1930 – 『映画百面鑑』(権田保之助編訳註、独和対訳小品文庫 第4冊、友朋堂)

Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute (German-Japanese Bilingual Edition, Translated by Gonda Yasunosuke, Yuho-sha, 1930)

大正期のドイツ語学者で辞典・文法書の編纂で知られる権田保之助(1887-1951)氏が「独和対訳小品文庫」というコレクションで公刊していた翻訳書。権田氏には社会学者、大衆娯楽研究家の側面もあって活動写真論(『活動写真の原理及応用』『映画説明の進化と説明芸術の誕生』)も残しています。

先例となったのは有朋堂が第一次大戦前に展開していた対訳形式の「独逸文学叢書」で、当時まだ新進言語学者だった権田氏も訳者に名を連ねていました。大戦後に権田氏自身が中心となって新たな対訳コレクションを立ち上げ『童話』、『独逸新聞研究』、『アルセーヌ・ルパンの冒険』に次ぐ第4番として出版されたのが『映画百面鑑』。偶数ページに日本語訳と慣用句・文法・語源の説明、奇数ページにドイツ語の原文が置かれています。

ページを開くとヨーエ・マイによる「映画監督」、エミール・ヤニングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」…日本でも知られた名前が続きます。

私が-僭越(arrogant)ではないが- 決して独逸映畫を作つてゐるのでも、又決して米國映畫を作つてゐるのでもなくして、ルビッチ映畫を作つてゐるからであり、私が常住(jedesmal)、人間的なモティーヴを(ein menschliches Motiv)、有效な修飾の中に装はせて(eingekeidet)、人間的に扮せしめやうと(zu gestalten)試みて來たからであり、又、私が、私の心の中の(in meinem Sinn)愛と憎しみ、惱みと怒を、言語の境界や政治的區分とは超越して(unabhängig von…)、遍く人々が了解するやうに、明瞭にする(zu verdeutlichen)技能があつた俳優に、信頼し得たからである。

「映画国際性」
エルンスト・ルビッチ

[…] weil ich -ohne arrogant zu sein- keine deutschen oder amerikanischen Filme mache, sondern Lubitsch-Bilder, weil ich jedesmal versucht habe, ein menschliches Motiv, eingekleidet in wirksame Dekorationen, menschlich zu gestalten, weil ich mich auf Darsteller stützen konnte, die befäfigt waren, Lieben und Hassen, Leidenschaft und Zorn in meinem Sinn so zu verdeutlichen, daß man es überall versteht, unabhängig von Sprachgrenzen und politscher Einteilung.

Film-Internationalität
Ernst Lubitsch

[これらの作品が成功を収めた]理由は(偉そうな御託を垂れる気はないのですが)まず私がドイツ映画を作っている訳でもアメリカ映画を作っている訳でもなくルビッチ映画を作っているからで、また主題として人を選び、主題を上手く生かす飾りつけを与えて人のぬくもりを感じられる話にしようと各作品で試みてきたからであり、さらにまた信頼できる俳優たちに恵まれたからでもあって、彼等/彼女等は私の考えている意味での喜怒哀楽を分かりやすく表現する力量があり、言葉や政治の壁を越えて誰もが理解できる風になっているのです。

私訳

ルビッチのこの論考は良く知られており、英語訳[1]もあってルビッチ論や初期ドイツ映画論で目にする機会の多いものです。

引用したのはアメリカとドイツどちらでも成功を収めた理由について私見を述べている部分。英語の「なぜなら(because/for)」に相当する接続詞「weil」を3度用いて3つの理由を挙げているのですが、ローカルな発想や方法に拘泥せず普遍的な表現を目指していく考え方が強調されています。海外市場を狙って、という話ではなく「良い映画作品であれば国内外の評価は自ずからついてくる(Jeder gute Film ist von Haus aus international)」の信念があればこその議論です。

底本は1924年に出版された「Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute(ドイツ映画本:昨今の映画をめぐる諸問題)」。独キネマトグラフ誌の編集長だったアルフレート・ローゼンタール氏が編集総責任者となり、映画監督、俳優、大学研究者による15本の各論をまとめたものです。

キネマトグラフ誌(1923年12月879/880合併号)に掲載された出版告知

[1] The Promise of Cinema: German Film Theory, 1907–1933, Anton Kaes, Nicholas Baer and Michael Cowan (Ed.) 1996, University of California Press, 978-0-52021-908-3

[出版者]
友朋堂

[出版年] 昭和5年

[原題]
Das Deutsche Lichtbild-Buch : Filmprobleme von Gestern und Heute

[編集者]
Heinrich Pfeiffer

[元作品出版者]
Verlag August Scherl G.M.B.H.

1935 – エルンスト・ルビッチ & ヴィヴィアン・ゲイ(ルビッチ)

Menu, « Royal Grand Hotel », Budapest. Signed by Ernst Lubitsch & Vivian « Lubitsch », March 25, 1935.

【今日のメニュー】

牡蠣の王家風クリームスープ
若鶏のロースト&仔牛のカツレツ
副菜
ストロベリームース

1935年3月25日

ロイヤル・グランド・ホテル(ブダペスト)レストラン

Etrend

Krémleves királynő módon
Sült jérce és borju szelet
Körités
Eper habszelet

1935 március hó 25 én

Royal Nagy Szálloda

エルンスト・ルビッチとその妻ヴィヴィアンによる連名サインが残された1935年3月25日付昼食メニュー。

ヴィヴィアン・ゲイはルビッチ監督の再婚相手。元々イギリス出身で自身も演技の経験がありましたが、ハリウッドでは女優サリ・マリッツァのマネージャーとして名を上げていきます。

サリ・マリッツァを語る前にまず触れておきたいのがマネージャーである。ヴィヴィアン・ゲイは24才の金髪女性で、担当している女優とは年が二つしか変わらない[…]。エルンスト・ルビッチからランドルフ・スコットまでハリウッドの大物権力者を手玉に取るだけの魅力の持ち主である。

「サリ・マリッツァは如何にスター女優となったか」
(モーション・ピクチャー誌 1933年2月号)

The most remarkable thing about Sari Maritza is her manager. Vivyan Gaye […] is a personable young blonde of twenty-four, only two years older than her charge. […] Vivyan is attractive enough to do very well for herself with Hollywood’s high-powered sheiks, ranging all the way from Ernst Lubitsch to Randolph Scott.

