1976 – 『時代劇映画の詩と真実』(伊藤大輔著/加藤泰編) 自筆サイン入り栞付き マキノ雅弘監督旧蔵品 

‘Poesy’ and ‘Truth’ in Jidai-geki Films (Ito Daisuke [Author], Kinema Junpo-sha, 1976) Dedicated to Makino Masahiro

伊藤大輔監督が新聞や映画雑誌に寄稿したエッセイと、加藤泰氏との対談、フィルモグラフィー、旧作のスチル写真や撮影風景写真を軸にまとめた一冊。

名古曽ノ滝は、今でも遺跡としてわずかに石組みだけが残っている。場所は大沢ノ池の北方の田んぼのはずれで、現在の町名は北嵯峨山王-そこに旧友清水宏君の居宅がある。

清水君との思い出は、ことごとく「食」につながる。彼は無類の美食家で、それがまた、うまい物を見つけると、それを友人にも食べさせないと気がすまない。

「名古曽ノ滝」


龍安寺道停留所の踏切ぎわに「マキノ衣装」の倉庫があり、その二階に、いまだ世に出ぬ阪東妻三郎とそのグループが寝泊まりしていた。

「龍安寺界隈」

前半の3部までは昭和30年代後半~40年代中盤に新聞で連載されていた一連のエッセイをとりまとめています。個人的に面白いと思ったのは京都新聞連載の『京都 – 町と人』。清水宏、小津安二郎、稲垣浩、伊丹万作、田坂具隆、牧野省三、山中貞雄…京都の風景や地名がそのまま映画史の記憶とリンクしている様子が伝わってきます。

先生: 唐沢[弘光]君は、他のキャメラマンと違う独特なところがありましてね。キャメラマンはピントはキャメラのレンズを通して右の眼で合わせ、撮影の際には左の眼でキャメラの左側に付いているファインダーを覗くのが通例でしょう。おそらく百人が百人。ところが、唐沢君は、キャメラの本体へ望遠レンズ(長焦点)を装着し、キャメラの左側に単焦点(ワイド)レンズのアイモキャメラをガム・テイプで装着する(このほうはボタンを押し続けておれば自動的にフィルムが廻る)、右手で望遠レンズ装着のキャメラ本体のクランクを廻しながら、同時に左手でアイモの自動回転を操作したり、ストップしたり……、両眼両手づかいの稀有な特技の技術者で。

第4部には100頁を超える対談を収録。リラックスした雰囲気の中で思い出話を咲かせている感じで撮影現場でのエピソードがあちこちに織り交ぜてあります。唐沢弘光氏が2台のカメラを同時に使用していたエピソードは初耳でした。『斬人斬馬剣』も同氏の撮影ですのでそういった視点から見直してみるのも楽しそう。

先生: 夢が多く、目の前に幻影がチラついているんだ。とくに私の場合はキリスト教への幻影が頭の芯にありますから、甘くて美しくて暗いんですね。その暗さがいつまでも尻尾となって私の仕事の上に残っていますね。

この書籍の出版時、伊藤大輔氏は自筆の署名入りの栞を付したものを友人に謹呈したそうです。こちらはマキノ雅弘氏旧蔵の一冊。同監督に縁のあった人物が保管していたものを譲っていただきました。和紙の短冊を使った栞で、空気に触れていた上部に色褪せが目立つ以外は綺麗な状態です。「マキノ先生は多分パラパラとしか見られておられないと思います」とのお話。戦前邦画を代表する二監督の手を経てきた一冊、と考えると感慨深いものがあります。

[出版年]
1976年

[発行所]
キネマ旬報社

[ページ数]
342

[データ]
カバー付 A5判 初版 定価2500円

[ISBN]
0374-01004-1320

1921年 – クロアチア・ザグレブ公演中のモスクワ芸術座カチャーロフ・グループ 直筆サイン入り絵葉書8点

Moskovskii Khudozhestvennii Teatr at Zagreb (1921).
8 Autographed Postcards

ロストフ・ナ・ドヌー、エカテリノダールと回った一行は、1920年3月にはノヴォロシイスクから海路グルジアに渡る。ここに至ってようやくモスクワと連絡がついたものの、劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつれない返事がかえってきただけ。そこで再び海路コンスタンチノーブルへ渡った一行は公演を重ねながらバルカン半島を北上して行くことにした。この巡演は「ソフィア、ベオグラード、リュブリアナ、ノヴィ・サド、ザグレブなど、どこでも熱い歓迎を受け」(Inov 2003:14)、バルカン諸国に多くの芸術座シンパを生んだのだという。

「1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について」
大平陽一

1919年夏に海外巡業へ向かったモスクワ芸術座のメンバーがロシア革命の余波で帰国できなくなり、その後チェコスロバキア政府の援助を受けてプラハを拠点に活動し始めた…という「プラハ・グループ」を論じた一節です。大きくはロシア/ソヴィエト演劇史の一エピソードの括りながら、中欧~東欧への文化的影響や「文化の越境」といった視点から見ても興味深いものです。

革命前、舞台俳優たちはしばしば映画にも出演していた。

「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲルマノワ」
諫早勇一

プラハ・グループを扱ったもう一本の論文で触れられていたように帝政期ロシアの舞台俳優の多くが映画と接点をもっていました。1923年には『カリガリ博士』で知られるロベルト・ヴィーネ監督による独映画『罪と罰』が公開されましたが、同作のキャストはプラハ・グループ所属の俳優で固められたものです。

ラスコーリニコフ(クマラ)

ラスコーリニコフの母と妹(スクルスカヤ&タラソワ)

死の床のマルメラードフ(右、タルカーノフ)とその妻(左、ゲルマノワ)

ラスコーリニコフとソーニャ(右、クルィジャノフスカヤ)

スヴィドリガイロフ(シャーロフ)

今回紹介するのはこの一団が正式にプラハを拠点とする直前の時期(1921年初頭)にクロアチアのザグレブで公演を行った際に残したサイン物のセットです。2016年と2021年の2度に分けて購入したもので元々は15枚ほどの塊でした。予算の都合ですべてを揃えることはできませんでしたが看板女優のオリガ・クニッペル・チェーホワ(戯曲家チェーホフの妻)、花形女優のクルィジャノフスカヤやオルロワ、実力派のマッサリチノフなどが含まれています。

・オリガ・クニッペル・チェーホワ [Olga Knipper-Chekhova] 日本語wiki
・ウェラ・オルロワ [Vera Orlova] IMDb/Movie Walker
・ピョートル・シャーロフ [Petr Sharov] IMDb/Movie Walker
・ヴァシーリー・ヴァシレフ [Vasilij Vasilev] IMDb
・ピョートル・バクシェイエフ [Pyotr Baksheyev] IMDb
・マリア・クルィジャノフスカヤ [Maria Kryshanovskaya] IMDb/Movie Walker
・エリザベータ・スクルスカヤ [Elisabeta Skulskaja] IMDb/Movie Walker
・ニコライ・マッサリチノフ [Nikolaj Osipovic Masalitinov] IMDb

ロシア革命の余波が西欧映画に与えた例としては仏アルバトロス映画社や映画プロデューサー・エルモーリエフの活動が知られています。後者が渡仏前に製作していた作品には芸術座俳優(オルロワ、バクシェイエフ、ゲルマノワ)が多く出演していました。コンスタンチノープル経由でパリに亡命したエルモーリエフが仏無声映画史の発展に深くかかわり、一方で芸術座俳優たちがプラハ経由でドイツ表現主義に絡んでいく…別ルートで同時進行していた2つの風景が同じ根を持っていたと確認できる映画史資料でもあります。

[IMDb]
Raskolnikow

[Movie Walker]
罪と罰

1919 – 連続活劇 『ティーミン』 (ルイ・フイヤード監督)仏語小説版 ロマン・シネマ全12冊揃

「ルイ・フイヤード」より

« Tih-Minh » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
1919 « Romans-Cinéma » French Novelization

2004年、米映画批評家のジョナサン・ローゼンバウム氏が自著の『エッセンシャル・シネマ』でお気に入りの作品千本をリストアップしました。国外の映画愛好家が「このうち何本見れるか」とチャレンジする機会も多く、英語圏では大きな影響力を持っています。同リストには94本の無声映画が含まれており、グリフィスの7作とキートンの6作に次いで多く取り上げられていた監督がフイヤード(5作)でした。

