エニッド・ベネット Enid Bennett (1893 – 1969) 豪/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Enid Bennett c1920 Autographed Chromo

一千九百十六年の十月、米國に渡つて紐育市に興行中、恰度その時紐育に来て居たトライアングル會社のトーマス・エッチ・インス氏に認められて、映畫劇の俳優たる可く勸誘された。斯うして、嬢はインス氏と共にローサンゼルス市に行き、トライアングル會社のケービー映畫に出演する事となつたのである。その第一回作品は「闇の王女」といふ現代劇で、嬢はフェイ・ヘロンといふ役を勤めた。嘗てキネマ倶樂部に上場された「オパルの輝き」は第二回目の作品である。

一千九百十七年、インス氏が全所属俳優を率いてパラマウント映畫部の爲めにインス特作品を製作するやうになると、嬢も亦これに従つてパラマウント映畫部に轉じた。そしてインス映畫に出演した。

嬢は未だ若いだけに映畫女優として經驗に乏しいが、舞臺經驗を踏んで來た腕前は映畫の上にも充分に現はれて居る。極めて自然な藝風が、觀る者の心を魅する。

嬢は昨年の二月二十三日にフレッド・ニブロ氏と華燭の典を擧げて、今ではローサンゼルス市に樂しい家庭を作つて居る。

愛くるしい眼と、豊かな頬と、そして小兒氣の失せぬ口元と、それは「オパルの輝き」のヂュリーのやうな役には最も相應はしいものである。少し寂しい感じはあるが、それが却つて魅力を増す。嬢は目下ラスキー社パラマウント映畫に出演してゐる。

『活動名優写真帖』(野村久太郎編、 玄文社、大正8年)


生地ヨークより数里の町、オーストラリア・ヨーク市で嬢が仕事勤めをしていた折、一座と共に同地を回っていたフレッド・ニブロが端役募集の広告を出した。応募したベネット嬢がその役を手に入れる。演技の才と相まった美貌により忽ちに成功を収めた。『ホィップ』『フォーチュン・ハンター』『七つの鍵』を含む成功した舞台劇での大役を務めてきている。映画界からの要望に応えフェイマス・ラスキー社作品『義人の鍵』でスクリーンデビューを飾り、その後も同社の『曲馬団の名花』『家庭の罪』『家を出でて』でヒロインを演じた。身長は五尺三寸、體重十二貫三百匁。金褐色の髪と榛色の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

While working in an office in Perth, Australia, a few miles from her birthplace, York, Fred Niblo, who was touring the country with his company, advertised for somebody to take a minor part. Miss Bennett applied and was accepted. Her beauty, combined with her dramatic talent, soon won auccess for her. She has played important part in « The Whip, » « The Fortune Hunter. » « Seven Keys to Baldpate » and other notable stage successes. Hearing the call of the screen, she made her first picture for Famous Players-Lasky Corporation, « Keys of Righteousness, » followed by « The Biggest Show on Earth, » « A Desert Wooing » and « Stepping Out. »

Miss Bennett is five feet three inches tall, weighs one hundred and two pounds, and has golden brown hair and hazel eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)


1922年『ロビン・フッド』より

1924年『シー・ホーク』(フランク・ロイド監督)

1910年代末から20年代前半に活躍したエニッド・ベネットのサイン物2点。無声時代のハリウッドで、オーストラリア出身俳優としては最も成功を収めた一人です。

フェアバンクスの相手役を務めた『ロビン・フッド』(1922年)、夫君フレッド・ニブロ監督による『紅百合』(1924年)の二作が知られているのですが、個人的には24年『シー・ホーク』でのこなれた演技が気に入っています。ロイド監督らしい歯切れのよい演出が光る佳作で、エニッド・ベネットも自身の役割を完璧に理解しつつ細やかなニュアンスを散りばめる余裕を見せています。

契約キャンセル申し立ての旨を伝える
1917年9月8日付『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌記事

インスとの出会いとそこからのサクセス・ストーリーは美談として語られがちです。実際のところ1917年中盤にエニッド・ベネット側がインスを訴えた出来事もありました。インスの直接プロデュース以外の作品にも出演しなくてはならない契約内容に不満があり、最終的には元鞘に収まって一件落着。

日本でも早くから知られていて、『曲馬団の名花』『家庭の罪』など初期パラマウント社作品が公開されていました(いずれも1918年)。今回それ以前のトライアングル社期のフィルム(『淑女騎手』)を見つけたので併せて紹介しておきます。

[IMDb]
Enid Bennett

[Movie Walker]
エニッド・ベネット

[出身地]
オーストラリア(ヨーク)

