1928 – 『ウクライナ映畫界寫眞帖』序文・私訳 (全ウクライナ寫眞映畫部、Vufku)

Українське кіно/Le Cinéma Ukraïnien. Київ: ВУФКУ, 1928. 51 с., Фот. 26×17,7 див. (Ukrainian Cinema Picture Book, Ukrainian-French Bilingual Edition)

【序文】

ウクライナの映畫藝術に生を与へたのは一九一七年の十月革命であつた。この革命、ただこの革命だけが途方もない飛翔をもたらしたのであつた。

旧来芸術の擁護者は映畫への疑いを頻繁に表明してきたが、ウクライナ映畫はその進歩によつて疑いを晴らすことに成功したのである。

つい最近まで人々は映畫を快く思つてはいなかつた。せいぜい「金になる」程度の物事としてしか認知されてこなかつたのであつた。

唯一我々の元において、ソビエト社会主義共和国連邦において映畫と云ふものを眞の藝術と見なすことができるようになつた。他の藝術分野と同様に、否、その国際的な性格によつていかなる他分野の藝術以上に重きを置かれる真の芸術として見なすことができるようになつた。

ウクライナ映畫は帝政下の官僚や「有識者」によるとまだウクライナ固有の藝術が存在していない(なにせ国家としてのウクライナそのものがが認められていなかったのであるから)とされていた時代、ハンジョンコフ氏の時代にその根を持つものであるが、革命の後に見事なる大輪を咲かせたのであつた。

労働者と農民たちの創造的エネルギーを結びつけ、帝政の軛から解き放たれ、十月革命とウクライナ内戦が映画にもたらした豊かな主題と共に再生を果たしたウクライナ映画の成功は、誇りを感じるに十分たるものであつた。

新たなウクライナが社会主義国として収めた経済と文化の成功は大きく、国外の同志と敵対者どちらにも語り伝え、何より見てもらうに値する。ウクライナ社会主義共和国が何を成し遂げ、何を打ち立てたかを西欧に示すのがウクライナ映画の大いなる、崇高なる使命である。ウクライナ映画とは、抑圧を受けている異国の労働者と農民たちにソヴィエト=ウクライナ文化の道を指し示す第一のものである。合衆国とカナダで暮らすウクライナ出身の労働者は『タラス・シェフチェンコ』(1926年)で初めてソヴィエト=ウクライナを目の当たりとし、その存在を感じ取つたのである。

映画界の成長はソヴィエト=ウクライナの伸長そのものなのだ。

千万メートルのフィルムを用い、我々は今日に至るまで数十の芸術映画作品、数十の科学映画作品を作り上げてきた。

グラススタジオから欧州型の撮影所へ、『放浪人グルニ』(革命前の”ウクライナ”映画)の原始的な撮影術から『ズヴェニゴラ』『ジミー・ヒギンズ』等の作品へ。これこそがウクライナ映畫の経てきた道筋である。ウクライナ映畫の成長はソヴィエト=ウクライナの成長を追認することとならう。

ウクライナ映畫界初の寫眞帖公刊に際し、我々は我が国の映画の最良の部分を披露したいと望んだ。志を同じくする者のみならず敵対者もまたソヴィエト=ウクライナとその映画界の大いなる成功を認めざるを得まい、切にそう望むものである。

ヴフク(全ウクライナ寫眞映畫部)


La Revolution d’Octobre 1917 a donné naissance à l’Art cinématographique ukraïnien. Elle, et rien qu’elle, lui a donné son essor gigantesque.

Par son vif progrès, le cinéma ukraïnien a rompu le scepticisme qu’avaient souvent montré pour la Cinématographie les représentants de l’ancien Art.

Il n’y a pas longtemps on ne faisait pas bonne attention au Cinéma. Si on le remarquait ce n’est que comme une chose avec laquelle on peut faire un bon “business”.

Et rien que chez nous, dans l’Union des Républiques Socialistes Soviètiques, on a su considérer le Cinéma comme un véritable Art qui a droit non seulement à la même, mais encore à une plus grande considération (grace à son charactère international) que n’importe quel autre Art.

