パテベビー映写機・解体新書 [簡易版]

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5月末にジャンク扱いのパテベビー映写機を3台入手しました。どれも欠品や破損が目立ち実写には使えませんでしたがパーツ取りして一台分の組立てに挑戦。写真撮影を含めて1時間半くらいかかっています。

こちらの記事は簡易版で、個々のパーツの役割や組立て時の注意点は別項にまとめていきます。


1)背面部を取りつける [詳細版]

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鉤爪の機構を含んだ背面部を取りつけていきます。スプリングを正しく装着しないと映写できなくなるデリケートな部分です。

2)シャッター羽根を取りつける [詳細版]

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円形のシャッター羽根(3Dプリンタでの自作代用品)と、おにぎり型の変形ギアを噛みあわせていきます。1)と並んでパテベビー映写機の組み立てでは一番難易度が高い作業です。

3)正面部を取りつける [詳細版]

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4)ランプハウスを取りつける [詳細版]

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5)ギアカバーを取りつける [詳細版]

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6)土台部を取りつける [詳細版]

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7)蓋部分を取りつける [詳細版]

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8)フィルム保護用のガラスパーツを取りつける [詳細版]

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以上で基本的な流れは完了します。それ以外にもパテベビー映写機の実使用で役に立つノウハウは色々あります。折角ですのでこの機会にまとめてみることにしました。

補足1)ノッチ機構の仕組みを理解する [詳細版]

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補足2)レンズの分解とパテクソール・クラウス f=25mmの話 [詳細版]

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補足3)鉤爪によるフィルム送りの仕組み [詳細版]

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補足4)コンセントの形状と電圧の問題 [詳細版]

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補足5)ベビー映写機専用ランプについて [詳細版]

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補足6)カタログとマニュアル類


1918 – 『演劇生活』誌 28号〜39号(7~9月) 合本 « Színházi Élet »

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1910年に創刊されたハンガリーの演劇週刊誌。18年夏〜秋の12冊を合本にして愛蔵版としたもの。グラビア、新作劇の紹介・講評、劇中歌の楽譜や諸々のエッセイ、広告を含んだ内容です。1冊の紙数は52ページで12冊だと600頁になります。

第一次大戦の負け戦がほぼ確定となっていて、オーストリアのハプスブルグ家から独立し共和国となる(1918年11月)直前、国として大きな岐路に立っていた時期に当たります。エンタメ誌ですので政治の話はされていませんが、ハンガリー俳優がハンガリー語で演じた劇を扱った雑誌が売れるようになった状況そのものが文化アイデンティティの自覚とつながっていたのでしょう。

終戦後、国内に平和が戻ってくるとハンガリー演劇はさらなる盛り上がりを見せ、アイドル的な雰囲気を漂わせた若手も目立つようになってきます。今回入手した雑誌はその直前でガチの演劇人が多く登場してくる印象があります。

またこの時期にハンガリーでも映画産業が拡大しておりグラビアや特集で登場してくる役者たちも多かれ少なかれ映画と接点を持っていました。手元の合本でも幾つかの記事で映画作品や映画会社が取りあげられています。20年代には舞台と映画の棲み分けがはっきりしてくるので過渡期的な状況と見ることもできます。

◇◇◇

ハンガリー初期映画に関わる記事や写真を幾つかピックアップしてみます。

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35号ではマイケル・カーティス監督の初期作『99』が取りあげられています。後にハリウッドに渡って初代ドラキュラとなるベラ・ルゴシの初期作品でもあります。ヒロイン役はクレール・ロットー

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次いで37号でデエーシ・アルフレード(Deésy Alfréd)監督の『アフロディーテ』の紹介記事と『カサノヴァ』のスチル写真が掲載されていました。前者のヒロインはホッライ・カミッラでした。

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38号にはアレクサンダー・コルダ監督の初期作『森の精』。ヒロインにレンケッフィ・イツァを配しています。

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39号にはアストラ映画社の紹介記事。ちなみに『99』はフェニックス映画社、『アフロディーテ』がスター映画社、『森の精』がコルヴィン映画社で、この辺が1910年代末に認知度を増してきている様子が伝わってくるものです。

フェダーク・シャーリラーバシュ・ユーツィが表紙を飾っている他、先日スペイン風邪流行との絡みで触れたバンキー・ユディットのグラビアやセントジョールジー・マールタ訃報を見つけました。

