1933 – 『東西映画 人氣花形寫眞大鑑』 冨士新年號附録

« National & International Cinema Stars Photo Album »
 supplement to the « FUJI » magazine Vol.6, No.1 (Jan 1933) 
published by the Dai Nippon Yubenkai Kodansha, Tokyo, Japan.

以前にも何度か紹介した雑誌『冨士』新年特別号の昭和8年度版。同誌が1930年代に残した映画関連特別号は以下の6冊になります。

昭和6年(1931年)1月: 『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
昭和8年(1933年)1月: 『東西映画 人氣花形寫眞大鑑』
昭和9年(1934年)1月: 『處女作・出世作・代表作 映画花形大寫眞帖』
昭和9年(1934年)9月: 『最新映画大鑑』
昭和11年(1936年)1月: 『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』
昭和12年(1937年)1月: 『名扮装名場面 映画・芝居大寫眞帖』

『冨士』の特別号は各号によって編集方針が異なっています。1931年版は収録人数が多くややマイナーな俳優までカバーしており使い勝手が良いものですし、1934年版は作品名と監督、役者の紐づけに便利。1933年版の本号は写真の完成度が非常に高いものでした。

邦画が無声からトーキーに移行しつつある時期で俳優の入れ替わりも目立つのですが、若手ばかりでなくサイレント時代からの古参も今までと違う表情を見せています。澤蘭子の洗練、柳さく子の翳りの濃い妖艶さ、飯田蝶子の枯れ具合、スーツに丸眼鏡姿の伝次郎が放つ殺気など見どころ多し。

中野英治、大日向傳や岡譲二の伊達男っぷり、水久保澄子と桂珠子のエキゾチックな美しさ、岡田静江のクールさ、星玲子と琴糸路のしなやかな透明感…30年代に台頭した若手も負けていません。普段のイメージと違った雰囲気を出している俳優さんも多く、製作陣が時間をかけてそれぞれの個性を引き出していった様子が伝わってきます。他の写真にも興味のある方はこちらをどうぞ。

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [01] フィルム装填篇

21世紀になっても8ミリ撮影機はまだまだ現役。愛好家がリアルやヴァーチャルで繋がっています。9.5ミリの伝統は途切れてしまっているので正直羨ましいな、と思います。

手元に未使用・未開封のフィルムが幾種類かあるので今回ひとつ封を切ってみました。ドイツのパテックス社が大戦中に市販していた一本で使用期限は1943年8月。

外箱の外観です。フィルム価格に現像料が含まれており、外箱をそのままパテックスに送ると現像されて戻ってくる仕組みになっていました。箱の裏面にはデュッセルドルフのパテックス社住所が印刷されています。

フィルムの種類は「Pathex Moto Kassette « H »」で、1930年代に発売されたパテ社モトカメラH型に対応したパンクロマチック・フィルムです。

まず外箱を開けていきます。「こちら側から開封してください(Hier öffnen)」の指示に従うと郵送時の注意書きが見えます。緩衝材として段ボール素材が使われていて、フィルムカートリッジが銀紙でくるまれていました。銀紙の内側は黄緑色でした。

ここから実際の装填作業に入っていきます。メーカーや機種によって手順は若干異なるものの、9.5ミリカメラでそこまで難しい作業が要求されることはありません。モトカメラH型ではフィルムを押さえつけるゲージ部分が可動式になっている(写真黄色の円)ので、そこをスライドさせて隙間を作りフィルムを押しこみます。その後スライドさせて元の位置に戻すだけで装填が完了します。

装填完了後、カメラの蓋を閉め撮影ボタンを押してフィルムを数センチ進めて張りを調整しておきます。いざ、撮影!です。

モード・ロティ Maud Loty (1894 – 1976) 仏

「フランス [France]」より

Maud Loty Inscribed photo

1910~1930年代に人気のあった舞台系の役者/パフォーマーさん。

黒髪のおかっぱ、やや垂れ目気味、ぺったんこの鼻の童顔に大きなリボン姿…フランスの芸能界であまり見ないタイプの個性派で、当時は同性の支持も多く集めていました。キャラの立ち具合が絵描きたちの心をくすぐった様で多くのイラストが残されています。

芸歴は長く1910年代から「ロティちゃん(la petite Loty)」として親しまれ舞台に立っていました。子役として映画にも出演しており、10年代半ばにコメディ短編連作の主演を務めています。パテ社映像アーカイヴには『リガダン君ジプシーになる(1911年)』に端役で出演した動画が残されていました。

『リガダン君ジプシーになる』
Maud Loty in Rigadin Tzigane (1911) Ⓒ GP Archive

見ていれば分かると思うんだけど、舞台が好きなのはどの一瞬も戦いだから。毎晩毎晩、神経をすり減らして、いつも違うお客さん相手に、しかも最初は全然好意的でない連中まで次第に盛り上げて手に入れる勝利感が好きなの。

最初に響き渡る「ブラボー!」は雪解けの季節、音を立てて最初にパチンと割れる氷みたい。あの瞬間に舞台を我が物にした感があって、さらにもっと、もっと…演技に没入していく。

まぁそういうお仕事なのです。

でも映画だと自分がスクリーン上で行ったり来たり、セリフを言って、それが上手く回ってないのにやり直しできないなんて…いやいや無理、考えただけでゾッとする。自分の出ている映画を見にいく勇気はないかな、がっかりするのが怖いもの。(「モード・ロティ孃トーキーに挑む」シネモンド誌 1931年1月15日号)


Voyez-vous, ce que j’aime dans le théâtre, c’est cette lutte de tous les instants, cette victoire qu’il faut remporter chaque soir, avec ses nerfs, devant un public nouveau, parfois hostile au début, et qui peu à peu s’anime…

Le bruit des premiers bravos, c’est comme la glace qui craque à l’époque du dégel. A ce moment on sent que la salle est prise et l’on en met pour qu’elle le soit encore plus.

Ca, c’est du travail.