[データ]
一枚目の写真は裏に手書きで「1917年4月」の日付入り

マリア・ヤコビニ Maria Jacobini (1892 – 1944) 伊

イタリア [Italy]より

Maria Jacobini Autographed Postcard

藝風。打ち沈んだ面影、何とない寂しみを含むその頬笑み、胸の悩みに悶える女の性格、其を表す事に於て卓越した技巧を有するマリア・ヤコビニ。彼女は過去に於てはサヴオイア社作『ジヤンダーク』『生ける屍』で我々に好評を得たが、近く輸入された杜翁[トルストイ]の『復活』(チベル社作)が封切の暁には、更に卓絶した彼女の藝を味ひ得る事と信ずる。

経歴。マリア・ヤコビニ嬢が斯界に入つての第一歩はトリノ市のサヴオイア會社に於てであつた。永くの間舞臺上の經驗を積んだ嬢は、斯界に於ても忽ち好評を得た。さうして同社の、南歐映畫界にも誇るに足る傑作『ジヤンダーク』及び『全勝』(勝利の徽章)に主演を演ずるに至つた。尚數多の映畫に名優ヂロ・ロンバルヂー氏と共演し好評を得たが、一九一三年暮パスクワリ社に轉じ、翌一九一四年更にチエリオ社に入り、『悲しき集』『死なない爲』『死の恐ろしき翼』『アナンケ』等に主役を演じて世評に昇り、嬢の斯界に於る人気は一躍してエスペリア夫人、リダ・ボレリ嬢を凌がうといふ勢になつた。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


『生ける屍』(1913年) 広告

1914年、パスクワリ社広告

第一次大戦前、イタリア映画の勃興期に女優としての活動を開始し、サヴオイア社、チベリ社、イタラ社など多くの映画会社で花形女優として活躍したのがマリア・ヤコビニでした。当時のディーヴァ女優の多くが女王様然としたオーラを漂わせていた中で、マリア・ヤコビニは一味違った柔らかで親しみやすい雰囲気を備えており、町娘役を演じた『さらば靑春』でもそういった個性は発揮されています。

第一次大戦後は他のイタリア女優同様国外へと拠点を求めていくことになります。20年代に苦戦したベルティーニやマコウスカ等と対照的に、マリア・ヤコビニは監督(デュヴィヴィエ、オツェップ)にも恵まれ無声映画末期にも観るべき作品を幾つか残しています。なかでも1929年の『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』は彼女のエモーショナルな表現力を再確認できる優れた作品です。

『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』
(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)より

[IMDb]
Maria Jacobini

[Movie Walker]
マリア・ヤコビニ

[出身地]
イタリア(ローマ)

[誕生日]
2月17日

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcard

Alma Rubens03

Alma Rubens 1926 Autographed Postcard

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。 ヘッダ・ヴェルノン

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür. Mit herzlichem Gruß. Hedda Vernon

消印は1916年(大正5年)の10月23日。宛先はヘンケ・ステグリック(Henke Steglik)嬢でしょうか。メッセージ面には5行の手書き文章と署名。「どこかにやってしまいました」は方便で、この時点で一番プロモーションに適した絵葉書に「差し替えた」が正しいのだろうなとは思います。

「どうやって映画(界)に入ってきたのか?」

徒歩で、でしょうか。今でも覚えているのですがとても遠かったです。やっとたどり着いたと思ったら監督さんに「遅刻だぞ」と怒られてしまって。指示で何か演技をすればさらに罵られる始末。映画が上映された時にお客さんから大きな拍手が挙がって、監督さん曰く「君には才能がある!」。日記に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」って書いてやりました。

ヘッダ・ヴェルノン・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)

„Wie ich zum Film kam?“

Per Beine; und ich erinnere mich noch, daß es sehr weit war. Und als ich schließlich da war, schimpfte der Regisseur, weilich zu spät kam; und als ich ihm was vorspielte, schimpfte er noch mehr; und als der Film heraus kam, klatschte das Publi­kum, und der Regisseur sagte: » Hedda, Sie sind ein Talent!« – Und ich schrieb in mein Tagebuch: »Veni, vidi, vici.«

Hedda Vernon Interview
in « Die Frau im Film » (Altheer & Co., Zürich, 1919)

リヒトビルト・ビューネ誌1913年8月第34号広告

1913年にドイツで国産犯罪活劇が流行し始めた時、ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演のケリー・ブラウン連作のヒロインに抜擢され、このジャンルで最初にアイドル的人気を博したのがヘッダ・ヴェルノンでした。『天馬』の邦題で知られる « Die Millionenmine » でヒロイン役を務めたこともあって1914年頃の日本の映画愛好家にも名を知られていました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月第12号より『天馬』広告