How Sari Maritza Made a Star (Motion Picture, 1933 February Issue)

美人女優と美人マネージャーの二人三脚は話題となり雑誌に写真が載るようになります。また彼女は仲介エージェント業に関わっていて様々な企画を監督や映画会社、作家に持ちこみ、調整から得られる仲介料を得ていました。1933年頃にはジョイ&ポリマー社に雇われる形で、その後1934年6月にディック・ポリマーが独立して会社を立ち上げた際にも「提携」の形で名前が出ていました。

仕事柄業界の大物と直接コンタクトを取る機会も多く出会いには恵まれていました。1933年には人気俳優ランドルフ・スコットとヴィヴィアン・ゲイ、スコットの親友であるケーリー・グラントとヴァージニア・シェリルのダブルデートがスクープとして報じられます。同時挙式になるのではないかの憶測が広まり、実際にグラントとシェリルは1934年の2月に挙式。しかしヴィヴィアンの方は破談となってしまいました。

ケーリー・グラントの伝記にはこの辺の裏事情が説明されています。元々スコットはバイセクシャルで、当時ケーリー・グラントとの交際が進んでいました。しかし会社(パラマウント)側はこの状況を良しとせずアドルフ・ズーカーは関係を断つようスコットに圧力をかけます。スクープされた「ダブルデート」も実際はスコットが本命のグラントと一緒に動くための「カモフラージュ」だった訳です。

スコットとの「偽装」恋愛が行き詰まる中で本業のマネジメントにも陰りが見えていました。第二のディートリヒとして売り出したサリ・マリッツァは実力・人気が伴わず1934年10月の結婚と同時に女優業を引退。ヴィヴィアンも身の振り方を考える時期に来ていました。

絶妙なタイミングに絶妙な見た目で現れた絶妙な女性だった。[…] ヴィヴィアンは27才、ルビッチの好みである「すらりとした背の高い金髪女」そのままのタイプだった。

 『楽園の笑い声:エルンスト・ルビッチ伝』)

Vivian Gaye was the right woman with the right look at the right time. […] Vivian was twenty-seven and very much in line with Lubitsch’s taste in women: tall, slender, and blond.

Ernst Lubitsch: Laughter in Paradise (Scott Eyman, 1993)

1935年にエルンスト・ルビッチとヴィヴィアン・ゲイの結婚が発表されました。同年7月27日に挙式、役所での手続きを済ませた後にハネムーンに旅立っていきます。ハリウッドのメディアもノーマークで各誌では驚きの声が上がっていました。

レストランのメニューに残された連名サインは入籍の4カ月前に残されたものです。お忍びでハンガリーに向い、レストランで食事中に誰かに所望され、手近にあったメニュー裏にサインを残した流れになるのでしょう。興味深いのは入籍前にも関わらずヴィヴィアンが「ヴィヴィアン・ルビッチ」とサインしている所です。

この時点で結婚は決まっていて「今度彼女と再婚するんだよ」の紹介を踏まえた上でサインをしたと思われます。名字に下線を引くのは彼女の手癖で、1933年に仏監督マルセル・レルビエに宛てた書簡で「ヴイヴィアン・ゲイ」の「ゲイ」にも下線を確認できました。

ヴィヴィアンに対する後世の評価は割れています。ルビッチ伝の一つ『楽園の笑い声』には「やたらと知識をひけらかす成り上がり者(a tremendous snob, a climber)」の厳しい意見が含まれていました。また再婚後のルビッチは妻の管理下に置かれ旧友と距離ができたという証言があります。

サリ・マリッツァの売り出し方から分かるように、マーケティングで実体以上に見せるはったり上等の勝負師の側面はあったのかなと思います。また「成り上がり者」と訳したclimberは「玉の輿狙い(golddigger)」に近いニュアンスですし傍からそう見えたのも理解はできます。とはいえルビッチが理想的な夫、父だったかというと難しい所です。語学力とコミュニケーション能力に秀で、女優と並んで遜色ない美貌の持ち主だったヴィヴィアンにも彼女なりの言い分があるのでしょう。

1938年に娘のニコラさんが誕生。1944年3月には財産分与の上離婚。結婚生活は9年で終わりを告げました。それでもお忍びでデートを重ね、美味しい料理を前に仕事や将来の話であれやこれや盛りあがっていた瞬間もあったわけです。互いの思惑や打算、そして現実がどのようなものであれ二人の共有した時間の断片がこんな形で残されているのがとても興味深く思われます。

[参考文献]
Ernst Lubitsch: Laughter in Paradise (Scott Eyman, Simon & Schuster, 1993)
Cary Grant: A Biography (Marc Eliot, Harmony, 2004)
他1932~35年にかけての「ハリウッド・リポーター」「スクリーンランド」「フィルム・ダイアリー」等映画誌

1924 – 16mm 『結婚哲学』 (1924年、エルンスト・ルビッチ監督) MOMA版プレビュープリント

The Marriage Circle (1924, Warner Bros. dir/Ernst Lubitsch) MOMA 16mm Preview Print

1920年代のルビッチが得意としてた室内喜劇型(チェンバー・コメディ)の作品。妖艶で多情な女性をマリー・プレヴォー、彼女の友人で無邪気な人妻をフローレンス・ヴィダーが演じ、男性陣二人(アドルフ・マンジュウ、モント・ブルー)を交えた軽妙な四角関係の恋愛模様が描かれていきます。

ハリウッド期のルビッチ無声作品の保存状況は芳しいものではありませんが、『結婚哲学』と『ウィンダミア夫人の扇』の二作品は恵まれていて米国内に保存されていた35ミリプリントを元に早くからデジタル化されてきました。

『結婚哲学』は映画保存協会主導の元、デヴィッド・シェパード氏が指揮を執って完成させたデジタル版が2000年にDVDで発売されました。2015年にフリッカーアレイ社がオン・デマンド販売を開始したDVDも内容は同じです。

手元にあるのはMOMA(二ューヨーク近代美術館)所蔵の35ミリから派生してきた16ミリプレビュー版。幾つかのフレームをスキャンして比較してみました。左が16ミリ版、右がDVD版です。

ベースになったプリントは同一で(以前にチャップリンやラング、ヒッチコック作品で見たような)別テイクは含まれていません。細かな話をするとDVD版は上と左、16ミリ版は右のトリミング幅がやや大きめに取られています。その影響もあり16ミリ版は左右がわずかに圧縮され車や人が細めに表現されています。

[IMDB]
The Marriage Circle

[Movie Walker]
結婚哲学

[公開年]
1924

[メーカー]
MoMA

[フォーマット]
16ミリ ダブルパーフォレーション 無声・調色(Toned) 750フィート(プレビュー版で冒頭の20分程度のみ)

1924 – 『浦邊粂子小唄集』(春江堂、キネマ花形叢書)

Urabe Kumeko : Songbook (1924, Shunko-do, Collection « Cinema Stars » )