Tandis qu’au cinéma, quand je pense que je vais me voir aller, venir et parler sur l’écranet que si ça ne colle pas il me sera impossible de retoucher, non! voyez-vous, rien que d’y penser, j’en ai la tremblote, et je crois bien que jamais je n’aurai le courage d’aller voir mon film; j’aurai trop peur d’être déçue. (« De la scène à l’écran : Maud Loty va faire du cinéma parlant » , Cinémonde. 15/01/1931)

1930年代トーキーの時代に再度映画主演(『即興息子 Le fils improvisé』)のオファーが回ってきます。最終的にはヒロイン役を降りてしまったものの、映画についての考え方を聞けただけでも興味深いインタビューとなりました。

[IMDb]
Maud Loti

[Movie Walker]


[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月19日

1938 – 『パテータイムス 第三巻第二號』 「救國の乙女ジャンヌ・ダーク(『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』)」紹介

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

Pathe Times 1938 February Issue
« Presents La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc »

戦前に9.5ミリ小型映画の愛好家向けに発売されていた冊子では『パテベビー月報』、『ベビーシネマ』、『日本パテーシネ』、『パテータイムス』などが知られています。このうち『パテータイムス』昭和13年(1938年)の2月号で、「救國の乙女ジヤンヌ・ダーク」が取り上げられていました。

本文中に「パテスコープ提供」「特大二巻」「タイトル [間字幕] は英文」とあるように、英パテスコープ社が『聖ジャンヌ(St Joan the Maid)』として発売していた2巻物の英縮約版を輸入販売したものです。

齢二十に満たぬ一介の乙女が祖國フランスを救ひ世界の奇蹟として今尚人口に膾炙する聖少女ジヤンヌ・ダルクの悲壮な行為を史實に依り、叙事詩的に描いた雄篇。しかも九ミリ半愛好者に手頃な特大2巻に壓縮され乍ら些かも無理な感じのない近来の傑作です。學校用としては歴史科、修身科教材として應用でき、御家庭、アマチユアの集會には觀賞用として洋畫飢饉の昨今必ずや皆様を堪能せしめませう。

時は今純戦時状態に入り國民精神總動員愈々徹底されて居りますが、斯る崇高な祖國愛の事蹟に接するは絶對必要ではありますまいか。その意味に於ても本映畫を御觀賞されることを敢えてお奨めいたします。

以上の2段落の紹介文があった後、フィルム前半に当たる第一巻の字幕の日本語訳が丸々掲載されています。

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』は日本で劇場公開されておらず、戦前に日本語で言及された文章を見たことはありませんでした。戦時下の「祖國愛」を鼓舞する形ではあるものの、9.5ミリフィルム経由で紹介が行われていたのを確認できたのは収穫でした。

また今年のNHK連続テレビ小説『エール』にパテベビー撮影機が登場した話は御存じかと思われます。本号のパテータイムスでは古関裕而氏を「この天才作曲家古關氏が熱心を通り越したとも評さるべき九ミリ半アマチユアであることを御承知の人はあまり多くはない。氏はコンテスト等には殆ど出品せぬが默々として素晴らしい九ミリ半映畫をつくつてゐる」と紹介しています。

時は1938年。戦時下となった緊張感や不安感が見え隠れする一冊でもあります。それでもまだ「供給に餘裕ある九ミリ半フヰルム」の見通しが述べられていました。いかに楽観的だったかを翌年思い知らされるわけで、日本における9.5ミリ文化が潰えようとするギリギリの瞬間が記録されています。

1929 – 『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』 米プロモ用プレス写真

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

« La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc » 1929 US Press Photo

現在フランスで祝典が行われているジャンヌ・ダルク400年祭に関連した忘れ難い出来事のひとつが、仏歴史大作映画『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオペラ座プレミア公開である。映画はジャンヌの生き様を生き生きと描き出している。この写真は軍馬に乗り、兵を率いてオルレアン解放に向うジャンヌの姿を写したものである。

A memorable event in connection with the Quincentenary of St. Joan, now being celebrated in France, is the production, at the National Opera House in Paris, of Great French Historical Film, « La Merveilleuse Vie De Jeanne D’Arc, Fille De Lorraine. » The film portraits graphically the life of the immortal Joan of Arc. Photo shows Joan of Arc mounted her charger, leading her troops to relieve the siege of Orleans.

合衆国で紹介された際のプレス用写真。映画中盤にジャンヌ・ダルク(シモーヌ・ジュヌヴォワ)が兵を率いてオルレアン奪還に向かう場面を撮影した一枚。解像度の高い写真ではありませんがVHSや9.5mmフィルムで確認しにくいエキストラの表情や衣装が写っています。

裏面に映画の紹介文をタイプ打ちした紙が貼られており、ニューヨークの「アトランティック写真(Atlantic Photos)」「1929年5月22日(22 MAY 1929)」のスタンプが押されています。

IMDbによると『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』の劇場公開は1929年11月1日。その半年前の4月18日にパリ・オペラ座でプレミア公開されており、4日後の4月22日に文章がタイプ打ちされ、5月22日に写真が準備された流れになっています。

1925 – 9.5mm 『三頭の熊』(ウォルター・ランツ監督)実写併用初期アニメーション

Three Bears (« Dinky Doodle », Walter Lantz, 1925)
French Pathé 9.5mm Version Retitled « Un déjeuner sur l’herbe » (Odd reels/Imcomplete)

後に『アンディ・パンダ』や『ウッディー・ウッドペッカー』等の作品で人気アニメーターとなるウォルター・ランツがキャリア初期に手掛けたアニメ/実写併用連作”ディンキー・ドゥードゥル”(1924-26)。9.5ミリ小型映画が市販された時期と重なり子供向け娯楽作として人気を博し、多くの作品が仏語版9.5ミリ化されていました。

フライシャー兄弟の『インク壺の外へ』(1919~28年)、ディズニーの『アリスコメディー』(1923~27年)に追随したもので、アニメと実写のコミカルな連動にどうアイデアを組みあわせるか各アニメーターが腕を競っていました。

『三頭の熊』(Three Bears)はDVD版『世界アニメーション映画史 6 ウォルター・ランツ』(2006年)未収録で、本国アメリカでもデジタル化されていない珍しい一作。今回入手したフィルムは不完全(3巻物のうち最初の2巻のみ)で状態も良くないものですが、ほのぼのした味わいが面白かったです。実写で出演しているメガネ姿の青年は若き日のランツ氏本人です。

[作品名]
Un déjeuner sur l’herbe

[原題]
Three Bears

[IMDb]
Three Bears

[公開]
1925年7月19日

[メーカー名]
仏パテ社

[カタログ番号]
965

[9.5ミリ版発売]
1927年3月

[フォーマット]
10メートル×3巻(3巻目欠)、白黒無声、ノッチあり

1917 – 『毒草』(井上正夫監督、小林商会) 絵葉書4点

1917 « Doku-sô » (Poison Grass, dir/Inoue Masao)
Original Promotional Postcards

1)毒草劇 井上正夫のお源

 果して母親は眞赤になつた焼火箸を焚火の中から取出すと、思ひ知れとばかり、まづお品の半身像にじウとそれを突刺した上、今度は更に二人立の寫眞の方にも突刺すのだ、さうして滅茶々々にお品の顔を潰したうえ、にたりと會心の物凄い笑を漏らした。(『毒草 お品の巻』菊池幽芳、至誠堂書店、大正5年、「寫眞」)