Le Cinéma ukraïnien, ayant son origine aux temps des Khanjonkoff d’avant la Révolution, aux temps, quand, comme pensaient les bureaucrates et “savants” tsaristes, il n’existait pas d’Art ukraïnien, – car l’existence même de la Nation ukraïenne était niée, – le Cinéma ukraïnien a magnifiquement fleuri après la Revolution.

Liant l’énergie édificatrice des masses ouvrières et paysannes, delivrées du sabot du tsar et resuscitées pour une vie nouvelle avec les riches thèmes qu’a donné à la Cinématographie La Revolution d’Octobre et la Guerre Civine en Ukraine, la Cinématographie ukraïnienne a conquis des succès, dont elle a le droit d’être fière.

La nouvelle Ukraine socialiste a de tel succès économiques et culturels dont il faut raconter et qu’il faut surtout montrer à nos amis et ennemis hors des frontières de l’Ukraine. La Cinématographie ukraïnienne a la grande et honorifique mission de démontrer à l’Europe Occidentale ce qu’a fait, ce qu’a édifié la République Socialiste Ukraïnienne. La Cinématographie ukraïnienne la première a montré le chemin à la culture ukraïnienne soviétique vers les masses ouvrières et paysannes opprimées des autres pays. L’ouvrier ukraïnien des Etats Unis et du Canada a bien vu et senti la première fois l’Ukraine Soviétique en regardant le film “Tarass Chevtchenko”.

Le grandissement de la Cinématographie montre le grandissement de l’Ukraine Soviétique entière.

Nous avons aujourd’hui plusieurs dizaines de grands films d’art, plusieurs dizaines de films scientifiques pour lesquels nous avons employé 10,000,000 de mètres de pellicule.

Du hangar vitré jusqu’aux studio et ateliers européens, de la photographie primitive de toute sorte de “Tsigans Grouni” (film “ukraïnien” d’avant la Révolution) jusqu’à “Zvenyhora”, “Jimmy Higgins” et autres – voilà le chemin de la Cinématographie ukraïnienne. Le grandissement de la Cinématographie ukraïnienne peut certifier le grandissement de l’Ukraine Soviétique en général.

En publiant ce premier album de la Cinématographie ukraïnienne nous voulons montrer le meilleur de ce qu’a notre Cinéma. Nous voulons croire que non seulement nos amis, mais nos ennemis aussi, devront recconaître la grande réussite de l’Ukraine Soviétique et de la Cinématographie ukraïnienne.

VOUFKOU


この一年半ほどウクライナ初期映画史の学び直しを進めていて、その途上で昭和3年(1928年)にVUFKUから「写真帖」が公刊されていたと知りました。当時5000部限定で出版されたもので欧米圏ではスタンフォード大学、イリノイ大学、ハーバード大学、MOMAなど限られた施設にしか所蔵されておらず [1] 、ウクライナとロシアに残っている部数を合わせてもおそらく十数部~二十数部しか現存していないのではないかと思われる希少な書籍です。

この書籍はウクライナ語とフランス語のバイリンガル版になっています。フランス語であれば読めるのに…と思っていたところ、ヘルソンに置かれた図書館(ヘルソン普遍科学図書館/Kherson Regional Universal Scientific Library)がデジタル版を無料公開している [2] のを見つけました。サイズは縦26センチ×横17.7センチ、全51頁。

1)冒頭にウクライナ語の序文とその仏語対訳を置き
2)その後10名の監督、セットデザイナー1名、VUFKU所属俳優10名、カメラマン3名を各1ページずつ
3)続いてVUFKU作品14作をそれぞれスチール写真入りで
4)最後にキーウに建設中の撮影所の内部写真1ページと外観を見開き2ページで紹介しています。

