1926 – 高木新平・生野初子主演『傷魂』(東亜キネマ、長尾史録監督)説明本・出版者不明


京傳は、遂に此の玄右衛門を暗殺して仕舞つた、其後に残されたのが伜の銀之助である、『あゝ我が父を殺したのは京傳である、『彼れを討ち取つて父の仇を返さなければならぬ』とさまざまに苦心して居たが却つて京傳に覺られて已に危くなつて來たのを、京傳の娘なる彌生のために計らずも、助けられたのが妙な縁となつて、二人は仇同士の子と子でありながら、戀と戀との不思議な運命の仲となつてしまつた。


1926年に出版された豆本サイズの解説本で出版者の記載はなし。表紙を開くと写真が一枚あって、次ページに配役一覧、その後文章が7頁続いていきます。同時に公刊されたと思われるものを他に2冊所有しており、他に東亜の『南蛮寺の怪人』『強狸羅』が出ていたのも確認しています。

天草四郎の乱を背景とし、島原藩での権力争いに巻きこまれる形で仇の子供同士である相馬銀之助(高木新平)と久利部彌生(生野初子)が戀に落ちていく…の展開となっていきます。

物語のさわりの部分だけを紹介したものでこの後銀之助と彌生にどのような運命が待ち受けているのかは分からないままです。体裁、内容的にみて市販されたものではなく、客の興味を引くため映画館が宣材として配っていた非売品かなの印象があります。


[JMDb]
傷魂

[IMDb]
Shokon

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

] 映画の郷 [ 電子工作部:「綺乃九五式」スキャン画像修復プログラム(4)マウスクリックで矩形を指定しピンポイント修正を行う

この数日行っていたのがマウスクリックで画面上に領域を指定し、その部分をピンポイントで修正するプログラム製作です。画像の一部を処理する作業は「ROI(Region Of Interest)」と呼ばれているそうで、参考になるプログラムがオンラインで見つかりました。

【OpenCV】画像の一部のみ処理するROIの設定について【Python版】

このプログラムでは座標は予めコード内に記述しておく設定になっています。マウスクリックで座標を取得するプログラムは別に探しました。

OpenCVを使ってマウスイベント(手動)でテニスコート領域を選択できるようにする

クリックを4回するとその4点のxy座標をリストに格納し、その4点を頂点とする矩形を描くことができます。

「ROI」は矩形(台形などを含む)ではなく長方形しか処理できないようでしたので、4点クリックではなく左上と右下の2点クリックで座標を取得する形に修正します。ざっと書いたのが「denoising-roi2.py」(左)です。

先日スキャンした『聖女ベアトリクス伝説』からの一コマ。額の辺りに楕円形の汚れが付着しています。この部分をピンポイントで修復していきます。

sample18-roi01

プログラムを起動します。額の汚れの部分を左上と右下で挟みこむように2回クリック。すると自動でマスク画像が生成され、inpaint関数がそのマスク画像を介して元画像を修復していきます。

もう少し詳しい流れとしては:
1)加工用に元画像全体を一旦複製する(「dst_img」)
2)クリックした2点を対角線上の頂点とした長方形の画像「s_roi」を「dst_img」から抽出する
3)「s_roi」をhsv変換してからマスク画像「hsv_mask」を生成する
4)「hsv_mask」をパッチとし、inpaint関数で「s_roi」に修復をかけ画像「dst」を生成する
5)「dst」を「dst_img」の元の位置に置き換える
6)修復完了した画像を別名義で保存する(必要なら元画像を上書きする)

おでこの汚れを一か所消すだけにしては複雑な作業をしています。

参考サイトでは「ぼかし処理(blur関数)」を使っていて、これだと一行で済みます。ただぼかし処理は修復ではないんですよね。blur関数では下の結果になります。

copy-2836b-blurredcopy-2836b-blurred-detail

散らした感じとなり四角い跡が残ってしまいます。

一方のinpaint関数は設定次第でかなり綺麗な修復結果になります。設定値「uppervalue(uv)」を変えながら修正結果の違いを比較してみます。

copy-2836b-uv50
uv = 50 (7.896 秒)
ほとんど変化なし

copy-2836b-uv90
uv = 90(9.26 秒)
輪郭部分が残ってシミの様に見えます

copy-2836b-uv120
uv = 120(9.028 秒)
だいぶ薄くなりました

copy-2836b-uv150
uv = 150(9.091 秒)
かなり綺麗に消えています

copy-2836b-uv150b
uv = 150の拡大

uppervalueを150まであげるとダメージはほとんど見えなくなります。拡大するとうっすら輪郭は残っていますが、blur関数の様な不自然な感覚はありません。

フィルムのスキャン画像でダメージが一か所しかない、というのはあり得ない話で、傷や汚れは数ヶ所〜数十か所に及びます。そのまま修復システムに組みこむ感じではなさそう。それでもマウスクリック2回でxy座標を格納し、画像領域を指定してピンポイント修復出来るようになったのは収穫でした。

ダマール・ゴドウスキー、1930年代後半の直筆書簡 Dagmar Godowsky (1897 – 1975) 露/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より


本当にとても傷ついております。カクテルパーティーにご招待したのはキプリン氏に引きあわせようと思ってのことで、「後で連絡するよ」と仰ったにも関わらずその後は梨のつぶて。何があったのですか。来週は船旅の予定となっているため、確実に連絡のつきそうな日曜の早い時間帯に電話くださいね。貴方の怠慢にもめげぬ温かい心持ちをこめてダマール・ゴドウスキー


I am really very hurt. I invited you for cocktails to meet Kiplins and you said you would let me know, but never a word ! What happened ? I am sailing next week so do call me sunday early that will be the best time to reach me. In spite of your neglect warm feelings Dagmar Godowsky