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現在のハンガリーはユーロ圏には属さず文化・政治面で独自路線を取っています。市場も閉じた感じで現地の物を日本に輸入するのは難しいです。今回和歌山を拠点にハンガリー製品の輸入販売を行っているコツカマチカ(Kockamacska)さんに輸入の代行を依頼、コロナ禍に伴う配送難と重なりながらも無事届けていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。

ファニー・ワード Fannie Ward/Fanny Ward (1872 – 1952)

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

ファニー・ワード1927年の直筆サイン入り絵葉書
Fannie Ward 1927 Autographed Postcard

嬢をして今日の人氣を博せしめた作品は、一千九百十四年に、早川雪洲氏やヂャック・ディーン氏などと一座して撮影した日本劇「チート」である。この映畫を製作して以来、嬢は米国映畫界の首腦女優となつた。

爾来、「テネッシーの赦罪者」「國防の爲めに」などを撮影して、益々名聲を昂めたが、昨年の始めに、パセ會社のエストラ映畫の專属女優となつた。

目下は、ラスキー會社の初舞臺當時に戀に落ちたヂャック・ディーン氏と結婚して、幸福な樂しい生活を送って居る。

當年四十四であるけれども、尚未だ二八の少女のやうに、若々しい容貌と豊かな肉體とを持つてゐる。嬢が斯界に喧傳される所以も一つには、この絢爛たる名花の趣を備へて居る爲めである。しかし、技藝そのものから云つても、嬢は優に大花形の中に加へられるだけの天分を持つて居る。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Fannie Ward in Cheat
『チート』でのファニー・ワード

1910年代にハリウッドで花形となった女優としては最も芸歴の長い一人で1890年代にはすでにブロードウェイの舞台に立っていました。英米を股にかける形でキャリアを積み上げていくものの、1910年代半ばに舞台での人気が翳りを見せる中でデミルの要請に応じて映画女優に転身。1915年公開の『チート』(ラスキー社)でトップ女優の仲間入りを果たしました。

その後しばらくラスキー社花形として活動、1918年にパテ社傘下のアストラ社に転籍。パテ社が「特選長編(Extra-Selected Feature)」として配給した第一作がファニー・ワード主演の『お雪さん(A Japanese Nightingale)』でした。

日本人から見ると不自然なセットや設定が目につきますが当時の欧米の観衆はエキゾチックな魅力を感じたようです。1922年には3リール物の短編に編集されて再公開されるという当時としてはやや珍しい運命を辿った一篇です。

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ムービング・ピクチャー・ワールド誌1918年8月17日

1920年代半ばに米パテックス社が9.5ミリ小型映画を市販し始めた時『お雪さん』が9.5ミリ化されたのもこの延長上にあります。ファニー・ワード出演作では実はもう一作『ミュージックホールでの初舞台』という作品が仏パテ社から9.5ミリ形式で販売されていました。短い抜粋ですが『チート』でも『お雪さん』でもありません。「遺失」作品の一部ではないのかなと気になっています。

サイン物は今回が2枚目の入手。絵葉書サイズのカードに名前と「1927年」の年号が手描きされています。もう一枚は仏シネマガジン誌のプロマイド写真で裏面に日付、仏語メッセージ、名前、住所が書かれています。

Fanny Ward's French Inscription dated Aug. 10 1921

謹しんで、1921年8月10日
ファニー・ワード
シャンゼリゼ通り114番

Sincèrement à vous, 10-8-21
Fanny Ward 114 Av. des Champs-Elysées

[IMDb]
Fannie Ward

[Movie Walker]
ファニー・ワード

[出身地]
合衆国(ミズリー)

[誕生日]
2月22日

[サイズ]
8.6 × 13.6cm(撮影:「S. Georges of Green St. W.C.2」)
17.2 × 23.8cm(シネマガジン製ポートレート写真))

ビリー・バーク Billie Burke (1884 – 1970) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

ビリー・バーク 1909年頃直筆サン入り絵葉書
Billie Burke c1909 Autographed Postcard

ビリー・バークは1939年の名作ミュージカル『オズの魔法使い』出演で多くの人々に記憶されています。主人公ドロシー(ジュディー・ガーランド)を導いていく「北の良い魔女」グリンダです。

Billie Burke in The Wizard of Oz
『オズの魔法使い』でのビリー・バーク

魔女グリンダの性格設定は(おそらく非現実の世界にしか存在しない)「包容力のある美しき母」でした。ビリー・バークの温かみのある、時にユーモラスな演技はあの役柄にマッチしていて他の女優さんでは替えが効かないのではないかと思います。