2)毒草劇 木下藤吉郎のお品 藤野秀夫の土手の福 葛城文子のお仙 栗島狭衣の吉蔵

 彼の髪は蓬々と伸びて額や肩に亂れかゝり、口髭も頤髭も延びるに任した様子から、頬骨の突出て居るところから、眉の太く濃いところから、一寸アイヌの容貌を思ひ出させるところがあつた。着物は木綿の布子を着て居るのが見る影もなくぼろぼろになり、ところどころ垢ずれで光つて居るのに三尺帯を巻つけ、尻からげもせず、だらしなく着流して、足は素跣足のまゝである。腰には巾着のやうなものやら煙草入やらに、小猿の髑髏を二つ括つて居るのが異樣の音を立てゝ、足拍子を取つて踊るたびにちやらちやらとなり、こつこつと響いた。

 土手の福がさも愉快さうに踊つて來る跡から、界隈の子供等がぞろぞろと囃し立てゝついて來た。(『毒草 お品の巻』「土手の福」の章)

3)毒草劇 栗島狭衣の吉蔵 井上正夫のお源

 お源の手からバツタリ槌が落ちて、お源はよろよろと熊笹の中に尻餅を搗いた。

 「お母さん、お前、鬼になつたゞか。これ誰の形代だ。」

 母親は云知れぬ慙愧と憤怒のために、わなわなと顫へながら、吉蔵の顔を見上げて、續けさまに太い溜息を漏らした。

 吉蔵は母親を押へた腕を放すと、その猿臂を差延べて、力任せに藁人形をもぎ取り、

 「お母さん、お前はお品を祈り殺さうとするだな。お前、何でそんなにお品が憎いだ。」(『毒草 お品の巻』「三本杉」の章)

4)毒草劇 翠紅園納屋の慘劇

 いつも其卓子(テーブル)の上には煙草盆と燐寸が置いてあるので、その燐寸を探さうとしたのだ。……と燐寸と一緒に鐵の五本爪のついた除草器が觸つた。お源の頭に突然何ものかゞが閃いたらしく、その除草器を燐寸と共に取上げると、屹と中腰になつて納屋の方角を覗いた。しよんぼりと納屋の方に進んで行くお品の輪郭が闇の中に黑く見透された。(『毒草 お品の巻』菊池幽芳、至誠堂書店、大正5年、「兇行」の章)


三月浅草及び市中の各館各座は一斉に同じ毒草劇を上場して東京ツ子をあつと云はせた。(『キネマ・レコード』1917年)

日活、天活、小林の三會社で『毒草』劇を競争的に發表したことがある。この三つの作品を比較すると、各會社の技倆の程度を畧ぼ測定することが出來るのであつて、何れも各自の特色を發揮し、可なりの熱心さが認められた中にも、小林の作品は井上の扮装と、光線の巧みな應用とによつて、一際勝れてゐたといふことである。勿論日活にしてもその頃は著しき進境を示し、『毒草』を數年前の作品に比較すると、確かに凡ての點において進んで來た。(『欧米及日本の映画史』石巻良夫著、プラトン社、1925年)


『己が罪』で知られる大衆通俗作家・菊池幽芳氏が大正5年(1916年)に大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載していたのが『毒草』でした、地方を舞台とした猟奇的な物語が評判を呼び、連載終了後すぐに舞台化、映画化が進みます。映画版は小林商会、天活、日活向島の三社競作。井上正夫氏が監督した小林商会版の販促に使用された絵葉書です。

物語は病弱で内向的な娘・お品(木下藤吉郎)が、亡き父の知人を頼り、その息子・吉蔵(栗島狭衣)の営む草木店の手伝いとして働き始めたことで幕を開けます。足が悪く閉鎖的な吉蔵は当初はお品を邪険に扱うのですが、花好きで素直な心にやがて惹かれるようになっていきます。また吉蔵の妹で、人嫌いで閉じこもりがちなお仙(葛城文子)も次第にお品へと心を開いていきます。夫婦の約束を交わした吉蔵とお品ですが、この二人の幸せを憎しみの目で見ていたのが吉蔵の母・お源(井上正夫)であった…と続いていきます。

小林商会版は邦画に女優の登場した最初期の例として知られています。「映画女優」の概念が確立されたのは1919年『深山の乙女』でしたが、そこまでに試行錯誤があって女形・女優共存の本作もその流れに位置づけられます。お仙役の葛城文子さんはこの後『七つの海』(清水宏)、『隣の八重ちゃん』(島津保次郎)、『戸田家の兄妹』(小津安二郎)等に母親役として登場、初期邦画界を底上げしていきました。放浪者・土手の福は後の好々爺俳優・藤野秀夫氏で、吉蔵役と脚本で栗島すみ子の父・狭衣氏が絡むなどその他の配役も魅力的です。

[JMDb]
毒草

[IMDb]
Dokuso

[公開年]
1917年

[原作]
『毒草 お品乃巻』(国立国会図書館デジタル版)

藤田陽子 (1919 – 1938?)

「日本 [Japan]」より

Fujita Yoko & Takao Mitsuko 1920s Autographed Postcard


大正八年七月麻布區霞町元明治座の事務員藤田昌宏の次女に生る、大正十三年二月、姉藤田房子と共に松竹蒲田スタヂオに入る。古參役者として可愛がられ人氣がある。初舞臺は柳咲子の『猫』で鳴門のお鶴に扮して転載を認められ、引續き諸口、川田主演の『夜の一幕』にて無邪氣な姿でフアンの注目を惹く。『懐しの蒲田』『母よ戀し』『曲馬團の姉妹』にて愈々好評。好きなものは踊と三味線と甘栗。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


1920年代に人気のあった子役二人、藤田陽子&高尾光子さんの連名サイン。両者の共演は『少女の悩み』(蔦見丈夫監督、1924年)『母よ恋し』(五所平之助監督、1926年)、『九官鳥』(野村芳亭監督、1927年)の3作があります。

[JMDb]
藤田陽子

[IMDb]
Yôko Fujita

[出身地]
日本(東京・麻布)