1920年代にニタ・ナルディやヴァレスカ・スラット等と並ぶエキゾチックな女優として評価を得ていたのがダマール・ゴドウスキーでした。名ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーの娘として生まれ、第一次大戦開戦後に父と共に合衆国に移り住みました。

映画デビューは1919年で、アルベール・カペラーニ監督がナジモヴァを主演にして撮ったハリウッド無声版『紅楼夢』(邦題『赤き灯』)でした。翌年からユニヴァーサル社作品に出演するようになり、同社の花形男優のフランク・マイヨと結婚。1922年にはロン・チェイニー主演作『狼の心』ヒロインを務めました。

フォトプレイ・マガジン 1922年6月号

その後ヴァレンチノ主演作の『情熱の悪鬼』(1924年)などに妖婦・ヴァンプ女優として登場、1920年代末には映画業界から離れ、社交界でその存在感やユーモアに長けたコミュニケーション能力を発揮していくことになります。

今回入手した書簡は(以前に紹介したサンドラ・ミロワノフ宛と同じく)仏ジャーナリストのルネ・ブレステ氏に送った一通。パーティーの招待をスルーされたダマールさんが恨み節を交えて再度連絡するよう迫った内容。シャンゼリゼ通りのカールトン・ホテルの専用便箋が使われています。


[IMDb]
Dagmar Godowsky

[Movie Walker]
ダマール・ゴドウスキー

<[出身地]
ロシア(ヴィルナ、現リトアニア)

[誕生日]
11月24日

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

2013 -『アルデンヌ⁼ワロン誌増刊 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』(ポワント・デ・ギヴェと周辺地域地方史研究会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

2013 - Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 - 1913

ヴィクトラン・ジャッセ監督の死後百年となる2013年、同氏の生家があるアルデンヌ地方の地方誌が特集号を出しました。

序文が置かれた後、第1章)劇場に雇われていた青年時代からニック・カーター連作で映画監督として名を上げるまで、第2章)ニック・カーターから『ジゴマ』、第3章)遺作『プロテア』を含む晩年作品と展開していき、最後に「付録」として本作でも全訳を掲載したジャッセの論考『活動寫眞監督術考』が収められています。

ヴィクトラン・ジャッセがフュメ(Fumay)で過ごした幼少時や青年期の情報はほとんど知られていない。

冒頭の断り書きにあるようにジャッセ監督については若い頃の情報がほとんど伝わっておりません。それでも父親がイゼール県出身の大工さんで鉄道の敷設工事に関わっていたこと、母親は再婚でジャッセにとって義兄にあたる人物がいた話が触れられています。序文ではこの義兄の家に残されていた親族写真が掲載されていました。数少ないプライベート写真と思われます。

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第1章ではエクレール社の映画監督として名を上げるまでの話が触れられています。断定されてはいないものの現在でもパリのナシオン広場に置かれている「共和国の勝利像」作者である彫刻家エティエンヌ・ジュール・ダルーの弟子だった可能性があるそうです。世紀が変わって1900年代冒頭となりイポドローム劇場に雇われます。舞台背景のデザインやポスター制作を担当していたそうで、雑誌にはジャッセのデザインしたイベント告知用ポスターが掲載されていました。

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この後初期映画界と接点が生まれ、アリス・ギィ・ブランシュのアシスタントを経て自身が監督として生計を立てるようになっていきます。ニック・カーター物でヒットを飛ばし、ジゴマで一世を風靡、その後社会派作品や怪異色にも展開しつつ『プロテア』を遺作として1913年に病没。とりたてて新しい情報はないものの『ジゴマ』封切時に映画館前に貼り出されていたポスター、『ニック・カーター』演出中のバックヤード・ショット、『プロテア』主人公役のジョゼット・アンドリオの全身ポートレートなど貴重な写真が含まれていました。

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ジゴマ公開中の映画観の様子

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ジョゼット・アンドリオ

地元の歴史愛好家たちによる「自分たちの町からこんな凄い監督が生まれたんだよ」の思いがこめられた一冊。地方紙の増刊号ですのでフランス全土に流通しているものではありません。

とはいえジャッセ監督についての単独の著作物は1975年の『ジャッセ』が唯一で、本作は35年ぶりにその記録を変えたことにもなります。本誌が映画史視点ではなく、地方史の観点から出版されたのはある意味示唆に富むものです。

例えばジャッセの後継者となったフイヤード監督は当初パリを中心に活動しつつ、中期以降は出身地の南仏(ニース)に戻り地方色・郷土色を強めた作品を発表するようになっていきました。首都一極の世界観に逆らう感覚は「郷土色重視 (régionalisme)」とも呼ばれ、映画のみならず文芸・アート一般で重要な意味を持ってくるものです。

ジャッセ作品にはフイヤードほど直接に反=パリ指向を打ち出した形跡はありませんが、地方の労働者の子として生まれ育った記憶・経験が何らかの形で反映されている可能性は高く『活動寫眞監督術考』などと照らしあわせながら視点を掘り下げていくことはできると考えています。

[原題]
Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 – 1913

[出版者]
Revue Ardenne Wallonne

[出版年]
2013

[フォーマット]
ソフトカバー、32ページ、29.5 × 21.0 cm

キャスリン・ウィリアムス Kathlyn Williams (1888-1960) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Kathlyn Williams 1910s Autographed Photo