春江堂が大正13年(1924年)に手掛けていた流行歌集のコレクション。14.2×10.5㎝、全80頁。

大正期~昭和初期の映画に興味のある方であれば、1923年公開の『船頭小唄』、翌年の『籠の鳥』を皮切りに展開された「小唄映画」の名に馴染みがあるのではないでしょうか。大正期のメディアミックスの流れの一つとして興味深いもので、近年になって幾つかの研究書、論文が発表されるなど再注目を集めているジャンルでもあります。

小唄映画の勃興は、日本における花形女優文化の誕生と時期を一にしています。浦邊粂子さんが日活作品の『清作の妻』で注目を浴びたのもこの大正13年(1924年)。春江堂によるキネマ花形叢書はこういった時代の流れに反応したもので、栗島すみ子を筆頭に8名の女優名を冠した小唄集を公刊。

(女) 指をさゝれよと恐れはせぬが 妾や出られぬ籠の鳥
(男) 世間の人よ笑わば笑へ 命がけした仲じやもの
(女) 命がけした二人が仲も 今は逢ふさえまゝならぬ
(男) まゝにならぬは浮世の定め 無理から逢ふのが戀じやもの
(女) 逢うて話して別れる時は 何時も涙が落ちて來る
(男) 落ちる涙は誠かうそか 女心はわからない
(女) うそに涙は流せぬものを ほんに悲しい籠の鳥

新籠の鳥

『浦邊粂子小唄集』と題されているものの、彼女に関係のある作品は『新籠の鳥』と『金色夜叉』だけで、その他の収録作品は「船頭小唄」(栗島すみ子主演作より)「水藻の歌」(同左)「戀慕小唄」(酒井米子主演作より)「闇の五本松」(梅村蓉子主演作より)と一人の女優に特化したものではありませんでした。他の女優編もおそらくは内容は同一で、表紙のみ差し替えていた可能性があるのかな、と。

こういった書物が時代やテクノロジーの変化に揉まれて後年の「映画主題歌集」に形を変えていきます。大正末期にはまだ「主題歌」の概念はなく音楽ソフトを再生できる環境(蓄音機)を備えた家庭も少数派でしたが、この手の冊子で歌詞を覚え、互いに教えあっていた風景というのがどこかにあったのだな、と想像させてくれる紙資料です。

1929 – 『カフェーの歌と映画小唄』(歌劇同好会・編、昭文舘書店/ライオン樂器店)

Cafe & Cinema Songs (1929, Shobun-kan/Lion Music)

当時物の映画小唄関連書籍をもう一冊。昭和4年(1929年)に公刊された『カフェーの歌と映画小唄』です。目次+本文124頁、冒頭に夏川静江さんと林長二郎氏の写真があしらわれています。

前半はカフエ(あるいは酒場)を舞台としたセンチメンタルな恋物語を扱った楽曲(「酒場の乙女」「道頓堀行進曲」「失戀の女給」)を中心に収め、中盤以降に「スツトントン節」「流浪の旅」「鈴蘭の歌」など小唄映画の名曲が並び、後半は『カルメン』や『生ける屍』など外国曲が収録される形になっていました。

小唄映画の原点の一つである船頭小唄(枯れすすき)は「此の世では花の咲かない」悲しみを歌ったもので、「親が許さぬ戀」「どうせ添はれぬ仲」を扱った戀慕小唄なども同じ系統に属しています。

(女)妾(わた)しやカフエに咲いて居る 眞白き花のスゞランヨ
(女)戀しき貴郎(あなた)は大學の 胸に五ツの金ボタン
(男)互に誓し仲なれど 未だ學生の悲しさに
(男)添ふにそはれぬ此くろを 辛抱してくれ今しばし
(女)切ない思ひで待つ妾 […]

チエリーソング(植中文春作)

酒場でもつれた戀なれば
逢ねば其れで濟みますの
なんぼ酒場の女給でも
心で結んだ戀じやもの

君戀しさに堪かねて
焦るゝ妾の胸の内
いくら薄情な貴郎でも
少しは察して下さいな

失戀の女給(二忠春男、西田輝男合作)

本書収録曲では新しい部類に入る「チエリーソング」「失戀の女給」の歌詞は、今迄の悲恋パターンに女給+男性(男子学生、魅力的だが身勝手な男など)を追加しているように見えます。実際のカフエや酒場ではもっと生々しいドラマも展開されていたのでしょうが、少なくとも流行歌として表面化してくる部分では旧来型のしっとりとした情緒が尊重されていたのだと思います。

映写機用レンズの肖像 [08]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー f=20ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior F=20mm Projection Lens

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアーメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ20mm不明不明1930年代中盤?ペッツバール型3群4枚64.6525.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット14.05.214.1メニスカス12.60.712.6

キノン・スーペリアーの焦点距離20ミリ。単体で購入したもので本来の映写機名は不明。

鏡胴部分が大きく全長は65ミリほどあります。根元にレンズのユニット本体をねじこんだ形で、レンズそのものは直径15ミリ弱、ユニット全体の長さも20ミリほどと思ったよりコンパクトなものでした。構成は焦点距離40ミリ同様3群4枚のペッツバール。

20ミリの焦点距離は撮影用レンズで言うと広角レンズに当たります。レンズ性能比較用に自作したシステムが広角寄りのレンズに対応しておらず実写のサンプルを撮れていないのですが、ひとまずミラーレスに載せて試し撮りをしてみました。

フランジバックの兼ねあいで四隅が大きくケラれました。とはいえこの形の方がレンズの特徴が見えやすいですね。

ドミプランやトリオプランと同様、ピントを外れた場所の点光源に玉ボケの出やすいレンズです。キノン・スーペリアーではグルグルボケの出方が強く、円い玉ボケがレンズの外周に近づくにつれ潰れて弧の形となり互いに重なりあうことで個性的な絵面になります。

角度を変えてもう一枚。中央奥の点光源が歪みのないバブルボケになっているのが分かります。トリオプランやドミプランなどで発生してくる玉ボケは、絞りに使用されるブレードの影響を受けて実際には六角形だったり十五角形だったりします。映写機用レンズには絞りの発想がない(=ブレードがない)ため綺麗な円になります。

本来の映写機用レンズとして使用する場合、横長の矩形部分でフィルムを映写することになります。四隅を中心に流れの目立つ画質になるのがこの写真からでも分かります。

今回独メイヤー社と仏エルマジ社のレンズを複数紹介してきました。どちらが優れている云々ではなくて、それぞれの会社が理想としているレンズ観が如実に表れていて興味深かったです。

映写機用レンズの肖像 [07]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー I f1.6 40ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior I F1:1.6 40mm for Pathex 200B Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアー Iメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ40mm1.6パテックス200B1930年代中盤ペッツバール型3群4枚64.6529.9
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット26.19.115.25メニスカス21.14.21.621.15.0