キネマトグラフ誌1915年7月号広告

1914年に自身の名を冠した映画製作会社を立ち上げて独立。その後はアイコ映画社を中心に、夫でもあるフーベルト・メスト監督作品に多く出演。恋愛物、喜劇、歴史劇など様々なジャンルの作品に出演しています。1910年代中頃からは若手の突き上げを受けて人気面で伸び悩むものの、ドイツ活劇ジャンルの先駆けとして「別枠」の扱いを受けており10年代末頃まで自身の名前を前に出して一線での活躍を続けました。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)

1919年、アイコ映画社の 自社俳優紹介広告欄より (ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日)

1920年代になると脇役に回る機会も増えてきます。それでも1921年にはメスト監督の『レディ・ゴディバ』に主演、英テニスンの詩を元にした同作は合衆国でも公開されました。

1922年、『レディ・ゴディバ』米公開時の広告

1925年に亡くなった後は再評価の機会がないまま忘れられていくのですが、2018年にボローニャ復原映画祭の「一世紀前の映画」企画で主演作『Puppchen』(1918年)復原版の上映記録が残っています。

[IMDb]
Hedda Vernon

[Movie Walker]
ヘッダ・ヴェルノン

[出身地]
ドイツ

[サイズ]
13.6 × 8.7cm

月形龍之介 (1902- 1970)

日本・男優 [Japanese actors]より

Tsukigata Ryûnosuke Autographed Postcard

本名門田潔人。明治三十五年宮城縣で生る。元輝子ことマキノ智子と浮名を流した色男、東亜キネマが映畫俳優として振出し、マキノ主腦男優の一人で常に時代劇に主演して大向からヤンヤの喝采を博す。『討たるゝ者』が初演映畫で『怪物』『毒刄』『戦國時代』『轉落』『修羅八荒』『愚戀の巷』最近の主演では『毒蛇』『砂絵呪縛第二編』『雪の夜話』等でキビキビした胸のすくやうな演技を見せてフアンを喜ばしていゐる。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


マキノ以来のケンゲキ俳優月形は今フリー・ランサーとなり、千惠藏映畫、阪妻映畫、下加茂映畫、新興映畫等にドシ〱出演してゐる。トーキー俳優として臺詞がうまく、ケンゲキ俳優として殺陣が鮮やかなので、各社からひつぱりだこになつてゐる。劍道三段の腕前があり、現在のケンゲキ俳優中、眞劍を使ふスターは彼を措いて外にない。その殺陣には獨特の凄味がある。何しろ眞劍を使ふので、捕手達もビクビクものだが、未だ嘗て一度も人を負傷さしたことがないといふからえらいもの。

『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』
(1936年1月、『冨士』昭和11年新年號附録)

[JMDb]
月形龍之介

[IMDb]
Ryûnosuke Tsukigata

[出身地]
日本(宮城)

[誕生日]
3月18日

イタ・リナ Ita Rina/Jta Rina (1907 – 1979) セルビア/スロヴァニア/チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States]より

Ita Rina c1931 Autographed Postcard
(Estonian Edition)

Ita Rina Autographed Postcard

Ita Rina 1930 Inscribed Postcard

母は自分の美しい娘二人をどの映画スターに譬えたらよいか決めかねていた。華奢な姉は愛らしい花形子役シャーリー・テンプル、童顔な女優のオードリー・ヘップバーンに似ているという話になった。姉よりぽっちゃり系の私は古風なディーヴァ女優、ネオレアリスム映画に出てくる情の濃いイタリア女優になぞらえられた。

「『キリマンジャロの雪』のエヴァ・ガードナーに似てない?」、私が12才かそこらで母は叔母にそんな質問をしていたのだ。

「どちらかといえば『モガンボ』かな」が叔母の回答だった。その理由は本人以外に窺い知れぬものではあったが。

「イタ・リナはどう?」、お遊びに混ざってきた姉が口にしたのはセルビア出身の無声映画女優の名。しばらくの沈黙があった。イタ・リナの容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった。でも皆その名前だけは知っているのであった。記憶をさかのぼる限り、クロスワードでは必ずと言ってよいほど「著名なセルビア人女優(7文字)」で登場してくる名前だった。

『チェルノブイリ・ストロベリーズ』
(ヴェスナ・ゴールズワージー、2005年)

Mother could never decide which film star to compare her beautiful daughters to. While my slim sister was likened to the sweet child stars like Shirley Temple or gamine actresses like Audrey Hepburn, the plumper me seemed destined for similes with old-time divas and sultry neo-realist Italian beauties. « Isn’t she just like Ava Gardner in The Snows of Kilimanjaro? » Mother asked an aunt of mine when I was barely twelve. « I’d say Mogambo, » suggested the aunt for reasons known only to her. « How about Ita Rina? » my sister threw the name of one of Serbia’s silent-movie stars into the game. They paused for a moment. No one was certain about Ita Rina’s precise looks, but everyone knew the name, which has featured in every cross-word puzzle as « famous Serbian actress (7) » for as long as anyone can remember.

