雪 The Master Mystery (Harry Grossman, Burton L. King, 1918, ロルフェ映画社) [IMDb]
『佳人の復讐』 浦峰雪 Vengeance – and the Woman (William Duncan, 1917, ヴァイタグラフ社) [IMDb]
『ナムバァワン』 浦峰雪 Who Is Number One? (William Bertram, 1917, パラマウント) [IMDb]
『覆面の呪』 泉清風 The Neglected Wife (William Bertram, 1917, バルボア映画社) [IMDb]
『呪の家』 泉清風 The House of Hate (George B. Seitz, 1918, アストラ映画社) [IMDb]
『巴里の秘密』 泉清風 Les mystères de Paris (?, unconfirmed)
『地獄の王冠:イントレランス』 泉清風 Intokerance (D.W. Griffith, 1916, トライアングル映画社) [IMDb]

1920年
『幽霊騎手』 根岸秋人 Hands Up (Louis J. Gasnier & James W. Horne, 1919, アストラ社) [IMDb]
『鷲の目』 浦峰雪 The Eagle’s Eye (George Lessey & Wellington A. Playter, 1918, ワートン社) [IMDb]
『電光石火の侵入者』 The Lightning Raider (George B. Seitz, 1919, アストラ社) [IMDb]
『大旋風』 麻生重人 The Whirlwind (Joseph A. Golden, 1920, オールグッド映画社) [IMDb]
『虎の足跡』 浦峰雪 The Tiger’s Trail (Robert Ellis & Louis J. Gasnier, 1919, アストラ映画社) [IMDb]
『鉄の手袋』 麻生重人 The Hidden Hand (James Vincent, 1917, パテ社) [IMDb]
『曲馬団の秘密』 篠田緑水 The Iron Test (Robert N. Bradbury & Paul Hurst, 1918, ヴァイタグラフ社) [IMDb]
『鉄の眼』 麻生重人 原題不詳
『星の魂』 恩田雪雄 Great Gamble (Joseph A. Golden, 1919, ウェスタン社) [IMDb]
『ラジュウムの秘密』 The Great Radium Mystery (Robert Broadwell & Robert F. Hill, 1919, ユニヴァーサル) [IMDb]
『雷岳の危難』 Perils of Thunder Mountain (Robert N. Bradbury & W.J. Burman, 1919, ヴァイタグラフ社) [IMDb]
『鷹の追跡』 島村鐵石 The Hawk’s Trail (W.S. Van Dyke, 1919, バーストン映画社) [IMDb]
『無敵エルモ』 Elmo the Fearless (J.P. McGowan, 1920, グレートウェスタン製作社) [IMDb]
『ライオンマン』 尾上白夢 The Lion Man (Albert Russell & Jack Wells, 1919, ユニヴァーサル) [IMDb]
『運命の財宝』 河野紫光 The Fatal Fortune (Donald MacKenzie & Frank Wunderlee, 1919, シャーマン・クレルバーグ社) [IMDb]
『灰色の鼠』 河野紫光 I topi grigi (Emilio Ghione, 1917, チベル社) [IMDb]
『蛸の手』 麻生重人 The Trail of the Octopus (Duke Worne, 1919, ホールマーク映画社) [IMDb]
『ドグラス』 浦島三郎 (ダグラス・フェアバンクス初期短編の翻案)
『ニコニコ笑楽会』 麻生重人 (初期喜劇短編の翻案)

1921年
『死の極印』 霞浦人 The Fatal Sign (Stuart Paton, 1920, アロー映画社) [IMDb]

発行年不明
『運命の指環』 The Fatal Ring (George B. Seitz, 1919, アストラ社) [IMDb]
『類人猿ターザン』 Tarzan of the Apes (1918, Scott Sidney, ナショナル映画社) [IMDb]

1927 – 9.5mm 『ベルフェゴール:ルーヴルの怪人』(Belphégor)英パテスコープ版

「9.5ミリ 劇映画」より

1927-belphegor-9_5mm-uk-pathescope (1)1927-belphegor-01

ルーブル美術館に安置された古代エジプトの太陽神、アンモンの像。夜、像の周囲で怪しげな物音が聞こえた、不審に思った職員が近づいていくとそこに立っていたのは黒い異教の顔立ちをしたベルフェゴールだった。