かつての銀幕花形で、初恋相手である活動写真に戻つてきた一人がキャスリン・ウィリアムス孃である。モンタナ州の町ビュートに生れ、ウェズリアン大学とニューヨーク演劇学校で学んだ。舞台では『21歳なりし頃』『デイン夫人の擁護』などに出演した。嬢はパラマウント社やアートクラフト映画社の映画に多く出演しており、『ビッグ・ティンバー』『遭難脱出』『囁きの合唱』『すべてが手に入る訳ではなし』。近作に『愛と芸術』があり、トーマス・ミーアンの相手を務めてゐる。丈は5尺5寸、體重は16貫700匁、金髪に灰色がかった青の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

One of the old favorites of the screen to return to her first love — motion pictures — is Kathlyn Williams. Miss Williams was born in Butte, Montana, and educated at Wesleyan University and the New York School of Dramatic Art. On the stage she appeared in « When We Were Twenty One, » « Mrs. Dane’s Defence » and others. Miss Williams has appeared in many Paramount and Artcraft pictures, including « Big Timber, » « Out of the Wreck, » « The Whispering Chorus » and « We Can’t Have Everything. » One of her latest pictures is « The Prince Chap, » in which she plays opposite Thomas Meighan. Miss Williams is five feet five inches high, weighs a hundred and thirty-eight pounds and has blonde hair and grey-blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

「モーション・ピクチャー・マガジン」1916年11月号表紙

1910年代初頭ビオグラフ社で女優デビューを果たし、ゼリグ社に移って製作された「キャスリンの冒険(The Adventures of Kathlyn)」活劇シリーズで人気を得ていました。会社での序列が上がるにつれて脚本などにも携わるようになり、ゼリグ社で数本自作を監督した記録が残っています。その後はドラマへと比重を移し、パラマウント系列の映画会社を拠点に活動を続けていきました。

映画製作にも関与したパイオニアの一人に位置づけられることもありWFPP(映画業界女性先駆者プロジェクト)でも大きく扱われています。ゼリグ社時代のプリントをEYE映画博物館が保存しており現在YouTubeでも閲覧できます。

『キャスリンの冒険』(1913年、ゼリグ映画社) EYE映画博物館所蔵プリント

[IMDb]
Kathlyn Williams

[Movie Walker]
キャスリン・ウィリアムス

[出身地]
合衆国(モンタナ)

[誕生日]
5月31日

1924 – 榎本書店の活動文庫

1921〜22年にキネマ文庫(A6:14.8×10.5㎝)を扱った後、榎本書店は「活動文庫」という豆本サイズ(A7:10.5×7.4㎝)の薄い説明本を公刊していました。今回4冊をまとめて入手。いずれも大正13年(1924年)8月15日に出版された初版です。ページ数は32で文章は吉田絶景氏。

『キッド』The Kid、1921年、チャールズ・チャップリン監督)

『血と砂』Blood and Sand、1922年、フレッド・ニブロ監督、ルドルフ・ヴァレンチノ主演)

『十八日間世界一周』Around the World in Eighteen Days、1923年、ウィリアム・デズモンド主演)

『ハリケンハッチ』Hurricane Hutch、1921年、ジョージ・B・サイツ監督)

日本で公開された洋画のシナリオを翻訳したキネマ文庫は、いささか毛色の変わった文庫本である。定かではないが、外国映画関係の文庫本としてはこれが濫觴となるのではないだろうか。

一九二〇年(大正九年)に三つの新しい映画会社が誕生したのだが、そのなかの一社である大正活映ではアメリカ映画を輸入配給していた。この時代に日本で輸入・公開されたアメリカ映画のシナリオを翻訳したものが、キネマ文庫である。手元にあるのは一九二四年(大正十三年)一月十日発行の『ブライド13』第七版(初版一九二一年十月二十日発行)と、一九二三年四月十日発行の『白馬の騎手』(初版一九二二年二月十日発行)の二冊。意外に版を重ねているのだが、装丁は紙装で、表紙も本文もほとんど藁半紙に近い粗末な紙質である。扉の次に二枚の口絵があり、次に映画の便概、主要人物及び俳優名、目次、本文と続く。

『文庫博覧会』(奥村敏明、青弓社、1999年)

キネマ文庫以前にも映画関連の「文庫」や「叢書」はありましたし、「シナリオを翻訳」というのは少し違う気がします。それでも1990年代に榎本書店に言及していた点で重要な一文かな、と思います。

最近では2015年には東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)で「シネマブックの秘かな愉しみ」が開催され、本地陽彦氏の旧蔵本である貴重なジゴマ本や、榎本書店が1910年代に出版していた連続活劇物『名金』『拳骨』が展示されていました。

また2013年に早稲田大の『リテラシー史研究』第6号で発表された論文(「映画と小説の異種混交メディア:大正期映画物語本」)を確認するも学術論文は他になさそうでした。SP盤による音声劇を含めた大正期ミックスメディアの全貌は未だ深い闇に包まれています。

マルコ・ド・ガスティーヌ、昭和2年(1927年)の直筆書簡 Marco de Gastyne (1889 – 1982) 仏

「『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』[La Merveilleuse vie de Jeanne D’Arc, 1929]」より

貴殿の手紙を此の地にて受け取ました。仕事の都合でまだ2、3週間程足止めの予定です。巴里に戻り次第電話にてご連絡させていただきますので、待ち合わせの日取りを決めつつ面白そうな話でも出来たらと思っています。ご不在やむなきようであれば次に巴里に来られる予定日を教えていただければ調整させていただきます。

親愛なる
マルコ・ド・ガスティーヌ

Cher ami,
Votre lettre m’atteint ici, où mon travail me retiendra encore une ou deux semaines. Aussitôt que je serai à Paris, je vous appellerai au téléphone, pour que nous prenions rendez-vous et que nous parlions de ce qui vous intéresse. Si vous devriez alors être absent, avertissez-moi de votre prochain passage à Paris, et espérons que nous pourrons nous atteindre.
Croyez-moi, cher ami, bien sincèrement votre,