« Chernobyl strawberries : a memoir »
(Vesna Goldsworthy, 2005, Atlantic Books, London)

セルビアの現代作家ヴェスナ・ゴールズワージーの回想録『チェルノブイリ・ストロベリーズ』(2005年)にこんな情景が描かれていました。「12才かそこら」と書かれているので1970年代の話で、イタ・リナという女優が自国でどう捉えられていたかよく伝わってくるエピソードです。

Ita Rina in Erotikon (1929)

Ita Rina in Erotikon (1929)

イタ・リナを欧州レベルの花形女優に押し上げたのは『エロティコン』(1929年)の成功でした。チェコ出身の名監督グスタフ・マハティの出世作で、後年のヘディー・ラマール主演作『春の調べ』(1933年)につながってくるものです。両作に裸体描写が含まれていましたが『春の調べ』には自然主義/印象派風の光の戯れがあり、『エロティコン』にはドイツ表現主義と東欧由来の幻視・奇想が含まれていていずれも単なる初期ポルノで片付けることのできない作品です。

『エロティコン』は監督の個性や実験性が前面に出ていて個々の俳優の印象が残りにくい作品でもあります。「容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった」の位置付けも作品のそんな性質からきているものです。

Ita Rina in Tonka Sibenice (1930)

イタ・リナは『エロティコン』の成功後、チェコとドイツを往復する形で映画出演を続けています。1931年の結婚と共に女優業から離れますが33年に復帰しトーキーにも出演。1930年『娼婦トンカ』、1935年『人生は続く』などで情感の深さや存在感を見せた女優でもあって『エロティコン』の濡れ場「だけ」で映画史に名前が残ってしまったのは残念な気がします。

サイン入り絵葉書2枚のうち片方は独ロス出版社の絵葉書にメッセージと日付(1930年5月)をしたためたもの。もう一枚はエストニア製絵葉書で1931年製。後者については1930年にエストニアの街ロクサを舞台にした『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)に主演しており、同作公開後に何らかの形でエストニアの映画愛好家が入手した一枚だと考えられます。

Tallinnは『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)のロケ地ロクサから十数キロの場所に位置する街です

[Movie Walker]


[IMDb]
Ita Rina

[出身地]
スロヴェニア(ディヴァーチャ)

[誕生日]
7月7日

1917 – 『シーザーの御代』 セダ・バラ&サーストン・ホール直筆署名

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Theda Bara mid-late 1910s Postcard
(w/facsimile signature)

Theda Bara (as Cleopatra) 1917 Autohgraph

Thurston Hall (as Antony) 1917 Autohgraph

一千九百八年、アントアンヌ座で初舞臺を踏んだ。四年を経て米國へ歸ると直にフォックス會社と契約して映畫界に身を投じた。第一回の作品は、フランク・ボーエル氏の監督の下に井口誠氏などと共演した「馬鹿者」であつた。

嬢がヴァンパイア(妖婦役)女優として最も巧妙な技能を有して居る事を認められるに至つたのは、名歌劇「カルメン」を演じて以来の事である。ヴァンパイア女優多しと雖も嬢の右に出づる者は絶無だと云はれて居る。しかし、一千九百十六年に制作した「ロミオとヂュリエット」では、ヂュリエットを演じて相當の効果を収めたと傳へられて居る。

主な作品としては「クレオパトラ」「悪魔の娘」「オードリー夫人の秘密」「手管女」「巴里の花」などが列擧される。其他「サロメ」「カミル」「永遠のサフォ」「牝狐」「罪」「ヂュ・バリー夫人」「莫連女」など總て妖婦役ばかりである。最近に制作されたものには「光」「蛇」などがあるが、「蛇」は平尾商會の手に依つて先頃本邦に輸入されたが上場禁止を見越して米國へ送り返された。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、玄文社、1919年)

セダ・バラ嬢の妖婦振りが如何に深刻寫實的であるかは、彼女がサーペント(日本にも輸入されたが封切するに至らずして移出されたもの)が、彼女の生れ故郷の米國シンシナツチ市で公開禁止された、その理由は善良なる平和な家庭を破壊する虞があるからと云ふにあつた事でも證據立てられるほどである。

「セダ・バラの面影」『活動寫眞雑誌』1920年6月号(八展社)