[サイズ]
13.6 × 8.9 cm

] 映画の郷 [ 電子工作部:Python/OpenCVでデジタル染色(セピア化/クロスプロセス)の連続処理を行う

前回の9.5ミリフィルム「自家染色」の続きです。 綺乃九五式でスキャンした連続画像に様々なセピア系の色を付けてみたい…「デジタル染色」のプログラムをPython/OpenCVで書けないかどうか調べてみました。「キャンプ工学」というサイトで掲載されていた記事が分かりやすかったです。

Pythonでちょっと真面目に趣あるセピア調写真を作る。

処理の流れとしては
1)画像をcv2.imreadでOpenCVに読みこみ
2)画像名を定義
3)HSV画像のパラメーター(0=色相、1=彩度、2=明度)を変更していく。色相は0から180の間で任意に設定(180が赤、110が青、70が緑、30が黄色位に相当しています)。彩度は個人的に80で固定しました。明度は「白黒/COLOR_BGR2GRAY」で固定。
4)画像をBGR画像に戻してcv2.imwriteで保存し直す
となります。

もうひとつアナログ写真の現像やデジタル写真のフィルターで使用される「クロスプロセス」ができるか確認してみました。あまり挑戦している方が見つからなかったものの、英語圏の某写真サイトで分かりやすいプログラムが紹介されていました。

上記のプログラムは何れも単発の変換でした。ファイル名を連番にした複数画像を一括で処理し「今週の動画」に投稿してみました。

1931 – 9.5ミリ個人撮影動画の自家現像における染色術


染色法(Tinting)

通常酸性染料を使用する。それは炭酸曹達溶液叉は現像液によつて脱色することが出來て、且つ手に染まつても同樣にして洗ひ落すことが出來るからである。[…]

染料は各種類があるが、通常使用される種類は、
  ピンク(桃色、紅色)、赤、オレンジ、
  黄色、グリーン、ブルー(藍色)、紫、

染料は通常0.2%溶液即ち10リットルの水に對して20グラム位を溶解する。然し、赤色の濃いものを着けるには50グラム位、グリーン、ブルーなどは40グラム位を大略の程度と考へてよろしい。

酸性染料は、斯くして出來た溶液の中に、氷醋酸0.05%即ち10リットルに對して5c.c.を加へる。氷醋酸は酸性染料の媒染剤である。

フヰルムは、この溶液に浸されゝば適宜の濃度に染められるが、時間にして凡そ、1-3分間である。

染色を終れば、少時水洗して餘分な色素を除き、乾燥させるのである。

『シネ・ハンドブック』(歸山教正著
日本アマチュア・シネマ・リーグ、1930年)


歸山教正氏が『活動寫眞撮影術』の前年に公刊した入門書からの一節。

1920年代後半~30年代前半に9.5ミリで撮影したフィルムを自家現像し、なおかつ「色を付ける」手法が行われていました。薬品の配合まで自力で行う必要があるためそれなりにハードルも高く、実際の使用作品はそこまで多く残っていないようです。 こちらは1931年にフランスの地方の河畔で撮影された2本セット。古い家並みが点在する傍らに小川(プチ・マラン川)があって、友人たちと共にボートで川遊びに訪れた際の動画となっています。二本目は友人と共に食事中の映像がメインです。

フィルムにはオレンジ、青、紫、黄、赤の染色が施され、白黒部分も通常の現像と違って黒く染められた独特の質感に仕上がっています。

表面が流れている個所もあり必ずしも成功しているとは言い難いものの、白黒フィルムの時代に「色」がどう扱われていたのか、どう「見えていた」のか理解する手がかりになります。


1931 ‐ 『活動寫眞撮影術』(歸山教正&原田三夫共著、日本教材映画 [小型映画講座1])

Katsudou Shashin Satsueijutsu [Filming Moving Pictures] – Kaeriyama Norimasa (1931)

初期日本映画の発展に大きな影響を与えた映画理論家、歸山教正氏の残した概説書シリーズの一冊。「小型映画講座」の枠組みで、9.5ミリと16ミリを中心に動画カメラの原理、フィルムの種類、映画光学の基礎、照明、間字幕の作り方などについてまとめています。

技術面に特化した書籍ながら、巻頭に置かれた48頁の写真群は歸山氏の趣味やこだわり、人脈が反映されたものとなっています。洋画では現在でも無声映画の代表作とされる諸作(『裁かるるジャンヌ』『ニーベルンゲン』『戦艦ポチョムキン』)のスチルを収録。他にも独ウーファ社の作品が目立ちます。

国産映画の珍しい画像(撮影中のショット含む)が多く含まれていました。

「或映畫場面のコンポジション(映畫藝術協會)」と題された一枚。さらっと紛れこんでいますがもしかして『深山の乙女』(歸山教正監督、花柳はるみ主演)ではないですか。

「「撮影と照明(1)松竹蒲田映畫」と題された一枚。八雲恵美子さんの姿が見えます。

「實物の室内撮影と照明(日活映畫)」。写真上、左から峰吟子、夏川静江、一人置いて中央に村田實監督でしょうか。そうだとすると『この太陽』(1930年)の撮影風景になります。

初期の日活向島が有していたグラスハウス型スタジオ。

『活動寫眞撮影術』は「小型映画講座」と題された6冊物の第1巻に当たります。他の巻も歸山氏が絡んでおり共著に村田實、夏川静江、徳川夢聲氏の名が挙がっています。

アニー・オンドラ Anny Ondra/Ondráková (1902 – 1987) チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States] より

Anny Ondra 1929 Inscribed Postcard

パリで共に過ごした時間の想い出に
アニー・オンドラ
1929年4月25日

Zur Erinnerung an die zusammen verbrachten Stunden in Paris.
Anny Ondra
25 IV 29


ヒッチコックの『恐喝(ゆすり)』は無声版の撮影が1929年1月〜3月に行われ、その後サウンド版用の追加撮影が同年6月に始まっています。合間にヒロイン役のアニー・オンドラがパリを訪れていて、知人宛に自筆メッセージを残したのがこちらの絵葉書。名前の下にもカッコ書きで単語が書かれているのですがそちらは解読できませんでした。

アニー・オンドラはヒッチコックの後期サイレント作品(『恐喝(ゆすり)』、『マンクスマン』)主演女優として記憶されています。元々プラハで学生時代を過ごし、アニー・オンドラコヴァ名義でチェコ演劇界にデビュー、最初の映画出演もチェコ作品でした。1920年代前半の出演作は幾つか現存しており初々しい姿を確認することが出来ます。