『ティーミン』(1918年)はフイヤード監督が第一次大戦後に初めて手掛けた連続活劇となります。全12話、トータル5時間ほどの上映時間。ゴーモン社が35ミリポジを保管しており2018年から4Kデジタル修復プロジェクトが始動、一般公開から百年目となる2019年に最新デジタル版が完成しました。

『ティーミン』の各エピソード公開にあわせ、毎週木曜日に小説版も出版されていました。24頁ページの冊子形式で、表紙は二色刷り。小説版は単に映像を文字に起こしただけではなく映画版で言葉不足のまま展開されていた個所が説明されています。

フイヤード活劇史において『ティーミン』は物語の「語り」を変える意識が表面化してきた一作となります。

前半4エピソードの主人公はどのような事件に巻きこまれているかを知らず防戦一方となっていて目につくアクションの要素が希薄。中盤4エピソードでは新登場のキャラクター(フランシス)を迎え次第に反撃に向かい、後半に敵を壊滅させる流れになっています。初期作と比べるとスロースタートな展開ながら計5時間の流れを配慮した起承転結と全体の完成度を意識。この傾向は次作『バラバス』にも継承されていくものです。

『ティーミン』のゆったりした物語の流れは同作の弱点にもなっている部分です。旧来の連続活劇のめくるめくアクションやジェットコースター的展開を期待していると肩透かしを食らいます。逆に活劇ジャンルを幼稚とみなしていた一部の映画愛好家がこの作品で初めて活劇を評価した例が見られます。型通りの連続活劇は十分に観てきたという中級~上級者、主流からは外れながらも個性のある活劇を見たいという方が楽しめそうな作品になっています。

2020年ボローニャ復元映画祭でデジタル修復版が上映された際に2021年末にDVD版が発売される旨が告知されており、今後フイヤード活劇再発見の中心となっていくのではないかと期待されます。日本語環境で見れる機会がいつになるか分かりませんので最後に各章の要約を付しておきます(各章のスクリーンショットはGPアーカイヴより)。全体の流れはある程度掴めるのではないでしょうか。

[IMDb]
Tih Minh

[Movie Walker]


[公開]
1919年2月~4月

[出版社]
ルネッサンス・デュ・リーヴル社

付録:連続活劇『ティーミン』各章要約

プロローグ:

冒険家ジャック・アティス(ルネ・クレステ)がインドシナから帰国、車から降りてきた青年の隣には黒髪の女性の姿。現地で世話になったティーミン(マリ・アラルド)であつた。互いに憎からず思っていた二人の運命を一通の電報が変えてしまう。ジャックは単身インドヘと向かわなくてはならなくなった。名残を惜しむ中、ふと不吉な予感に苛まれるティーミンであつた。

第1話:忘却薬

インドでの仕事を終えて帰途についたジャック。しかし彼の動きをこっそり追っている怪しげな一団。ジャックがインドで手に入れた一冊の書籍を狙っているようである。悪党団の狙いは見返しに残されたインド語の手書き文書。まずはキストナ(ルイ・ルーバ)が世間話に紛れて書籍を借りようと試みるが、ジャックの下男(ビスコ)がいたずら書きと勘違いして文章を消してしまったため失敗。悪党達はティーミンを拉致、催眠術をかけて彼女に紙片を奪わせようと試みる。だがしかしティーミンは無意識で抗い言なりにはならなかつた。悪党団は薬を飲ませ女の記憶を消すとジャックの元に返すのあつた。

第2話:事件は夜に二度起きる

インド語のメッセージを書き写した紙片があると知ったキストナ一団はその強奪を計画。「事件の真相を教える」を口実に海岸までジャックを呼び出してから溺死させようと画策。謀略を感じたジャックは下男プラシッドに身代わりを依頼し海岸へと行ってもらい、自身は部屋の薄暗がりに隠れて約束の時間を待つ。部屋の窓から侵入してきた一つの影。机を物色したところを取り押さえたところ以前にキストナという人物から紹介されたサンタフェ侯爵夫人ではないか。女から事情を聞こうとするも、一瞬の隙をついて逃げられてしまうのであつた。

第3話:シルケー館の秘密

記憶を失ったティーミンは病院で療養しながら次第に体調を取り戻していつた。悪党の一味は再度女を拐して紙片との交換条件にしようと画策。ティーミンを見張っていたアティス家の下女ロゼッタの気を逸らしている間に誘拐に成功。一方、キストナを疑い始めていたジャックは下男プラシッド共にキルケー館に潜入、地下室に幽閉されている多数の女を発見。表情は一様にうつろだった。最近巷で多発していた婦女子誘拐事件の被害者だと気づくまで時間はかからなかった。館の一角には怪しげな薬品を調合しているキストナの姿。いったんは館を離れようと試みた二人だったが、プラシッドが庭に仕掛けられた罠に掛かってしまう。館に鳴り響いた警報音。「私を殺すまではしないでしょう。行ってください」、プラシッドの言葉にジャックはその場を離れるのであつた。

第4話:ケースに潜む男

囚われの身となったプラシッドだったが機転を利かせ薬品をすり替えたのが功を奏し、意識を失わずに済んだ。服を運ぶための籠の底に身を隠す。使用人たちは何も気づかず籠を車を乗せた。行先は悪漢が秘密の拠点としているコートダジュールの豪邸であった。プラシッドは館の二階に幽閉されていたティーミンを発見。薬を飲まされていたが動けるようではあった。プラシッドは女を誘導して小舟に乗せ無事脱出に成功、ティーミンをジャックのもとに送り届けるのであった。ジャックは旧友の外交官フランシス(エドゥアール・マテ)に連絡をとり、ヒンディー語文章の解読を試みる。

第5話:精神病院にて

英国から到着したフランシスだったが、駅では悪漢たちが先回りして待っていた。「迎えに来ました」に騙されて乗った車の行先は精神病院であった。悪党一味のジルソン(ガストン・ミシェル)はフランシスの叔父だと身元を偽って「甥に妄想癖があって」と病院長に説明をしていた。病院職員たちはフランシスを独房に閉じこめてしまう。奸計を見抜いたジャック達は病院に乗りこみ友人の救出に成功。フランシスによるとヒンドゥー語の文章は「第29文書」と呼ばれる国家機密で、英仏の国防にも関わるこの書類の入手を目論んで独スパイが暗躍しているとの話だった。

第6話:夜鳥

「第29文書」がフランシスの手に渡ったと知った悪党団は狙いを外交官に変える。フランシスの執事として雇われた青年は隣室で働いている美しい小間使いに心を奪われてしまう。この小間使いに変装していたのはドロレス侯爵夫人だった。ドロレスは執事を薬で意識不明にさせると部屋の物色を始めた。だが帰宅したフランシスにつかまってしまう。ジャックは女を尋問し悪党団の所在地を突き止めようと試みる。

第7話:よみがえる記憶

旧知の医学者クルーゼルの力を借り、ドロレスに催眠をかけて尋問を開始。「機密文書の存在をどうやって知った?」女の口から語られたのは、かつて仏領インドシナで起こったある事件の話だった。当時ローランソンという外交官がトンキンに赴任していたが、在任中に老いた地元民からラジャーの隠し財産と欧州の国防に関わる秘密を記した書籍の存在を知らされる。その時の会話に偶然立ち会ったのがドイツの間諜ジルソンであった。深夜、ジルソンは外交官宅に侵入し秘密の書かれた書類を奪おうとするが見つかってしまう。ジルソンはローランソンを射殺し逃亡。このローランソンこそティーミンの父であった。女の告白を聞いていたティーミンは次第に過去の記憶を取り戻していく。

第8話:ヴェールの下に

悪党団は反撃の機会を狙っていた。ドロレスを奪い返したのち、次の目標はティーミンだった。尼僧に変装したキストナがジャック宅に入りこむのに成功。ティーミンを銃で脅して機密書類の在りかを白状させようとした。危うく命を失いかけたティーミンたちであるが、執事プラシッドとその婚約者ロゼット(ジャンヌ・ロレット)の活躍で悪人たちの撃退に成功する。

第9話:慈悲の枝

一旦は平穏を取り戻したかに見えたジャック達。だが悪党一味は次の襲撃機会を狙っていた。内通者として潜りこませた小間使いを通じてジャック達の動きは筒抜けだった。ジャックとフランシスが悪漢の捕縛に向かおうとした時ティーミンも同行を望んだのだが「危険さに晒す訳にいかない」と断られてしまう。諦めきれないティーミンは荷物の片隅に隠れこっそり後を追おうとするが、その動きをキャッチした悪党団が反撃に出る。