そこでボーウェルは、まずグッドマンという善良なアメリカ市民の名前をセダ・バラという異国的な名に変えさせた。セダはシオドシアの略であり、バラは彼女の親戚の一人のバランジャーという姓からとった。だがそれだけではまだ足りなかった。そこでフォックスの宣伝員たちは額をあつめてすばらしい伝説をつくりあげることにした。その伝説によると、バラ嬢はフランス人の画家とアラビア女との間にサハラ砂漠の砂の上で生まれた。Baraという姓は実はArabをひっくりかえしたもので、Thedaという名はdeath(死)の綴りを組みあわしたのである。このアラビアの死のごとき娘は、もと東方の水晶占いに通じ深淵な呪術を心得た妖女である。

「セダ・バラの伝説」『映画スター小史』(岩崎昶著 自由国民社 1951年)

ヴァンプ女優の代表格として名を馳せたセダ・バラは現在でも熱心な愛好家を有しています。絵葉書やトレーディングカードすら検索にほとんど引っかかってこないのは驚くばかり。今回日本の活動写真コレクターがまとめて保管していた絵葉書を一括で入手できたので数年前に手に入れた直筆物の投稿にまとめていきます。

サインは2016年に入手。『シーザーの御代』(大正6年)の公開時、セダ・バラ(クレオパトラ役)とサーストン・ホール(アントニウス役)がシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の書籍ページの切れ端にサインを残したもの。頭文字「T」を書くとき万年筆の先端が紙に引っかかった跡があります。

手元にある1セット以外にも同種のサインが現存、2015年頃にeBayで売りに出されていました。一点だけなら個人愛好家が気を利かせて…の可能性が高いですが、複数点ある、しかも共演者が同席しているのは販促イベントで発生したと見るのが妥当かなと思います。

「セダ・バラの伝説」の紹介は手厳しいもので「美しくもなかったし、芝居もできなかった」の評価を下していました。実際、1910年代のセダ・バラ現象はフォックス社プロモーション戦略の産物に過ぎなかったと見ることもできるでしょう。それでもマーケティングの内情がこれだけオープンにされた今なお人々を魅了しているのは興味深いです。欲望や名声、若さや情熱すらたちまち消費されていく世界に何かを持ちこんできた、何かを残していった感はあります。

[Movie Walker]
シーザーの御代

[IMDb]
Cleopatra
Theda Bara
Thurston Hall

カローラ・テーレ (Carola Toelle 1892 – 1958) 独

Carola Toelle Autographed Postcard

フリッツ・ラング監督初期作のひとつ『彼女をめぐる四人』(Vier um die Frau、1921年)で主演を務めたのがこちらのカローラ・テーレです。

第一次大戦終戦前後にドイツで数多デビューしてきた女優の一人で、当時はヘラ・モヤと並んで知名度が高かったようです。デビュー間もない時期の主演作『Das Lied der Colombine』でのリュートを手に歌う場面が印象的で、今回入手したサイン絵葉書はその場面をモチーフにしています。

本作のヒロインを演じているカローラ・テーレは品があって愛らしく、演技にも共感できる。

Carola Toelle, die hier die Hauptrolle inne hat, ist eine anmutige, liebreizende Erscheinung, deren Spiel sympathisch berührt.(Neue Kino-Rundschau vom 17. Oktober 1918. S. 59)

Carola Toelle in Das Lied der Colombine (1918)
『Das Lied der Colombine』(1918年)より

Carola Toelle in Vier um die Frau (1921, Fritz Lang)
『彼女をめぐる四人』より

[IMDB]
nm0865438

[Movie Walker]
カローラ・テーレ(Carola Toelle)

[誕生日]
4月2日

[出身]
ドイツ(ベルリン)

[サイズ]
8.6 × 13.4cm

[データ]
Verlag Herm. Leiser, Berlin Wilm. 5661 Phot. Deutsche Bioscop Ges.

グラディス・クーパー (Gladys Cooper 1881- 1971) 英

Gladys Cooper 1914 Autographed PostcardGladys Cooper 1919 Autographed Postcard

第一次大戦前に人気のあった英女優グラディス・クーパーのサイン物2点。当時のイギリスで5本指に入る人気にも甘んじることなく研鑽を積み『マイ・フェア・レディ』(1964年)の老貴婦人役を含む息の長い活躍を見せました。

初期サイレント作品では歴史ロマンスの『ボヘミアン・ガール』(1922年)が現存。美形俳優として知られたアイヴァー・ノヴェロとの共演作で、物語は単純ながら丁寧に作られています。また後にディートリヒとの二人三脚で名を馳せるスタンバーグ監督が初めてクレジット(助監督)された作品としても知られています。

2枚の絵葉書は同一所有者の旧蔵品で、裏面にはそれぞれ「1914年7月」「1919年9月」の入手日が記入されていました。

[IMDB]
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[Movie Walker]
グラディス・クーパー(Gladys Cooper)