Marco de Gastyne

マルコ・ド・ガスティーヌ監督が作家ポール・ブラック(Paul Brach、1893-1939)に送った手紙。1927年8月18日付、仏メッツ市のレジーナ・ホテル専用便箋を使用しています。

◇◇◇

映画監督として知名度を上げる以前、1910年代のガスティーヌは画家として成功を収めていました。

昨日午後、芸術アカデミーは芸術学校に於いて会合を開き画家を対象としたローマ賞選考を行った。栄誉に浴したのは以下の者である。
ローマ賞グランプリ:コルモン氏に師事したド・ガスティーヌ。[…]
マルコ・ド・ガスティーヌ氏は1889年生まれ。前回の仏芸術サロンで第3位となり、1909年度の芸術学校のデッサン部門で優勝、今年度は人物画の部門で準優勝を果たしている。

『十九世紀』紙1911年7月24日付

L’Académie des beaux-arts s’est réunie hier après-midi, à l’Ecole des beaux-arts pour le jugement du concours du prix de Rome (peinture). Elle a décerné les récompenses suivantes:
Grand prix de Rome, M. de Gastyne, élève de M. Cormon […].
M. Marco de Gastyne est né en 1889; il a obtenu une troisième médaille au dernier Salon des Artistes français; et à l’Ecole des beaux-arts, la grande médiaille d’esquisse en 1909, et cette année, une 2e médaille de figure (expression).

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『十九世紀』紙1911年7月24日付

人物画、風景画どちらも得意としており特に北アフリカの景色を好んで描いています。大戦中には雑誌の表紙や書籍挿画を手掛けるようになり、終戦後に絵筆を置いて映画界に参入。当時力をつけていた映画プロデューサー、ルイ・ナルパの制作した千夜一夜風奇譚『戀のスルタン』(1919年)のデザイン担当でした。

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『戀のスルタン』(1919年)より

何よりアルジェリア。南アルジェリアとサハラアトラス山脈。これまでの人生で一番贅沢な時間を過ごした場所で沢山の思い出があります。あの一は大地や地元民の荒々しさ、豊かな蜃気楼、ありとあらゆるものが前代未聞のレベルなんです。

(ラ・ラペル紙1927年6月3日付「マルコ・ド・ガスティーヌ」インタビュー)

Mais surtout l’Algérie. L’Algérie du Sud, l’Atlas saharien. C’est là que j’ai passé les heures les plus copieuses de ma vie, celles qui ont fécondé mes souvenirs. Cette région-là est inouïe, par la rudesse de son sol et de ses habitants, par sa richesse en mirages, par toutes sortes de choses.

(La Rappel, 3 juin 1927, Intimité: Marco de Gastyne)

このインタビューを読むと『戀のスルタン』に絡んだのは必然だったのかな、の気がします。自身が監督を手掛けた初期作品(1922年『インシャラー』、1923年『南の地平』、1926年『レバノンの女城主』)も同様で、何らかの形でアラブ世界と接点を持っていました。

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『レバノンの女城主』(1926年)。GPアーカイヴ(旧ゴーモン・パテ・アーカイヴ)所蔵プリント

『レバノンの女城主』からは大手パテ・ナタン社に拠点を移します。映像美、海外ロケの経験値、監督としての人望と将来性などを買われ『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』監督に抜擢。オルレアンの戦闘ではロシア流の速いモンタージュ術を組みこんだ圧倒的な表現を展開していました。

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『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』(1929年)より

30年代となり波止場のサーカスを舞台とした人情劇『麗しき悪女』(Une belle garce、1930年)、アラスカを舞台にした西部劇『彷徨える獣』(La Bête errante、1931年)でトーキーに挑戦。それまでのアフリカ指向とは大きく趣を変えているものの、エキゾチックな異世界への憧憬という点で初期作品の延長と見る事ができます。

1930年代半ば短編ドキュメンタリー監督に転向し1960年代まで撮り続けました。現在の映画史上の扱いは不当なまでに低いものの、『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』『麗しき悪女』『彷徨える獣』の3作品が9.5ミリ形式で市販されていたのは同時代の評価が高かった証です。

[IMDb]
Marco de Gastyne

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月15日

1930 – 9.5mm『麗しき悪女』(Une belle garce、マルコ・ド・ガスティーヌ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』に次いで製作されたガスティーヌ監督初のトーキー作品。英9.5ミリ版は無声で英語字幕入り。

舞台は波止場で営業を続けている小さなサーカス一座。猛獣使いのラバス(ガブリエル・ガブリオ)は妻子ある立場にも関わらず新入りの娘ロゼッタ(ジーナ・マネス)に惚れ上げてしまいます。ところが女はラバスの息子レオに色目を使い、ラバスの心は乱れるばかり。ある日のショーで、ロゼッタに良い所を見せようとライオン二頭を相手に無理な芸を披露したところ…と続いていきます。

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曲芸団を舞台にした不貞と愛憎のドラマとしては1925年のドイツ作品『ヴァリエテ』が有名です。『ヴァリエテ』が生々しい欲望を劇的に描き上げていたのと比べると『麗しき悪女』はウエットなメロドラマ感が強く出ています。また幾つかのサイドストーリーが展開されていて、そちらに監督の趣味性が色濃く反映されています。

1)野生動物への愛着:

ガスティーヌは1932年にはパテ社を離れ短編ドキュメンタリーを撮り始めます。この時に多く主題とされていたのがアフリカの野生動物でした。『麗しき悪女』に登場するサーカス一座の猿やライオンはこういった監督の個人的な好みを反映したものです。