数々の個性派レンズ(トリオプラン、オレストール、テレメゴール…)で知られている独光学メーカー、メイヤー・ゲルリッツ社が映写機用レンズの主力として製造していたのが「キノン・スーペリアー(Kinon Superior)」です。こちらの個体は焦点距離40ミリ、1930年代半ばの独パテックス社200B映写機に付属していたものです。

この時期の標準だったペッツバール型3群4枚のレンズ構成。前玉がかなりがっしりしていて厚みもあります。

フィルムの映写作例では四隅まで光量が落ちず、中心部分で細やかな質感を再現できていました。ただし画面の中央に比較的近い所から放射状に流れるような動きが見られます。

ミラーレスにマウントして撮影してみました。

キノン・スーペリアーは絞り開放で使用した際に周縁部にグルグルとしたボケが出やすいレンズとして知られています。個性的な写真を狙っている愛好家が探している一本ですが、今回テストした40ミリはそこまで極端な結果は出ませんでした。強い点光源を中央付近に集めるとバブルボケ/グルグルボケがはっきり出てくるのですが、狙い過ぎた感じになるので今回は避けました。

このレンズに関しては後年の焦点距離50ミリが有名で、ミラーレスにマウントした作例が多く紹介されています。昨今の改造レンズブームで入手しにくくなっているものの同レンズを搭載したバウアー社パンタリュクス映写機(Bauer Pantalux)が時折安く中古市場に出てくるので探している方はその辺が狙い目だと思います。

映写機用レンズの肖像 [06]: 仏エルマジ社 マジステール F1.9 45ミリ

Hermagis Magister F=1.9 45mm for Paillard Bolex Type DA Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
マジステール仏エルマジ社フランス45mm1.9ボレックスDA型1930年代中盤ペッツバール型3群4枚46.025.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット20.08.0メニスカス22.54.60.522.44.0

パイヤール・ボレックス社の9.5ミリ/16ミリ両用DA型映写機に付属していたレンズ。同映写機はF1.9の40ミリを装備していたD型のアップデート版に当たります。鏡胴の形は他のマジステールとは異なるものの、レンズ構成はペッツバール式で変更はありません。

9.5ミリフィルムを実写してみたときのサンプル画像がこちらです。F1.6/40ミリとF1.9/40ミリがやや褐色気味の柔らかい描写をしていたのと比べ、F1.9/45ミリは彩度が低く、かっちりした印象の絵を返してきます。

ミラーレスにマウントした接写作例。被写体深度はやや深めでピントあわせがしやすいです。彩度が低いため「枯れた」感じの渋いアウトプットになりました。ピントがあっている部分の解像度はF1.9/40ミリより一段階高いものとなっています。

焦点距離40mmを装備しているボレックス社のD型映写機は250ワット光源での映写を前提とした一台です。焦点距離45mmを装備しているDA型は400ワットのランプで映写する形にアップデートされていました。無理に明るさを追求する必要がなくなり描写の精度を重視したレンズづくりに向ったのがF1.9/45mmだった、と見ることもできます。

映写機用レンズの肖像 [05]: 仏エルマジ社 マジステール F1.9 40ミリ

Hermagis Magister F=1.9 40m for Paillard Bolex Type D Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
マジステール仏エルマジ社フランス40mm1.9ボレックスD型1930年代中盤ペッツバール型2群4枚52.025.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット25.08.0凸凹ダブレット20.07.5

パイヤール・ボレックス社の9.5ミリ/16ミリ両用D型映写機に付属していたレンズ。9.5ミリフィルムを実写する時に使用しているメイン機の一台でもあるため今回はレンズの分解は行いませんでした。鏡胴の形が異なるもの、同時に紹介しているF1.6の40ミリと同じく2群4枚のペッツバール式となっています。

9.5ミリフィルムを実写した際のサンプル画像。この時はピントあわせが上手くいかず、左側のフォーカスが外れ気味になっています。描写の質感は毛並の柔らかい表現などF1.6の40ミリに近いものがあります。四隅の光量低下が多少目立ち、周辺部に流れるような動きが見られます。

ミラーレスにマウントした際の接写作例。やはりF1.6の40ミリに似た感じ。開放での被写体深度はやや浅目。赤系の発色が鮮やかでピントのあっているやや先で二線ボケが出ています。ただしF1.6の背景に見られた玉ボケは見られず、ソフトに溶けるようなボケが出ています。

コントラストが強くはっきしりした絵面になる一方、白い部分で白飛びが発生。フィルム実写時にも画面上部に似たような傾向が出ているのが分かります。

映写機用レンズの肖像 [04]: 仏エルマジ社 マジステール F1.6 40ミリ

Hermagis Magister F=1.6 40m for Pathé Lux Projector (Early 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
マジステール仏エルマジ社フランス40mm1.6パテリュクス映写機1930年代前半ペッツバール型2群4枚50.030.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット凸凹ダブレット20.0

2014年にパテ社リュクス映写機のジャンク機体を購入した時に付属していたレンズ。仏パテ社の初期カタログで「エルマジ社製・焦点距離40ミリレンズ(Objectif supérieur foyer 40mm Hermagis)」と記載されているものでカタログ番号はF196、定価は90旧フラン。

レンズのコンディション(特に前玉)があまり良くなく周辺部に汚れが固着しています。今回実写にあわせて再度分解・清掃を行いましたがほとんど変化なし。前玉と後玉がそれぞれユニットになっていて、前玉は正面のリング部分を指で回すと簡単に外れるようになっています。後玉はカニメレンチで外す形。

前玉は色消しのダブレット(凸凹)になっているようですが汚れの固着でフレームから外すことができませんでした。後群も同じく凸凹のダブレットで、2群4枚型のペッツバール式レンズとなっています。

性能比較テストで9.5ミリフィルムを映写したサンプル画像。中心部分は綺麗に映っているのですが周辺部(特に左端から中央下)に乱れが見られます。ダメージがそのまま映写結果に出てしまっている感じですね。

ミラーレスにマウントして接写したサンプル。

ピントが合っている個所のわずかに奥側で二線ボケが出やすく、その近辺に被写体が多いとワシャワシャした感じになります。背景はジワリと滲んでいて全体としては品のあるレンズかなと。背景に点光源があると楕円に近い玉ボケが発生。作例右の画面左端に近い直線の描写にはレンズ汚れ起因と見られる歪みが見て取れました。

エストニアより(映画)愛をこめて ヤーク・ヨエカッラス氏旧蔵サイン絵葉書

先日エストニアからの航空便が届きました。オンライン経由で取引したサイン物の絵葉書が計6点収められていました。

珍しい名前が多かったため蒐集家の古いコレクションがばらされたと思ったのですが、話を伺ったところセラーのヤーク・ヨエカッラス(Jaak Jõekallas)氏が個人で集めてきたサイン物の一部だそうです。「日本に発送するのは初めてだよ」と英語のメッセージが届き、返信がてら幾つか質問させてもらったところ素敵な話を色々聞かせていただきました。

前に書いたように、ソ連の時代には地元の骨董屋に独ロス社の絵葉書が沢山置いてあったんですよ。そういった店の多くは今は廃業してしまいましたけど、それでもまだ営業を続けているお店で面白い掘り出し物を見つけることがあります。

And as I already told, at the Soviet time there was a lot of old Verlag Ross postcards for sell in our antique shops. Nowadays most of these shops are closed but … sometimes is possible to find something interesting from these shops which are still working.