[誕生日]
12月18日

[出身]
イギリス(ロンドン)

ディオミラ・ヤコビニ (Diomira Jacobini 1899 – 1959) 伊

イタリア [Italy]より

Diomira Jacobini 1929 Autographed Postcard

Diomira Jacobini 1929 Autographed Postcard

若くしてデビューした姉のマリア・ヤコビニを追うように1912年に女優デビュー、第一次大戦中に20作以上の映画に出演し知名度を上げていきます。

終戦後イタリア映画界が陰りを見せ始めるとマリアを含む多くの俳優は海外に活躍の場を求めました。ディオミラもドイツに渡り再スタートを切っています。

『死の花嫁』(1928年)

『死の花嫁』でのディオミラ(右はカリーナ・ベル)

この時期の作品で、1928年の歴史メロドラマ『死の花嫁』(Revolutionshochzeit)が現存。ディオミラは結婚式当日に革命派に見つけ出され、軟禁されてしまう花嫁を演じています。名監督A・W・サンドベルグの力量が発揮された同作は評判を呼び日本でも公開されました。

姉マリアの圧倒的な存在感、実績にややもすると隠れがちですが、『死の花嫁』からはお姉さんにはない硬質な透明感も伝わってきます。

[IMDb]
Diomira Jacobini

[Movie Walker]
ディオミラ・ヤコビニ

[出身地]
イタリア(ローマ)

[誕生日]
5月21日

[データ]
9.0 × 13.9cm 「1929年10月29日ベルリンにて」 « Ross » B.V.G. Berlin SW 68

河上君栄 (1907 – ?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Kawakami Kimie Autograph

マキノ撮影所~松竹に移りながら初期映画を支えていった女優さんで、金森万象作品『砂絵呪縛』(1927年)の露路役、マキノ正博監督『浪人街 第二話』(1928年)のお蒔役が知られています。

ある時期のサインにやや特殊な色付きインクの万年筆を使っていたようです。経年で周囲に滲みが出やすく、他のサイン物でも同じような劣化の仕方をしています。

kawakami-Kimie02

[IMDB]
nm2387796

[JMDB]
p0057710

[出身]
日本(愛媛県松山市)

[誕生日]
1月30日

[サイズ]
8.5 × 13.5 cm

[コンディション]
C

アニタ・スチュワート Anita Stewart (1895 – 1961) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Anita Stewart Autographed Photo
Anita Stewart Autographed Photo

映畫に於ける嬢はその天分を速かに示した點で、クリフォード嬢と比較される。全く嬢の名聲は矢のやうに早く擴がつた。それには、次のような機會があつたのである。ラルフ・インス氏といへば、ヴァイタグラフ會社の重役で且つ撮影監督である事は、誰でも知つてゐるが、そのインス氏は嬢の義兄になつている。氏の夫人が嬢の姉なのである。(一説に嬢は氏の姪だとも云ふが、何れにしても親族關係がある事は事實である)インス氏は常にこの天才的な義妹を持つていゐる事を友人たちに誇つてゐた。そして何時とはなしに、ヴァイタグラフ會社の舞臺で藝を仕込んだ。仕込まれると、嬢自身も一度カメラの前に立つて見たくなつた。そこで、先ず最初の六箇月間だえは端役を演じ、一千九百十二年十一月、その第一回の主演劇として「ウッド・ヴァイオレット」を撮影した。續いて數本の映畫を作つたが、同社の特作品たるブロードウェイ特作映畫が創作されるに當つて嬢は選ばれて主役を演じ、益々名聲を昂めるに至つた。「萬雷」「二人女」「大破壊」「呪の列車」「探偵の娘」「銀彈」などは本邦に輸入されたものゝ中でも、特に印象の深かつたものである。目下はファースト・ナショナル會社に勤めてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1910年代後半を代表するハリウッド女優。当時の『モーション・ピクチャー・マガジン』誌の人気投票結果を見ていくと1914年に15位で初ランクイン。翌年には10位(152万票)とトップテン入りし、1916年と18年に6位まで順位を上げています。

コミカルで愛らしい女性像を得意としたメアリー・ピックフォードとマーゲリット・クラーク、スポーティーな女性を代表していたパール・ホワイト、妖しさを体現したセダ・バラと並ぶ人気を得ていた訳です。

ヴァイタグラフ社の稼ぎ頭で悲劇調のドラマチックな作品を得意としていました。現存作品が少ないのが残念ですが、先日紹介した『呪の列車』の他に『人の欲望(Human Desire)』がDVD化されています。

[IMDB]
nm0829171

[誕生日]
2月7日

[出身]
アメリカ合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
18.8 × 24.0cm

[撮影]
Hoover L.A.

