ミリ・タウト=コルソ (Mili Taut-Korso/Мілі Таут-Корсо/Мили Таут-Корсо、1899–1984)  ラトヴィア/ソ連/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [21] & 絵葉書館・ロシア/ソ連/旧ソ連構成国 より

Mili Taut-Korso c1928 Ukrainian Postcard

1899年ラトヴィアの首都リガに生まれる。1915年のドイツ軍侵攻を逃れ家族と共にモスクワに移住、同地で音楽学校に通い始める。1910年代後半に舞台女優へと転身、モスクワ州の街セルギエフ・ポサードの劇場で初の舞台を踏む。1920年の結婚後、夫の異動に伴いレニングラードに生活拠点を移し、1924年に同地の映畫藝術研究所(Институт Экранного Искусства/Institut Ekrannogo Iskusstva)に参加し映画の演技の基本を学んでいきます。1926年、同研究所の中心監督の一人であるフリードリヒ・エルムレルの初期作『嵐の子供たち(Дети бури/Deti buri)』ヒロイン役としてスクリーンデビューを果たしました。同年にレニングラードキノで製作された喜劇『スピルカ・シュパンディルの経歴(Карьера Спирьки Шпандыря)』にも端役で出演しています。

1926年『スピルカ・シュパンディルの経歴』より
1927年『二日間』より

この後休暇で訪れたオデッサでVUFKUの関係者に紹介され正式に同社と契約、1927年公開の『鮮風(Свежий ветер/ Svezhiy veter)』を皮切りに3年程同社に籍を置き中心女優の一人となっていきました。ウクライナ時代の作品では『二日間』(Два дня)』が現存。1929年の『甲板の少女(Девушка с палубы/Devushka s paluby)』のヒロインを務めたのを最後にVUFKUを離れています。1930年代以降は次第に裏方に回りスポットライトの当たる機会は減っていったものの、オデッサやキーウの撮影所との接点を持ち続け30年代中盤に短期間ウクライナで活動していた記録が残っています。

主要作(『嵐の子供たち』『鮮風』『甲板の少女』)が遺失していることもあり、ロシア語圏・ウクライナ語圏どちらでも顧みられる機会の少ない女優さんではあります。ラトヴィアの貧しい労働者一家の娘として生まれながらも家族のサポートを受けつつ芸術の道を志し、レニングラードキノのエルムレルの下でチャンスをつかみ、その後ウクライナで知名度を上げていく…1920年代後半のソ連邦での女優キャリア形成の在り方の一例として興味深いのではないでしょうか。

絵葉書は1927~28年頃のもので、以前に何度か紹介したキーウの出版社UTKV(Укртеакіновидав/Ukrteakinovidav)による一連の俳優物の一枚。

[IMDb]
Mili Taut-Korso

[Movie Walker]