ソ連による併合以前に輸入されていたドイツやイギリス、合衆国製の絵葉書が1990年代にまだ町中のアンティークショップで売られていたそうで、ヤークさんは幼い頃からそういった紙物を集め始めていたそうです。

本サイトでも以前に紹介したイタ・リナ(Ita Rina)の話も少し出ました。1930年に公開された主演映画『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)がエストニアで撮影されていてこちらから話を振ってみたのですが、ヤークさんも当然その話は知っていて、しかも同作を監督したロシア出身の映画俳優・監督ウラディミール・ガイダロフの伝記を最近読んだ、とのこと。英語とロシア語の両刀使いは古いサイン物を集める際には強力な武器になります。正直羨ましい限りでした。

ちなみにヤークさんの名前はエストニアのウィキにも登録されています。1969年生まれで本職はオペラ歌手。古い映画関連紙物のコレクターとして知られており書籍も出版されているそうです。

ヤーク氏は映画俳優の絵葉書(ロス社、ピクチャーゴーア、また旧ソ連で出版されたものなど)、映画雑誌や書籍の収集でも知られている。

エストニア版ウィキペディアより

Kogub ka filminäitlejate postkaarte (Verlag Ross, Picturegoer jt, sealhulgas ka endise Nõukogude Liidu väljaanded) ning filmiajakirju ja -raamatuid.

『キノスタルジア』 (Kinostalgia. Filmistaaride lummuses, Jaak Jõekallas, 2018, Hea Lugu)

2019年にエストニア公共放送(ERR)で自著を紹介した番組がオンエアされました(ERR公式HPより)

2018年に出版された『キノスタルジア』は同氏の所蔵写真、絵葉書から600点を収めた一冊。表紙を飾っているのはキャロル・ロンバート。現在のエストニアはIT国家として知られていますが音楽や文芸思想でも優れた才能を輩出しており、こういった書籍からも質の高い文化の薫りが伝わってきます。

ジーナ・レリ Gina Relly(1891–1985)仏

フランス [France]より

Gina Relly Early 1920s Autographed Postcard

類い稀な才の音楽家の母親、巧みな畫家である父親の元で育てられ、ジーナは美しさと調和を好む子供に育つていつた。齢二十五ながら藝術家として残してきた實績は、より年を重ねた者たちも敵わないほどである。

若くしてデビユーを果たしたのは歌劇であつた。妙なる声の持ち主だつたのである。しかし程なくして舞臺を離れ映画界に足を踏み入れる。寫眞で映えるに違いない、最初に氣がついたのは喜劇役者のジヨルジユ・トレヴイル氏である。手始めの契約でまずは嬢を一本映畫に出演させてみたのだが、氏の満足はこの上なく契約の更新と相成つた。

次いでルネ・ナヴアール氏が『秘密文書』で大役を割り当て、さらにリユシアン・レーマン氏の『キマイラ』に出演。これらの作品を通じて他の多くの映画監督が嬢に目を留めることとなつた。他に『仮面の少女ニーヌ』次いで『借り』に登場している。

米國フオツクス會社との契約は嬢の才能が認められた証でもあつた。撮影で紐育にいたところ連續劇『貧しき者たちの王』のヒロイン役でルネ・ルプランス監督から白羽の矢が当たる。国外への再流出は避けたい所である。我が国の花形女優の数は決して多くないのであるから!

「仏蘭西花形物語:ジーナ・レリ嬢」
『モンシネ』誌 1922年2月創刊号

[…] Sa mère, musicienne d’un rare talent, et son père, habile artiste-peintre, contribuèrent à développer chez leur enfant le gôut de la beauté et de l’harmonie.

Sachez de plus que Gina Relly a seulement vint-cinq ans, et que cependant ella a déjà derrière elle un passé artistique que bien des artistes plus âgées ne possèdent pas.

Toute jeune, elle débuta dans l’opérette, car elle a une voix exquise.

Mais elle ne devait pas tarder à abandonner le théâtre pour le cinéma. Ce fut Tréville qui, le premier, songéa qu’elle devait être très photogénique. Il l’engagea pour un film d’abord et fut si satisfait qu’il renouvela l’engagemnt.

René Navarre, ensuite, lui confia un rôle important, dans Document secret, puis ce fut Lehman qui la fit tourner dans La Chimère. Ces créations l’avient signalée à l’attention d’autres metteurs en scènes, aussi la vimes-nous dans Nine, et puis dans La Dette, chez Harry.

La consécration de son talent fut un engagement de la célèbre firme américaine, la Fox-film. Elle tourna donc à New York et c’est là que René Leprince fut la chercher pour L’Empereur des pauvres. Espérons que nous ne laisserons plus cette vedette. Nous n’en avons pas tellement!

Une Vedette française : Gina Relly
Mon Ciné, No 1 (Février 1922)

1922年に仏映画雑誌モンシネが創刊された時、国産の花形女優として最初に紹介されたのがジーナ・レリ。以前に紹介したフランス・デリアジュヌヴィエーヴ・フェリクス等と並び、1910年代末頃に台頭してきた女優さんの一人です。

この世代は巡りあわせ的に不運なところがあって、経験を積んでいざ本格的に活躍!となった1920年代初頭に業界が大きく変貌、映画のスタイルが変わり、愛好家層が入れ替わり、ファッションや髪型の流行も激変し、余程の実力者でもなければ時代に取り残されて忘れられていった者が目立ちます。

モンシネ誌の紹介にあるように、ジーナ・レリは1920年に米フォックス社と契約を結び『窓の顔(The Face at Your Window)』でヒロインを務めます。その後フランスに戻り12幕物の連続ドラマ『貧しき者たちの王』でも主人公(レオン・マト)の恋人~妻役を務めて話題を呼びました。

