1928 – 35mm 『裁かるるジャンヌ』 アンドレ・ベルナール氏旧蔵のBネガティヴ断片を巡る調査のまとめ

ファルコネッティ [Renée Jeanne Falconetti] より

5月後半にアンドレ・ベルナール氏旧蔵の『裁かるるジャンヌ』ポジ断片12片を入手後、2か月程かけて調査を行ってきました。現時点で手に入る資料は全て揃えた上で精査を進めそれらしき結論に辿りつくことができました。この断片は1951年秋ごろにジョゼフ・マリ・ロ・デュカ氏がBネガティブを発見、翌年初頭にかけていわゆるロ・デュカ・サウンド版を製作した後に、ロ・デュカ氏とは異なる人物が新たなポジの作成を行い、その一部が裁断されコレクター間に流通した痕跡であると考えられます。

具体的な検証の前に、予備知識として1930年代以降のフランスにおける諸プリントの流れを改めて整理していきます。

『裁かるるジャンヌ』を製作し、その権利を所有していたSGF社(ソシエテ・ジェネラル・ド・フィルム社)は1930年代初頭(32~33年頃)に破産し消滅しています。トーキー到来の時期と重なったこともあり、『裁かるるジャンヌ』に対する関心は冷めてしまい1930年代中盤~後半にかけてフランス国内で上映される機会はありませんでした。

1939年2月28日に開催されたシネマテーク・フランセーズでの上映会を告げる記事
(「仏蘭西映画」誌3月3日付)

この流れに歯止めをかけたのがアンリ・ラングロワでした。状態は良くないものの、検閲にかけられる前の完全版のポジ(Aネガティヴ由来)を確保、シネマテーク・フランセーズを創設した際のコレクションの出発点とします。1939年2月、ラングロワ氏は自身の主宰するシネ・クラブのメンバーを前に『裁かるるジャンヌ』を上映しています。

しかしながらこの試みは国際情勢の悪化によって中断をやむなくされます。1940年にドイツによる侵攻が行われ親独ヴィシー政権が誕生。信仰心に厚い少女が外敵から自国を救うジャンヌ・ダルクの物語が受け入れられるはずもなく、当局による没収を避けるためラングロワはフィルムを自宅に秘匿し続けました。

1944年12月、ラングロワがシネクラブ活動を再開した旨を告げる新聞記事。上映予定作品に『裁かるるジャンヌ』の名が見えます。

連合軍によるパリ解放と軌を一にしてラングロワも活動を再開。戦後の復興が進む中、フランスの各地方都市でも大小様々なシネクラブが結成されていきます。


シネマテーク・フランセーズが希少なフィルムを入手すると、そこから複数のコピーを作ってシネクラブに回すのが常であった。かくしてドライヤーの『裁かるるジャンヌ』は10本ものコピーが作られた。

「”グリード”を貸してくれないか、”操行ゼロ”を渡すから」
ルイ・フルニエ
コンバ紙1948年4月2日付

Lorsque la Cinémathèque possède un film rare, elle en tire des copies qui le répandent dans les ciné-clubs. Ainsi dix copies ont été faites de la Passion de Jeanne d’Arc, de Dreyer.

Les Originaux (III) « Prêtez-moi Les Rapaces vous aurez Zéro de conduite», Louis Fournier
(Combat, 2 avril 1948)


少人数の愛好家を対象としたものでしたが、1947~49年頃にかけては毎週のようにどこかの地方都市(ボーヴェ、アラス、リール、トゥルコワン、ネヴェール、ルーアン、モンペリエ、トゥールーズ、クタンス、ミュローズ、トゥーロン、アルデンヌ…)で『裁かるるジャンヌ』が上映されるという状況になっていました。

一方でラングロワは国外にもコピーを寄贈しています。この内の一本が合衆国のMoMAに渡り、英語字幕を付される形(MoMA版)でさらに広まっていきました。別投稿で紹介した1999年松下電器/IVC版のDVDもさかのぼっていくとこのMoMA版が下敷きになっています。

しかしこのラングロワ/MoMA版(Aネガティヴ由来)は傷が目立ち、不鮮明な画像、足りない字幕など難点の多いプリントでした。熱心な映画愛好家であれば我慢できるレベルではあったもの、多くの一般聴衆に向けて公開するレベルにはありませんでした。

