フィルム館・9.5ミリ (伴野商店) より
東京市社會教育課で去る二月十四日から懸賞募集中の『兒童教育映畫筋書』は三月末の締め切り期日までに三府三十七縣から六百七十八の應募があつたが『明るく快活にして兒童の心理生活に即したるもの』との趣旨によつて嚴選の結果四月三十日左の如く入選二篇と選外三篇を發表した。
▲入選(賞金各五百圓)
『春はまた丘へ』千葉県浦安町汽船發着所浦安方俵屋宗八
『あした天氣になれ』市外馬込町東一〇一〇今井達夫
▲選外(賞金各五十圓)
『微笑む人形』市外下荻窪三四一川添方朝島黎吉
『行け大空へ』市外杉並街高圓時六四二高原富士郎
『お兄さんのお話』市外戸塚町スハ町一二二山下方紅日一人郎
「兒童映畫の入選」 東京市社會教育課
『社会教育』 昭和四年五月号 (社会教育研究会、1929年)
南の國の春、その夢のやうな美しい村に仲のよい三人の少年があつた。此の平和な村に名高い博士の別荘が出來た。此の別荘のお孃さんはフトした機會に三少年と仲好くお友達となつた。
暖かい春の一日、博士邸の書生に保護されて、彼等は千丈ヶ原へピクニツクに出かけた。誤つてお孃さんが急流に落ちたが、三人の少年の働きによつて無事に救けることが出來た。博士は大いに少年達の機敏なる行爲を稱揚した。やがて鵜澤少年は東京へ遊學する事となり松本少年と淸田少年は村に止まつて將来郷土の發展に努力する事になり再び來る春を樂しんでゐる。
東京市で懸賞募集した兒童映畫脚本の一等當選作品を日活京都撮影所で映畫化したもので、兒童のみならず大人が見ても面白い(劇52)。
「春はまた丘へ 六巻 一、三七四米」
『大毎フイルムライブラリー目録 昭和七、八年版』 (大阪毎日新聞社 活動寫眞班、1932年)
吉報があった。浦安時代の末期に、東京市が募集した児童映畫の懸賞脚本に応じて投稿しておいた『春はまた丘へ』が当選したのである。賞金の五百円で、山本さんは三十五日間の北海道旅行に出た。
『人間山本周五郎 : その小説的生涯』
(木村久邇典著、講談社、 1968年)
昭和4年(1929年)に公開された日活の児童向け啓蒙映画。東京市が主催した脚本コンテスト入選作を元にしており、受賞者「俵屋宗八」は当時まだ殆ど無名だった山本周五郎の初期変名の一つに当たります。
『大毎フイルムライブラリー目録』 によると35ミリフィルムの長さは1374メートル、映写時間に換算すると60分程度となります。9.5ミリ版は11分程度で、約1/5のダイジェスト版。後述の理由により状態はあまり良くなかったのですが、ダメージ部を回避しながら全体をスキャンし内容を確認しました。




物語の中心は田舎育ちの幼馴染の三少年と、東京から避暑にやってきた学者一家の娘との心温まる交流です。
ロバ(!)に乗って牛乳配達をしている清田少年に中村政登志(『殉教血史 日本二十六聖人』)を配し、米の脱穀に携わり病床の祖父を支えていく松本少年に名子役・中村英雄(『忠次旅日記』『地雷火組』)、学究肌の鵜沢少年に後の片岡栄二郎こと尾上助三郎。東京からやってきた学者・山本(土井平太郎)の娘秀子を演じているのが伏見信子さんでした。
田舎育ちの少年3人組が避暑にやってきた都会の少女と仲良くなり、その求めに応じて一緒にピクニックに出かけたところ水難事故が発生、機転を利かせた少年たちの活躍により事なきをえた…筋を要約してしまえば一文に尽きるのですが、伏線やディテールを縦横無尽に張りめぐらせていて「兒童のみならず大人が見ても面白い」作品に仕上がっていました。


たとえば清田少年。ロバでの牛乳配達は上手い設定です。物語前半ではこの設定で「勤労少年」の属性が伝わるようになっています。中盤、秀子が「あの驢馬へ乗る事を賴んで頂戴」と言ったためピクニック行きが実現する口実となり、さらに後半、秀子が誤って川に落ち溺れると、その救助を年長の書生(大崎史郎)に任せ、清田少年は秀子の父親(土井平太郎)に事故を伝えるべく愛馬に乗って山道を疾走していくのです。


一方で前半の松本少年は病床の祖父を支えるヤングケアラーとして描かれていきます。地方には確かにこういう生活をしている子供もいるのだろう…と思わせつつつ、後半でこの設定が伏線として回収されていきます。



松本少年は「行ってきます。お医者さんはお午過ぎ來ますよ」と祖父に伝え、飼っている鳩を連れてピクニックに出立。秀子が川に落ちた後、少年は鳩の脚にメッセージをつけ籠から解き放ち、祖父の診療にやってきていた医師に危急を告げるのです。
前半部でキャラを立てるために使われていた設定や小道具が、後半、川に落ちた少女を助ける際のツールとなっていく…これは視聴者の側に立った見方であって、脚本家視点でいうと当初から「ラストでの救出劇」を念頭に逆算する形で細かな伏線を配していたことになります。短いながら良く練られた脚本で、若き山本周五郎氏の才知が如何なく発揮されていました。
俳優陣(特に子役)たちの演技もこなれており息のあった連携を見せています。三少年を演じた子役は皆『殉教血史 日本二十六聖人』にも出演して、現代劇・時代劇どちらにも対応できる芸達者ぶりが光ります。
伏見信子さんは個人的に後年の大人びた印象が強く、子役出身だったのも忘れていた位でした。膝まであるおさげ髪のお嬢様ぶりは堂にいったもので冒頭と結末では珍しいセーラー服姿を披露しています。
ちなみにこのフィルムには本来あったはずのエンドマーク「終」が外されており、その代わりにフィルムを所有していた施設が宣伝代わりに自作したエンドロールに差し替えられていました。
会津若松市に置かれていたキリスト教の伝道所です。倫理教育や情操教育の目的で小型映画(16ミリ、9.5ミリ)を学校で利用していた例は戦前期に多く見られました。宗教施設での活用例もあったんですね。頻繁に映写された形跡がみられ、当時の伝道所の参加者に人気のあったプログラムだったようです。
[IMDb]
Haru wa mata oka e
[JMDb]
春はまた丘へ






