1970年代初めに発売された2LP『音による日本映画史 なつかしの無声映画』をデジタル化した2枚のCD-R。



『音による日本映画史 なつかしの無声映画』(左)と『なつかしの無声外国映画』(中央)のオリジナル盤ジャケット。右は「映画情報」誌1974年5月号に掲載された後者のレビュー
東芝音楽工業がEMIによる資本参加を受けて東芝EMIと改称される直前の1973年に発売されたレコードで、翌1974年には続編に当たる『なつかしの無声外国映画 音による映画史』(東芝EMI)も発売されていました。計32トラック相当を収録。内訳は1)映画説明が12、2)インタビューが13、3)音楽が7トラックとなっています。
映画説明は戦後、無声映画の上映会で行われた活弁を実況録音したもので徳川夢声、竹本嘯虎、西村小楽天、山地幸雄、加藤柳美、谷天郎、熊岡天堂7氏の語りが収められていました。
インタビューでは制作者として城戸四郎、監督ではマキノ雅弘、衣笠貞之助、牛原虚彦、池田義信、稲垣浩、伊藤大輔、五所平之助、脚本家・依田義賢、俳優陣として栗島すみ子、嵐寛寿郎、山田五十鈴、片岡千恵蔵、川崎弘子、入江たか子、田中絹代が登場。単体の音源でこれだけの数の映画人の肉声が収められている例は他にありません。
すると大分矛盾が出てくるわけですよ。その女形っていうのはですね、いかに巧みに化けていましてもね、やはりクローズアップとなったり手のアップになんかなりますとねどうしてもこれは避けられないものがあるわけですよ。女の手が必要な時には女形の手でなく、何かその、撮影所に出入りしている女の子の手でちょっと借りてやるといったようなことまでやりだしましたら、ね、やっぱり女形は無理ではないか、と。僕もその頃になってみるとその映画ってのはこう、出てこう踊っているんではなくね、作る方の、映画監督の方に回るべきじゃないか…みたいなことを考えましたものですからね…だから私は […] 辞めてもいい、と。すると仲間はね、君がそんなこと言い出したらね、我々失業するので迷惑至極である、と。だからその、女形の寿命を縮めること言うなよと(笑)。
衣笠貞之助
わたしがちょうど二十歳の頃でしたかしらね、遊んでおりましたので「お澄ちゃん、遊んでいるなら一本撮らないか」っていうので、「それじゃあ、どんなことかなぁ」、冷やかし半分に、母が付いていきましてね、そして蒲田の撮影所へ行きました。田んぼの中にね、ガラスのステージが一つ輝いているんですよね。それであの、まぁ兎に角、主役をする、「『虞美人草』の主役でヘンリーが探しているから」と言うので。そしてヘンリーさんにお目にかかりましたの。それでもう全然、半分英語みたいで、言葉なんてかちょっと分からないような(インタビュアー「あぁ、そうですか」)感じなんですけど、とても明るくてね、あの親切で良い方で、お化粧の仕方から。それでまず表情のね、テストってのをされましたよ。そんなことしたことないでしょ。それでそのガラスのステージの中に連れていかれましてね、それであのキャメラがあって、その場で「澄ちゃん、泣いてみろ」とかね「笑ってみろ」とか「びっくりしてみろ」とか。瞬間的に言うんですよね。だってなかなかできやしませんよ、そんなことねぇ、何だか知らないけど、でもまぁ兎に角そういうテストが済みまして、それでそのいよいよ撮影にかかるということの段取りになったんですけどね。そういう風でしてね。でもう、周りの方が岩田祐吉さんでしょ、関根達發さん、鈴木歌子さん、そして…なんかすごく何か新派の方の、昔新派の俳優さんで錚々たるかたばっかりいらっしゃるから。あの、色々アドバイスしてくださるわけよね。ですからとてもあの撮影は色々と珍しいことにぶつかってこっちは面食らいましたけれども仕事としては楽しみましたね。
栗島すみ子
一番怖かったのは大河内伝次郎、近藤勇で、自分の愛刀の本身持ってきた。自宅から。こっちは竹光だ。ね、一騎打ちするんだ […]。大津のね、神社の上でね、近藤勇と対決ですわ。ひとつちごうたら、あんた、斬られまんがな。ね、もう逃げるのに一生懸命ですわ。あれだけは怖かった。
嵐寛寿郎
できあがって試写会がありまして、わたくしも観にいって、あの、自分で演って…自分があんなに泣いたっていうのは恐らくこの映画だけでしたね。まさかそんなことがあるとは思いませんし、ハンカチなんか持っていきませんし、着物を着ておりまして、もう拭くものがなくてね、長襦袢の袖を出しましてね、色の […] 長襦袢で涙それでもう泣きっぱなしで拭いてね、あの縮緬でね、縮み上がっちゃいましたけど。どうしてあんなに泣けたのか、不思議でしたね。
川崎弘子
入江たか子さんがですね、ものすごく綺麗な盛りではありましたけれど、私達が入った時は21歳の時で、彼女が19歳。エラン・ヴィタルっていう京都の新劇団がありまして、その中の俳優さん、女優さんだったんです。まぁ、華族のお姫さまですからね、綺麗でしたから僕らも助監督で、その起こしにいくのもね、晩寝ておったら白粉の匂いがプンプンしているし、触るのが怖くってもう(笑)、あの「入江さん、入江さん」ってもう10分ぐらい呼び続けていたのを覚えています。
依田義賢
リラックスした雰囲気で各々のエピソードを披露、口調にもそれぞれの人柄が出ています。もちろん結果を出さなくてはいけない重圧の元、技術面から人間関係、社会情勢に至るまで様々な問題に直面していたのが実際の現場だったのでしょう。半世紀近い時の流れに薄暗さは沈殿し、淡く微笑ましい記憶が上澄みで残った感じではあります。
やや異なった雰囲気を醸し出しているのが城戸四郎氏。1930年代前半に松竹が展開した「母親物」について仕掛人側から種明かしがされています。城戸氏の映画史観は当時の邦画界では特殊で映画雑誌や新聞に寄稿した文章にも考えさせられるところが多く、いつか自分なりに整理していきたいと思っています。


