1930年代 – 9.5mm『捕鯨の話』(第2リール)

『捕鯨の話』
Whaling in Japan (« Hogei no Hanashi » Reel No.2, 9.5mm, 1930s, Banno Company)

1930年代の捕鯨の様子を記録したドキュメンタリー動画。

元々フランスのパテベビー映写機は子供をメインターゲットの一つに据えており、初期アニメなどの娯楽作品の他にも理科や社会につながる作品を出していました。産業を扱った作品も多く、農作物の収穫や工場の様子、また狩猟や漁(イノシシ猟、牡蠣漁、ニシン漁、イワシ漁)を記録した動画を見ることができます。

日本の伴野商店が制作した『捕鯨の話』もその流れに連なる作品です。後半の第2リールのみ入手のため全体像は不明ですが、マッコウクジラの群れを見つけ、銛で仕留め、港に運びこんで解体するまでの流れが追われています。

[メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]
196

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m*2リール(第2リールのみ)

東郷久義、昭和5年(1930年)の暑中見舞い

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

東郷久義、暑中見舞い
Togo Hisayoshi 1930 Summer Greeting Card

Togo Hisayoshi 1931 Portrait

東郷久義(1898年3月26日 – 没年不詳)

本名品川久義。明治卅三年島根縣に生る。上京して海城中學を了へ、尚ほ関西大學法科を卒業後三年間歐州を漫遊す。大正十五年四月、招かれてマキノキネマへ入社、スポーツ劇を以て立つ。主なる近作は「常陸丸」「侠骨日記」等。身長五尺六寸、體重二十二貫。柔道四段。趣味は各種スポーツ。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDB]
p0304430

[IMDB]
nm1798357

[誕生日]
3月26日

[出身]
日本(島根県)

[サイズ]
8.9 × 14.2cm

[データ]
髙島栄一氏宛、昭和5年(1931年)8月3日西陣の消印有。

1920年代中頃 9.5mm ベルギー 個人撮影フィルム 6本

「05b 個人撮影動画」より

1920年代中盤にベルギーで撮影された家族動画。仏パテ社の20mリール×6本。元々フィルム1本+3本の組みあわせで購入したのですがが、2本おまけを付けてくれました。

自然に囲まれ、多くの動物(ウサギやヤギ、猫)を飼っている若夫婦一家を舞台とし、おそらくネリーさんという名前の娘の成長を追った内容。

1920年代中頃 9.5mm ベルギー 個人撮影フィルム 6本
Mid 1920s Belgium 6 Private Films

[01] 『絵本』Le Livre d’images – 1924
    ・テーブルで熊の人形と一緒におままごとをしている様子
[02] 『ピトゥチュ一家』La Famille de Pitoutch – 1925
    ・1925年8月30日、娘さんの3歳の誕生日に撮影された一本
[03] 『ネリーの友達』Les Amis de Nelly – 1925
    ・家で飼っているウサギや猫を主に撮影したもの
[04] 『無題』
    ・母親と一緒にヤギと戯れている様子
[05] 『無題』
    ・前半は猫を抱いてお座りしている様子、後半は屋内での入浴
[06] 『無題』
    ・この一本だけ数年の時間を置いて撮影されており、
     一人で自転車に乗っている場面と母親との菜園いじりが収められています。

9.5mm動画カメラが市販されて間もない1924年の年号が見られ、時期の特定できている手持ちのフィルムとしては最も古いものです。一部に手書き字幕が挿入されているなど技術力が伝わってきます。

2013年2月に購入したセットで何度か映写機で実写しています。左が今回行った解像度4800dpiでのスキャニング、右は1920年代末のアレフ映写機での実写(2015年7月)。アナログは上下トリミングされて粒子感が強く、画面四隅にレンズの球面収差によるボケが出ています。それでも25ワットの微弱な光源でこの解像度はなかなかではないかと。

1928 – 9.5mm 『弥次㐂多 鳥羽伏見の巻』(第二篇)池田富保監督 大河内傅次郎・河部五郎主演

1928-Yaji-kita_Toba-Fushimi
Yajikita: The Battle of Toba Fushimi
(1928, dir. Ikeda Tomiyasu)
Starring Ôkôchi Denjirô & Kawabe Gorô
9.5mm 『弥次㐂多 鳥羽伏見の巻』

池田富保監督の手によるコメディ時代劇。

尾上松之助亡き後の剣戟映画界で人気を博した河部五郎、その河部五郎をも上回る鬼人振りでスーパースターとなった大河内傅次郎を弥次さん喜多さんとして幕末に蘇らせた連作物。

普段はシリアスな顔つきで悪人をなぎ倒していく二人がざんぎり頭の一兵卒として跳ねまわっているミスマッチ感が受けたのだろうなと思います。傅次郎の顔芸の素晴らしさよ。

新妻四郎
新妻四郎(Niizuma Shirô)

見逃せないのは鬼班長・新妻四郎の存在感。恰幅の良い、強面のヒール役はチャップリンの『放浪者』や『伯爵』に出演していた名脇役エリック・キャンベルを彷彿させます。

本作はマツダ映画社所有分の断片プリント(約8分)を元にDVD化されており、9.5ミリ版はその後半4分に対応。ただし一部DVDに収められていない場面がありました。

上官の指示のもと弥次さん喜多さんは木箱の弾薬を担いで運ぼうとしています。敵軍の砲火を恐れて皆がへっぴり腰になっているのを見て鬼班長は「貴様達の臆病には底が無いツ!」と叱咤します。「俺の豪膽(ごうたん)には弾丸も除けるわい…」と嘲笑うのですが、そこに敵砲が命中、弥次喜多は「矢張り当たツた…」と目を見開きます。DVD版では鬼班長の登場場面とセリフが丸々抜けており、いきなり「矢張り当たツた…」の流れになっていました。

