サイン館・合衆国/カナダ/オーストラリアより
メイ・アリゾン孃は、米國ヂョーヂア州のワイスパーリング山の近くに生れた。一家の都合から、アラバマ州のバーミンガム市やテンネッシー州のカレヴランドなどに移住してゐたが、その間に初等教育も受け、高等女學校も卒業した。孃が學校教育を終る頃、一家は再びヂョーヂア州に歸つて、懐かしい山河の間に住む事になつた。しかし、その喜びも束の間で、間もなく孃は父を失つた。元來、極めて快活であつた孃の性質は急に憂鬱になつた。輝かしかつた瑠璃色の瞳は何處となく暗くなり、雲雀のやうに晴やかであつた美しい聲は悲しみの調子を帯びて來た。そして、遂ひに孃は、母親と共に、思ひ出深い山河を、後にして、紐育へ行く事に、決心した。[…]
孃の映畫界に於ける經驗は先づフォックス會社に始まつた。「曾て在りし愚者」がその頃の代表作品である。一千九百十五年、同社を去つてフェーマス・プレイアス・ラスキー會社に移つたがやがてまた同社を退いてアメリカン會社に勤める事となつた。其處で孃は初めて故ハーロルド・ロックワード氏と出會つた。そして同氏の相手役として數本の映畫を撮影した。孃が花形の位置を占めるやうになつたのはその頃の事である。
同社を去ると、今度はロックワード氏と共にメトロ會社に移つて、ヨーク映畫に出演したが、中途、八箇月ばかり映畫界から身を引いて聲樂の研究に努めた。目下は再びメトロ會社の首腦女優として嘖々たる好評の裡に活動してゐる。
「メイ・アリゾン孃」
『活動名優写真帖』(1919年、野村久太郎編、玄文社)
1919年(大正8年)の11月に「活動評論」誌が誌名を改め活動倶楽部となったとき、その新生第一号の表紙に選ばれたのがメイ・アリソンでした。
『活動名優写真帖』でも触れられているようにフォックス社が発掘してきた女優さんで、セダ・バラ主演『愚者ありき』で貞淑な妻(メイベル・フレンイヤー)の妹役でスクリーン・デビューを果たしています。
次作となったのがラスキー社での『デヴィッド・ヘイラム』(1915年)。19世紀末に出版されたベストセラー小説の映像化で、この作品でメイ・アリソンは人気美形男優のハロルド・ロックウッド(1918年のモーション・ピクチャー・マガジン人気投票で全体4位、男優ではフェアバンクスに次ぐ2位)と初共演。西部劇で名を上げたロックウッドが現代劇に活動の場を広げていく中で出演した一作で、気立ての良さ、育ちの良さが伝わってくるロックウッド&アリソンのやりとりは視聴者の共感を呼び、以後ラスキー社〜アメリカン社〜メトロ社へと会社を変えながら25作に及ぶ共演を重ねていきます。
ロックウッドは1918年スペイン風邪に罹患し病没。メイ・アリソンはこの後もメトロ社〜ファースト・ナショナル社を中心にヒロイン級での出演を続けていくもののロックウッドとの共演期に匹敵する評価や人気を得るには至りませんでした。
ショートカットでスポーティーな印象が強い女優さんなので今回の写真のスタイリングはやや珍しい感じ。ドレスがアシンメトリック(非対称)になっていて、胸元の斜めのラインが帽子のつばと平行になる面白いアレンジです。
[IMDb]
May Allison
[Movie Walker]
メイ・アリソン