第10話:13日の金曜日

キストナは「金曜日」の伝言を付した白い粉末を内通者に送りジャック達を人事不詳に陥れようと試みる。小間使いの一人が敵に通じていると知ったジャックは謀略を逆手に取り、騙された振りをして悪党一味をおびき寄せようと試みる。金曜、何も知らずやってきたキストナ達を返り討ちにするのだが、一党が退却中にティーミンと鉢あわせとなり、これ幸いとばかりに女を拉致しようと試みる。再度危地に陥ったティーミンを救ったのは意外な人物であった。

第11話:第29文書

ジャック達の尽力が実り、スパイたちへの包囲網が着々と完成しつつあった。だがキストナ一味は最後の反撃を試みる。早朝、まだ就寝中のフランシスの部屋を襲い身動きをとれなくしてしまう。英国からフランソワ宛に届いた書簡を見ると第29文書がすでに無効化された旨が記されていた。「もはやこれまでか」。フランソワを救出にやってきたジャック、プラシッドらに追われ悪漢たちはアパルトマンの屋根伝いに逃走を試みる。

第12話:正義の鉄槌

ジャック達は車で逃走したスパイ団を追跡していく。逃げ場を失った悪党たちは次第に仲間割れを始めていた。最後に残ったキストナとジルソンの二人もまた互いを警戒しながらの逃避行を続けていく。車のガソリンが切れ、徒歩での移動を強いられたジルソンは地元の採掘場で使われていた鉱石を運ぶケーブルカーを思い出した。何としても逃げ切りたい悪党一味とそれを必死で追うジャックと仲間たち。最後の追跡劇、ジャックを待つティーミンらの想いの行方や如何に。

1918 – 『ぶどう月』 (ルイ・フイヤード監督) 撮影風景写真3枚

「ルイ・フイヤード」より

1918 - Vendémiaire (Louis Feuillade)

« Vendémiaire » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
3 photos de tournage (3 behind-the-scenes shots with annotations on back)

第一次大戦終戦の大正7年(1918年)に撮影され、翌8年(1919年)に公開された劇作品『ぶどう月』撮影中の写真三点。販促用スチルではなく、撮影関係者が内々のやりとりで保管していたオフショットで、ここにある以外現存していない資料と思われます。

フイヤード監督の作品は1)初期習作(1913年まで)、2)前期活劇(1914~17年)、3)後期活劇と逝去(1922年まで)の大きく三つに分けることができます。

『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『続ジュデックス』など大戦中の作品で仏活劇に旋風を巻き起こした後、戦後から作風に変化が見られるようになってきます。『ティーミン』や『バラバス』といった後期作品は、アクションの要素を抑えドラマの流れや一貫性を重視し、さらに幻想色を加えたものに変わっていくのです。

前期から後期への橋渡しとなった作品が『ぶどう月(Vendémiaire)』でした。 この監督は「フイヤード組」と呼ばれた固定メンバーを軸に作品作りを進めるのが常だったのですが、終戦の前後に大きな入れ替えがありました。『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』で存在感を見せたミュジドラ、喜劇の要素を加えていたマルセル・ルヴェスクの二人が一座を離脱。その代わりにアジア風の繊細さを持つ女優マリ・アラルドが加入、ルヴェスクの代わりに若い喜劇俳優ビスコが参加します。また『ジュデックス』主役を演じたルネ・クレステもこの後しばらくして『ティーミン』製作後に離脱しています。

『ぶどう月』はマリ・アラルドやビスコが初めて登場したフイヤード作品となります。

『ぶどう月』の物語は、軍隊を離れ、新たな生活を始めようと南仏にやってきた退役軍人(ルネ・クレステ)を軸に進んでいきます。盲目の貴族(エドゥアール・マテ)が所有するワイン園で雇われるのですが、ジプシーと間違われ追い払われそうになっていた貧しい未亡人(マリ・アラルド)を助け、次第にロマンスが生まれてきます。一方では敗走したドイツ兵(ルイ・ルーバ)が身分を偽ってワイン園に潜りこみ、盗みを重ねながらその罪を貧しい未亡人に押しつけようとしていく。未亡人の濡れ衣を晴らすため主人公は…という展開を持つ映画です。

冒頭、主人公はブドウ園の管理人に身分証明書を見せ、雇ってもらうことに成功します。この時ジプシーと勘違いされ雇用を断られた女性に話を聞くと、大戦で夫を亡くしたばかりとのこと、クレステはブドウ園の管理人に話をし、「ジプシーではなく英雄の妻だ」と誤解を解いてあげました。

ゴーモン社所有のプリントでは以下のような映像が続いていきます。

主人公を演じたクレステを中心に、未亡人を演じたマリ・アラルド、管理人を演じたエミール・アンドレを左右に配して撮影されたのが一枚目の写真。作中でマリ・アラルドは頭に布を巻いていましたが、こちらでは首の後ろに下ろしています。

この後悪役ドイツ人が登場、国籍を偽って農園に入りこみ、窃盗を繰り返していきます。途中にベルギー人の同僚が内緒話をしているのを見つけ、小耳を立てる場面がありました。

悪漢を演じたルイ・ルーバを撮影したのが二枚目の写真です。映画では正面と真横からのアングルでしたが、写真は斜め前からのアングルになっています。

最後の一枚はカメラマン。今回「1895」誌のフイヤード特集号に収められていた写真から『ジュデックス』等でも撮影を務めたレオン・クラウス氏と特定できました。

3枚の写真の裏面にはいずれも手書きの説明が付されています。


クレステがブドウ園管理人の元に薄汚れた女を連れて行く。管理人と握手を交わす。女に罪はないと信じていた。

Cresté amène la caraque auprès du régisseur, qui va lui serrer la main: il croit à sa innocence

René Cresté (Judex)


ベルギー人のおしゃべりを盗み聞きしているドイツ人

le boche écoute les belges parler


カメラを「回している」連中の一人

un de ceux qui « tournèrent »

別投稿で紹介したルネ・クレステ直筆の年賀メッセージ葉書と同じ出所で、1919年頃にクレステと親交のあった関係者が保管していた資料の一つです。

この3枚と同じ撮影者の手によるもう1枚の写真も併せて紹介しておきます。

『ぶどう月』に該当する風景・人物は登場していませんが、同時期に南仏の農村で撮影された一枚で間違いなさそうです。カメラマンがスチル撮影を手掛けた合間に見かけた農夫たちを撮ったのではないでしょうか。井戸のデザイン、人々の雰囲気など妙に心を揺すぶる何かがあります。

[IMDb]
Vendémiaire

[Movie Walker]


[公開]
1919年1月17日

2000 – 「1895」誌 別巻 特集:ルイ・フイヤード(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

1895 N° Hors-série Octobre 2000 : Louis Feuillade
(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

別稿で紹介している『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』と同じ仏映画史研究協会(AFRHC)の公刊物で、「1895」誌別冊のフイヤード監督特集号。2007年出版。この数年前に合衆国では査読済の学術論文をまとめた「ヴェルヴェット・ライト・トラップ」誌第37号がフイヤード特集を組んでいました。批評家や愛好家ではなく、大学研究者からのアプローチをまとめたフイヤード本としては現時点でこの2冊が双璧をなしています。

フイヤード作品の登場人物、「ヒーロー」たちは日常を超えた場所から立ち現れ、日常を抜け出し、日常から逃れ去っていく。

「幸福な思い出のルイ・フイヤードに寄せて」
ジャック・プレヴェール

Les personnages, les « héros » de ses films, surgissaient de l’extraordinaire, sortaient, s’évadaient de l’ordinaire.