ベルト・ボヴィ Berthe Bovy (1887 – 1977) ベルギー 大正10年のサイン絵葉書と明治43年の主演作『ダビデとゴリアテ』

「フランス [France]」より

Berthe Bovy 大正10年直筆サイン入り絵葉書

1900年代中盤にシャルル・ル・バルジの元で演劇を学び、コメディ・フランセーズ入りして舞台デビュー。美人女優として話題を呼び、雑誌の表紙を幾度となく飾りました。20年代にはコクトーやコレットなど当時の文壇の最先端と交流を重ね、存在感を増していきます。

1960年代までの長いキャリアを持つ舞台女優さんですが、第一次大戦前(1908-14)には映画にも多く出演していました。有名な『ギーズ公の暗殺』(1908年)ではまだ端役だったもののすぐに主演がつくようになり、旧約聖書を元にした『ダビデとゴリアテ』(1910年)は後に9.5mmフィルムでも市販されています。

明治期の作品でもあり、野外の寸劇を収めたような粗い仕上り。本来は男であるダビデ王を女優が演じているためか不思議な倒錯感があります。

[IMDB]
nm0100664

[誕生日]
1月6日

[出身]
ベルギー(リエージュ)

[サイズ]
8.6 × 13.7cm

[コンディション]
B+

酒井米子 (1898 – 1958) & 木下千代子 (1903 – 没年不詳)

日本・女優 [Japanese actresses]より

酒井米子&木下千代子 連名サイン

本人は『もうそろそろ引退時です』といつて居るさうであるが人氣はさうでもないらしい。何といつても現代の映畫女優ではスターである。明治三十三年十一月生れの二十九歳。東京市神田の産で十四歳の時有樂座で處女出演『ヂオゲスの誘惑』『野鴨』等の當り役がある。後暫く休養して大正九年五月日活第三部に加入し、『朝日さす前』『白百合の香』等に出で十年八月退社、十一年八月松竹に入り『海の叫び』其他に出演。矢張り古巣が戀しく同年末日活に復帰し『若草の唄』『旅の女藝人』『現代の女王』『椿姫』に扮装。最近主演は時代物『修羅八荒』『鳴門秘話』又新劇では『狂態の女師匠』『砂繪呪縛』のお酉等の大作がある。

『玉麗佳集』「酒井米子」より(1928年)

左の女優さんも控えめなサインが残されています。こちらは木下千代子さんと判明。『己が罪』など小林商会製作の初期映画に出演していた女形、木下吉之助氏の娘さんに当たるそうです。酒井米子さんとは1929~30年頃の日活で共演記録があり、絵葉書とサインも同時期ではないかと思われます。

[JMDB]
p0164280

[IMDB]
nm0757039

[誕生日]
11月25日

[JMDB]
p0358620

[IMDB]
nm1767877

二代目 阪東寿之助/壽之助 (1909 – 没年不詳)

二代目 阪東寿之助/壽之助 サイン入り絵葉書

写真は二代目阪東寿之助。衣笠貞之助作品に多く出演しており名作『十字路』(1928年)では灰を浴びて失明する弟役を演じています。

Bando Junosuke in Crossroads(1928)
『十字路』(1928年)より。

[JMDB]
p0133950

[IMDB]
nm0051758

[誕生日]
2月22日

[サイズ]
13.3 × 8.4cm

トーラ・ティエ Tora Teje (1893 – 1970) スウェーデン

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Tora Teje Autograph/autographe/autogramm

デンマークの映画協会(DFI)のDVDを再生すると冒頭に同協会のクレジット画像が出てきます。スティルレルの『エロティコン』の一場面で、ラルス・ハンソンの胸に背中を持たれかけたトーラ・ティエが微笑んでいます。

『エロティコン』は無声期の北欧映画を代表する作品のひとつで、その魅力はトーラ・ティエの存在感に負っている部分も多かったと思います。美人タイプではありませんでしたがひとたび動き始めると洗練やコケティッシュさに目が離せなくなります。

女性の深みを洒脱に表現できる女優さんは同時期ですと他にフェダーク・シャーリ(ハンガリー)、ポーリーン・フレデリック(米国)しかいなかったのではないでしょうか。

はてなブログに素敵な紹介記事があります。

[IMDb]
nm0854189

[出身]
スウェーデン(ストックホルム)

[誕生日]
1月17日

[データ]
[Foto: Hofatlier Jaeger, 1923. Ensamrätt: Axel Eliassons Konstförlag Stockholm, 367]

