サイン館・ドイツ/オーストリア [Germany/Austria] より
ある日パウル・オットーがレッシング劇場にやってきて、『ノラ』を映画でやりませんかと言ってきました。ちょうど私のお気に入りの役だったんですよ。でも1911年当時の映画業界の一般的なイメージもあって、当初はお断りしたのです。結局は引き受ける羽目になって、結果はなかなかのものでした。そうしたら。その頃の私にとって映画作りは楽しく副収入を稼ぐ手段といったところで、大した芸術的な意義を見て取ることはありませんでした。技法の成熟に併せ、映画というものが国民にとって、文芸や学問にとって益の多い手段だと思えるようになって次第に強い関心を持つようになって、そのお役に立てるようにと全力を尽くすようになりました。
エヴァ・シュパイアー・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)
Eines Tages kam Paul Otto zu mir ins Lessingtheater und forderte mich auf, die »Nora« zu verfilmen, zufällig gerade meine Lieblingsrolle! Ich sträubte mich nach der damaligen Auffassung 1911 naturgemäß dagegen. Dann tat ich es schließlich und hatte einen guten Erfolg. Man ließ mich nicht mehr los. Ich selbst nahm seinerzeit das Filmen als eine angenehme Nebeneinnahmequelle, ohne künstlerisch der Filmerei große Bedeutung abgewinnen zu können. Allmählich gewann ich mit der Vervollkommnung der Technik der Auffassung als bildend und förderndes Mittel für Volk, Literatur und Wissenschaft treibendes Interesse, was mich bewog, meine ganze Kraft in den Dienst der Sache zu stellen.
Eva Speyer Interview in Die Frau im Film”
(Altheer & Co., Zürich, 1919)
舞台経由で1911年から映画出演を開始した古参で、キャリア初期はコンチネンタル藝術映畫社を中心にマックス・マック、ハリー・ピール、オットー・リッペルト等ドイツ映画のパイオニアとなる監督たちの作品に出演していました。
1910年代末頃がキャリアのピークに当たり、リヒャルト・オズヴァルト監督による大作『光あれ 第二部』(Es werde Licht : II. Teil、1917年)のヒロインに抜擢されるなど女優としての存在感を増していくことになります。この時期の出演作ではマルティン・ベルガー監督による『ウクライナの英雄マゼッパ』(Mazeppa, der Volksheld der Ukraine、1919年)が現存しており、皇女ブランカとして登場する彼女の演技を見ることができます。

EYE映画博物館 YouTubeチャンネルより
冒頭で引用・訳出したインタビューは丁度この時期のものです。映画女優業を十年続けてきた中で、ドイツ映画の発展に手ごたえと自信を感じ始めていた様子が伝わってくる内容になっていました。
しかしドイツ映画が国際的な評価を高めた1920年代には後進に押され、次第に端役に廻るようになります。アスタ・ニールセン主演の『夜の蝶の悲劇』(Dirnentragödie、1927年)やランプレヒト監督による『ともしびの下で』(Unter der Laterne、1928)といった比較的名の知られた作品にも出演しているのですがかつてのように目立つ扱いではありませんでした。
1935年にドイツを離れ(ユダヤ人だったことが原因だと思われます)アフリカに移住。同地で女優活動を継続しようとするも叶わず演技の世界を離れ、そのままドイツに戻ることなく1975年にケニヤで亡くなっています。
[IMDb]
Eva Speyer
[Movie Walker]
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