2)映像デザインとしての照明

画家として名を上げ、デザイナーとして映画業界に関わりはじめたガスティーヌにとってセットやコスチュームのデザインは大きな意味を持っています。『麗しき悪女』は照明を上手く使った構図が幾つか見られました。

サーカス一座の踊り子がダンスを披露する場面や、猛獣使いがライオンと対峙する場面では照明が画面上でキラキラする効果を強調しています。

3)女優の選択

中年男の心を狂わせる「美麗な悪女」を演じたのは演技派ジーナ・マネス。ガスティーヌ旧作で主役を張ってきた女優は古風なタイプが多いのですが、本作には自由奔放で気の強い新時代の女優を抜擢、フェミニズム的な流れを多分に意識した配役でもあります。

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一方で踊り子としてシモーヌ・ジュヌヴォワも出演。彼女自身がこの時期の書簡で「モダンな女性を演じたい」と語っていて、ガスティーヌが願いを叶えてあげた形になっています。上の写真で二人並んで踊っている右側がジュヌヴォワです。

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以前に『恋山彦』の投稿で触れたように無声映画からトーキーへの移行期はカメラの移動が重くなり今見るとぎこちない印象を与える作品が多かったりします。『麗しき悪女』にもその欠点は見られ、トーキー肯定派と否定派が激論を交わしていた1930年のフランスで賛否両論を引き起こしていました。正直どちらの言い分も分かるのですがそれでもガスティーヌ監督の個性やセンスは随所に見て取れると思います。

[タイトル]
Jealousy in the Circus

[原題]
Une belle garce

[公開年]
1930年

[IMDB]
Une belle garce

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB846

[9.5ミリ版発売年]
1937年5月発売

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無

1923 – 9.5mm サンドラ・ミロワノフ主演『聖女ベアトリクス伝説』 (ジャック・ド・バロンセリ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix

映画を倫理教育に活用していこうとする発想は古く、欧米では早くから宗教的テーマを扱った作品が製作されていました。1920年代フランスでも例えば『聖テレーズ伝説』(La vie miraculeuse de Thérèse Martin、1929)やルルドの奇跡譚を扱った『聖ベルナデット伝説』(La vie merveilleuse de Bernadette、1929)が公開されています。

今回紹介する『聖女ベアトリクス伝説』も同様の傾向を持つ作品ですが、サンドラ・ミロワノフやエリック・バークレー、シュザンヌ・ビアンケッティら有名な俳優を配することでより広い客層をターゲットに入れています。

時は13世紀、若い修道女が幼馴染の領主と再会、恋愛感情から修道院を脱走。世俗の幸福を手に入れるもやがて現実(夫の不貞、子供の病死、貧困)に打ちのめされ、無一文で修道院に戻った所…と続いていくのがメインストーリーです。シャルル・ノディエの短編を下敷きにしていますがキリスト教社会では古くから知られた伝承です。

1910年代にはドイツのマックス・ラインハルトがマリア・カルミ主演で舞台化し、後に同女優の主演で映画化(『奇蹟』)されてもいます。『奇蹟』と『聖女ベアトリクス伝説』 は対照的な作品で、前者が視覚的な訴えかけを重視しているのに対し、後者は伝説の流れを丁寧に追おうとしています。

以前に『氷島の漁夫』でも触れたようにバロンセリ作品は個々の構図を見ると勝れているのに映画としては冗長に流れる欠点があります。好みの問題と言えなくもなく、一続きのストーリー感のある聖女伝としてはこちらの方が分かりやすいかもしれません。

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix
Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix (1923, Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathé Version

[タイトル]
La Légende de soeur Béatrix

[公開年]
1923年

[IMDB]
La Légende de soeur Béatrix

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
986

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 20m×4巻 ノッチ有

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

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1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その三) 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ/新興、寿々喜多呂九平)

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こちらは浪花、十郎兵衛と約束した鱶七は、或る夜小幡の室へ忍び込んで、まんまと名刀國次を盗み出し、之を十郎兵衛の宅へ持來して「サー旦那、お約束の刀は持つて參りました……五百兩の方はいかゞでございます」十郎兵衛「未だ江戸から參らぬ故もう二三日猶予してはくれまいか」鱶七「私の方には他の買手も出ましたから……ではその方へ譲るとしませう」十郎兵衛「では明日の晩まで待つてくれ……きつと五百兩、耳を揃へてお渡し申さう」

足利将軍の末裔阿波家では権力争いが苛烈を極め、家老の一人鐵川は同僚松永の保管する名刀を盗ませ松永の失脚を狙おうとした。阿波家伝来の宝刀盗難に気付いた松永は大阪に赴き、かつて仕えていた阿波十郎兵衛(雲井龍之介)に事件の解決を依頼する。十郎兵衛は刀のありかを突きとめたものの買い戻すには500両の大金が必要だった…

マキノや東亞で脚本(1924年『逆流』、1925年『雄呂血』)を手掛けた寿々喜多呂九平が30年代に帝キネ〜新興で監督業に進出した時期に残した作品。主演に雲井龍之介、その妻に鈴木澄子を配しています。

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阿波十郎兵衛は様々な逸話で知られた江戸期の凶賊でした。金品狙いで巡礼の娘を殺した一件が発覚し逮捕されます。陰惨な殺人事件を近松門左衛門が美談化したのが『傾城阿波鳴門』第八段で、帝キネ版はこの浄瑠璃バージョンを展開した内容となっています。

JMDbを確認したところこの作品に対応する1931年のエントリーが二つありました。一つが帝キネ製作、もうひとつは新興キネマ版です。

帝キネは1931年8月に消滅し新興キネマに改組しています。そもそも活動文庫版の出版された9月には会社自体が存在していなかったのです。1931年7月に試写が行われキネマ旬報など映画誌の8月号に記事が掲載されるも実際には上映されずに元の製作会社が消滅。立て直しが終わった11月に改めて新興キネマ版『阿波の十郎兵衛』として公開された流れでしょうかね。

