サイン館・ドイツ/オーストリア より
ドイツではマーベル・マイヨングの芸名で舞踏に携わっているマーベル・フォン・シェンク・ツー・シュヴァインスベルク男爵夫人がアスター劇場に到着、同劇場での契約を履行することに相成った。同夫人によると、劇場は多数開かれているにも関わらず伯林劇界の昨今の状況は非常に厳しいそうである。
「踊る男爵夫人到着す。マーベル・マイヨング伯林劇場界の厳しい時期を語る」
ニューヨーク・タイムズ紙1914年10月28日付
Baroness Alice Mabel von Schenck zu Schweinsberg, who danced in Germany under the name of Mabel May Yong, has arrived at the Astor to fulfill an engagement here. She said that theatrical conditions in Berlin just now were very hard, in spite of so many playhouses being open.
Baroness Dancer Arrives. Mabel May Yong Tells of Hard Times In Berlin Theatricals.
New York Times, 28th October 1914
獨人の混血にしてスペイン人及び支那人の血を混ず、それがあらぬか […] 國人に扮して巧緻を極め、又社交界の貴婦人、毒婦等を得意とす、ウイリアム・カーン社プルーツス社ツエルニツク社等を經、現在はアムボス社に在り。「金の壁」「黒のボート」「謝肉祭」等。(宛名 Amboss Film. 社内)
MAY-YONG, Mabel: マーベル・マイヨング孃
『俳優名鑑 大正11年度』(キネマ同好会、1922年)
1900年代後半~10年代初頭のドイツでベリーダンスや民族舞踏風の舞を披露していたパフォーマーで、第一次大戦後に映画女優デビュー。出演作は1919~22年に集中、『俳優名鑑 大正11年度』で触れられているように小さな映画会社を転々としており、アムボス社の後はアルトフ社(Althoff & Company)のニック・カーター探偵物に準レギュラー的な立ち位置で登場していました。確認できる限り1925年の『封じられぬ唇』を最後に映画界を離れています。
出生・経歴に謎が多く、またプロモーションに使用された偽情報なども入り混じり実像の見えにくい女優さんです(英語版ウィキのエントリーには現時点でも誤情報が含まれています)。「ancestry.com」で公文書を確認したところ、以下の情報が確認できました。
本名アリス・マーベル・アウグステ・シャレル。1884年6月28日アルトシュタットで父マックス・リヒャルト・アルベルト・シャレル、母エリザベス・アン・ホアマイの間に生まれる(データ1より)。1912年3月30日に結婚。結婚相手は男爵(ヨハン・ルートヴィヒ・フェルディナント・ゲオルク・ヨゼフ・カール・フライヘル・フォン・シェンク・ツー・シュヴァインスベルク氏)でした(データ2より)。
1920年代中盤に再婚しており名字がクヴィリングに変わっています。1927年に「マーベル・クヴィリング」としてアフリカに出発した乗船記録あり(データ3より)。沒年月日は不詳ながら、死亡証明を見るとアリス・マーベル・アウグステ・クヴィリングとして亡くなっています(データ4より)。
[IMDb]
Mabel May-Yong
[Movie Walker]
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