サイン館 フランスより
1876年南仏のボルドーに生まれる。1890年代後半に地方都市トゥールーズを拠点にバレエ作品に出演していた記録が残っています。1904年に上京しオペラ・コミーク座と契約。ナピエルコウスカやクレオ・ド・メロード並ぶ同座花形の一人として知名度を上げていきます。
Regina Badet(パリイ)が裸で踊つたので訴へられさうだ。
「椋鳥通信」 森鷗外 (1912年1月)
レジーナ・バデの名を轟かせたのは1910年にアントワーヌ座で上演された『女と人形』でした。


左は『女と人形』がニースで上演された際の雑誌記事より。右は1911年の展覧会サロン・ド・パリに出展されたジョルジュ・ドラ作版画
舞を披露する場面で着用していたロングドレスが名ばかりのデコルテ(肩先の開いたデザイン)で、半身は一糸まとわぬ全裸姿、残りの半分もシースルー素材でほぼ露わな状態。良俗秩序に反するのではとパリ司法が介入する騒ぎになりました。この時はお咎めなしの判断で上演を続けることができたものの、1912年初頭に地方巡業でニースを訪れた際、観客に紛れこんでいた公衆道徳連盟の局長に通報され、再度事情聴取を受ける羽目になりました。この一件は1912年1月12日の新聞で報道されており、鷗外氏も何らかの形で記事に目を通していたようです。


左は『ゾーイ』がドイツで公開された際の雑誌広告(「キネマトグラフ」紙1913年346号より)。右は英「ピクチャーズ&ピクチャーゴーア」誌1913年8月80号の表紙で『サドゥナー』が扱われています
映画界での活動も同時期に開始し1910年『カルメン』で銀幕デビュー。1913年には英作家の小説を元にした『ゾーイ』で主演。同作は仏エクリプス社を通じて国外でも公開されています。その後もエクリプスが制作または配給に関わる形で『復讐譚(ヴァンデッタ)』『白き嘘』『サドゥナー』(1914年)、『金蓮』(1916年)、『マニュエラ』(1917年)に主演。
1910年代後半になるとセクシャリティを切売りするアプローチから距離を置き、モード雑誌での露出が増えるなど芸能界での立ち位置を変化させていきます。大戦終戦後初の映画出演となったのが1921年作『弁護士エヴォラ』。無実の罪を着せられた被告(実は自身の息子)を法廷で救おうと奮闘する女性弁護士を描いた一作で、レジーナさん自身が脚本を担当しています。
映画誌での評価は好意的だったもののフランス映画自体の地盤沈下が進む中でさして話題にはならず彼女にとっても最後の映画出演となりました。晩年は舞台から離れ生地のボルドーに戻って生活を送っており、1959年に73歳で亡くなっています。
出演映画の現存は確認されておりませんが、亡くなる直前の1947年に公開されたドキュメンタリー映画『巴里一九〇〇』(ニコル・ヴェルデス監督)に当時物の映像が使われていて動く姿を確認できます。またゴーモン社の動画アーカイヴには1900年代に屋外で舞踊を披露している別映像が収蔵されています。



左は『巴里一九〇〇』(Paris Mille Neuf Cent)でのレジーナ・バデ。1910年に撮影されたもので、アントワーヌ座の楽屋で窓際に立ってカメラを見つめる短い動画。中央と右の二枚は同時期の屋外パフォーマンス動画より。
[IMDb]
Régina Badet
Madame Bartett
※ IMDbのデータは大きく誤っており、1908年に『カルメン』に主演したコメディ・フランセーズ座の女優ジュリア・バルテと、1910年に『カルメン』で主演したレジーナ・バデのデータを混在させています。
[Movie Walker]
–