[JMDb]
阿波十郎兵衛(帝キネ)
阿波の十郎兵衛(新興キネマ)

[IMDb]
Awa jûbei

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その二)『海江田譲二の高田の馬場』(日活、辻吉朗監督)

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或る一日街頭の易者に己の身上を占はせました。
『世辭追従の嫌ひな貴殿の氣質を當世向きにしなければ士官はなかなか困難です……それに今の世の中は何といつても腕前なぞより金ですからね』
と淡泊と片付けられ、氣早な安兵衛憤つたの怒らないの易者の机を引ッ繰り返し道具をメチヤメチヤにして歸つたこともありました。

昭和6年(1931年)に『新釈高田の馬場』として公開された作品。前年春に日活に入社した海江田譲二の初期作で、説明本も同氏の名前を前に出しています。海江田譲二はこの後同社の股旅物(『沓掛時次郎』)で知名度を上げ、日活を離れ大都に流れ着いてからも剣戟物で活躍していきます。

海江田氏の初期作は「近代味のある時代劇」とも評されていました。本作でも腕は立つが協調性に難があって士官先を見つけられない安兵衛の設定に世界恐慌後の就職難、拝金主義が重ねあわされているようです。

[JMDb]
新釈高田の馬場

[IMDb]
Shinshaku Takadanobaba

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その一)『野に叫ぶもの』(松竹、島津保次郎監督)

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悌二(ていじ:鈴木伝明「あの海岸を埋立てられたら漁家二千人の生活はどうなると思ふ」
健(たけし:高田稔)「知らん」
悌二「二千人の人間を殺してまで君は金を儲けたいのか」
健「儲けたい」
悌二は云ふことを知らなかつた。そして呆れたやうに見つめた。
健「世の中は力だよ、強いものが勝つて弱いものが負けるのは當り前のことだよ」
悌二は福原のこの變つた樣に涙ぐましく健を見て淋しく微笑した。

かつて大学野球で同じチームに属し共に戦った北條悌二(鈴木伝明)と福原健(高田稔)。二人の父親もまたビジネスでのやりとりがあったが北條銀行の破産の余波を受け無一文となった福原健の父親(藤野秀夫)が自殺。不況の世界をどう乗り切っていくのか、意見の大きく分かれた親友は決別した。

二人が再開したのは6年後だった。弁護士となった悌二は弱い人々のために戦っていた。海岸の埋立計画で漁師たちが困っていると聞きその助けに乗り出したが、埋立賛成派として資金援助したのがかつての旧友の健であった…

佐藤紅緑の同名長編小説を元にした前後編仕立ての松竹現代劇。初期はスポーツ俳優として鳴らした鈴木伝明を上手く生かす大学野球のやりとりに始まり、中盤以降は傾向映画色を強めていきます。高田稔の妹に澤蘭子、鈴木伝明の妹に及川道子を配し、藤野秀夫や岩田祐吉、鈴木歌子のベテラン勢が物語を支えています。

淺草に拠点を置いていた「大島印刷株式会社」が手掛けた活動文庫の一冊。大きさはB7(13×9センチ)でページ数は16。以前に紹介した瀧本時代堂の説明本に似ていますが一回り小さいです。

[JMDb]
野に叫ぶもの 青春篇
野に叫ぶもの 争闘篇

[IMDb]
Noni sakebu mono seishunhen
Noni sakebu mono sotohen

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1927年 齣フィルム 『尊王攘夷』50枚 (日活オールスター特作、池田富保監督)

「池田富保 関連コレクション」より

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『尊王攘夷』はVHS〜DVDのソフト化がされており池田富保作品では比較的アクセスしやすい一つです。前半1/3程は江戸城の井伊直弼(大河内伝次郎)を中心に物語が進み、中盤は視点が切り替わり水戸藩士(尾上多見太郎、谷崎十郎、新妻四郎)の動きが追われ、最後に両者が絡みあい桜田門外の場面に収斂していきます。

駄菓子屋でくじ引きとして扱われていた「齣フィルム」を入手したのは今回が3度目ですが、手元に実際の動画データがあるパターンは初めてです。比べてみると色々興味深い発見がありました。

齣フィルム50枚の内訳は下の形になっています。

1)マーク入り:7枚(大河内版4枚、新妻版3枚)

2) 江戸城下での大河内伝次郎:10枚

3) 江戸城下での市川百之助、大河内伝次郎、川上弥生らを収めたロングショット:5枚
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4)井伊直弼との談判にやってきた尾張大納言慶勝(谷幹一)、一橋大納言慶喜(桂武男)らを収めたグループショット:2枚
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5)新妻四郎:5枚

6)大河内伝次郎と中村英雄:2枚
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7)脱藩水戸藩士と幕府からの命を伝える一団との衝突場面:4枚

8)水戸斉昭(山本嘉一):2枚
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9)廓での新妻四郎、桜木梅子、徳川良子:6枚
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10)廓での新妻四郎と酒井米子:2枚

11)廓での谷崎十郎と酒井米子:2枚

12)有村治左衛門(尾上多見太郎):3枚

雑誌を切り貼りして作った小袋には、中身が見えないようフィルムが小さな紙に包まれて入っています。この紙自体が作品の宣材になっていました。

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下の画像は井伊直弼(大河内)に蟄居を命じられた水戸斉昭(山本嘉一)が一旦穏やかに話を受けつつ、表情を変え凄みを見せる場面です。作品版と比較したところ背後のふすまの角度から別カメラ(スチル撮影用でしょうか)によるショットだと分かりました。厳密に言うと照明も変わっていて齣フィルムは天上背後からのライティングがありません。