その芸歴は長く1900年代に舞台デビュー、若くしてブロードウェイの人気者になります。1910年代に映画に進出、パラマウント社初の連続劇『グロリア物語』(1916年)主演で成功を収めています。1914年には興行界の大物フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアと結婚しており二人のロマンスは後に『巨星ジーグフェルド』(1936年)として映画化もされました。

Billie Burke in Motography Magazine 1916 April 29 Issue
モトグラフィー誌1916年4月29日号より『グロリア物語』の先行予告スチル

彼女は良く知られた美人さんというだけでなく、他に例を見ないほど完璧に演技の修練を収め、人を引き寄せる魅力に高潔な心、並々ならぬ人間力を備えている。その動きに見られるしなやかな才能は例外的と言ってよいだろうし、「銀幕値(スクリーン・バリュー)」も備えているのだがそれが「銀幕の天才」と呼べる位に達している。(モトグラフィー誌1916年4月22日号より。『グロリア物語』原作を手掛けた作家ルパート・ヒューズのインタビュー)

She is not only a famous beauty, but an actress of unusually thorough schooling and magnetism, high spirit and peculiarly human appeal. She has also an extrordinarily flexible pantomimic gift, and what is known as « screen value, » to a degree that might be called « screen genius. » (Rupert Hughes Interview in Motography Magazine 1916 April 22 Issue)

『オズの魔法使い』は技術・技法的に、そして美学的にも戦前ハリウッドの集大成と呼べる一作でした。そこに初期ブロードウェイやサイレント映画時代の経験値を持ちこんでいたのがビリー・バークだった、と見ることもできます。

サイン入りの絵葉書は英ロータリー・フォトグラフィック・シリーズの一枚で、英国南部の町ボーンマス在住のS・マクブロック嬢宛に送られています。消印はロンドン局1909年5月26日付。もう一枚同嬢が所有していたサイン無しの絵葉書とセットで入手したものです。

[IMDb]
Billie Burke

[Movie Walker]
ビリー・バーク

[出身地]
合衆国(コロンビア)

[誕生日]
8月7日

[データ]
8.8 × 13.7 cm

1933年 – アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1933年 - アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡
Alexandre Arquillière 1933 Letter to Emile Drain

10月5日の12時半、バリュ通りのレストラン「デ・ヴォージュ」に世界演劇協会(SUDT)の同志数名が集まる予定になっています。興味あるのではないかな、と。良ければご参加を。

Quelques camarades de la S.U.D.T. se réunissent le 5 Octobre à midi et demi au restaurant « des Vosges » rue Ballu. Je pense que cela peut vous interesser et vous demande d’en être.

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1912年『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』宣材スティル。左手前にジゴマ役のアルキリエール
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スーパー8『松竹 日本映画史 前編』より『ジゴマ』抜粋

1911年の映画版『ジゴマ』で主役ジゴマを演じたのは舞台出身のアレクサンドル・アルキリエールでした。

アンドレ・アントワーヌが1887年に設立した「自由劇場」の古参メンバー。大手と一線を画した自然派志向で知られた演劇一派で、今で言うなら演劇界のオルタナティヴな流れに位置しています。

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1916年の演芸誌ランプ表紙を飾ったアルキリエール

同劇場時代に知りあったフィルマン・ジェミエとはその後長く交友が続いていきます。ジェミエは1922年にオデオン座支配人となり、次いで1925年に国内活動に留まらないグローバル演劇を指向する「世界演劇協会(SUDT)」を設立しています(現在のユネスコ国際演劇協会のルーツの一つ)。

アルキリエールも多かれ少なかれこの活動に絡んでいたようで、俳優仲間のエミール・ドレン宛に会合の日時を知らせたのがこちらの手紙です。封筒も残っていて消印は1933年10月2日付。

いわゆる美形俳優の枠に括られる俳優さんではないものの、存在感と豊かな表情が舞台映えします。映画との関連も深く、1908年からアルベール・カペラーニ短編に登場、10年代にジャッセ作品の主要俳優となって「ジゴマ」が当たり役となりました。その後もジェルメーヌ・デュラックの不条理家庭劇『微笑むブーデ夫人』(1923年)やジャン・ルノワールのエキゾチックな南部劇『荒地(ブレッド)』(1929年)で重要な役割を演じていました。

[IMDb]
Alexandre Arquillière

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(ロワール県)

[誕生日]
4月18日

[データ]
住所入りの個人用便箋に手書き、13,5 x 21 cm。封筒はパリ市ガール・サン・ラザール局の1933年10月2日付消印有。