1959年版 『ハリウッド・バビロン』 (ケネス・アンガー著、ジャン・ジャック・ポヴェール出版者) 仏語版初版

映画史の館・アメリカ合衆国 より

Hollywood Babylone (Hollywood Babylon, Kenneth Anger)
1959 French Jean-Jacques Pauvert Editeur 1st Edition

『ハリウッド・バビロン』は当初合衆国で出版ができなかった経緯があり、1959年の初版はフランス語で公刊されています。アメリカでは6年後の1965年に書籍化が実現したものの短期間で流通は途絶え、1975年に出版されたストレート・アロー版で多くの人々にその全容が伝わるようになりました。日本でも二種類の翻訳(1978年堤訳、1989年明石訳)で紹介されていますが、いずれも1975年版をベースに訳出したものです。

1959年のポヴェール版は現在知られている1975年版と内容が異なっているらしい。そんな噂を耳にしたことがあり一度比べてみたいと探していました。実際に目を通してみて「確かに同じ書名を冠していても同一書籍とは言えない」の感想を持ちました。大きな違いは以下の五点。

1)1959年版は章立てで構成されていない
2)1975年版の方が各対象に対する描写が濃密で、引用されている文章も多い
3)1959年版には4つのテクストが「付録/補遺」として収められている
4)選ばれている写真が一部を除きほとんど異なっている
5)巻末に掲載されている「謝辞/クレジット」で挙げられている人名が大きく異なっている

1959年版は付録の文章を除くと220ページ程度、一方、手持ちの英語版(1975年版をベースにした米デル社ペーパーバック)は420ページ。そもそも絶対的な分量が違っています。

参考例としてウィリアム・デズモンド・テイラー監督殺人事件を見ていきます。ハリウッド映画史初期の未解決事件として有名なもので、現在に至るまで様々な視点から考察されており資料も膨大な量に上ります。1975年版の『ハリウッド・バビロン』はそこまで本格的ではないとはいえ、それでも一章を割き13ページ23段落で事件の経緯を伝えようとしていました。

1959年版で同事件を扱っているのは24~30までの計7ページ、文章はその内4ページ7段落で構成されています。

アーバックルのスキャンダルはすぐ別な醜聞にかき消されてしまった。1922年、パラマウント社の監督で、四十代の美丈夫として女の噂には事欠かなかったウィリアム・デズモンド・テイラーがウェストレイク・パークの自宅で深夜何者かに殺害されたのであった。事件をめぐる波乱万丈な状況は脚本やミステリー小説の格好のネタとなっていく。パラマウント社にとっては頭痛の種がまた一つ。

テイラー殺人事件の謎はすでに一通りの関係者、要素は揃っていた。だが「純粋無垢」な金髪娘で「胡蝶のお嬢様」とあだ名されていたメアリー・マイルズ・ミンタ―、チャップリン喜劇の相方で知られた赤毛娘メーベル・ノーマンドの二人まで絡んでいると知るや否や俗物向けメディアが一斉に飛びついた。ある記事によるとメアリー・マイルズ・ミンタ―のみならず彼女の母親までがテイラーに惚れこんでいるとの話で、片やテイラーといえばメーベルに首ったけ。この四角関係は根掘り葉掘り追及されていくことに相成った。

情事のもつれと別に薬物の影もちらついていた。パリのどこかの御殿ではなくハリウッドのど真ん中の話だった。各紙は貪るように事件に食いついていく。メーベル・ノーマンドが薬物中毒で、脅迫者への支払いと薬代で月に二千ドル飛んでいた事実が明らかにされた。一度などメーベルを悩ませる脅迫者にテイラーが応戦、相手をボコボコにした程であった。事件の直後に姿を消したテイラー家の従僕サンズは被害者の実弟で、薄暗い過去の持ち主であった。銃声を耳にし、テイラー宅から見知らぬ人物が出てくるのを目撃した人物によると「身なりは男だったが歩き方は女性」とのこと。すでに十分多彩な事件に謎めいた要素が付け加わる。

現在、パラマウント社のお偉方たちが介入してこなければ事件は普通に解決していただろうと考えられている。この連中は警察より先に話を聞きつけ、警官がテイラー宅(「城」「小邸宅」など新聞によって表現は異なっていた)に到着した時には故人のプライベートな書類を仕分け終え、灰にしてしまっていた。それでも警察は引出しの奥底に仕舞われていた写真の山を発見、故人が女性と同衾しているもので一部はハリウッドの名だたる花形女優だった。さらに本棚に並んだ不謹慎な書籍に挟みこまれた手紙も見つかった。メアリー・マイルズ・ミンタ―の手によるテイラー宛の大量のラブレターで、男を期待させる表現に満ち溢れていた。全文が各紙に公開されると国中が大騒ぎに。[中略] このスキャンダルでメアリー・マイルズ・ミンタ―は引退、メーベル・ノーマンド新作は上映差し止めの事態と相成った。