« A Louis Feuillade en mémoire heureuse »
Jacques Prévert, Novembre 1967

四百頁近い大部なもので冒頭に置かれた詩人ジャック・プレヴェールの文章を含めて22のテクスト・資料群を掲載しています。初期短編から戦中期の連続活劇、戦後の第二期活劇期、晩年の喜劇への回帰、さらには監督デビュー以前の闘牛雑誌への寄稿を含め、フイヤード監督のキャリア全体を過不足なくカバー、それ以外に小説版や脚本家としての分析などテマティークな論考が幾つか含まれていました。図版(当時物のオリジナルポスター)や写真を多数収録しており完成度は非常に高いです。

1918年製作作品『ぶどう月』について書かれた論考『ぶどう月:あるいは葡萄詩、連続劇の大洋に豊穣のぶどう畑』が個人的な収穫でした。

『ぶどう月』はルイ・フイヤード作品中最も知られておらず、また最も誤解されてきた一作である。公開時には十分な客数を集めるには至らなかったし、慧眼な映画史家が「再発掘」してはきたものの表層しか見ていない者たちの目には「国粋愛国主義」「メロドラマ展開」の致命的欠陥を積み重ねた作品と映っている。

「ぶどう月:あるいは葡萄詩、連続劇の大洋に豊穣のぶどう畑」 フランソワ・ド・ラ・ブルテーク

Vendémiaire reste un des films plus méconnus de Louis Feuillade et l’un des plus mésestimés. Il échoua à trouver son public à sa sortie. « Repêché » par les historiens du cinéma les plus lucides, il demeure entaché, aux yeux des observateurs superficiels, de péchés rédhibitoires; patriotisme cocardier, intrigue mélodramatique…

« Vendémiaire (1918): le poème de la vigne, un cru de terroir dans l’océan du serial » François de la Bretèque

冒頭で触れられているように『ぶどう月』は諸事情が重なったことで現時点で最も評価しにくくそして上映しにくいフイヤード作品となっています。とはいえ単発の人間ドラマの形を選択したことで同監督の当時の人間観や世界観が凝縮されており、また戦後作品への転換点となったことからも重要な作品であるのは間違いないと思います。

もう一つの収穫が157頁に掲載されていた一枚の写真でした。

『ジュデックス』撮影中のスタッフ
中央にカメラマンのレオン・クラウス、左にフイヤード監督

今回特定できた『ぶどう月』撮影時のオフショット
使用しているカメラ、三脚も同一のものです

下段に『ジュデックス』撮影時のバックヤードショットが収録されています。フイヤード監督とカメラマンらが前列に並び、背後の土手にルネ・クレステらが座って待機している様子を写した一枚。

以前に『ぶどう月』のオフショット3点を入手、そのうちカメラマンを映した一枚が特定できていませんでした。もともと同作には撮影として二人がクレジットされていてどちらなのか特定できなかったのです。今回フイヤード特集号に収められた写真からレオン・クラウス(Léon Klauss/Clauss)氏であると判明。長年のつかえがようやく取れた感じです。

[原題]
«Louis Feuillade» Revue 1895 hors-série

[出版年]
2000

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
391

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-24-7

2007 – 『ルイ・フイヤード、その源泉へ 書簡と資料庫』(仏映画史研究協会編)

「ルイ・フイヤード」より

« Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives » (l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

ルイ・フイヤード(1873-1925)監督については自国フランスを中心に研究が進んでいて、確認できている限り十数冊の書籍(雑誌特集号や増刊号含む)が公刊されています。『ルイ・フイヤード、その源泉へ』は「1895誌」を出版している仏映画史研究協会編がまとめた一冊で、同監督がゴーモン社や知人、友人とやりとりした書簡、契約書の草稿等223点の資料を時系列に並べています。時期によって6つの章に分かれています。

1) 監督デビュー前(1902-1905)
2) ゴーモン社初期作品期(1906-1914)
3) 戦中期(1914-1916)
4) 『ジュデックス』周辺期(1916-1918)
5) 拠点をニースに移してから(1918-1925)
6) 晩年(1922-1925)

青年時代のフイヤードは闘牛好きで専門誌に寄稿していたこともありました。その時期に残された数点の書簡以外は基本映画監督として書かれた文章。相手としてはゴーモン社レオン・ゴーモンと、俳優マルセル・ルベスクの比重が多くなっています。また後半は自身の映画作品のマルチメディア展開(小説版プロジェクト)に触れた内容が増えてきます。

ゴーモン氏への書簡は完全なビジネス仕様で、撮影に掛かった経費の報告が多くなっています。ルベスクとは旧友同士のやりとりといった感じで自身や共通の友人の近況報告が中心となっていました。

『ルイ・フイヤード、その源泉へ』にまとめられた書簡類では映画論や技法論は一切触れられていません。「映画はかくあってほしい」の理想論にはほとんど興味がなかったのだろうという印象を受けました。限られた予算枠の中でその都度最善の結果を出して会社に貢献しそれに相応しい収入を得ていく、そういったスタンスを貫いた職人肌の監督像が近いのかな、と。

一方で場面ごとの経費の報告が多数残されていて、1910年代の仏連続活劇撮影時にどのような個所でコストがかかっていたのかが見えやすくなっています。初期映画撮影を経済/マネジメント視点で分析していくアプローチもできそうです。

ルベスクとのやりとりは気の知れた友人相手のリラックスした雰囲気が特徴的。ルベスク自身がゴーモン社との契約で揉めて同社を離れた経緯、フイヤードがクレステと疎遠になっていた様子など細かな人間模様が浮き彫りになってきます。自身の映画の常連俳優たちを「一座の連中」と呼んでいたり、『ティーミン』に出演していた女優リュガヌと結婚して「うちの女神さん」と溺愛振りを示すなど「身内」を大事にしていく姿勢も伝わってきます。

1914~16年に関してはパリを拠点としていたためゴーモン社との書類のやりとりが少なく、フイヤード活劇愛好家の多くが期待している情報が残っていないのが残念ですが1910年代映画制作の裏舞台が垣間見える貴重な一次資料です。

[原題]
Louis Feuillade Retour aux sources : Correspondance et archives

[出版年]
2007

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
316

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

[ISBN]
978-2-913758-77-3

] 映画の郷 [ 電子工作部:映写機用レンズの実写性能比較システムを作る(02)

映写機用レンズ比較システムの試作機でテストを行いました。テスト対象は仏エルマジ社のマジステール3本とメイヤー・ゲルリッツ社のキノン・スーペリアー。マジステールのF=1:1.6 40ミリは仏パテ社のリュクス映写機、F=1:1.9 40ミリはスイス製パイヤール・ボレックス社のD型映写機、F=1:1.9 45ミリはボレックス社のDA型映写機、キノン・スーペリアーF=1:1.6 40ミリは独パテックス社の200B型映写機についていたものです。

被写体は1922年公開『ちびっこギャング(Our Gang)』の英パテスコープ社抜粋版(「Fickle Flora」10240番)より犬の画像。

[エルマジ社マジステール F=1:1.6 40ミリ]

レンズ中央部付近の解像度は高く、犬の毛並みの質感や土表面の細かな陰影も綺麗に再現されています。周辺部では光量低下(ケラれ)が目立ち、流れるような感じのボケが発生しています。

[エルマジ社マジステール F=1:1.9 40ミリ]

中央で焦点を合わせているはずが何度やっても完全に結像しませんでした。レンズを一旦ばらして清掃しても結果は変わらず。他のレンズと比べて被写界深度が浅く、フィルムに発生しているわずかな凹凸でピントが外れてしまうようです。映写機で実使用する際にもピント合わせがシビアな一本ということになります。左上、左下の隅の光量低下はF=1:1.6 40ミリより大きくなっています。

[エルマジ社マジステール F=1:1.9 45ミリ]

四隅ぎりぎりはさすがに光量が落ちているもののケラレは比較的少なく、周辺部まできっちりピントがあっています。今回試した3本のレンズで実写能力は一番高かったです。画質がシャープで1:1.6 40ミリと比べてやや「硬い」感じの画質。また40ミリの2本が赤みを強調した色の出方をしているのに対し45ミリはモノクローム感が強いです。

[メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー F=1:1.6 40ミリ]

「マジステール F=1:1.6 40mm」と「F=1:1.9 40mm」の中間位の画質、でしょうか。マジステールと比べて明るい部分がやや強く出ていてコントラストが強調されています。周縁部のボケ方はマジステール以上に激しく癖があります。

上に挙げたレンズの特徴(ケラれが目立つ、ピントがあいにくい…)は実写時に感覚として分かってくる話ではあります。今回のシステムを練り上げていくと複数のレンズを同一条件で並べた上で違いを可視化でき、必要ならグラフ化、数値化して定量的に比較できるようになります。

今回は試作機の位置付けで、テストによって幾つか問題がでてきました。

1)今回各レンズの焦点距離とF値から計算して3Dプリンタの補助パーツを製作したのですが、どこかで計算を間違ったようで焦点距離35ミリ以下のレンズで思っていた結果になりませんでした。

2)フィルムの平面性。フィルムは巻き癖がついてしまうためやや湾曲しがちで、しかも古い9.5ミリは湿度の影響で表面が凸凹しているものが多いです。一般的な映写機は金属(主に真鍮)のゲージ部でフィルムをサンドイッチ状に挟みこみ平面性を確保していますが、今回は2ヵ所の突起でフィルムを引っ掛けているだけなのでまだその意味で安定していません。