翌朝、倒れたアンモン像の脇で倒れた職員が発見される。男は「亡霊が!」と言い残して息を引き取った。

メディアは悪党による犯罪説を追っていた。新聞記者ジャック・ベルトンの手元に届いた「この事件には手を出すな」の脅迫状。ジャックは探偵シャントコック(ルネ・ナヴァール)に話を持ちかけた。シャントコックは秘書として働いている娘のコレットと共に捜査に乗り出した。

美術館内部での怪しい動きを察知したメナルディエ警部は深夜の張りこみを行っていた。深夜に一党を逮捕しようと試みるものの、ガスによって動きを封じられ意識を失った。悪党たちが床に安置された石を移動させると現れた隠し扉、そこにはアンリ三世の遺した莫大な財宝が眠っていた…

1927年に出版された小説を元にした連続活劇。原作は『ジュデックス』等で知られるアルチュール・ベルネッド。1927年のサイレント映画版は4部構成で総長5時間に及ぶものでした。英パテスコープ社の9.5ミリ版はこの大作を25分にダイジェストしたものです。

1920年代中盤、連続活劇はすでに時代遅れになっていました。それでも熱烈な愛好家は多く『ヴィドック』(Vidocq、1923年)や『シューアン党』(Jean Chouan、1926年)等リバイバルの動きも現れていました。『ベルフェゴール』もそういった活劇復権の流れに位置づけられます。

アンリ・デフォンテーヌ監督による演出は型通りで、作品の展開も単調、活劇黄金時代の驚きはほとんどありません。映画としては成功しているとは言い難いのですが、作品の端々に現れる怪異色や秘宝の設定は決して悪くありません。

こういった要素を生かし1965年にはジュリエット・グレコらを主演にTVドラマ・シリーズが作られました。原作を一部改変しているものの、異様な緊張感に心地よいスピード感のある編集でフランスのテレビ史に残る傑作として名高い一作です。

[原題]
Belphégor

[公開年]
1927年

[IMDB]
Belphégor

[メーカー]
英パテスコープ版

[メーカー記号]
SB818

[9.5ミリ版発売年]
1936年

[フォーマット]
9.5mm 無声 400フィート2リール(25分)を800フィートリールに再マウント

1937 – VHS 『恋山彦』(マキノ正博監督、阪東妻三郎主演)

「阪東妻三郎関連」より

時は元禄。信州伊那の谷に平家の末裔が住み着いていた。山腹にかかった霧の奥から御輿を担いだ男たちの姿が浮かび上がる。御輿には涙を浮かべた若い女(花柳小菊)が一人。女は村人によって人身御供とされ、山の神に差し出される運命であった。

山の神と呼ばれていたのは平家の末裔・小源太(阪東妻三郎)であった。神事を終えた小源太は掟を破り女を連れて村に戻ってきた。話を聞くと名をお品と言い、三味線の名手源四郎の一人娘だそうである。時の権力者・柳沢吉保(河部五郎)とその愛妾おさめ(原駒子)の求めに応じて名絃「山彦」の演奏を披露したのがあだとなり、三味線を奪おうとした吉保の配下の者に源四郎は殺され、お品は楽器を手にこの谷へと流れてきたのであった…

平家落人伝説を背景とし末裔の主人公が権力者の腐敗を懲らしめていく筋立てで、そこに三味線「山彦」の争奪戦や主人公のそっくりさんとの身代わり(妻三郎二役)のサイドストーリーが絡みあっていきます。

『恋山彦』の第一回目の映画化となる本作は、映画が無声からトーキーへと移り変わっていった時期に見られる幾つかの特徴を有しています。

1)マイクの感度が低く、俳優の声がエコーをかけたようにこもっていて聞き取りにくい。また、セリフの度に「サー」というノイズが入る
2)併設された録音機器のせいでカメラの動きが制限され、カメラワークの自由度が低く遅い

ハリウッドでは1928~31年位にこういった「移行期の作品」が見られたのですが、日本では30年代半ばから同傾向の作品が見られるようになってきます。マキノ監督は日本の同世代監督でも最もフレキシブルに、流動的にカメラを動かしていた一人で、本作では上記の弱点があまり目立たないような工夫が凝らしてあります。意識しなければ(特に2は)気にならない感じでした。