折角なので仏語の序文を私訳してみました。

この書籍が出版された背景については『スラヴ研究』誌2022年第91年度4巻に収録された論文「VUFKUと仏映画との関係」(ルボミル・ホセイコ)に詳述されています [3] 。同論文によると、1920年代の中ごろからフランスではウクライナ映画界の動向に対する興味が高まっていたそうです。ウクライナ映画同好会(1926~27年)が組織され、1927年末には初めてまとまった形(『鮮風』『アリム』他計7作)でのウクライナ映画上映会が開催。親ウクライナの雰囲気が醸成される中、VUFKUは本来ソフキノにのみ許されていた海外での作品配給を自力で試み、同社映画誌『キノ』のパリ特派員ウジェーヌ・デスラウ [4] の仲介でドブジェンコ、ヴェルトフ作品のパリ上映に結び付けていきます。

この動きにあわせ、映画専門誌や一般紙の映画欄でもウクライナ映画界近況が紹介されるようになっていました。VUFKUがフランス語対訳付きの『寫眞帖』を公刊したのはこのタイミングで、ある程度形をとってきたウクライナ映画の「最良の部分」を自らの手で紹介したいという思いを形にしたものでした。

私訳した序文はいわゆる「革命礼賛調美文」で書かれています。1)単純化された善悪の二元構造に基づき、2)大袈裟な形容詞を多用し、3)ハイテンションな自画自賛に徹するという3つの特徴を備えており、特に形骸化してしまった後年になると読むに堪えない文章も多かったりします。ただ、1920年代末頃にはまだこの文体にも意味がありました。

たとえば序文では「味方」と「敵」を並置させる表現が2ヶ所登場しています。ホセイコ論文はこの「敵」を「ロシア(人)」と解釈していました [5] 。当時のウクライナ=ロシアの対立関係を考えるとありえなくはないものの、フランス語圏の読者を念頭に公刊された作品の序文であることを考えると「資本主義国家とその市民」と解釈するのが妥当と思われます(「金になる(ビジネス)」の言い回しも同様の文脈で使われています)。

興味深いのは、この「敵」にもウクライナ映画の良さを伝えたいという願望、さらに伝わるはずだという確信が表明されている所です。後年の共産主義~新左翼風用語法だと「敵」は理解しあうことのできない絶対的異者、殲滅対象でしかなかったりします。まだそこまでは行っていないんですよね。「共存」は言い過ぎかもしれませんが「共感」の含みは残しています。

1920年代後半のウクライナでは多くの欧米作品が輸入・公開されており [6] 、長年のノウハウ蓄積に基づいた欧米映画の完成度をVUFKUの人々も当然分かっていた [7] 訳です。自国映画がまだ粗削りなのも見えていたはず。今でもよくある話で絶対的な自賛は相対的な自信のなさの裏返しにすぎないのかな、と。「途方もない」「見事なる」「崇高なる」…こういった強い言葉で自らを鼓舞しなければならないほどの不安定さと隣りあわせで戦っていた。未完成ながらも理解され、評価されたいと願っていた。序文に封じこめられている真のリアルはメッセージの表面ではなく、その先に見え隠れしているウクライナ映画人たちの不確かな思いにあるのだろうと考えています。


[脚注]

[1] https://www.worldcat.org/ja/title/77177210

[2] https://lib.kherson.ua/publ.albom-ukrainskogo-kino

[3] Lubomir Hosejko, « La VUFKU et ses rapports avec le cinéma français », Revue des études slaves, XCIII-4 | 2022, 581-593.

[4] Eugène Deslaw (1898-1966) ウクライナ出身で、後にアヴァンギャルド寄りの映像作家として名をあげています。

[5] “Ne désignant pas nommément ses ennemis, a fortiori les Russes” Hosejko, op.cit.

[6] “la meilleure part pour les États-Unis, puis l’Allemagne, la Suède et la France” Hosejko, op.cit.

[7] VUFKUが公刊していた雑誌『キノ』ではフェアバンクス、ピックフォード、リリアン・ギッシュ、ヴァレンチノ等を筆頭としたハリウッド俳優の出演作が多く紹介されています