1925年の歴史物ファンタジー『Lucerna』より

1920年代末にヒッチコック作品で国際的な花形女優となり、ドイツの国民的スターでもあったヘビー級ボクサー、マックス・シュメリングと結婚、拠点をドイツに移します。チェコ時代から付き合いのあった同郷の俳優・監督カレル・ラマーチ(カール・ラマック)と共に「ラマーチ=オンドラ映画社」を設立、舞台女優時代に培った歌や踊りのセンスを生かしトーキー時代になっても高い人気を維持し続けました。

この時期の作品で重要なのが1932年のオペレッタ喜劇『理想の先生』。ラマーチ=オンドラ映画社製作ではないのですが、ラマーチと共に主演、初期トーキー秀作としてチェコ映画史に再度名を残すことになりました。

『理想の先生(Kantor Ideál)』より

チェコ映画は東欧映画界でも際立った個性で知られています。1950~70年代に秀作や傑作が集中しているのですが、そこに辿りつくまで長い紆余曲折がありました。ラマーチやオンドラを含めた才能ある戦前チェコの映画人が基礎を築いていった点を強調しておきたいと思います。


[IMDb]
Anny Ondra

[Movie Walker]
アニー・オンドラ

[出身地]
タルヌフ(現ポーランド)

[誕生日]
5月15日

1929 – 9.5mm アニー・オンドラ主演『恐喝(ゆすり)/無声版』 (アルフレッド・ヒッチコック監督) UKパテスコープ版

9.5ミリ 劇映画より

Blackmail, early 1930s UK Pathescope 9.5mm print


戦前の英パテスコープ社からはヒッチコック初期作品の9.5ミリ版が4作発売されていました。

『リング』(1927年公開)… SB30029 (1933年1月発売)
『シャンパーニュ』(1928年)… SB30036 (1933年4月)
『マンクスマン』(1929年)… SB30070 (1934年6月)
『恐喝(ゆすり)』(1929年)… SB30027 (1932年10月)

サスペンス物ばかりではありませんがどの作品にも若きヒッチコック監督の野心や実験が含まれています。とりわけ無声映画として最後に撮られた(そしてトーキー第一作として公開された)『恐喝(ゆすり)』は後のサスペンス巨匠を予想させる一作として評価の高いものです。

『恐喝(ゆすり)』は無声映画として企画され1929年初頭に撮影が行われたのですが、途中でトーキー版の企画が持ち上がり同年夏に撮り直しを行っています。国内では劇場の仕様に応じ、無声版/トーキー版両方が公開されていました。

英パテスコープ社9.5ミリ版は80分強のオリジナルを120メートルリール2巻物の30分程度に縮約しています。画質やトリミングの傾向などを確認するため現行のDVD版と比較してみました。

9.5ミリ版
サイレント版DVD
トーキー版DVD
1)ヒロインがバレリーナ用衣装に着替える場面
2)青年画家のバストショット
3)ヒロインが絵を引き裂いた場面

1)は青年画家の部屋を訪れたヒロインが、バレリーナ用の衣装を見つけて着替える場面です。サイレント版では「背中のファスナーが閉まらない」と青年画家に手伝ってもらう展開となっていました。トーキー版は脚本を大きく変更。青年画家がピアノを弾き語りする隣で着替える構図となり、ファスナーも自力で閉めています。9.5ミリ版はサイレント版のプリントをそのまま使用。

ヒロインが服を着替え直そうとしている間に青年画家が女性の服を持っていってしまう場面が2)、襲われたヒロインがカーテンの陰から現れ、手にしたナイフを落とし、画家の描いた道化師の油絵を破いてしまう場面が3)です。

「サイレント版DVD」と「トーキー版DVD」の3)を比較してみると絵の破れ方が違っています。サイレント版では上辺と右辺が破れて穴が三角形になっているのに対し、トーキー版では左辺まで縦に裂けて台形の穴になっています。

2)でも同様のことが言えます。トーキー版ではつい立てにかかった洋服の袖口に細い切れ目が見えるのですがサイレント版にはそれがありません。洋服の向きが微妙に違っているのです。

『恐喝(ゆすり)』では登場人物の会話が発生している場面は後日撮り直したショットを使っています。会話のない場面はわざわざ撮り直す必要はなさそうですが、「ネガ」は一つしかないため「サイレント版」「トーキー版」両方に使い回すことはできません。そのため最初に撮影された場面の「別テイク」を流用しています。

以前にチャップリンのミューチャル期作品で触れた問題と似ています。チャップリン作品の場合は同じ場面を二台のカメラで撮影することで二通りのネガが発生していました。『恐喝(ゆすり)』の場合は別テイクを元に二通りの異なったネガが作り出されていたことになります。9.5ミリ版はこのうちサイレント版を縮約したものであることも確認できました。


[IMDb]
Blackmail

[Movie Walker]


[[公開年]
1929年

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB30027

[9.5ミリ版発売年]
1932年10月

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無

1930年代中頃 – 日本 9.5mm 個人撮影動画 『無題(草の上の昼食)』

Mid 1930s Japanese Untitled 9.5mm Home Movie

東北地方で撮影された動画群の一つで、家族での近場へのピクニックを記録した映像。リールに巻かれておらず、購入時のアルミケースで保管されていました。

動画は町内から徒歩で移動する家族の後ろ姿で始まります。大人は和装で子供は洋服姿。一人が食べ物を詰めたバスケットを運んでいます。

そのまま舗装されていない道を山の方へ向っていき…

いざピクニック開始!

女性陣は女子会モードで談笑。

運んできた食材を包丁で切り分けている男性の姿。戦前の個人動画では台所で撮られた料理の場面はあまり記録されていないため、こういった映像も貴重です。

一番年少の女の子が親族にあやされてます。ご飯を無心に食べている姿が可愛らしいですね。最後はぐるりと囲んで座っている全員を右から左へ、左から右へと映していきます。

休みの日に近場までちょっと…のささやかな贅沢、仲の良さは伝わってきます。着物姿でピクニックの図柄がなかなか面白く、ルノワールの『草の上の昼食』を和風に解釈した雰囲気もあります。

ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

イワン・ペレスチアーニとグルジア国営活動会社(グルジンスカヤ・ゴスキンプロム)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [08]

