中野 かほる [Nakano Kaoru]

日本・女優 より

Mid 1930s Nakano Kaoru Signed Magazine Clip

中野かほるは神戸市北長狭通りの中野梅太郎氏の長女として生れ、本名を中野房榮と云ひ、古くからの映畫フアンで雑誌「キネマ」等に盛んに投稿してゐた。神戸第一高女卒業の本年廿歳。東活入社の動機となつたのは「キネマ」のスタヂオ見學會に参加して東活を訪問したのが縁だつた。

「中野かほるのプロフイル」
(「キネマ週報」1932年7月通巻119号、キネマ週報社)


日活、新興、日喜プロとの三重契約事件で問題を惹起した中野かほるは今度一切の問題を清算して新興キネマへ正式入社と本極り。

「中野かほるの新興入社」
(「キネマ週報」1933年3月通巻148号、キネマ週報社)


彼女は神戸の下駄屋の娘、本年二十四歳。神戸高女を出て、女店員、レストランの會計係などしてゐたが、その美貌を見込まれて、昭和七年東亞に入社した。女優生活に入った彼女は、右眼の一重瞼を内田博士に治療して貰ふという程の藝熱心で、その美貌は愈々輝いてスクリーン第一と稱されてゐる。和装しても洋装しても常に近代的女性美を示す――こゝに彼女の面目躍如たるものがある。東亞、喜劇プロを経て新興キネマにあり今や中堅女優として、素晴らしい人気を持つてゐる。本名中野房榮。

『處女作・出世作・代表作 映画花形大寫眞帖』
(1934年1月、冨士新年號附録)


1930年代の雑誌切り抜きに残された直筆サイン。

1932~34年頃の人気の盛り上がりが凄く「キネマ週報」が毎週のように動向を記事にしていました。美貌が先行して話題となり、十分な演技経験を経ぬまま花形女優に祭り上げられていった過程は濱口富士子さんを想起させます。濱口富士子さんの表舞台からの消え方を思いあわせると、中堅女優として生き残り、戦後の『まぼろし怪盗団』(1955年)を含めた長いキャリアを築いた彼女はある意味恵まれていた、ある意味しっかりした女優さんだったのかなという気はしています。

[JMDb]
中野かほる

[IMDb]
Kaoru Nakano