シルヴィア・シドニー Sylvia Sidney (1910 – 1999)

サイン館・合衆国/カナダ/オーストラリアより

Sylvia Sideny Postwar Leafcut Autograph

一九一〇年八月八日紐育市に生る。五尺三寸。十三貫。セアタア・ギルド・スクールに入り、「市街」にクララ・ボーの代役をつとめたのを機に賣り出す。暗褐色の髪、靑綠色の眼。シユルバーグ・プロダクシヨン專屬。出演映畫、「疑惑晴れて」(フオツクス)「市街」「アメリカの悲劇」「女學生日記」「鐵窓と花束」「ミラクルマン」「我等は樂しく地獄へ行く」「お蝶夫人」「舗道」(パラマウント)「ストリート・シーン」(U・A)「ジエニイの一生」(パラマウント)。宛名、パラマウント撮影所。

「シルヴィア・シドニイ(Sylvia Sidney)」
『洋画総覧』(1934年、S.Yコンパニイ文芸課編、スタア社)


ヒッチコックの『サボタージュ』、フリッツ・ラングの『激怒』『暗黒街の弾痕』『真人間』、ワイラーの『デッド・エンド』といった諸作を通じて戦前期ハリウッド映画の愛好家には馴染みの深い女優さん。

1930年代前半、若くしてパラマウント社の花形に昇り詰めていきます。当時公開された初期作の一つ(『丘の一本松』)について、飯島正氏が彼女の演技の「正確さ」について触れている文章がありました(1936年『映画の本質』第一書房)。

出世作となった『市街』には、逮捕されたヒロイン(シルヴィア・シドニー)が金網越しに恋人(ゲイリー・クーパー)とやりとりを交わす有名な場面があります。古今東西で使いまわされてきた設定ながら、この時のシルヴィア・シドニーの体の角度のつけ方、表情や声の出し方など、他にありえないと思わせる的確なアウトプットを見せています。技術的に上手いというだけではなく、役柄をどう理解するか、そこに自分の感情や人生経験をどう乗せていくかというレベルで高い完成度を見せていたことになります。

そういった彼女の資質が十全に開花したのが1930年代後半の諸作でした。この時期は駄作・凡作が少なく、出演作を丁寧に吟味していた様子が伝わってきます。丸顔女優の系譜に位置しているので面長の男優(ゲイリー・クーパー、ケイリー・グラント、フレッド・マクマレイ、ヘンリー・フォンダ、スペンサー・トレイシー等)と並ぶと絵面のおさまりが良いです。

戦後になると老け役として脇に徹し、表舞台で名を聞く機会は少なくなっていきます。それでも晩年の1990年代に至るまで、舞台やTVドラマを含めて多くの作品に出演、ヴェンダースやティム・バートン等一癖ある映画監督の作品にチョイ役で登場し往年のフアンを驚かせていました。加齢に逆らわず自らの肉体年齢に相応しい役柄を着実にこなしていくスタンスが彼女らしいです。

シルヴィア・シドニーの女優キャリアで見過ごされがちな2つの作品について補完していきます。

『アメリカの悲劇』(1930年、ジョセフ・フォン・スタンバーグ)

シルヴィア・シドニーは1930年、スタンバーグ監督の『アメリカの悲劇』にヒロイン役で出演しています。セオドア・ドライザーによる同名小説を映画化した一作で、原作の描写に引きずられてスタンバーグ監督の持ち味が消えてしまい同監督作品としては失敗作の部類に入ります。

とは言え地位や豊かさに目が眩んで一青年が自身の恋人を手にかけてしまう物語は、問題設定において1925年の『救ひを求むる人々』に直結しているものです。スタンバーグはこの後ディートリッヒと組んだ一連の作品で名を上げていきますが、それは業界で生き延びるためある特殊な傾向に特化し、磨きあげていった結果でもあって同監督の世界線は『救ひを求むる人々』から『アメリカの悲劇』により明確に表現されています。

こういった「世の中の歪みで軋み声をあげている小さな歯車」の役柄を演じさせると上手いんですよね。しかも他に替えがいない。『アメリカの悲劇』で上手くいかなかったフレームワークの一部を数年後にラングが取り上げなおし、同じ女優を使って成功させていった(『激怒』『暗黒街の弾痕』『真人間』)と見ると分かりやすいのではないでしょうか。

『街の風景』(1931年、キング・ヴィダー)

彼女の残したもう一つの重要作が『街の風景』(1931年)です。この作品の後半には一ヶ所、長尺のクレーン撮影が含まれています。ヒロイン・ローズ(シルヴィア・シドニー)が仕事帰りに駅で降りたところ、人々がざわざわしています。漏れ聞こえた話によると駅近くのアパートメントで殺人事件が起きたとのこと。駅の窓から外を見ると自分の住んでいるアパートです。嫌な予感に囚われたローズは階段を駆け下り、通りの雑踏にもまれながら自宅に向け必死に走っていく。アパートの前に立っていた彼氏のサムと合流し…と流れていく一連の場面で、駅の階段を下り始める瞬間から、自宅前に辿りつくまでがワンショットで撮影されています。

キング・ヴィダ―監督は『群衆』での大掛かりなクレーン撮影が良く知られています。『街の風景』はこのノウハウを生かし、建物(駅)の構造にあわせ、階段を下りてくる主人公を追ってカメラの位置を次第に下げていき、次いで人々と車の停まっている通りの真上を移動、野次馬たちに遮られ何度も足を止め、迂回していくヒロインを常に画面の中心に捉えていきます。

シルヴィア・シドニーはカメラを見ておらず、自分の動きをカメラマン(グレッグ・トーランド)が確実に捉えてくれると信じて演技を続けています。スタッフ側も同様で、幾度となくリハーサルを繰り返したであろう動きを女優が正確に実行してくれると確信しカメラを回しています。しかも動揺・混乱したヒロインが何度も行先を遮られ、回り道をしていく動きとカメラが同期することで、カメラそのもの、映像そのものがひとつの感情を帯びた生き物であるかのような錯覚を与えてくるのです。精密な再現性が要求される場面であって、この時代だとシルヴィアさん以外の女優では上手くいかなかった(そしてヴィダ―監督以外には撮れなかった)と思います。

どこか物悲しい目をした、はにかみがちな笑顔の似あう愛らしい女優さん。でもその先には鉄壁と呼べる強靭な女優の精神、知性、そして深い情感がバランスよく溶けあっていた。飯島正氏が使った「正確さ」はこういった諸々を含みこんだ言い回しでした。1930年代の映画愛好家に伝わっていた、理解できていたことが、むしろ21世紀になって見えにくくなっているのではないかな、と。

[IMDb]
Sylvia Sidney

[Movie Walker]
シルヴィア・シドニー