Ivan (Ivane) Perestiani c1916 Russian Postcard


ペレスチアニは帝政時代からの有名な活動俳優であつて、彼は革命後の同胞戰時代から引續きコーカサスのチブリスにあつて、一人で藝術的制作に從事していた。彼が最初の映畫は『アルセン・ジョルヂアシウィリ』といつて、これが三年前に初めて公開された時は全ロシアのキネマ界を驚歎せしめたものである。[…] ペレスチアニの傑作は何んと言つても一昨年暮れに出來上つた『赤色小悪魔』(十巻物)である。これは啻に彼一個の傑作であるばかりでなく、また過去七年間の唯一の傑作たるばかりでなく、ロシア全キネマ界の最も傑出した作品の一つと見られている。(『新ロシヤ・パンフレツト;第5編 プロレタリア劇と映画及音楽』 昇曙夢著、新潮社、1925年、93~94頁)

『アルセン・ジョルヂアシウィリ』(« არსენა ჯორჯიაშვილი » 1921年)より


『赤い小悪魔』の成功はペレスティアニ監督による處が大きい。原作・脚本はパヴェル・ブリャーヒンの手によるもので、蛇足ながら出版当時ドイツの帝国主義者たちの激しい怒りをかった事で知られている。連続仕立てとなったこの大層な作品は、所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもするのであるが、心が揺れるようなエピソードが多く、藝術的なセンスで描かれている。幾つかの場面は美しさに達していて、強烈な表現は政治主張の是非はともかくとしても作品に高い芸術的価値を与えている。にもかかわらずこの作品はスタジオ、さらに照明器具が無い状態で製作されたのである。作品の90%は戸外での撮影で、照明が必要な場面ではブリキ板でグルジアの強い太陽光線を反射させ代用したそうである!(『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン著、リーデ出版社、1927年)

『スラムの要塞』(« სურამის ციხე » 1922年)より


ブリャーヒンによる素晴らしい脚本は、ウクライナのネストル・マフノに抗する赤軍パルチザンの戦いを自由に、想像を膨らませながら脚色したものである。マフノは1918年にゲリラを組織し自国を占領しているドイツ人と戦った。その後内戦時にマフノ一味は大きな役割を演じた。赤軍との抗争、略奪、強奪、ユダヤ人虐殺を繰り返す。1921年には完全に討伐されルーマニアに逃げ込んだ。

こういった歴史背景を元にブリャーヒンは『拳骨』風の連続活劇を構成してみせた。やりとりは生々しく、活気と陽気さ、時に革命の熱気に満ち溢れている。この古い映画作品を今見る。途中でだれることもない。ありえなさそうな冒険が雪崩のように続いていく中で、赤軍主導で行われた最初の戦いの息吹を感じることが一度ならずある。(『世界映画史:第5巻』(ジョルジュ・サドゥール著、ドゥノエル社、1975年)

『赤い小悪魔』(« წითელი ეშმაკუნები » 1923年)より


『新ロシア藝術:映画編』の紹介で触れたようにソ連では1923〜24年にかけ中央政府による映画産業の縛りがきつくなっていきます。この直前、中央の統制が緩やかだった時期に才能の輝きを見せたのがイワン・ペレスチアーニでした。

若くして役者を志し、旅芸人の一座に加わって演技のみならず脚本書きや演出の修業も重ねていきます。1916年にモスクワの劇場監督に就任、同年に映画俳優デビュー。エフゲーニー・バウエル作品(『命には命を』『瀕死の白鳥』『革命家』)で重用され次第に自身の監督作も手掛けるようになっていきました。

革命勃発後の1920年にグルジア(現ジョージア)に拠点を移し、新設されたグルジア国営活動会社の中心監督として活躍。1921年から23年に発表した3作品(『アルセン・ジョルヂアシウィリ』『スラムの要塞』『赤い小悪魔』)はいずれも興味深い作品でした。

グルジアで実際に起こった暗殺劇を下敷きにした硬派な政治物、古城を舞台とした民族色豊かなメロドラマ、喜劇と活劇色濃い能天気な革命冒険譚…扱っている題材は様々ですが、グダグダした展開(「所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもする」)とひらめきに満ちた美しい表現(「幾つかの場面は美しさに達していて」)が混在、ムラっ気のある天才肌を感じさせる辺りが共通しています。

また連続活劇や西部劇などハリウッド映画からの影響が強いのも特徴です。帝政ロシア~ソ連への過渡期に生れ、なおかつどちらの価値観からも距離を置き、独特の自由さを備えている。昇曙夢氏やサドゥールの高評価も納得、再発見されるべき監督の一人だと思われます。


[IMDb]
Ivane Perestiani

[Movie Walker]


[出身地]
ロシア(ロストフ州)

[誕生日]
4月13日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

1930年代 – 9.5mm『北海道アイヌの熊狩』(伴野版)

「9.5ミリ 伴野商店」より

Ainu Bear Hunting in Hokkaido (Banno Co. early-mid 1930s)

仏パテ社の『消えゆく民、アイヌの人々』と並ぶもう一本のアイヌ関連9.5ミリフィルム。

『消えゆく民、アイヌの人々』が古いオルソクロマチック形式のフィルムで撮影されていたのに対し『北海道アイヌの熊狩』はパンクロマチック式フィルムで撮られていて1930年代前半頃の動画と推定できます。

既に1920年代、アイヌの文化変容は急激に進んでおり、撮影された映像が当時の、アイヌの生活ぶりを忠実に記録したものではなく、既に日常からは消えようとしている、あるいは消えたものを復元し映像化したと言うことである。(東京シネマ新社ホームページ「アイヌと民族誌映像」より)

『北海道アイヌの熊狩』も「昔時のアイヌ熊狩のいでたち」の字幕で始まっています。服装や装備に近代化の跡が見られ、時代の流れや同化政策によって伝統が失われつつある危機感を伺いとることもできます。

動画では雪の巣穴に閉じこもった熊の進路を木で塞ぐ「穴狩」、発見した熊を徒歩で追いつめていく「追狩」の2種類の猟法が紹介され、最後は獲物を囲んで祈りをささげる猟師の姿で幕を閉じます。

最後の場面では熊を中心に座った猟師たちが両手をこすりあわせ、手のひらを上に向けたまま上下させる「オンカミ」の動作が見られます。クマ=神への畏敬と感謝の意であり、アイヌの民と自然とが独自の思想・世界観でつながっている様子が映像からも伝わってきます。

[邦題]
アイヌの熊狩り

[英題]
Ainu Bear Hunting in Hokkaido

[発売元]
伴野商店

[カタログ番号]
044

[フォーマット]
20m×1巻

1912 – 9.5mm 『消えゆく民 アイヌの人々』(仏パテ・フレール社作品)

「9.5ミリ 科学/歴史/地誌/産業」より

1912 - Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos
Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos (French Pathé)