メーベルへのとどめの一撃はそれから一年後、エドナ・パ―ヴィアンスと同居していた際にやってきた。深夜のパーティー中、メーベルの当時の愛人で運転手を務めていた人物がパーティー招待客の一人を撃ち殺してしまったのだった。結審後、今度はメーベルが銀幕を去る番であった。キーストン社喜劇を彩った偉大な花形女優について人々が触れることはなくなってしまった。

この名喜劇女優は1930年にひっそりと、誰にも思い出されることなく亡くなっている。所有していた貴金属類は1935年にハリウッドで競売にかけられた。二本の金歯も出品物に含まれていた。


La scandale Arbuckle fut bientôt éclipsé par un autre. En 1922, le metteur en scène de la Paramount, William Desmond Taylor, beau quadragénaire couvert de femmes, fut assassiné une nuit dans sa maison de Westlake Park, en des circonstandes rocambolesques qui devaient inspirer, par la suite de nombreux scénarios et romans policiers : Encore un scandale Paramount.

Le mystère de l’assassinat du Taylor était presque complet, mais lorsque deux célébrités de l’écran, la blonde “ingénue” Mary Miles Minter, – dite Mademoiselle Papillon – et la brune Mabel Normand, partenaire de Chaplin, furent mélées à l’affaire, la presse populaire se déchaîna. On insinua que non seulement Mary Miles Minter, mais aussi sa mère étaient éprises de la victime : et que Taylor l’était de Mabel Normand. Voici un drame à quatre personnages qui fut exploité à fond!

Outre l’aspect sentimental il y avait la présence des stupéfiants – non plus dans quelque lointain palace parisien, mais en plein coeur d’Hollywood – les journaux s’en emparèrent avec avidité. On découvrit que la très populaire Mabel Normand était toxicomane et que le chantage et la drogue lui coûtaient deux mille $ par mois. Taylor s’était, une fois, opposé à l’un des maîtres-chanteurs qui harcelaient Mabel, et l’avait rossé. On pensa que le mystérieu valet de Taylor, un certain Sands, qui avait disparu au moment du drame, était en réalité le frère de la victime, personnage au passé peu reluisant. Un témoin, qui avait entendu le coup de feu et vu un inconnu s’échapper de la maison de Taylor, précisa “qu’il était vêtu comme un homme mais avec la démarche d’une femme”, note équivoque dans un affaire très colorée.

On pense aujourd’hui que l’énigme aurait pu être résolue si les chefs de studios Paramount n’étaient pas intervenus dans l’affaire. Mais ils furent appelés avant la police, et quand celle-ci arriva au logis de Taylor, que les journaux qualifiaient tantôt “château” , tantôt “petit bungalow”, ils triaient déjà, – et brûlaient les papiers personnels de la victime. La police découvrit cependant au fond d’un tiroir, une grande quantité de photos de Taylor en galante compagnie – dont certaines stars célébrès – et entre les pages des livres libertins de sa bibliothèque de nombreuses lettres d’amour fort compromettantes adressées à Taylor par Mary Miles Minter, et dont la publication in extenso dans les journaux fit sensation. […] Ce scandale obligea Mademoiselle Papillon à quitter l’écran, et l’on suspendit la mise en circulation des films de Mabel Normand.

Pour Mabel Normand, le coup de grâce survint un an plus tard, alors qu’elle vivait avec Edna Purviance. Au cour d’une fête nocturne, le chauffeur de Mabel – qui était son amant en titre – tua l’un des invités d’Edna d’une balle de revolver. Après le procès, Mabel dut abandonner l’écran à son tour. On ne reparla plus de la grande star des Keystone Comedies.

L’exquise comédienne mourut en 1930, dans la solitude et l’oubli. En 1935, ses bijoux et ses bibelots furent vendus au enchères à Hollywood. Deux de ses dents en or aussi.