この作品ではモブシーンの演出が光っています。中盤で小源太が城で大暴れし、闘いの場が一階から天守閣に移っていきます。

1937-koi-yamahiko-vhs
戦闘場面にあわせてカメラが上昇していく。1ショットでの撮影

複数階のセットを組み、俳優たちが上階に上っていくとセット脇の吹き抜けに置かれたクレーンに設置されたカメラが上昇していきます。1ショットでの長回しでカメラと俳優の動きを同期させるため緊密な連携が要求される場面です。

7th-heaven
『第七天国』で、主人公のカップルがアパートの階段を上っていく場面

ボーセージ監督が『第七天国』(1927年)で同種のクレーンショットを使っていました。マキノ監督なりのオマージュでしょうか。後年、戦中の『ハナコさん』(1943年)でもバスビー・バークレーを念頭に置いた演出を組みこむなど常にハリウッドへの敬意を忘れなかった監督でもあります。

阪妻の演技は台詞回しがまだ生硬な欠点がありますがラストの能舞台の立ち回りを含めて見どころはしっかり作っています。時代劇初出演となった花柳小菊さんの可憐な演技と三味線の腕前のみならず、河部五郎、原駒子、市川百々之助などベテラン勢も登場しサイレント映画好きには楽しい一作でした。

南 栄子 (1909 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

南栄子 直筆サイン入り絵葉書
Minami Eiko 1920s Autographed Postcard

 日本館へはまた、白痴の脂肪のような河合澄子が帰つてきた。

 沢カオルは観音劇場から浅草劇場へ引越した。田谷力三や柳田貞一も、消えたり現れたりだ。オペラ役者の蔵ざらへも、もう沢山ではないか。

 電気館のパラマウント・シヨウの第四回と第五回 ― これは六月のことだが、春野芳子のジャズ・ダンスと南栄子のチヤアルストン、これだけがやつと一九三〇年らしい踊なのだ。

『淺草紅團』川端康成(1930年『新潮』9月号掲載)

衣笠貞之助監督の『狂つた一頁』(1926年)での前衛的な舞踏で知られているダンサー/舞踏家。衣笠氏の回想によると新国劇の女優・渡瀬淳子さんの推薦だったそうです(『わが映画の青春』衣笠貞之助著)。

1922年に母体が設立された松竹楽劇部の第一期生とされていますが、当時物のパンフレット等でのクレジットは確認できておらずいつまで在籍していたのか不明。

日本でも、昭和二年、日活京都の映画女優、小西節子、南栄子、松浦ちどり、香川マチ子、浦路輝子らが断髪したため、撮影所長の池永浩久がひどく怒って、これら女優の髪がのびるまで出演及び外出禁止の厳命をくだしたという。

『雑学歌謡昭和史』 西沢爽(1980年、毎日新聞社)

1930年代にメディアに登場していた記録が幾つか確認できています。

・1933年阪和濱寺海水浴場での舞踏大会で舞踊を披露
・1933年の『婦女界』グラビアで舞姿を披露
・1938年度版『朝日年鑑』の「音楽家録:洋樂の部」で麹町の現住所の記載あり

1931年の直筆サイン入り写真を紹介している古本屋(くまねこ堂)さんのブログ記事が非常に有名で、その写真がピンタレスト等のSNSで繰り返し拡散され、ウィキペディアの写真としても使われるようになりました。今回入手した絵葉書は1920年代ではないかと思われる一枚です。

[IMDb]
Eiko Minami (同姓同名の別人との一部混同あり)

[JMDb]
南栄子

[出身地]
広島

[誕生日]
2月20日

[データ]
8.7 × 13.8cm

大正10年(1921年)『活動倶楽部』12月号

大正10年末に発売された『活動倶楽部』の12月号。冒頭は通常通りのグラビア。巻頭カラーはルイーズ・ラブリーで、メアリー・マイルズ・ミンター、ミルドレッド・ハリスなど当時日本でも人気の高かったハリウッド女優が並びます。