1912年末にフランスで公開されたほぼ同名の作品を9.5ミリ用に再編集したもの。この作品については海外の映像研究家が論文を発表(『オリエンタリア』2017年第17号)しているため、一旦そちらを参照させていただきます。

アイヌの民が登場してくるもう一つの1912年映像作品は『消えゆく民 アイヌの人々』(英題:The Hairy Ainos)で、パレ・フレール社の製作によるものであった。同社は1902年に映画技術の特許を購入、時事映像の分野でリュミエール兄弟の後を継いだ。忽ちにしてパテ・フレール社は当時最大の映画製作会社となり、1909年に日本にも拠点を設立している。『消えゆく民 アイヌの人々』は長さにして僅か三分足らずの作品である。冒頭ではチセ(アイヌ式住宅)の前に立った四人の男性、次いで四人の女性が映し出される。字幕により、アイヌの人々は大半が猟と漁で生活しているとの説明が入る。次の場面では、海を背景として女性と子供とが歩いてくる。さらに丸木舟に乗った二人の男性が登場。

『消えゆく民 アイヌの人々』が公開された時期、原初の映画術でもたらされた驚きはすでに乗り越えられていた。このパテ社作品には儀式などの伝統から一旦距離を置き、日常生活に密着したいとの意思を読み取ることができる。旧来の時事映像作品と違い、リュミエール兄弟の下でアイヌ民族を撮っていたジレル氏が描いた古い舞踏であるとか、その他の特徴的な要素は本作にない。その代わりとして、朽ちた小屋の前で子供をあやしている女性が登場するのだ。広角レンズで撮影された老人も儀式用の服は着ておらず、頭にラウンペはなく、髭もほとんど見ることはできない。(マルコス・センテノ=マルティン「表象外の眼差し:初期映画におけるアイヌ民族の描写について」『オリエンタリア』2017年第17号)

The other film featuring the Ainu people in 1912 is entitled Un peuple qui disparaît, les Aïnos (aka The Hairy Ainos) and was produced by Pathé Frères Company, which had bought the cinematograph patents in 1902 and succeeded the Lumière brothers in the production of actulités. Very soon, Société Pathé Frères became the biggest film production company of the time, and in 1909, it established headquarters in Japan. Un peuple qui disparaît, les Aïnos, which only lasts for three minutes, begins with four men followed by four women posing before a chise and an intertitle explaining that the Ainu were mainly hunters and fishers. In the next scene, a woman and a child are seen walking with the sea in the background and afterwards, two men enter scene on a chip (Ainu canoe). […]

When Un peuple qui disparaît, les Aïnos was released, the astonishment produced by primitive cinema was already overcome. Pathé film demonstrated an interest to move away from ritualized traditions and a willingness to get closer to everyday chores. Unlike previous actuality films, this footage does not contain traditional dances or other distinctive elements depicted by Girel. Instead, the sequence features a woman and her child before a dilapidated hut; a wide shot framing an elderly man who does not wear the ceremonial clothes nor any raunpe on his head, and his beard can be hardly seen.(enteno Martín, Marcos P. “Gazes outside the Representation. Early Film Portrayals of the Ainu People (1897-1918)”, Orientalia, issue 17, 2017, pp. 189-211)

筆者センテノ=マルティン氏は実際に北海道を訪れ、アイヌ民族についてのドキュメンタリー映画(“Ainu. Pathways to memory”)も監督されている人物です。論考後半では、タイトルの「消えゆく」という表現が同時期にアメリカン・ネイティヴに使われていた(1925年出版のゼイン・グレイの小説『滅び行く民族(原題:The Vanishing Americans)』)点にも注意を促していました。

映画の発明当初から少数民族への興味は見られたものの、独自の踊りや入墨、髭といった表層的な関心が優先されていたのに対し、『消えゆく民 アイヌの人々』では生活に密着していく発想が顕著となり、結果として表現されている「リアリティ」の質が変化している、というのがセンテノ=マルティン氏の主張の一つです。

当初の好奇の眼差しが次第に研ぎ澄まされていくという話は一般的に見ても分かりやすいのではないかと思われます。


[タイトル]
Les Peuples qui disparaissent. Les Ainos

[原題]
Un peuple qui disparaît, les Aïnos

[メーカー]
仏パテ・フレール社

[公開]
1912年

[IMDb]


[メーカー]
仏パテ・フレール社

[仏パテ社版カタログ番号]
1230

[フォーマット]
20m(2707フレーム、14fps、3分)、無声、ノッチ有

「チュヴァシ映画社」とタニ・ユン(Тани Юн、1903-1977)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [04]

Tani Yun 1929 Russian Postcard


チュヴァシ自治共和国の映画製作機関である「チュヴァシ・キノ」は共和国での国ぐるみの映画産業が見事に開花した特筆すべき例である。革命前夜の過去を描き出した『女』(Сарпиге、1927年)、チュヴァシの町での革命を描写した『ヴォルガの風』(Ял、1928年)はいずれもチュヴァシ共和国地元出身の芸術家たちによって生み出されたものである。チュヴァシ映画女優として最も名高いタニ・ユンは国外でも同様に絶大な人気を誇っている。革命十周年を祝うため、「チュヴァシ・キノ」は『チュヴァシア』と題された映画を製作。ヴラディミール・コロレヴィッチによるプロデュース作で、チュヴァシ共和国の経済、文化の成し遂げた成果をまとめ上げている。(「各共和国における映画産業」 、『ソヴィエト連邦レビュー』1929年6月号収録)


Chuvash-Kino, the film organisation of the Chuvash Autonomous Republic is extremely characteristic of the successful development of the national film industries. “Sar-Pigi” showing the pre-revolutionary past, and “Yal,” describing the revolution in the Chuvash village, were produced entirely by the native artistic forces of the Chuvash republic. Tani Yun, the most prominent Chuvash film actress, is extremely popular outside Chuvash as well. The Tenth Anniversary of the Revolution was celebrated by the ChuvashKino by a film called “Chuvashia,” produced by Korolevitch, summarizing the economic and cultural achievements of the Chuvash Republic. (« The Film Industry in the National Republics », in Soviet Union Review, 1929 June Issue, 105p.)