3)システムの精度の問題。今回のテスト方式ではレンズが僅かに斜めになっていただけでも結果が変わってきます。レンズの被写体深度を考慮しても十数ミクロン~数十ミクロンの精度が要求されており、測定ごとにピックテスターで条件を揃える必要がありそうです。

この辺をフィードバックした形で修正を施していく予定です。

ちなみに焦点距離35ミリ以下のレンズでもピントあわせには成功しています。ただし画像がセンサーの四方からはみ出る形になってしまいました。レンズの一番周辺の部分が見切れているため上のデータとは対等には扱えませんが、参考までにリュクス映写機用の32ミリレンズとパテベビー用のスタンダードレンズ、パテクソール・クラウス25ミリレンズの結果も公開しておきます。

リュクス映写機用32ミリとパテベビー用のスタンダードは解像度、ヒストグラム共に似たような結果が出ています。ただしベビー用レンズはサイズが小さいこともあって周辺部での光量低下が目立ちます。パテクソール・クラウスはサイズ的にパテベビー用レンズと同じくらいながらも光量低下が少なく全般的にクリアな映像になっています。

] 映画の郷 [ 電子工作部:映写機用レンズの実写性能比較システムを作る(01)

今年になってから9.5ミリ映写機用レンズの実写性能を比較するシステム作りを始めました。運用できるレベルには達しておらず試行錯誤中ながらもある程度形が見えてきたので経過報告です。

システムのコア部分に転用した独イハゲー社のカメラ用アクセサリー2点(マクロ撮影用ベローズ & 金属製エクステンションチューブ)。どちらも本来はカメラとレンズの間にかませて使用するものです。

左の写真はイハゲー社のアナログカメラにマクロ撮影用ベローズを実際につけてみたところ。蛇腹を伸ばすと焦点距離が長くなり、小さな被写体を接写できるようになります(右は桃色のカスミソウを撮影した一枚)。

両者ともに単体ではマクロ撮影にしか使えないのですが、今回は3Dプリンタで製作した補助器具を埋めこみ別種の機器に流用していきます。

スケッチブックでイメージ作り。センサー/レンズ側とフィルム/光源側の二つのパーツに分けて作っていくことにしました。

【センサー/レンズ側】

金属製エクステンションチューブは竹の節に似た構造になっていて幾つかに分けることが出来ます。今回はこのチューブを二つに分け、一方の内側に樹脂製リングをかませたレンズを埋めこんでいきます。

映写機用レンズには共通規格としての「マウント」概念がないため外径や長さがまちまちです。レンズの外径を図り、フィットする形でリングを作っていきます。

左は仏エルマジ社のレンズF=1.6 40mm(レンズの外径30.0ミリ)を装着した時の様子。右は同社のレンズF=1.9 45mm(レンズの外径28.0ミリ)をつけた際の様子。

【フィルム/光源側】

金属製チューブの残り半分にも3Dプリンタで作ったパーツを埋めこんでいきます。9.5ミリフィルムの断片(3コマ分)を固定できるフィルムフォルダーです。二ヵ所の小さな突き出しをフィルムの穴(パーフォレーション)にはめて固定する形です。

このフィルムホルダーをセットする仕組みを作っていきます。複数の樹脂パーツを組みあわせたもので、四角い箱型の部分がランプハウスとなっており、1)LED電球、2)背面の光を反射させるお椀型のミラー、3)パテベビー映写機から取り出したコンデンサーをはめこんでいます。LEDの電圧が12Vだったので単三電池8本を外付けにして電力を供給します。

フィルムホルダーをはめこんだ金属製チューブを置きます。電源のスイッチをオンにするとフィルムが一コマ分、チューブの中央部で照らし出されます。

センサー/レンズ側パーツとフィルム/光源側パーツを向かい合わせにセットします。マクロ撮影用ベローズの土台部には2ミリ弱程の隙間があるので、光源側パーツの土台から伸びた薄い板を差し込む形になります。

組みあわせたところ。フィルム部分が光っています

同じ状態でセンサー/レンズ側から見たところ。レンズを通して見ているため天地左右が逆転しています。センサー/レンズ側にはカメラをセットするマウント(EXAKTAマウント)がありますので、マウントアダプタ(マイクロ4/3-EXAKTA)経由でミラーレスカメラ(マイクロ4/3マウント)を取りつけます。

蛇腹でレンズとの距離を調整し、映写された画像の幅とセンサー幅が一致する地点を見つけさらにピントをあわせていきます。上手くいくとミラーレスカメラの画角(3:4)一杯に拡大された映像が映り、デジタル撮影ができるようになります。

冒頭には「映写機用レンズの実写能力比較システム」と書きましたが、その実態はミラーレスカメラを土台にしたデジタルフィルムスキャナーです。

イメージ図は上のようになっています。右側からランプハウス、フィルム、距離を置いて映写機用レンズと並んでいて、この部分には簡易化した映写機が隠れています。一般的に映写機は投影された映像を「スクリーン」に映しますが、今回はスクリーンに置き換えた剥き出しのカメラセンサーで画像データを取りこんでいく訳です。

一方、映画フィルム用のスキャナーは照らし出されたフィルムをセンサーとレンズをセットにした「カメラ」で撮影するという発想になっています。

センサー~レンズ~フィルム~光源までの並びは同一。映写機で投影した画像をセンサーで取りこむ前者と光で照らされたフィルムをカメラで撮影する後者は発想こそ異なっているものの物理・光学的には同じことをしている話になるのです。

1926 – 『日活俳優名鑑 1926+10』(『大日活』二周年記念附録)

« Nikkatsu Famous Players 1926 »
(« Dai Nikkatsu » 1926 October Issue Supplement)

大正15年10月、雑誌『大日活』創刊2周年を記念し同誌の付録として製作された日活所属俳優の名鑑。サイズは11.2×15.0センチ。16頁3段組に男優59名、女優35名の略歴をまとめています。表紙は梅村蓉子。

『血煙高田の馬場』でお勘婆さんを演じていた市川春衛、『一心太助』で老金貸しを演じた尾上卯多五郎、松之助映画の常連だった嵐玨松郎や尾上蝶次郎、悪役で活躍した千松實や中村仙之助…通常の名鑑は紙数の都合もあって主演から準主演クラスの俳優さんに偏ってしまうのに対し、この冊子では子役、脇役や老け役専門の男女優まで丁寧に拾い上げています。

表紙デザインを含めて出来の良い一冊で、俳優たちの親しみやすさ、会社の好調ぶりと一体感を強調しています。

ただ、この名鑑が出た時期の日活は設立以来最大の危機を迎えていました。大正15年9月11日、日活の大黒柱であった尾上松之助が亡くなっているのです。裏書を見ると印刷所の納本は9月8日。修正は間にあわず、松之助存命の書き方を残したまま購読者の手に届けられてしまう形となりました。

松之助人気に頼ることはもうできない。日活の判断は非情なものでした。

尾上松之助氏の死とともに所内に蔓る積弊一掃の機會を早めるものと觀測されてゐたが果然拾八日午後京都市木屋町中村屋にて横田副社長根岸支配人池永所長杜重支店長等が會合協議の結果新劇部男優小村新一郎齋藤達雄宇田川寒待弓削宗貞外三拾六名女優部では宮部静子、本田歌子、衣笠みどり、松島英子、高島京子、香川満子、巽久子、橘道子外数名を解雇した。

それと同時に東坊城恭長、若葉馨、木藤茂に俳優を廃めさせ東坊城若葉の兩名は一時名目だけの脚本部附となし木藤は監督助手に祭り上げるなど大整理を行ふ[…]。

1926年『キネマ花形』 (『活動花形』改題 11月号 花形社)

「積弊」と見なされた俳優たちが一斉に「整理」されていきます。稼ぎ頭が突然不在になった状況で今まで通りの運営はできない。経営陣視点で見るならこの判断も理解はできます。とはいえ俳優組合も機能していなかった時期ですし、一方的に解雇された役者側はたまったものではなかったでしょう。

ちなみに『日活五十年史』にこの件の記述はありません。また『映画と劇』10月号・11月号や『日本映画年鑑(第三年版)』でも一切言及されていませんでした。大手映画社への「配慮」もあり、多くの俳優たちがほとんど誰にも知られぬまま転籍、転職、廃業していったことになります。