『貧しき者たちの王』(L’Empereur des pauvres, 1922)でのジーナ・レリ。GPアーカイヴより。

モンシネ誌 1922年6月8日付第16号表紙


同作公開後のインタビュー(モンシネ誌16号)では将来の夢として再度ハリウッド行きの話などもしていたのですが実現することはありませんでした。元々彼女が得意としていたのは初期のメアリー・ピックフォードやメエ・マレーに近い可憐な娘役、1920年代にモダンな女性像が受け入れられていく中で過去のイメージが足かせとなって活躍の場を失っていきます。1920年代中盤まで雑誌モデルでの活動記録が残っていますがその後の消息は不明となっています。

[IMDb]
Gina Relly

[Movie Walker]
Gina Relly

[出身地]
フランス

[生年月日]
12月24日

バルトシュ・オルガ Bartos Olga(生没年不詳) ハンガリー

ハンガリー [Hungary]より

Bartos Olga 1921 Inscribed Postcard

第一次大戦の末期、1917年にハンガリーのロイヤル・オルフェウム劇場(Royál-Orfeum)で軽歌劇の主役として注目を浴びた女優さん。翌1918年にウィーンのロナッヒャー劇場と契約を結んだニュースがハンガリーの演劇誌でも大きく取り上げられていました。

「演劇生活」誌(Színházi Élet) 1918年9月1日 第35号表紙

この後もウィーンのアポロ藝術劇場で幾つかの出演記録(1920年『Die Apachen』、1921年『タンゴの女王 Die Tangokönigin』)が残されていますが、同劇場の支配人であるヘルベルト・トラウ氏と入籍したようで雑誌での名字表記が「Bartos-Trau」に変わります。今回入手したサインはこの時期のもの。

面識こそ御座いませんが貴方様からの讃辞に親愛なる感謝をこめて

1921年2月8日 オルガ・バルトシュ=トラウ

Unbekannterweise freundliche Grüße und Dank für ihre schmeichelhaften Zeilen.

8 II 1921. Olga Bartos-Trau

20年代中盤以降はメディアでの露出が減っていくものの、1927年の雑誌の紹介記事からは活躍の場をチューリッヒまで広げていた様子が伺えます。

独「ライフ」誌(Das Leben)
1927年7月号

映画界との接点は多くありませんが一作主演の記録あり。1919年公開の墺作品『Die lichtscheue Dame』で、ジョルジュ・オーネの小説『灰色の淑女(La Dame en gris)』を下敷きにした作品のようです。

[IMDb]
Olga Bartos

[Movie Walker]


[出身地]
ハンガリー

[データ]
1301 Bildnis von Angelo Budapest 1918

1931 – Super8 『雪の渡り鳥』(阪妻プロ、宮田十三一監督)東映/サングラフ版

阪東妻三郎関連 [Bando Tsumasaburo Related Items]より

Koina no Ginpei: Yuki no wataridori
(1931, Bantsuma Production, dir/Miyata Tomikazu)
Early 1970s Toei/Sungraph Super8 Print

明治三十四年東京に生まれる。本名 田村伝吉。

歌舞伎から出て、大正十二年マキノ映画に入る。

チャンバラ映画史上最大のスターの一人で、昭和初期の時代劇革新運動の流れの中で、(それまでの時代劇映画は、講談本を材料としたものや、歌舞伎の引き写し的なものが大部分であったが、ここに至って、人間そのものを追究しようとする方向に向かった)尾上松之助調のおっとりとした立廻りを、すさまじい怨念のこもったスピーディーなものにつくり変え、豪放な立廻りの第一人者となる。

晩年は「破れ太鼓」等の小市民映画に出演、その重みのある演技には定評があった。「雪の渡り鳥」は、昭和六年度・阪東プロ作品で、原作は股旅物の名匠長谷川伸。人間味にあふれたヤクザ・鯉名の銀平に扮し、思い人の夫を悪徳ヤクザの手から助け、一切の罪を我身に引受けて、役人の手に引かれていく男の悲劇を、見事に演じ切っている。その他の代表作に「雄呂血」「無法松の一生」(戦前)、「素浪人罷通る」(戦後)などがある。

昭和二十八年死去。

阪東妻三郎『雪の渡り鳥』
(活動写真名優シリーズ・解説書)

「あの…帆立一家の者…今日も散々の目にあわされ…悔しがってあの人が一人であたしを縛り上げて今…殴りこみに行ったんだよ。ねぇ、銀平さん…あの人ひとりじゃとても」
「うーむ、当たりめえのこった。卯之ひとりであれだけの大勢に敵うわけがねえ。折角幸せになったオメエもなあ。よし、俺に任してくれい。必ず卯之は連れてきてやるよ」

「…だ、だ、誰だ!」
「誰でもねぇ!やくざに戻った卯之吉でい。よくもあんな目に遭わせやがったなぁ。仕返しに来たんでい」
「何ぃ、唯一人でてめえがけい。おう、知れたこってい」

「誰だ!」
「…鯉名の銀平よ」
「て、てめえは銀平!」
「当たりめえだ。覚悟しやがれ!」

「お、お役人さん。待っておくんねえ、待っておくんねえ。お願いでござんやす。この下手人は…この卯之でございやす。あの、銀平兄貴には何の罪がねえんだ」
「いけませんぜ、お役人。それは違いやすよ。ねえ、あっしが下手人でござんすから、どうぞ。あんな野郎に何ができるもんじゃございやせんよ」

1970年代前半~中盤と思われるサングラフ版で(同梱の愛読者カードの差出有効期間が1976年2月末まで)長さは60メートル(約12分)。3年程前に一度実写のスクリーン画像を撮影。今回自作スキャナーで取りこみ直しましたが正直そこまで大きな画質の改善はなかったです。

カセットテープ付きで弁士は竹本嘯虎。喉を鳴らすような威勢の良いべらんめい口調が特徴です。

[タイトル]
雪の渡り鳥

[JMDb]
雪の渡り鳥

[IMDb]
Koina no Ginpei: Yuki no wataridori

[公開]
1931年10月15日(常盤座)

[メーカー]
東映ビデオ(製作)/サングラフ(配給)

[フォーマット] Super8、60m、白黒

1931 – Super8 『雪の渡り鳥』(阪妻プロ、宮田十三一監督)マツダ映画社版

阪東妻三郎関連 [Bando Tsumasaburo Related Items]より

Koina no Ginpei: Yuki no wataridori
(1931, Bantsuma Production, dir/Miyata Tomikazu)
Matsuda Film Productions Super8 Print

『雪の渡り鳥』の小型映画版としては東映ビデオが制作したサングラフ社版(60メートル)が有名で、何度か中古市場に出ているのを見た覚えがあります。それ以前にマツダ映画社が無声映画鑑賞会の会員向けに配布していた4巻物(240メートル)のプリントを見つけました。