ずいぶんあっさりした記述になっているのがお判りでしょうか。1975年版では事件現場の住所(アルヴァラド通り)、事件の発見者の氏名(フェイス・コール・マクリーン夫人)、警察到着以前に事件現場を物色していたお偉方たちの氏名(アドルフ・ズーカー、チャールズ・エイトン)、恋文が隠されていた書物名(アレイスター・クローリーの『白い汚れ』)まで事細かに記述されていました。他の個所でも同一の傾向が見られ、記述・描写の密度については1975年版に圧倒的な軍配が上がります。

気になるのはこの違いが何に由来しているのか、です。本来英語で発表されるべきだった内容をフランス語に置き換えていった時に細かな情報が省略された可能性はあります。ただ、1959年版には現行版にはない情報が含まれているんですよね。メーベル・ノーマンドの運転手兼愛人による射殺事件、その後の遺品の処分の話は1975年版に書かれていないのです。

となると1959年時点では書きたい内容がまだ完全に固まっていなかったと見るのが妥当なのかな、と。1975年版を決定稿とするならポヴェール版は初期稿、プロトタイプの位置付けです。

付録/補遺4編。「慎みのコード(通称ハリウッド・コード)」「愛の神には手を出すな」「ヴァレンチノの手記」「ラナ・ターナーの恋文」

これは3)の付録/補遺(appendices)にも関わってくる話です。1959年版巻末に収録された付録の最初の文章「慎みのコード(通称ハリウッド・コード)」はヘイズ・コードを茶化した内容でした。1975年版はウィル・ヘイズを中心に進められた表現規制に1章を割いているのですが、1959年時点ではまだこの内容が本文に統合されていなかったと分かります。ポヴェール版とストレート・アロー版には15年以上の時間の開きがあります。資料が増え、加筆修正によって内容が成熟していくのは理解できる話で、両者が異なっているのは自然だと言えます。

厄介なことにポヴェール版には単なるプロトタイプとして片づけられない要素も含まれています。4)写真の違いと5)クレジットの相違に関わってくる部分です。

『ハリウッド・バビロン』には暴力、遺体、全裸、個人のプライベート写真など、良識人が眉を潜める画像が多数掲載されています。この強烈なヴィジュアル面が売りの一つでもあった訳で、表紙に採用されたジェーン・マンスフィールドの写真を筆頭にすべての画像が不可欠なのだ…と1959年版を読むまでは考えていました。どうも違うようなのです。1975年版と共通している写真もあるのですが、異なる画像の方が多く驚かされました。

アーバックル事件を扱った章段より。右に事件の犠牲者となったヴァージニア・ラッペ。どちらの画像も1975年版には収録されず。

シュトロハイムを扱った章段より検閲された『ケリー女王』のスチル。右写真についてはリブロポートの日本語訳に別アングルの一枚が収められていました。1959年版はアイマスクをした半裸の白人音楽隊と黒人音楽隊の写真を見開きで並置、印象が大きく変わります。

ルーペ・ヴェレスの自殺を扱った章段より。左からゲイリー・クーパー、ルーペ・ヴェレス、ジョニー・ワイズミュラー。いずれも初めて見る写真でした。

メアリー・アスターとラモン・ノヴァロ(上段)
ジーン・ハーロウとアリス・ホワイト(下段)

1959年版の最終ページには写真の出典が一括で掲載されていました。ワーナーやRKO、20世紀フォックスなど大手映画会社の名が挙がると同時に、ベルギー映画博物館、シネマテーク・フランセーズ、カイエ・デュ・シネマ紙など仏語圏の各種機関が協力しています。

巻末の謝辞と写真の出典一覧。フランスの人名・機関名が並びます

ストレート・アロー版についても同様で、写真の多くは出版社スタッフが米国各種機関(ジョルジュ・イーストマンハウス社やMOMA、ボブ・パイク写真ライブラリなど)から借りてきています。書籍のヴィジュアル面は編集される時代や地域、編集部のネットワークなどへの依存度が高く、可変流動的でその意味では1975年版でさえ決定版ではないのです。

ポヴェール版は1)後に1975年版へと磨き上げられていく映画史観の初期形、プロトタイプという側面と、2)アンガーの世界観を1950年代フランスの文化環境で具現化した個別作品の側面の二つの顔を有しています。前者だけなら作品生成過程に興味のある研究者・専門家が扱っていれば済む話なのですが、後者の側面を考えあわせるとアナザー・バビロン、「もうひとつのバビロン」として紹介・評価されていく余地はあると言えます。

ジャン・ジャック・ポヴェールは『O嬢の物語』『ネクロフィリア/屍姦』を発掘・再発掘してきた出版人。澁澤龍彦氏の師匠筋に当たります。筆者の本棚にも1990年代末頃に買った『ネクロフィリア/屍姦』のポヴェール版があります