こういった状況で大衆向けのヴァージョンを作ろうと動き始めたのがジョゼフ・マリ・ロ・デュカでした。アンドレ・バザン、ジャック・ドニオル・ヴァルクローズと共にカイエ・デュ・シネマ誌を立ち上げた直後で、当時はまだ新進映画批評家の立ち位置。当初は既存のプリントを継ぎはぎし、字幕を作り直し、マグネットフォンによる音楽伴奏を添えた16ミリ無声版を作ろうとしており、ドライヤー監督に連絡を入れて許可を取っています。しかし作業の途上でゴーモン社に埋もれていた良い状態の35ミリネガ(Bネガ)を発見、計画を変更し35ミリポジを作成します。

ロデュカ氏は1950年初頭から実験色の濃い作品を積極的に取り上げるシネマ・デッセ(Cinéma d’Essai)というイベントを取り仕切っていました。同企画の2周年記念として1952年2月19日に『裁かるるジャンヌ』新版を披露。いわゆるロ・デュカ版です。

「数週間程度」を見こんでいた小規模の上映ながら、期待は良い意味で裏切られました。「公開から24年が経過してもこの作品は古びていない。むしろ若返っている」と評されたように、新たなプリントで蘇った『裁かるるジャンヌ』は戦後世代の愛好家に強いインパクトをもたらしたのです。映画専門誌のみならず全国紙レベルの報道が続き、保守寄り(フィガロ、フィガロ・リテレール、オプセルヴァトワール)から革新(リベラシオン、ユマニテ)まで立ち位置の異なるメディアがこぞって四半世紀前のサイレント映画を絶賛するという異例の状況となり、ロ・デュカ版は4月中旬まで8週間の興行を大入りで終えることができました。

1952年5月、カンヌ映画祭で審査員の一人(左)に
『裁かるるジャンヌ』新版の説明をするロ・デュカ氏(中央)
ラ・ヴィ・カトリーク・イリュストレ誌1952年5月18日付

この反応に好感を得たロ・デュカとゴーモン社は同年9月に開催されたヴェネチア映画祭にコンペティション外で出品。「お昼からの上映で、一本の映画作品がこれだけ拍手喝采を受けるのは珍しい位であった」(コンスタンティーヌ新報1952年9月13日付)とあったように国外での初披露も好評で、以後ロ・デュカ版は35年以上に渡ってフランスの人々に親しまれていきます。

一方、時間の経過とともに問題点が明らかになっていきます。多くの人からすでに指摘されているように、ロデュカ版の独自編集はドライヤー監督の美意識や哲学に抵触しており作品理解すら歪めかねないものでした。それに加え、そもそも権利問題をクリアしていないのではないか、の声があがってきたのです。

1930年代初頭にSGF社が倒産した後、同社のフィルムはゴーモン社の管理下に置かれています。この時、記録として残る法的手続きを怠り(トーキー定着後に無声作品を再上映する機会が来るとは考えていなかった模様)、実はこの時点で『裁かるるジャンヌ』の権利は浮いていたようなのです。しかも本編製作に何の関りもなかったロ・デュカ氏が権利を主張し始め、新版から多額の収入を得る形になっていました。

この状況を憂慮したのがデンマーク映画協会でした。ゴーモン社に問いあわせを行ったものの満足のいく回答は得られず。この問題はドライヤー監督の生前には解決せず、没後20年経って娘さんがフランス司法に訴えるという展開を取っていきます。原告の訴えが認められたのが1988年。判決の結果ロ・デュカ版は仏市場から姿を消すことになります。

時期的にはちょうどオスロ版(Aネガ)発見が公表された後になっており、また映画視聴がデジタルに移行していくタイミングとも重なっています。以後フランスでは権利問題をクリアした上でオスロ版をデジタル化し、仏語字幕を付した版が普及し現在に至っています。

◇◇◇

フランスでの『裁かるるジャンヌ』のプリントを巡る動きは、大きく以下の4つのステップで理解することができます。

 1)トーキー到来以後の忘却期(1930年代初頭~1939年)
 2)Aネガに由来するラングロワ版が流通していた時期(1939年~1951年)
 3)Bネガをサウンド付に編集したロ・デュカ版が流通していた時期(1952年~1988年)
 4)Aネガに由来するオスロ版が普及した時期(1988年~)

通常の議論であれば十分なのですが、今回の問題はこれだけだとアンドレ・ベルナール氏の所蔵していた断片(トリミングされていない無声版)の発生経緯が上手く説明できないのです。抜け落ちている情報、見落とされている要素があるということですよね。


なにはともあれ、自身の発見に卒倒しそうになりながらもロ・デュカ氏はこのネガからポジを作成し、間にあわせの間字幕(インタータイトル)をつけ、フィルムとは別にマグネットフォンに録音された伴奏を流す形で「シネマ・デッセ」での上映を行った。このプリントはセイフティ―フィルムによるもので、画面のアスペクト比は1:1.33であった。シネマテーク・フランセーズに現在保存されているプリントの一つがそれなのではなかろうか。