語りは無声映画鑑賞会の設立者の一人でもある松田春翠氏。フィルムにあわせカセットテープも4本組になっていました。

画質的にはサングラフ版に劣るものの、前半の流れ(物語背景の説明)がしっかり含まれており、また尺が長いため弁士の語りにも余裕があって細かなニュアンスまで表現できています。

「銀平さん、卯之さんは、帆立一家へたった一人で殴りこみに…」
「何、殴りこみ?そりゃお前…本当かい」
「あの人一人を殺すわけにはいかない…わたしも一緒に死にたい…あたしも…」
「待っていなよ、カタギで通そうと我慢してきた卯之吉が男の意地を立てに出かけたというのか…なぁに、かたぎ衆には何にもさせはしねえ。こういうことを引き受けるのが渡世人だ。お市ちゃん、きっと卯之吉は連れて帰ってくるぜ」

「お、お待ちくださいまし、お役人。本当の下手人はこの…あっしでございやす。」
「何!?」
「な、何を言うんでい、馬鹿野郎。渡世人の手柄を横取りする気けい。…旦那、こんな野郎の、どうして帆立の親分などが斬れる訳のもんがありません。どうか、あっしをお引きなすって」

これまでに紹介してきたフィルムでは1931年の右太衛門主演作『旗本退屈男』がマツダ映画社のプリントでありながら市販の形跡がなく出所が分かっていませんでした。あのフィルムも限定配布されていたのでしょうね。

『雪の渡り鳥』には110~113までのナンバリングが付されていたところから同種のフィルムがまだ100本以上存在していたことも分かりました。頻繁に市場に出てくる類ではなさそうですが記憶の片隅に留めておいて良さそうです。

[タイトル]
雪の渡り鳥

[JMDb]
雪の渡り鳥

[IMDb]
Koina no Ginpei: Yuki no wataridori

[公開]
1931年10月15日(常盤座)

[メーカー]
マツダ映画社

[メーカーカタログ番号]
110~113

[フォーマット] Super8、60m×4、白黒、非売品

1931 – 8mm 『タブウ』(F・W・ムルナウ監督) 1939年 独Degeto社抜粋版

Murnaus Traum von der Südsee
(From « Tabu », dir/F.W. Murnau, 1931) 1939 Degeto 8mm print

ムルナウ監督の遺作『タブウ』冒頭を抜粋した8ミリ版。

同作の成立経緯や様々なエディションについてはドイツ・キネマテークの公開している特設ページが良くまとまっています。1936年に米パラマウント社の版権が切れ、独トビス映画配給社が新たに権利を取得。同社と関連のあったDegeto社から8ミリ版(15メートル)と16ミリ版(25メートル)『南洋の夢(Traum von der  Südsee)』が発売されたそうです。今回入手したのはその8ミリ版。

『タブウ』は南洋の島を舞台とし「禁忌」によって翻弄され引き裂かれていく男女の悲恋を描いています。旧作に比べ宿命劇の説得力が弱く、ムルナウ作品ではややマイナーな扱いをされることも多いのですが構図や感情表現にこの監督らしい冴えを見てとることができます。

抜粋版は本筋には触らず冒頭に置かれた人々の生活模様と祭に特化した内容になっていました。

(以前にリア・デ・プッティの投稿で触れたように)本作に限らずムルナウ作品に登場する女性には性的なニュアンスが希薄です。『タブウ』には半裸だったり露出度の高い女性も見られるのですが美しい風景や植物と対等の位置付けで描かれています。撮る側に下心がないためエロスの発生する余地がない、と言い換えることもできます。一方で男性の筋肉のフォルムや肌の質感、動きの描写に旧作では目立たなかったこだわりがあって同性愛指向が比較的分かりやすい形で表面化しています。

とはいえムルナウ作品を『タブウ』から見始める人はそう多くなくて、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『サンライズ』経由でこの作品に辿りつくパターンが大半ではないかと。その時には監督のセクシュアリティー云々以前にまず旧作との世界観、雰囲気の落差に驚かされるのだろうと思います。

西欧キリスト教社会の価値観から外れた異端者、異形の存在者、そんな自己認識を研ぎ澄ました先に生れてきたのがムルナウの代表作(『ノスフェラトゥ』『最後の人』)であり、一方で太平洋の「楽園」に仮託してその価値観の外に逃れていった美しい幻想が『タブウ』であった。他作品にはない、そしてあまりに「ムルナウらしくない」冒頭の多幸感は彼の孤立感、生きづらさの裏返しだったと考えてみるとしっくり収まります。

ケースは独コダック社ですがフィルムそのものはアグファ社の製品を使用。戦中期の1930年代末とは思えない質の高いプリントです。

[原題]
Murnaus Traum von der Südsee

[公開年]
1931

[IMDB]
Tabu: A Story of the South Seas

[Movie Walker]
タブウ

[メーカー]
Degeto

[フォーマット]
スタンダード8 無声白黒 15メートル

1922 – Super8 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督) 西独DEFA版

1922-『吸血鬼ノスフェラトゥ』

Nosferatu: Ende des Vampirs
(From « Nosferatu », dir/F.W. Murnau, 1922) DEFA Super8 Print

先月末にスキャンと併せて映写機での実写を行いました。

名の知れた一作でもあって英語版の16ミリや8ミリを市場で見かけることがあります。フィルムの現存状況や修復版の元となった35ミリプリントの詳細な情報はブレントン・フィルム [英語]でまとめられています。

ドイツでは西ドイツのDEFA社から2巻(前編『吸血鬼の棲まう城』245番、後編『吸血鬼の最期』247番)に分けられたスーパー8のダイジェスト版が発売されていました。こちらはその後編。

このフィルムに関しては2017年に一度実写でのスクリーン画像をそのまま撮影しています(使用映写機はベル&ハウエルのフィルモソニック498型)。

実写では中央部で白飛びが目立ち顔の肌の細かな陰影が消えてしまっています。ただし光量の落ちる周辺部は比較的しっかりと描写できていました。ランプを使うと光源となる中心がどうしても明るくなるためこういった質感になります。一方デジタルスキャンは四隅まで満遍なく安定しているものの暗い部分で潰れてしまい細部を拾えていない所があります。

またDEFA版8ミリではフィルムを送る穴(パーフォレーション)の上下まで映像が広がっています。実写時にこの部分は映写されないため、左側がトリミングされる形になり被写体が左に寄っていました。

本作を下敷きにしたヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)では吸血鬼と同時にやってくるペストの要素が強調されていました。古来から吸血鬼伝説と疫病への恐怖は連動してきたもので、本作にも公開の2年程前まで猛威を振るったスペイン熱の記憶が見え隠れしています。