新妻四郎は前作「尊王の巻」でも脱獄を試みる荒くれ者役で登場、キーストン・コップ短編さながら同心との全力疾走の追いかけっこを見せていました。1910年代の欧米喜劇への愛情に溢れ、和風テイストに消化した良作だと思います。

[タイトル]
彌次喜多 鳥羽伏見の巻

[製作年]
1927年(公開は1928年)

[JMDb]
bd000620

[IMDB]
tt1320310

[メーカー]
伴野商会

[カタログ番号]
316

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m*2リール

飯塚 敏子 (1914 – 1991)

飯塚敏子 サイン入り写真01

飯塚敏子 サイン入り写真2
Iizuka Tosiko Autographed Photo

この大作 [『唐人お吉』]に、特別主役を振られたので、いまゝでゐた撮影所内の女優さんが今度は納まらない、「女學生上りのお茶つぴいの癖に、一本や二本の映畫が良よかつたからと云つて、唐人お吉に出るなんて生意氣だワ」と大変な横槍だ。飯塚さんが撮影所の門に入ると、もう目引き鼻引き、妬み猜みの陰口が、四方から投げられる。

その口惜しさ、腹立たしさ、勝氣な敏子さん丈けに、身を悶えて悲しく思つたが、今が私の運命の岐れ目だ、こゝをぢつと辛抱し闘ひ抜けよう、と覺悟して、寄宿の家から一里ばかり北にある一条寺の有名な葉山観世音へ、四十九日の願掛け、どうぞ心をしつかりと、この大役の仕遂げますようにーそれは映畫の中の主人公そのまゝの悲壮な決心だつた。

『スターになる道 : 附・映画俳優志願者の心得』(京都映画人協会, 1936)

中村 英雄 (1919 – 1943)

「国別サインリスト 日本 [Japan]」より

中村英雄 サイン入り絵葉書
Nakamura Hideo Autographed Postcard

一口に言えば非常に芝居のうまい子役、子供らしいカンのよさ、演出者はむろん撮影所全体の人からもほめられ可愛がられた子でした。殊に尾上松之助さんから英坊英坊と可愛がられて、いつも仕事のあとはごほうびをもらっていたものでした。芝居の上手い子役、それもそのはず、お父さんが舞台出の俳優で中村あぐりといい、映画界入りから吉次と改名して日活代将軍時代渋い芸風でフケ役にすばらしいものを持っていた人でした。[…]

その英雄君も転戦に次ぐ転戦でとうとう異国の空で病気になり、シンガポールの病院でついに戦病死という惨めさ。報せが届いたのはそれから一年ほどたってです。[…]この英雄君が現在生きていたら相当に活躍される俳優になっていると確信するだけに彼の戦死は惜しまれてなりません。

「名子役 中村英雄」(『髪と女優』 伊奈もと著 1961年収録)

Nakamura Hideo in Chuji Tabi NIkki
『忠次旅日記』(1927年 伊藤大輔監督)の中村英雄

[JMDB]
p0273610

[IMDB]
nm1281999

[出身]
日本(東京)

[サイズ]
13.5 × 8.2 cm

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946) 1920年代の直筆書簡

「国別サインリスト フランス [France]」より

1928年公開『裁かるるジャンヌ』で主演を務めたファルコネッティの書簡。2015年末に仏イーベイで戦前の興行師イゾラ兄弟の旧蔵品が出品された際に入手した一枚。同兄弟はオランピア劇場やサラ・ベルナール劇場の支配人で、役者から監督、作曲家や作家まで広大な人脈を築き上げていた大物でした。

レターヘッドを備えた水色の便箋の表裏にメッセージが書かれており、内容は次のようになっています。


「ペローネ様

御心配は無用です。
契約の解除を同意・確認した旨、イゾラ様宛の手紙にしたためて
投函させていただきました。
今晩、遅くても明日朝までには受け取りになられるのではと思います。

良い思い出になりました、御安心くださいませ。

ファルコネッティ」

« Cher Monsieur Perronnet,

Ne vous-inquietez pas. La
lettre pour Messieurs Isola
dans laquelle je confirme
notre accord de rompre
mon engagement est postée
par la
poste, et vous la recevrez
ce soir ou demain matin
au plus tard.
Soyez assuré, je vous
prie, cher Monsierur,
de mon meilleur souvenir.

Falconetti »

モーリス・ペローネは当時サラ・ベルナール劇場のマネージャーを担当していた人物です。存命中のサラとは家族ぐるみでの親交があり、ペローネ氏の洗礼時に代母(marraine)となったのがサラでした。また画家としての才能もあり、サラの肖像画を多く残しています。

ファルコネッティは1927年に同劇場と契約を結ぶのですが、『裁かるるジャンヌ』の撮影がずれこんだため一旦同年に役を降りた記録があります。手紙で触れられた「契約の解除」はその一件を指しているのではと推察されます。