上映会が予想していなかった成功を収めたのを受け、ロデュカ氏とゴーモン社はアスペクト比1:1.37のスタンダード版の作成に取りかかった。この新しいプリントは1952年のヴェネチア映画祭で初披露され、ドライヤー監督によるジャンヌ・ダルク映画の復活を促したのだが、残念なことに新たな犠牲者をも生む結果となった。

「ジャンヌ・ダルクの死と再生」 ヴァンサン・ピネル
『カール・Th・ドライヤー 裁かるるジャンヌ』(ラヴァンセーヌ・シネマ 第367/368号,1988年)

Quoi qu’il en soit, justement ébloui par sa découverte, Lo Duca fir tirer une copie qu’il intertitra avec des moyens de fortune et présenta au “Cinéma d’Essai” avec un accompagnement musical enregistré séparément sur un magnétophone. Cette copie sur support safety, avec l’image “plein cadre muet”, est vraisemblablement l’une des celles actuellement conservées par la Cinémathéque française.

Le succès public inespéré de cette sortie incita Lo Duca et la Société Gaumont à établir une copie standard. La nouvelle version, présentée au Festival de Venise en 1952, permit la résurrection de la Jeanne d’Arc de Dreyer au prix, hélas, d’un nouveau martyre.

Mort et réssurection de Jeanne d’Arc, Vincent Pinel
(L’Avant Scène Cinéma, No. 367/368, January-February 1988)


ヴァンサン・ピネル氏は、1988年に寄稿した論考「ジャンヌダルクの死と再生」でこんな一節を残していました。ロデュカ版には1952年2~4月に上映されていた無声版(α版)と、9月以降に普及していったサウンド版(β版)があったという指摘です。この見解を裏付ける資料があるかどうか調査した所、直接的な証拠ではないものの次の発言を見つけました。


『裁かるるジャンヌ』の埃払いに尽力されたロデュカ氏に僭越ながら提案させてもらって良いだろうか。外国語映画を吹き替えなしで上映するのと同じやり方で、映像に直接字幕を付けてはどうだろうか、と。作品のリズムも改善され、視聴者の居心地悪さも多少減るというものだ。

「ジャンヌは我等とともにあり!」
フランソワ・ブリニョ
リヴァロル紙1952年2月29日付

Oserai-je cependant suggérer à M. Lo Duca, qui travailla l’époussetage de la Passion de Jeanne d’Arc, qu’on eût pu peut-être sous-titrer sur l’image, selon la technique des films érangers préssentés en version originale. Le rythme se serait trouvé allégé. Le spectateur aurait été moins dépaysé.

Jeanne avec nous !, François Brigneau
(Rivarol, 29 février 1952)


ブリニョ氏の発言は、映像と映像の合間に「間字幕(インタータイトル)」の説明が入る無声映画の様式が1952年の視聴者に馴染まないという現実を反映したものです。同様の指摘は別な批評家(「間字幕が出てくるまでの時間が長くてイライラする」ユマニテ紙ポル・ガイヤール等)からも出ており、トーキー定着から20年以上経って無声映画の視聴に苦痛や違和感を覚える視聴者が多数いた状況が伝わってきます。

ところがよく考えてみるとこの発言はおかしいのです。現存しているロデュカ版では、全てではないにせよ間字幕(インタータイトル)を字幕(サブタイトル)に置き換えている個所が幾つもあるからです。

例えばロデュカ版の前半、ジャンヌの尋問する場面で一部の間字幕が字幕に置きかえられています(上段)。後半のマシューとジャンヌのやりとりにも同じ手法を採用(下段)。これはまさにブリニョ氏が提案した「外国語映画を吹き替えなしで上映するのと同じやり方」です。

52年2月に披露されたロ・デュカ版が現存しているプリントと同一で、すでに字幕への置き換えが行われていたならわざわざ提案する必要はありません。言い換えると、同版の公開時点ではまだ字幕への置き換えは行われておらず、どこかの段階(ピネル氏に従うなら1952年4月後半から8月にかけて)で視聴者や批評家の意見を汲み取った新版が作られた、つまりロ・デュカ版は二種類製作されていたという話になるのです。これはピネル氏の説を間接的に裏付けることになります。

Bネガティヴ由来の無声版35ミリポジを作成したのがロ・デュカ氏一人だったかというとそうではありませんでした。


1952年5月15日付のドライヤー宛書簡で、ロ・デュカは『裁かるるジャンヌ』が「オランダやベルギーで不正にコピーされており」「違法コピーが多かれ少なかれ闇市場で取引されている」と憤慨すらしている。

「ドライヤー監督の”ジャンヌ”は誰のものか」
モーリス・ドゥロジ
1895誌第3号(1987年)

Dans une lettre du 15 mai 1952 il [Lo Duca] a même l’audace de s’indigner que des copies du film “ont été frauduleusement contretypées en Hollande et en Belgique” et que “des copies abusives circulent plus ou moins clandestinement”.