以前に若葉馨氏の「1928年転職報告葉書」を紹介しましたが、これは同氏が2年の窓際生活の後、時代劇俳優としてキャリアを再開した時の一通です。また斎藤達夫氏は古巣の松竹に拾われ、軽妙な芸でトーキー以後に評価をあげていきます。木藤茂氏は役者を廃業、監督としてのキャリアを築いていきました。

しかしそういった例はごく僅か。弓削宗貞など名を挙げられた俳優たちの大半、また名前すら言及されていない一部の役者(大谷良子、東加代子、秩父かほる、嵐秀之助)はこの時期を最後に出演記録が途絶えてしまっています。

この名鑑は1926年10月時点の日活の現状を反映していないのですが、松之助以前/以後という大きな断絶の記録として興味深い資料になっていると思われます。

1926 – 9.5mm 『彌次喜多』(『新作膝栗毛』、日活、中山呑海監督)伴野商店版

「伴野商店」より

”Shinsaku hizakurige” (1926, Nikkatsu, dir/Nakayama Donkai)
Late 1920s Banno Co. 9.5mm Print

長屋の薄い壁の向こうから漏れ聞こえてきたのは夜逃げの相談である。そつと覗きこむと借金取りに追われた弥次と喜多が江戸を離れ伊勢参りに向かうとのことであつた。

今生の別れやもしれぬとあり、お調子者の二人の目にもきらりと光る涙があつた。ご近所仲間も別れを惜しみ、路銀の足しにと小銭を持ち寄るのであつた。

いざ出発。しかし桟橋に着いた時にはすでに舟は出たところであつた。「オーイ待つてくれー」、二人の声は船頭には届かない。舟を追って海に飛びこんだ弥次喜多の頭はやがて波間へと消えていく。前途多難な出立であつた。

20メートルの1リール物として発売された伴野初期の9.5ミリ作品。タイトル「彌次喜多」の後すぐに物語が始まっていて出演者や製作会社のクレジットがありません。手持ちカタログでは小泉嘉輔主演となっており1926年に公開された日活作品『新作膝栗毛』の一部のようです。彌次(小泉嘉輔)と喜多(児島三郎)が伊勢参りに出発する長編喜劇の冒頭を抜粋した形。

スキャン画像が綺麗ではなくスキャナー設定を失敗したと思いました。やや淡めでコントラストが低く、グラデーションの滑らかな画質…これってよく見るとパンクロマチック・フィルムの質感にも見えます。オルソクロマチックからパンクロに切り替わった最初の劇場公開作品はフラハティ監督『モアナ』(1926年1月)。日本でもすぐに大手が追随し、同年中には幾つかのパンクロ白黒フィルム映画が製作されていた可能性があるな、と。

『新作膝栗毛』公開は尾上松之助逝去の翌日の9月12日。この3カ月後には大正天皇が崩御し元号が変わります。この年の8月にはヴァイタホンで効果音を一部同期させた『ドン・ファン』のプレミア上映が行われていて翌年の『ジャズ・シンガー』の布石となっていますし、オルソからパンクロへとフィルムの種類も変わっていく…1926年は様々な意味で「変化」の年でもありました。

中山呑海監督のお孫さんがこんなツイートを残されています。

[Movie Walker]
新作膝栗毛

[IMDb]
Shinsaku hizakurige

[公開]
1926年9月12日

[9.5ミリ版]
伴野商店

[9.5ミリ版タイトル]
彌次喜多

[カタログ番号]
24

[フォーマット]
20m×1、ノッチ有、白黒無声

エニッド・ベネット Enid Bennett (1893 – 1969) 豪/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Enid Bennett c1920 Autographed Chromo

一千九百十六年の十月、米國に渡つて紐育市に興行中、恰度その時紐育に来て居たトライアングル會社のトーマス・エッチ・インス氏に認められて、映畫劇の俳優たる可く勸誘された。斯うして、嬢はインス氏と共にローサンゼルス市に行き、トライアングル會社のケービー映畫に出演する事となつたのである。その第一回作品は「闇の王女」といふ現代劇で、嬢はフェイ・ヘロンといふ役を勤めた。嘗てキネマ倶樂部に上場された「オパルの輝き」は第二回目の作品である。

一千九百十七年、インス氏が全所属俳優を率いてパラマウント映畫部の爲めにインス特作品を製作するやうになると、嬢も亦これに従つてパラマウント映畫部に轉じた。そしてインス映畫に出演した。

嬢は未だ若いだけに映畫女優として經驗に乏しいが、舞臺經驗を踏んで來た腕前は映畫の上にも充分に現はれて居る。極めて自然な藝風が、觀る者の心を魅する。

嬢は昨年の二月二十三日にフレッド・ニブロ氏と華燭の典を擧げて、今ではローサンゼルス市に樂しい家庭を作つて居る。

愛くるしい眼と、豊かな頬と、そして小兒氣の失せぬ口元と、それは「オパルの輝き」のヂュリーのやうな役には最も相應はしいものである。少し寂しい感じはあるが、それが却つて魅力を増す。嬢は目下ラスキー社パラマウント映畫に出演してゐる。

『活動名優写真帖』(野村久太郎編、 玄文社、大正8年)


生地ヨークより数里の町、オーストラリア・ヨーク市で嬢が仕事勤めをしていた折、一座と共に同地を回っていたフレッド・ニブロが端役募集の広告を出した。応募したベネット嬢がその役を手に入れる。演技の才と相まった美貌により忽ちに成功を収めた。『ホィップ』『フォーチュン・ハンター』『七つの鍵』を含む成功した舞台劇での大役を務めてきている。映画界からの要望に応えフェイマス・ラスキー社作品『義人の鍵』でスクリーンデビューを飾り、その後も同社の『曲馬団の名花』『家庭の罪』『家を出でて』でヒロインを演じた。身長は五尺三寸、體重十二貫三百匁。金褐色の髪と榛色の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

While working in an office in Perth, Australia, a few miles from her birthplace, York, Fred Niblo, who was touring the country with his company, advertised for somebody to take a minor part. Miss Bennett applied and was accepted. Her beauty, combined with her dramatic talent, soon won auccess for her. She has played important part in « The Whip, » « The Fortune Hunter. » « Seven Keys to Baldpate » and other notable stage successes. Hearing the call of the screen, she made her first picture for Famous Players-Lasky Corporation, « Keys of Righteousness, » followed by « The Biggest Show on Earth, » « A Desert Wooing » and « Stepping Out. »

Miss Bennett is five feet three inches tall, weighs one hundred and two pounds, and has golden brown hair and hazel eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)


1922年『ロビン・フッド』より

1924年『シー・ホーク』(フランク・ロイド監督)

1910年代末から20年代前半に活躍したエニッド・ベネットのサイン物2点。無声時代のハリウッドで、オーストラリア出身俳優としては最も成功を収めた一人です。

フェアバンクスの相手役を務めた『ロビン・フッド』(1922年)、夫君フレッド・ニブロ監督による『紅百合』(1924年)の二作が知られているのですが、個人的には24年『シー・ホーク』でのこなれた演技が気に入っています。ロイド監督らしい歯切れのよい演出が光る佳作で、エニッド・ベネットも自身の役割を完璧に理解しつつ細やかなニュアンスを散りばめる余裕を見せています。

契約キャンセル申し立ての旨を伝える
1917年9月8日付『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌記事

インスとの出会いとそこからのサクセス・ストーリーは美談として語られがちです。実際のところ1917年中盤にエニッド・ベネット側がインスを訴えた出来事もありました。インスの直接プロデュース以外の作品にも出演しなくてはならない契約内容に不満があり、最終的には元鞘に収まって一件落着。

日本でも早くから知られていて、『曲馬団の名花』『家庭の罪』など初期パラマウント社作品が公開されていました(いずれも1918年)。今回それ以前のトライアングル社期のフィルム(『淑女騎手』)を見つけたので併せて紹介しておきます。

[IMDb]
Enid Bennett

[Movie Walker]
エニッド・ベネット

[出身地]
オーストラリア(ヨーク)

[データ]
一枚目の写真は裏に手書きで「1917年4月」の日付入り

1917 – 9.5mm 『淑女騎手』(トライアングル社、ロイ・ウィリアム・ニール監督、エニッド・ベネット主演) イタリア語版

9.5ミリ 劇映画より

Enid Bennett in « They’re Off » (1917, Triangle Film, dir/Roy William Neil) late 1920s 9.5mm Italian Version