メイン企画が二つ。一つはアメリカ全土を騒がせていたロスコー・アーバックルによる若手女優過失致死事件。

[…] 直ちに當夜の嫌疑者と目すべきに充分なるアーバツクルに電報召喚状を發せるものなり。審問後ならざれば其死因を確かめ得られざれども記者の信ずる所によれば凌辱強姦の死因は疑ふに餘知なし。本事件は近來活動寫眞が我が米國に勢力を得たりし結果俳優連が益々有頂天になり社會に害毒を流しをり、はからずも今日彼等の極端な腐敗を社會に暴露せるものなり。

これを機會に我等ローサンゼルス市民は徹底的なる闡明を希望したし云々。(一九二一‐九‐十一日タイムス)

町の角の新聞賣りの少年等は『本日アーバツクル牢に入る』等と云ふ大聲の叫びを上げて居る。

「フアツテー女優殺しの眞相」ハリー・ウシヤマ

The Arbuckle Affair [Katsudou Kurabu 1921 Dec Iissue]
ファツテー女優殺しの眞相

「だがフアツテーは殺されない迄も死刑(リンチ)にされて了ふかも知れないぜ。桑港の人達は豪く興奮してゐると云ふからね…」のやりとりも紹介されています。事件発生から日が浅く情報が混乱している中、当初から映画を快く思っていなかった者たちが「それみたことか」の声を上げ、そうでない者までメディアに煽られ殺気立っている様子が伝わってきます。

katsudou-gahou-1920-december-issue-08

もう一つの企画は『活動倶楽部』発行人である森富太氏による『革新の時機臻る』と岡田宗太郎氏の『白日の下に曝されたる松竹キネマ』の2つの記事から成り立っています。

「革新の時機臻る」は映画誌が業界の内輪誉めをしている状況に危機感をいだき、ダメな物にはダメと言える編集方針に変えていきたい、という内容です。次の『白日の下に曝されたる松竹キネマ』が具体例となっていて、理論先行かつ採算を度外視した「素人」仕事が横行しているシステムを批判、小山内薫氏や村田實監督などを槍玉に上げていきます。次号でも「愈々(いよいよ)、筆鋒を進めて松竹キネマの内情を語」る旨の予告あり。

積み重なってきたものはあるのでしょうが特定の映画会社をピンポイントで攻撃するのは異例で、目に見えない何かの闇を感じます。

個々の記事で面白かったのが映画創始期から弁士として活動していた中川慶二氏による連載企画「活動寫眞今昔物語(其四)」。明治31年(1898年)頃の地方巡業の様子などが細かく綴られており、現場で奮闘していた人々の息遣いまで伝わってきそうな素晴らしい内容でした。

伊太利の國情は、由來日本と非常に類型的な傾向を持つて居ります。従つて両者の國民性には必ず、他に求め得られない共通點を多く享有する事を否定されないのです。[…] 

「あゝさらば さらば青春よ!」若樹華影

また1918年に公開されたイタリア映画『さらば青春(Addio giovinezza!)』の紹介記事。マリア・ヤコビニ主演、サイレント青春映画の秀作として知られている一作。Vimeoに置かれた抜粋動画は一見の価値があると思います。

イーフェン・アンデルゼン主演の『蛇身の舞』の評を見つけ、また谷崎潤一郎が制作した一連の映画では最後の作品となった大活作品『蛇性の婬』に触れた記事も収録されています。

カルロ・ヴィート Carlo Wieth (1885–1943) デンマーク

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Carlo Wieth Autographed Postcard

1885年コペンハーゲン生まれ。1900年代に舞台俳優として修業を積んだ後、1910年にウアバン・ガーズの監督処女作でもある戦争メロドラマ『1864年の一徴兵』の主人公役でスクリーンデビュー。

Carlo Wieth in En rekrut fra 64 (1910)
『1864年の一徴兵』での負傷した兵士役

その後ノルディスク社と契約しオーガスト・ブロム(『モルモン教の犠牲となり/Mormonens offer』1911年)、シェストレム(『聖職者/Prästen』1914年)、ホルガー・マドセン(『永遠の平和/Pax aeterna』1917年)、ドライヤー(『サタンの書の数ページ』第4エピソード)など北欧サイレント映画の全盛期に安定した演技で貢献していきました。また私生活では以前に紹介したクララ・ヴィートの最初の夫でもありました。

1920年代前半に舞台へと戻り映画主演が途切れていましたが、30年代後半に復帰し9作のトーキーに出演。1943年に心臓発作で亡くなっています。

[IMDb]
Carlo Wieth

[Movie Walker]