[サイズ]
8.6 × 13.7cm

国島荘一 (國島莊一/國島昇) & 岩崎繁

「昭和4~5年 (1929-30年) 東亞キネマ サイン帖」より

國島昇-岩崎繁 直筆サイン

1902年、福島に生まれた。1914年、井上正夫の門下に入り、本郷座で初舞台を踏む。1922年、松竹蒲田に入社。当時の芸名は国島昇。池田義信監督の『水藻の花』では、都会の青年役で認められ、野村芳亭監督の新時代劇『雁の群』では高崎の重吉を演じ、清水宏監督の『白菊の歌』で木下千代子と共演。1924年、芸名を国島荘一と改める。

1929年、河合映画に移り、『彼女は何うなるか』で琴糸路と共演。時代劇『浅草丹次』『旗本の下に』に主演後、東亜キネマに入社。『処女戦線』で宮城直枝と、『一度はすべての女に』で岡田静江と共演。1931年、松竹蒲田に戻り、『深夜の溜息』『三太郎満州出征』に出演。五所平之助監督の『天国に結ぶ恋』で色敵役を好演するが、これが遺作となった。

『日本無声映画大全』(マツダ映画社)

東亜のサイン帖でサインで解読できなかったものがあったのですが、一件が國島昇氏と判明しました。松竹蒲田を中心に活動されていた男優さんで、1930年後半からのごく短い期間に東亜にも在席されていました。國島昇は初期芸名で途中から国島荘一名義で活動しています。病気がちで1932年に亡くなったとされており、非常に珍しいサインではないかと思われます。

添えられているのは東亜キネマで撮影監督として働いていた岩崎繁氏。主に時代劇(『竜虎八天狗』『建国黒頭巾』『薩南大評定』)を担当し、東亜が傾くと東活~宝塚キネマに転籍していきました

エヴァ・マイ Eva May (1902 – 1924) 墺

「国別サインリスト ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Eva May Autograph/autogramm/autographe

『アスファルト』(1929年)等で知られる監督ヨーエ・マイと、女優ミア・マイの間に生まれた娘さん。幼い頃から子役として映画に出演、1919年から女優業に専念し始めています。翌年にはヒロイン役での活躍を見せ始め、伝記映画『パガニーニ』(1923年)でコンラート・ファイトの相手役を務めました。

波乱に満ちた私生活でも有名で、16歳での初婚を皮切りに3度の結婚と離婚を重ねていきました。その後も恋愛のトラブルが続き1923年に手首を切って自殺を図ります。この時は一命をとりとめましたが翌年に銃で自殺を試み22歳で亡くなっています。

[IMDB]
nm0561945

[誕生日]
5月29日

[出身]
オーストリア

[メーカー]
Ross Verlag 269/4

[撮影]
Becker & Maass phot.

[サイズ]
13.4 × 8.7 cm.

[コンディション]
B+

クリスチャン・シュレーダー Christian Schrøder (1869 – 1940) デンマーク

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Christian Schrøder Autograph/autogramm/autographeChristian Schrøder in Pat und Patachon

先日北欧物のサインをまとめ買いした中から一枚。デンマーク出身の男優クリスチャン・シュレーダー氏によるもので、1937年3月29日の日付が付されていました。

1910年代初頭、北欧映画の創始期から活躍し、舞台と並行しながら多くの短編喜劇映画の主役を務めました。20年代になると大ヒットシリーズ「フュー・オ・ビー」常連となります。「二重あごで恰幅の良いおじさん」役を得意とし、しばしば名女優スティナ・ベウとペアを組みながら作品にユーモアと温かみを加えていきました。

[IMDb]
nm0775725

[出身]
デンマーク(ミゼルファート)

[誕生日]
7月13日

[データ]
[1937年3月29日、リーフカット・オートグラフ]

[サイズ]
16.8 × 10.8cm

ヒルダ・ボリストルム Hilda Borgström (1871 – 1953) スウェーデン

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Hilda Borgstorm Autographed Postcard
Hilda Borgström Autographed Postcard

20世紀初頭のスウェーデン舞台を代表する女優さんでシェストレム監督の重要作品『インゲボリ・ホルム』(1913年)、『霊魂の不滅』(1920年)両作でヒロインを務めました。前者では貧しさゆえに子供と生き別れた女性を、後者では病床にある貧しい妻を熱演しています。

この絵葉書は『エロティコン』舞台版の写真を使った一枚。後の映画版でトーラ・ティエが演じるイレーヌ役を担当したと思われます。無声映画では老け役が多かったのですが、それ以前のあでやかさが伝わってきます。

[Movie Walker]
ヒルダ・ボリストロム

[IMDb]
nm0096737

[出身]
スウェーデン(ストックホルム)

[誕生日]
10月13日

[データ]
[Ensamrätt: Axel Eliassons Konstförlag Stockholm, Nr 6276 Foto: Atelier Jaeger, 1909]

[サイズ]
8.7 × 13.5cm