株式で財を成したダニエル・ハケット氏が娘のリタ(エニッド・ベネット)と共に南部を旅行中、車が故障して足止めを余儀なくされた。修理中にふと趣のある古い一軒家に目がとまる。「こんな家が持てたらいいのに」、娘の言葉にダニエル氏は交渉に乗り出した。

一軒家ではランドルフ(ローランド・リー)という青年が執事(リンカーン・サミュエル)と生活していた。小切手帳を手にしたダニエル氏の提案をランドルフは拒絶、交渉は物別れに終わった。

ランドルフが煙草に投資していると知ったダニエル氏は手を回して市場に介入する。予想外の株価暴落にランドルフは成すすべくもなく、不動産を手放さざるを得なくなった。かくしてダニエル氏が豪邸の新たな持ち主となったのであった。

ダニエル氏は娘と知人たちを邸宅へと招待した。雰囲気のある間取りや装飾にリタは大喜びであったが、離れの厩舎で沈痛な面持ちの青年と出会う。家を失い、今は執事のモーゼとともに離れの厩舎を住まいとしているランドルフであった。父親が不当な手を使って館を手に入れたと知ったリタは憤慨、一策を案じて青年の力になろうとする。

地元の競馬場には多くの観客が集まっていた。その中には双眼鏡を片手にしたダニエル氏の姿。自身の持ち馬の優勝を確信していたが、その後を対抗馬が猛追してくる。この対抗馬に乗っていたのは騎手姿に身を包んだ娘のリタであった…

軽めの恋愛劇とスポーツ物を組みあわせたトライアングル社1917年作品。この年ハリウッドデビューしたばかりのエニッド・ベネットを売り出す発想が強く、ドレス姿や乗馬服姿にドレスアップしたヒロインを強調する場面が目立ちます。ベネット自身の演技はまだ感情表現や動作が荒削りで良くも悪くもそれが初々しく画面に出ています。

最後に収められた競馬の場面について補足をしておきます。

父親ダニエル氏の持ち馬の名前が「WASP」、同氏が娘リタに与えた黒い馬の名前が「SATAN」。レースではリタの騎乗する黒馬「SATAN」が「WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」を打ち負かす展開となっていきます。北の善良なヒロインの助力を得つつ、南部の弱者が差別構造を打ち破っていくアレゴリーと読むことができるのでしょう。脚本が後に西部劇監督として名を上げるランバート・ヒルヤー(Lambert Hillyer)である事実と併せて考えてみると興味深いものがあります。

9.5ミリフィルムは1926年に発売されていた英パテスコープ版3巻物の字幕をイタリア語に置き換えたもの。以前に紹介した『快漢ブレーズ』と同じ伊コレクターの旧蔵品で3巻とも冒頭が欠けており、フィルム途中に切れや傷、焼け跡が目立つ状態でした。

[IMDb]
They’re Off

[Movie Walker]


[公開]
1917年8月19日

[9.5ミリ版]
イタリア語字幕版

[イタリア語版タイトル]
L’Amazzone

[カタログ番号]
10-050

[フォーマット] 20m×3、ノッチ有、白黒無声

1922年頃 35ミリ齣フィルム30枚(米パテ社連続活劇とロイド喜劇)

35mm nitrate film fragments (positive, toned) on pierced papers, c1922
Eddie Polo, Charles Hutchison, Harold Lloyd etc.

1922~23年頃と思われる35ミリ齣フィルム30枚のコレクション。切込み(スリット)を入れた自作台紙3枚にまとめたものです。幾つかの齣では縁の部分にメーカー名(丸印に「愛」「平」「モ」)を見て取れます。

エディ・ポーロ 1922年『キャプテン・キッド』

チャールズ・ハッチソン 1922年『スピードハッチ』

ハロルド・ロイド 1922年『豪勇ロイド』

ウォーレス・リード 1922年『ゴーストブレイカー』

1910年代から連続活劇で活躍していたエディー・ポーロが一番多く、次いでチャールズ・ハッチソン、ハロルド・ロイド、ウォーレス・リードの順になっています。いずれも本国では1922年に公開、齣フィルムもこの時期と見て良さそうです。

旧所有者さんが連続活劇好きだったのは疑いの余地のない所。女優を主人公にした作品はなく、またアントニオ・モレノのような華奢な美形男優ではなくエディー・ポーロやハッチソンなど肉体派を好む傾向を見て取れます。

男優の裸身(しかも肉付きや筋肉を強調するポージング)が多いのも偶然ではないのでしょう。1922年頃、大正末期の日本でよほど気心の知れた相手との内緒話でもなければ「男優の裸体に妄想を掻き立てられる、興奮する」と公言するのは不可能でした。家族に見つかった女学生は映画館立入り禁止でしょうし、既婚女性であれば三下り半、男であれば社会的に抹殺されてもおかしくない時代です。それでも業界は一定のニーズがあると分かっていてこういった場面を投入している訳です。

ヘレン・ホームズ~パール・ホワイト~ルース・ローランドなどを中心に流れていく連続活劇史そのものがヘテロ男性の見方なのだろうなと、以前から薄々は感じていました。異なった性的指向の人には全く違った風景が見えている。映画史そのものが違う。当たり前といえばその通りで一世紀前のリアルな物証を目の当たりにして新鮮な驚きはあります。

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁

1920 – 8mm 『キスメット』(オーティス・スキナー主演、ルイ・ガスニエ監督) 米ブラックホーク社プリント

« Kismet » (1920, Waldorf Photoplays Inc., dir/ Louis J. Gasnier)
US Blackhawk Standard8 Print, with Paul Killiam Annotations

1920年前後のハリウッドではエキゾチックな設定を生かしたドラマや恋愛物がひとつの人気ジャンルとなっていました。ルドルフ・ヴァレンチノ主演の『シーク』や『血と砂』へと発展していく傾向で、中世のバグダッドを舞台にした1920年作品『キスメット』も大きくはこの流れに含まれています。

米ブラックホーク社の8ミリ版は作品全体を展開しているものではなく、映画史家ポール・キリアム氏の字幕解説コメントを中心とし、同作の見どころをまとめていく形を取っています。

『キスメット』の見どころの第一はその主人公。同作は元々舞台での人気作を映画化したものです。悪徳カリフに妻と息子を奪われ、今は物乞いとして暮らしている中年男ハジの復讐を描いた物語で、舞台版で主演を演じたオーティス・スキナーが映画版でもハジ役を務めています。スキナーはこの時点で還暦を越えているベテラン俳優。アイドル人気を博す要素はほとんどありませんが長年舞台で培った演技力は際立っており、登場の瞬間から生き生きした表情や動作で画面を支配していきます。

第二の見どころは豪華な設定…と続いていくものの、正直そこまで圧倒される感じはありませんでした。8ミリの解像度はこういった豪華絢爛なセットや衣装の凄みは伝えきれない気がします。

権力争いに巻きこまれ、ハジは豊かな皇子であると身分を偽って宮殿内に入りこみます。このとき冷遇されているカリフの妻とハジの間に恋愛感情が生まれてきます。妖艶な妻を演じたのは1910年代に娘役として活躍したローズマリー・セビー。1920年代前半のハリウッドらしいエキセントリックなファッションが目を引きます(リアルのイスラム圏の人は違和感を覚えそうですが)。

最後の見どころして挙げられていたのが「アイリス・エフェクト(瞳/絞り風の表現効果)」を使用した場面。

この見せ方は素敵。映画史の教科書に載って良いレベルだと思います。作品後半の物語展開に軽く触れてフィルムは終了。

ポール・キリアム氏は戦後、無声映画を紹介するテレビ番組のコメンテーターを務めていました。1950~70年代アメリカでサイレント映画に慣れ親しんだ世代には良く知られた人物でもあります。ブラックホーク社がその番組の権利を一部取得しており、同社の8ミリにはこれらのテレビ番組をダイジェスト化した作品も多く含まれています。こちらの『キスメット』も同様の経緯で生み出されてきたものです。見どころをピンポイントで説明してくれる啓蒙的な性質のフィルムで、言われないと気づかないままだった情報も多く含まれていて思った以上に楽しめる内容でした。

8ミリ版で触れられていなかった重要なポイントが一つ。『キスメット』の監督はパール・ホワイト初期連続活劇を担当したルイ・ガスニエでした。『ポーリンの危難』と『拳骨』で他作が霞んでしまう傾向がありますが1920年の『キスメット』や1932年の『トパーズ』など節目節目で秀作を生み出してきた戦前実力派、本作でもそのセンスを確認する事ができます。

