1918 – 『活動寫眞雑誌』 大正7年1月 新年臨時増刊 世界活動俳優號

情報館・雑誌(和書) より

Katsudō Shashin Zasshi 1918 January New Year Special Issue
(Katsudō-Shashin-Zasshi Pub. Co., Tokyo)



 『キネマ・レコード』は最初は滋野、歸山、花房種太氏等同人間の道樂に謄寫版で刷つたものに過ぎなかつたが、二年の末から印刷に附して發賣された。主筆は初めが滋野氏、後には歸山氏になつて大正六年ごろまで繼續し、科學的な研究態度によって斯界に貢献するところ多大であつたが、唯一つ同誌編輯の目標が常に西洋映畫本位で、幼稚なる當時の日本映畫などは頭から見下すといふ態度で殆ど日本映畫その物の發達には風馬牛の感があつたことである […]。

 大正四年六月に創刊された岡村紫峰氏主幹の『活動寫眞雑誌』は、實に日本映畫の擁護發達の爲に起つた最初の雑誌で、其の後『活動雑誌』と改題して稲田玉海氏の經營に移り、更に大橋玄鳥氏の手に移って大正十五年春まで續刊したが、此の種の雑誌の中では最も長命なものに屬する。

『日本映画界事物起源』
(吉山旭光著、武田允孝編、シネマと演芸社、1933年)


岡村紫峰氏を主幹とした『活動寫眞雑誌』の1918年新年号。冒頭48頁のグラビア(一部広告)+240頁本文の構成となっています。

同誌に関しては1990年に三一書房から出版された『日本映画初期資料集成 1』『日本映画初期資料集成 2』で1915年創刊号(6月号)~12月号が復刻されており、国立国会図書館デジタルコレクションで1920年5月~12月号が公開されています。


演劇的芝居をせずに活動寫眞的芝居をなさい。畫面的約束に從つて出來る丈け自然的に芝居をなさい。私は活動俳優が畫面度胸の出來れば出來る程、名優になればなるほど活動的芝居をするやうになるだらうと思ひます、歌劇俳優として成功しているジエラヂンフアラア孃が大寫眞ジヤンダアクで活動俳優として同樣に成功してゐるのも、同じく巴里オペラコミツク座の女優ナピールマコウスカ [原文ママ] 孃が『亂菊の舞』で活動俳優として成功してゐるのも要するに彼等が演劇俳優としても平常成るばく自然的寫實的である事に心懸け、同じ心持ちで撮影技師の前に立つたからであると思ひます。

「日本の活動界には何故名優が出ないか」 岡村紫峰


巻頭評論は紫峰氏による7頁「日本の活動界には何故名優が出ないか」。映画の表現形式に即した演技スタイルを確立できていない日本の男女優への批判が含まれているものの、邦画界を否定する論調ではなく応援しているからこその歯がゆさが伝わってくる内容です。ジェラルディン・ファーラーやナピエルコウスカが参照すべきモデルとして挙げられているのも興味深い所。

その後フォックス社が制作した『ミカド』劇の論評、映画と児童教育をめぐる考察等を収録。ちなみに前者を寄稿しているのはハリウッドでの日本人俳優パイオニアの一人で『ミカド』(Fan Fan、1917年)『お雪さん』 (A Japanese Nightingale、1918年)に出演していた青山雪雄氏でした。

読み物として伊イタラ社の『マチステのアルプス兵』(Maciste alpino、1916)、仏パテ社のガブリエル・ロビンヌ主演作『呪いの縁』(La Proie、1917)、米ユニヴァーサル社ドロシー・フィリップス主演作『心の錆』(The Rescue)、日活旧派松之助劇『島左近』、天活旧派四郎五郎劇『川合又五郎』等を掲載。

個人的な収穫は巻頭グラビアでした。新年号ということもあって邦画界期待の俳優を一人一頁を割いて紹介。この時期(1916~19年頃)には『活動俳優銘々伝 1の巻』(岡村紫峰、1916年)、『花形活動俳優内証話』(天野忠義)、1918年、『人気役者の戸籍調べ』(高沢初風、1919年)が出版されているのですが、いずれも写真が含まれておらず顔と名前を一致させるのに苦労します。

大正7年(1918年)の邦画を代表する役者はこういった方々だったんですよね。ここから5年もすると風景は一変し、現在でもそれなりに名の知られた男女優が人気を博していく…本号には他にも「活動俳優お笑ひ草」「昨年中に演じた私の好きな役々」等の特集が組まれ、グラビアには登場していなかった面々(関根達發、栗島狭衣、中山歌子、葛城文子ら)も一筆を寄稿。1920年代にリセットされ、上書きされてしまう以前の日本映画に思いを馳せるには良い資料です。

[出版者]
活動寫眞雑誌社

[発行]
大正7年(1918年)1月15日

[定価]
三十五銭

[フォーマット]
菊判 22.0×14.5cm、288頁