ユーリア・ソーンツェワ  (Yuliya Solntseva/Юлія Солнцева/Юлия Солнцева、1901 – 1989) 

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [22] & 絵葉書館・ロシア/ソ連/旧ソ連構成国 より

Yuliya Solntseva 1927 Russian Postcard

1901年モスクワ生まれ。当初はモスクワ大学で哲学を専攻、ほどなく音楽・演劇専門学校(現ロシア舞台芸術アカデミー)に籍を移し演技を学び始めます。卒業後に劇場と契約を結ぶものの実際に舞台に立つことはなく、1924年9月に公開されたSF映画『アエリータ』の主演で女優デビューを果たします。

1924年『アエリータ』より

『アエリータ』は未来派風のエキセントリックな衣装とセットデザインで知れられており、日本でも比較的上映の機会の多いソ連無声映画の一つです。元々は1923年に設立されたメズラブポム=ラス社の第一弾として製作された作品でした。別個に活動を行っていた「国際労働者救済会(Международной Рабочей Помощи、略称”メズラブポム”)」と「芸術コレクチーヴ・ラス(Русь)」が合併したもので、1928年にメズラブポム映画社と改称するまで約5年間活動を続けていました。

1924年『モッセリプロムの煙草売りの娘』より

ソーンツェワは同社の筆頭女優として人気を博し、24年末の『モッセリプロムの煙草売りの娘』でもヒロインを勤めました。決して豊かとはいえない素朴な少女が、予期せぬ事態の展開に振り回されながらも最後は自分自身の幸せの形を見つけていく。 後年の『ミス・メンド』(1927年、オツェプ&バルネット)、『帽子箱を持った少女』(1927年、ボリス・バルネット)等の初期ソ連無声映画の軽快なコメディ群の原型となった秀作でもあります。

ソーンツェワはこの後一作ソフキノでの出演作を挟み1928年に全ウクライナ寫眞映畫部/VUFKUに籍を移します。『嵐』(Буря)や『ジミー・ヒギンズ』(Джиммі Гіггінс)等に出演、後者の撮影中にアレクサンドル・ドヴジェンコ監督と出会いプライベートでの関係を深めていきます。

ドヴジェンコ監督の『大地』での端役を最後に女優業から離れ、以後は同監督の撮影の補助として、後に共同監督として映画製作の基礎を学んでいきました。1956年に同監督が亡くなった際、未完のプロジェクトとして残された『海についての詩』を自力で完成させ監督として独り立ち。以後もドヴジェンコ監督の遺産を引き継ぐ形での映画製作を続け、1961年『戦場』で女性監督として初めてカンヌ映画祭監督賞を獲得するに至っています。

1961年『戦場』より

女優としての代表作、監督としての代表作いずれもソ連で残した紛れもないソ連の映画人ですが、伴侶としてドヴジェンコ監督を支え、その遺産を受け継ぎ自らの手で形にしていった点でウクライナ映画と縁浅からぬ人物です。

[IMDb]
Yuliya Solntseva

[Movie Walker]
ユーリア・ソーンツェワ