[IMDb]
Kismet

[Movie Walker]
キスメット

[公開]
1920年11月14日

[8ミリ版]
米ブラックホーク社

[カタログ番号]
860-535

1930年 – 9.5mm 『復興帝都御巡幸』(原題『輝やく大東京』 撮影・大日本教育映画協會 伴野商店版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】
「伴野商店」より

« Imperial Visit to the Reconstructed Capital » (March 1930)
c1930 Banno co. 9.5mm Print

震災から6年半、当時の金額にして7億円以上の巨費を費やした東京の復興計画(土地区画の整備、インフラ再建)が一区切りつき、1930年3月に復興帝都祭が開催されています。3月24日の昭和天皇による首都巡幸を記録した映像がこちら。

ルートとしては皇居出発後に九段坂上~府立工藝學校~上野公園~隅田公園~震災記念堂~市立千代田尋常小學校~私立築地病院と移動し皇居に戻るもので、所要時間は4時間40分を予定していました。

原題は『輝やく大東京』、撮影は大日本教育映画協會。明記されていませんが東京市教育局による製作。大阪芸術大学、京都のおもちゃ映画ミュージアム等が35ミリ版断片を所有しており、旧東京国立美術館フィルムセンターの企画「発掘された映画たち 2009」で南湖院コレクションの一部として15分全長染色版が上映された記録も残っています。伴野9.5ミリ版は字幕を入れて7分程の長さで約半分のダイジェスト版。ちなみにフィルムセンターは『輝やく大東京』と『復興帝都御巡幸』を別作品とみているのですが、本サイトでは編集と改題を経た同一作と解釈しています。

「皇室とメディア」は戦前から戦後まで続いていく重要なテーマですし、都市デザインや都市計画の視点で見ても発見が出てきそう。何より1920年代後半期(昭和元年~5年)はまだ大正期の文化が残っていてこの昭和6、7年辺りから本格的に「昭和的なもの」が形を取ってきた感覚があります。震災からの再生、首都のリセットを意味するこのイベントも一つの節目となったのかな、と。

[原題]
輝やく大東京

[制作]
東京市教育局

[フィルム版メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]
278

[フォーマット]
20m×2巻 無声字幕あり(第一巻の冒頭タイトル部欠)

1923 – 9.5mm 『震災に見舞われた日本』 (仏パテ版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】

« Tremblement de terre au Japon » 1923 French Pathé 9.5mm Print

仏エクレール社が制作した関東大震災の記録映画。東京と横浜の被災状況を捉えた映像で後半には救援隊が訪れる様子が映し出されています。

本作品の最後には人々が救助の船に乗りこんでいく映像が収められ「怪我人優先」で作業が進んでいきます。甚大な被害にも関わらずパニックは見られず、秩序の保たれている様子が伝わってくるものです。地震直後は情報インフラが寸断され正確な状況が伝わりにくかった中で、心を痛めていた国外在住の邦人や関係者にとってこういった短い動画でも貴重だったのだろうなと思います。

また2018年春から夏にかけ江戸東京たてもの園で開催されていた「東京150年記念・看板建築展」を訪れた折、会場一角に設置されたモニターで関東大震災関連の動画をまとめた映像が公開されていました。ふと見覚えのある映像が出てきたのがこのフィルムの抜粋でした。里帰りした映像は後世に歴史を伝える役割を果たしてくれています。

[原題]
Tremblement de terre au Japon

[制作]
仏エクレール社

[フィルム版メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
655

[フォーマット]
10m×1巻 無声字幕 白黒 ノッチ有

1924 – 9.5mm 『日本、震災のその後』 (仏パテ版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】

« Au Japon : après le cataclysme » 1924 French Pathé 9.5mm Print

同時に紹介している『震災に見舞われた日本』 の続編的な一本。前作が災害の切実さ、深刻さを伝えようとしていたのに対し『震災のその後』では支援活動や復興に向けた動きなどが収められ、人々の表情にも希望と明るさが戻り始めています。

10年程前に最初に手に入れた9.5ミリの一つで、仏フィルムコレクターが日本関連の作品6本(『震災に見舞われた日本』『震災のその後』『日本の芸者』『日本冬景色』『日本の七宝焼き』『日本の象牙細工』)をポッソ社製60メートルリールにまとめた形になっています。パテ社の9.5ミリ初期カタログには日本を扱った作品が多く、確認できている限りで16~17作ほどの動画が市販されていました。外国、特にアジア圏を扱った数としては異例の多さで、前世紀のジャポニスムなどの影響で日本への関心が高かった様子を伺い取ることができます。

[原題]
Au Japon : après le cataclysme

[フィルム版メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
682

[フォーマット]
10m×1巻 無声字幕 白黒 ノッチ有

パテベビー映写機・解体新書 [実践編] ベビー映写機を修理する

「パテベビー映写機・解体新書」の応用編・実践編としてリストアの流れを紹介していきます。

モデルは輸出用PB-Exで個体番号は178005。純正の木箱、ハンドクランクと電源コードが付属していました。

1)シャッター羽根を取り換える

ハンドクランクを取りつけて回そうとしてもビクともしません。長期間放置されていたベビー映写機によくある症状で内部のシャッター羽根が歪んで干渉している状態です。以前に一度3Dプリンタ製作の代用品を組みこんでみましたが、今回はスペアの純正品を差し替える形で対応しました。

左が取り外したオリジナル。輪郭の円形が崩れてしまってます。右が新しい羽根に差し替えたところ。細かな手順、注意点は以前の別記事(記事1記事2)を参照してください。

2)金属ベルトを交換する

ハンドクランクが回るようになったものの本体下部の巻取り機構が連動していません。確認すると樹脂製の赤いベルト(針金で補修跡あり)が朽ちていました。

短いベルトが必要です。手持ちの長い金属製ベルトを丁度良い長さに切り出して両端を留め代用品を製作。

フィルム巻き取りが出来るようになりました。

3)土台部、ゴム製の足を補完する

ゴム製の足が1つ欠落していて置いた時に安定しません。ジャンクの機体から代用パーツを見つけて差し替えました。複雑な構造ではないため3Dプリンタで作ってしまう手もあります。

4)電源コードを差し替える

ランプのフィラメントは生きているのですがコードを繋いでも点灯しませんでした。どこか断線しているようです。今回はコードそのものを差し替えました。

点灯確認完了。

埃とゴミを落とし、注油後に拭きあげて作業終了。これで実写できる状態になっています。パーツ交換で済んだため一時間半で終わりました。

本体部の傷、ペイントロスについてはリペイントという手もあります。ただし塗り直すと光沢が安っぽくなってビンテージ感が消えます。経年劣化はその個体の味と割り切ってそのままにしておきました。

1918-1930 – DVD 『アウグスト・ジェニーナ作品集』(2020年、チネテカ・ディ・ボローニャ)

« Augusto Genina : Quattro film 1918-1930 »
(2020, Cineteca di Bologna)

ルイーズ・ブルックス主演作『ミス・ヨーロッパ』の新リストア版を含むDVD2枚組+ブックレット。収録作は以下の4作:

1)『さらば青春』(1918年、マリア・ヤコビニ&エレナ・マコウスカ他出演) Addio giovinezza!
2)『仮面と素顔』(1919年、イタリア・アルミランテ主演) La maschera e il volto
3)『さらば青春』(1927年、カルメン・ボニ&エレナ・サングロ他出演) Addio giovinezza!
4)『ミス・ヨーロッパ』(1930年、ルイーズ・ブルックス主演) Prix de beauté

ブックレットはイタリア語/英語によるもので、専門家による作品各論4編、主要俳優紹介、書き下ろしサントラ紹介を中心とした構成となっていました。

『ミス・ヨーロッパ』新リストア版よりルイーズ・ブルックス

旧版の低画質が指摘されていた『ミス・ヨーロッパ』の新デジタル化も朗報ながら、初期イタリア青春映画の秀作としてその名を語り継がれてきた1918年『さらば青春』を手の届くものにした功績は計り知れないものがあります。ジェニーナ監督の作風変遷、さらには第一次大戦後のイタリア映画変貌を理解していく手だてにもなり2020年に発売されたサイレント映画関連DVDでは最も重要な一枚になると思われます。

[出版年月日]
2020年8月27日

[出版者]
チネテカ・ディ・ボローニャ(Cineteca di Bologna)

[ISBN-10/13]
8899196672
978-8899196677

[再生時間]
338分

[フォーマット]
14.4 x 1.4 x 19.7cm 270g