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他の齣フィルムも同様で、対応する場面があっても人の並びが微妙に違ったり目線の向きが違ったりしており、撮影しているカメラ位置も変わっています。50枚全てをチェックした結果、実写用フィルムと完全一致する画像は一枚もありませんでした。

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映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売したりして、大正期を中心に一大ブームとなった。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

実写用のポジから切り出された齣フィルムも現存しておりますが、「丸愛」印のくじはそういう経緯で発生したものではなく映画会社から提供のあったスチル写真用ネガを元にしたと考えることが出来ます。「齣フィルム風の何か」だった、という訳です、

ちなみにフィルム収納の小袋に転用されていた雑誌は1927年の『映画時代』でした。マキノ省三による論考「續減資の一途」、澤田正二郎と菊池寛らの鼎談に加え日活女優の座談会「日活花形女優懇談會」が掲載されていました。

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座談会に登場していたのが澤村春子、櫻木梅子、徳川良子、夏川静江に岡田嘉子。最初の3名は『尊王攘夷』にも登場。リアルタイムならではのシンクロぶりです。

[JMDb]
建国史 尊王攘夷

[IMDb]
Son’nô jôi

1930年前後 – 9.5mm個人撮影動画 『沖縄』(亀甲墓、バーキ/竹かご、民家、農作業など)【6/7 追記あり】

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

1930年頃 日本・個人撮影動画『沖縄』
c1930 Okinawa (9.5mm Private Film)

以前にデジタル化した『かごめかごめ』と同じ東京帝大薬学部関連のフィルム群より。研究者が何らかの理由(研究会?フィールドワーク?)で沖縄を訪れ、一人が手持ちの動画カメラで現地風景を撮影したものです。時期は1930年前後。フィルムの長さは20m、コマ数は2200弱で、13コマ毎秒で再生すると2分40秒になります。細かく見ていくと:

01

1)湾岸部に広がる民家が映し出されます。極小さく人影が見えます。

0202b

2)亀甲墓

03

3)暗転後に海岸部が映し出されます。自生している木々を撮影している感じがします。

0404b

4)ややぬかるんだ広い道の左右にお店が並んでいます。路肩に乗用車が一台。カメラが移動していくと左手には「明治 リボンキャラメル」の看板が見えます。

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5)やや深めの籠を抱えた地元民が民家の奥に消えていく後ろ姿

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6)路上に立っている男性の姿

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7)天秤をかついだ少年

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8)海岸に沿った細い道、向こう側からやってくる女性の影、同時にカメラの前を横切っていく別な女性の横顔

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9)先のショットの細い道を角度を変えて撮影

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10)橋を渡っていく3人の女性の後ろ姿。頭の上にバーキと呼ばれる竹かごを乗せています

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11)同じ橋の上で、幼い弟と妹の面倒をみながら働いている3人の若い女性

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12)集会所か何かの建物。入口付近に自転車が一台。

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13)笠をかぶり畑仕事をしている地元民

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14)自生している植物

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15)研究所の同僚と思われる男性たち

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16)同僚たちが道なりに歩いていく後ろ姿、その先には中国文化の影響を感じさせる屋根の建物が見えます

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17)畑の脇に並んでいるサイロのような背の低い建物

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18)自生している植物(細長く先が尖った葉っぱ。ツルアダン?)

フィルムそのものには撮影場所が明記されていません。2)、10)、16)から沖縄の(市街地ではなく)農村部〜漁村部を撮影したと考えることができます。また3)、14)、18)など木々や野草を撮影した映像が見られます。薬草学を研究していたためこういった要素に反応しやすかったものと思われます。

古いフィルムで汚れやキズなどが目立ちます。一部を綺乃九五式でスキャンし、その後デジタル修復したのが下の動画です。スキャンは2400×1800ピクセルで行いましたが抜粋版は1200×900まで画質を落としています。

1930年頃 日本・個人撮影動画『沖縄』

沖縄の戦前写真については時折メディアに取り上げられていますが、個人が撮影した動画は珍しいと思われます。撮影した正確な場所は分かりませんが、戦前の沖縄史に詳しい方であれば特定できそうです。

同時期の視覚資料として、国立国会図書館のデジタルアーカイブに収められていた
『沖縄県写真帖. 第1輯』(1917年、小沢書店)
『沖縄写真帖. 第1輯』(1925年、坂口総一郎)
『沖縄写真帖. 第2輯』(1925年、坂口総一郎)
を参考にさせていただきました。


【6/7 追記】

20200607-okinawa-times-01

「90年前の沖縄発見!」

2020年6月7日、沖縄タイムス紙で綺乃九五式スキャンによる動画『沖縄』を紹介していただきました。お時間を割いて対応してくださった編集部の皆様、および関係者の皆様に感謝申し上げます。同記事には本サイトでは特定できなかった詳細な撮影場所の情報が含まれています。この辺は専門家に任せるのが一番ですね。

補足の情報があるのでこちらで追記させていただきます。

昭和5年、朝比奈泰彦氏の下で学んでいた木村康一氏、新井俊次氏が『薬学雑誌』582号に学術論文「漢藥串羗の生藥學的研究」を発表、同論文ではシダの一種「ハカマウラボシ」を分析しており、その際に「琉球産ハカマウラボシ」のサンプルを比較対象として入手した旨の記述がありました。

上海品をハカマウラボシなりと決し得たるは日本羊歯類圖集の緒方正資氏より琉球産ハカマウラボシの生植物の惠與を得て比較解剖したるによるものなり。

「漢藥串羗の生藥學的研究」(木村康一&新井俊次、
『朝比奈泰彦及協力者報文集:
植物学生薬学之部』より、 昭和9-10年)