[原題]
Nosferatu: Ende des Vampirs

[製作年]
1922

[IMDB]
Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens

[Movie Walker]


[メーカー]
DEFA

[カタログナンバー]
247

[フォーマット]
Super8 白黒無声

ルーシー・キーゼルハウゼン Lucy Kieselhausen (1900–1927) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Lucy Kieselhausen Mid/Late 1910s Autographed Postcard

オーストリアの舞踏家グレーテ・ヴィーゼンタールの門下生として頭角を現し、若くして舞台の人気者となりファッション誌のモデルとしても活躍していきます。映画界との接点は多くはありませんが1917年公開のドキュメンタリー短編『ベルンでのドイツ工作連盟展におけるファッションショー』にモデルとして登場、翌年から劇作品への出演を始め『千女一女物語(Tausend und eine Frau)』『七番目の列強(Die siebente Großmacht)』で端役を務めています。

1918年公開『七番目の列強』広告
独キネマトグラフ誌1918年8月号

その後1923年にアスタ・ニールセン主演の『地霊』(Erdgeist、リヒャルト・オスワルド監督)に出演。同時期にヘルタ・ファイストの下でダンスの勉強を続け、作曲家ハインツ・ティーセンの「サランボ組曲」に振付を提供。しかし自身の考案した舞踏が表舞台で披露されるのを見ることはできませんでした。1927年12月、浴室でベンジンを使用し手袋の清掃をしていた際、浴室のストーブの火が揮発したベンジンに着火、爆発を起こします。重度の火傷を負ってそのまま帰らぬ人となりました。

1927年12月末にオランダの新聞に掲載された訃報

映画出演作は端役4作のみですので女優としての評価がどうこうの話でもないのですが、第一次大戦後のドイツ語圏で舞踏畑で活躍した個性派でグリット・ヘゲーザ(Grit Hegesa)やハンネローレ・ジーグラー(Hannelore Ziegler)とも重なってくる感じです。

ちょうど先月(2021年4月)、ケルンに拠点を置く「西部ドイツ放送(Westdeutscher Rundfunk)」がラジオ番組「ルーシー・キーゼルハウゼン二重の立身物語(Die zwei Karrieren der Lucy Kieselhausen)」をオンライン公開しました。母親のレアさんに宛てた書簡や当時の証言を引用しながら1920年代のドイツ語圏で女性が、舞踏家が、そして若者が直面していたリアリティを再現していく内容でした。

[IMDb]
Lucy Kieselhausen

[Movie Walker]


[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(ウィーン)

[データ]
[(Photochemie) K. 107. Bildnis von A. Binder, Berlin]

レオポルディーネ・コンスタンチン Leopoldine Konstantin (1886–1965) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Leopoldine Konstantin Late 1910s Autographed Postcard

オーストリア出身の舞台女優/映画女優で1900年代後半にはすでにベルリンの劇場に立っていました。

1910年頃にドイツで映画産業が勃興した折、舞台界から先駆者として業界に参入したのがマックス・ラインハルトでした。神話世界と現実世界を交差させた『恵みの島』(Die Insel der Seligen、1913年)はエロスを含みこんだファンタジーとして高い評価を受けているものです。同作後半では、妖精の島に紛れこんでしまった老紳士二人が魔女キルケ(レオポルディーネ・コンスタンチン)にたぶらかされ、妖術によって豚に変えられてしまう場面が含まれています。

ラインハルト門下生は個性的な演技派が多かったこともあり初期ドイツ映画界では重宝されていました。レオポルディーネ・コンスタンチンも1910年代を通じメスター社のハンス・オーベルレンダー監督作品を中心に活躍。10年代中盤にドイツで探偵活劇が流行した時にはスチュワート・ウェッブス連作と並ぶ人気シリーズ、ジョー・ディーブス物に出演した記録も残っています(1917年)。

『カイロの結婚』(1933年)より

1920年代初頭に映画界を離れ舞台に専念、10年以上のブランクを経てカムバックした後は母親役を中心に活動。この時期の出演作の幾つか(ウーファ社『カイロの結婚(Saison in Kairo)』『桃源境(Prinzessin Turandot)』など)は日本でも公開されていました。

『汚名』(1946年)より

40年代に渡米しハリウッドに挑戦、言葉の壁もあって大成こそしませんでしたが、ヒッチコックの『汚名』(Notorious、1946年)でナチス残党グループリーダー(クロード・レインズ)の母親役を演じ熟練の演技を見せました。同作が最後の映画出演となり50年代に女優業から引退しています。

[IMDb]
Leopoldine Konstantin

[Movie Walker]
レオポルディーネ・コンスタンチン

[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(モラヴィア地方ブルノ、現チェコ)

[データ]
[Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 9271 Phot. Becker & Maas, Berlin]

映写機用レンズの肖像 [03]: 仏パテ社 リュクス映写機用スタンダードレンズ

Pathé Lux Projector Standard Lens F=32mm (Early 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
パテ・リュクス映写機 スタンダードレンズ仏パテ社フランス32mm不明パテリュクス映写機1930年代前半ペッツバール型3群4枚40.030.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット15.65.7510.0メニスカス15.35.350.515.12.9

仏パテ社の初期カタログで「焦点距離32ミリの標準レンズ(Objectif ordinaire foyer 32mm)」と記載されているもので、30年代初頭のパテ・リュクス映写機に標準装備されていたもの。単品での市販はしておらずカタログ番号はありません。

パテベビー/キッド映写機用スタンダードレンズと同様4枚のレンズを組みあわせたペッツバール式ですが、ベビー用とは違って中玉と後玉の間に厚さ0.5ミリの薄いスペーサーが噛ませてあって3群4枚の形となっています。レンズ本体は直径で1.5倍ほど大きくなっています。

ベビー映写機用のレンズとは質感が異なり、コントラストをはっきり捉えたかっちり目の描写です。四隅が僅かに暗くなっていますが全体的に緻密な描写で歪みも小。ただし周辺部に流れるような個所も見られます。

ミラーレスカメラにマウントしてマクロ撮影で実写した結果。焦点のあっている部分は繊細かつシャープで、周辺にグルグルボケと歪みも発生。ペッツバール式レンズの癖や特徴が素直に出たアウトプットです。外に持ち運んで遊ぶ分には面白そう。

リュクス映写機用の標準レンズはもう一本所有しています。こちらは鏡胴が金属ではなく樹脂製で色が黒。筒の先端部分に欠けがあるものの映写そのものに影響はありませんでした。オマケで貰ったもので出所が不明、本当にリュクス映写機用かどうかも自信がありません。今回こちらも試し撮りして見ました。

金属鏡胴の個体と比べてややピントが甘く、背後にバブルボケが強く出ています