かつてのソ連邦で五本指に入る人口を有していた少数民族がチュヴァシ族です。1925年に自治共和国のステイタスを獲得、同時に「チュヴァシ映画社(チュヴァシ・キノ/Чувашкино)」が活動を開始します。同社の花形女優として活躍したのがタニ・ユンでした。

1903年に農家の娘として生れ、モスクワの体育学校に進学。1922年インストラクターとしてチュヴァシュの首都チェボクサリに赴いた際に見た舞台劇に感銘し女優転身を決めたそうです。劇団で修業中に俳優・劇作家のマクシモフ・コシュキンスキーと知りあい結婚。

この時期、チェボクサリにはまだ映画館がなく、劇場で無料の映画上映会が開催されていたそうです。そこで見た映画に感動し、タニ・ユンは夫に映画製作を持ちかけます。資金もスタジオもない状態からの制作は至難を極めたもののこの企画がチュヴァシュ初の長編劇映画『ヴォルガの乱』(1926年)となり、チュヴァシ映画社の公式設立(1927年)の原点となっていきました。

『ヴォルガの風』(1928年)の一場面と思われる映像より

この後『女』(1927年)から『メメント』(1932年)までチュヴァシ映画社で製作された長編映画の全てでタニ・ユンはヒロインを務めています。芯の強さ、素朴さと柔らかさを兼ね備えたプレ・ヌーヴェルヴァーグ的な演技スタイルは国内の映画雑誌でも高く評価されていました。

1930年、中央政府はチュヴァシ映画社を含めた複数の映画公社を統合しヴォストーク映画社を設立。共和国の個性を重視した制作活動ができなくなり、精彩を欠いた同社は数年もせず自然消滅。タニ・ユンは夫と共に劇場での舞台活動に戻っています。

1937年、夫マクシモフ・コシュキンスキーが「ブルジョワ的なナショナリズム」を理由とし粛清対象となります。タニ・ユンもまたスパイの嫌疑をかけられ職を、次いで家を追われ、カザフスタンの強制収容所へ送られました。この際彼女が出演した映画のフィルムは全て破壊されたとされています。

1940年にこの案件が再度審理され最終的に無実の結論になりました。しかし演劇界や映画界への復帰の道は閉ざされていました。戦後、正式に夫婦は復権。一人娘が1960年代に事故死した後、二人の孫を育て、1972年に自伝を執筆。1977年に逝去。

2000年代後半頃からチュヴァシ国内、さらにロシア全体でタニ・ユン再評価の流れが目立つようになってきます。2013年には自伝が復刻。2017年には地元の中学校でチュヴァシ映画社設立90周年を祝う式が開かれ、翌2018年は生誕115周年記念イベントも開催されています。


[IMDb]


IMDbには彼女のエントリーがありません(英語版ウィキペディアも同様)。出演作一覧は以下となっています。

1926:ヴォルガの乱 «Атăл пăлхавçисем» (Волжские бунтари)
1927:女 «Сарпике» (Сарбиге)
1928:黒い柱 «Хура юпа» (Чёрный столб)
1928:ヴォルガの風 «Ял» (Вихрь на Волге)
1930:洗ふ女 «Апай­ка» (Прачка)
1931:聖なる森 «Киремет кати» (Священная роща)
1932:メメント «Асу­т» (Помни)

[リンク]
チュヴァシ共和国ヤードリンスキー地区公式HPでのタニ・ユン紹介ページ(ロシア語)
2017年、チュヴァシ映画社90周年記念行事を紹介する記事(ロシア語)
2018年、生誕115周年を祝いチュヴァシで開催されたイベントを紹介する記事(ロシア語)
1928年公開の『黒い柱 (Хура юпа)』を紹介しているLivejournalのブログ記事(ロシア語)

マリア・テナジと『ザレ』(”Զարե”、1927年・アルメニア映画公社)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [05]

Maria Tenazi 1927 Russian Postcard


本名マリア・アレクサンドロヴナ・タデヴォシアン(Мариам/Мариа Александровна Тадевосян)。国籍はアルメニアでロシア帝国~ソ連市民。

1903年にバクー(現アゼルバイジャン首都)で生れる。フィルムのロケ地で探してアラヴェルジの町を訪れたバルスキー監督の目に留まり、1924年グルジア国営活動会社作品の端役で女優デビュー。

1926年、アルメニア映画公社第一回作品となる『ザレ』で主演のクルド娘役を務める。しかし次作『雲の隠れ家』(1928年)のロケ撮影中に風邪をこじらせ女優業を休止、療養に入るも1930年に27歳で逝去。

「彼女がクルドの女性服に身を包み、大きな銅の水瓶を肩に担いで泉へ向かう場面では、生まれてこの方ずっとクルドの牧草地で過ごしてきた人のように見えた」(『ある俳優兼監督の回想録』、アモ・ベク=ナザリアン、1968年)

アモ・ベク=ナザリアン(Amo Bek-Nazaryan/Համո Բեկնազարյան)監督はイワン・ペレスチアーニと並んで1920年代初めのグルジア国営活動会社隆盛に功のあった人物です。元々アルメニア出身で、1920年代中盤にアルメニア映画公社が結成されるとその中心となり同国初の長編映画『ナムス』(Намус、1925年)を完成させました。

『ナムス』のスタッフや俳優を母体に制作した長編第2弾が『ザレ』で、主演に抜擢されたのがアルメニア人女優マリア・テナジでした。羊や牛を飼って暮らしているクルドの小さな集落を舞台とし、相思相愛の男女が族長息子の横やりで引き裂かれていくメロドラマを描いた一作です。

『ザレ』でのマリア・テナジ


出演しているのはクルド人俳優ではありませんでしたが生活風習や衣装、価値観を丁寧に反映させており、現在のクルド人監督(Mizgîn Müjde Arslan, Kazim Oz)からも「映画史上初のクルド映画」と評価されています。

ソ連映画の一部として製作された経緯もあって中東のクルドの人々が『ザレ』を鑑賞できる機会はありませんでした。状況が変わったのがこの10年程で、2011年3月にイスタンブール映画祭で上映、また2016年には公開90年を記念した高画質リストア版がアルメニアで上映されるなど再評価の機運が高まっています。

マリアさんは若くして亡くなり、出演作が少なく(計8作)メディアの露出が少なかったこともあって伝記データや逸話がほとんど残っておりません。数少ない例外としてベク=ナザリアンが戦後に発表した『ある俳優兼監督の回想録』(«Հուշեր դերասանի և կինոռեժիսորի»、1968年)に『ザレ』撮影時のエピソードが紹介されています。


[IMDb]
Maria Tenazi

[出身地]
ソ連(アゼルバイジャン/バクー)

[生年月日]
5月1日

[リンク]
2011年、イスタンブールでの上映会のリポート(アルメニア語)
2016年、映画公開90周年にアルメニアでリバイバル上映された際のリポート(アルメニア語)