『沖縄』には野生の植物を映した次のショットが含まれています。

okinawa-sample

中央左の植物がメインの被写体に見えますが、実は手前に生えているシダも意識してフレームに収められています。昭和5年に朝比奈教授が地衣類の研究を本格化させ、その下で学んでいた研究者が沖縄に自生するシダに触れていた状況ともリンクする映像かな、という気もします。

もう一点、朝比奈泰彦氏の自伝『私乃たどった道』を読んでいて次の一節を見つけました。

地衣採集の布袋をブラブラさせて他の人々と一緒に活動している風景は私のパテーベビーのフヒルムに残っている。

(『私乃たどった道』、朝比奈泰彦、1949年、85ページ)

まさかのパテベビー登場。朝比奈氏自身が9.5ミリ動画カメラと映写機を所有しフィールドワークに活用していたのです。最先端のガジェットを趣味に仕事にとフル活用するのが同氏研究室では当たり前になっていたのでしょうね。

パテベビー映写機・解体新書 [簡易版]

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5月末にジャンク扱いのパテベビー映写機を3台入手しました。どれも欠品や破損が目立ち実写には使えませんでしたがパーツ取りして一台分の組立てに挑戦。写真撮影を含めて1時間半くらいかかっています。

こちらの記事は簡易版で、個々のパーツの役割や組立て時の注意点は別項にまとめていきます。


1)背面部を取りつける [詳細版]

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鉤爪の機構を含んだ背面部を取りつけていきます。スプリングを正しく装着しないと映写できなくなるデリケートな部分です。

2)シャッター羽根を取りつける [詳細版]

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円形のシャッター羽根(3Dプリンタでの自作代用品)と、おにぎり型の変形ギアを噛みあわせていきます。1)と並んでパテベビー映写機の組み立てでは一番難易度が高い作業です。

3)正面部を取りつける [詳細版]

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4)ランプハウスを取りつける [詳細版]

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5)ギアカバーを取りつける [詳細版]

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6)土台部を取りつける [詳細版]

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7)蓋部分を取りつける [詳細版]

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8)フィルム保護用のガラスパーツを取りつける [詳細版]

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以上で基本的な流れは完了します。それ以外にもパテベビー映写機の実使用で役に立つノウハウは色々あります。折角ですのでこの機会にまとめてみることにしました。

補足1)ノッチ機構の仕組みを理解する [詳細版]

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補足2)レンズの分解とパテクソール・クラウス f=25mmの話 [詳細版]

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補足3)鉤爪によるフィルム送りの仕組み [詳細版]

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補足4)コンセントの形状と電圧の問題 [詳細版]

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補足5)ベビー映写機専用ランプについて [詳細版]

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補足6)カタログとマニュアル類


1918 – 『演劇生活』誌 28号〜39号(7~9月) 合本 « Színházi Élet »

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1910年に創刊されたハンガリーの演劇週刊誌。18年夏〜秋の12冊を合本にして愛蔵版としたもの。グラビア、新作劇の紹介・講評、劇中歌の楽譜や諸々のエッセイ、広告を含んだ内容です。1冊の紙数は52ページで12冊だと600頁になります。

第一次大戦の負け戦がほぼ確定となっていて、オーストリアのハプスブルグ家から独立し共和国となる(1918年11月)直前、国として大きな岐路に立っていた時期に当たります。エンタメ誌ですので政治の話はされていませんが、ハンガリー俳優がハンガリー語で演じた劇を扱った雑誌が売れるようになった状況そのものが文化アイデンティティの自覚とつながっていたのでしょう。

終戦後、国内に平和が戻ってくるとハンガリー演劇はさらなる盛り上がりを見せ、アイドル的な雰囲気を漂わせた若手も目立つようになってきます。今回入手した雑誌はその直前でガチの演劇人が多く登場してくる印象があります。

またこの時期にハンガリーでも映画産業が拡大しておりグラビアや特集で登場してくる役者たちも多かれ少なかれ映画と接点を持っていました。手元の合本でも幾つかの記事で映画作品や映画会社が取りあげられています。20年代には舞台と映画の棲み分けがはっきりしてくるので過渡期的な状況と見ることもできます。

◇◇◇

ハンガリー初期映画に関わる記事や写真を幾つかピックアップしてみます。

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35号ではマイケル・カーティス監督の初期作『99』が取りあげられています。後にハリウッドに渡って初代ドラキュラとなるベラ・ルゴシの初期作品でもあります。ヒロイン役はクレール・ロットー

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次いで37号でデエーシ・アルフレード(Deésy Alfréd)監督の『アフロディーテ』の紹介記事と『カサノヴァ』のスチル写真が掲載されていました。前者のヒロインはホッライ・カミッラでした。

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38号にはアレクサンダー・コルダ監督の初期作『森の精』。ヒロインにレンケッフィ・イツァを配しています。

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39号にはアストラ映画社の紹介記事。ちなみに『99』はフェニックス映画社、『アフロディーテ』がスター映画社、『森の精』がコルヴィン映画社で、この辺が1910年代末に認知度を増してきている様子が伝わってくるものです。

フェダーク・シャーリラーバシュ・ユーツィが表紙を飾っている他、先日スペイン風邪流行との絡みで触れたバンキー・ユディットのグラビアやセントジョールジー・マールタ訃報を見つけました。

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現在のハンガリーはユーロ圏には属さず文化・政治面で独自路線を取っています。市場も閉じた感じで現地の物を日本に輸入するのは難しいです。今回和歌山を拠点にハンガリー製品の輸入販売を行っているコツカマチカ(Kockamacska)さんに輸入の代行を依頼、コロナ禍に伴う配送難と重なりながらも無事届けていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。