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
12月11日

[サイズ]
8.8 × 13.4 cm

[データ]
Photochemie, Berlin K.1765

ミッツィ・パルラ Mizzi Parla (生没年不詳) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Mitzi Parla Autographed Postcard-1

フランスの映画製作会社にとって、ドイツ帝国は疑いもなく最も魅力的なマーケットのひとつであった。自国の競争力が充分ではなく、1914年時点でさえメスター社、PAGU社、ヴァイタスコープらの製作会社だけでは自国の映画館での需要を満たすことができなかったのである。

(「フレンチ・コネクション:第一次大戦以前の仏独映画連携」)

For French film producers, the German Reich was undoubtedly a most attractive market. National competition was not up to par (even as late as 1914, firms such as Messter, PAGU and Vitascope were unable to satisfy the demand from German cinemas out of their own production […].

« The French Connection: Franco-German Film Relations before World War I »,
Frank Kessler and Sabine Lenk
in A Second Life: German Cinema’s First Decades (1996)

サイレント映画産業が発達し始めた1910年代、普仏戦争の遺恨を残しつつも仏独ではある程度の交流は行われていました。特にフランスの映画界はドイツ進出に積極的で、多くの大手会社がベルリンを拠点に自作配給を行っています。

1913年頃から反仏感情が掻きたてられ、プロパガンダを交えた喧々諤々の状況となるとフランスの映画製作会社はそれぞれの対応を始めた。パテ社はフランス語の響きが強い「パテ・フレール社」を旗印とした配給を続けていた。レオン・ゴーモンは自社作品をドイツの配給網に委ねることに決め、1913年9月12日には「独ゴーモン社」を設立した。

As from about 1913 onwards anti-French feelings were being stirred up and propaganda polemics came to the fore, French firms reacted in different ways. Pathe continued to advertise with its own French-sounding name ‘Pathe Freres & Co’ and kept its own distribution. Leon Gaumont decided to have his films handled by well-known German distributors […]; he also founded the ‘Deutsche Gaumont Gesellschaft’ on September 12th, 1913.

当初、ゴーモン社はフランスで公開していた作品(看板女優シュザンヌ・グランデ主演ドラマ、子役ビュビ君シリーズ、レオンス・ペレ監督の短編コメディ、ドキュメンタリー作など)をそのまま輸出していました。1913年秋から様相が変わってきます。組織改編に伴い、ドイツ人俳優を主演としドイツ国内で制作されたオリジナル作品が封切られていきます。

第一弾は実力派の若手俳優レオ・ポイカートを主演とした『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』でした。1913年10月4日公開。同作品にヒロインとして登場したのがミッツィ・パルラでした。

Mizzi Parla in Durch Leid zum Glück [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』

歌と踊りを得意とし、明るい性格でステージの人気を得ていたようです。レオ・ポイカートとのダブル主演映画は初めてではなく、これ以前にもBB映画社~タルガ映画社で数本製作されています。独ゴーモンがタルガ映画社に制作を委託して時代の流れに対応したのが実際の様です。

またこの時期の仏ゴーモン社は初期トーキーの実験を行っていました。フィルム上で録音をシンクロさせた訳ではなく、映写機に併設された「蓄音機」で音を出すゴーモン社独特のシステムを開発。ルドルフ・クリスティアンとミッチ・パルラ主演の『おいらの女中』がこの方式で製作され、実際にウニオン劇場で公開された記録が残っています。

10月半ばには独ゴーモンオリジナル作品第二弾の『エルゼは踊る(Tanz=Else)』公開。ミッツィ・パルラの単独主演作で映画誌の表紙も飾っています。

Mizzi Parla in Tanz-Else [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『エルゼは踊る(Tanz=Else)』

こういった活動も歴史の流れに逆らうことはできませんでした。1914年8月に独仏が開戦、独ゴーモン社は映画製作・配給機能を停止。ミッツィ・パルラはBB映画社で映画出演を続けますが次第に露出も減り1918年の短編を最後に業界を離れています。

[IMDb]
Mizzi Parla

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[サイズ]
8.6 × 13.5 cm

[データ]
Verlag Photochemie, Berlin N. K.273 Bildnis von A. Binder, Berlin