A qui appartient la Jeanne d’Arc de Dreyer ?, Maurice Drouzy
(1895, revue d’histoire du cinéma, n°3, 1987. pp. 3-6))


モーリス・ドゥロジは1988年シネマテーク・フランセーズ版製作の中心人物で、ロ・デュカ版の著作権問題について早くから警鐘を鳴らしていた一人でした。ドライヤー監督の残した書簡類にも目を通していて、その紹介に含まれていたのが上の一節です。ロ・デュカの指摘している「違法コピー」がBネガティヴから直接起こされたのか、ロ・デュカ版(α版)のコピーなのか引用だけでははっきりとしませんが、いずれにせよ1952年前半にBネガティヴ由来の『裁かるるジャンヌ』のプリントが複数流通していた様子は伝わってきます。

これらの情報を踏まえると、アンドレ・ベルナール氏が所蔵していた35ミリ断片は1)ロ・デュカ氏主体で作成された無声版(α版)か、2)同時期あるいは遅れて別人の手によってコピーされたプリントである可能性がでてきます。また別投稿で紹介した3)伊パシネッティ版もBネガティヴ由来でしたのでそちらも選択肢に入ってきます。

このうち3)のパシネッティ版についてはフィルムベースの分析から外すことができます。ピネル論考で「このプリント [=ロデュカα版] はセーフティ―フィルムによるもの」と書かれていたように、1950年代初頭になると上映用35ミリポジにもトリアセテートをベースにしたセーフティ―フィルムが使われるようになっています。戦後の比較的新しい素材によるフィルムです。アンドレ・ベルナール氏版は、同梱されていた『可愛い悪魔』ネガ断片同様にこのトリアセテートベースのフィルムが使用されていました。それゆえ戦前期、1930年代にはすでにその存在を知られていた伊パシネッティ版ではないと断定できるのです。

では1)と2)のどちらになるか、です。判断の基準となるのはフィルムに残されている劣化の状態でした。

上のサンプルを見ていくと、ベルナール氏旧蔵版、ロ・デュカ版のどちらも上側に蜘蛛の巣状の白い汚れが見られます。これはネガに発生していた劣化がコピー時に白黒反転されたものです。

この白い汚れの部分を拡大してみます。ロ・デュカ版は左右がトリミングされているのでその部分を調整すると下のようになります。

ほぼ同じ形に劣化が広がっており同時期にコピーされたプリントだと言えるのですが、よく見ていくとアンドレ・ベルナール氏旧蔵版の方に幾つか、ロ・デュカ版にはないダメージの広がりがあります。

黄色い矢印で示した部分です。アンドレ・ベルナール氏旧蔵版がコピーされた際、ロ・デュカ版のコピー時よりわずかに劣化が進んでいたことになります。劣化(化学変化)の進行はフィルムの保管環境に大きく左右されるため正確な期間は断定できませんが、ロ・デュカ版用にコピーされてから一定の時間を置いて再度Bネガティヴからポジが作られたようです。

ヴァンサン・ピネルの論考「ジャンヌ・ダルクの死と再生」(1988年)での記述と、モーリス・ドゥロジの「ドライヤー監督の”ジャンヌ”は誰のものか」(1987年)からの引用がどちらも事実を述べていると仮定した時、次のような流れを考えることができます。

1)1951年後半にロ・デュカがBネガティヴを発見し、シネマ・デッセでの上映に向けて無声版のネガ(ロ・デュカα版)を作成した。
2)1952年2月に上映を行い視聴者からの好評を博すも、間字幕の扱いを巡り不満の声が上がったのを受け、4月の上映終了後にロデュカα版をベースにサウンド版(ロ・デュカβ版)を作成。同版を9月にベネチア映画祭でプレミア上映した。
3)シネマ・デッセでの上映が終わる前後の4月~5月初めにかけ、ロ・デュカ以外の人物がフィルムのポジを作成しコレクター市場に流出させた。

1)と3)には4か月〜半年程度の期間が開いており、フィルムの劣化状態の変化とも整合性が取れています。

アンドレ・ベルナール氏が長期間にわたり封筒に収めて保管していた35ミリ断片群は、この最後の3)の流れから派生してきたフィルムである。現時点で確認できた情報を元にそう結論づけておきます。