アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcard

Alma Rubens03

Alma Rubens 1926 Autographed Postcard

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

オリーヴ・トーマス Olive Thomas (1894 – 1920)

「合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Olive Thomas Autographed Postcard
Olive Thomas Autographed Postcard

オリーヴ・トーマス孃はその本名をオリーヴ・エレーン・トーマスと稱し、一八九八年十月二十日ペン・シルヴァニア州チャールロイ市に生れた、本年漸く二十三歳の若い花形女優である、孃はその幼時をチャールロイに育てられたが、後小學校を卒業し、女子教育を受ける頃に及んで、ピツツブルヒに移り、同地の高等女學校に入學した。女學校在學中には人一倍文藝の方面に趣味を有し、又劇に對しても相當の理解を持つて居た。さうして女學校卒業と同時に決意して劇界に入り、始めはオペラの下役女優となつて居たが、その後漸次出世して『十四のフロクス』『十五のフロクス』の如き夢幻劇に、実際十四五歳の少女として出演した際忽ちその素質を認められ、約三年間は劇界の生活に身を委ねて後、映畫界にと志した。彼女は第一に、名優ラスキー會社に入り、約二年間在社して居つたが、その間の孃の實生活上にも、お目出度い事が生じた。それは、當時ラスキー會社の名星だつた、メリー・ピツクフオード孃の弟ジヤツク・ピツクフオード氏と孃との戀が漸くこの頃から問題となり、遂にオリーヴ孃がトライアングル社に轉じた後、二人は結婚して樂しい若い新夫婦として新しい家庭の人とはなつたのである。トライアングル會社に轉じてからは、インス撮影所に從屬し『その樣な少女』『狂人マツヂ』『ベチーが手を売つた』其他多くの映畫に出演一九一八年トアイアングル會社解散後暫く休養して居たが、昨年再びセルヅニツク會社の首腦として數多の映畫に主演を演じて居る。

「活動新人紹介 オリーヴ・トーマス孃」
『活動画報』1919年4月号

今まで見た中で一番美しいヴァイオレットブルーの瞳をしていた。

メアリー・ピックフォード

The girl had the loveliest violet-blue eyes I have ever seen.

女優メアリー・ピックフォードは義理の妹でもあるオリーヴをこんな風に評していました。

アイルランド系として生まれ、ジークフェルド・フォリーズの踊り子として、次いで女優として地位を築き上げていき、名声の絶頂である1920年に亡くなりました。死因は事故死ながらも遠因に薬物依存が挙げられるなど闇も指摘されています。

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トライアングル社で女優デビューした頃(ロサンゼルスタイムス紙1918年4月8日付)

1920-09-10-olive-thomas
1920年9月10日、パリでの薬物死を伝える新聞記事(ボストングローブ紙)

現在、代表作の『フラッパー』(1920年)や脇役でのデビュー作『ベアトリクス・フェアファックス』(1916年)をデジタルソフトで見る事ができます。個人的にはオランダのEYEがフィルムを保存・公開している『アウト・ヤンダー(Out Yonder)』(1919年)の素朴な役柄が似合っているかなと思います。

[IMDB]
nm0859310

[誕生日]
10月20日

[出身]

[サイズ]
8.8 × 14.0cm

[コンディション]
A-

[入手年月日]
2017年8月

[入手場所]
eBay.fr

ジュエル・カーメン Jewel Carmen (1897 – 1984) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Jewel Carmen Autographed Photo
Jewel Carmen Autographed Photo

或る日、嬢がローサンゼルスの珈琲店で休んで居ると、隣席に居た老紳士が何を思ひ出したのか一枚の名刺を嬢に示した。それにはガストン・メリエーといふ名が印してあつた。メリエーといふのは活動寫眞界の元老として知られて居る人で、氏は嬢の容姿を見て映畫劇女優たらしめようとしたのであつた。嬢もそれは豫てから望んで居た事であつたので、直ちにメリエー氏の言葉に従つた。そして、その翌る日からトライアングル會社の花形として活動する事となつたのである。

嬢が相手をした男優はドグラス・フェアバンクス氏であつた。飽くまでも明るい華やかな顔とすつきりとした瀟洒な姿‐それは映畫の映りが非常に良かつた。監督者の命令に従順と云ふ事も、上達の一要素となつた。人氣は忽ちの中に盛んになつた。電氣館に上場された「ドグラスの好奇」「ドグラスの厭世」「火の森」「ドグラスの飛行」などは何れもその頃の作品であつた。

一千九百十七年の夏、同社を去つて、フォックス會社に移り、ウィリアム・ファーナム氏の相手を勤める事となつた。「勝利者」のエリザ・アレン、「二都物語」のルシイ・アネッチ、「嗚無情」のコセット、「男が血を見た時」のヴァイオレットなどはその中でも特に出色の出来であると云はれて居る。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Jewel Carmen in The Half-Breed (1916)
『火の森』The Half-Breed (1916) でのカーメン

仏サイン蒐集家、アンドレ・ジュニオ氏旧蔵の一枚。

1910年代にダグラス・フェアバンクス喜劇で愛らしい演技を披露。『二都物語』や『レ・ミゼラブル』(いずれもフランク・ロイド監督作品)でシリアスな役柄にも挑戦。数年の休養を挟み20年代初頭に夫ロランド・ウェストの監督作品でカムバック。ウェストは『バット(The Bat)』の監督・主演を務めていて、ジュエル・カーメンもヒロイン役で登場しています。この復帰は長くは続かずサイレント映画終焉と同時にスクリーンから姿を消しました。

ジュエル・カーメンの名は1935年冬に再び紙面を賑わせます。

同年12月、人気女優セルマ・トッドの死体が発見されます。死因は一酸化炭素中毒。憶測が駆け巡ったものの事件は迷宮入り。ハリウッドのミステリーとして語り継がれていきます。セルマは離婚したロランド・ウェストと付きあっており事件当時は共同でレストランを経営中。遺体の発見された場所はジュエル・カーメン所有地の駐車場でした。

[IMDB]
nm0138386

[誕生日]
7月13日

[出身]
合衆国(オレゴン)

[コンディション]
B